2017年04月11日

北軽井沢は大雪です。

北軽井沢は大雪です。
今日、または明日に車で来られる御客様は、雪対策してください。すでに夏タイヤに変えてしまっている方は、必ずチェーンを持ってきてください。心配な方は、とりあえず宿まで電話してください。


つづく。

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2017年04月10日

上田城の桜は満開

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上田城の桜は満開ですね。
家族で桜を楽しみました。

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実は、この城の植生が、おもしろいんです。
下の写真を見てください。
サルスベリの木から、接ぎ木されたように、楓の枝が生えています。

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そして下の写真をみてください。

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これはムクロジ。
樹皮が泡立つために
昔は、石けん代わりに使っていました。
地面をさがすと、ムクロジの実が落ちています。
これは羽子板の玉に使われます。

数珠のルーツでもあります。
「もし、煩悩・業苦を滅し去ろうと欲するなら、ムクロジの実、百八個を貫き通して輪を作り、それを常に持って行住坐臥に渡って一心に佛法僧三宝の名を唱えてムクロジの実を一つ繰り、また唱えて実を一つ繰るということを繰り返しなさい。そのようにするならば、煩悩・業苦が消滅し功徳が得られるであろう」とお釈迦様が説かれています。

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コタツ付の屋台もあります。
ここで飲むビールがうまいんですよ。

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私は、焼き鳥を買って、それでビールを買いに行っているすきに、息子に焼き鳥全部たべられちゃったです。
でも120円の紫芋のおやきはは、最高にうまかったです。

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真田幸村と才蔵と記念撮影したんですが、息子が怖がって大泣きしました。このお祭りは、毎年、見学に行ってるんですが、今年は、過去最高の混雑。やはり真田丸の影響は強かったです。幸村と写真を撮るにも大行列。けれど待ち時間は苦になりません。
「どこから来でござるか?」
「嬬恋でござるか? それは遠路はるばる大変でござったな」
「今日は、父上母上と一緒でござるな?」
などと、いろいろおもしろい話をしてくれますから。聞いてて飽きません。

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乗馬体験は、たったの500円。
とても安いです。
もちろん鎧もつけられます。

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ちなみに鎧のコスプレは無料です。

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つづく。

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2017年04月04日

幼稚園と保育所について 5

 児童の村小学校を設立させた下中弥三郎にしろ野口援太郎にしろ、為藤五郎・志垣寛にしろ明治初期の生まれです。
 野口援太郎にいたっては、明治元年生まれですから江戸時代から続いた若衆組(青年団)の雰囲気を詳しく知っていたと思います。だから若衆組の雰囲気をふまえて、このような教育スタイルを始めた可能性が高いと思う。
 逆に、明治後半生まれの若い先生なんかは、若衆組(青年団)の雰囲気がわからないから、子供を放置しているように見える野口援太郎校長のやってることにハラハラして、
「これはおかしい。これは間違ってませんか?」
「もう我慢できない、家に帰りたい」
と校長に抗議している。

 若衆組の雰囲気を知らないから
「これは駄目だ」
と絶望するんです。

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 ここで若衆組を説明しておきます。

 若衆組とは、江戸時代から続いた日本の伝統的な青年教育システムで、
 青年が青年を教育するスタイルです。
 薩摩の郷中組みたいなものです。
 その若衆組には大人は入れません。
 あくまでも自主的に自分たちで学ぶのが若衆組のスタイル。
 もちろん講師として大人を呼ぶことはあります。
 しかし、その人選を決めるのは若衆組。
 これが日本の伝統的な姿なんですね。

 児童の村小学校は、その伝統的・土俗的な若衆組ぽいものを復活させたわけですが、じゃあ、それ以前の小学校教育は、どういう教育だったかというと、ヨーロッパ流だった。それも列強諸国の教育スタイルを翻訳したものだった。それに限界を感じた教育の世紀社が、教育方法を実験的に変えてみたら、それが実は、かなり土俗的なスタイルになってしまった。それが児童の村小学校になります。

 池袋の児童の村小学校の校長先生は、野口援太郎です。
 この野口援太郎は、
『本来、遊びと勉強と仕事に区別はない』
と言って、児童の村小学校の教育方法を始めています。

 しかし、この方法は、子守の老婆に育てられた私にとっては、なじみのある方法でした。子守と一緒に内職や作業をしていた幼児の頃の私は、その作業を仕事とも勉強とも思ってない。遊んでいると思っていた。
 その経験をふまえて私は、二歳から三歳の息子に、漢字や九九を教えたり、ベットメイクをさせたり、料理させたり、食器洗いをさせたり、床掃除をさせているけれど、うちの息子は、勉強しているとか、仕事をしていると思ってないと思います。本人は楽しく遊んでいるつもりでいるはずです。

 また私のうっすらとした記憶をたどっても、子守の人を先生だと思ったことはない。ましてや親と認識したこともない。どちらかというと遊び相手なんですよ。実際、暇があれば遊び相手になったわけだし、親ほどキツく叱られるわけでもない。むしろ甘やかしてくれて、よく遊んでくれる都合のいい存在です。

 けれど、四六時中遊んでくれるわけではなくて、内職などの作業をする。それを、私はジーッと眺めて、最終的には真似をするわけですが、それだって幼児にしてみれば、遊びの延長です。延長でありながら、勉強・仕事をしているわけですが、幼児には、それらの区別はない。つまり児童の村小学校の野口援太郎先生の言ってることと同じなんですよ。
『本来、遊びと勉強と仕事に区別はない』
ということなんです。

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 私が、幼稚園を嫌って、ひたすら保育所に入れようとしていたのは、私にそういう背景があったからなんです。もちろん保育所に入れたとしても、皆勤賞を取らせるつもりは毛頭ありませんでした。むしろ遠慮なく保育所を休ませて、一緒に仕事をしたり、山に登りに行ったりするつもりでした。

 その計画が狂ったのは、嬬恋村に唯一あった保育所が幼稚園と合併して、子供園になったためです。前にも言いましたように、子供園になってしまったら、午前中は強制的に幼稚園です。午後から保育所になっているわけですが、たったの三時間だけです。正直言って、がっかりしたものです。

 ところが私の想定外のことが起こってしまう。息子の担任の先生が、とても熱心な先生だったんです。厳しくて、優しくて、誰よりも子供たちのことを考える聖人のような先生でした。

 私は五十五歳ですが、 五十五年生きていて、これだけ素晴らしい先生には出会ったことがない。そのくらいにできた先生でした。車で迎えに行くと、その日に起きたことを事細かく報告し、色々な注意点を見つけてくれて、服装の改造までアドバイスしてくれる。それが、あまりにも熱心だったために、報告が細かすぎて、嫁さんがちょっと引いたぐらいです。けれどアドバイスは、非常に的確でなるほどと思えるようなことばかり。先生のノウハウの豊かさに驚いたものです。

 私は子供園をどんどん休ませるつもりでいました。出席日数の半分ぐらいは休ませて、息子と一緒に山に登ったり、たびに出かけたりしようと思ってました。幼稚園は、そのついででいいやと思っていたんです。けれど先生が熱心ために、ちょっと休めなくなりました。先生は、実際の親よりも息子のことをよく見ていて、息子が自分でなんでもできるように指導してくれ、息子に礼儀を教えてくれました。

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 同級生とトラブルがあっても、息子の何がいけないのかを、言葉でわかりやすく教えてくれました。何しろ息子は三月二十六日生まれで成長が遅かったために、幼稚園に入ってからもしばらくは会話能力はなかったんです。会話ができない息子に対して、ルールや礼儀や道徳を教えるわけですから、簡単ではありません。苦労したと思います。

 天気の良い日は、午前中でに息子を早退させて浅間山などに連れて行っててたんですが、早めに幼稚園に息子を迎えに行って、先生の授業風景をこっそり見ていると、これがまた素晴らしい。小さな子供たちが嬉しそうに歌を歌ったり踊ったりしている。とても楽しそうだったので「幼稚園の授業も子供たちにとっては遊びなんだ」と言うことがよくわかりました。決して子供たちが勉強してると言う感じではなかった。これじゃ児童の村小学校と変らないと思ったくらいです。

 にもかかわらず担任の先生は、幼児を甘やかしてない。行儀の悪い子には、上手に注意して行儀をよくさせています。それが、私の力量ではできないレベルだったので余計に感心しました。幼稚園は、みんなこういうものなのか、それとも担任の先生が特別なだけなのかは、わかりませんが、かなり高いレベルの幼児教育・集団保育をしていたことは確かです。

 もちろん嬬恋村は少子化が進んでるために、一クラス十三名という恵まれた環境もあったかもしれません。元小学校の改装した贅沢な施設だったのも子供たちによい影響を与えていたのかもしれませんし、午前中という短い授業だったからこそ、集中して子供たちの面倒を見ることができた。というのもあるかもしれません。

 これが長時間幼児を預かる保育園だとしたら、これほど贅沢な教育をしてくれなかったかもしれません。また、一クラス六十名といった託児所だったら、これほど繊細で手の込んだ幼児教育は絶対に無理だったはずです。

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 そう考えると幼稚園は幼稚園なりに、非常に良い面があったのだなぁと感心した次第です。いずれにしても、うちの息子は恵まれた幼稚園と、恵まれた担任の先生のおかげで、随分得をしたという気がします。



つづく。

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2017年04月02日

幼稚園と保育所について 4

 ここで子守で育てられた私の体験を述べたいと思います。前に、子守は保母さんに似ていると言いましたが、少しだけ違っています。保母さんは「先生」と呼ばれるのに対して、子守は「おばちゃん」です。

 この違いはとても大きくて、先生に対しては、ある程度壁があるのに対し、子守の「おばちゃん」に対しては壁がありません。また、母親とも違っていて、親ほど厳しくもなく、かといって完璧に甘えられるというわけでもありません。強いて言えば、大人の遊び相手に近いかもしれません。

 例えば掃除とか、後片付けとか、一緒に共同作業していても、仕事している気持ちはこれっぽっちもありません。三歳児にとっては、遊びの延長上でしかありません。服を着替えるのにしても、どこかに出かけるにしても、やはり遊びの延長です。そのうえ子守の人は、農作業や内職で何だかんだと目まぐるしいために、それをじっと観察する機会も恵まれていて、その観察が子供にとっては素晴らしい娯楽だったりします。もちろん最終的には手伝ったりするんですが、そのお手伝いも娯楽もいいところです。

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 そういう環境から、保育園に毎日通うようになってしまうと、保育園の遊びも大して面白いとは思わないんですよね。最初の頃は、 なんだか暇で一日中ぼーっとしていました。保育園での遊び方がわからなかったんです。積み木や、おもちゃで遊ぶやり方がわからなかったんです。

 つまり、幼児は遊び方を教えてもらわないと遊べないわけです。おもちゃをポンと与えても、それで遊べるとは限らないんです。周りの人が、それを使って遊んでるのを見て、初めて遊び方がわかるわけです。

 これって、子守が作業しているのを観察して、子供が真似するのとまるで同じなんです。つまり、子供にとっては、遊びと仕事と勉強の区別がないんです。これはライオンでも狼でも一緒で、彼らは遊びながら狩りの学習をしています。つまり遊びと勉強と仕事がイコールになっている。

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 私は仕事で超有名進学校の子供たちを連れて自然ガイドに出かけたりするのですが、偏差値七十位の彼らも、やはり遊びと勉強が一緒になっている。ガリ勉してるわけではなく純粋に勉強を楽しんでいる。遊びと勉強がイコールだったりする。そう考えると、幼稚園・保育園・子守の中で、どれが一番、遊びと勉強と仕事をしたかというと、圧倒的に子守時代です。私が子守にお世話になってる時、一番遊んでいたし仕事も勉強もしていた気がします。

 それに気がついた時、あることを思い出しました。東京は池袋に存在した「児童の村小学校」のことです。
実は私は日本ユースホステル協会の歴史を調べていまして、初代会長であった下中弥三郎についてかなり調べたことがあります。下中弥三郎と言う人は、百科事典で有名な平凡社を創設した人で、もともと小学校の先生です。この下中弥三郎が、野口援太郎、為藤五郎、志垣寛という四人を集めて、教育制度の改革ではなく、教育方法の改革をしなければならないと考え、児童の村小学校という事業を始めました。

 教育制度ではなく、教育方法の改革です。

 で、どのような教育方法をとったかというと、児童を束縛しない教育方法です。まず池袋に児童の村小学校を作って、子供たちを集め、教科書もなければ時間割もない自由奔放な授業を始めました。結果から言うと、その学校は資金不足でつぶれてしまうわけですが、そこの卒業生の大半は、大学教授・研究者・企業家・有名人などになって後に大活躍することになります。

 もちろん例外もいますが、その例外も大半が戦争や病気で亡くなった人たちです。つまり戦争や病気で死ななかった人たちは、残らず知識人として活躍するという驚異的な成果を残しています。そのために、萩の松下村塾や、北軽井沢の法政大学村と並んで、教育の三大聖地とまで呼ぶ人もいるくらいに有名になっています。

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 では、児童の村小学校が、どのような授業を行ってていたかというと、これが非常にユニークで、学校の隣にある広い野原で遊ばせるだけ。それも半年くらいずっと授業無しで野口援太郎校長が遊ばせている。それはもう他の先生は焦ります。これでいいのか?と。

 遊んでいるうちに子供たちは、色々な道具を出してくれとか言ってくるので道具を出してあげたり手伝ったりします。そうやって子供たちは遊んでばかりいるのですが、さすがに何人かの先生は
「これはおかしい。これは間違ってませんか?」
「もう我慢できない、家に帰りたい」
と、焦り出します。
 しかし校長の野口先生は、辛抱強く「大丈夫。黙って見ていなさい」と説得します。そして不安に思いながらも、子供たちのやることを見ていると、大きな穴を掘ったり、みんなで家を建てたりします。秘密基地ですね。もちろん一人では、そんなことはできませんから、みんなで共同作業で作ります。共同作業を通して人間関係を学んでいきます。

 あと秘密基地の小屋を建設するにしても、子供のやることですから、すぐ壊れてしまう。そこで初めて校長先生が、物理学の基本や数学の基本を教えるわけですが、何度も失敗している子供たちは、こんどこそ成功させようと、かなり真剣に聞いてくれます。こうして勉強教えるわけですが、ここまで来るのに六ヶ月ぐらいかかっています。気が遠くなるほどの遠回りです。

 まあこれは、 三年生とか四年生に対する授業なんですか、もっと小さい一年生ぐらいになると、さらに破天荒な授業になります。先生が帽子をかぶって、オーバーを着て、靴を履いて、新聞紙を敷いてその上に立っている。そして、
「こういう格好をするのには、お金ならどれくらいかかるか?」
「・・・」
「一つ一つの値段はどのくらいのものか?」
と質問していくわけですが、児童はポカーンですよ。そこで、まず帽子を取って帽子の説明をしながら、これはいくらいくらで買ったと説明するわけです。その次に靴はいくらだ、靴下はいくらで、という風に全部先生が一つ一つ脱いでいくわけです。それで最後にはパンツ一丁になる。

 もう大爆笑です。

 で、このパンツがいくらだと、全部身につけているものを黒板に書いていくわけです。そしてそれらを合計して、いくらになったかということを勉強させるわけですが、これは算数の勉強でもあり、社会科の勉強でもあるわけです。このように、学科のすべてを一緒くたにして勉強する。これが児童の村小学校が行った革新的な教育方法でした。

 時間割は二つしかありません。
 教師の時間と
 子供の時間です。

 午前中は教師の時間。ここでは、読書・計算・観察・作業をやります。先生が教える時間です。午後は子供の時間。つまり子供たちが自分たちの生活を切り開いく時間。秘密基地を作ってみたり、本を作ったりする時間です。

 そして、毎日「明日の時間配分はどうする?」ということを先生と子供たちが話し合って時間配分を決めます。当然のことながら子供たちは、もっと子供の時間が欲しいと言ってきますから、それならば先生も「これだけのことを君たちに教えたいんだよ」といって、子供たちと交渉します。

 子供たちは、一生懸命やったら、時間をくれるのか?と聞いてきますから、明日はこのくらい勉強ができていたら残りの時間は自由に使っていいよと言う。これで交渉成立です。

 子供たちにしてみれば、秘密基地を作ったりするのに子供の時間が欲しいですから、家に帰って密かに勉強をして、先生の時間を短縮させようとします。ちょっと勉強が遅れている子がいたら、みんなで教えてしまう。その結果、はやくに勉強が終わって、子供の時間が増えていく。楽しい時間が増えていく。そこにはイジメも存在しないし、引きこもりもいない。そのうえ結果として、子供たちは勉強ができるようになっていく。

 ここまで説明したら、もう私の言いたいことは、おわかりと思います。児童の村小学校がやっていたことは、ライオンや狼と同じ教育です。ライオンは、子供たちに遊びながら狩りを教えている。それを児童の村小学校で行っていた。決して勉強を強制させることは無かった。

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 児童の村小学校を設立させた下中弥三郎にしろ野口援太郎にしろ、為藤五郎・志垣寛にしろ明治初期の生まれです。
 野口援太郎にいたっては、明治元年生まれですから江戸時代から続いた若衆組(青年団)の雰囲気を詳しく知っていたと思います。だから若衆組の雰囲気をふまえて、このような教育スタイルを始めた可能性が高いと思う。

 逆に、明治後半生まれの若い先生なんかは、若衆組(青年団)の雰囲気がわからないから、子供を放置しているように見える野口援太郎校長のやってることにハラハラして、
「これはおかしい。これは間違ってませんか?」
「もう我慢できない、家に帰りたい」
と校長に抗議している。

 若衆組の雰囲気を知らないから
「これは駄目だ」
と絶望するんです。


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2017年03月22日

幼稚園と保育所について 3

 最初に幼稚園の歴史と自助論の関係について書きました。前回は、子守学校と自助論の関係について書いています。子守学校というのは、子守をしているために学校にいけないでいる子供たちを収容するための学校のことで、赤ちゃんを隣の部屋に置いて、交代で面倒見ながら勉強する学校のことです。

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 明治五年八月二日、日本初の教育法令が公布されました。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画し、身分・性別に区別なく国民皆学を目指しました。そして、尋常小学、女児小学、村落小学、貧人小学、小学私塾、幼稚小学、廃人学校について規定しました。

 この中の幼稚小学が、現在で言うところの幼稚園に当ります。そして、女児小学、村落小学、夜学校、貧人小学、小学私塾ですが、これは尋常小学校以外の学校のことで、そういう学校の設置が認められ、何らかの事情で尋常小学校に帰れない子供たちはそれらの学校に通えば「就学」とみなされたのです。それらの学校に関する教則は、文部省は示していません。なので各県によって自由な設置ができ、それぞれ独自の教則ができています。

 例えば群馬県では、松下村塾を運営していた楫取素彦が、群馬県県令となった明治十年に「群馬県学則」が制定され、女児小学、村落学校、工女余暇学校、変則夜学校の設置が規定され、「小学教則」「小学訓導心得」「小学授業法」などの諸規則が制定されています。そして保児教育所(子守学校)の必要性を文部省に訴えています。残念ながら保児教育所(子守学校)についての詳しい記録は残っていませんが、子守学校に類する小学校が群馬県にあったことは確かだと思われます。

 以前、妻の実家の群馬県館林方面の歴史を多少調べたことがあるのですが、面白い記録が残っています。当時、尋常小学校に通っていた人たちの証言によると、先生が黒板に字を書くときは必ず窓側の半分のところでしか書かなかったとあります。なぜならば、窓の外には子守をして学校にいけないでいる子供たちが、何人も授業を受けていたからです。なので窓開けっ放しにして外にも聞こえるように教師たちは窓側に向かって大声で勉強を教えていました。子守の子供たちは、ノートと鉛筆の代わりに地面に棒で文字を書いて覚えたと言います。そういう記録が、いくつか残っています。

 それらの子守たちは、陸州ッ子とよばれ、東北地方から飯米と交換で十歳くらいで子守として売られてきた人たちで、頭はヨモギのような髪で、垢だらけで、衣服も垢と赤ん坊の大小便で汚れ、悪臭には耐えられなかったと言います。なので、外で子守をしながら授業を聞き、文字を覚えるのですが、赤ん坊が泣くと授業の邪魔にならないように遠くまで走って行って、赤ちゃんをあやしたと言います。そういう子守たちに教師たちは、できる範囲で様々な便宜を与えたようです。

 養蚕が盛んだった北関東(特に群馬)は、裕福だったのでしょう。東北から子守を受け入れて子守をさせながら学校にやったり、新潟から瞽女(ごぜ)といわれる盲人芸能集団や、角兵衛獅子などを盛んに受け入れて特に親切にして接待しています。そういう証言が歴史の本では無く、民衆レベルでたくさん残っていて、北国の貧しい人たちは群馬県にお世話になっていたようです。なんとも羨ましい群馬県の経済力ですが、それよりもっと群馬県が幸運だったのは、明治維新後に松下村塾を運営していた楫取素彦が、群馬県県令となったことかもしれません。

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 大河ドラマにもなった楫取素彦は、群馬県の県知事になってすぐに教育事業に重点的に取り組みました。そしてたった四年間で全国第一位の小学校の就学率を達成しています。明治十四年に幼稚園の類似施設(県師範学校内に幼稚遊戯場が付設)を設立しています。明治十六年には群馬県立幼稚園(全国でも五校)が正式に設置され、市町村部でも幼児教育施設が設置されました。つまり群馬県は、幼稚園先進国でした。どうりで群馬県には幼稚園が多いはずです。もちろん私の家内も幼稚園出身者です。

 ちなみに群馬県の隣の、新潟県や長野県では圧倒的に保育園が多いです。軽井沢にしても、私の生まれた佐渡島にしても保育園だらけなのに、農家と観光業者の多い嬬恋村は、つい最近まで保育園はたったの一つしかありません。それに対して幼稚園は三つありました。どうしてなんだろう?と言う疑問がずっとあったのですが、こういう歴史的経緯があったことを思えば納得です。松下村塾を運営していた楫取素彦が、群馬県県令となったことが、群馬県が幼稚園だらけのであることと無関係ではないでしょう。

 その結果かどうかはわかりませんが、文部省が公表した平成二十七年度の英語教育実施状況は、高校生で群馬県が一位。中学校では、群馬県は九位。二〇一六年の全国学力テストランキングだと群馬県は、中学生が十位。小学生は三十六位。小学校はともかく中学生以上は、学力は高いようです。これが保育所王国の新潟県だと、逆で小学校が九位で中学校が二十一位。

 まあそんなことはどうでもいいとして、それにしても一つ不可解なことは、保育所が少ないことに群馬県民には、不便さを感じてなかったか? もっと保育所に対する需要がなかったのか?という疑問です。しかも昔の幼稚園は、たったの二年制でした。三年制になったのは最近の話です。そのうえ午前中で終わり。それだけでは不便ではなかったのか?と言う疑問が出てきます。その疑問に対する答えはまた後で述べるとして、今回は、保育所について述べてみたいと思います。

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 日本で最初に保育所が生まれたのは、新潟県です。だから新潟県では保育所王国です。私が生まれた頃の佐渡島では、幼稚園は島に一ヶ所しかなく、どこもかしこも保育所だらけでした。当然のことながら私も保育所出身者です。今は保育園と言う呼び名が通用しているみたいですが、昔は保育園なんて言う人は誰もいなくて、保育所でした。

 保育士を目指している人たちが、最初に勉強することが日本最初の保育園のことだと思います。ネットや保育原論といった教科書には、明治二十三年、赤沢鍾美(あつとみ)・ナカ夫妻が新潟市東港町の新潟市静修学校に付設の保育施設を開設。これが日本最初の保育園とされています。その保育園は現在も赤沢保育園として新潟県に存在しているようです。

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 ところで、赤沢が経営していた静修学校とは何かというと、私立小学校だったようです。もともと赤沢は、小学校の教員だったのですが校長先生と教育についての意見が衝突したために退職しました。

 その年、つまり明治二十三年の十月七日には、第二次小学校令が公布され、市町村に私立小学校がある場合には代用できることになっており、しかも徒弟学校と実業補習学校を小学校の種類とすることになり、生徒は私立学校も選択できることになりました。

 そこで赤沢は、父親が開いていた修身学舎という家塾をひきついで、静修学校と改名し、昼は尋常小学科・中学科、夜はそれを卒業した文学専修科を設けて子供たちを指導しました。

 赤沢の授業は町の評判も良く、多くの子供たちが集まりました。赤沢の方針により普通の小学校よりも一年早く卒業できたり、卒業して実用に役に立つことを集中して教えたことも魅力で、貧しい人たちが大勢押し寄せたようです。

 ただし、子供たちのなかには子守をしながら登校してくるものも多いために、その扱いに困って、赤沢の妻仲子が、やむを得ず授業中に赤ちゃんを預かるようになりました。もちろん保育料を取っていません。赤ちゃんや幼児は、おやつはもちろん昼食の持ってこないようなケースが多かったようです。妻仲子は、そういう子供たちには食事まで作って食べさせ、傘のない国は傘を買って与え、夏の炎天下には帽子を買って与えたりしました。

 そのため子供たちの親は泣いて喜び、その噂が大きく広まり、自分の子供も是非預かってほしいと頼む人が続々と現れて、それも断りきれず次々と預かってしまうようになりました。これが日本最初の保育園となるわけですが、最初は私立学校からスタートし、それが子守学校のような形になり、それが日本最初の保育園になったわけです。

 ここで私の話をしたいと思います。

 昭和三十六年生まれの私は、三歳九ヶ月くらいまで、子守に育てられています。両親共稼ぎで母親は小学校の教員で、佐渡島の僻地で仕事をしていました。道路は舗装されず、マイクロバスがやっと一台通れるくらいの漁村です。テレビもNHKしか写らない時代で、電話もダイヤル式ではなく呼び出し式です。もちろん幼稚園も保育園もありません。子守をたのむしかありません。そのうえ当時は、二ヶ月しか産休が認められていませんので、生後三ヶ月から私は、朝はやくから夕方おそくまで子守の人に預けられていました。

 子守と言っても、さすがに子供たちではありません。
 中高年の老婦人たちです。
 当時は、腰が曲がって畑仕事ができなくなった老婆が子守となって活躍していました。

 今でこそ腰の曲がった老人を見かけることがなくなりましたが、昔は、 五十歳後半くらいから腰が曲がって杖なしに歩くことのできない老人が多かったものです。各人がいろいろな杖を持っていて、玄関先に杖が置いてあると、
「○○の婆が、家に居るな?」
とわかったものです。

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 昭和三十年代は、どの家も鍵をかけることはなく、別の家に勝手に上がりこんで、こたつに入って家主を待っていることが普通にありました。だから、家に帰った時に、玄関先にある杖を見て「○○の婆だ」と存在がわかったものです。近所の人たちも「ははあ。○○の婆が、◆◆の家にいて家主を待ってるな。◆◆に教えてやるか」と、用事ついでに家主の人に知らせたものです。なにしろ携帯電話がない時代です。通信手段は、このようにのんびりした口コミだけです。

 そういう時代ですから、車もなく、かといって商店街もない僻地なので、お互いに子守を頼んだり、洋服の仕立てを頼んだりしていました。洋服も衣料品店で買うのではなく、お金を払って近所の家に仕立てて作ってもらっていました。そもそも洋服屋がなかった。あるのは「よろずや」というコンビニみたいな店が二軒のみ。電気屋もなければ本屋も無い。道路だって最近出来たばかり。当時の登山ガイドに代表的なコースとして紹介されているくらいの場所なので何もかもが無い。今で言えば知床半島のような存在で秘境好きの登山客の名所のようなところでした。そういう僻地ですから、不便なことはお互い融通しあう。私はそういう漁村で複数の子守に三歳九ヶ月まで育てられていたのです。

 腰の曲がって杖で歩く老婆ですから、二歳から三歳くらいの男の子の方が速く走れます。逃げようと思えば逃げられるのですが、そういう気持ちは全くなく、むしろ老婆の後を追いかけることの方が多かった。いわゆる後追いというやつですが、母親に対する後追いとは少しばかり違って、農作業や干芋造りなんかを、じーっと見つめては、時々手伝ったりしました。

 子守といっても、四六時中子供の面倒をみているわけではなく、いろんな作業をしながら合間に世話をするのが子守のパターンです。子守学校の生徒も、子守しながら勉強をしていましたが、老人にだって子守の合間にできる仕事はあります。というか片手間に仕事をしていた方が、子守をしやすかったでしょう。私は、そういう環境で育ち、子守たちの片手間の作業をじーっと見て育っています。そして、作業を手伝いたがりました。

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 私が母親と下宿していたところは、農作業の合間に洋服の仕立てをしていました。当時は、電気アイロンなどはなく、鉄のアイロンを炭に熱して、指で温度調節しながらアイロンがけをしていました。私はじーっと、それを観察した上で自分でやってみようと思い、自分の顔にアイロンをあてて大火傷したことがあります。とにかく、周りを観察して、それをやってみようと思うのが、子守に育てられた子供の特徴だと思います。

 この経験が、息子が生まれたときに生きてきました。

 私は、息子が0歳の時から、ベッドメイクや部屋掃除などに連れて行ってます。そして、常に一緒に作業しています。部屋掃除をするわけですから、部屋は埃まみれになるので、嫁さんは非常に嫌な顔をしましたが、そんなことお構いなしです。ハイハイしている息子に布団をかぶせては、いたずらしました。私も小さい頃に、子守のおばさんや、子守のおばあちゃんと似たようなことをしてきていますから、これが私にとっては非常識ではないのです。

 しかしうちの嫁さんには、そういう経験がありませんから、このやり方にずいぶん戸惑ったようです。私は買い物にも必ず息子を連れて行き、買い物カートを押させてついてこさせます。雪かきや庭の手入れも側に置いておきます。私が花壇をいじると、息子も真似していじります。その結果、花壇が破壊されますが、叱りはしません。私の小さい頃の体験があるので、生あたたかく見守っています。最近は、皿を洗ったり、料理を創りたがっていますが、少しずつ手伝ってもらっています。

 ところで私には三歳以前の記憶が残っています。普通の子供なら三歳前で記憶は残りません。脳科学では、そういう定説になっています。けれど私は例外らしく、三歳以前のことを良く覚えています。逆に四歳以降の記憶があまりありません。四歳以降は、母親や子守の人から離れて、父親・祖母と佐渡島の都会(?)らしきところで暮らすことになったからです。つまり弟が生まれて、母親は弟と佐渡島の僻地に向かい、私は父親に預けられることになったわけです。

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 父親は厳格なために些細なことで物置に閉じ込められ、箸の持ち方一つで良く殴られました。優しい子守に囲まれた生活とは真逆な生活です。祖母も酷く口うるさい人でしたから、三歳までの子守時代とは全く違う環境になり、毎日不安なまま暮らしていました。子守時代とは天地ほど違う環境です。

 三歳九ヶ月まで私は子守たちにかわいがられました。僻地なのに、店が何も無いのに、昭和三十年代に、いったいどこから手配したのか、どういうわけかクリスマスケーキがでてきたりしました。当時としては貴重なホールケーキに対して、私は恐る恐る「どれ食べて良いの?」と聞いたものです。私の母親は、そこまで甘やかしません。

 子守たちと分かれてからも、子守の老婆たちは、遠くから私を訪ねてやってきました。何度も遊びにきては、帰り際に泣いてお別れしました。別れ際には必ず
「お父さんの言うことを聞いて、お利口にするんだよ」
と泣きながら言われました。子守されていた時には、絶対に言わなかった台詞を言うのです。そして何度も何度も遊びに来ては、時々、僻地に遊びに連れ帰ったりしました。それほどかわいがられました。そういうかわいがれっぱなしの環境から、厳格な父親と口うるさい祖母の元に預けられ、環境が一変したわけです。

 環境が一変すると、私は放置子ぽくなります。近所の老婆のところに勝手に遊びに行くようになります。知らず知らず以前の環境を求めてのことだったかもしれません。ご近所の人も、さぞかし驚いたかもしれません。当時の私にしてみたら、統一一貫性の本能が混乱しないための生存本能が働いたためにとった行動なんでしょう。幼児には、強い統一一貫性の本能があります。一貫した何かを求める本能があって、これが混乱すると、パニックになるのです。

 ただし、佐渡島の都会(?)には、佐渡の僻地と違ってちょっと違うところがありました。保育園がありました。私は、生まれて初めて保育園の年少組に行かされました。

 保育園に行って驚いたことは、子供の数です。今まで、これほど多くの同年代の子供の数を見たことが無かったので衝撃をうけました。しかし、それでも保育園に違和感なくなじめたのは、家庭にいるよりも安心感があったからです。私はこの時の体験をもとに、自分の息子を幼稚園を大好きにさせています。その方法は、以前このブログにも「子供を幼稚園好きにさせるコツ」として書いてあります。詳しくは、下記のサイトをクリックして読んでみてください。

http://kaze3.seesaa.net/article/447054742.html

 それはともかくとして、日本に制度として幼稚園・保育園・託児所ができる前は、いったい誰が幼児の面倒を見ていたかというと、『子守』なんですよね。私は保育園・幼稚園のない地域で、子守に面倒をみてもらっています。私の体験から言うと、子守は保母さんと似ています。別に何か教育されるわけでもなく、プログラムに沿って進行されるわけでもありません。日常生活と延長上に、子守をされる。農作業とか、洋裁の内職とか、家事の合間に見てもらってるわけです。

 それを幼児なりに観察しつつ、幼児なりに自分もやってみたいという衝動にかられ、ミラーニューロン(ものまね細胞)によって脳内に蓄積されていきます。親と違って子守には強く怒られたりしませんから、積極的にミラーニューロン(ものまね細胞)を働かせて、子守たちの生活習慣が幼児に遺伝していきます。そして作業を手伝ったりします。干芋を並べたり、仏壇に一緒にお供えしたりします。子守と一緒に生活をしていくと、一緒に共同作業をしたがるようになります。

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 逆に厳格だった父親には、多くのダメ出しを食らっていますので、怒られるたびに進化適応によって拒絶反応が出てきます。例えばいたずら書きをして強く怒られれば、書くことに拒絶反応が起きて、お絵描きや、字を書くことに対しても、なんとなく拒絶する心理状態になります。どんな生物にもそのような反応があるのは、そういう反応がなければ、あっという間に天敵に殺されてしまうからです。親が子供に必要以上に強く怒れば、子供は自らの生命保存のために学習して、拒絶の心理が働きます。

 幼児が階段を上がろうとして、それが危険な場合は、必要以上に強く怒ってしまうと、それがトラウマとなって高所恐怖症になったり、登山を嫌うようになりますから、その後の影響は甚大です。そのせいか武家社会では、子供に対して強く叱らない躾をしていたと言われています。もちろん武士ですから躾に厳しかったことは確かですが、強くは怒らない。むしろ子供に対してもっぱら暴力的に躾たのは農民階級の方だったといわれています。農民は臆病でも問題ないし、むしろその方が、自己保存のために良い場合もあるでしょう。

 まあ、そんなことはどうでもいいとして、これだけ環境が変わって、子供ながらに戸惑うと統一一貫性の本能が混乱します。これは脳に非常に悪い影響を与えることがわかっています。しかし、そこで悪い影響に対する歯止めになったのが、保育園だったかもしれません。長時間にわたって、緩い環境で保育されているので、環境の変化を和らげるクッションのような役割があったような気がします。

 現在では、どうなっているか分かりませんが、昔の保育園では、あまり教育的なことはしてなくて、ただ預かって遊ばせていることが多く、のんびりしていました。運動会・遠足といった行事も無く、それが私にとっては良かったのかもしれません。そのせいかその保育園でおきたことは記憶に残っています。記憶の法則として、嫌なことは忘れる傾向があるのに対し、楽しいことは忘れません。これは私だけではありませんでした。

 一年後、私は引っ越して、別の保育園に入り、最初の保育園の友達と別れます。それから十二年後に、小学校の合併で彼らと再会するわけですが、お互いに年少組の頃のことを覚えていました。これは今にしてみれば、すごいことかもしれません。

 というのも幼稚園出身の家内に
「幼稚園時代のことを覚えてる?」
と聞いても全く覚えてないからです。

 ちなみに家内は幼稚園(二年制)です。幼稚園だから授業もあったでしょう。そのうえ午前中で帰宅ですから友達との縁も薄かったかもしれません。ただし、家内の家庭環境が良かったようで、近所に親戚がいっぱいして、従姉妹どうしでよく遊んだらしく、その思い出話は、よく聞かされます。家内にとって楽しいのは、幼稚園では無く家族と、大勢の親戚たちだったようです。このへんの背景の違いから、子育てに関する考えの違いがでてきている。嫁さんは、できるだけ息子を幼稚園のプログラムに沿わせようとするし、私は、そういうことよりも親子で登山したり、親子で宿の仕事をすることにこだわってしまう。このへんの違いがおもしろいところです。


つづく。

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posted by マネージャー at 13:54| Comment(2) | TrackBack(0) | テーマ別雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする