JALが、大赤字で倒産するかもしれないとのこと。
はたして政府は、支援するのかどうか?
JALで、思い出したのは、戦前の
日泰定期航空機松風号不時着の原因判明についてです。
昭和13年頃、日本は九七式重爆を改造した旅客機MC20を主力機にしてアジアをネットする航空路を作ろうと近隣諸国に働きかけました。しかしフィリピンもベトナムもどこも欧米諸国が支配する植民地で、それぞれの宗主国は日本機の乗り入れを頑なに拒絶しました。
黄色人種が製造した飛行機が乗り入れたら、白人の権威が色あせて植民地支配も揺らいでしまう、というのが拒絶の理由でした。しかし、例外がありました。植民地になってない「タイ」でした。そして、昭和15年にバンコクへの就航が実現しました。
しかし、フランスが嫌がらせをしました。
仏印上空の飛行を認めず、
日本機はインドシナ半島を大きく迂回するルートを強いられたのです。
ところが第二次大戦が始まり、ドイツの支配下に入った仏印政府は渋々日本の上空通過と乗り入れを認めました。こうして大日本航空の松風号がハノイ経由バンコク行きの第一便として飛ぶことになりましたが、その機体は、帰り道にベトナムのはハノイを離陸直後に墜落してしまいました。原因は何者かが燃料タンクに水を入れ、エンジンが停止したためだったと言います。同機は仏軍基地ジアラム空港を使っていました。機体に近寄れるのはフランス人だけで、彼らの犯行でした。
仏印進駐には、こういう背景があったのですが、戦後世代の私たちには、知られされずにいます。 しかし当時の日本は事を荒立てませんでした。
何一つ。
そして、仏印進駐。
仏印進駐というと、日本が仏印を占領したかのように思う人がいますが、実は違います。主権は、フランス政府にあり、日本軍は、駐留しただけでした。いわゆる在日米軍基地みたいなものです。
実はフランス人の仏印支配は、昭和20年の終戦まぎわまで続きます。 フランス政府は、ベトナム人の弾圧し続け、ベトナム人を入れる監獄建設ラッシュが続いていました。サイゴン最大のチーファ監獄が完成したのは昭和18年でした。街や村には人頭税やら出産税やらを取り立てる華僑の徴税吏が駐在し、政府直営の阿片専売所も置かれ、その売り上げがハノイに集められていました。
で、この頃、ハノイ周辺は歴史的な洪水に見舞われ飢餓が発生。
日本軍は大釜を出して人々に粥を振舞い、昭和20年3月31日に日本軍がクーデター(明号作戦)を起こしてフランス人を行政から追い出し、クーデターのあと日本軍は仏印政府が貯め込んだ米を放出したのです。そしてまたたくまにフランス軍を撃破した日本軍に、多くのベトナム人が歓喜したのです。
ベトナムに旅行する人は、このへんの事を知っておくとよいでしょう。
つづく。
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