2009年12月01日

瀬戸の滝ツアー

瀬戸の滝です。
嬬恋村で一番巨大な滝で、落差二〇メートル。万座鹿沢駅からちかい国道144号線沿いにあります。昔は大水量を誇りましたが、近くに発電所が流れたので、今では水がほとんど流れていないときもあります。

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つづく。

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2009年12月02日

嬬恋村史と、真田一族3(鎌原城ツアー2009/11/30)

嬬恋村史と、真田一族3
(鎌原城ツアー2009/11/30)


つづきです。

 武器を捨てて修験道で開拓していった荘園領主の下屋氏一族と、地頭職にある鎌原氏の2大勢力が成立します。では、下屋氏一族と鎌原氏は、その後、どのような運命になっていったのでしょうか?

 下屋氏一族は、武力ではなく、修験道という宗教の力をもって民を治めました。この方法は、武力をもって侵略するより、はるかに効率が良かったらしく、アッという間に北部群馬県を制圧していきました。これは昔、ソ連がマルクス主義を抱えて、アッという間に世界中を制圧していったのと似ています。

 しかし、下屋氏一族は、武力をもってなかったために、同族の地頭職である鎌原氏に、領地を掠め取られます。すると、各地の地頭たちも、下屋氏一族の領地を次々と掠め取ります。その結果、嬬恋村全体が、群雄割拠の時代に入ってしまうのです。親戚同士が互いに武力で争い、下屋氏本家は、アッという間に廃れていきました。

 代わりに勢力を台頭したのが鎌原氏です。
 実は、先日、その鎌原氏ゆかりの地、鎌原城に行ってきました。
 これが鎌原城の跡地です。

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 造りは、小諸城に似ています。
 三ノ丸追手門付近です。

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 この城は、長らく調査も、文化財保護もなされていませんでした。
 嬬恋村は、そういう事に全く興味がありませんでした。
 あと地元民たちの鎌原氏への憎しみもありました。
 その理由は、後で述べます。

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 最近になって、鎌原氏の後子孫が、個人的に金を出して碑を建設。
 自治体は、全く関与していません。
 真田六文銭があります。
 鎌原氏は真田一族なのです

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ここに鎌原氏の先祖代々の墓が1つだけあります。

しかも1つだけ。
先祖代々の墓が1つだけ。
これには、訳があります。

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鎌原氏には、敵が多かったために、墓が暴かれるのを恐れて、長い間、墓を作れなかったのですね。どういう事かといいますと、真田氏が群馬県に攻めてきたときに、その片棒を担いで、一緒に攻めていったのが鎌原氏であり、他の下屋氏一族を次々と滅ぼしていったために、多くの下屋氏一族の恨みをかっていて、墓を作れなかったのですね。

で、ここに、やっと墓ができたのが、
昭和45年、つまり1970年なのです。
それまで墓を作れなかった。
だから、先祖代々の墓と言っても、この墓は新しいのです。

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墓には、歴代の鎌原氏の戒名が彫られています。
1975年まで墓を作れなかった鎌原氏。
敵が多く土地の人に嫌われていた鎌原氏。

いったい、どうして、これほど嫌われていたのでしょうか?
真田氏と嬬恋村を攻めたためなのでしょうか?
それだけで、墓を作れないほど嫌われるものでしょうか?

次回は、その謎に迫ります。



つづく。

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posted by マネージャー at 11:34| Comment(3) | 真田丸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月03日

嬬恋村史と、真田一族4

嬬恋村史と、真田一族4
(長野原町役場見学ツアー2009/11/30)

やんばダムで有名になった長野原町の
役場見学ツアーに行ってきました。
これが役場です。

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意外かもしれませんが、
こんなに小さな建物です。
ペンションに毛の生えたくらいの小ささです。

しかも、木造です。

とてもダム利権に潤っている町の役場ではありません。
疑っている人たちは、一度、この役場を見に来るといいです。

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そして、役場の隣にお寺があります。
雲林寺です。

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 雲林寺は、弘長3年(1263年)、臨済宗妙心寺派に属する龍幡和尚が創建しています。約300年間、非常に栄えたといいますが、大火災で亡失してしまいました。そして永禄2年(1559)3月15日、海野幸光が開基となって現所在地に伽藍を再建しました。海野幸光は、西吾妻地方の吾妻川左岸に勢力を持つ有力土豪でしたが、天正9年(1581年)、真田幸村の父、真田昌幸に滅ぼされてしまいます。

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 もうお解りかと思いますが、
 海野氏が再建した寺ということは、
 つまり真田一族の本家筋が海野氏なんです。

 嬬恋村だけでなく、長野原町も、海野氏。
 つまり真田一族の末裔が支配する町なんです。

 具体的に言うと、桜井一族。
 人口5000人のうちの2500人が、
 桜井一族に関係していると言われています。
 吾妻酒造しかり、ホテル桜井しかり、
 歴代町長のほとんどが、桜井さんか、田村さん。
 つまり桜井一族系統なんです。

 それは、ともかく明治22年に村が統合されて長野原町ができた際、当時は役場庁舎が無かったので、この雲林寺を借用したそうです。初代の町長には桜井伝三郎氏が就任し、旧役場、学校建築等幾多の功績を残しました。建物をみてください。役場のような造りになっていますよね。

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 ここには、宝きょう印塔という、塔があります。これは、お経を写して塔に納めて供養すると極楽に生まれ変わる、と信じられていた塔で、平安時代に中国から伝わったものです。


つづく。

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2009年12月04日

嬬恋村史と、真田一族5

嬬恋村史と、真田一族5
(長野原城見学ツアー2009/11/30)


つづきです。

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 武器を捨てて修験道で開拓していった荘園領主の下屋氏一族と、地頭職にある鎌原氏の2大勢力が成立します。下屋氏一族は、武力ではなく、修験道という宗教の力をもって民を治めました。しかし、下屋氏一族は、武力をもってなかったために、同族の地頭職である鎌原氏に、領地を掠め取られます。実は、先日、その鎌原氏ゆかりの地、鎌原城に行ってきました。これが鎌原城の跡地です。

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 ここに鎌原氏の先祖代々の墓が1つだけあります。鎌原氏には、敵が多かったために、墓が暴かれるのを恐れて、長い間、墓を作れなかったのですね。で、ここに、やっと墓ができたのが、昭和45年、つまり1970年なのです。それまで墓を作れなかった。いったい、どうして、これほど嫌われていたのでしょうか?

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 その前に歴史のおさらいをしておきます。

1.真田氏とは何か?

 真田氏とは、海野氏の分家にあたります。
 具体的に言うと海野棟綱の息子が真田幸隆です。
 つまり、真田氏とは、海野氏のことです。
 有名な六文銭の旗印も、もともと海野氏の旗印。
 真田幸隆の息子が、真田昌幸。孫が真田幸村。
 図にすると、こうなります。

 海野棟綱−真田幸隆−真田昌幸(徳川軍を破る)−真田幸村



2.海野棟綱と真田幸隆とは?

 海野棟綱と真田幸隆は、親子です。もともとは、上田市のあたりで勢力をもっていましたが、1541年、武田信虎と戦って大敗し、嬬恋村に逃げてきました。
 嬬恋村には、親戚の下屋氏一族がいたからです。下屋氏一族も、もともと海野氏でした。その下屋氏一族の中の、羽尾幸世をたよって、海野棟綱と真田幸隆は逃げてきました。海野棟綱は49歳。真田幸隆は28歳の時です。



3.なぜ、海野棟綱と真田幸隆は、羽尾幸世をたよって逃げてきたのか?

 実は真田幸隆は、4年前の1537年に羽尾幸世の娘と結婚していたのです(『加沢記』による)。その縁で、羽尾幸世をたよって逃げてきたのです。ちなみに、羽尾家の旗印も六文銭です。真田幸隆にとって羽尾幸世は義理の父でしたが、羽尾幸世も真田幸隆を本当の息子のように可愛がったようです。



4.羽尾氏とは?

 羽尾氏は、もともと真田氏と同じく海野氏でしたが、この頃は、上杉謙信についていました。海野棟綱は、上杉謙信の力をもって旧領を取り戻そうとしますが、息子の真田幸隆は、逆に武田軍団につこうとします。そして、親子は別れ別れとなります。海野棟綱は、羽尾氏とともに上杉謙信の軍団に入り、真田幸隆は、羽尾家から出て行きます。そして、武田晴信(信玄)が父・信虎を国外追放して家督を継いだのを契機に武田家に仕官し、旧領を回復していくのです。



5.旧領を回復した真田幸隆のその後は?

 真田幸隆のその後は、武田軍団の先鋒として、嬬恋村に入ってきました。当時の嬬恋村の豪族たちは、上杉謙信についていました。しかし、真っ先に裏切って、真田幸隆の配下に入ったのが、鎌原氏でした。以後、鎌原氏は武田氏を後楯として、羽尾氏と戦います。真田軍団は、恩人でもあり、義理の父でもある羽尾氏を攻撃したのです。そのとき、戦場となったのが、この長野原城です。


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長野原城は、真田氏が造りました。
これは瑠璃光堂。
城の入り口にあります。

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城には、掘や土塁が残されています。
真田の砥石城の造りに似ています。
細長い稜線上に土塁が築かれています。

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これが本丸。建物はありません。

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 1563年5月、信玄は長野原城の守りを固めさせています。当時、長野原城は、真田幸隆の舎弟、常田新六郎隆永が守っていました。そこに上杉謙信の配下、岩櫃城主、斉藤憲広が長野原城攻略に動きました。

 羽根尾城の城主、海野幸光・輝幸兄弟に500騎を、甥の斉藤弥三郎には200騎を与え、また白井城主の白井長尾氏にも援軍を請い、真田勢を攻めました。そして真田幸隆は、敗退します。

 やはり上杉軍は強いのです。
 まともに戦えば武田軍団には、勝ち目がない。
 しかも上杉軍は、利でうごかない。
 義で動くので、始末に負えない。

 そこで、真田氏は、まともに戦わないことにしました。
 もともと同族であったので、血縁を利用して裏切りをさそいます。
 内部からの寝返りによって攻めようとします。
 これが大成功します。


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 こうして真田軍の戦法が確立し、忍者などの工作員を動員する独特な破壊工作を得意としていくようになります。馬鹿正直な上杉謙信の軍団たちは、これに翻弄され、真田軍団は群馬県を次々と侵略していきます。武田信玄が川中島で、上杉軍団に手こずっているにもかかわらず、真田軍団は上杉軍に勝利していくのです。

 恩人であり、義理の父さえ平気で攻撃するするのが真田軍団でした。しかも裏切りを得意としている。このへんの事は、大河ドラマには絶対に出てこないエピソードでしょう。実は、この真田軍団の慣習が、嬬恋村に微妙に残り、時代が下って幕末に日本史を変えるほどの大事件に発展していくのですが、それについては、後日のべることにしましょう。


 話は、変わりますが、日本ユースホステル協会を立ち上げた横山祐吉氏は、真田軍団の末裔です。そして、日本恐妻家協会を設立し、しかも群馬の婦人団体の抗議によって、あっけなく解散してしまったのも横山祐吉氏たちでした。そして、その真田のゆかりの地、嬬恋村で、私はユースホステルを経営しつつも、日本愛妻家協会聖地委員会の広報委員長をやっています。これも何かの縁かもしれません。

つづく。

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posted by マネージャー at 02:10| Comment(0) | 長野原町 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「科学」「学習」が休刊へ

「科学」「学習」が休刊へ

http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20091203-OHT1T00189.htm

 学研ホールディングスは3日、学習雑誌の草分け的存在で学年別小学生向けの「科学」と「学習」を2009年度末までに休刊することを発表した。

 「科学」(月刊)は来年2月発売の3月号で、「学習」(季刊)は今月発売の冬号で休刊。同社は休刊の理由について、出版不況に加え「少子化という社会構造の変化や子供たちの価値観が多様化したことで、学年別雑誌が時代のニーズに合わなくなってしまった」としている。

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残念だなあ。科学と学習が廃刊ですか。科学と学習、子供の頃は御世話になりました。小学校の時に学校で買いました。本屋さんが毎月売りにきていて、廊下で買った覚えがあります。

 私は、科学と学習の両方を買ってもらっていましたが、科学だけ、学習だけの子供たちも多く、科学派・学習派で2大派閥に別れて抗争していましたね。だいたい男の子は、科学派で、ゲルマニュウムラジオを造ったり、いろんな実験をして遊んでいました。

 学習派の人たちは、もっぱら勉強の付録が多くて、それを真面目にやっていました。買っているのは女の子が多かったですね。

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 私自身は、どっちも好きで、密かに学習のファンでした。というのも読みごたえのある厚さだったのと、付録にオカリナがついていて、それが、いたく気に入っていたからです。あと、機械式計算機も気に入りましたし、粘土工芸セットや、勉強すごろく。回答の正解が出ると、もう一回サイコロをふることができるんです。





あれが、廃刊になるのは寂しいなあ。
ちなみに、小学生シリーズも廃刊になっているらしい。

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つづく。

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posted by マネージャー at 17:44| Comment(3) | ニュース・時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月05日

北軽井沢は雪

北軽井沢は雪です。
15センチ積もっています。
車の方は、スタットレスタイヤが必携ですよ!

あと、雪道の運転のコツを伝授。

1.時速40キロ以下で走ることです。
  これでたいていの事故は防げます。

2.スリップの看板に注意する。
  不思議なことに看板があるところで、みんな事故をおこします。

3.早朝運転を避ける。
  事故の大半は、早朝におきています。


それにしても、今年は雪が早いなあ。

つづく。

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posted by マネージャー at 23:11| Comment(0) | 業務連絡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

中1コースと中1時代

中1コースと中1時代

 科学と学習の廃刊にショックをうけていたら、中1コースと中1時代も大昔に廃刊してたんですね。ショックです。昔は、旺文社の中1時代派と、学研の中1コース派に分かれてたものです。予約すると景品をもらったりしました。




どっとかというと、真面目なのが中1時代。
どっとかというと、華やかなのが中1コース。

で、学研の中1コース、中2コース、中3コースは、かならず同じ歳のアイドル(モデル?)が表紙に載っていました。それがまた親近感がわいて、つい買ってしまったもです。ちなみに昭和36年生まれの私の時代の中1コース表紙は、手塚さとみでした。

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現在の彼女と比較してみてください。

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かなり変わりましたね。 
ちなみに野球選手は、当時スターだった定岡さんです。

つづく。

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posted by マネージャー at 23:59| Comment(2) | ニュース・時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月06日

今日は雪でした。

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昨日から今日にかけて、雪が降りました。
庭のテーブルにもふわふわの雪が。
朝、お客さんを送っていくときに通った道は樹氷のトンネルになっていました。冬の到来ですね。

つづく。

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posted by マネージャー at 15:37| Comment(3) | 日記 2009以前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

不況について語り合いましたよ

昨日は、大雪にもかかわらず、ノーマルタイヤで御客様が3人も来てくれました。事故がないといいんだけれど。少人数だったので、一緒にサウナに入って、この不況について語り合いましたよ。
で、驚いたことに、不況に関係ない御仕事をしている人がいたんでびっくり。半導体関連の人は逆に忙しいみたいですね。そういう業種もあるんだなあ。

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つづく。

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posted by マネージャー at 16:11| Comment(4) | 日記 2009以前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月07日

ラズベリーユースホステルに行ってきました。

ラズベリーユースホステルに行ってきました。
目的は、ホームページとブログを教えるためです。
で、完成したのがこれです。


みなかみ日記(ブログ)奥さんの日記です
http://razumaki.seesaa.net/

谷川岳ラズベリーユースホステル日記(マネージャー日記)
http://razu-sohara.seesaa.net/

富良野・ポプリ・マネージャー日記
http://furanomitoma.seesaa.net/

北軽井沢日記(うちの嫁さんのブログです)
http://k-kitakaru.seesaa.net/


手取り足取りで、なんとか完成させました。
と言うわけで、ラズベリーもポプリも、ブログ頑張ってください。
他のユースホステルのマネージャーも、
造りたい人がいたら、相談してください。
造ってあげますよ!

ちなみに日本ユースホステル協会にもブログがあります。
これです。

北から南から
http://yh2009.blog100.fc2.com/

つづく。

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posted by マネージャー at 03:53| Comment(0) | 日記 2009以前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月08日

某神社の火祭りに行ってきました。

某神社の火祭りに行ってきました。

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そして今日は火祭り。

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熱かった。
しゃくねつの地獄だった。
さて、ここは、どこでしょうか?

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つづく。

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posted by マネージャー at 23:27| Comment(5) | 日記 2009以前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月09日

いやし猫









つづく。

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posted by マネージャー at 23:41| Comment(2) | 動画紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月11日

大雪です!

大雪です!

笑っちゃうくらいの大雪です。
このままいくと50センチ積もるかもしれない。
週末に来られる方は、スタットレス必携です。

今日は、一日中、雪かきだ!

参ったなあ。

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つづく。

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posted by マネージャー at 11:21| Comment(5) | 業務連絡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月12日

大雪に学んだこと

しゃれになってない大雪に青ざめた私でしたが、
夕方には小降りになり、ホッと一息しました。

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で、大雪に学んだことがあります。
停電です
何度も停電になったのですよ。
そして、停電になると、
全ての暖房が止まってしまう。


なんてこったい!

と言うわけで、明日は、停電対策のために
石油ストーブを買いに行くことにしました。

あと、除雪機を買おうかどうしようか迷っています。
除雪機って、100万くらいしますからね。

つづく。

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posted by マネージャー at 01:37| Comment(2) | 日記 2009以前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日本ユースホステル史の源流1

日本ユースホステル史の源流1

佐賀県に取材に行ってきました。佐賀県には、日本ユースホステル史の源流があるからです。ユースホステルだけではありません、日本の近代化の源流もあり、日本赤十字の源流もあります。

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では、どこに日本ユースホステル史の源流があるかと言いますと、佐賀藩の支藩にあたる、鹿島藩にあるのです。2万石にすぎない鹿島藩が、明治維新を成功させるキャスティングボートを握っており、のちに日本ユースホステル協会を設立させうる遠因となったことは、意外に知られていません。

さらに、佐賀の伊万里焼が、
日本の近代化の原動力となったことなど、
いったい誰が知りうるでしょうか?


これらは、かくされた歴史の一つなのです。

では、佐賀には、佐賀の鹿島には何があったのでしょうか?
何が隠されているのでしょうか?

気の早い人は、この文章を読んだあと、
検索エンジンで検索をはじめるかもしれませんが、
おそらく何もでてきますまい。


リヒャルト・シルマンについて、私が書く前に、ホームページをいくら検索しても出てこなかったのと一緒で、佐賀とユースホステル史についても、いくら検索しても何もでてこないと思います。

どうして出てこないか?
それは、ユースホステル運動の原点を
全国のユースホステル関係者たちが、
全て、すっぱり忘れてしまったためです。

だから、誰一人、何も分からない。そのためにホームページの検索にひっかからない。だから、これからこのブログに書くことが、佐賀と日本ユースホステル協会の関係史について、日本ではじめてのことになるはずです。

つづく。

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posted by マネージャー at 23:59| Comment(4) | 日本ユースホステル運動の源流 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月13日

日本ユースホステル史の源流2

実は、日本ユースホステル史の本を書いています。
そのために佐賀に行ってきました。

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 なぜ、佐賀くんだりまでいったのかと言いますと、リヒャルト・シルマン伝を書いたときの苦い失敗があったからです。リヒャルト・シルマン伝のどこに失敗があったかと言いますと、

現地を見ずに書いたことです。
文献だけで書いてしまった。


 これが失敗だった。たとえば、リヒャルト・シルマンが教師として働いていたアルテナ。どの文献を読んでも、インターネットで検索しても美しい渓谷の自然豊かな場所としか書いてありません。だから、その文言を信じて、それを前提にリヒャルト・シルマン伝を書いたのです。

 だから私自身の歴史検証作業に重大な過失があったわけではなかった。

 現に、リヒャルト・シルマンも、同じように発言しているし、ウィルヘルム・ミュンカーも同様のことを言っています。アルテナ城を見学したという日本のユースホステル関係者も、同じ事を言っています。美しい渓谷の自然豊かな場所だと。たしかに、それは間違いではなかった。


 しかし、アルテナに行って、アルテナ城周辺を散策して
 驚愕しました。
 アルテナは、大工業地帯だったからです。


 アルテナどころか、ウィルヘルム・ミュンカーの生地であるヒルヘンバッハさえも工業地帯だった。だいたいヒルヘンバッハなんて、日本で言えば嬬恋村か六合村クラスの田舎町なのに工業地帯だった。これが、どの文献にも抜けていた。かわりに自然豊かな場所だと書いてあった。これを最初から知っていたら、私のリヒャルト・シルマン伝は、もっと別の文章になっていた可能性がある。こういう失敗に反省した私は、きちんと現地取材をしようと決意しました。

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 で、日本ユースホステル史の本を書くために、2008年は、関東地方と静岡県を調査したのですが、2009年は、佐賀に的を絞って調査することにしたのですが、困ったことに佐賀の本がないのです。るるぶにも、マップルにも、ブルーガイドにも、JTBガイドにも佐賀県だけ資料がないのです。

 福岡や長崎はあっても、佐賀はない。
 唐津・吉野ヶ里は、福岡のガイドブック。
 伊万里・有田は、長崎のガイドブック。
 佐賀県の主な名所旧跡が、他県のガイドブックに載っている。orz

その結果、佐賀県のガイドブックが無いのですね

 さらに佐賀県の郷土資料が無い。
 インターネットでも、国会図書館にも不思議なくらいにない。
「そんな馬鹿な?」
と思うのですが無いのです。

 歴史書を調べてみても、佐賀鍋島藩のことは書いてあっても、鹿島藩については書いてありません。重要な部分がスポッと抜けているのです。伊万里焼についても同じです。肝心なことが抜けている。下のサイトをみてください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E4%B8%87%E9%87%8C%E7%84%BC

ウィキペディアにして、こんなものです。伊万里焼が世界史を変えたことを考えると、このあつかいは、無いんじゃないかという気がします。では、どうして伊万里焼が世界史を変えたかと言いますと、2つの意味で世界史を変えているのです。

 一つは、その技術が、ある事に使われて世界史を変えたこと。もう一つは、伊万里焼が明治維新において、決定的な役割をはたしたことです。そして、その結果、ユースホステル運動の源流が生まれるタネとなった

 今回は、それをさぐりに佐賀に調査に行ったわけです。

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つづく。

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posted by マネージャー at 13:45| Comment(1) | 日本ユースホステル運動の源流 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月14日

日本ユースホステル史の源流3

日本ユースホステル史の源流3

つづきです。

 開国以来、日本人は驚くべき能力で西洋文明を吸収していきました。黒船来航からわずか三年後に宇和島藩は日本人だけで蒸気船を造っています。他にも、製鉄、鉄鋼、加工技術、大砲、蒸気機関、医術などの研究開発を行い、アッという間にヨーロッパ並みのものを作り上げることに成功したのですが、どうしても真似ができない部分がありました。

 量産技術です。

 職人技でもって、大砲や鉄砲は造れました。しかし、それを低コストで供給できなかったのです。造る能力があってもコストが高ければ、輸入するしか在りません。しかし、コストを下げるには、幅拾い産業技術の蓄積がないとダメなのです。つまり産業革命によって、あるていど社会が成熟してないとダメなんですよ。

 例えば製鉄。

 ペリー来航以来、日本の諸藩は、次々と反射炉、つまり製鉄所を建設し、製鉄を行いました。文献を手に入れ、ヨーロッパから技術者を招けば、同じような反射炉は完成しました。

しかし、数年ほど鉄を生産していくうちに、反射炉はボロボロに溶けてしまい使い物にならなくなってしまう。反射炉を構成している耐火煉瓦が、鉄を溶かす熱に負けてボロボロになっていくのです。そのために、アッという間に、生産設備を償却してしまって、コストの高い鉄になってしまう。薩摩でも長州でも幕府でも、反射炉を造ることは造ったのですが、その反射炉は、すぐに使えなくなってしまう代物だったのです。

 図面をもらって、見よう見まねで文明の利器を造るということと、それを低コストで量産するということは、全く別のことなんですね。例えば、ロケットで月面に人間を輸送することは、今の日本の技術力なら不可能ではありません。しかし、それで利益を上げられるかどうかは、別の問題になります。幕末の開国で、製鉄、鉄鋼、加工技術、大砲、蒸気機関を造るのは、わりと簡単に達成したのですが、それをコストにみあうレベルで量産するのは、非常に難しかった。

 しかし、例外があった。
 佐賀藩でした。

 どういうわけか佐賀藩には、ヨーロッパなみの幅拾い産業技術の蓄積がありました。理由は伊万里焼。伊万里焼は、有田焼と違って商売を目的に焼かれたものではありません。

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皇室・将軍・他藩へのプレゼントとして、世界最高級の焼き物を生産する佐賀藩の秘密結社なのです。人間国宝クラスの職人を山奥に閉じ込め、外部の人間を一切遮断して、究極の磁器を造らせた。それが伊万里焼なのです。そして、この磁器は、きわめて高温で焼くために、耐火煉瓦の技術にすぐれたものがあり、その技術によって、完璧な反射炉を製造することができたのです。

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そうなると、銃砲火器から造船土木に至るまで、波及効果がでてきます。産業の米たる製鉄のレベルがあがり、それを安価に量産できるとなると、日本もヨーロッパ並みの工業国になれるということになります。そして、この伊万里焼は、もう一つの効果を生み出します。赤字財政で潰れる寸前だった佐賀藩に大金をもたらします。

 いわゆる密貿易です。

 歴史文献に、佐賀藩のことが詳しく出てこないのは、この密貿易の存在のためです。伊万里焼の密貿易で、大金をかせぎ、その費用をもって西洋文明を輸入する。そして近代国家を作りつつあった。それが佐賀藩の正体でした。これは最近まで明らかにされてなかったことです。これを発表したのは、平成10年頃に、冥土の土産に書き残した郷土史家(医師)がいたから分かったことです。しかし、それを今まで公表できなかった。佐賀の郷土史家たちは、不名誉なことは全て口をつぐんできたからです。

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 また佐賀藩は、もっと恐ろしいことをやってのけています。佐野常民の登用です。佐野常民の登用のどこが恐ろしいかと言いますと、この男は、とんでもない人間だったからです。ネットで調べると、佐野常民は、日本赤十字を造った男として、かなり美化されて書かれてありますが、この男の正体は、そんなものではなかった。もっと凄みのある人間だった。この人間が、全く恐ろしいことをやってしまった。しかし、それを歴史の表に出す人は少ないのです。みんな黙っている。だから歴史書やネットで調べても、なかなか出てこない。

つづく。

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posted by マネージャー at 03:21| Comment(3) | 日本ユースホステル運動の源流 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

そば満留井(まるい)

そば満留井(まるい)

 南軽井沢の18号バイパス沿いに、リーズナブルで上手い蕎麦屋があるというので行ってきました。そば満留井(まるい)です。ここは、国産蕎麦粉を使う店だとか。

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 店内は、こんな感じ。

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店に入ると、お茶と、揚げ蕎麦がサービス。

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そして、蕎麦はかなりの量。
腰があります。

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私が注文したのは、かき揚げ丼。
で、でかい。

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人間と対比すると、この大きさ。

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美味しかったですし、おなか一杯になります。

軽井沢町大字長倉628-5
電話0267-42-0330
営業時間11:30〜22:00(冬期は〜21:00)
定休日木休(夏期は無休)


つづく。

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posted by マネージャー at 22:00| Comment(4) | 南軽井沢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月15日

なぜ赤字財政になってしまったか?

なぜ赤字財政になってしまったか?

 民主党の鳩山内閣は、2010年度予算について、95兆円と史上最大になった事実を発表しました。ムダを削るを目玉に政権獲得した民主党政権で過去最大の予算。国債発行高は、50兆円とも、60兆円とも言われています。どうして、こんなに赤字がふくれてしまったのか?

 自営業者である私には、さっぱり分からなかった。
 不思議でならなかった。
 なぜならば、バブル崩壊の時でも、こういう事はなかったからです。
 さらに言うと新進党政権の時も、社会党政権の時もおきてない。

民主党政権の時だけに起きた珍現象だったからです。

 そこで御客様から情報をいただき、自分なりにも調べてみたわけですが、こうなった原因は、「政治主導」のもとに各省庁の事務次官会議を廃止してしまったことにあるようです。事務次官会議が廃止されたことで、予算編成時に省庁間の調整が行えなくなり、そのために各省庁は、かたっぱしから予算に詰め込み史上最大の予算になってしまった。

 それを「事業仕分け」という民主党のパフォーマンスで、カットする予定でしたが、カットどころか大幅に予算増額を認めてしまった。なぜならば民主党の支持基盤は、公務員だったから。つまり民主党政権は緊縮財政に失敗してしまった。(具体的に言うと、たったの6900億円の削減/おそらく各省庁の事務次官会議にお委せした方が、10倍の6兆円くらい削れた可能性が高かった。しかし、もう遅い。過ぎたことを、とやかく言っても仕方ない)

 つまり民主党政権は、手続きを間違えて逆に無駄を増やしてしまった。

 そのうえ麻生政権の景気対策をとめてしまったために、経済が悪化、大幅な税収不足に陥り、赤字国債を増大させるという最悪な結果になったわけです。

 こうなると正直言いまして、
 子供手当などというのんきなことを言ってられなくなった。

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 だいたい民主党の言う
「子供手当」
とは、子供のための手当ではありません。

 誤魔化してはダメです。
 親手当です。


 そこのところをハッキリさせといた方が良いでしょう。

 子供を育てる親に(赤字国債で)手当を出して、そのツケを将来、子供たちに支払わせる手当が、子供手当といわれているものです。子供が大人になったときに、親たちの子育て代金を、赤字国債という形で子供たちに税金として払わせる制度です。

 本当に子供が可愛ければ、そういう手当は、断固拒否すべきです。
 それでも欲しいと思っている人間は、
 本当は子供たちのことを思ってないエゴイストですよ。

 本当の意味の子供手当とは、子供たちの将来のために投資することです。子供たちの遊び場を造ってやったり、子供たちの図書館を造ってやったり、奨学金制度を充実させたりする。それが本当の意味の子供手当というものではないですか?

 そして、できれば、ユースホステルの会員証を子供たちに無料で配ったり、子供たちの一人旅を支援する基金を用意してもらいたい。それであってこそ、子供手当というものでしょう。

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 少子化対策なら、保育所の充実や、公立ベビーシッター制度や、育児ヘルパー補助制度を造ればいいことです。義務教育の単位としてベビーシッターを年何回、育児ヘルパーを年何回と義務づけてもよいではないですか。その単位が無ければ、進学できない、または進級できないことにする。そうすれば、人的確保からも、中高生たちの情操教育にも役立つと思います。

 だいたい、私が小学校の時は、5年生は、2年生の給食当番と掃除当番をやったし、6年生は、1年生の給食当番と掃除当番をやったものです。中学生が、幼稚園で幼児の面倒をみることがあっても、何の問題もないはずです。高校生が乳児の面倒見ても良いではないですか。こっちのほうが、「子供手当」という名の実質・親手当より、よほどましです。だから民主党政権には

 金なんかで誤魔化すな!

と言いたい。

 子供手当という言葉で誤魔化すなと言いたい。

 それは親手当であって、
 子供のためではない。
 借金を、子供たちに回すだけなんだから!


 もう一度言います。

 子供たちに親の借金を押しつけてまで、
 親たちは楽をしたいのか?


 そのへんを、よーく考えていただきたい。
 本当に子供が可愛かったら、
 いったい何をすべきなのかと!
 政治家の方は、この本を、お読みいただきたい。

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つづく。

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posted by マネージャー at 00:02| Comment(6) | ニュース・時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日本ユースホステル史の源流3+α

日本ユースホステル史の源流3+α

おあきさん

≫1986年に「戊辰の役戦没佐賀藩士慰霊秋田実行委員会」を作り
≫供養したのですが
≫その際、管理人様もお書きになられた通り
≫どうしても佐賀県の資料が見つからず
≫ご遺族の方が分からずご遺族探しに非常に
≫苦労されたことが新聞に載っていたことを思いだしました。

 ああ、これは非常に面白い現象ですね。

 というのも私も、今回の佐賀調査で、そういう経験を何度もしているからです。

 具体的に、一つ例をあげてみましょう。実は、私の今回の佐賀行きの目的の一つに、日本赤十字を設立した佐野常民の息子、佐野常羽のことを調べに行ったのですが、これまた資料が無いのですね。佐野常民記念館に行っても資料が無い。世界遺産申請しているほどの重要地に資料が無い。いや、資料が無いどころか、かすってもない。佐野常民の息子、佐野常羽は、ボーイスカウト設立の功労者であり超有名人であるのに、一言もふれていないのです。もう、それは徹底している。仕方がないので、土地のボランティアガイドをたのんで
「どうしてなの?」
と聞いてみたら、驚くべき回答が帰ってきました。

「ここでは佐野常羽さんの話はしないとです」
「どうして?」
「佐野常羽さんは、駒子(妻)さんの実子ではなかです」
「はあ?」
「おめかけさんに生ませた子供です。だから、こういう所では、あまり話題にしません」
「・・・」

 これには驚きました。私には、現在の倫理をもって過去を判断する思考回路が無かったので、死ぬほど驚きました。あまりにも驚いたので、どうしてだろう?と、いろいろ質問をしてみたら、みなさん、佐野常民のことを、とても尊敬してらっしゃる。言い方を悪くすると崇拝している。

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 これは、佐野常民に限ったことではありませんでした。鍋島閑叟にしても、江藤新平にしても、大隈重信にしても、他の偉人たちの記念館においても、多くの郷土史家たちにおいても、尊敬・傾倒・崇拝といった、人物への惚れ込みがあり、それらは共通しておったような気がしました。

 まあ、それは、それは素晴らしいことなのですが、あまりそれが強いと、正確な歴史が残されなくなります。肝心なものが見えなくなるのですよね。日本ユースホステル協会の源流も、見えにくくなってしまう。

 日本ユースホステル協会の源流。
 それは、第11代鹿島藩藩主、鍋島直彬にはじまります。
 そして、この鍋島直彬こそが、
 薩長土肥の連合軍を造った幕末の英雄でした。

 しかし、これが歴史に出てこないのです。

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つづく

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posted by マネージャー at 20:27| Comment(3) | 日本ユースホステル運動の源流 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする