2015年02月03日

薬代

 ウインターフェスティバルも、無事、盛況のまま終わったようだ。・・・ようだと書いたのは、体調を壊して片付けのボランティアに出られなかったので、イベントの実態を皆さんら聞くことが出来なかったからだ。

 体調を崩したといっても、たいしたことではない。酷いめまいで起きれなかっただけである。念のために病院にいってみたら脳神経科−内科−耳鼻科と回されてしまい、検査ずくめにされてしまい、結局、なんでもないということになってしまった。もちろん1週間分の薬ももらったが、先生曰く
「たいして効く薬では無い」
とのこと。

「では、安静にしているべきでしょうか?」
「逆です。むしろ動いた方が良い。動くことによって血流が良くなり、身体がバランスをとるようになり、めまいも治癒することがおおい」
「へえー、そんなものですか?」

 結局、大事をとって一日寝ていたのがよくなかったらしい。で、今日は雪かきで汗を流したわけだが、するとケロリとめまいが直ってしまった。

 それはともかくとして、ここから本題にはいる。治療費のことである。いろいろ検査をしたために、保険証があっても治療費が高額だった。その逆に薬代がべらぼうに安かった。3種類の薬、一週間分が600円なのだ。そのうちの1種類は、薬屋でよくみかけるトラベルミンである。これが14錠で200円くらいなのだ。ふつうの薬局で買ったら、この値段では買えない。

 薬代が、これほど安くなったのは、院外薬局の普及のせいだろうか?

 群馬県では、一般的に院外薬局で処方してもらうのが普通で、そのために誰もが「お薬手帳」というものを持っている。これを薬局に提出すると、過去に現在に、どんな薬を使っているかが分かって、場合によっては医師の処方と別の薬をでしてくれる。医師より薬剤師の方が強いのだ。おまけに、お薬手帳には、ジェネリックの希望の有無のシールが貼られており、患者が希望すれば、医師の処方とはちがう安い薬に換えてもらえるのだ。

 もちろん健康保険によって患者の負担が減らされているというのもある。だから薬屋で薬を買うよりも、病院で処方してもらった方が、圧倒的に安いのだ。また、最近の病院では、総合診療科という科があるために、一人の医師に複数の薬を処方してもらえるために、安い医療費で、格安に他種類の薬を手に入れることもできる。湿布薬などは、自分で薬屋にいくよりも、病院で処方してもらったほうが、初診料を考えても、その方が安いのだ。
 
 しかしである。そのために自治体の負担は大きくなりすぎてはないだろうか? と思って、某公務員に聞いてみたら
「そうです」
と返ってきた。そして、こうも言ってきた。

「だからジェネリック希望にしてもらえるとありがたいです」

つづく。

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posted by マネージャー at 22:15| Comment(3) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月07日

狼と犬

 早いもので息子が、 1歳10ヶ月になった。
 1歳10ヶ月ともなると、格段に知能レベルが上がってきている。
 まず、大人の言葉を理解するようになってきた。
 話す事はできないのだが、聞き取ることができるようになってきたのだ。

 例えば、おやつがなくなって、もうお終いですと言うと、とたんに泣き出す。おしまいという言葉と、おやつがなくなるという事実が、イコールであるということが理解できてきたのだ。大人の言っていることがかなり分かってきている。
 それだけでは無い、自己主張も始めるようになった。具体的に言うと、おもちゃ王国のパンフレットを親の前に持ってきて広げて見せるのである。ここに行きたいというアピールを日常的に始めるようになってきたのだ。
 私が指をさすと、指のほうに顔を向けるようにもなってきた。スーパーやホームセンターに連れて行っても、ベビーカーという檻は必要なくなってきた。きちんと注意さえすれば、勝手にうろうろすることもなく、親の後をついてくるようになった。多少駄々をこねることもある事はあるのだが、最終的には親の言うことを聞いてくれるようになってきた。またレストランに連れて行ってもおとなしく静かに座り、人様にご迷惑をかけないで食事をすることができるようになってきた。

 この結果を踏まえて、改めて感心してしまう。
 赤ちゃんは、親が考えている以上に知能が高い。
 信じられないくらい高い。
 それは知識としては知っていたが、実際自分の目で、体験をしてしまうと、改めて驚かされてしまう。

 しかしである、私の息子は、これでも成長が遅い方なのである。生まれた時期が10日しか違わない、1歳10ヶ月の女の子が知り合いにいるのだが、その娘はもっとすごい。ドックランで、であった数十匹の犬の名前すべてと、飼い主の名前を全部覚えて喋れるのである。例えば、犬と飼い主全てを足して50の名前があったとする。それら全てを識別して名前を覚え話すことができるのだから本当に驚かされる。一般的に女の子は成長が早いと言われているが、その成長の早さには、ただただ驚くばかりである。スタッフの土井くんの娘さんも、かなり成長が早い。明らかにうちの息子よりも立ち上がるのが早かった。

 前置きはこのくらいにして本題に入る。
 子供の成長についてである。
 子供の成長には、犬型と狼型がある。

 犬とオオカミ。この両者を比較してみると、狼の方が圧倒的にIQが高い。脳みその重さを量ってみても狼の方が圧倒的に重い。もちろん体重に対する脳の重さの比率を比べての話である。
 したがって、狼は犬よりもよほど早く成長する。約1年で大人になってしまうのだ。逆に言うと1年で大人になれない狼は、自然界では生存が難しい。早く生きる術を覚えないと生きていけないのである。

 これに対して、犬は成長が遅い。狼に比べてみると脳みそも小さい。 IQも低い。犬種にもよるが大人になるまで3年ぐらいかかってしまう。つまり3歳位までは全く警戒心がないのだ。子供のままなのである。だからもし犬が自然界に放り出されてしまったら、生き残るのは非常に難しいだろう。自然界の中では狼の方が圧倒的に有利なのだ。

 しかし、犬にも長所がある。学習期間が長いために、結果としてオオカミを超える能力がそなわる。3年間の長期間、子供であるためにオオカミよりも成長するのだ。これは、ニホンザルとチンパンジーの関係にもいえる。ニホンザルはチンパンジーよりも成長が早い。しかし、最終的にはチンパンジーの方が学習する量は多くなる。ただ、野生界では、はやく大人になった方が生存率は高くなる。野生の中ではオオカミは、犬に対して圧倒的に生存率は高い。
 
 ここで乱暴な議論をあえてしてみるとするならば、女性は狼タイプなのかもしれない。早く成長する。年齢が同じなら女性の方が圧倒的にIQが高い。男性はどちらかというと犬タイプなのかもしれない。比較的ゆっくりと成長する。そしていつまでも子供っぽさを残してしまう。しかし、これは大雑把な議論かもしれない。女性の中にも、狼タイプもいれば犬タイプもいるからだ。もちろん男性の中にも、狼タイプもいれば犬タイプもいる。

 さて、うちの息子は、どっちのタイプなのだろうかと、この1年10ヶ月の間に、興味深く観察していたのだが、正直なところ、どちらのタイプか全くわからない。親の心情としては、犬タイプになってほしいと思っているのだが、ゆっくり育ってほしいと思ってはいるのだが、どうもそんな風には見えない。切り替えが早過ぎるからだ。かといっても、狼タイプかというとそういう風にも見えない。特別成長が早いというわけでもない。むしろマイペースでゆっくりしているぐらいだ。とゆうか、わざとゆっくりさせている。

 まだトイレトレーニングもしてないし、学習用の教材も、絵本も読ませてない。箸やスプーンの使い方も自己流に任せている。なので、他のお母さんたちや、検診の先生たちに呆れられてしまっている。おそらく我が家は、教育ママの世界から最も遠いところにいるのかもしれない。わが家で注意しているのは、お行儀だけだ。行儀が悪い場合は遠慮なく叱っている。しかしそれだけである。

 それにしても、他のお母さんたちは、本当に教育熱心だ。ほとんどのお母さん達は1歳位の時から絵本を読んであげているらしい。うちの息子の場合は、絵本を読んであげようにも、おとなしく聞いてくれるようなタイプではなかった。すぐに絵本を口の中に入れてよだれだらけにしてしまったり、ビリビリにやぶいたりした。とてもではないが落ち着いて本を読んではくれなかった。本当ならば、根気強く絵本を読んであげるべきだったのだろうが、めんどくさいのでそんな事はしなかった。

 だから絵本なんかとはまったく縁がなく育ったはずなのだが、不思議なことに、いまは勝手に本を読むようになった。本当に不思議である。本だけでは無い。おもちゃ王国のパンフレットを毎日のように眺めている。私が読んでいる歴史の本なんかも読んでいる。もちろん文字なんか理解できてない。時々逆さに読んでいることもある。だけど、親の真似をして本を読んでいるのだ。

つづく。

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posted by マネージャー at 01:14| Comment(3) | TrackBack(0) | グンマーで嫁が出産と育児 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月09日

村上山スノーシューハイキング

村上山スノーシューハイキング

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今回は、小学生が冬山に参加。
と、書いてはあるが、なにげに凄いことなのである。
一昔前の冬山は、登山のエリートだけが上っていたからだ。
だから自慢してもいいくらいのことなのだ。

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しかも、この日は、あいにくの雪だというのに
こうして登れている。
これもスノーシューというアイテムの登場のおかげである。

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つづく。

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posted by マネージャー at 23:16| Comment(3) | TrackBack(0) | 鹿沢−村上山 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月10日

2014年を振り返って

 冬は、お金にならないことで最も忙しい時期である。確定申告があるからだ。この1カ月間、帳簿やデーターベースの整理で本当に忙しい。おまけに雪かきである。今年はが多いために何度も雪かきをする羽目になってしまった。

 それはともかく今年はお客様が多かった。そのために売り上げも例年よりは多かったのだが、去年の大雪の災害で物置小屋が2つつぶれてしまったこともあって修繕費も多かった。また、お客さんが多かったのに気をよくして、分不相応な設備投資をしてしまった。そのために赤字になってしまいそうな気配がある。

 まぁそんな事はどうでもいいのだが、今年1年のデータを調べてみたら、売り上げの大半が新規のお客様であったことに驚いている。

 うちの宿は、北軽井沢という場所柄もあって、連泊するお客さんも多く、その上に年に何度も来られるリピーターさんも多い。なので、ユースホステルの会員率が異常に高い宿である。非会員の御客様がほとんどないと言う非常に珍しいユースホステルであった。ところがである。今年は新規のお客様が大量にお泊まりになるようになったので、ユースホステルの会員の比率が激減した。今まで9割近くが会員であったのに、それが6割ぐらいまでに減ってしまった。

 もちろんそれでも、他のユースホステルに比べれば圧倒的に会員のお客様が多いのであるが、そのお客様は何連泊もするリピーターさんであったりするので、延べ人数は多くても、実数は少ないのである。延べ人数で6割であっても、実数では3割から4割ぐらいでは無いだろうか?

 とはいうものの、新規のお客様が増えるということは、宿主としては大変うれしいことである。自分としては、何か特別なことをした訳では無いのだが、どういうわけか新しいお客様が増えてしまった。その上、この新規のお客様もすでにリピーターになりつつある。何度も何度も泊まりに来てくれているのだ。いったいどういうことなのだろう? と不思議に思っていたら、ある新規のお客様が、あることで非常に喜んで帰っていってくれたので原因が分かってしまった。

 そのお客さんは、小さなお子さんを連れていたのだが、そのお子さんが、リピーターのお客さんのお子さんと仲良くなって、宿の庭先で雪遊びをしたり、一緒にゲームをしたりしていたのだ。またお母さんやお子さんが、お茶会にも出てきて、リピーターさんの差し入れを食べて楽しんでくれていたららしい。何の事は無い。新規のお客さんが増えた原因は、リピーターさんたちの心遣いだったりしたわけだ。

 そういえば思い当たることがあった。じゃらん・楽天などの口コミサイトで五つ星などの高い評価をくれるお客様のほとんどは、お茶会に出てきて、リピーターさんたちと楽しい会話をしているお客様ばかりなのである。また、星空温泉ツアーに参加して、私の星空案内を楽しんでくれた人たちに高い評価をしてもらっている。

 逆に、部屋に閉じこもって出てこないお客様からは高い評価は得られてないのだ。また、食事を摂ってないお客様にも、あまり高い評価を得られてない。というか、リピートしてくれない。お茶会や、ツアーに参加しなくとも、食事をとってくれたお客様は、またリピートしてくれる。しかし素泊まりのお客様は、あまりリピートしてくれないのだ。

 この結果を考えてみると、うちの宿の最大の弱点は、お茶会や星空案内や温泉ツアーなどに参加してないお客様に、そして食事をとってくれないお客様に、いかに満足してもらえるかという点である。ここをなんとか改善していかなければならないと思った。

 食事にも、お茶会にも、ツアーにも興味がなく、
 ただ泊まるだけを目的としたお客様に
 満足していただけるためには、何が必要なのだろうか?

 実はそういうお客様も多いのである。ただ睡眠するために来るだけのお客様も確かにいるからだ。部屋に閉じこもって勉強しているお客様もいる。読書するために泊まりに来るお客様もいる。これはすごいなぁと思ったのは、森の中でヨガをしに来たお客様もいた。そういうお客様は、特別な食事しか食べないし、水さえ自分で持ってくる。そして、なるべく他の人を避けるように部屋に閉じこもっている。

 北軽井沢という土地柄は、そういうお客様を寄せつける何かがあるのである。うちはそういうお客様に喜んでもらえる何かが足りないのかもしれない。今年は、そういうお客様に対してもっと真面目に取り組んでみようかなと思っている。

つづく。

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posted by マネージャー at 21:45| Comment(5) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月11日

フライパンとラップ

 最近、フライパンがダメになりつつあるので、新しいものに変えてみた。その時に驚いたのは、ものすごい種類のフライパンがあったことである。昔はフライパンといえば、鉄のものかテフロンしかなかった。ところが、最近は、セラミックコートや、マーブルコートや、ダイヤモンドコートといった数多くのフライパンが存在する。それぞれどのフライパンが、うちの料理に合うのかさっぱりわからなかったので、それぞれ1種類ずつ買ってみた。

 驚いたのなんのって、最近のフライパンは、ものすごく性能が良い。具体的に言うと、ほとんど油なしで目玉焼きが作れてしまうのだ。こびりついたりしないし、焦げることもない。豆腐も油なしで簡単に焼き豆腐になってしまう。今後は、もう焼き豆腐を買わなくても済むだろう。

 セラミックコートに至っては、野菜炒めが格段に美味しくなる。もちろん鉄のフライパンの方がもっと美味いのだが、鉄のフライパンは油を大量に必要とするのである。最高に美味しい料理を作りたいのは山々であるが、食べる人の健康を考えてしまうと、少しの油でも美味しい野菜炒めができる方を選んでしまう。この辺は、作る人の思想哲学との兼ね合いであろう。

 ダイヤモンドコートに至っては、金属ヘラで30万回擦っても傷がつかないという優れものである。もちろん金属ヘラを使うことはないが、傷がつかないという謳い文句は非常にありがたい。重金属が体に入りにくいというだけでも安心して料理が作れる。それに今までは、何度もフライパンを買い換えていたが、この製品を使うようになれば買い換える回数もだいぶ減るだろう。そういう意味では究極のエコである。

 エコといえば思い出すことがある。宿屋を始めたばかりの頃、お金がなくて、ラップなんかを買うときは、安いものばかり買っていた。しかし、その後安いラップは使えなくなってしまった。安物は美味しい料理を作る邪魔をするのである。最近はサランラップしか買っていない。サランラップは最強である。

 一時期クレラップを使っていたこともあったが、あれは切断部分がプラスチックなのでラップを切りにくいのだ。ましてや安物ラップは、切断部分が紙であったりするし、ふにゃふにゃで、強度も熱に対しても力不足であったりする。冷凍保存する時なんかは、きっちりと差が出てくる。また、ラップを買うときは必ず100メートルのものにしている。 20メートルという短いものだと、その都度、ラップの芯や箱を捨てるわけで、エコでは無い。

 そもそも、宿屋には、在庫スペースに限界というものがある。倉庫の空間を有効利用するためにも100メートルのものにせざるを得ない。なにしろ使う量が一般化家庭と違うのである。ゴミはなるべく減らしたい。だから100メートルになってしまうのだ。

 ところが貧乏時は、そういうことに頭が回らなかった。安いラップを買おうと必死になって探して、 20メートルくらいのよれよれのラップを100円ショップで買いだめたりした。

 貧すれば鈍するである。実は、 20メートルの100円ショップの物の方がメートル当たりの単価は高かったりするのである。おまけにゴミが出るのでゴミ費用として余分な経費が加算されているのだが、貧すれば鈍するで、そういうことに気づかない。気づき出すのは、経営に余裕が出てからなのだ。

 話を戻そう。
 フライパンについてである。

 オープンしたての頃は、鉄のフライパンを使っていた時期もあった。鉄のフライパンは、実は非常に便利な調理器具でもあった。どこが便利かというと、ハンマーを使って自分の都合のいいように改造できるから便利なのである。実際、一流の調理人は、みんなマイフライパンを持っている。自分が使い良いように改造するのである。そして何年も使いこなすことによって、そのフライパンを最高の芸術作品に仕上げていくのだ。

 ところがである。うちの宿は、そういうことができないことに途中で気がついた。理由は、ヘルパーさんを採用するためである。素人のヘルパーさんに鉄のフライパンは使えない。ましてや自分が使いやすいように改造してしまったフライパンを当てがうことなどできない。

 昔は、 5人10人のヘルパーさんを使っていた事もあったので、誰にでも使えるフライパンでないといけなかったのだ。そこでテフロンのフライパンを買って使っていた。もちろん安いものもあったが、ティファールのフライパンもあった。安いフライパンは、この15年間に7回ぐらい買い換えている。さすがにティファールは、それよりは長持ちをしている。しかし何度も買い換えている。

 で、今回フライパンを買い換えることになったのだが、もうヘルパーさんを雇う事はありえなくなってしまった。理由は、とあるユースホステルのオーナーが、ヘルパーさんと労働条件で揉めて裁判沙汰になってしまったからだ。なので、鉄のフライパンに戻ってもいいのだが、そうもいかない。あの重さには、嫁さんがついていけないからである。

 で、いろんなフライパンを試している最中なのだが、どれもこれも素晴らしい。その中であえて優劣をつけるとすれば、やはりダイヤモンドコートのフライパンになるかもしれない。セラミックも素晴らしいのだが、ちょっと重いのだ。 IH兼用のものも重過ぎる。ガスコンロ専用のダイヤモンドコートのものが軽くて性能が良い気がする。もちろんマーブルコートも捨てがたいのであるが。

 そうそう、 1番大切なことを忘れていた。フライパンでもう一つ大切なことは、形である。大きさと角度の微妙な差によって、オムレツが美味しく作れるかどうかが決まってくるからだ。この辺は、いろんなメーカーの物を、いろいろ探してみてくるしかない。気に入ったフライパンが見つかると良いのだが。

つづく。

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posted by マネージャー at 23:52| Comment(5) | TrackBack(0) | 業界裏話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月13日

日本YH史外伝 1 流行歌の元祖

 結婚した頃、ヘアバンドのことをカチューシャと言っていたのに驚いたことがある。なぜヘアバンドのことをカチューシャというのであろうか?それから10数年後、カノンというアニメを見てまた驚いてしまった。ここでもヘアバンドのことカチューシャと言っているのである。疑問はさらに深まった。

 ここでまた話を変える。私は映画好きである。黒澤明の映画も当然のことながら全て見ている。用心棒や七人の侍なども大好きなのだが、スターウォーズの原型となった隠し砦の三悪人も大好きである。影武者などは公開初日に封切りで最前列で観たくらいである。しかし1番好きなのは、生きるという映画であった。胃がんで死を宣告された役所の課長が、残り少ない人生を、住民たちの苦情の元となっている場所を公園に変えるという事業に捧げるという話である。そこのラストシーンで、主人公が歌う歌はゴンドラの唄という歌であった。

  いのち短し
  恋せよ乙女
  あかき唇
  あせぬ間に

 主人公は、最初やけになって見知らぬ女の子を連れ回して、酒場で浴びるように酒を飲んでいた。その時、女の子に歌を歌えとせがまれるのだが、その主人公は、ピアニストに、ではゴンドラの唄をお願いします。と、伴奏をお願いした。ピアニストは笑いながら、大正時代の歌ですねといった。当時映画を見ていた私は、きっと古い流行歌なんだろうなぁと思っていた。いや最近まで思っていた。

 ここでまた話は変わる。
 コロコロ話が変わって申し訳ないが、もう少しお付き合い願いたい。

 私は10年ぐらい前から日本ユースホステル史を調べている。そして、色々調べるに当たって驚かされることがいっぱいあった。ユースホステルの創設に関わった関係者たちが、日本史を変えるような事件に直接的に間接的に色々関わっていることだ。その一つに元祖流行歌を作った事件がある。

 日本ユースホステル協会の創設者横山祐吉の師匠は、東儀鉄笛と言う人である。彼が所長をしていた私立新劇研究所を卒業したのが横山祐吉であった。この東儀鉄笛は、最初坪内逍遥の文芸協会で活躍していた。しかし、島村抱月と松井須磨子のスキャンダルで島村抱月が退会。そして相馬御風、水谷竹紫らと芸術座という劇団を結成した。

 芸術座は大正3年にトルストイの『復活』を上演した。この時劇中で西洋風の歌を歌わせるという日本初の試みがあった。これが当時の日本人に衝撃をもたらした。歌の名前はカチューシャの唄。カチューシャとは、松井須磨子が演じた劇中の女主人公の名前である。そのカチューシャが付けていたと言う宣伝文句で売り出されていたので、そのヘアバンドの固有名詞となったと言われている。

 これで私が長年疑問に思っていたカチューシャと言うヘアバンドの固有名詞の謎がわかった。

 ところでカチューシャの唄を作詞したのは、島村抱月と相馬御風であった。島村抱月はともかく相馬御風と聞いて驚いた。彼はあの有名な童謡「春よ来い」の作詞者である(新潟県出身者ならば知らぬ者はいない)。

  春よ来い 早く来い
  あるきはじめた みいちゃんが
  赤い鼻緒の じょじょはいて
  おんもへ出たいと 待っている

 で、もっと驚いたのは作曲者の中山晋平であった。中山晋平は、のちに横山祐吉が編集主任となる「少女号(大正8年)」と言う少女雑誌に掲載されている「背くらべ」の作曲者である。大正8年といえば、童謡運動が始まったばかりで、日本中の少年少女雑誌に次々と童謡が発表されていた時代でもあった。少女号での童謡発表も大正8年の後半からである。

 柱の傷は一昨年の
 五月五日の背くらべ
 ちまきたべたべ兄さんが
 計ってくれた背のたけ

 しかし1番驚いたのは、この中山晋平も横山祐吉も東儀鉄笛を師匠に持っていることである。もちろん両方とも東京上野音楽学校(現在の芸術大学)の生徒であった。東儀鉄笛はそこの講師でもあったが、両者ともに学校で東儀鉄笛から教わったという記録は無い。しかし中山晋平は東儀鉄笛の自宅で住み込みの弟子をやっていたし、横山祐吉に至っては、演劇研究所で東儀鉄笛から演技をじっくり教わっている。もちろん横山祐吉の奥さんとなる人も東儀鉄笛の弟子である。

 まぁそんな事はどうでもいい。

 日本の流行歌のはじまりは、どうもこのカチューシャの唄らしいのだ。当時はテレビもラジオもなかったので、全国的なメディアは新聞雑誌書籍に限られている。劇場もメディアとも言えなくはなかったのだが、全国を講演して回らなければ、地域限定的なメディアとなってしまう。つまりかなりローカルなメディアなのである。

 とはいうものの、日本初の劇中歌という試みは新聞雑誌に取り上げられたし、全国の人々がそこに注目した事は間違いない。人々は競って芸術座に入場し、劇中歌のカチューシャの唄を聞いた。それを見ていた中山晋平は、カチューシャの唄の歌詞を劇場の中に張り出したのである。人々は競ってそれをメモし、そして歌い出した。講演後に観客たちはカチューシャの唄の合唱を始めたのである。そしてその歌は口から口へと伝わっていった。

 この時代、もう一つのニューメディアが登場する。レコードである。カチューシャの唄はレコードで発売された。そして何万という数が発売された。これは当時の蓄音機の普及台数よりも多い数である。今で言えばメディアミックスの始まりかもしれない。

 そして翌年の大正4年。芸術座は、ツルゲーネフの『その前夜』を講演した。そこでも劇中歌が歌われた。もちろん原作にはそのような歌は存在しない。その劇中歌が何を隠そう黒澤明の生きるのラストシーンで歌われた『ゴンドラの唄』である。

  いのち短し
  恋せよ乙女
  あかき唇
  あせぬ間に

 このゴンドラの唄は、日本の流行歌第二号であろう。どうりで映画生きるのシーンで、伴奏するピアニストが笑いながら大正時代の歌ですねといったわけだ。要するに昭和26年と言う時代において非常に古い歌と認識されていたということだが、それもそのはず、元祖流行歌の第2号なのだから古いといえば本当に古い歌なのだ。映画「生きる」の主人公は、若かりし頃に芸術座のツルゲーネフの『その前夜』に熱中したという設定だったのだ。ここでもう一つの謎もわかってすっきりした。主人公は、典型的な大正デモクラシーな男だったのである。

 ちなみに長く大ヒットした流行歌としては、カチューシャの唄よりもゴンドラの唄であろう。ツルゲーネフの『その前夜』の舞台は水の都ベネチアであったが、実はベネチアなどよりももっと壮大な水の都が過去の日本にはあったのである。それは江戸である。ベネチアと同じように、かつての江戸や明治時代の東京には、水運が巡らされており、船があちこち行き交っていたのだ。それはベネチアのゴンドラのようでもあった。その辺の情景は滝廉太郎の「花」にも描写されている。

 大正4年に劇中歌ゴンドラの歌を聴いた観客たちは、当然のことながら水の都であった過去の東京を知っていたに違いない。ツルゲーネフの『その前夜』の公演を見ながら、彼らは若かりし頃の船あそびや、秘めた恋心を思い出していたのかもしれない。黒澤明が、映画生きるで、主人公にゴンドラの唄を歌わせた理由も、その辺あたりにあるのかもしれない。なにしろ生きるの主人公は、ドブになった悪臭漂う河川を埋め立てて公園を作る話なのである。

 話が長くなったので、今日はここまで。

つづく。

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posted by マネージャー at 09:21| Comment(5) | TrackBack(0) | 日本ユースホステル運動史の周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月18日

動物博士だった子供時代

 今日は2月18日である。実はこの時期、自営業者にとって1年で1番忙しい時期である。もちろんお客さんはいない。お客さんがいないのになぜ忙しいかといえば、 2月15日から3月15日の間に税務署に行って確定申告を行わなければならないからだ。だから北軽井沢の宿屋の大半は、領収書の整理やレシートの整理に明け暮れ、パソコンとにらめっこする。そしてプリンターで大量の帳簿を印刷しなければいけない。そして、ここが肝心なのであるが、今年1年の経営戦略を考え直す時期でもある。

 実は、自営業者はある程度経理を選択する自由がある。例えば除雪機を買ったとしよう。それを1年で償却することもできれば、 10年で償却することもできる。要するにどちらを選択するかは自営業者の判断に任されるのである。本来ならば10年で償却するのであるが、 1年で償却すると言う特例があるからなのだ。そこでどちらを選択するかは、その年の売り上げ等を見据えて、どちらが得かを考えつつ、決められるのである。つまり自営業者にとっては、税務署に申告するために経理をやりながら、改めて経営戦略を再認識するのである。儲けすぎたなーと思えば、 1年で償却するし、赤字だなと思えば10年で償却するという選択を選ぶ。

 そんなわけで、経理に忙しい上に、今年は雪が多い。毎日のように雪かきをしなければならない。当然のことながら、そーゆー力仕事は男の仕事である。当然のことながら私が行うのである。雪かきといっても、 800坪もしなければいけない。半端な量では無い。毎日汗水を垂らしながら、少しずつ雪かきをする。すると窓から私のそんな姿を見ている息子がいる。息子は、あと10日もすれば1歳11ヶ月になる。

 長い前置きとなってしまったが、 1歳11ヶ月ともなると、それまでと全く違うパターンを息子は見せてくれる。私が雪かきから戻ってくると、玄関まで出迎えてくれて、私の手をぎゅっと握って、私をコタツのところまで連れていってくれる。こんな事はそれ以前には絶対にありえなかった。

 母親が寝転がってテレビを見ていると、頭をなぜなぜして、かわいいと言うようにもなった。こんなことも以前は絶対になかった。また、愛犬コロも、なぜなぜして、カワイイと言うようになった。本当にかわいいの意味がわかっているのかどうかはわからない。単に親の真似をしてるだけの可能性も高いのだが、それ以前はそのような行動をしたことがなかったので、明らかに今までと違っている。

 今では、愛犬コロの散歩に一緒についてくる。ついてくるだけでなく、愛犬コロの紐(リード)まで自分で持つようになった。もちろん、愛犬コロも息子に対して気遣いをしながら歩いているので、相手の協力があってできる技ではある。

 ここまで成長してくると、非常に感慨深い。どの親御さんも、自分の子供には癒される事だろうが、その癒され方には二通りの癒され方があることに気がついた。まず、その可愛さに癒されるという癒され方。それは、うちの息子に限って言えば1歳9ヶ月までの姿であった。

 ところが、1歳10ヶ月を過ぎると、別の部分に癒されるようになった。雪かきから戻ってきたときに、大喜びで玄関まで走って迎えに来て、私の手をぎゅっと握ってコタツまで連れていく姿に癒されるようになるのである。それは可愛さに癒されるのではなく、小さな子供の心遣いに癒されるのである。

 姿形ではなく、行為に癒されるのである。

 それはひょっとしたら、ただ単に遊んでもらいたいという煩悩を表しただけなのかもしれない。その辺は注意が必要なのだが、それだけでないような気がする。少しずつであるが、赤ちゃんなりに相手を思いやることも、理解しつつあるのかもしれない。しかしそれは、少しずつ赤ちゃんを卒業して行くことでもあるので、それはそれでちょっと寂しい気もする。

 面白いのは、うちの嫁さんも少しずつ成長しているところである。赤ちゃんが生まれた頃は、うちの嫁さんはマニュアルの塊であった。定時になると、ぐっすり寝ていても馬鹿のひとつ覚えのように、たたき起こしてミルクを飲ませていた。私が何度、寝かせておけといっても、絶対に言う事は聞かなかった。必ずマニュアルを守るのである。

 しかし、妹や弟の多い家族で育った人ならわかると思うが、昔から赤ちゃんが寝ていたら絶対に起こさないのである。寝たいだけ寝かせるというのが、常識であることは誰もが知っていることなのだ。赤ちゃんは寝ることによって、育つということが嫁さんには理解できていなかった。何故理解できていないかというと、子育ての本に書いてないからである。要するにマニュアルに書いてない事は、妹弟のいなかった嫁さんにとっては存在しないことなのだ。

 だから私が何度言い聞かせても、規則正しい生活を覚えさせるという変な理屈を持って起こしていた。おかげで息子の成長は止まってしまった。眠らなければ成長ホルモンが出ないので当たり前と言えば当たり前である。
 おまけに、子育て母に書いてある食事の量を正確に計って、栄養なんかを秤に計って、無理矢理食べさしていた。当然のことながら、同じようなメニューが続き、息子は泣きわめくようになる。で、私が横から大人の食事を食べさせておとなしくさせるのだが、その都度不満そうな顔をしていた。嫁さんが、いちにち留守にするときなどは、わざと食事を減らしたりした。もちろん息子の調子は良くなる。翌日から食欲も戻ってくる。嫌がっていたメニューも食べるようになる。
 最初の頃は、こんなことの繰り返しをしていたのだが、そんな嫁さんも最近はようやく柔軟になってきた。子育ての肩の力が抜けたのだろう。もしくは読んでいたマニュアルのことを全部忘れてしまったかのどちらかだろう。

 こう考えてみると、子育てというものは、
 いかに肩の力を抜くことが重要であるかが分かる。
 気負いすぎると、かえって失敗するのだ。

 そういう意味で、うちは子供が産まれる前に、子犬を飼ってみて大正解であった。ある意味、子犬は赤ちゃんよりも客観的に観察しなければいけない部分があるので、冷静に判断できるようになる。子犬の子育てだって、気負いすぎると失敗するからだ。これは私が、過去に子犬を2回ほど育てたことがあったからこそわかっていたことである。そして、弟が2人たからわかっていたことでもある。

 そういう意味では、生まれた時の環境というものは、非常に重要であるのかもしれない。ちなみに私は、子供の頃、犬の他に、うさぎ、鳩、猫、インコ、鶏、金魚などの魚類などを飼っていたことがあった。そのために、いろんな動物を通して比較してみて犬の子育てが、人間の子育てに非常に近いことが、体験として知っていた。この辺も大きかったのかもしれない。

 ちなみに、私は小学校6年生頃に、動物博士になっていた。図書館にある動物図鑑の写真の名前を全て暗記できるようになっていた。たぶん1,000種類の動物の名前を知っていたと思う。友人と動物の名前当て勝負を何度もしていた。

 そうなのだ、友人の中にも動物博士はいたののだ。
 似たような子供たちが、他にもいっぱいたのである。
 それは時代や環境によるものかどうかは知らない。

 だからディズニー映画の動物のドキュメンタリーなどを見ると、テロップに動物の名前が出る前に、その動物の名前を言い当てるのが得意であった。そのために動物のドキュメンタリー映画を見るのが大好きだった。その当時、 1番好きな映画は野生のエルザであった。原作の本も小学生の頃に何冊も読んでいる。だからライオンのオスが子供ライオンを殺す残酷さも知っていて、学校の先生の「仲間を殺し合うのは人間だけ」という説教に反論したりする生意気な小学生であった。いまでいうオタクのはしりでもあったろう。それは学校の勉強とは全く関係のない無駄な知識ではあったが、今思えば、あれが良かったと思っている。


つづく。

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posted by マネージャー at 08:16| Comment(0) | TrackBack(0) | グンマーで嫁が出産と育児 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月20日

なぜ愛犬コロは吠えるようになったのか?

 最近やけに愛犬コロが早朝や深夜に泣きわめくので、なぜだろうと思って2階の窓からから様子を見ていたら、タヌキがいた。本来タヌキは非常に臆病な動物である。犬のいる民家に絶対に近づかない。ありえない光景なのである。なぜタヌキがいるんだろうと、不思議に思いつつ何日か様子をうかがっていたが、先日ようやく原因がわかった。野生のタヌキは、愛犬コロのウンチを食べにきているのである。栄養たっぷりのドックフードのウンチは、野生のタヌキにとって魅力的な食糧らしい。もちろん気づかれないように近付いてはいるんだろうが、そうはいかない。

 で、タヌキの足跡を追いかけてみた。今は雪が積もっているので足跡はしっかり残っている。で、どんどん追いかけてみたら、面白いことがわかった。あちこちの民家の縁の下とか裏口をうろうろしているのである。そのくせ無人の別荘などには寄り付きもしない。人が住んでいる良いだけに向かうのだ。タヌキも必死に生活をしているのだろうと思うとちょっと同情したくなった。

つづく。

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posted by マネージャー at 05:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 愛犬日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月21日

26名の大部隊で、大雪の村上山にチャレンジ!

26名の大部隊で、大雪の村上山にチャレンジ!

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この大人数だとガイドは2人。
いつもの土井君と、近所で鍼灸・整体・指圧の先生をしている上原氏。
彼は、一級障害者ながら300名山に登る猛者です。

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つづく。

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posted by マネージャー at 19:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 鹿沢−村上山 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月23日

日本YH史外伝 2 謎の俳優

 先日、山岳会の団体様がスノーシューをしにブルーベリーに泊まった。ガイドに土井君と古くからの友人である上原一浩先生に来てもらった。先生といっても、過去の先生では無い。鍼灸の先生であり、指圧整体の先生でもある。昔は高校の教師をしていたこともあったのだが、重度の障害者であるために退職され、鍼灸・指圧・整体の学校に通って、今はブルーベリーの近所で自営業をしている。この二人と私と私の嫁さんとで、ちょっとした宗教談義になった。はじまりは土井くんのご両親の話からである。土井くんのご両親は、お墓を作らずに何年か経ったら合同の墓に入ることにしたらしい。

 ひょっとして浄土真宗じゃない?

 と聞いたらビンゴだった。

 こういうシステムは、浄土真宗に多い事は聞いている。谷川岳ラズベリーユースホステルのマネージャーである曽原君のところも浄土真宗だった。なので彼のご尊父もそういう形だったと記憶している。そういう形で浄土真宗の方たちの中には、お墓を持たない人も多い。

 次に私は、群馬県の横川に住んでいる上原一浩氏に宗派を聞いてみた。曹洞宗と彼は答えた。

 ああ・・・・なるほど。

 実は群馬県に曹洞宗は多い。うちの嫁さんの宗派も曹洞宗である。嬬恋村も曹洞宗の寺しかない。他の宗派は無い。皆無なのだ。もし、私が嬬恋村に墓を建てるとしたら、曹洞宗の檀家になるしかないのだ。嬬恋村の人にとっては、何の不思議もないことなのかもしれないが、これがどのくらい異常であるかと言うと、私の生まれた佐渡島は、嬬恋村の二倍程度の面積しかないにもかかわらず、数百のお寺がある。宗派はすべて揃っている。しかし、面積的には佐渡島の半分ほどもある嬬恋村には、お寺は一つしかない。それも曹洞宗だけである。あまりにも違いすぎることに私は驚いているのだが、嬬恋村から出たことのない人にとっては、この異常さが理解できないのかもしれない。

 ところで曹洞宗という宗派は、非常に不思議な宗派である。まず住職が面白い。話が非常にうまい。説得力もある。曹洞宗の教義そのものからして、これが宗教なのだろうかと思うこともある。例えば臨済宗は、仏になるために一心不乱に座禅を行うのであるが、曹洞宗になるとそれがひっくり返ってしまう。座禅そのものが仏の姿であると。座禅でなくてもいい、農業にしても学問にしても一心不乱に何かを行うことそのものが、仏そのものであると言い切る宗派でもある。誤解を恐れずに言えば道を究めることが、禅であり仏であると言っているのだ。当然のことながら、日本最大の宗派は曹洞宗だったりする。そして日本最大のボランティア団体も曹洞宗の系統だったりする。

 まぁそんな事はどうでもいい。
 今日はうちの嫁さんの話である。
 うちの嫁さんが、良寛て何をやった人なの?と聞いてきた。

 返答に困ってしまった。私は新潟県民だが、新潟県民で良寛を知らないものはない。岩手県民が宮沢賢治を知っている以上に、新潟県民は良寛を知っている。例えば、花巻に行ったとしても、そこには宮沢賢治牛乳なるものはない。しかし、長岡や柏崎あたりではみんな良寛牛乳を飲んでいる。いろんなところに良寛の名前がついている。

 しかしである、それだけ親しみのある名前であったとしても、良寛が何をやった人なのか、ほかの県の人に伝えられる新潟県民が入るとはとても思えない。インターネットで検索してみるといい。具体的に何をやった人なのか、わかりやすく書かれているサイトなどないと思う。

 そうなのだ。良寛も曹洞宗のお坊さんなのである。そもそも曹洞宗の教義からして、それ(結果を残すこと)が目的では無い。結果が目的ではなくて結果に向かって行動している行為が、すがたが、仏であるというのが曹洞宗なのだ。つまり何かをやったことが素晴らしいのではなく、そのための行為が仏そのものであるというのが曹洞宗の考え方なのだ。だから嫁さんには、今ひとつ良寛がどういう人だったのかわからなかったのだろう。実は私もよくわかってない。あるのは子供の頃から聞かされていた子供好きな良寛の人徳のイメージだけである。

 ところで、なんでそんなことを聞いてくるのか嫁さんに聞いてみた。嫁さんは子供の頃に新潟の出雲崎に行ったことがあった。出雲崎は良寛の出身地だった。そこの林間学校で出雲崎小学校の歌を歌わされたらしいのだが、校歌の中に良寛の文字があったらしい。そして、なんとなく偉い人なんだろうなぁとは思ったらしいのだが、 四十歳を過ぎても、どこか偉いのかインターネットで調べても分からなかったらしい。無理もない話である。私も先ほどWikipediaで調べてみたが、さっぱり要領を得ないことばかり書いてある。これなら私が昔読んだ、子供のための絵本の方が、よほど要領得ている。

 それはともかく、出雲崎と聞いて佐渡島出身の私には、どうしても思い出すことがある。佐渡島を歌った二つの唄である。 一つは松尾芭蕉。

 荒海や 佐渡に横たふ 天の川

もう一つは、北原白秋の砂山である。

 海は荒海
 向こうは佐渡よ
 すずめなけなけ
 もう日は暮れた

 松尾芭蕉はともかくとして北原白秋の砂山は、かなり有名な童謡である。作曲は、カチューシャの唄やゴンドラの唄などの元祖流行歌を作ったあの中山晋平である。だから中山晋平という名前は、新潟県では知らぬ人はいない。新潟県民にとっては、ゴンドラの唄の作曲者というより、砂山の作曲者なのだ。

 この中山晋平は、他にもたくさんの童謡を作曲している。

『シャボン玉』
『てるてる坊主』
『あめふり』
『証城寺の狸囃子』
『肩たたき』
『雨降りお月』
『兎のダンス』

すべて今でも歌われている名曲ばかりである。特にシャボン玉は素晴らしいメロディーである。童謡という枠を超えて日本で生まれた代表的なメロディーの一つと言っても良い。しかし、最も中山晋平らしい作曲はそこでは無い。証城寺の狸囃子の方だろう。どこが中山晋平らしいかというと、作詞を改ざんして作曲して作ったのが証城寺の狸囃子だからである。最初に、野口雨情が作詞したときは、

 証城寺の庭は
 月夜だ月夜だ
 友だち来い
 おいらの友達ァ
 どんどこどん

という歌詞であった。これを

 しょ、しょ、証城寺
 証城寺の庭は
 つ、つ、月夜だ
 みんな出て来い来い来い
 おいらの友達ァ
 ぽんぽこ ぽんの ぽん

に変更した。このほうがメロディーが生きるからである。中山晋平は、そういうことをよくやった。日本の流行歌第一号であるカチューシャの唄からして、歌詞を変更して作曲している。もちろん作詞家の許可は取っている。彼は作詞を変えることによって素晴らしい作曲をすることを得意としていた。要するに彼は文人としての能力もあり、ある意味で天才的な作詞家でもあったのだ。

 ところが、彼は上野音楽学校では何度も落第しかかっていた。理由は、ピアノ科のくせにピアノはへたくそだったからである。しかし、田舎者の彼は、素朴すぎる故に素行が良いとされ彼を応援する教授たちも多く、なんとか無事に卒業している。

 この逆が、横山祐吉である。彼は中学校四年で、難関の上野音楽学校を一発で合格している。中山晋平は、本人はひた隠しに隠しているが、 一年浪人している。つまり、入学時の音楽の才能としては、横山祐吉の方がはるか上だったとも言えるが、横山祐吉のほうは素行が悪いとされ、音楽学校を中退せざるを得なかった。

 これは当時としては決して珍しいことでは無い。そういう人はやたらと多かったのだ。横山祐吉の一年先輩である歌姫・佐藤千夜子もそのパターンで退学しているが、男と一緒に天丼を食べたとか、そんなレベルで退学になっているわけだから、素行が悪いといっても今の基準で言えば、何一つ悪いことをしているわけでは無い。

 ただ貧乏な芋学生でバンカラで素朴であった中山晋平は、そういうことのできない人間であった。これが彼にとって幸いした。ただし、彼は、ピアノ科のくせにピアノが下手だった。成績は一番下を這いずり回っていた。

 この二人の共通点が一年以上にわたって東儀鉄笛の弟子であったということなのだが、中山晋平は音楽の師匠として東儀鉄笛の内弟子であった。中山晋平が、東京上野音楽学校に入学する前は、東儀鉄笛の家で書生をしていた。東儀鉄笛とは、千三百年続く雅楽の家柄に生まれ、宮内庁雅楽寮に勤める傍ら西洋音楽などを学び、東京上野音楽学校の講師にもなった人である。中山晋平は、この東儀鉄笛にバイオリンを学ぶのだが、 一年半もかかって全くものにならなかった。あまりにも酷い音程に、東儀夫人はノイローゼになったくらいである。

 横山祐吉は、当時でいる言うところの素行の悪さを問題とされ上野音楽学校を中退し、若月紫蘭の私立演劇研究所に入るわけなのだが、そこの所長が東儀鉄笛である。つまり、東儀鉄笛と言う人間は、その当時において最も有名な俳優の一人であったのだ。しかも、新劇界における天才俳優として日本を一世風靡した人物でもあった。そして、その付き人だった人こそ、のちにアジャパー天国で名をなす喜劇俳優、伴淳三郎である。できは、東儀鉄笛と言う人間は何者なのか?





つづく。

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posted by マネージャー at 13:36| Comment(3) | TrackBack(0) | 日本ユースホステル運動史の周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

3Dプリンター

 今朝起きてみたら濃霧だった。北軽井沢全体が霧で覆われているのだ。寒い地方の人間なら分かっていただけると思うが、2月の真冬に霧なんてありえない。こんな事はオープンして以来初めてである。何か不吉な事でも起きるのだろうかと思案していたが、何かおかしい。何かがおかしいと思いつつ、お昼時になって気がついた。今日は暖かいのである。暖かすぎて降り積もった雪から湯気が出ているのだ。そこで外を散歩してみた。雪がどんどん溶けていっている。 10度ぐらいはあるのではないだろうか? 村道も雪解け水が集まって小川のようになっている。一体どうなっているんだろうか? もう春なのか?と思ったが、念のためにインターネットで調べてみたら、明日からまた寒くなるらしい。明日の朝はマイナス7度くらいになるらしい。

 ところで、息子があと3日で1歳11ヶ月になる。このぐらいになると、子育てが楽になる。自分で服を着替えようと言う意思を見せてくるし、大人の言葉もわかるようになってきたのか、聞き分けも良くなってきた。嫁さんが目薬を刺そうとするとティッシュペーパーをとってくれたりもする。いろいろ気がつくようになってきたのだ。

 なにしろ褒めて褒めて褒めまくって育てているので、次第に自分で何でもやろうとする意欲を見せるようになってきた。もちろんかなり厳しく叱ることもあるが、あくまでも効果的に褒めるために叱っている。しからば叱るほどほめた時の効果が大きいのだ。これを利用しない手は無い。

 しかしである、それが裏目に出ることもある。息子のリアクションが、徐々に大きくなるのだ。もちろん今のところは害は無い。害は無いのだが少しばかり不安になる。例えば、ウンチをしたくなると、私の机のところまで走ってきて机にぶら下がるようにしゃがみ、ウンチポーズをする。これがいかにもウンチしてますといもうオーバーリアクションなのである。正直言って困った。

 実は、トイレトレーニングは、もっともっと後にやるつもりであった。めんどくさいので、日常会話が親子で成立するぐらいの歳まで、具体的に言うと3歳近くになるまでやらないつもりだったのだ。しかし、毎日のようにオーバーリアクションでウンチポーズをやられてしまうと、もうトイレトレーニングをしなければいけないのだろうかと不安になってくる。(しないけれど)

 面白いことに息子は、あれほどオーバーリアクションをしていながら、そして空気も読むくせに、まだ完璧には言葉が話せないのだ。これが、ほぼ同じ頃に生まれた女の子になると、きちんと言葉を話せる。公園で出会うと、同じ頃に生まれた1歳11ヶ月の女の子のほうは、
「たけるくん今日は」
と挨拶できるにもかかわらず、うちの息子はそっぽを向いてしまう。言葉も不明瞭だ。明らかに女の子の方が大人である。というより、うちの息子の方がコミニケーションがだめすぎるのだ。親にはオーバーリアクションするくせに他人とのコミニケーションはへたくそ。どうしてこういうことになったのかと、いろいろ考えてみたのだが、思い当たる事は褒めて育てすぎたことだ。そのために息子の目線が親のほうに向き過ぎてしまったのかもしれない。ちょっと反省している今日この頃である。

 話は変わるが、うちの愛犬コロのことだ。実は愛犬コロは、今まで3回ぐらい迷子になっている。その都度、地元の愛犬家に確保してもらっているのだが、確保してくれた人が、飼い主を探すのに非常に苦労していたので、首輪に名札を付けることにした。最初はプラスチックのものを取り付けたのだが、 1週間後に噛みちぎられてしまった。仕方がないので、インターネットで金属製の名札を発注した。名前と電話番号と犬の名前を金属のプレートに掘ってくれて、キーホルダーをつけて、たったの1,000円であった。ずいぶん安いなぁと感心したが、よくよく考えてみたら、今は印鑑製作などに使うプリンターで簡単に金属加工ができる時代なのである。素材の原価は100円ぐらいだろうから、考えようによったらいい商売かもしれない。表札なんかは一昔前は5万から7万円くらいまでかかっていた。これをプリンターで加工すれば格安で完成するかもしれない。

 そういえば、3Dプリンターが格安で販売されるようになってきているが、あれは使えるのだろうか? つい最近まで数百万円したものが、家庭用に5万円台で販売されるようになるというのは、さすがに時代の流れが早すぎる気がする。というか、マスコミがあんなに騒ぐほどのものなのだろうか?

 もちろん世界でただひとつのオリジナル製品を作れるという魅力はわかる。愛犬コロのフィギュアを作ってみたいなという気持ちをなくは無い。浅間山の模型を作ってお客さんに登山ルートを説明したいと言う気もないと言ったら嘘になる。本当にそういうことができるのなら将来的に購入を考えてもいいのだが、それにしても時代の進み具合は本当に速くなってきたものだ。


つづく。

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posted by マネージャー at 16:37| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 2013以降 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月24日

日本YH史外伝 3 東儀鉄笛の正体

 坪内逍遥は、明治期を代表する英文学者で、作家、翻訳家、劇作家、評論家である。シェークスピアを研究し、日本最初の小説論「小説神髄」を発表し、心理主義的写実小説の創造を主張、日本の近代文芸に大きな影響を与えた。そのうえ早稲田大学文学科を創設し日本で初のシェークスピアの個人全訳という偉業を成し遂げている。

 坪内逍遥は、早稲田大学講師であった島村抱月の発案をとりいれ明治三十九年に文芸協会を結成した。それは文学、美術、演劇などの革新を目指して日本の文化芸術の拠点構想だった。大隈重信を会長に、坪内逍遥、高田早苗、鳩山和夫、三宅雪嶺、坪井正五郎などの人物たちが発起人に名を並べている。そして、以下の公演を行った。

明治三十九年十一月、歌舞伎座で、桐一葉(逍遥)、ベニスの商人、常闇(逍遥)を発表。
明治四十年十一月、本郷座で大極殿(杉谷代水)、ハムレット、浦島(逍遥)を発表。

 それまでも、ベニスの商人やハムレットなどは、歌舞伎界の二代目左団次や川上音二郎が演じていたが、かなり試行錯誤をしていた。というのも、この時代にはテレビもインターネットもなかった。もちろん日本人は西欧の文化風習を知らない。例えばドアをノックすると言う風習を知らない。したがって役者がドアをノックした場合、それが何を意味するか観客は分からないのである。

 困り果てた左団次は、劇中に注釈を入れてノックの意味を語ったりもした。そうしないと、西洋の演劇が当時の日本人に意味が伝わらなかったのだ。一時が万事、こういう調子なのである。ここが分からないと、なぜ当時の文士たちが演劇にとりくんだかがわからない。現在の劇団の人たちの苦労と、根本が全く違うのである。

 そもそもベニスの商人やハムレットの台詞そのものが、翻訳調である。つまり日本人の会話になりきってないのだ。そのために、当時の日本には難解であるために意味が通じないということがよくあった。意味がわからなければ、役者なって台詞は覚えられない。感情を込めようがないのだ。

 当時は西洋風の劇場からして、日本にはなかった。当時の日本の劇場には、椅子がなかったのだ。もちろんいすのある有楽座が後日誕生するが、当時の日本人にとっては椅子が心地悪くて非常に不評だった。座敷でないと芝居を見る気がしなかった。

 そういう日本文化の中にいて、西洋演劇を見るということは、非常に奇異なことだったのである。そのために、左団次や川上音二郎のハムレットやベニスの商人は、日本風に翻案したものが多かった。当然のことながら、英文学研究者である坪内逍遥や外国人のベルツなどにとっては醜悪なものでしかなかった。

 シェークスピアを読んだことのある人ならわかると思うが、言葉の洪水でできている。映画のロミオとジュリエットを見たことがある人は多いと思うが、あのセリフを思い出してほしい。むちゃくちゃな言葉の洪水である。愛を語るに、なぜあれほどの言葉の洪水がいるのだろうかと、日本人なら思うだろう。それを日本語に翻訳するわけだから、翻訳調の台詞はますます長くなる。それも直訳に近いものだから余計に分かりにくい。それが動作と合わないのだ。

 そもそも当時の日本には芝居即台詞劇と言う観念が確立されていなかった。日本の伝統的な演劇は、台詞がメインでは無い。歌舞伎の荒事や仕草とか、様式美がメインであるので、台詞は決して多くない。

 もちろん台詞の量的な問題ばかりが原因では無い、当時の翻訳は、話し言葉のリズムやテンポの配慮を欠いていたのである。当時名翻訳と言われていた坪内逍遥のベニスの商人にしても歌舞伎の調子が強かった。現代的な口語訳ではなく能狂言の調子が取り入れられていた。だから耳で聞く舞台の言葉としては非常に分かりにくかったのである。それは森鴎外にしても変わらなかった。役者がこのような変な日本語を鵜呑みにさせられたのだから台詞が頭に入らなかったのは当然であった。

 そのような状況下で文芸協会は素人を寄せ集めてベニスの商人を発表したのだ。結果は、最悪の状況になってもおかしくはなかった。しかし、意外なことにベニスの商人は、 一人の天才的な役者によって注目される。その天才的な役者こそが、東儀鉄笛であった。彼はシャイロックを演じ、そのヒール性(悪役)を遺憾なく発揮したのである。その後も、東儀鉄笛は色々な役を演じ、その都度人々に天才と絶賛された。

 ここで東儀鉄笛の正体を明かそう。

 東儀鉄笛は、明治二年六月十六日東儀鉄笛は生まれている。出身は、京都市上京区である。もっとも誕生の翌年に父(東儀季芳)が上京したために一年も住んでいない。東儀家は千年余も続く雅楽師で、父親は篳篥(ひちりき)の名手として知られている。その教育はスパルタ式そのもので、苛烈を極めたらしい。そのために東儀鉄笛は息子には、雅楽を教えたりつがせたりしなかった。

 ところで明治八年一月二十九日、東儀鉄笛の父親(東儀季芳)は政府から西洋式の音楽を学ぶことを命じられている。外国の使節をもてなすべく洋楽を演奏する必要に迫られていたのだ。

 明治十二年五月鉄笛の父親(東儀季芳)は、ドイツ出身の松野クララ夫人からピアノも習い始めた。ピアノは、明治二年に初めて輸入されているが、実際に日本人が弾きこなせるようになったのは、東儀鉄笛の父親たちが最初であったと思われる。ちなみに明治十三年に東儀鉄笛の父親(東儀季芳)が、「海ゆかば」を作曲している。日本最初の軍歌は、彼が作曲していた。なんと雅楽師が作曲していた。その曲は軍艦行進曲の中間部に今も聞くことができる。

 ところで東儀鉄笛が、宮中に出仕し始めたのは明治十二年であった。当時の雅楽師にとっては、西洋楽器も履修科目になっている。東儀鉄笛は明治十九年ごろに海軍軍楽隊のお雇い外人教師だったドイツ人のフランツ・エッケルトが教えに来るようになっている。彼は「君が代」に伴奏、和声を付けたことで有名だが、東儀鉄笛は、彼から西洋音楽とドイツ語を学んでいる。そして、毎日のように鹿鳴館で生演奏させられていた。鹿鳴館の音楽は、雅楽師たちが担当していた。

(ちなみに明治三十六年にドイツで行われた世界国歌コンクールで「君が代」は一等を受賞して世界最高峰の音楽家たちに賞賛されている。また少なからずの音楽大学の設立に雅楽師たちが関わっているのも見逃せない事実でもある)

 つまり当時の雅楽師たちは、西洋文明の最新教育を受けている知的エリートたちであった。そして薄給な貧乏エリートたちであった。初期は石高十三石。ウルトラ貧乏な足軽よりも更に貧しかった。これでは楽器を維持するのも大変であったことだろう。しかし、彼は明治三十年十一月十日に宮内省を退職している。若い世代の先頭に立ち待遇改善を訴えたが、それがもとで首になったといわれている。

 しかし世間は東儀鉄笛の才能を放置しておかなかった。その後すぐに帝国教育界の事務長に迎えられている。そしてドイツ学協会学校の分校監事、早稲田大学講師並びに職員、と、あちこちから引っ張りだこになっているところをみても、彼の才能を世間がどのように見ていたかがわかる。

(ちなみにドイツ学協会学校。つまり獨協大学の原点にあたる学校では、明治三十二年から明治三十九年まで教壇に立ち、東儀鉄笛の指導のもと明治三十三年の大正天皇のご成婚のお祝いの会に、生徒たちがドイツの軍歌を歌っている)

 実際、彼は宮内省を退職した三ヶ月後に、明治三十一年二月に和応会という会を結成し、海軍軍楽隊、陸軍軍楽隊、雅楽師、東京音楽学校の有力者とともに会合を重ねている。これが縁で東京音楽学校の講師をしたり、音楽塾の講師をしていたりもしている。また、早稲田文学の社員にもなっていた。そして坪内逍遥の文芸協会に出入りするようになるのである。(彼は宮内省を退職して間もなく結婚しているが、雅楽師をやめてからの方が生活は安定していたのかもしれない)

 このような世間に顔の広い知的エリートが、役者として登場し、その才能を遺憾なく発揮したのは、当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。当時の歌舞伎役者たちとは、まるで違う存在なのであった。当然のことながら役者としての幅は広い。なにしろ西洋を肌で知っているし、国家の威信をかけて外国人使節を前に演奏する度胸もあった。それを十八年間宮内省で経験しているのだ。当然と言えば当然である。

 そして、この東儀鉄笛が、素人劇団に毛が生えたようなレベルよりも、もっと冴えない演技しかできなかった当時の文士劇団であった文芸協会の危機を救ったのであった。下手くその中の役者たちのなかで、彼のシャイロックは、完璧に見えた。

 そんな彼に書生として一年半学んだのが、あの中山晋平であった。中山晋平は東儀鉄笛からバイオリンを習っていたが、これは全くものにならなかった。数多くある中山晋平の伝記によれば、東儀鉄笛はほとんど教えてないことになっているが、新劇を研究している資料を読むと全く違っている。東儀家の家族がノイローゼになるほど中山晋平はへたくそなバイオリンを弾き続けていたとあるからだ。おそらく中山晋平にとって、東儀鉄笛の書生をしていた頃の思い出は、中山晋平にとって隠しておきたかった黒歴史だったのかもしれない。彼には、そういう隠し事が多くあるので、彼の伝記の多くは要注意を要する。

 では、日本ユースホステル協会を立ち上げた横山祐吉と、その妻である横山貞夫人にとって、東儀鉄笛とはどのような存在であったのだろうか? 東儀鉄笛が所長をしていた、私立演劇研究所は、横山祐吉にとってとても心地よい空間であったことが分かっている。彼の履歴書に演劇研究所に居たことがきちんと書いてある。実は彼は、心地悪かった過去の履歴は決して履歴書に書かない。そういう男なのである。では、私立演劇研究所とは、いったいどのようなところだったのだろうか?

つづく。

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2015年02月25日

宮崎アニメの「風たちぬ」をテレビで見て

 宮崎アニメの「風たちぬ」をテレビで見た。これが最後の監督作品ということだが、これを最後に引退して正解だと思う。宮崎監督も全盛期の頃から比べると腕が鈍ってきたなぁという感じだ。そもそも今の日本のアニメーションを引っ張っているのはジブリでは無い。京都アニメーションとか、ピーエーワークスとか、シャフトあたりだろう。

 しかしである。個人的には宮崎アニメの「風たちぬ」は面白かった。どこが面白かったかと言うと、地元民ならバレバレの軽井沢が書かれていたからである。もちろんアプトの道にあるメガネ橋も現ている。主人公が泊まっているホテルが、草軽ホテルと言う名前であったのにも驚いた。というか笑えた。おまけに外観は万平ホテルの旧館に似ているし、内装は三笠ホテルの内装にそっくりだった。戦前時代の軽井沢の写真にそっくりなカットもあった。テニスコートも軽井沢会テニスコートそのものだった。主人公とヒロインの出会いの場所は、どう見ても碓井湖だった。



 軽井沢付近に住んでいる人にとってみたら、宮崎アニメの「風たちぬ」は、内容と関係なく非常に興味深く見れるのではないだろうか? 雪が溶けたら、早速聖地巡礼をしてみたい。今のところ、それを完璧に紹介したサイトは無いようなので、もし4月になっても誰もやってなかったら、私が聖地巡礼のサイトを作ってみたいと思っている。

 それはともかく、「風たちぬ」の原作は堀辰雄です。主人公のヒロインが、最後に結核で死ぬ話なのですが、昔は結核になると、死を宣告されるような重い病気でした。しかし、軽井沢に療養に来ると、不思議と結核が治るケースが多かったのです。そのために全国の結核患者が、次々と軽井沢にやってきました。そして色々なドラマが生まれたりしたのですが、それを小説にしたのが堀辰雄です。

 今では、どうして軽井沢に来ると病気が治るのかが、医学的に証明されつつあります。森の中に三日間滞在すると、体内のnk細胞が増加して、体の免疫機能が増えるのです。そのために、人によっては、自分の持ってる免疫力で病気を退治したりしました。おまけに軽井沢には、カラマツという針葉樹林がたくさんあります。針葉樹林は、広葉樹林よりも免疫力を増すらしいのです。

 それはともかく、大量の結核患者が軽井沢に滞在するようになると、それを見たもともとの住民たちが、非常に結核を恐れるようになりました。なにしろ軽井沢に結核患者が大量にいるのです。自分たちも、感染しないだろうかと不安になったようです。特に体を使う仕事をしていた農家の人たちは、結核に感染しないように防御措置を取りました。その防御措置とは、いわゆるグルメです。

 結核は貧困が原因とまでいわれる病気だったので、人々は結核にならないように、特に食事に気を付けました。今では考えられないことですが、甘い物や白砂糖も口にしました。白砂糖はもともと漢方薬でした。ご飯は白米を食べました。こうやって結核予防したわけですが、結核にかかる代わりに、歳をとってから糖尿になってしまったから皮肉なものです。私の宿の地主さんも、そういうパターンで糖尿病になってしまいました。しかしこれは仕方がなかったのかもしれません。終戦直後まで、結核は癌より怖い死の病気だったのですから。

 どちらにしても、極端に走りにすぎない方が良いのかもしれません。結核を恐れて、極端に炭水化物を取り過ぎれば、その反動はいずれ別のところにやって来るのですから。偏食をせずバランスよくなんでも食べるというのが良いと私は思いますし、食事だけではなく散歩をしたり体を動かすことも大切ですし、ストレスを解放することも大切でしょう。


つづく。

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2015年02月26日

日本YH史外伝 4 新劇研究所

 歴史の中で、大きな役割を果たしながら、全く無名のまま消えていた人が数多くいる。その中の一人に若月紫蘭と言う人がいる。夏目漱石の弟子であり、翻訳家でもあり、古浄瑠璃の研究家でもあり、短歌において名をなした人でもあり、そして新劇運動で決定的な役割を果たした人でもある。

 彼は日本で初めてメーテルリンクの幸せの青い鳥を実質的に翻訳した人である。明治四十五年のことであった。若月紫蘭は、東大の英文科で夏目漱石に文学を学んでいる。夏目漱石とは、何度も手紙の往復をしており、かなり親密であったと思われる。兵庫県洲本中学校教諭、石川県七尾中学校校長代理ののち、

 職分論 サミュエル・スマイルズ
 勤倹論 サミュエル・スマイルズ

を翻訳している。スマイルズは、「天は自らを助ける人を助ける」の名文句で有名な自助論の著者でもある。この自助論は、明治時代に日本で最も多く読まれたベストセラーでもあった。当時の日本人は、自助論を発見することによって、西欧に論語に相当する書物があると思い、この精神によって西欧諸国が近代国家になったのだと理解した。そのスマイルズの著作を翻訳したのが若月紫蘭である。

 彼はその後、1908年(明治四十一年)「万朝報(朝報社)」の記者となっている。万朝報(朝報社)は、大衆的な新聞社で高浜虚子、幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三が在籍した新聞社でもある。その万朝報の記者時代に東京の文化風習を調べ、貴重で歴史的価値のある『東京年中行事 春陽堂(明治四十四年)』を出版している。 さらに明治四十五年においては、

 英語練習ノート・若月保治・東亜堂 1912
 蓄音器の話・若月保治・朝報社 1912
 自動車の話・若月保治・朝報社 1912
 電車の話・若月保治・朝報社 1912
 活動写真の話・若月保治・朝報社 1912
 汽車の話・若月保治・朝報社 1912.8
 飛行機の話・若月保治・朝報社 1912.8

 などを上梓しており、大正にはいってからメーテルリンクの『幸せの青い鳥』を植竹書院で出版している。しかも当時の雑誌(新小説)などに、その梗概が掲載され、評論家たちがいろいろ論評を述べている。

 さらに大正二年、『サロメ オスカー・ワイルド 現代社 (近代脚本叢書)』を出版。

 この台本をもちいて大正四年に芸術座は、島村抱月の演出、松井須磨子の主演で、帝国劇場で公演を行っている。芸術座は松竹と提携して大衆化路線になるのだが、大正七年十一月五日に島村抱月の突然の死、そして松井須磨子の後追い自殺によって芸術座は崩壊する。往年の大女優である水谷八重子は、この芸術座に子役としてでている。

 その水谷八重子は、崩壊した芸術座の残党たちでつくった民衆座でメーテルリンクの『幸せの青い鳥』の主演を演じている。大正九年二月のことである。横山祐吉がまだ麻生中学に在学している頃である。その劇団員の中には、大佛次郎夫妻もいた。前にも言ったが大佛次郎の実兄が野尻抱影。麻生中学校の英語教師であり、小説家でもある。

 とにかく、サロメにしても、青い鳥にしても、若月紫蘭の翻訳脚本によって芸術座などの新劇の舞台が大成功した事実は、新劇界において若月紫蘭の存在を大きくした。

 翻訳といっても、現代における翻訳とは意味が違う。当時の日本には、共通化された口語表現がなかったわけであるから、演劇脚本の翻訳は、新しい日本語(口語)を作る作業にも近いのである。つまり近代日本語を作るにも等しい事業だったのである。

 メーテルリンクの幸せの青い鳥。この作品を映画などで見た人は多いと思うが、よくも悪くも、この作品は、新しい日本語(口語)にかなり影響を与えている。翻訳した若月紫蘭も、かなり衝撃を受けたことであろう。そして、大正十年「人と芸術」を仲間の作家たちと創刊。多くの新作を発表した。さらに翌年、大正十一年十月に万朝報を辞職。東儀鉄笛とともに新劇研究所を設立。

 新劇研究所は、小石川駕籠町(東京都文京区南部の春日町から白山の方に向かったところ)にあった。理事に劇作家の津村京村(つむらきょうそん)、同じく劇作家の平尾盈高(ひらおみつたか)、巌谷小波門下の生田葵山(いくたきざん)などがいて、所長が東儀鉄笛であった。

 そこに新劇の研究生たちが、週に二回ほど集まって台本読みを行った。必ずしも役者になろうという人たちだけが集まったわけでは、ないが、もうすでに役者として活躍しておられる人も研究生の中にはまじっていた。次の公演までの間、役者として修行を行うためだ。

 後日、名女優として歴史に名を残した人をあげれば、千田是也の妻として劇団俳優座の創立に参加した岸輝子(代表作・映画にあんちゃん、白い巨塔など)がいる。この頃の彼女は、陸軍病院の看護婦をやりながら新劇研究所に通っていた。

 千田是也、東野英治郎らと俳優座を結成した東山千恵子(代表作・映画東京物語など)もいたらしいが、詳細は不明である。

 変わり種には、河原侃二(かわら かんじ)という俳優・詩人も通っていた。萩原朔太郎と『侏儒』を創刊し、北原白秋、山村暮鳥、前田夕暮、室生犀星、村田ゑん、尾山篤二郎、木下謙吉、北原放二らと一緒に活動している。その後、水谷八重子の「わかもの座」、村山実たちの「踏路社」に参加し、浅草オペラの舞台にさえ出演していた。また「築地小劇場」の設立メンバーでもあった。その後は、映画スターとして大活躍し、戦前は松竹、戦後は大映で多くの映画に出ている。大映が倒産してからは版画家として活躍した。

 有名どころをいえば、映画監督の豊田四郎(とよだしろう)も研究生であった。「夫婦善哉(1955年)」や「恍惚の人(1973年)」の監督である。彼は次々と文芸作品を発表しつつも、森繁久弥の駅前シリーズを作った名監督である。林芙美子の『泣虫小僧』も映画化している。

 後の作家もいた。『新潮』の名編集者として鳴らし、太宰治の担当だったことで知られる楢崎勤(ならさきつとむ)も研究生であった。彼は小説家でもあり、読売新聞記者としても活躍している。

 作家の有名どころをあげれば、『放浪記』で有名な林芙美子だろう。森光子が長いこと演じた「でんぐりかえり」で有名な、あの『放浪記』の作者である。彼女は、新劇研究所ができた翌年にあたる大正十一年に上京し、下足番、女工、事務員・女給などで自活しながら、新劇研究所に通った。そこでシナリオを読むという体験をし、その影響か『芙美子』という名前でシナリオ風な日記をつけはじめた。それが『放浪記』の原型になっている。ちなみに、この関係で知り合った新劇役者と彼女は同棲しているし、年末年始には横山祐吉の自宅でカルタ大会に参加している可能性も高い。

(ちなみに彼女の文学的自叙伝によれば「私は、大正十一年の秋、やっと職をみつけて、赤坂の小学新報社と云うのに、帯封おびふう書きに傭やとわれて行きました。日給が七拾銭位だったでしょう。」とある。言うまでも無く小学新報社とは、鹿島鳴秋や清水かつらが「少女号」の出版社であるが、後年、横山祐吉もここで働くことになる)




 シナリオライターを目指している人もいた。新劇研究所のそばで小学校教員をしていた天笠貞である。彼女は、ここで横山祐吉を見初めて彼と結婚する。そして、志賀恭子という名前で児童作家としてデビューする。

 東儀鉄笛の付き人をしていた伴淳三郎は、新劇研究所の入所しようとするが、あまりにも秋田弁の訛りが酷いので、面接で若月紫蘭に落とされてしまった。アルファベットを秋田弁でしゃべってしまい、聞き取れなかったらしい。所長の東儀鉄笛の付き人であっても、ダメなものはダメであった。しかし、転んでもただでは起きないのが伴淳三郎である。
「東儀鉄笛の付き人の俺は、秋田弁で新劇研究所を落とされた男」
という秋田弁キャラを確立させ、それを売りに映画界に残った。

そして新劇研究所に合格した映画監督の豊田四郎と出会い、あの駅前シリーズで起用され大ブレークするのである。世の中、何が起きるかわからない。




つづく。

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posted by マネージャー at 23:52| Comment(2) | TrackBack(0) | 日本ユースホステル運動史の周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月28日

記憶

 ついに息子が一歳十一ヶ月になった。二歳になるまで、あと一ヶ月である。本当に感慨深い。

 先日、百円ショップでカルタをみつけて買った。お風呂で教えるタイプである。もちろん息子にはまだはやい。文字を読むどころか、言葉もろくに話せないからだ。しかし衝動買いしてしまった。今は事えなくても将来つかえばいいやと・・・・。ところが息子にカルタを与えてみたら、なんと息子は使い方を知っていた。

 目を疑った。
 しかし、すぐに正気にもどった。

 私が使い方を教えてないのに、使い方を知っているということは、過去にどこかでカルタを見ていて知っているはずなのだ。我が家には、それまでカルタはないから、考えられることはテレビ番組である。で、息子が見ていた番組をチェックしたら、あった! 「日本語であそぼ」という幼児番組のコーナーに、絵合わせカルタというものがあって、息子は、それを毎日みていたのである。どうりでカルタの存在を知っていたし、使い方も分かっていたわけである。

 で、はたと気がついた。
 自分が持っている知識は、
 必ず以前にどこかで仕入れているはずである
 という単純な事実に気がついた。

 すると、「なぜ私は、・・・・を知っていたんだろう?」という疑問がわいてきた。何もなくて知っているということはあり得ないのだ。どこかで知識を仕入れているのだ。しかし、どこで仕入れたか分からないことが、ままあるのだ。すると私は、なぜ、これを知っているのだろうか?と考え込んでしまう。いったい、どこで知識を入れたのだろうか?と。

 具体的にいうと、赤ちゃんは親の真似をすることを知っていた。初めての子育てなので、私も嫁さんも、そんなことは知らないはずなのに私だけ体で知っていた。それだけでなく、いろんな事を体で知っていた。赤ちゃんがぐずる原因の大半を体で知っていて、自然と対処できていた。しかし、そういうことは絶対にあり得ないのだ。どこかで学習してないと、知っているわけがないのだ。絶対にどこかで体で学習しているのである。本で勉強したくらいでは分かるわけがない。

 息子が生まれる前に、さかんに子育て本を読んで学習していたのは、私ではなくて嫁さんの方だった。私は、それら嫁さんが集めた本を一瞥して、一々切って捨てていた。自信をもって育児本を切り捨てていた。これも不思議である。なぜ私は、切って捨てるほどの自信があったのか? どういう根拠で専門家の書いた本を小馬鹿にして鵜呑みにしなかったのか?

 そう考えると、私は、絶対にどこかで体で学習しているはずだと確信せざるをえなかった。現に思い当たることがあった。歳のはなれた弟が二人いたことを思い出したからだ。

 つまり私は、赤ちゃんは親の真似をすることを体で知っていたのではなく、赤ちゃんが兄の真似をすることを体で知っていたのだ。もちろん親の真似もするし、祖母やベビーシッターの真似もする。それを体で覚えていたのだ。

 もちろん他にも色んな事を体で覚えていた。
 だから末っ子だった嫁さんよりも色々なことに対処できたのだろうと思う。

 前にも言ったが、私には二人の弟がいる。 一人は三歳下の弟である。 三歳下だから弟が四歳の時、私は七歳である。 七歳といえば、小学校に通い、友達もできて、あちこちに遊びに行く時期である。より活動的な頃である。 四歳の弟は、何度もくるなと言ったにもかかわらず、いつも私の跡をつけてきた。そしてなんでも真似をした。どんなに帰れといっても探偵のように跡をつけてきた。

 薮に入れば薮に入り、
 木に登れば木に登ったし、
 屋根に登れば屋根に上った。
 気がついて後振り向けばそこに弟がいたのだ。

 私はライターで遊んでいたら、弟も真似をしていた。しかも小学校の縁の下で真似をして、危うく学校が火事になるほどだった。だから、どんなに真似をするなと怒鳴り、時には殴っても真似をした。だから弟から逃げた。逃げて遊びに行ったが弟は、探偵のように跡をつけてきた。そして真似をして、大事件をおこして怒られると本人は悪びれずに
「兄の真似をした」
と言って私だけが怒られた。

 私の両親は、共稼ぎだった。
 ので弟は親を真似るよりも兄を真似たのだろう。

 中学校三年生の時、私は受験勉強した。弟はその真似をした。それまで勉強などしていなかった弟が、いきなり勉強しだしたのだ。その真似の仕方は、恐ろしいほどだった。それを体験として私は知っていたのだ。ところが長い年月が経つ間に、すっかり忘れてしまっていた。思い出したくもないことだったので息子が生まれて暫く経つまで、記憶の中に封印してしまっていたのだ。

 ちなみに私には、もう一人弟が居る。十歳年下の弟である。十歳下であるから赤ちゃんを観察する機会に恵まれた。オムツを替えたりミルクをあげる機会もあったのだ。一緒に布団で寝ることもあった。当然のことながら、赤ちゃんに対する対処の方法を知っていたのだ。当然のことながら、赤ちゃんが親や兄の真似をすることを知っていた。しかし、これも長い年月が経つ間にすっかり忘れていた。思い出したくもないことだったので、自分の息子が生まれるまで、記憶の中に封印してしまっていたのだ。

 その弟が五歳の時、私は十五歳だった。十五歳の時の私は、思春期だったせいもあって読書家だった。化学や物理や歴史や地理の本をたくさん読んでいた。漱石・トーマスマン・司馬遼太郎も乱読し、クイズ番組に出ていれば、トップをとれるほどの雑学を身につけていた。動物の名前なら何でも知っていたし、戦闘機の馬力荷重や翼面荷重の数値まで知っていた。政治経済にも興味を持ち、新聞はすべてを読むようになっていた。いわゆる生意気ざかりだったのだろう。何でも知ったかぶりをした。

 すると不思議なことに三番目の弟にもその癖は遺伝した。というのは間違いで、そういう癖が真似されてしまったのだ。ただし、 二番目の弟には真似されてない。 二番目の弟はもうすでに、兄の真似をする時期を過ぎていたのだ。こういう体験があるかないかでは、子供に対する対応力がまるで違ってくるはずである。そもそもキャリアが違いすぎるのだ。

 ちなみにそれらの記憶を思い出した時、一つ気がついたことがある。
 童謡作家や、児童文学者には、長男率が高いことに気がついた。
 と言うより、末っ子の童謡作家や児童文学者が、驚くほど少ないことに気がついた。
 ほとんどの作家に弟妹がいるのである。

 背くらべという童謡を思い出してほしい。あれは弟が兄に背丈を測ってもらったという童謡なのだが、作詞者の海野厚に兄はいない。あれは作者の弟の視点から書かれた童謡なのだ。これが作曲者になると違ってくる。背くらべの作曲者である中山晋平には兄が居る。とはいうものの弟もいる。

 つまり童謡作家の長男率はともかくとして、末っ子率は極めて少ないのだ。北軽井沢限定で言ってみれば、童話作家の岸田衿子さん佐野洋子さんも、長女であったり、兄に死別された実質的な長女なのである。下村湖人にしても宮沢賢治にしてもサトウハチロウにしても同じである。この辺は、国文学を専攻している学生さんたちに調べてもらいたいところだ。私が文学部の学生なら卒論のテーマにするだろう。きっと面白い発見がなされるに違いない。

 ここで話をかえる。

 うちの嫁さんが、一生懸命読んでいる育児本を私もチラリと読んでみたとき、驚いたことを思い出した。どの育児本にも致命的な欠陥があるのである。時代背景を無視しているのである。

 私が中学生の時、大昔の教育関係の雑誌を大量に読んだ。昭和五十年。今から四十年も前の話である。そんな大昔に、もっと大昔に発行された教育関係の本を読んだのだから、ものすごい大昔の教育に関する考え方を書いた文章を読んだことになる。昭和三十年代や昭和四十年代の当時の考え方や、もっと大昔の考え方を読んだのだ。

 で、当時の私が不思議に思ったことがある。
 育児に関する考え方は、時代によって変化するということである。
 それも十年くらいで劇的に変化するのだ。
 変化する理由は、その時々の時代背景による。

 例えば戦前において、育児に対する考えは今のものとは全く違っている。戦前では、子供に余計な教育をしてはいけないと言う考え方があった。どうしてかというと、当時は子供が多かったのだ。 五人くらいは当たり前で、ひどいのになると十人ぐらいの子供のいる家もあった。そして、そのような時代背景では、子供に対する不平等が子供の心に深刻な影響を与えることが問題になっていた。

 具体的に言うと長男になるほど可愛がられ、末っ子になるほど子供が放置される家庭が多かったのだ。子供が多いと、親は平等なつもりでも、どうしても不平等な躾をしてしまうのである。それを題材に多くの児童文学が生まれたが、次郎物語やニンジンなどがその代表作である。このような作品は世界中で映画化されたり小説にされたりして、どの国でも大ヒットした。

 なので当時の教育雑誌等には、子供の教育は親の背中でしろという考え方があった。親の働く背中を見せることによって、子供たちは自然と大人になっていく。それで良いとされていた。当時は、サラリーマンなどは非常に少なく、ほとんどが農家や自営業だったので、そのような教育スタイルで、親孝行で立派な子供たちがたくさん育ったのである。

 この方法は、現代には通じにくいが、嬬恋村のような、農家やペンションオーナーが多いようなところでは、非常に参考になるであろう。実際、嬬恋村の知り合いの教師の話でも、農家の子供さんや、ペンションの子供さんたちは、平均して良い子たちが多いと証言している。これは、子供たちが親の背中を見て育っているからだと思われる。まさに戦前型の育児の結果である。

 ここで話をもどす。

 話を戻して、何の話をするかというと、童謡についてだ。
 実は有名な童謡の大半が、子供が最も多かった戦前に作られている。
 たくさんの兄弟の面倒をみてきた時代に作られているのだ。

 そして、そのような童謡が時代を超えて今でも歌われていることを想うと、一人っ子の多い二十一世紀に、果たして名作が生まれるのだろうかと思わざるを得ないのだ。逆にいうと一人っ子時代にはいると、育児本が売れる時代になるということも確信した。子供は少なくても育児本は売れ続けていくだろう。どんなインチキ本でも、それなりに売れると思う。ちなみに私がインチキくさい育児へ本を書く人だと思ってしまった人の過去を調べてみたら一人っ子だったり末っ子だったりした。これは偶然だろうか?

 それはともかく、今後、童謡や児童文学の新作の名作率は、どんどん減っていくに違いない。と、二十二世紀の諸君に予言しておこう。


つづく。

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posted by マネージャー at 07:48| Comment(5) | TrackBack(0) | グンマーで嫁が出産と育児 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする