2015年04月02日

自由診療について

 子供が産まれてから、何が変わったかと言うと、医療事情に詳しくなったことである。例えば、子供のために親がインフルエンザなどの予防接種をするようになる。インフルエンザにかかっても、軽傷で済むように予防接種をするのだ。特に子供たちが受験を迎えている親御さんたちは、神経質なくらい病気を恐れている。こんな事は、親になるまで全くわからなかった。

 自慢ではないが、今まで私はインフルエンザなどの予防接種をしたことがない。だから、つい最近まで予防接種と縁のない生活を送っていた。子供が生まれてからも、それを続けるつもりであった。ところが、それではダメだとペンション仲間に言われてしまった。子供ができたら、絶対に病気をもらってくるから、下手したら家族全員が同時に1週間も倒れてしまうことがあるらしい。そうなると、お客様を迎えることができないので、宿屋としては深刻な状況になるらしい。だから、予防接種は必須であるとの事。

 さて、前置きはこのくらいにして本題に入る。

 予防接種のことである。実はこの予防接種、病気では無いから保険が効かないのだ。つまり自由診療なのである。つまり、病院によって価格差があるということを知って愕然とした。すごく安い病院もあれば、高い病院もあるらしい。自由診療と聞くと、料金が高いというイメージが今まであったのだが、自由診療が逆にすごく安い病院もあると聞いて驚いた。どうしても患者を多く取りたい病院は、予防接種を極端に安く設定しているらしい。そういえば、心当たりがある。ある個人病院が、内科では無いのに、盛んにインフルエンザの予防接種の営業をかけていたのに驚いたことがある。確かにその病院には、患者は少なかった。ガラガラだった。隣に大きな大病院があったからである。しかし、数年後にその病院に行ってみたら、患者が大量に押し寄せていた。そして、もうインフルエンザの予防接種の営業はやっていなかった。

 あと、大きな病院と小さな病院では、保険点数の料金体系が違ってくるというのも最近知った。細かいことをめんどくさいのでここに書かないが、 200ベット以上ある大きな病院は、ある部分の料金が安いのである。しかしである。こと病院ということになると、値段が安いから決めるというわけにはいかない。安いからいいというわけでもないだろう。

 ここで話を動物病院に変える。
 今度は実名を出す。
 北軽井沢動物病院の事を話したい。

 うちの愛犬コロは、北軽井沢動物病院のお世話になっている。この動物病院は、値段が圧倒的に安い。そして親切である。たった6,000円のワクチン注射に行くと、サービスでいろんなことをしてくれる。この前は、無料で歯の歯垢をとってくれた。他の動物病院だと歯垢をとるだけで4万円もかかったりする。その他にも、寄生虫を調べてくれたり、血液検査をしたり、ブラッシングをしたり、肛門絞りをしてくれたりもする。そもそもワクチン注射が6,000円ですむというのも、かなり安い。動物病院によっては1万円以上取られるところが多いのだ。その上、施設もサービスも素晴らしい。獣医さんも5人くらいいるし、格安のペットホテルもあれば、やすくトリミングもやってくれる。本当にすごい動物病院なのだ。

 唯一の欠点は、お客さんが多すぎて、待ち時間が長いことである。軽井沢や草津からはもちろんのこと、小諸市や上田市からもやってくるし、中之条や、遠くは東京あたりからやってくるお客さんもいるらしい。もちろん北軽井沢に別荘持ってるのだろうけど、それにしても、この人気は驚異的である。犬友達の世界は、横のつながりが強いので、評判は口コミから口コミに伝わって、多くの愛犬家たちが北軽井沢動物病院に殺到するようになったのだろう。動物病院は、自由診療の世界なので、治療費が高くなりがちイメージがあるのだが、その逆もあるということを知って驚いた私であった。

つづく。

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posted by マネージャー at 19:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 愛犬日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月05日

一病息災

 先日、昔ヘルパーをやっていた知り合いに結婚したという報告を受けた。こう言ってはなんだが嬉しかった。こういう話は、何回聞いてもワクワクする。よかったなあと思う。と同時に、心の底でほっとした。その人は、実はお医者さんになったばかりなのだが、新人の医者というのは、ものすごく忙しく、勉強することも多いと聞いている。だから、うかうかしていると、すぐに歳をとってしまうから、気がついたら孤独でいるということも多いと聞いていたから心から良かったと思った。もちろん勉強も頑張ってほしいし、腕を磨いてもらいたいと思うけれど、自分の人生も大切にしてもらいたいとも思っている。

 と書くと、何やら奇麗事のようなことを言っているように思えるかもしれないけれど、わたしは宿屋である。他人様より少しばかり、人々の人生を見ることの多い職場なのだ。他の人たちよりも、人様の幸せというものに、敏感になってしまうところがあるのである。

 ここから話を変える。健康についてである。宿屋をやっていると、闘病している人たちとも、お話をする機会が多い。その度に、なんとかならないのかなぁ?と神様に祈ることも多いのである。今年は、事務所の前に小さな小さな神棚を作った。そして、そこに碓氷峠の熊野神社のお札を置いてある。別に信心深い訳ではないが、どちらかというと宗教には無関心であり、無宗教に近い人間ではあるのだが、胸が痛くなるようなお話を聞くと、自然と何かに祈らざる得ないことがあるのだ。だから今年は神棚を作ったのである。

 まぁ、そんな事はどうでもいい。闘病してる人たちと出会うたびに、自分には何もできないことにイラついてくる。そのための神棚なのだが、それはともかくとして、世の中のお医者さんたちに、頑張って勉強してくれよと、自分なりにエールを送っている。実は、神様に祈っているのではなくて、研究室や現場で頑張っているお医者さんに祈っているのかもしれない。どうひっくり返しても、自分にはこれしかできないのだ。

 医学の進歩は、お医者さんや科学者たちに任せるとして、私達に出来る事がある。少しでも病気にかからないように、健康を保つことなのだ。それは長生きすれば、癌になる確率が高くなるだろうけれど、いまは医学の進歩が早いので、少しでも歳月が経てば、治らないものも治るようになるかもしれない。

 うちの近所に、寿命があと数年であることを宣告された友人がいるが、その友人は数年どころか20年生きている。そしてぴんぴんしている。とても死にそうな感じでは無い。しかし、 2日にいっぺんは透析をしないと生きていけない体ではある。にもかかわらずすごい健康体に見える。いまは300名山を目指して頑張っているところだ。彼が病気を宣告された時は、数年後に死んでくらいの医学水準だったのに、彼が健康を維持している間にいつの間にか医学が進歩したのだろうと思う。これも彼が、健康に対して真剣に向き合ったからなのかもしれない。

 それにしても、健康というのは空気と水に似ている。空気も水もそれがなければ人間は生きていけないのだが、誰もが空気や水をありがたいと思わない。当たり前すぎて、ありがたみがわからないのだ。健康もそれに似ている。だから健康そのものの人の方が、大きな病気にかかりやすいと聞く。無病息災よりも、一病息災とはよく言ったものだ。 1つくらい病気を持ってた方が、健康に気遣うので長生きするということだが、それはよくわかる。フーテンの寅さんの渥美清も、若い頃に肺結核をやったために、健康に気遣うようになり、長生きをした事は有名であった。もし若い頃に灯を消しなければ、さすがの彼も無理な暴飲暴食で寿命縮めていたかもしれない。


つづく。

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posted by マネージャー at 20:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月06日

災い転じて福となす

 事実は小説より奇なりと言うけれど、まさにその通りである。この仕事をしていると、お客さんや、観光関係の仲間たちの壮絶な人生に胸を痛めることが多い。残念ながら私には、密かに応援することぐらいしかできないが、ポジティブで前向きな人であれば、どんな困難があっても、必ず乗り越えられるのではないかと思っている。

 それはともかく今日は、用事があったので、軽井沢から妙義山方面に向かって車を走らした。妙義山の麓は桜が満開だった。思わずキュンとなってしまった。人はなぜ満開の桜を見ると心がキュンとなってしまうのだろう? 桜の木の塊を見ると、たいてい小学校か中学校がある。学校があるところには、桜の木が多いのだ。江戸時代から明治時代初期にかけての昔は、出版物は桜の版木で行っている。そのために学校のそばには多くの桜の木を植林したという。印刷によく使われるる桜の木を売って学校の機材を調達したと言う話を、地元の郷土史家に聞いたことがある。資金調達のために植えられた桜なのかもしれないが、その桜のために、入学式で多くの桜の花を見かけるようになってしまった。昔は今よりも寒かったために、桜が咲くのは今よりずっと遅かった。入学式シーズンに桜が咲いていたとのことである。そう言われてみれば、私が子供の頃、桜の咲くのはもっと遅かったような気がする。

 ちなみにうちの嫁さんは、群馬県は館林の生まれなのだが、その館林の教育史を調べたことがある。すると面白いことがわかった。明治時代の群馬県は、全国的に見ても裕福な農家が多かったらしい。そのために多くの東北の子供たちが、口べらしのために出稼ぎにやってきた。年齢は10歳から12歳位の子供たちだったらしい。多くは子守として雇われていた。子守をする代わりに、食事を与えられるのである。給料は、食事だけだったらしい。まるで朝ドラの「おしん」みたいな話だが、実はそれほど酷い状況でもなかったらしい。子守は、農業よりも仕事的には楽だったのだ。東北に残された子供たちの方が、不運だったらしい。というのは、 20歳を越える前に腰が曲がって、冬には温泉治療をしなければ、腰が治らないくらいだったらしい。

 ところで、群馬県に出稼ぎにやってきた東北の子供たちを、群馬県の人たちは「奥州っ子」と言ったらしい。 10歳位の彼らは、学校の外で子守をしていたらしい。学校の中に入らずに学校の外で子守をしていたのだ。すると、小学校の先生たちは、わざわざ窓側のほうの黒板を使って授業していたらしい。つまり外で子守をしている「奥州っ子」たちに、見えるように授業したとのことである。すると「奥州っ子」たちは、棒を使って地面に一生懸命文字を書いて練習したりしたらしい。時期的に言うと明治時代末期の頃の状況である。というのも、そのような記録が偶然にも残っていたのだ。それらの記録を読むと、朝ドラの「おしん」に対する印象がまったく違ってくるから面白い。朝ドラの「おしん」というのは、まさに群馬県における「奥州っ子」たちにそっくりであるが、その「奥州っ子」たちにも、なんだかんだと周りの大人達は暖かい心遣いをしているのが面白い。

 ちなみに群馬県の農家が、東北の農家よりも裕福だった理由の1つに養蚕が盛んだったことも挙げられるだろう。明治時代は日本の絹糸が世界を席巻した時代であった。その原因ははっきりしている。絹糸の大生産地であった中国が太平天国の乱などの長い戦乱のために、壊滅的な状態になっていたのである。そのために日本の絹糸は世界中に売れまくったのだ。ある意味日本は運がよかったとも言えるかもしれない。

 もう一つ運が良いといえば、天明3年の浅間山の大噴火も、結果として群馬県に幸運をもたらしたらしい。あの大噴火によって、群馬県の農家は大災害を受け、桑畑くらいでしか生き延びることが難しくなったということを地元の郷土史家に聞いている。それが結果として明治維新後、群馬県の農家を豊かにしたとの事だった。まさに災い転じて福となすを言葉通りに実行したことになる。世の中、何が幸いするかわからないものだ。


つづく。

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posted by マネージャー at 22:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月07日

公園に社会の縮図を見た

 息子も2歳になって、少しずつイヤイヤ期が訪れている。今まで、素直に「いただきます」をしていたのに、最近はヘソを曲げてなかなかしてくれない。人に強制されるのが、嫌になっているのである。それだけ大人になったという証拠でもある。まぁこれは、いろんなお母さんたちから脅されていた事なのであるが、どういうわけか「自分の息子には当てはまらない」と言う変な自信があった。しかし、やはり自分の息子にもイヤイヤ期は、やってきたのだった。

 もちろん「いただきます」をするまでは食事を食べさせてない。私だけが、うまそうに食事を食べて見せびらかしている。息子の大好物のイチゴがどんどんなくなっていく。でも息子はなかなか「いただきます」をしない。かなり頑固である。私が食事が終わったとは、嫁さんがおいしそうに食事を食べる。私は息子の隣に座って、一緒に「いただきます」をしようねと言うのだが、やはり息子は頑固に「いただきます」をしない。嫁さんが、息子の大好物であるイチゴをどんどん食べても頑固にはねのけている。

 仕方がないので、息子の大好物である納豆を開けてみた。息子の目の色が変わった。すごく納豆が食べたそうなのだが、やはり「いただきます」をしてくれない。何度も私が「いただきます」をして一緒にご飯を食べよう。おいしいよ。といっても、頑固に拒んでしまう。相当な頑固者である。しかし、こちらとしても負けるわけにはいかない。

 ここで怒鳴ったり暴力を使えば、簡単なのだろうが、それが良い解決方法では無い事は、自分の体験で分かっているのでやらない。あくまでも根気よく対応し、場合によっては食事を抜いても良いと思っている。なにしろうちの息子は、やや太り気味なのだ。食事を1回ぐらい抜いても全く問題ないように思える。しかし、今まで食事を抜くような事態は起こってない。必ず最後に息子が降伏するからだ。要するに食いしん坊なのである。

 話は変わるが、公園で息子と遊んでいると、孫を連れた子供さんのおばあちゃんと仲良くなることがある。孫を連れたおばあちゃんといっても、私と年齢が近い。子供のお母さんたちも、おばあちゃんたちの方が、私の年齢に近いので、仲良くなりやすいのだ。だから私には、ママ友よりも婆友の方が話題が合う。というか、いろいろ教わることが多くて助かるのだ。先日も10人くらいの孫がいるばあちゃんから、目から鱗が落ちるような話を聞かせてもらった。

 うちの息子が、すごい照れ屋さんであることをその方に話したら、そうでしょうね、たくさん褒めて育てていいますからね、そういう子育てをすると、自然と照れ屋さんになるんですよね。と、親切に教えてくれた。確かにそうなのだ、うちの息子は、基本的に褒めるようにして育てている。もちろん叱ったりもするけれど、それは効率良く褒めるための方便なのである。この方法はすごく子育てが楽になる事は体験的に知っている。しかし親としては楽と言えば楽なのであるが、どうやらマイナス面もあるみたいなのだ。そのマイナス面を色々伺えて非常に参考になった。

 まぁそんな事はどうでもいいとして、お孫さんが10人ぐらいいるおばあちゃんともなると、今までの体験から、客観的でユニークな視点を持って観察しているようだ。その観察眼に感心してしまった。ある意味で冷めた目を持っているわけだが、その冷めた視点というのは、10人のお孫さんを比較することが可能な環境になったからなのだろう。そこで、そのおばあちゃんが、お孫さんとどのように接しているか、少しばかり観察させてもらったのだが、そのおばあちゃんは、自分の孫だけを見てないことに気がついた。公園にいる子供たちのほとんどに視線を向けていた。そして、孫をうまくコントロールして、状況によっては自分のお孫さんを悠々と連れ帰っていったので感心した。

 その後、今度は孫を連れたおじいちゃんがやってきた。そして私と仲良くなった。おじいちゃんは、 5分ぐらい公園でお孫さんと遊んでいたが、へとへとになって倒れてしまった。おじいちゃんは、おばあちゃんに先立たれて1人ものだった。定年後、本当は自由気ままに暮らしたかったらしいのだが、息子夫婦に説得されて同居したらしい。同居したはいいが、毎日孫の面倒を見させられてへとへとなのだそうだ。 1人気ままだった生活が懐かしいらしい。どうやらさっきのおばあちゃんとは、だいぶ様子が違っている。おじいちゃんは、孫に振り回されている感じである。でもこれは無理もないことかもしれない。それまで仕事一筋で、子育てをしなかった昭和世代のおじいちゃんにイヤイヤ期の2歳の孫の相手は、かなり難易度が高いと思う。だからかなり苦戦していて、へとへとになって芝生に倒れ込んでいる。 10人の孫を見てきたばあちゃんとは、まるで違っているのが印象的だった。

とにかく子どもたちが遊ぶ公園には、いろいろな社会の縮図が存在している。
なかなか面白いところだ。

つづく。

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posted by マネージャー at 23:26| Comment(0) | TrackBack(0) | グンマーで嫁が出産と育児 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月08日

今年のシャクナゲについて

 今朝、起きてみたら一面が真っ白なので驚いた。4月の雪である。お客さんの予約が入ってなくて良かったと心から思った。心配なのはシャクナゲ園である。つぼみが成長した時に雪は積もると、つぼみが枯れてしまうのだ。まだ4月だから大丈夫だとは思うのだが、心配は心配である。 1番最悪なのは、ゴールデンウィーク直前に雪が降ることである。そうなったら目も当てられない。シャクナゲ園のシャクナゲは全滅する可能性があるからだ。

 もちろん全滅しないシャクナゲもある。それは天然のシャクナゲである。天然のシャクナゲは、山の林の中に存在する。したがって息が降っても、カラマツやゴヨウマツの枝などに雪がブロックされるので、つぼみが枯れる事は無いのだ。しかし、人工的に作ったシャクナゲ園は、カラマツやゴヨウマツの木を伐採してしまっているので、雪が降ったらつぼみが全滅してしまうしかない。自然災害に弱いのである。

 しかし、安心してもらいたい。もしそのような事態があっても、少しばかりシャクナゲを歩いて標高を稼げは、そこには天然のシャクナゲがある。そこに行けば、美しいシャクナゲを見ることができるのだ。よく、シャクナゲのピークはいつ頃ですか?と言う問い合わせがあるが、実際はそんなものはない。クローンであるソメイヨシノではあるまいし、個体や種類によってシャクナゲの開花時期が違うのであるから、ピークなどというものは存在しないのだ。

 それにシャクナゲ園自体が、 200メートル以上の標高差があるために、標高によってピークはまったく違ってくる。もちろん、周りの木の影によって変わってくる日照時間の有無によっても開花が違ってくる。北斜面か南斜面か、東斜面か西斜面かによっても違ってくる。だから地元のガイドさんか、宿屋のオーナーに聞けば、その辺は詳しく教えてくれるだろう。

 また、シャクナゲが群生しているところは、シャクナゲ園だけでは無い。鬼押し出し溶岩の終点あたりには、天然の白山シャクナゲの群生がある。面積的に言えばシャクナゲ園以上の広大なところに分布しているが、地味な白山シャクナゲであるために、嬬恋村では誰もプッシュしていない。当然のことながら、どの観光ガイドにも掲載してないし、観光協会や、嬬恋村観光商工課も観光地としては紹介していない。

 桟敷山の山麓にも巨大なシャクナゲ群生地がある。ここには地味な白山シャクナゲではなくて、きれいな東シャクナゲが大量にある。しかしここも、どの観光ガイドにも紹介されてない。もちろん嬬恋村も観光協会も紹介していない。地元民でさえ知らない人は多いだろう。ここはいわく付きの場所で、もう少しで太陽光発電のために壊滅するかもしれない地域だった。あと1歩のところで、貴重な自然が破壊されるところだった。なんとか開発を阻止できたので、私はほっとしている。

 それはともかく、このシャクナゲ群生地が、なぜ全く紹介されないのか不思議に思ったことがあった。しかし何度か私が調査のために通ってみたら、その理由が分かった気がした。クマの巣がたくさん見られたからだ。おそらく湯ノ丸山に出没するクマたちは、普段はこの辺あたりを餌場にしているのだろう。この辺を散策したい人たちは、ガイド付きで散策することをお勧めする。

 他にもシャクナゲの群生地はたくさんある。ここに書いても良いが、多くは私有地であるので、私有地でないところを1つだけ紹介しておく。高峰山と黒斑山の裏コースである。あそこは東シャクナゲの群生地があるが、嬬恋村で最も遅くまで見ることのできるシャクナゲの群生地である。年度によっても違うが、 7月上旬に見られる群生地は、あの辺あたりだけかもしれない。

 これは手前味噌になるが、シャクナゲの群生地の情報を知りたい人は、うちの宿に泊まるといいかもしれない。毎日のように山に登る宿屋は、嬬恋村では私ぐらいのものだ。昔は、ペンションモチモチの木の奥さんや嬬恋高原クラブのご夫妻が、よく登っていて、山で出会うこともあったのだが、両方とも宿を閉めてしまった。最近は、山の中で出会う地元の宿のオーナーさんが、めっきり減ってしまっている。ちょっと残念だが、それでもたまに山の中でペンションオーナーさんと出会うこともあるから、ひょっとしたら、私の他にも山に詳しい人はいるのかもしれない。


つづく。

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posted by マネージャー at 21:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月09日

大洲郷土館ユースホステル ふもとの家ユースホステル

 今日はユースホステルの話をしたい。今から13年以上前、私がこの宿を立ち上げた頃、日本中のユースホステルに相互リンクしませんかと、メールを送った。そして、いろいろなお返事をいただいた。なかには失礼だと激怒される方もいらっしゃって、ひたすら非礼を謝罪したことも1度や2度ではなかった。もちろん好意的なお返事も多かった。その中に、ふもとの家ユースホステルがあった。そして、このユースホステルのファンになってしまった。いつか泊まりに行こうと思ったまま、またその願いは叶わないでいる。

 残念ながら設備が古いことを理由に、日本ユースホステル協会から契約が切られてしまい、現在は、ユースホステルではなく、ホステルふもとの家という名前になっている。しかし、協会との契約がないにしても、私はこの宿が、シルマンの理念に基づいたユースホステルそのものでは無いかと思っている。

http://www.kt.rim.or.jp/~sodom/fumoto.htm

このお宿さんのホームページをみてほしい。
非常にシンプルで、飾り気のないサイトではあるが、
下記のサイトをクリックして、写真を見て欲しい

http://www.kt.rim.or.jp/~sodom/newpage2.htm

(ホステルふもとの家のサイトよりフレームで紹介。写真をクリックするとhttp://www.kt.rim.or.jp/~sodom/newpage2.htmに移動します)

 この写真に私の心がキュンとなる。
 このサイトには1963年から1968年の足かけ6年にわたっての
 ユースホステル建設作業の写真が掲載されている。
 当時の多くの学生さんたちも、ボランティアで手伝っている。
 昔はこういうユースホステルがたくさんあった。
 MGユースホステルなどもそうである。

 ところで1963年といえば、私が2歳の頃である。当時は日本中が、あまり裕福とは言えない時代であった。なにしろ戦争が終わってから、たったの18年しか経ってないのである。今年が平成27年度であることを考えれば、日本中が焼け野原になってから18年しか経ってないということが、どれほど短い期間であったかわかるというものだ。そういう時期に、 6年かけて自らの手で建設されたユースホステルというのは、非常に貴重な存在であると思う。しかも大勢の人たちが手伝ってるということも、この宿のオーナーの御人徳がわかるというものだろう。

 私はこの宿に、いつか泊まりたいと思いつつ、何年も過ぎてしまった。相互リンクをお願いするためにご連絡を差し上げた時、非常に丁寧なお返事を頂いたからである。それ以来泊まろう泊まろうと思いつつ、今日までいたってしまった。しかし、機会があるたびに、うちのお客さんには、紹介していた。富士山の見えるユースホステルはないですかと聞かれれば、真っ先にこのお宿さんを紹介していた。現在はユースホステルの名前から外れているが、ワタシ的には、この宿はユースホステルだと思っていると、お客様に伝えている。そして、このホームページの写真集を紹介している。写真集を見て、何か心に響くものがあれば、その宿は単なる宿ではなくなると思う。

 このように、私が泊まってみたいユースホステルは何軒もある。今日はもう1軒紹介したい。ぜひ下のホームページをみてほしい。

http://homepage3.nifty.com/ozuyh/

 大洲郷土館ユースホステルのホームページである。実は私は、 30年位前にいちど泊まったことがある。高齢のおばあちゃんが、ひとりで切り盛りしてたような気がするが、当時は食事の提供もしていて、すごい豪華な食事を食べた記憶がある。今思えば、その方が創設者の高井キヌノさんだったのかもしれない。この宿の創立は、ホームページによると1960年とのこと。私が生まれる1年前にできたらしい。それはともかくこの宿のすごいところは、宿そのものが郷土資料館であるところだ。歴史オタクなら涎を垂らして実物を見たくなるものばかりが展示されている。実は、そういうユースホステルが、昔は全国のあちこちにあったのだが、多くは閉館してしまっている。非常に残念なことである。ここも閉館する前に、是非1度ゆっくり行ってみたい宿なのだ。

 ちなみにこの宿にも13年前に相互リンクをお願いするためにご連絡を差し上げた時、非常に丁寧なお返事を頂いた。それ以来、この宿のマネージャーのファンになってしまった。北軽井沢ブルーベリーに来たお客さんで、歴史に興味のあるひとを見つけたら、私は必ずこの大洲郷土館ユースホステルを紹介している。昔は、三余荘ユースホステルも一緒に紹介していたのだが、残念ながら三余荘ユースホステルは、閉館してしまった。だから余計に、この大洲郷土館ユースホステルには頑張ってもらいたいところだ。

 しかし、この大洲郷土館ユースホステルも、ふもとの家ユースホステルも、マネージャーがご高齢なのである。いつかは、閉館の時が来るかもしれない。それまでには、何とかして、もう一度泊まりに行きたいと思っている。そういう宿が、全国にたくさんあるのだが、私の体が1つしかないのがもどかしい。

つづく。

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posted by マネージャー at 23:40| Comment(2) | TrackBack(0) | ユースホステル紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月10日

薪ストーブと用務員さん

 私が生まれたのは、昭和36年の7月である。出身地は新潟県は佐渡島。小学校に入学すると、そこには薪ストーブがあった。当時、薪当番というものがあって、朝早くに学校に行って、用務員さんから薪をもらってきた。その薪は、太い針金でぐるぐると巻かれていた。その針金を分解して、新聞紙などの焚きつけて朝ストーブに火をつけるのである。

 ところで、学校が終わると友達の自宅に遊びに行くことになる。そして夕方5時のサイレンが鳴ると家に帰るのだが、たまに友達のお母さんが、風呂を沸かしていた。当時、ボイラーのようなハイカラな風呂釜がある家は少なくて、五右衛門風呂か、巨大な樽風呂がほとんどだった。樽風呂の方が多かった気もする。もちろん薪で風呂を沸かすのだが、薪といってもみかん箱を解体して作った薪である。または、どっかから拾ってきた板を燃やして樽風呂を沸かしていた。それが珍しくて、私は、ずっと見学をしていた。というのも、私の家は当時珍しいボイラー式の風呂釜だったのである。つまり新築の家に住んでいたのだ。そのために薪で風呂を沸かす友人の家の風呂釜が珍しかったんだと思う。

 それはともかく、 9月から10月ぐらいになると、小学校の校庭で、用務員さんが汗だくになって薪割りをする風景が見られるようになる。 30ぐらいある教室の薪ストーブの薪を蓄えなければいけないからである。それはもう莫大な量である。それを、年配の用務員さんが、上半身素っ裸になって、ねじりハチマキで、次から次えと薪を割っていた。子供心に私と、その友人たちは、飽きもせずにずっと眺めていた。用務員さんは何時間も何時間も黙々と薪を割っていた。薪は、校舎の壁に次から次えと積み上げられていくが、何しろ凄い数なので、校舎の壁をずらっと薪の壁が包み込むようになる。だから校舎の窓を開けると、すぐそこに薪の束があるという具合である。

 ちなみに用務員さんは、とても優しい人だった。事情があって、私が泣きそうにながら学校に行くと、すぐに声をかけてくれて、心温まる対応をしてくれた。そういう用務員さんだから、みんなから好かれていたと思う。用務員さんには奥さんもいた。奥さんと一緒に学校に泊まり込んでいた。というか住んでいたと思う。毎日のように、夜の学校を見回っていた。私の父は、厳格な人間だったので、私は何度も家を追い出されて街中を放浪したのであるが、行き先は必ず小学校の縁の下だった。

 父親に殴られ蹴られ何度も追い出されているうちに、子供ながらに知恵がついてくる。家を追い出される時のために、学校の縁の下に、こっそり秘密基地を作っていた。当時は、段ボール箱のようなものはないので、用務員さんが割って束ねた薪をせっせと学校の縁の下に運び、それで椅子やらベットを作り、食料や現金や懐中電灯などを隠しておいていた。

 小学校2年生位の子供が、そんな不審行動をするものだから、用務員さんが気がつかないわけがない。縁の下で、いろいろ作業してるのを、用務員さんに見つかってしまった。怒られるのかな?と、びくびくしていたが、彼は何も言わなかった。私は慌てて逃げ出した。用務員さんが追いかけてくる事はなかった。けれど、これで秘密基地はおじゃんになってしまったと観念した。

 しかしである、翌日、その秘密基地に行ってみると、何一つ撤去されてなかった。私が、作ったままそのままの状態で存在していたのだ。すると、薪割りの音が聞こえてきた。私は縁の下から出てくると、用務員さんが、盛んに薪を割っていた。目と目が合ったが、彼は黙々と薪終わっていた。私には何事もなかったように、作業を続けていたのである。今思い出してみると、非常に不思議な気がする。なぜ用務員さんが、何事もなかったようにスルーしてくれたんだろうか? そして私が使ったために足りなくなった薪を、割り始めたんだろうか? 今思えば不思議な事だらけである。

 ただ思い当たることがあるというすれば、私は、夜の小学校で、よく用務員さんにお世話になっていることだ。父親が厳格だったので、ランドセルに教科書が1冊でも欠けていると、学校に取りに行ってこいと怒鳴られて、泣きながら何度も学校に取りに行ったことがある。もちろん、玄関から入るのではなく、窓からこっそり学校に入り込んだ。夜は暗いので電気をつけて自分の席の机の中をごそごそとやる。その度に、用務員さんが駆けつけてくるのである。それはそうだろう。夜の学校で電気をつければ、そこだけ目立つのだ。泥棒でも入ったかもしれないと、用務員さんが恐る恐る駆けつけてくる。しかしそこには、小学校1年生位の子供が泣きながら、落とし物やプリントを探しているのだから、そういうことが何度も何度も続けば顔見知りになってしまう。しかし彼は、深入りはしてこなかった。とても優しい人だったけれど、ある程度の距離を保って見守ってくれていた。それが良かった。秘密基地のそのままにしてくれていた。今では考えられないことかもしれない。

 私は小学校3年生になった時、
 その用務員さんがいなくなった。
 そして学校から薪が消えた。
 すべて石油ストーブになってしまったのである。
 日本はその頃から豊かになっていた気がする。
 ちょうど大阪万博が始まっていた。

つづく。

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posted by マネージャー at 21:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月11日

タコ料理と御飯

 群馬県と香川県にはある共通したものがある。雨が降らないことだ。当然のことながら農家の人たちは米ではなく麦を作る。で、うどんをよく食べるのだ。これは香川県でも一緒である。群馬も香川も、うどんが名物である事は一緒なのだが、 1つ違うところがある。香川県民は、外食でうどんを食べる。群馬県民は、自分の家でうどんを作って食べる。群馬県出身の嫁さんに聞いてみたら、おばあちゃんの家に遊びに行くと、うどんを打っていたらしい。うどんは自家製のものを食べる。それが群馬県の特色だったらしい。しかし、そういう風習は、今はもう廃れているかもしれない。自分の家でうどんを打つ家庭は、もうほとんど無いのではないだろうか?

 私の出身地は新潟県であるが、確かに子供の頃には、自分の家で笹団子を作っていた。しかし、昭和50年くらいになると、笹団子は、お店で買うものであって、自分の家で作る事はもうなかった。だから私の弟は、自宅で作った笹団子を食べた記憶を持ってないだろう。

 話は変わるが、うちは宿屋なので全国からお客さんがやってくる。そしてお茶会で、食べ物の話になることが多い。で、時々お客さん同士で論争になったりするのだが、その中で香川県のネタがある。香川県は、日本でいちばん外食率が高いらしい。つまりうどん屋で、うどんを食べる。しかも、いなり寿司と一緒に食べるらしい。いなり寿司とうどんであるから、炭水化物のコラボである。そのためか、糖尿病になる確率が全国ナンバーワンなのだそうだ。

 それを聞いた、他の地方のお客さんは、いなり寿司とうどんを一緒に食べるのはおかしいと言う。しかしここで香川県民は、反論をする。たこやき定食みたいなものだと。そうなのだ、大阪には、お好み焼き定食とか、たこやき定食とか、焼きそば定食というものがある。あれだってダブル炭水化物である。糖尿病になってくれと言わんばかりのメニューである。

 たこやき定食はありえない。
 お好み焼き定食はありえない。

 と、誰もが思うだろうが、ところがどっこい、そうでは無いのだ。大阪府民にとっては、たこやきは、タコ料理なのだそうだ。つまりたこやき定食とは、タコ料理をご飯と一緒に食べるのであって、ご飯をおかずにご飯を食べてるのではないらしい。お好み焼きも、キャベツと豚肉の料理の1種であって、ご飯をおかずにご飯を食べてるのではないらしい。なるほどと感心してしまった。

 この話を嫁さんに言ってみた。すると、焼きそば定食は、群馬県ではあり得るらしい。焼きそばも野菜炒めの変化形らしい。つまり綿の入った野菜炒めをおかずにご飯を食べているのだそうだ。それはありえんだろうと思ったが、反論するのはやめた。なにしろ嫁さんは、麦茶に砂糖を入れる派なのだ。それが群馬県館林では当たり前だったらしい。私にしてみたら、無茶苦茶なことに思えるのだが、麦茶に砂糖を入れる地域は結構あるのである。

 まぁ、人の好みはそれぞれだし、目玉焼きをお客さんに出すときには、醤油とソースを両方出している。しかし、たまにケチャップを使いたいというお客さんや、粉チーズは無いのかというお客さんや、タバスコは無いのかというお客さんもいる。そうなのだ。目玉焼きには、いろいろな流派があるのだ。人によっては、卵の黄身を固く焼いて欲しい人もいるし、あれが半熟なのがいいと言う人もいる。ひっくり返して焼いて欲しいと言う人だっている。だから最近は目玉焼きを出す事はなくなってしまった。だし巻きか、オムレツか、キッシュを出すようになってしまった。それでも、だし巻きにソースをかける人がいるのに驚いたけど。


つづく。

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2015年04月14日

宵越しの金は持たないと啖呵を切った理由

 その昔、漫才師の島田洋七が「がばいばあちゃん(すごいおばあちゃん)」と言う本を書いた。映画にもなったしテレビにもなった。その発祥の地である佐賀県に尋ねに行ったこともある。この「かばいばあちゃん」には信じられないことが書いてある。父親のいない小学校低学年の主人公が、母と別れて祖母のところに預けられるわけだが、10歳位の男の子が、いきなりかまどでご飯を炊かさせるのである。電子炊飯器では無い。薪を使って、かまどで炊くのだ。映画や本で、その件を知った時に、まさか?と思った。実は、私はかまどを使って米を炊いたことがあるのだが、その経験上10歳位の男の子には無理だと思った。

 話を変える。最近、日本ユースホステル協会を作った横山祐吉氏を調べているのだが、その関連で大正時代の群馬県館林の一般的家庭(農家)の状態を調べたことがある。どうしてそんなものを調べたかと言うと、大正時代の都会と田舎の格差を知りたかったからである。大正デモクラシーの時代は、東京でいろいろな大衆文化が花開いた。そのために、何となく全国一律に豊かになったようなイメージがあるので、実際のところどうだったんだろうか?と思ったからだ。

 で、嫁さんの実家がある群馬県館林市辺りに的を絞って、大正時代の一般的な農家の生活レベルを調べてみたら、かなり良質な資料が何冊もあったので、それを読んでみて驚いた。当時としては裕福な家庭であっても、子供が5歳ぐらいになると家の仕事をしていた。

 その仕事というのが、驚かされるのだが、庭掃除や、鶏やヤギの餌やりはともかくとして、朝5時に起きてかまどでご飯を炊いている。 5歳の子どもといえば、まだ幼児であるのに、重い水を運んで米を研ぎ、かまどでご飯を炊いているのである。島田洋七が「がばいばあちゃん」どころではない。五歳の子供が、かまどでご飯を炊くなんて想像ができない。しかし、 100年以上前は、当たり前の光景だったのだ。

 それは、貧乏人の家の話では無い。どちらかというと、少しばかり裕福だった家の子供の話だ。では東京ではどうだったかというと、やはりかまどでご飯を炊いていた。しかし、貧しい家庭ではともかくとしても、裕福な家では5歳の子供が炊くという事はなかった。家によっては、お手伝いさんを雇っていた。

 ここで不思議なのは、館林の農家でもお手伝いさんはいたのだが、大半は子守りとして雇っていたみたいなのだ。東京のお手伝いさんは、家事全般なんでもやっていたのにである。お手伝いさんに年齢やスキルの違いがあったのかもしれない。農家のお手伝いさんは、何の教育も受けずに家から奉公に出された10歳位の子供たちである。子守以外に何もできなかったのかもしれない。だから5歳の子供にご飯を作らせたのかもしれない。

 普通で考えたら、 5歳の子供にまで働かせる館林の農家の方が貧乏な家というイメージがある。ところが、視点を変えるとこれがまったく違ってくるのだ。その視点とは、複式簿記の視点である。複式簿記とは、財産を全体的に把握する簿記の方法である。

 例えば、 100万円の貯金を持ってる人と、 100万円の借金を持っている人がいたとする。単式簿記の考え方をすれば、 100万円の借金をしてる人の方が貧乏ということになるが、複式簿記の考え方で比較したら、そのような単純な構造にはならない。 100万円借金して500万円の家を買っているかもしれないからだ。そうなると必ずしも100万円の貯金を持ってる人が金持ちとは限らないのだ。そういう考え方で、大正時代の館林の農家を見てみると、必ずしも貧乏とは限らない。 5歳の子供にご飯を作らせても、実際には東京のサラリーマンよりも資産家である可能性が出てくる。

 ではなぜ、館林の農家は5歳の子供を働かせたかというと、それは貧乏のためではなく、農地という財産を維持するためである。当時、農地や家畜を維持するためには、かなりの経費がかかっていたようだ。今のように機械化されているわけではないので、人間の労働力と言う経費で維持するしかなかったのである。あと、自営業者の悲しい性として、働けば働くほどお金が入るために、人一倍勤勉に働くという側面もある。

 それはともかく、農家の経費の中に面白い項目がある。近所付き合いという項目である。近所付き合いをうまくやらないと、ときには生死に関わる状態になったらしい。例えば、お嫁さんが出産したとして、万が一、母乳が出なかった場合は、新生児は死ぬしかない。当時はミルクという便利なものがなかった。

 だからこそ助け合いが必要になってくる。万が一の時は他の家に母乳を分けてもらうためである。新生児がいるよその家の嫁さんに、ニワトリの卵とか、米とか、精のつくものをたくさん届けて、母乳を分けてもらうのだ。もちろん、自分の子供が優先になるので、自分の子供が満腹になるまで待って、その余りをもらうことになる。あまりといっても、大して出るわけではないから、すぐに赤ちゃんは泣き出す。だから、小さな赤ちゃんを抱いて何軒もハシゴして母乳をもらいに行くのだ。もちろん、精のつくお土産を大量に背負ってである。雨の日も風の日も通うわけだから、その苦労は想像を絶するものがあるだろう。しかし、それによって1つの生命が救われるのだ。

 だからこそ大正時代の田舎では、近所付き合いを大切にしたのだ。そしてそのための経費も、考えられないくらい大きかったのである。こういうことがあるから農地という財産があっても、それを維持管理することは並大抵のことではなかった。それに比べれば、東京の下町に住む職人さん達は、維持管理するものが少ない分、少ない収入でも、かなり豊かに暮らせたようである。子供たちが重労働するということも少なかった。都会の子供たちは、雑誌を読んで投稿したり、芝居や活動写真を見に行くゆとりがあったようである。といっても、 6畳1間に家族5人が寝泊まりするという状態ではあったが。

 あと田舎の農家の経費に、宗教費の金額が大きいことも面白いところだ。宗教といっても、お寺や、キリスト教のような宗教のことでは無い。お餅をついて田畑にお供えをするとか、井戸の神様にお供えをするとか、竜神様のお祭りをするとか、いわゆるイベント費のようなものも含んでいる。この時代までの特色として、お伊勢参りなども経費に入っている。農家である限り、天災や干ばつの恐怖もあって、宗教費は欠かせないものだったようだ。これが東京になると、これらの経費はほとんど必要なかったのではないだろうか? 

 貧乏であっても、経費がかからない。物を持たないという生活をすれば、実は案外、生活が楽になるのかもしれない。江戸っ子たちは、火事のたびに街を復興してきた歴史がある。江戸っ子が、宵越しの金は持たないと啖呵を切ったのは、火事ですぐ焼け野原になる江戸という都市の中で、ものを持たない生活が身に付きすぎてしまったからかもしれない。


つづく。

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2015年04月15日

宵越しの金は持たないと啖呵を切った理由2

宵越しの金は持たないと啖呵を切った理由2

 前回は複式簿記の視点で、大正時代の館林の農家と、東京の一般人との豊かさを比較した話をしたが、同じ視点で江戸時代の武士と農民を比較するともっと面白くなる。武士は、話にならないくらい経費がかかっていた。それを分かり易く書いた本がある。「武士の家計簿」と言う本で、映画化もされている。

 例えば、金沢藩・猪山家(七十石)の当主直之の小遣いは、年間にして銀十九匁。しかし、家来の草履取りの給金は、銀八十三匁と月々五十文の小遣い。それに年三回の御祝儀をもらい、外出するたびに十五文の駄賃(チップ)をもらっていた。外出は、二日に一回くらいあったから、そうとうの金額をもらっていたことになる。しかも衣食住は保障されていた。つまり草履取りの収入は、当主の十倍くらいあった。

 じゃあ、七十石どりの武士の当主の小遣いが、どうして、それほどまでに少なかったかと言うと、これにも訳がある。給料の大半を「身分費用」に使っていたのである。自分の家来に小遣いをわたしたし、来訪があれば、相手方の家来にも祝儀をわたしていた。つまり、来客があれば、じゃんじゃん金が無くなっていく。さらに辻番にも金品をわたしていた。

 じゃ、来客が無ければよいじゃないかと思うのだが、そうはいかない。武士の身分になると、さまざまな行事があり、そのつど親戚一同が集まるしきたりになっている。節分や、端午の節句や、袴入れの儀式、元服や、七五三など。そういう行事が毎日のようにあり、おおぜいの親戚が集まり、逆に親戚のところに出かける必要がある。これを怠るとどういうことになるかと言うと、武士でいられなくなる。万が一、世継ぎが出来なかったばあい、家名が断絶するおそれがある。だから、親戚づきあいを非常に大切にした。で、その費用が、莫大な金額になっている。

 では、草履取りが資産家というと、そういう訳では無い。彼らには失うものは何もないくらい貧乏である。農地もなければ家屋敷もない。教育も受けられてない。しかし、現金収入は多い。衣食住も困らない。自衛隊員みたいなもので、貯金が溜まる一方なのだが、その貯金で資産家になったという記録も見たことがない。複式簿記的に見ると、やはり草履取りよりも武士たちの方が資産は多い。資産は多いけれど、彼らの身分費用の出費のために、生活はかなり貧しかったようだ。鯛の絵を描いて、その絵をおかずにご飯を食べているからである。だから、どんなに百姓一揆を行っても、農民たちは武士になりたいとは、これっぽっちも思わなかった。これが日本で革命が起きなかった理由である。

 話は変わるが、武士たちは、意外なところにお金を使っていた。教育費である。読み書きそろばん以外に、礼儀作法や、学問を学ばなければいけなかった。正式には藩校に通うのだが、その前に塾に通った。水戸藩を例にとると、 5歳ぐらいの幼児から塾に通っている。 5歳ぐらいの幼児たちは、夜が明ける前の5時ぐらいに塾に向かい、教室の机を並べて掃除をするのである。掃除が終わった頃に、上級生がやってくる。すると上級生たちは、 1人ずつ慇懃に下級生たちにお礼を述べた。下級生たちは、それに大喜びをしたと、当時の記録にある。 5歳ぐらいから、こんな具合だから、武士の礼儀作法というのは、厳しく美しかった。その後は、朝読みと言われる書物の音読を行う。それが終わると、いったん自宅に帰って、朝食をとる。そしてまた塾に戻って、先生から教えを乞うのである。もちろん上級生も下級生の勉強の面倒を見る。こうやって武士という美しい人種が出来上がっていくのである。なかなか大変である。経費もかかったろうけれど、本人たちの苦労も大したものだと思う。このような武士という人種が、当時の日本に5%ほど存在した。

 もちろん農民たちも寺子屋で勉強はしている。地域によっては、武士と農民が一緒の寺子屋で学んだというケースもあったかもしれない。なにしろ江戸時代の識字率は、世界一高かったと言われている。幕末期においては、武士がほぼ100%。嘉永年間(1850年頃)の江戸の就学率は8割で、裏長屋に住む子供でも手習いへ行かない子供は男女ともほとんどいなかったという。これに対し1837年当時のイギリスの大工業都市での就学率は、たったの2割である。

 ドイツのシュリーマンは、1865(慶応元)年に日本を訪れ「教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。シナをも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知の中に放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」と驚いている。

 では、具体的な例を挙げるとして朝鮮半島の場合を述べる。マジソン大学のマイケル・セスの研究によれば、明治38年においても朝鮮半島では、近代的な小学校の数が7校から8校しかなく、人口1200万の朝鮮半島で学校に通っている人間の総数は、 500人前後であったと言っている。 500人とは、あまりに少ない。本当なのか?と疑いたくなるくらいに少ない。この後、日韓併合が行われ、朝鮮総督府は盛んに教育の普及を始めるが、なかなか進まなかった。それでも1937年に子供たちの3分の1を学校に通わせている。義務教育の実施は1946年からスタートする予定であった。他のアジア諸国は、もっと悲惨な状態だった。義務教育を実施しようとしていた国家は、 1カ国もない状態であった。東アジアで、日本だけが近代化できた理由はこの辺にあると思う。


つづく。

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軽井沢おもちゃ王国がオープンした

 今週から冬期休園中だった軽井沢おもちゃ王国がオープンした。実は私は今まで、このテーマパークをほとんど宣伝してなかった。興味もなかった。興味を持ったのは、息子が産まれてからである。息子が生まれる前と後では、こうも違ってくるから面白い。頭で考えていたことと、体験した後では、まるで違っている。やはり自分は頭でっかちであったと思わざるを得ない。

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 うちの嫁さんが妊娠した時、軽井沢おもちゃ王国については全く眼中になかった。もし息子が生まれたら、あんなテーマパークなんかには絶対に連れて行かないと思っていたからだ。現に、生後1年くらいは、寄り付きもしていない。私は息子を背負って、毎日のように浅間牧場を歩き、小浅間山に登っていた。アウトドア一筋だったのだ。

 愛犬コロと一緒に、一面の芝生に覆われている浅間牧場をよく散歩した。息子も愛犬コロも楽しそうにしていた。おかげで、すごく丈夫な健康体に育った。身体能力も人並み以上になった。自分の身長を超える出窓をロッククライミングをするように、するすると登ったし、 80センチもあるベビーフェンスもするすると越えていった。まるで体操選手のように活発に動くようになった。息子には、おもちゃ王国のようなテーマパークは必要ないと思っていた。もちろんおもちゃなんかも、あまり買い与えてない。あるのはもらいものばかりである。



 ところがである。息子が1歳を超える頃に、息子に足りないものがあるのに気がついてしまった。うちは宿屋である。軽井沢おもちゃ王国から車で5分のところにある宿屋である。当然のことながら、息子と全く同じ位の年頃の赤ちゃんがいっぱい泊まりに来た。皆さん、おもちゃ王国狙いである。もちろん、おもちゃもたくさん持ってきている。ベネッセのしまじろうの通信教育なんかも皆さん受けていた。もちろんうちの息子は、そういうものは一切やっていない。そのせいか、おもちゃに異常に執着するのだ。今まで見たこともないので、おもちゃを見つけてしまったら、自分の好奇心を抑えきれないのである。要するに免疫がないのだ。と同時に、他の子供に比べて器用に箸やスプーンを使えてなかった。おまけに御客様のお子さんと比較して社会性も足りなかった。

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 これはまずいと思った私は、トイザらスやおもちゃ王国に連れて行くことにした。効果はてきめんだった。軽井沢おもちゃ王国に何度も行くうちに、他の幼児との距離のとりかたを覚えていった。他人が遊んでいるオモチャをとりあげてはいけないことも学んだ。外に出るときは、靴を履くことも覚え、かたづけることも少しずつ覚えるようになった。おもちゃでの遊び方も少しずつ覚えていったようだ。指先手先も、少しずつ器用になってきた。やはり子供には、おもちゃが必要なのである。社会性が磨かれるし、遊びの幅も広がってくる。なにより動きが活発になってくる。

 もちろん浅間牧場や小浅間山でも、石ころや棒きれを拾って、それをおもちゃにして遊んではいるが、本物のおもちゃには敵わない。浅間牧場や小浅間山での息子は、かなりぼんやりしていた。のんびり遊んでいた。時間の流れが止まっているようだった。これがおもちゃ王国やトイザらスやトイプラネットなどに行くようになると、途端に息子の中の時間が早くなって来る。きびきびしてくるのだ。見た目には、脳が活性化されているように見える。浅間牧場だと、もっとのんびりしていた。

 もちろん、息子にとって、どっちが幸せなのか分からない。
 しかし、いつまでもアウトドアの世界ばかりしか見せなかったら、
 確実に現代社会で落ちこぼれると思ってしまった。

 現に、自治体の幼児のためのプログラムに参加すると、うちの息子はワンテンポもツーテンポも遅れをとっていたのである。しかし、公園や、おもちゃで遊ばせるようになったら、人並みに動けるようになってきた。もう遅れをとるような事はなくなった。ただし、身体能力は以前より劣ってきたかもしれない。もう自分の身長より高いフェンスを乗り越えて脱出するような事はなくなった。ハラハラするように階段を登ることもなくなった。これがいいのか悪いのか、現時点ではわからない。

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 ところで、 2歳児になると、自治体の方で母と子供のプログラムをやってくれる。保育所に入る前の準備プログラムのようなものだ。私も参加したいのだが、母と子供のプログラムなので、父親にはその資格は無い。で、うちの嫁さんが息子を連れて参加した結果、嫁さんのやつは非常に感心していた。そのプログラムは、15人の幼児に対して、10人の先生たち(保育士たち)が対応していたのだが、これがまたかなりプロフェッショナルな仕事をしてくれたらしい。

 体操したり、ゲームをしたり、鉄棒にぶらさがったり、歌を歌ったりしたらしいのだが、親が何週間かけてもできなかったことを、先生たちは数分で子供にやらせてしまったらしい。私は見てないからわからないのだが、鉄棒にぶら下がると言う芸当をどうやって仕込んだのか? その技を是非教えてほしいものだ。段ボール箱で作ったトンネルを、次から次えと息子にくぐらせたらしいのだが、いったいどうやったら、息子をその気にさせたのか知りたい。

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 やはりその道のプロというものは、本当にすごいものだと感心してしまう。こう言ってはなんだが、託児所ではこうはいかなかった。そもそも子供の扱いのレベルが違っているようなのだ。もちろん私が体験した訳ではなく、嫁さんの話を聞いただけなので、本当のところはどうなのか分からないが、自分の目で見てないだけに、非常に興味深い。なるべく早く息子を保育所に入れたくなってきた。

つづく。

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posted by マネージャー at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | おもちゃ王国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月16日

香典豆知識

 まず最初に関係ないことから。
 今日、蔵王山に噴火警報が公表された。
 去年の御岳噴火こともあるので、気をつけてほしい。

http://www.jma.go.jp/jp/volcano/forecast_02_20150413133028.html

 レベル3(入山規制) 3月31日の御嶽山以来の警報である。
 火口から1.2kmの範囲は警戒してほしい。

 それはともかくとして、近いうちに嫁さんの父親の23回忌がある。嫁さんは、あたふたと準備をしている。香典袋を探したり、あまり使ったことのない喪服や革靴を探したりしている。なにしろ北軽井沢の田舎に住んでいるものだから、普段から革靴など履いたたことがない。どこに片付けたか分からなくて探し回っている。ふだんはゴム長靴か登山靴以外はいたことがないからだ。ちなみに、嫁さんの実家は曹洞宗である。群馬は曹洞宗がやたらと多い。

 私の祖母が死んだ時は、真言宗であった。佐渡島にある小比叡と言うお寺のお坊さんが葬式を行った。小比叡というのは、比叡山のミニバージョンという意味らしいが、比叡山は天台宗だったはずだ。なぜ小比叡なのに真言宗なのか謎である。

 まぁそんな事はどうでもいいとして、祖母が死んだときに初めて真言宗の葬式を体験したわけだが、目が点になるような葬式だった。何人もの僧侶がやってきて、声明(しょうみょう)という歌を聞かされた。お経を謡曲のように歌うのであるが、さながら日本版ウィーン中年合唱団のような感じである。その上、葬式に来ていた人たちみんなで何やら怪しい踊りを踊っていたのにも目が点になったものである。その後、お坊さんが、いろいろな呪いみたいなことを、事あるごとにやっていた。いかにも密教という感じであった。

 それから比べると曹洞宗のお葬式は、かなり簡素である。密教のような怪しさもないし、お経も素人の耳で聞き取れるようにハキハキと上げている。そして僧侶の話がうまいし面白い。おまけに、 1人1人に色々な言葉をかける。例えて言うならば真言宗がカトリックだとすると、曹洞宗はプロテスタントのような雰囲気がある。


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 長い前置きはこのくらいにして、香典について話したい。事の起こりは嫁さんが、香典にいくら包むかという疑問から、インターネットで調べたことから始まる。そして、香典についての豆知識を得た。そして私に語りかけた。

「お供え物は、お供えした後にお墓から持ち帰らなければいけないの知っていた?」
「カラスが食べちゃうからね」
「それもあるけれど、仏様は香りしか食べられないらしいよ。だから香典も『香り』と言う文字を使うんだって。仏様には香りを食べてもらって、お供えは、お墓から持ち帰るのが礼儀なんだって」

 嫁さんはインターネットの豆知識を披露した。
 なので私もお返しに自分の知ってる話を披露した。
 私の豆知識は、ネットではなく本から得たものである。

「昔はね、お墓にお供え物を置いて帰ったんだよ。そのまま持ち帰らなかった。これは群馬県の話なんだけれどね」
「どうして?」
「お墓のあたりには、食うや食わずの子供たちや、子供を背負って放浪している女の人たちが、こっそり隠れていたんだ。そしてお供え物をいただいて命をつないでいたらしい。だから明治大正の頃は、お供え物を持ち帰らなかった」
「お供えをとった人に仏罰は?」
「ないない。喜捨だから。仏様には香りを差し上げたのでそれでおしまい。残ったお供え物は、貧しい人に持っていってもらうことによって、善を積み重ねることができるので、これはこれでいい。群馬県の昔の農家には、そういう風習があった。昔は福祉施設がなかったから、このように貧しい人にお布施をしたわけさ」
「うーん」
「場合によっては、お墓でお祈りしてる時に、我慢が出来なくて、お墓の後ろから手が出てきて、お供え物とっていく人もいたらしいけれど、それも黙認していた」
「・・・」
「でもそういう人たちは、人様から物乞いをしたくない。いわゆる少しばかりのプライドのある人たちなんだよね。顔を隠してこっそりお供え物をもらうわけだから。もっと困っていた人たちは、直接、 1軒1軒家を回って物乞いをした」
「・・・」
「そういう場合は、どの家でも必ずなにがしかのお布施をした。恥を忍んで家を回るのはよほどのことだと察したわけだ。つまり、当時の日本人は、よほどのことがない限り、そういうことをしなかった。よほどの事だったから喜んで布施をした。むしろ布施行として喜んでやった。あと、お布施は、すぐに食べられるものをあげた。お金をあげても、昔の事だから、コンビニで食料を買うこともできない。店なんかなかったからね。かといって、お米をあげても、生で食べるわけにもいかない。だから、握り飯とか、お菓子をあげたりした」
「・・・」
「これが平成時代なると、生活保護を受けられずに餓死する人がニュースになったりしているのに、ベンツに乗って生活保護を不正にもらっている人たちもいる。お供え物もカラスが食べ散らかすから持ち帰らなければならなくなった。」

つづく。

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2015年04月17日

懐古園の桜と妙義山さくらの里は、八分咲から満開へ

 今日はスタッフの土井くんが、嫁さんと娘さんを連れてきている。明日、善光寺の御開帳を見るためである。娘さんは、この4ヶ月の間にすっかり大きくなった。歩き方もしっかりしたもので、歩くのが楽しいという感じである。宿の食堂を行ったり来たりしたり、階段を登って遊んでいる。テレビなどのマネもしていた。大きな声で「イエーイ」と何度も何度も叫んでいた。

 早速、うちの息子と対面させてみたが、うちの息子は、冷凍マグロのように30分ぐらいフリーズしていた。土井くんの娘さんが、あちこち歩きながら遊んでいるのを、フリーズしながらじーっと眺めていた。明らかに緊張しているようである。両手を胸に当てて固まって動かない。おまけに鼻血を出した。と書くと、比喩的表現と誤解されそうなので、もう一度書く。鼻血はリアルな話である。

 その逆に土井君の娘さんは、うちの息子の存在を感じていない。たぶん人形か何かだと思っているのだろう。フリーズして固まっているうちの息子の周りを、楽しそうに、ぐるぐる回っていた。そして、あちこちで暴れまわっていた。その間うちの息子は、ゴジラでも見るように、遠くで眺めているだけだった。そこで、おもちゃを使って、 2人を並べて座らせたが、土井くんの娘さんは、おもちゃを放り投げて遊ぶのに夢中であった。

 ちなみに土井くんの娘さんは、 1歳6ヶ月である。うちの息子とは6ヶ月差になるが、やはり成長が早い。歩き方もサマになっているし、 1歳6ヶ月にしては言葉もはっきりしている。なにしろ大きな声で「イエーイ」と叫ぶくらいである。 1歳6ヶ月から英語を話すとは、大したものである。やはり女の子は、成長が早い。もうこれは確信に変わった。大人ならいざ知らず、小さいうちは女の子の方が圧倒的にIQが高いようである。

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 話は変わるが、昨日、小諸の懐公園に花見に行ってきた。まだ8分咲だったが、すぐに満開になると思う。毎年10ように懐古園に花見にいくのだが、さすがに美しいものだ。小さなお子さんたちもたくさんいたので、息子も大喜びだった。幼稚園の団体さんや、保育園の団体さんも来ていたし、老人たちも多かった。みんな幸せそうに、花見をしているのを眺めるのは本当に気持ちいい。ここには上野公園の花見のような乱痴気騒ぎはないし、酔っ払いもいないし、人もそんなに多くない。ただひたすら懐古園の桜を眺めている。

 ちなみに、妙義山さくらの里も、八分咲から満開くらいになっている。花見をするなら、妙義山と懐古園が良いかもしれない。須坂の方は、どうだろうか? 明日、土井君が家族揃って、花見に行ってくるので、詳しい報告してくれると思う。

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つづく。

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posted by マネージャー at 17:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 小諸市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月18日

2歳0ヶ月の社会性

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 今日もスタッフの土井くん家族が滞在している。娘さんのアキナちゃんは、1歳6ヶ月。うちの息子は2歳0ヶ月である。両者が対面したわけだが、うちの息子は大人しい。すっかりお兄ちゃんなっていた。アキナちゃんに遠慮しつつ、お兄さん的に対応していたのに驚いた。こんな年齢でも役割人格が現れるらしい。どこで覚えたか大人の対応をしていたので驚いた。

 土井君の奥さんと息子のタケルが、積み木でタワーをたてている。
 そこにアキナちゃんがやってきて、次々と破壊していた。
 1歳6ヶ月頃ならそんなものである。
 積み木は破壊するものなのだ。
 しかし2歳となると積み木で遊ぶことを知っている。

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 だから息子は積み木で建物をつくるけれど、アキナちゃんは、それを破壊してしまう。
 それに対して土井君は息子に謝った。
「タケル君ごめんね」
すると息子は、信じがたいことに
「いいよ」
と答えた。

 こんな事は、いままで無かった。これもアキナちゃんが、北軽井沢ブルーベリーYGHに2泊したからである。アキナちゃんという存在を意識することによって、うちの息子に社会性がついてきたようなのだ。これは親が何度教えてもできなかったことである。逆にいうと保育所や子育て支援センターなどで他の子供たちと一緒でなければ学べない何かがあるのかもしれない。親が何をやっても出来ないことを、子供たちの集団の中ならば、すぐに学べる何かがあるのかもしれない。

 ところで、今日も浅間牧場を散策した。
 クマの痕跡をみつけた。
 のぼり旗を食いちぎった跡があった。
 クマたちも冬眠から目覚めたようだ。
 北軽井沢も春なのである。
 息子は、愛犬コロと一緒に芝生を走り回っていた。
 雪国の人間にとって、春は一年で一番幸せな季節なのである。

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posted by マネージャー at 23:47| Comment(4) | TrackBack(0) | グンマーで嫁が出産と育児 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月19日

近所に住んでいるお客さん

 30 kmも離れてない市町村のお客さんが、よく家に泊まりに来る。その人が、
「こんなに近くから泊まりに来る人間は、私ぐらいしかいないでしょうね」
と自嘲気味に笑っていた。

「いやいやそんなことないですよ」

 実は、家に泊まりに来たお客さんで、最も近くに住んでいた人は、 100メートルも離れていなかったのが最短距離のレコードである。近くに別荘を持っているお客さんだった。いつもは別荘にとまってるのだが、人数があぶれてしまうと家に泊まる。定住者に限って言えば、10キロも離れてない同じ村内に住んでいるお客さんも泊まりに来ている。お嫁さんが息抜きに泊まりに来るケースもあれば、ホテルの寮から抜け出して泊まりに来るケースもある。みんな命の洗濯をしに来ているのだ。

 これは宿屋を経営するまでわからなかったのだが、宿に来る人たちは、必ずしも旅先で泊まる所として利用しているわけではなかった。ただ泊まりに来る人も多かった。体の疲れを癒しにくる人も多いのである。そういう人たちをみてわかった事は、本当に疲れている人は、車で遠くに移動するのも億劫になっている。だからリーズナブルな価格で、疲れを癒せる宿が近くにあったら、そこに泊まりに来るケースも多いのである。宿屋を始めてその事実を知って驚いたものだ。

 同じ村内の嬬恋村に住む人が泊まりに来るケースも多いが、軽井沢町、小諸市、佐久市、東御市、上田市などに住んでる人も、泊まりに来ることが多い。どの市町村も車で1時間の距離だが、よく泊まりに来る。そして「浅間山の反対側を見に行きました」と言うのである。浅間山の南側は、人口が密集してて癒されないのだそうだ。だから浅間山の北側に来て、早朝にのんびり牧場を散歩をしたいらしい。そのためにうちの宿に泊まりに来るのである。

 宿を始める前は、お客さんの大半は遠くから泊まりにくるものだと思っていた。しかし実際に開業してみると、必ずしもそうではないのである。遠くに出かけるから宿に泊まらなければならない、つまり必要に駆られて宿泊するお客様ばかりではなかったのだ。

 あと意外だったのが、前橋や高崎から泊まりに来るお客さんも多かったことだ。前橋は高崎は暑いのだ。夏の暑さを避けるように、うちの宿にやって来ていた。軽井沢町、小諸市、佐久市、東御市、上田市から来る人たちのほとんどが一人旅であるのに対して、前橋や高崎から来るお客さんの大半がファミリーだった。とにかく涼しければそれでいいというご家族もいれば、ハイキングを目的に来るご家族もいる。あくまでもハイキングが目的なので、無理して遠距離に出る必要性はないのかもしれない。

 去年の夏は、大勢の新規のお客様がきてくれたわけだが、その3割ぐらいは群馬県内のファミリーのお客様だった。去年の夏は猛暑ですごかったので、手っ取り早く涼しいところに逃げ込もうとして、北軽井沢の宿を選んでくれたのかもしれない。また、平日には宿屋のオーナーが泊まりに来たりする。こうなると同業者同士で話が盛り上がる。ホテルの営業さんなんかも泊まりに来る。カメラマンや、登山ガイドさんや、遠足の下見に来る学校の先生なんかもいる。私から情報を仕入れるためである。ガイドの仕方を教えてくれということで何泊か泊まっていったガイドさんもいた。その時は私がガイドさんの先生をしたものだ。人形劇団とか、ビジネスマンも多い。中には、不動産を探しに来る人もかなりいる。その中の何人かは、今はご近所さんとなっている。

 印象深い思い出は、嬬恋村出身者の同窓会をうちの宿で行った時にである。全国に散らばっていた嬬恋村出身者が、北軽井沢ブルーベリーを貸し切って同窓会を開いた。私は、みんな嬬恋村出身者だと聞いてなかったので、彼らを相手に嬬恋村の説明をしたり、星空を案内した。みんなものすごく熱心に聞いてくれたので、調子に乗って夜の浅間牧場や、鬼押し出しのあたりを案内した。しまいには二度上峠まで案内した。素晴らしい星空に皆さん感動していた。後で、嬬恋村の出身者だと聞いて腰を抜かしたが、その後にもっと驚いた事は、地元民は、意外に地元の事を知らなかったということである。だから、私の作ったホームページをみて、ここで同窓会を開くことにしたらしい。どうりで反応が良かったわけである。

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2015年04月20日

遠くからやってくるお客さん

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 遠くからやってくるお客さんについて。当然のことながら1番遠くからやってくるお客さんは、ヨーロッパのイギリスかアメリカのニューヨークだろう。正確に地図で測ったわけではないが、この2つのどちらかが、 1番遠かったと思う。ニューヨークから北軽井沢を目指してやってきたお客さんは、日系人のグループだった。最初は、日本人の団体さんが来るのかなと思っていたが、いざお客さんを迎えてみたら、もろ完全無欠のアメリカ人だった。ご先祖様は日本人だったかもしれないが、心は完璧にアメリカ人である。バス停まで迎えに行ったら、レディーファーストなのか、男性が車のドアを開けて女性をエスコートする。男性が女性の荷物も持ってあげてた。

 うちの宿にはイギリス人のお客さんも泊まりにきているが、そんな光景は見たことがない。レディーファーストといえば、イギリスが本家本元のイメージがあったのだが、少なくともうちの宿に泊まりに来たイギリス人は、そういう人たちはいなかった。もっともバックパッカーだから、そういうことをしないのか、その辺はよくわからない。

 あと、日系人のアメリカ人たちは、宿に着いたら1人がギターを始めた。すると、みんな何やら歌いだしてダンスを始めた。その光景を見たときに、この人たちは日本文化の人たちじゃないんだなと確信した。話は変わるが、うちの宿に泊まりに来たイギリス人で、そんなことをする人たちを見たことがない。そもそもイギリス人は歌わないイメージがある。関係ない話だが一般的なイギリス人の宗教に対する感覚は、日本人に近いものがあるかもしれない。

 ドイツ人が夫婦で北軽井沢に泊まりに来たが、彼らも踊ってなかった。しかし私はドイツを旅行したときに、ドイツ人が歌ったり踊ったりしているのを何度も見ている。バンドのいるレストランで食事をしていると、ドイツ人夫婦たちは、一緒に踊っていたものだ。彼らは日本に来たとしても、踊り出すのだろうか? その辺は非常に興味がある。

 フランス人も、北軽井沢ブルーベリーに何人か泊まっている。フランス人といえば、ちょっとワガママなイメージがあるのだが、うちの宿に泊まったお客さんに限って言えば、礼儀正しくおとなしい人たちであった。見た目も日本人ぽい。それをフランスのお客さんに質問してみたら、フランスという国は混血が進んでいて、アーリア人ぽい外見のフランス人は少なくなっているらしい。

 またフランス人は、フランス語しか喋らないというイメージもあるのだが、うちの宿に泊まっているお客さんに限って言えば、日本語を話す人が多い。イギリス人も片言の日本語を話している。日本語を話せないのは、もっぱらアメリカ人である。しかし、アメリカ人は人懐っこいから日本語を話せなくても、すぐに日本人と仲良くなる。ところが、日本語を上手に話せるヨーロッパ人は、必ずしも日本人とすぐ仲良くなるとは限らないのだ。ある程度、距離を保って接してくる人が多い。

 そういえば、アフリカから来られたお客さんも礼儀正しく静かな方たちが多かった。インドのお客さんも礼儀正しかった。日本人よりも礼儀正しいイメージである。もっとも彼らは、いわゆるエリートなのかもしれない。オーストラリアやニュージーランドからかた来た客さんもいたが、彼らは、同じ英語圏ではあるが、アメリカのような人懐っこさはなかったかもしれない。もちろん日本語は話さない。片言でも日本語を話すのは、たいていヨーロッパ人である。しかしオーストラリアやニュージーランドの人たちは儀正しいのは一緒で、丁寧な礼状を送ってきたりする。ただし英語である。

 アメリカ人は、人懐っこい。すぐにハーイと言う。なぜかドイツ人はハローである。そんな事はどうでもいいとして、アメリカ人も州によって千差万別である。典型的な陽気なアメリカ人は、たいていカルフォルニア州あたりの人が多い。オレゴンとかアイダホ州あたりの人は、少しシャイかもしれない。で、アイダホの人に聞いてみたら、 16分の1だけ先住民の血が流れていると言っていた。彼女(アイダホ人)が、北軽井沢に泊まりに来たとき、偶然にも嬬恋村に住んでいるアイダホ人がいたので、お互い会わせててみたら、嬬恋村に住んでるアイダホ人も、 4分の1だけ先住民の血が流れていた。どうりで背丈が低かったわけだ。で、アイダホ人どうし仲良く話をするのかと思ったら、そんな事はなかった。しかし、互いに無視しているというわけではなくて、シャイで戸惑っている感じである。アメリカ人にも関東と関西の違いみたいなものがあるのかもしれない。

 台湾から来た御客さんは、うちの宿を絶賛してくれたのはいいとして、落書きノートに「北軽井沢は冷たいです」と書かれてしまった。北軽井沢は冷たかったのだろうか? それとも「寒い」が台湾では「冷たい」の意味なのだろうか? ちょっとモヤモヤする。ちなみに台湾の人たちは、昭和時代の日本人みたいな人が多く、なにか懐かしくなる。東アジアでは珍しく控えめで自己主張も少ない。

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 国内で1番遠い所から来た人といえば、沖縄だろう。沖縄の小さな離島から来たお客さんは、電車の旅が好きだと言っていた。大喜びで雪遊びをしていたけれど、想像していたよりも寒くないと感想を漏らしていた。どうやら北軽井沢をシベリアの奥地ぐらいに思っていたらしい。逆に北海道から来たお客さんは、北軽井沢が北海道よりも涼しいのに衝撃を受けていた。北海道民は、自分のところが1番寒いと信じ込んでいたらしく、それでも寒い北軽井沢に驚いていた。

 沖縄と北海道の次に遠方から来るお客さんといえば、九州と四国かもしれない。九州のお客さんは、関東地区に来ると醤油の種類が違っているので衝撃を受けるらしい。九州の醤油は、ちょっと甘いのである。それはともかく、九州のお客さんに「北軽井沢は寒いでしょう」と言うと、そんな事は無いという返事が返ってきたりする。どうやら阿蘇や湯布院あたりでは、北軽井沢並みに寒いらしいし、地域によっては大雪も降るらしい。

 さて四国だが、同じ四国でも、高知県と香川県では別の種族である。香川県や徳島県は大阪に近いけれど、高知県ともなると北九州よりも遠いイメージがある。それだけに、遠いところからよく来たなあと思う。

 思い出深いのは、東京からやってきたお客さんである。どこからきたんですか?と尋ねると、東京ですと答えていた。しかし、何か話が噛み合わない。変だなぁと思って、よくよく聞いてみたら東京は東京でも小笠原諸島だった。小笠原ユースホステルのマネージャーや、母島ユースホステルのマネージャーも北軽井沢に泊まりにきている。考えようによっては、彼らが1番遠い所から来たお客さんなのかもしれない。ロンドンやニューヨークよりも、確実に時間がかかるわけだから。

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2015年04月21日

徒歩でやってくるお客さん

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 昔、今は亡き釧路牧場ユースホステルでヘルパーをしていたことがある。仕事は、受付業務だった。お客さんからの予約を電話で受け付けたりする。その次に名前や住所や電話番号を聞くのである。そして交通手段も当然のことながら聞く。そうしないと、駐車場の確保などができないからだ。ある時、今日これから泊まりたいと言う男性から電話がかかってきた。奇跡的に、その日は男性一名だけ空いていた。

「交通手段は何んですか?」

 と聞いたら、信じがたい回答が返ってきた。

「カヌーです」
「え? 」
「カヌーです」
「え? すいません聞き取れなかったのでもう一回お願いします」
「カヌーです」

 ちなみに釧路牧場ユースは、北海道の釧路市内にある。人口1を8万人の大都市だ。

「カヌーですか?」
「カヌーです」
「すいません、昨日はどちらにお泊まりですか?」
「摩周湖ユースホステルです」
「はぁ・・・・。ちなみにカヌーは、釧路川に置いてくるんですか?」
「いいえ、そちらのユースホステルまで持っていきます」
「ええええええええええええええええええええええええええええええええ?」

 その後、ヘルパーだった私は、ワクワクドキドキしながらお客さんを待った。しかしお客さんは、 18時の夕食がスタートしてもなかなかやってこなかった。で、夕食を食べているお客さんに、

「今日はカヌーでやってくるお客さんがいるんですよね。しかもそのカヌーで、このユースホステルに来るらしいんですよ」

と話したら、どよめきが流れた。ここは街中である。この辺には川は無い。どうやってくるんだろう?と、みんな口々に囁いていた。すると自分の身長ほどもある巨大な折りたたみカヌーを背負ったお客さんが、食堂の窓を歩いてくるのを誰かが発見した。
 カヌーだ!
 どよめいた。
 みんな拍手していた。
 しかしその時、お客さんの誰かがささやいた。

「これって交通手段が可能じゃなくて、徒歩なんじゃない?」
「あああーーーー」

 館内が、再びどよめいた。

 確かに徒歩なのだ。カヌーを背負って徒歩で歩いてきている。カヌーを使って多少は移動をしているのだろうが、カヌーをこいで屈斜路湖に行ったわけではないだろう。電車で上流まで行って、徒歩でカヌーを担いで釧路川まで行って、それから釧路川を下ったんだろうと思う。客観的に見ればそうなのだろうが、彼にとっての交通手段は、カヌーなのかもしれない。ひょっとしたら、私が交通手段は何んですか?と尋ねるのを期待して「カヌーです」と、どや顔で回答する気満々だったとしたら、彼の作戦は大成功を収めている。

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 長い前置きはこのぐらいにして、本題に入る。

 宿屋をやっていると、信じがたい交通手段でやってくるお客さんが時たま存在する。例えば、自転車で日本一周している人とか、徒歩で日本を縦断している人とかである。うちの宿にも、何人もの人たちが、歩いて日本を縦断している人たちが泊まりにきた。恐ろしいことに男女比で言うと半々ぐらいである。

 徒歩で日本一周する人たちや、日本を縦断する人たちは、なぜか九州の南端から出発する。その逆は聞いたことがない。どういうわけか、北に向かうのである。南に向かって旅をする人たちは、あまりいない。逆に、車で日本一周する人たちは、北から南に南下する人たちが何人も居た。しかし歩いて日本縦断する人たちは、必ず南から北に向かうのだ。なぜだろうか? そういえば植村直己さんも南から北に向かって徒歩旅行をしていた。どうして、みんな北に向かって歩くのだろうか?

 そういう人たちが、ユースホステルに泊まるとき非常に苦労するらしい。平日にオープンしている宿が意外に少ないからだ。そのために当日ではなく、前日ぐらいに泊まれるかどうか聞いてくる。うちの宿は、平日のお客さん大歓迎なので、私が空いてますよというと、うれしそうに予約を入れてくる。その時に交通手段を聞くと、歩いて日本一周してますといってくる。

 きたな。

 私は、即座に戦闘態勢になる。こういう人たちは、ひとりで五杯の飯を食うからである。だから、いつもの二倍から三倍の料理を作って、てぐすね引いて待っているが、これがなかなか到着しない。19時ぐらいに到着したりする。距離計算ではなく標高差計算を間違えてこういう結果になるのだ。で、食事を出すと、ものの十分ぐらいで5杯飯をペロリと食べてしまう。米を三合ぐらい炊いてあるのだが、すべてスッカラカンだ。まかないの分も空っぽである。それだけ食べておいて、
「いやー、この宿の夕食は量が多いですね」
なんて言うので笑うしかない。無理して全部食べなくてもいいのに。残りはまかないかもしれないのに。きっと、あれば食べてしまう人なんだろうなぁと。

 そういえば私も若い頃は、ユースホステルに宿泊したら、朝食も夕食も、ご飯を五杯ぐらいおかわりをしたものだ。おなかいっぱい食べて、節約のために昼飯を抜いたものである。もちろん自分用のふりかけも持参していた。最後にはおかずがなくなるので、ふりかけでご飯を食べていたのである。私も人のことをとやかく言えないのだ。

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 その後、 21時30分から始まるお茶会にも、もちろん登場する。毎度のパターンなのだが、こういうお客さんは、しゃべってしゃべってしゃべりまくるのである。理由は彼らから聞いて納得した。中部地域の人たちは、真面目なので、よそから来る人たちにある程度距離を取るらしい。そのために、他人と会話する機会が極端に減ってくるらしい。

 これが九州とか四国になると全くそういう事は無いらしいのだ。だから、旅先でも寂しい思いをすることは全くなくて、いろんな人と出会い楽しい思い出が沢山できる。ところが、関西に入ってくると、そういうことが徐々に少なくなってきて、中部地域に入ると急に孤独になるという。何か避けられているような感じがするらしい。

 なにしろ彼らは、歩いて旅をしている。ゆっくりゆっくり移動しているために、なかなか先へ進めない。それぞれの地域をべったりと這いつくばっているわけだから、地域の文化風習をもろにかぶってしまうらしい。四国や九州だと野宿やキャンプ場や駅で寝ても寂しくないらしいのだが、中部地域ではそうはいかないらしい。で、人恋しくなってユースホステルに泊まるようになる。しかし平日に泊まってもお客さんが一人もいないケースが多いので、お客さんと会話するユースホステルのオーナーと出会うと、会話するのが楽しくてたまらないという感じになるらしい。

 この気持ちは私もわかる。なぜならば、私も二十代の頃に歩いて日本縦断をしてるからだ。そして同じ体験をしている。ただし、少しだけ違うところがある。昔はユースホステルに、今よりお客さんが多かったことだ。平日に泊まっても0人という事はなかったと思う。そういう意味で、今のお客さんは少しばかりかわいそうに思う。

 私は、お茶会で御客さんの武勇伝を聞く。面白いので何度も質問する。するとますます御客さんは得意になって話してくれる。もちろんお客さんにスケジュールを聞くことにしている。もし谷川岳ラズベリーユースに泊まる予定があるようなら、電話で宿のオーナーに御飯の量について教えとこうと思うからだ。それで、一応スケジュールを聞いておくのだが、明日は、朝七時ぐらいに早く出発すると聞いた。そのつもりで、こちらも準備しておいて、朝の六時ぐらいに食事の準備をしていたりすると、日本縦断のお客さんは
「もう1泊していいですか?」
と言ってきたりする。そうだった。こういう人たちにスケジュールなんて、意味がなかった。昔の私もそうだったが、その日の気分次第で行動を決めるのが特徴であった。よほど寂しかったんだろうなぁと同情してしまう私がいた。しかし、その寂しさも東北地方に入っていくと、嘘のようになくなってしまうのだ。東北や北海道では、いろいろな出会いがあるのである。もちろん、それも御客さんに教えている。

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つづく。

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2015年04月22日

自転車でやってくるお客さん1

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 自転車で旅する人たちは、ものすごい経費をかけなければならない。それは、実行した人でないとわからないかもしれない。何を隠そうワタシ自身も、自転車で日本中を旅したことがある。今から20年以上前に、旅行仲間たちとある実験を行った。ママチャリで何回東海道を往復すると壊れてしまうかの事件である。まず最初に私がママチャリで大阪に向かった。ママチャリで移動なので、だいたい600 kmぐらいあったと思う。国道1号線は、途中で自動車専用道路になったりして、ママチャリだといろんなところを遠回りしなければいけないからである。まぁそれはともかくとして、何十回もママチャリで東海道を往復したわけだが、当時のママチャリは日本製品だったせいか、全く壊れる様子はなかった。なのでこの実験は途中で放棄されてしまった。

 ところで、ママチャリで遠距離を移動してわかったことなのだが、自転車は丈夫であってもタイヤは消耗するのである。だいたい800 kmぐらい走行すると、タイヤがつるんつるんとなって、交換しなければいけなくなる。ゴムチューブはその倍ぐらい走ると、パンクスが多くなってやっぱり交換が必要となってくる。自分で交換すれば安いのだろうが、東海道走ってる間に知らない町の国道1号線沿いの自転車屋で交換する羽目になるので、高くつく。 5,000円から7,000円ぐらいするのである。おまけに何度かパンクするので、その費用も馬鹿にならない。結局、東京から大阪まで行くのに、ママチャリよりも夜行バスの方が安かったりするのだ。バカバカしいったらありゃしない。

 もう一つわかったことがあった。東京から大阪に行く場合、基本的にすべて向かい風になるということである。その逆はすべて追い風になるので、女の子でも体力的に問題は無い。怖かったのは箱根の山だった。箱根の山を登るのは問題なかった。体力は奪われるが、それは大した事では無い。問題は箱根の山を沼津方面に下る時である。あまりの下り坂でブレーキが効かなくなるのだ。そして法定速度で走っている自動車を負い抜かすことになる。考えてもみてほしい、時速60キロの自動車をママチャリが多い抜かすのである。生死をかけるもいいところだろう。もう一つの鈴鹿山脈は、なだらかだったので大して問題はなかった。

 ちなみに私が東京から大阪に走ったときは、巨大な台風が来ていた。しかも2つもである。出発の時に台風だったし、鈴鹿山脈を越える時にも台風だった。なので鈴鹿山脈のトンネルの中で、寝ながら台風をやり過ごした。本当だったら、 3日で大阪まで行く予定だったのだが、台風のために鈴鹿山脈の中のトンネルで、じっとしていたために、 3日と半日かかってしまったのが残念といえば残念である。後で聞いたら大きな台風だったらしくて大阪市内の電車は全て止まっていたらしい。しかし悪いことだけでは無い。台風のおかげで、移動中はほとんど晴れていたのだ。どうやら私は、 2つの台風の目と目の間を移動していたらしい。

 東海道をママチャリで走っていて、思った事は、どこまでいっても静岡県だったことだ。静岡県の長いこと長いこと。どんだけ、細長いんだよと思ってしまった。しかも、どこに行ってもサークルKしかなかった。今はどうか知らないが、昔は静岡県にはサークルKしかなかった。だから、コンビニで弁当を買おうとしたら、すべてサークルKの弁当になってしまう。同じような飯ばかりなってしまっては食欲が湧かないので、吉野家の牛丼屋のドライブスルーに入って、弁当を持ち帰った。国道1号線の牛丼屋のドライブスルーにママチャリで入って弁当を注文したのは、日本広しといえども私ぐらいのものだと思う。なぜ牛丼屋のドライブスルーなのかというと、台風の向かい風の中で、いちにち200キロ走行するママチャリのチャリダーは、 何回も飯を食べないと体がもたないのだ。だから牛丼屋の弁当を3個くらい買い物カゴに入れて自転車を走らせたのである。

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 なんだか長い前置きになってしまったが、雑談が過ぎた。
 ここで本題に入る。

 うちの宿にも自転車でやってくるお客さんが大勢いる。 1番衝撃的だったのが、 80歳の老人が東京から自転車でやってきたことだ。私は若い頃に、さんざん自転車で暴れまわっているので、正直言ってたいていのことでは驚かない。しかしこの時は、腰を抜かさんばかりに驚いてしまった。やはり大物はどこかにいるのだ。

 そういえば自転車で帰省してる途中という学生さんが、うちに泊まったことがあった。東京から長野市に向かう学生である。お金がかかるでしょうと聞いてみたら、やはり金がかかると言っていた。自転車の移動は、むちゃくちゃお金がかかるのである。決してエコロジーなんかでは無い。タイヤはどんどん消耗するし、燃費がかかる。燃費というのは、自転車をこぐ人間の食事代のことである。つまり食費が異常にかかる。 1日に5回ぐらい食べないと体がもたない。途中の宿泊費も馬鹿にならない。電車で移動した方が圧倒的に安いのだ。

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 しかし、それでも自転車で移動するのは、そこにそれなりの魅力があるからである。徒歩だと遅すぎる。かといってバイクや自動車では早すぎるのである。そこで自転車なのだ。もちろん体力は必要になる。しかし、そこがいいのである。

 自分の力でペダルを漕いで、風を全身に受ける。すると、新緑の草木の匂いが体中に香るようになる。昼寝に絶好なポイントを見つけたら、自転車を倒して寝転がることができる。駐車場探す手間も何もいらない。苦労して登り坂を登って、下り坂になった時の気持ちの良さと言ったらありゃしない。

 けれど、軽い気持ちで自転車でやってくるお客さんも多い。東京を出発したはいいが、高崎あたりでヘタばってしまうお客さんも多い。そこから電車バスでやってくるわけだが、これは逆にした方が良い。むしろ、軽井沢まで電車で移動して、軽井沢から北軽井沢まで自転車で旅した方がよほど楽しいと思う。日本の道路は、自転車に不親切なのだ。いつの間にか自動車専用道路になってしまって、自転車が通れなくなってしまったり、歩道橋を担いで渡らないと道路を横断できなかったりするからだ。

 だから都市部は電車で移動して、
 自然の多いところにきて初めて自転車で旅をした方がいいと思う。

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2015年04月23日

自転車でやってくるお客さん2

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 その昔、自転車で旅する人たちの中には、 2種類の人種がいることに驚いたことがある。チャリダーとサイクリストである。私は最初、それを知らなくて自転車で旅をしている人に、チャリダーですか?と聞いたら、相手は不愉快そうに、違いますと答えた。私はサイクリストですと。

 サイクリストというのは、朝早く宿を出かけて、ギリギリまで走って、夕方遅くにチェックインする人たちらしい。朝早いから朝食をとらないこともあり、寝るのもかなり早い。お茶会に出てくることもなく、翌日も早くから出かけてしまう。しかしチャリダーは、早めにユースホステルにチェックインし、みんなと一緒に温泉ツアーに出かけて、宿のイベントがあればそれに参加し、グルメや温泉に熱中したりする。サイクリストがスポーツマンだとすると、チャリダーは自転車で移動している旅好きの人たちということになる。一般的に言って、サイクリストの自転車は高額商品が多いけれど、チャリダーの自転車はボロボロに傷んでいたりする。

 本当にめんどくさい話なのだが、外見がそっくりに見ても、ポリシーの違いからチャリダーとサイクリストは別の存在であるらしい。うかつに一緒にしてしまうと怒られてしまうので、注意が必要である。もっともこれは自転車に限ったことではなく、鉄道を利用して旅する人たちの中にも、 JRラーと言う人種もいれば、鉄チャンと言う人種もいる。バイクで旅をする人たちの中にも、ライダーという人たちもいれば、バイカーという人たちもいる。私には同じに見えるのだが、微妙に違うらしい。

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 まぁそんな事はどうでもいいのだが、こんな私でも、過去に自転車で日本全国を旅している。で分かったことなのだが、自転車で旅する連中にも、いろいろな流派があるようだ。割と多いのが輪行チャリダーである。これは、自転車を荷物にして、電車である程度移動して、自転車で旅する人たちである。若い頃の私は、このグループに入れなかった。輪行チャリダーになるには、ある程度軽量化された分解可能な自転車でないといけない。当然のことながらママチャリや安物の自転車は電車に乗せて輸送することはできない。第一ママチャリで日本中を旅する人たちなど、私以外に存在しない。つまりそういうカテゴリーは無い。だから私は一匹狼であった。

 そもそもママチャリは、旅行に向いていない。風に弱いし直ぐにパンクする。タイヤも800キロも走れば丸坊主になってしまう。コストがかかりすぎるのだ。そういう意味ではマウンテンバイクは素晴らしい。タイヤも丈夫だし、パンクもしない。 2,000キロ以上走っても全く問題ない。しかしマウンテンバイクは、めちゃくちゃ体力が必要な上に速度が出ない。重い上に風にも弱いのだ。そこでツーリング向けの自転車(ランドナー)を使う人が多いのだが、最近はこのランドナーも見かけなくなってきた。逆に増えてきたのが競技用の自転車で山道を登ってくる人たちである。彼らは、ほぼ何も荷物を持たずにやってくる。旅人というよりスポーツマンである。

 あと、ありそうで全く無いのが電動自転車チャリダーである。あれは便利なので、山道の多い北軽井沢に来るのには最適なのだが、今のところ見かけた事は無い。その反対に絶対になさそうで、実際に存在していたのが、一輪車チャリダーだった。今から30年位前に、私は北海道で見たことがある。背中に小さなザックを背負って広大な大地を一輪車で黙々と走行していたのには胸を打たれたものだ。北海道には、そういうバカバカしい方法で旅している人たちがいるのである。リヤカーを1人でひいている旅人もいれば、ものすごい装飾をゴテゴテと飾った自転車で旅している人たちもいた。そういう人たちが北海道に多かったのは、北海道の道路が、他の地域に比べて走りやすかったということもあると思う。これが東海道の国道1号線になると、突然自動車専用道路になったりして、 uターンしなければならなくなることも多い。東北道の国道4号線になると、どういうわけかトラックがやたら多くて、大型トラックの風圧に悩まされる。かといって海岸沿いを走れば、海風とアップダウンで地獄の思いをすることになる。

 アップダウンといえば、北軽井沢もアップダウンが多い。だから自転車で来るお客さんは、かなり苦労すると思う。そこでコツを教えよう。 疲れたら自転車から降りて歩くのが1番。無理して自転車に乗らないことだ。 急な坂は押して歩いた方が良い。坂を登れば、いつかはくだる。自転車に乗るのは下り坂のときで充分ではないか。無理して自転車を漕ぐよりも、ゆっくり歩いて景色を眺めた方が私はいいと思う。自転車を押しながら歩くというのも、それはそれで楽しいものなのだ。移動速度が遅くなれば、それだけ移動中に目に入る情報量は多くなる。何気ない道端で、素晴らしい風景を見つけるかもしれないし、カモシカやリス達に出会う可能性も大きくなってくる。たらの芽や山ぶどうに出会うかもしれない。

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 関係ないが、息子の2歳の誕生日に、息子のおばあちゃんが幼児用自転車を買ってくれた。今日は、庭先で息子が乗って遊んでいた。うちの息子は、こういうメカが大好きなので、かなり興味津々である。つい先日、小諸の懐公園にある動物園に息子を連れて行ったのだが、反応はイマイチであった。しかし、ホームセンターやヤマダ電機などに息子を連れて行くと、目を輝かせてあらゆる商品をいじりたがる。明らかに動物よりも機械類が好きなようである。庭で遊ばせると、自転車小屋や物置に入って、あらゆる小道具を触りたがる。工具箱何か見つけた日には、夢中になっていじり回している。だから自転車に目を輝かせていじり回している。この辺は、やはり男の子だなぁと思ってしまう。男の子は、本質的にメカが大好きなのだ。自転車好きの人間も、バイク好きの人間も、そういうところがあるような気がする。

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2015年04月24日

鉄道でやってくるお客さん

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 その昔、北海道で旅していた時に釧路牧場ユースに泊まったことがある。そこのヘルパーさんが、みゆきの杜ユースホステルの中村さんであった。当時学生だった中村さんは、かなりの鉄道マニアだったらしくて、お茶会では、鉄道の話をしていた。彼は、その後ユースホステルを立ち上げるが、館内に鉄道模型を設置したわけだから、筋金入りの鉄道マニアである。そうなのだ、宿のオーナーには少なからず鉄道マニアがいるのである。

 北海道の霧多布には、きりたっぷりと言う宿がある。ここのオーナーも、かなりの鉄道マニアである。関係ないが、ここのオーナーの伝説がすごい。 2キロぐらい離れていたバス停の看板を、毎日1メートルずつずらして行って、自分の宿の真ん前に近づけていたらしい。そうすればお客さんに便利になるからである。まさに違法行為ではあるが、そんなことがまかり通るはずもなく、あと500メートルぐらいまで近づくと、バス会社の人にバス停を元の位置に戻されてしまう。しかし、彼はめげずに何度もバス停の看板の移動を行ったらしい。するとバス会社の人が、ある日突然訪ねてきて、あなたの宿の前に新しいバス停を作るから、バス停の看板の移動はやめてほしいと、頭を下げてきたらしい。まさに執念の勝利だ。

 長野県に「 ぽっぽのお宿」というのがあるが、名前からして鉄道マニアだなというのが分かる。ぽっぽは、鳩ポッポのぽっぽではなく、汽車ポッポのぽっぽでは無いかと思って泊まってみた。ビンゴだった。やはり、強烈な個性のオーナーだった。

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 ちなみに私は、新潟県は佐渡島の生まれである。当然のことながら、佐渡島には鉄道がない。だから本州に上陸した時に、鉄道の乗り方がわからなかった。と書くと「バカじゃないの」と思うかもしれないが、昔はYouTubeなんてものはないのだ。みんなにとって当たり前の事でも、鉄道を見たことのない人間には分からないのである。仕方ないので、同じ位の年頃の女の子に鉄道の乗り方を聞いてみたが、当然のことながら無視される。新手のナンパ方法だと思われて相手にされなかったんだと思う。

 でどうなったかというと、切符も何も持たずに改札口を通過してしまった。で、電車に乗って一生懸命に整理券の置いてある所を探した。もちろん電車に整理券なんかない。切符を買って改札口で駅員さんに見せなければいけないのに、改札口の駅員さんはどういうわけか私を通過させてしまった。ここから悲劇が起きる。なぜならば、私が下車した駅は、無人駅だったのだ。今はどうかわからないが、昔は、新潟駅の隣の駅は無人駅だった。そして壮大な勘違いをした。鉄道は無料で乗れると思ったのだ。もちろんそんな事は無いから、帰りに怒られることになる。長い前置きになってしまったが、私は鉄道に衝撃的な出会いがあったことを言いたかったのである。

 ところで北軽井沢ブルーベリーは、電車の駅からかなり遠い。バスに乗り継がなければいけない。そのために、鉄道マニアの人たちが宿泊するには、ずいぶん不利な位置にある。しかも1,200円もバス代がかかる。だから鉄道関係のお客さんは最初から期待してなかった。しかし不思議なことに、うちのお客さんに鉄道マニアは多いのである。これが長いことわからなかった。ところが、開業して数年後に、その理由がわかってしまった。まず、吾妻線の終点になる大前駅に来る鉄道マニアの人たちがいるのだ。どうして大前駅に来るかというと、線路がそこでストップしているからである。そーゆー線路に対するマニアというものもいるのだ。また、軽井沢の隣である横川に鉄道博物館があったり、そこから軽井沢につながるアプトの道があったりするので、そこに聖地巡礼を行う鉄道マニアもいる。あとコアなマニアとして、廃線となってしまった草軽鉄道の跡地は歩きたがるお客さんもいる。北軽井沢のバス停に来れば、草軽鉄道の駅がそのまま残っているし、そこに当時の鉄道の模型も置いてあるし、小さな無料の博物館もある。それを目的にやってくるお客さんも多いのだ。

 あと、鉄道マニアには、大きく分けて乗り鉄と撮り鉄というものがあるらしい。乗り鉄というのは、鉄道に乗るマニアである。撮り鉄というのは、鉄道の写真を撮るマニアである。当然のことながら、自動車で高台などに移動して鉄道を撮影する。そういう人たちは、車で移動するのが旅の基本なので、宿が駅から遠くても何も問題ないのだ。

 ところで、うちの宿には超大手企業の秘書付き重役だった人が、よく泊まりに来る。一緒にハイキングなんかに行ったりもするのだが、鈍行列車に乗って帰っていく。変だなぁと思ったら、やはり鉄道マニアだった。このクラスになると、1週間かけてオーストラリアの大陸横断鉄道を乗り回している。いわゆる乗り鉄である。壮大な趣味だなぁと思っていて、他のお客さんにそれを話していたら同じような人がいた。やはり超大手企業の役員さんだったが、この人は乗り鉄ではなくて撮り鉄だった。ヘリコプターをチャーターして、空から鉄道を撮影するのが趣味だと告白してきた。

 この手の人たちは、身分を隠してみんなと一緒にハイキングに行くので、ぱっと見た目には、普通のおっさんにしか見えない。だから若い鉄オタの学生さんたちなんかは、おっさん達たちと距離を持ってしまうのだが、実にもったいない話である。どう見ても普通のおっさんであるが、彼らは超大手企業の重役なのである。そういう人たちを無視して部屋に閉じこもる鉄道オタクの学生さんたちを見ると、もったいないと思うのは私だけであろうか?

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 話が大きくそれるが、昔からのユースホステルのお客さんは、非常識なくらい高学歴の人たちが多い。もちろんおっさんに限られるのだが、元東大生はともかくとして、東大の名誉教授とか、そのレベルの人たちが泊まりに来るからややこしい。しかも本人は、それをひた隠しにするものだから、それを知らないで、つい東大の悪口なんかを言ってしまって、後で恥をかくことがある。ハイキングツアーの時に、高山病のことを偉そうに解説していたら、お客さんがお医者さんだったというケースもあった。

 それはともかく、スーパー鉄道マニアにとってのエリートコースは、東大では無い。岩倉高校と昭和鉄道高校である。 JRに就職したい人たちは岩倉高校に進学する。私鉄に就職したい人たちは昭和鉄道高校に進学する。と、昔は相場が決まっていた。今はどうなのだろうか?

 私の友人に、岩倉高校からJRに入った人もいれば、昭和鉄道高校から私鉄に入った人もいる。小学生の頃に鉄道マニアになって、そのまま鉄道関係の高校に進学し、鉄道会社に就職する。しかしこのエリートコースが、最近弊害があるのではないかという話になって、 JRが中途採用を始めたらしい。その際に、鉄道と関係ない一般人を中途採用して、鉄分の純度を下げることを試みたらしい。マニアックな度合いを避けようとしているらしい。そういう経緯でJRに中途採用された人も、うちのお客さんに少なからずいる。そういう人たちに、本当に鉄道と関係ないんですか?と聞いてみたら、実は鉄道マニアだったけれど、その匂いを消して面接を受けたとの事。やはりマニアであった。しかし、面白いことに、いざ鉄道会社に入ってみたら、徐々に鉄道の趣味から離れていったらしい。趣味を仕事にすると、そうなりがちなのかもしれない。

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 その昔、 30年ぐらい前のことだが、全く女の子にモテなかった私の友人がいた。その友人は、ある日、新幹線の車内販売のアルバイトを始めた。すると突然モテ始めた。なぜだろうと不思議に思っていたのだが、その友人の自宅に行って驚いた。彼は、すでに美人の彼女と同棲していたのだが、部屋の中に鉄道のプレートみたいなものが、たくさん飾ってあったのである。言っておくが、その友人は鉄道マニアでは無い。なのになんでモテたのだろう? なぜ、部屋に鉄道の駅名の書いてあるプレートなんかは飾ってあるんだろう?と不思議に思ったのだが、新幹線の車内販売をしている女の子たちは、ほとんどが鉄道マニアだったのだ。そこで友人は、自分も鉄道マニアのふりをして、彼女をゲットしていたらしい。当然のことながら、鉄道マニアの彼女と同棲を始めれば、部屋中に鉄道関係のコレクター商品が乱立するようになる。駅名が書いてあるプレート何かが壁に貼ってあったらしい。

 これが、彼女との破局につながるから恐ろしい。

 友人は、潔癖症だった。当然のことながら駅名が書いてあるプレートに我慢がならない。昔の電車は、トイレのウンチなんかを走行中にばらまくわけだから、駅名なんかが書いてあるプレートは、もちろん黄色くなっている。最も黄色いのは必ずしもウンチのせいだとは言えないのだが、潔癖症の彼にしてみたら、そのように思えてならなかったらしい。なので、彼女が留守中に、そのプレートを全部きれいに洗ってしまったらしい。当然のことながらプレートはピカピカになる。彼は、彼女に褒められると思って洗った訳なのだが、鉄道マニアの彼女はかなり激怒して、 2人の愛は破局となってしまった。本物のマニアは、うんちが着いてるかもしれない駅名プレートに価値を見いだすらしい。だから彼女は激怒してしまったのだ。

 これも女欲しさに、趣味でもなかった鉄道マニアを演じていた天罰がくだったのかもしれない。だから、このブログを読んだ人は、彼女を作りに新幹線車内販売のアルバイトをするのはやめて欲しい。これはあくまでも30年前の話であって、今もそうかどうかは保証の限りでは無い。あとで私にクレームを入れないでいただきたい。

つづく。

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posted by マネージャー at 12:59| Comment(5) | TrackBack(0) | 業界裏話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする