2017年03月04日

2歳児に漢字を覚えさせる方法

 息子が生まれて以来、このブログにいろいろなことを書いたせいか、小さい子連れのお客さんがうちの宿にたくさんお泊まりになるようにになりました。しかも、いろいろな質問をいただくようになっています。しかし、忙しいピークシーズンでは、 1人1人のお客さんに対応できるわけでもなく、わざわざ泊まりにいらしても、十分に質問にお答えすることができなかったりしました。そのせいか、わざわざオフシーズンの平日に、有休を取ってうちの宿に泊まって、質問してくるお客さんも少なからずいました。それではあまりにも申し訳ないので、このブログで、よくある質問について、解説してみたいと思います。

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まず、私はたびたび書いている脳科学の種本についてですが、私の読んでいる本は、久保田競先生・そのお弟子さんである沢口先生を始めとする数人の先生の本です。久保田先生と沢口先生の本はほぼ全部読んでいます。そもそも私は脳科学の本に興味を持ったのが、今から15年前に出た集英社インターナショナルの『痛快シリーズ 』を全部読んだことにあります。痛快シリーズとは、心理学・憲法学・脳科学・医学・歌舞伎学・ローマ学といった、あらゆる学問を漫画を交えて分かりやすく解説した本です。そのシリーズで脳科学を書いたのが、明石家さんまの『ほんまでっか』に出ている沢口先生です。この先生は、脳科学について解説する前に、自分がADHD(注意欠陥・多動性障害)であることを告白しています。

 明石家さんまの『ほんまでっか』では、芸人ぽいバカな学者のように扱われていますが、彼はADHD(注意欠陥・多動性障害)であるので、このような風変わりな行動をとってしまいます。それに悩んだ結果、何故だろうか?と苦しみながら自問自答して、哲学の道に進みましたが、全く解決できませんでした。で、京都大学の久保田先生の弟子になり脳科学の道に進んで、やっと回答をえられるようになっています。

 それゆえに、この沢口先生の本は、ユニークで面白い本が多いですし、その師匠である久保田先生のほうも非常に面白い本が多いです。また、『0歳児の「脳力」はここまで伸びる』のアリソン・ゴプニックやアンドルー・N・メルツォフの本もおもしろいし、瀧靖之先生・黒田恭史先生の本などもおもしろくてやみつきになります。

 しかし、これらの本を読めば、育児に役立つかというと疑問です。乳幼児の学習能力の伸ばし方を知りたいと思って読むと肩すかしになると思います。いわゆる科学の本で、育児哲学・教育哲学にはふれてない。乳幼児の学習能力の伸ばし方を具体的に書いてあるわけではないからです。しかし、これらの基本的な概念をしっておかないと、応用が利かなくなる。

 ただ脳科学の本は、あくまでも科学本なので、これにプラスして動物学や心理学や教育学の入門書と一緒に読むといいかもしれません。野生動物のドキュメンタリー番組の方も参考になります。理論とセットにしてみると良いです。BSプレミアムの『ワイルドライフ』とか、 NHKの『ダーウィンが来た』とか、スカイパーフェクトTVの『アニマルプラネット』『カリスマドックトレーナー』などを熱心にみると何かがつかめてくると思います。あと自然ガイドから野生動物たちの解説を聞くのもいいかもしれません。人間も動物なので得るものが大きいと思います。

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 前置きはこのくらいに留めといて、本題に入ります。

 よくお父さんから、『どうやって2歳0ヶ月の子供にひらがなカタカナを覚えさせたのか?』という質問をいただきます。このブログに何度も書きましたが、覚えさせてはいません。私は息子に全く勉強をさせていません。

 何度も言いますが、 2歳児が勉強するわけがありません。
 もちろん3歳児でも4歳児でも一緒です。
(下手したら小学生だって勉強しないかもしれない)
 彼らは煩悩の塊なので、絶対に勉強しません。
 遊ぶことしか頭にありません。

 だから、ひらがなカタカナを覚えさせる前にお父さんが子供と遊ばなければなりません。これは野生動物を見れば一目瞭然で、ライオンでも狼でも、子供たちは遊ぶことしか能がありません。だからお父さんが近づくと、
「あ、遊んでくれる人がやってきた」
と思わせなければダメなんです。怖い顔でお父さんが近づいても、子供は緊張して遊ぼうとしません。ましてや勉強なんかする訳がありません。

 とにかく2歳児に

『お父さん = 一緒に遊んでくれる人』
『お父さん = 一緒にいて楽しい人』
『お父さん = ウキウキする時間が始まる』

というイメージを植え付けなければ、いけないのです。

 ライオンの子供だって、遊びの中から狩りを覚えるんです。だからライオンたちは、子どもたちが遊んでいるのを絶対に怒ったりしません。だからまずお父さんがやる事は、息子と遊ぶことなんです。そして、お父さんは一緒に遊んでくれる人だと思わせちゃうんです。ただし、長い時間遊んではダメです。盛り上がってきたら5分でやめる。そしてさっと消える。これを何度も繰り返すんです。遊び疲れるまで一緒に遊ぶんではなくて、もうちょっと遊びたいなーと思ってるところで止める。これがコツです。

 遊び方も工夫して毎回違う遊びをします。そして、盛り上がってきたら5分でやめる。そして、ひらがなやカタカナが書いてある積み木を使って遊ぶのです。これも5分でやめる。次は、ひらがなやカタカナが書いてあるカードで遊ぶ。これも5分でやめます。そして一緒にお風呂に入ったら文字のポスターが貼ってある。それを使って遊びます。

 もちろん、どんなに盛り上がっても5分でやめてしまう。もちろん相手は欲求不満になります。これが狙いです。 2歳児は、欲求不満になりますから、文字の書いてある積み木や文字の書いてあるカードをこっそり持ち出して自分ひとりで遊び始めます。その結果、 2週間ぐらいでひらがなやカタカナを覚えてしまいます。うちの息子は、 2歳0ヶ月前後でひらがなカタカナアルファベット数字をすべて覚えてしまいました。

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 では3歳児ではどうかというと、2歳児に比べて明らかに覚えが悪くなってきます。 2歳児の頃は2週間で、ひらがな50文字を全部マスターしましたが、 3歳児の場合は、小学1年生の漢字(80文字)をマスターするのに2ヶ月かかっています。では、記憶力が落ちたのかというとそういうわけでは無いみたいです。 2歳児の頃よりも、 3歳児の頃の方が、周りの世界の知識を大量に理解し始めているからです。文字以外の情報を大量に吸収しているんですよね。つまり、文字だけに関わっていられないのが3歳児なんです。

 ところでうちの息子は、 2歳0ヶ月からいろいろな文字を覚えましたが、周りの世界を理解するのは他の同級生に比べて遅かったです。これは文字を覚えるのに集中したためかもしれません。もし私が文字を覚えさせなければ、もっと別の情報を割りの世界から吸収していたのかもしれません。

 つまり早く文字を覚えようが、後から覚えようが、吸収する情報量は一定である可能性が高いかもしれません。早くに文字を覚えたからといって、それが頭が良い証拠かというと、甚だ疑問です。脳科学的に言うと、むしろ逆である可能性が高いようです。瀧靖之先生に言わせると、成長が早い子は好き嫌いが早く訪れるので、自分の好きなものしか覚えようとしないらしいのです。

 そういう意味では、うちの息子は3歳6ヶ月ぐらいまでは、小学校3年生ぐらいまでの漢字をマスターする勢いがあったのですが、 3歳6ヶ月を過ぎると、それがピタリと終わってしまいました。好き嫌いが明確になってきて、漢字を覚えると言うゲームに飽きてしまったようです。

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 そうそう、『どうやって漢字を覚えさせたんですか? 』という質問もたくさんありました。『ひらがなカタカナを覚えさすことができても、 3歳児に漢字を覚えさすのはさすがに難しい』と言うお父さんお母さんの、質問をいただくことも多かったです。

 実はこれも簡単で、種を明かすと『なーんだ』ということになるんですが、要するに3歳児になると、やたらと親の真似をしたがる傾向が出てきますが、それを逆用をすれば漢字を覚えさせるのも非常に簡単です。例えば、私はこうやってパソコンに向かってブログを書いていたとします。すると息子は、私の膝に乗ってパソコンのマウスやキーボードをいじりたがります。それを利用するのです。息子がやってきたら、即座にパソコンの画面を漢字ゲームの画面に変更します。試しに下記サイトをクリックしてみてください。

http://www.kids-study.net/

いろんな漢字ゲームが出てくると思います。他にもいろんなゲームがインターネット上にはありますから、その画面に変更します。そして漢字ゲームを5分だけやります。 5分たったらやめます。どんなにせがんでもやめてしまう。公文の漢字カードもいいです。3集全て買って、それを分解し、果物の漢字・天気の漢字というふうに分けるといいです。そして分けたカードをお父さんが読む。
「蜜柑」なら
「みかん」と読んでみせ、
できたら蜜柑の実物を食べてみせる。
そして蜜柑カードで色々遊んでみる。
もちろん5分たったら終了。
決して、暗記を強制しない。
というか暗記は絶対にさせない。
あくまでも蜜柑カードで遊ぶだけにする。
5分だけ遊んで、もっと遊びたいなあと思っているところで止める。これがポイントなんです。寸止めで止めるから一日に何度も「漢字やりたい」とねだってくるようになります。ねだられたら、必ず一緒に漢字ゲームをしますけれど、すぐにやめちゃう。絶対に5分以上やらない。だから何度も、おねだりしてきます。

 逆にいうと、スパルタ式は駄目です。
 絶対にやってはだめ。
 勉強も駄目です。
 一瞬で嫌いになってしまう。
 あくまでも遊びで無いと続かない。
 そのためには「怖いお父さん」ではだめです。

 といっても優しいお父さんでも駄目で、優しいだけでは、親子関係がぎくしゃくします。1ヶ月に1回くらいはキツく怒らないと、親子関係が悪くなってしまう。しかし、毎日のように怒るのは駄目。「怖いお父さん」ではだめです。

 そういえば「九九は、どうやって覚えさせたんですか? さすがに3歳に九九は無理ですよね?」というお父さんもいました。しかし、九九が一番簡単に覚えさせられます。信じがたいくらいに簡単に覚えちゃう。といっても息子は足し算ができないので、九九を理解しているわけではありません。単に暗記しているだけです。この九九の暗記が一番簡単で楽。一番手がかからない。これについては、次回解説します。


つづく。

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2017年03月08日

三歳児に、九九を覚えさせる、ごくごく簡単で手軽な方法

 前回の続きです。

 息子が生まれて以来、このブログにいろいろなことを書いたせいか、小さい子連れのお客さんがうちの宿にたくさんお泊まりになるようになり、質問をいただくようになっています。しかし泊まりにいらしても、十分に質問にお答えすることができなく、わざわざオフシーズンの平日に、有休を取ってうちの宿に泊まって質問してくるお客さんも少なからずいました。あまりにも申し訳ないので、このブログで、よくある質問について解説してみたいと思います。

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 前置きはこのくらいにして、本題に入ります。
 3歳児に九九を覚えさせる方法です。
 意外かもしれませんが、九九が一番簡単に覚えさせられます。
 信じがたいくらいに簡単に覚えちゃいます。
 といっても息子は足し算ができないので九九を理解しているわけではありません。
 単に暗記しているだけです。この九九の暗記が一番簡単で楽。一番手がかかりません。

 実は脳科学の本を読んで、非常に興味深かったのは、言語を理解する脳の部分と、音楽を理解する脳の部分が、同じであるらしいという部分でした。言われてみれば、幼稚園や保育園では、音楽教育を盛んにやっています。また、江戸時代の昔から、子育てに子守唄を盛んに歌って聞かせたことからしても、これらの行為は、理にかなっていたということになります。

 もしそうであるならば、音楽を聴かせることによって、言語の理解も進むのではないかと思い、言語をテーマに選んだCDを買って息子に聞かせてみました。もし漢字のCDとか、ひらがなやカタカナのCDがあれば、それを利用したのですが、そのようなものは売られていませんでした。市販されているもので唯一手に入るものは、
「 ABCの歌」
「九九の歌」
「数字の歌」
「都道府県の歌」
「県庁所在地の歌」
くらいのものです。それらを、車で出かけるたびに、車で幼稚園児送迎するたびに、車の中で聞かせてみました。すると恐ろしいほどに、数字やABCや九九を覚えてしまいます。

「これはすごい」

と思って、いろいろなCDを買いました。

 九九の歌に関しては、いろんなメロディーで大勢の歌い手さんが歌っていますので、様々なバージョンの歌を買い集めて息子に聞かせたのですが、キングレコードで出している「うたって覚えよう!~九九のうた」が1番息子にとって良かったようです。

 実はこの歌は、 1の段から9の段まで全てメロディーが違っています。なので私たち大人にとってはとても覚えにくい歌です。だから1の段から9の段までメロディーが全く同じもを買い直して、そちらの方が、息子には覚えやすいかと思いきや、息子にとってはそうではなかったみたいで、メロディーが違う方がスムーズに頭に入ったみたいなのです。大人の脳の構造と、 3歳児の脳の構造は全く違うことに大変ショックを受けました。

 で、これに味をしめた私は、あることに気がつきました。

 教育テレビの「日本語で遊ぼう」の番組で、似たような歌がいっぱいあることに気がつきました。例えば数字の単位の歌とか、春の七草の歌とか、旧暦の歌とか、そういうものをDVDに録画して、それを編集して息子に見せれば、息子はいろんなものを記憶するのではないかと思いついたのです。

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 しかしこれは大失敗でした。
 画像があると歌を記憶しないのです。
 しかも、すぐに飽きてしまいます。
 VTRを見なくなるのです。

 ところが、車に乗せて音楽だけをCDで聴かせますと、歌詞の内容をすぐに覚えてしまいます。画像付きだとダメなのですが、音楽だけなら頭に入ってしまいます。一見聞いてなさそうに、外の景色を見ているだけなのに、歌詞が頭の中にどんどん入っていくのです。

 じゃあ音楽だけを、四六時中流せばいいのかなぁと思いきや、そうでもないらしいのですね。車の中ではおとなしく聞いてくれるのですが、食堂にCDプレーヤーを置いて、それを聴かせようとしますと、おとなしく聞いてくれることを全くなくて、散々 CDプレーヤーで遊んだ挙げ句にCDそのものを破壊してしまうのです。車の中ではそういうことありませんので、 0歳児の頃から「車内ではじっとしている」と言う刷り込みができているところでないと、おとなしく音楽は聴いてくれないようです。

 それはともかく、以上の実験から、幼児教育における音楽の重要性を感じましたね。世界的に見て日本人のIQが高い理由の1つに、幼児における音楽教育の成果があるという気がします。日本くらい、童謡・童歌・子守歌が多い国は無いですからね。というわけで、いろいろな音楽を聴かせることが、脳の発達に影響があるような気がします。例えば、ネズミやサルにモーツァルトの音楽を聞かせると、例外なく空間的知能が発達することが知られています。もちろん人間の幼児においても同様の効果がありますから音楽が幼児の成長に大きく影響することは間違いないでしょう。


つづく。

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2017年03月16日

幼稚園と保育所について 1

 あと一日で、息子の幼稚園が終わりです。年小組を卒業です。 一年間、あっという間でした。この後、息子は保育園で預かってもらうことになります。と書くと、変に思われる方がおられるかもしれませんので、ちょっと説明をしておきます。

 実は、私の息子はこども園に通っています。こども園というのは、幼稚園と保育園が合体したような施設です。私は、息子を保育園に入れようと思っていました。幼稚園に入れる気はさらさらなかったのです。理由は、私が保育園出身者ですから、幼稚園のデメリットをよく知っていたからです。

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 私の生まれ故郷の佐渡島では、幼稚園はほぼなくて、島中どこを探しても保育園ばかりでした。当時、島全部で百カ所位の保育園があったと思いますが、幼稚園はそれに対してたった一つしかありませんでした。で、高校生ぐらいになって、幼稚園に通っていたと言う友人に聞いてみたら、
「ああ、これは駄目だな」
と思わざるをえなかったのです。当時(昭和39年)の佐渡島の幼稚園では、学校の授業みたいなことがメインで、子どもどうして遊ぶようなこともなく、授業を四時間ほど受けて、午前中に帰って家で食事をとっていたといいます。しかも、当時は二学年しかなくて、年少さんは受け入れられてなかったと聞いていました。

 それを聞いて保育園出身の私は驚いたものです。なぜならば、保育園では、授業を受けた記憶も無く、遊んだことした覚えてないからです。ひょっとしたら授業みたいなものもあったのかもしれませんが、それはあまり思い出せない。せいぜい音楽を楽しんだ記憶があるくらいです。後は遊んでばかりです。もちろん遊ぶといっても同級生と遊びます。朝から晩まで遊びます。だから友達とは仲良くなります。仲良くなって、家に帰ってからも一緒に遊んだりしました。

 そういえば、自宅に友達が遊びに来たこともありました。その時の私は三歳ですから、当然のことながら年少組のお友達で相手も三歳です。その三歳の子供たちが、親の付き添いもなしに遊びに来ていました。現在の常識から考えたら、信じがたいことですが、当時はそういうこともありました。当時(昭和39年)の佐渡島では、今と違って交通事故の心配も少なく、自動車そのものが珍しかったからかもしれません。

 私は四歳の時に、つまり年中組になった時に、引っ越して別の保育園に転校しました。そこでも事情は同じで朝から晩まで遊んでいた記憶があります。そして、保育園が終わった後も近所の子供たちと一緒に遊んでいました。幼稚園出身の友人は、それを聞いて驚いていましたから、
「もし子供ができたとしても幼稚園だけには入れたくないな」
と思っていました。

 なので、息子が二歳になった時に保育園に入れる気満々でした。もちろん幼稚園の入園届も出していません。ところが教育委員会から
「幼稚園の入園届が締め切りなんですけれど」
と、どうして幼稚園に入れないのか・・・と言わんばかりの催促の電話がかかってきました。おもしろいことに保育園からの入園の催促はありません。もちろん教育委員会には、「うちは保育園に入れるので幼稚園には入りません」と答えています。そして保育園の入園届を出したわけですが、ところが驚いたことに嬬恋村では幼稚園と保育園が合併して、こども園になっていたのです。

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 こども園のシステムは、午前中は幼稚園。午後から保育園となっています。つまり、保育園に入れたとしても強制的に幼稚園に入ってしまうわけです。保育園が始まるのは13時30分から16時30分までの間だけです。要するに、幼稚園に預かり保育プラスしただけのシステムなんですね。結局、うちの息子は、午前中は幼稚園に入ることになったわけです。

 もちろん幼稚園ですから授業があります。何しろ教育委員会から勧誘の電話がかかってくるくらいですから、学校教育の延長みたいなシステムです。休ませれば、幼稚園教育の授業に遅れたりもします。ですから私が幼稚園を休ませて、息子を山に連れて行ったりアウトドアを体験させたりすると、担任の先生からクレームが来たりします。

 さらにうちの息子は、 三月二十六日の誕生日であるために、年少組にいる一年間の間、息子は四歳になる事はありません。三歳のまま年少組を卒業するわけです。だから他のお子さんに比べて赤ちゃんみたいなところもあって、他の子供たちよりも幼いし、その上に成長もゆっくりでしたので、幼稚園の授業についていくのか大変だったようです。

 何しろ息子は会話能力が低く、他のお子さんたちが友人と遊んでいるのを息子はニコニコ見ているだけです。明らかに他の子たちとコミュニケーションがとれていません。他の子たちが、一緒に遊んでいても、そばでニコニコ見ているか、他の子どもたちの真似をしているだけです。まだ、自分が確立して無く、自主的に何か行動できる段階ではなかったのです。だからこそ、平仮名・片仮名・漢字も簡単にマスターしたし、九九を暗記させるのもたやすかった。逆に自主性を重んじる幼稚園の授業についていくのが難しかった。

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 幼稚園では体格差もありました。

 三歳児健診では、 三月生まれの子供さんだけが集まるために、 三月生まれとしては体格が一番大きかったのですが、幼稚園に入ると小さいほうになります。他の三月生まれのお子さんたちは別の幼稚園に通っていますから。三月二十六日生まれで、あと一歩で四月生まれになるわけですから、どうしても体が小さいです。四月生まれ、五月生まれ、六月生まれのお子さんと比較すると、別学年ではないか?というくらいに体格差があります。おまけに顔つきも違っています。赤ちゃんと子どもくらいに違う。

 もちろん運動神経も他の子に比べれば発展途上です。上履きも履くのに苦労していたくらいですから、最初は一人で自分のことができませんでした。だからこそ担任の先生は、ハラハラしたんだと思います。私が、幼稚園を休ませて、百名山に連れて行ったりすると、クレームがくる。せっかく幼稚園でできるようになったことも、忘れてしまってできなくなってしまうからです。

 ちなみに担任の先生は、熱心な方でした。一言で言うと聖職者と言う感じ。私が出会った教師の中でも、これくらい教育熱心な方はないというくらい。もちろん私が他の先生を知らないだけで、幼稚園の先生というのは、みんなこういう先生なのかもしれませんが、とにかく子供たちに対する一生懸命な姿とフォローは、完璧なくらいで文句のつけようがありません。しかも、幼すぎる息子に対処するノウハウももっていた。

「これは、私が体験した保育園とはだいぶ違うな」

と思った私は、保育園と幼稚園の歴史をちょっと調べてみました。

 そして驚きました。

 まず、幼稚園ですが、日本ではいつごろから幼稚園の構想は誕生したかと言うと明治五年とあります。日本における近代教育は、明治五年八月公布の「学制」により開始されていますから、教育システムを創った最初から文部省には「幼稚園構想」があったということになります。また小学校もできてないにもかかわらず、最初から文部省に幼稚園構想があった事は、注目して良いかもしれません。ではなぜ文部省に最初から幼稚園構想があったのか?という点を考えると、ヨーロッパの教育システムをそのまま直輸入したのではないか?と安易に考えていました。

 しかし、よくよく調べてみると、どうもそうではないらしいのです。

 確かに、1840年にドイツのフレーベルによって幼稚園が生まれていますが、1850年には政府によって禁止されています。幼稚園禁止令が廃止になったのは、1860年であり、明治維新の八年前のことです。もちろん明治五年頃でも大して普及していません。普及していないどころか、アンチ・フレーベルの学者たちも大勢いて、幼稚園に対する批判勢力も多かったようです。

 アメリカにしても初めて幼稚園ができたのは1860年。イギリスでは1855年。もちろん産業革命の進んだイギリスでは、労働者のための保育園が次々とできていましたが、幼稚園が着々と普及しているとは、言える状況ではありませんでした。もちろん英米諸国にもアンチ・フレーベルの人たちも大勢いて、幼稚園に批判的な勢力があります。

 にもかかわらず、明治維新直後の政府は、早々と幼稚園を日本の教育体系の中に導入しているわけですから、「これは何かあるな?」と思って、いろいろと当時の歴史を調べてみました。すると、意外な事実がわかりました。

 明治五年に文部省が「学制」を公布する一年前。つまり明治四年に、当時の日本人をことごとく震撼させる本が中村正直より出版されます。『self help』です。これを中村正直が翻訳した『西国立志編(スマイルズ著・中村正直訳)』。つまり自助論です。

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 この本は、西洋の論語と言われたもので、その当時の知識階級がこぞって熱中して読んだ本でもあります。なぜならばこの本によって、ヨーロッパ人がどうして優れているかということを、初めて日本人は知りえたからです。

 それまでは、西洋列強は、単に科学技術に優れているから、その武力で世界を征服できた。貿易で富を稼いだからその財力で世界を征服できた。・・・と思っていたわけです。しかし、そうではない。彼らは彼らの方法で品性を磨くことによって、強大なヨーロッパ諸国が出来上がった。それを具体的にまとめて本にしたのが『自助論(西国立志編)』。つまり、品性によって西欧諸国が強大になったということに気づかされたわけです。

 だから、自助論を西洋の論語と称したわけです。
 その結果、自助論に心底影響受けた人たちが、
 幼稚園教育を推進することになります。
 もちろん翻訳者である中村正直も、日本最初の幼稚園を設立します。

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 文章がずいぶん長くなりましたので、続きは後日書くとしましょう。


つづく。

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2017年03月18日

幼稚園と保育所について 2

幼稚園と保育所について 2

 2017年3月17日(金曜日)、息子は幼稚園の年少組を卒業しました。息子の誕生日は三月二十六日なので、三歳のまま年少組を卒業しています。赤ちゃんに毛の生えたくらいの頃に幼稚園に入り、この一年間幼稚園の授業についていくのが本当に大変だったようです。

 入園当時は会話能力がなくて他のお子さんたちとコミュニケーションがとれず、みんなが遊んでいても、そばでニコニコ見ているばかりでした。おまけに体格差もありました。息子は、三歳児健診では三月生まれの中でずば抜けて大きかったのですが、幼稚園に入ると小さいほうになります。

 他の三月生まれのお子さんたちは別の幼稚園に通っていますから。どうしても体が小さい。もちろん運動神経も発展途上で、最初は一人で自分のことができませんでした。だからこそ担任の先生は、ハラハラしたんだと思います。私が、幼稚園を休ませて、百名山に連れて行ったりすると、クレームがくる。せっかく幼稚園でできるようになったことも、忘れてしまってできなくなってしまうからです。

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 前置きはこのくらいにして本題に入ります。
 前回は、中村正直(まさなお)について。

 中村正直は、1832年に生まれています。ドイツのフレーベルが世界初の幼稚園を作ったのが1940年ですから、その八年前になります。幕臣の彼は、昌平坂学問所で佐藤一斎に儒学を、桂川甫周に蘭学を、箕作奎吾に英語を習って、慶応二年(1866)にイギリスに留学しました。しかしその二年後に明治維新が起きたために帰国。スマイルズの『Self Help(自助論)』を翻訳して『西国立志編』を出版しました。

 この『西国立志編』に当時の知識階級は、衝撃を受けました。この本は、西洋の論語と言われたもので、この本によって、ヨーロッパ人がどうして優れているかということを、初めて日本人は知りえたからです。

 それまでは、西洋列強は、単に科学技術に優れているから、その武力で世界を征服できた。貿易で富を稼いだからその財力で世界を征服できた。・・・と思っていたわけです。しかし、そうではないことが、『自助論(西国立志編)』で分かってしまったのです。西洋にも、論語に匹敵するようなものがあって、その精神によって、ヨーロッパ文明は世界を制圧したんだということがわかったたわけです。

 では、自助論(西国立志編)とはどんな本かというと、自己啓発本に当たります。「天は自ら助くる者を助く」という名分によって明治の青年たちを奮い立たせました。また法律や社会システムの限界を語ります。例えば「酔っ払いを禁止する」といった法律を作ったとしても、その法律で酔っ払いが減るという事は無いと言います。「国民の質が国家の質」という原則を多くの事例を持って語られています。みんなが品性を磨き、自己啓発をしていけば、成功者が生まれてくる。それを具体的に実話を一つ一つ紹介していくのが自助論(西国立志編)です。

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 しかも、よくもこれだけの成功例を集めたものだというくらい成功者たちの人生が紹介されています。それらを読んでいくと、現代人の私たちでさえ腹の底から力が湧いてきます。ましてや、自己啓発本が少なかった幕末維新の頃の知識人たちにとっては、金槌で頭を殴られたぐらいの衝撃があったでしょ。多くの若者が、寝食を忘れてこの本に熱中し大志をもちました。そして自助論に影響を受けた人たちが、幼稚園教育を推進することになります。もちろん翻訳者である中村正直もです。
 
「人間の自由を重んじ、その習慣の形成は第二の天性である。したがって幼少の時からの良い習慣を自然と身につけさせることが必要である」

 スマイルズは、習慣が大事だと言い切ります。だから小さい頃から良い習慣を身につけさせなければいけない。そう説いていますが、これは当時の知識人にとっては耳の痛いところでもありました。そこが当時の日本の弱点でもあったからです。日本の子供たちの多くは、悪い習慣に染まっていたからです。これでは西洋列強に後れをとってしまう。だからこそ翻訳者の中村正直は、子供たちに良い習慣をつけさせなければいけないと思って行動に移します。

 明治7年東京女子師範学校の校長に中村正直が就任すると、 すぐに幼児教育計画を立てて明治9年に日本初の幼稚園を創設しました。主任保母にはフレーベル直伝と言われるドイツ人松野クララ夫人を迎え、日本人保母に藤田東湖の姪である豊田芙雄が就任します。豊田芙雄もまた、自助論に感動した口であり、中村正直の同志でもありました。彼女が書いた『保母の栞』を読むと、それがよく分かります。最初の二行だけ紹介します。

「幼稚園とは何か。多くの幼い子供たちを集めて健康と幸福を保ち、良い習慣を与えて子供たちに最も楽しみを得させるために導く一つの楽しい園宴である」

 文中に「良い習慣を与えて」とある通り、よい習慣を与えることによって、もう一つの天性を伸ばそうと言っているわけです。良い習慣を与えることによって、人は勤勉になり、努力家になり、結果として成功者になります。そうやったできた国民の質が国家の質となる。その結果、なんとか西洋列強に対抗できると、当時の知識階級の人たちは考えたわけです。

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 明治12年には大阪でも府立模範幼稚園が設立されます。その設立主旨には「(略)世の母親が真の保育法を知らず、したがって、家にある幼児は悪戯飽食が習慣となって心身の健康を損なっている者が多い(略)」とあります。ここにも習慣と言う言葉が出てきています。やはり自助論の影響があります。

 では、設立当初の幼稚園は、どのように運営されていたかというと、フレーベルが考案した恩物という二十種類の遊具で遊びを教えたり、歌を歌わせたり、遊戯をさせたりしながら良い習慣を育てることが中心でした。これは理にかなっています。ライオンでも狼でも、子供には遊ばせながら忍耐強く教育をさせます。幼稚園では子供を遊ばせながら良い習慣を身につけさせるのが当初の目的なので、非常に理にかなった行為だといえます。

 しかしこの方法は、本家ドイツでも批判の対象になっています。幼稚園が遊戯学校になっているのが良くないというのです。幼児に勉強を教えたい家庭は、全く勉強教えない幼稚園を嫌っていました。そういう家庭では、幼児を幼児学校に入学させていました。

 そもそもドイツでは、子供の教育は家庭が行うべきだという考えが主流でした。ドイツは職人の国ですから、親の背中を見せることこそが、子供にとっていちばん良いという考えがあったのです。これもまた理にかなっています。そのとおりでしょう。また、ヨーロッパは一般的に階級差の大きいところですから、富裕層は家庭教師を雇って自分の好む教育をしていました。それを奪われることを嫌ったということがあるのかもしれません。

 これは、日本でも同じような批判があったようです。大阪府立模範幼稚園では、親たちの希望に押されて、幼稚園で文字を教えたりもしています。このように親の希望によって、フレーベルの考案した幼稚園というより、幼児学校になっている幼稚園も増えてきました。

(ただし、私に言わせれば、現代では色々な遊具が発達し文字を使って遊ぶことも可能であるから、遊びながら結果として勉強している方法も不可能ではありません。要するに当時は、遊びと勉強は別物だと考えられたために批判されたのだと思います)

 その結果、明治二十六年頃、文部省普通学務局長は「日本の幼稚園は読み書き算を教える小学校予備校となっており、課業を与えて目に見える成果を期待する傾向が強い」とあきれています。本来、幼稚園は下層の子弟の家庭教育を代替する施設であり、悪い習慣を断ち切るために創られているのに、日本の幼稚園では、家庭教育を代替する必要のない中上流層の子弟がほとんどであり、それが日本の幼稚園教育のあり方を誤らせ児童の心身の発達を傷害していると言うのです。つまり幼稚園は、本来の目的を達成してないと文部省さえに認めるようになっていました。

 そこで登場したのが子守学校です。

 子守学校とは、子守りを命じられた少女たちに義務教育を受けさせる上に、彼らが連れてきた幼い子たちも保育教育を行う学校のことです。明治生まれの私の祖母は、義務教育を受けていないために文字が読めませんでしたが、幼い頃から子守りをさせられためです。ちなみにうちの祖母は末っ子です。弟や妹はいません。けれど子守りとして働かされていたわけです。そういう人たちに義務教育の機会を与え、さらに子守りされている幼児にも保育の機会を与えるというのが子守学校です。

 明治8年、堺県では寄付金集め、子守学校開設。
 明治9年、大阪府でも子守学校を開設。
 明治10年、群馬県が保児教育所(子守学校)の必要性を文部省に訴える。

(松下村塾を運営していた楫取素彦が、群馬県県令となって明治十年に「群馬県学則」を制定し、小学校の他に女児小学、村落学校、工女余暇学校、変則夜学校の設置が規定して、就学率アップをはかった。その結果、明治十四年には、全国一位の就学率となり、文部省第九年報に「就学生徒の多いことは他に視察の県とかけはなれていること、更に学校の内部に注意すれば本県の学事は非難するところがない」等が述べられている。保児教育所(子守学校)の存在が大きかったと思われる。その結果、明治時代の群馬県は、日本一の教育県になっていた)

 明治12年、山形県で児護学校(子守学校)を開設。
 明治12年、教育令15条・17条によって、子守学校に法的根拠をもたせる。
 明治13年、全国の都道府県に子守学校が設置されはじめる。
 明治16年、茨城県猿島郡小山村に渡辺嘉重が子守学校開設。
 明治17年、渡辺嘉重が、子守り学校のバイブルである『子守教育法』を出版。
 その後、子守学校は全国に普及し、全国に318校に増加。

 最初私は、子守学校は保育所の原型かと思っていましたが、渡辺嘉重の『子守教育法』を読んでみたら、どうもそうではありません。渡辺嘉重が目指したところは、子守に追われて学校教育を受けられない子供たちに、読み書きを教えると言うよりも、子守たちの悪い習慣を断ち切り、できるだけ良い習慣を見つけることが目的とされています。

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 子守学校は勉強の場ではなく、楽しい場所だと思わせ、なるべく良い習慣をつけさせることが大切だと言うのです。ようするに渡辺嘉重が目指したのは、子守学校と言う幼稚園だった可能性があります。彼もまた、自助論によって啓蒙されたひとりであり、その著書に
「習慣の形成は第二の天性である。したがって幼少の時からの良い習慣を自然と身につけさせることが必要である」
と、自助論の言葉を引用して、良い習慣をつけさせることの重要性を説いてます。ここで渡辺嘉重の『子守教育法』の一部を紹介してみたいと思います。

「子守をしているものの風習を見ると、多くは勝手気ままで下品である。例えば野原のバラようなもので、取るべきものがない。その姿を見ると、髪はヨモギのようにボロボロ、顔は垢だらけで、着物が臭く、人をして近づくのもはばかられる。また、していることを尋ねてみると、人の庭から花や果物を取ったり、猥雑な歌ったり、酷いものは道に出てウロウロして馬車に害を与え通行人を囃し立てたり罵るなど、挙動の粗暴、卑しい言葉遣いは実に見るに忍びないものがある。今このような悪い行いを正すには、主に学科の習得よりも、かえって心に感動を与えるような話を聞かせて、人の子なんや言葉遣いは慎まなければならないことを説いて教え、天性の心に変えるようにしなければならない 」

「子守学校は上述したように生徒は皆ヨモギのような髪、垢だらけ、衣服は油垢と赤ん坊の大小便で汚れ、また、赤ん坊を抱くので、その悪臭には耐えられないものがある。ことに換気を良くしないと、たちまち悪臭に悩まされて生徒の学習意欲を注ぎ、怠慢にし、頭痛、めまいを引き起こし、甚だしいときには、流行の伝染病を招きかねない。教師は、深く注意して、時々窓を開閉して換気を図らなければならない」

 どうでしょうか?

 これが子守学校のバイブルとなった渡辺嘉重の『子守教育法』の一部です。現代の我々にしてみたら、信じがたいことですが、これが明治十年代の現実だったと思います。だからこそ、自助論を読んだ知識人たちは、早急に子供たちに良い習慣を与えなければいけないと思ったわけです。

 この話をある親御さん達に聞かせた時に「渡辺嘉重は、子守に対して偏見を持ってないか?」という質問をもらったことがあります。残念ながら違うと思います。なぜならば渡辺嘉重その人も、子守をしながら、こっそりと寺子屋の授業を盗み見て育っているからです。つまり、子守たちのことを一番よく分かっているのが渡辺嘉重でした。

 だからこそ子守学校では、勉強を教えるというよりも品格と良い習慣をつけさせることを重視したのです。たとえ勉強ができなくても良い習慣さえ身に付ければ、自助論にあるように成功者となりうるからです。そういう意味では、子守学校も幼稚園の発展形だと考えても良いのかもしれません。

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 話は変わりますが私は新潟県の出身です。
 新潟県には幼稚園がほとんどなくて保育所ばかりです。
 群馬県はその逆で保育所がなくて幼稚園ばかりです。

 どうしてだろうと不思議に思っていたのですが、その理由が幼稚園と保育所を調べることによってやっと判りました。日本最初の保育所は新潟県で生まれているのです。新潟県生まれで保育所育ちの私が、なんとなく幼稚園を嫌がったのには、それなりの訳があったことに気が付きました。そして私の子育ての原点についてもわかった気がしました。

 さて、今回も長くなったので、続きは次回に回そうと思います。


つづく。

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2017年03月22日

幼稚園と保育所について 3

 最初に幼稚園の歴史と自助論の関係について書きました。前回は、子守学校と自助論の関係について書いています。子守学校というのは、子守をしているために学校にいけないでいる子供たちを収容するための学校のことで、赤ちゃんを隣の部屋に置いて、交代で面倒見ながら勉強する学校のことです。

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 明治五年八月二日、日本初の教育法令が公布されました。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画し、身分・性別に区別なく国民皆学を目指しました。そして、尋常小学、女児小学、村落小学、貧人小学、小学私塾、幼稚小学、廃人学校について規定しました。

 この中の幼稚小学が、現在で言うところの幼稚園に当ります。そして、女児小学、村落小学、夜学校、貧人小学、小学私塾ですが、これは尋常小学校以外の学校のことで、そういう学校の設置が認められ、何らかの事情で尋常小学校に帰れない子供たちはそれらの学校に通えば「就学」とみなされたのです。それらの学校に関する教則は、文部省は示していません。なので各県によって自由な設置ができ、それぞれ独自の教則ができています。

 例えば群馬県では、松下村塾を運営していた楫取素彦が、群馬県県令となった明治十年に「群馬県学則」が制定され、女児小学、村落学校、工女余暇学校、変則夜学校の設置が規定され、「小学教則」「小学訓導心得」「小学授業法」などの諸規則が制定されています。そして保児教育所(子守学校)の必要性を文部省に訴えています。残念ながら保児教育所(子守学校)についての詳しい記録は残っていませんが、子守学校に類する小学校が群馬県にあったことは確かだと思われます。

 以前、妻の実家の群馬県館林方面の歴史を多少調べたことがあるのですが、面白い記録が残っています。当時、尋常小学校に通っていた人たちの証言によると、先生が黒板に字を書くときは必ず窓側の半分のところでしか書かなかったとあります。なぜならば、窓の外には子守をして学校にいけないでいる子供たちが、何人も授業を受けていたからです。なので窓開けっ放しにして外にも聞こえるように教師たちは窓側に向かって大声で勉強を教えていました。子守の子供たちは、ノートと鉛筆の代わりに地面に棒で文字を書いて覚えたと言います。そういう記録が、いくつか残っています。

 それらの子守たちは、陸州ッ子とよばれ、東北地方から飯米と交換で十歳くらいで子守として売られてきた人たちで、頭はヨモギのような髪で、垢だらけで、衣服も垢と赤ん坊の大小便で汚れ、悪臭には耐えられなかったと言います。なので、外で子守をしながら授業を聞き、文字を覚えるのですが、赤ん坊が泣くと授業の邪魔にならないように遠くまで走って行って、赤ちゃんをあやしたと言います。そういう子守たちに教師たちは、できる範囲で様々な便宜を与えたようです。

 養蚕が盛んだった北関東(特に群馬)は、裕福だったのでしょう。東北から子守を受け入れて子守をさせながら学校にやったり、新潟から瞽女(ごぜ)といわれる盲人芸能集団や、角兵衛獅子などを盛んに受け入れて特に親切にして接待しています。そういう証言が歴史の本では無く、民衆レベルでたくさん残っていて、北国の貧しい人たちは群馬県にお世話になっていたようです。なんとも羨ましい群馬県の経済力ですが、それよりもっと群馬県が幸運だったのは、明治維新後に松下村塾を運営していた楫取素彦が、群馬県県令となったことかもしれません。

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 大河ドラマにもなった楫取素彦は、群馬県の県知事になってすぐに教育事業に重点的に取り組みました。そしてたった四年間で全国第一位の小学校の就学率を達成しています。明治十四年に幼稚園の類似施設(県師範学校内に幼稚遊戯場が付設)を設立しています。明治十六年には群馬県立幼稚園(全国でも五校)が正式に設置され、市町村部でも幼児教育施設が設置されました。つまり群馬県は、幼稚園先進国でした。どうりで群馬県には幼稚園が多いはずです。もちろん私の家内も幼稚園出身者です。

 ちなみに群馬県の隣の、新潟県や長野県では圧倒的に保育園が多いです。軽井沢にしても、私の生まれた佐渡島にしても保育園だらけなのに、農家と観光業者の多い嬬恋村は、つい最近まで保育園はたったの一つしかありません。それに対して幼稚園は三つありました。どうしてなんだろう?と言う疑問がずっとあったのですが、こういう歴史的経緯があったことを思えば納得です。松下村塾を運営していた楫取素彦が、群馬県県令となったことが、群馬県が幼稚園だらけのであることと無関係ではないでしょう。

 その結果かどうかはわかりませんが、文部省が公表した平成二十七年度の英語教育実施状況は、高校生で群馬県が一位。中学校では、群馬県は九位。二〇一六年の全国学力テストランキングだと群馬県は、中学生が十位。小学生は三十六位。小学校はともかく中学生以上は、学力は高いようです。これが保育所王国の新潟県だと、逆で小学校が九位で中学校が二十一位。

 まあそんなことはどうでもいいとして、それにしても一つ不可解なことは、保育所が少ないことに群馬県民には、不便さを感じてなかったか? もっと保育所に対する需要がなかったのか?という疑問です。しかも昔の幼稚園は、たったの二年制でした。三年制になったのは最近の話です。そのうえ午前中で終わり。それだけでは不便ではなかったのか?と言う疑問が出てきます。その疑問に対する答えはまた後で述べるとして、今回は、保育所について述べてみたいと思います。

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 日本で最初に保育所が生まれたのは、新潟県です。だから新潟県では保育所王国です。私が生まれた頃の佐渡島では、幼稚園は島に一ヶ所しかなく、どこもかしこも保育所だらけでした。当然のことながら私も保育所出身者です。今は保育園と言う呼び名が通用しているみたいですが、昔は保育園なんて言う人は誰もいなくて、保育所でした。

 保育士を目指している人たちが、最初に勉強することが日本最初の保育園のことだと思います。ネットや保育原論といった教科書には、明治二十三年、赤沢鍾美(あつとみ)・ナカ夫妻が新潟市東港町の新潟市静修学校に付設の保育施設を開設。これが日本最初の保育園とされています。その保育園は現在も赤沢保育園として新潟県に存在しているようです。

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 ところで、赤沢が経営していた静修学校とは何かというと、私立小学校だったようです。もともと赤沢は、小学校の教員だったのですが校長先生と教育についての意見が衝突したために退職しました。

 その年、つまり明治二十三年の十月七日には、第二次小学校令が公布され、市町村に私立小学校がある場合には代用できることになっており、しかも徒弟学校と実業補習学校を小学校の種類とすることになり、生徒は私立学校も選択できることになりました。

 そこで赤沢は、父親が開いていた修身学舎という家塾をひきついで、静修学校と改名し、昼は尋常小学科・中学科、夜はそれを卒業した文学専修科を設けて子供たちを指導しました。

 赤沢の授業は町の評判も良く、多くの子供たちが集まりました。赤沢の方針により普通の小学校よりも一年早く卒業できたり、卒業して実用に役に立つことを集中して教えたことも魅力で、貧しい人たちが大勢押し寄せたようです。

 ただし、子供たちのなかには子守をしながら登校してくるものも多いために、その扱いに困って、赤沢の妻仲子が、やむを得ず授業中に赤ちゃんを預かるようになりました。もちろん保育料を取っていません。赤ちゃんや幼児は、おやつはもちろん昼食の持ってこないようなケースが多かったようです。妻仲子は、そういう子供たちには食事まで作って食べさせ、傘のない国は傘を買って与え、夏の炎天下には帽子を買って与えたりしました。

 そのため子供たちの親は泣いて喜び、その噂が大きく広まり、自分の子供も是非預かってほしいと頼む人が続々と現れて、それも断りきれず次々と預かってしまうようになりました。これが日本最初の保育園となるわけですが、最初は私立学校からスタートし、それが子守学校のような形になり、それが日本最初の保育園になったわけです。

 ここで私の話をしたいと思います。

 昭和三十六年生まれの私は、三歳九ヶ月くらいまで、子守に育てられています。両親共稼ぎで母親は小学校の教員で、佐渡島の僻地で仕事をしていました。道路は舗装されず、マイクロバスがやっと一台通れるくらいの漁村です。テレビもNHKしか写らない時代で、電話もダイヤル式ではなく呼び出し式です。もちろん幼稚園も保育園もありません。子守をたのむしかありません。そのうえ当時は、二ヶ月しか産休が認められていませんので、生後三ヶ月から私は、朝はやくから夕方おそくまで子守の人に預けられていました。

 子守と言っても、さすがに子供たちではありません。
 中高年の老婦人たちです。
 当時は、腰が曲がって畑仕事ができなくなった老婆が子守となって活躍していました。

 今でこそ腰の曲がった老人を見かけることがなくなりましたが、昔は、 五十歳後半くらいから腰が曲がって杖なしに歩くことのできない老人が多かったものです。各人がいろいろな杖を持っていて、玄関先に杖が置いてあると、
「○○の婆が、家に居るな?」
とわかったものです。

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 昭和三十年代は、どの家も鍵をかけることはなく、別の家に勝手に上がりこんで、こたつに入って家主を待っていることが普通にありました。だから、家に帰った時に、玄関先にある杖を見て「○○の婆だ」と存在がわかったものです。近所の人たちも「ははあ。○○の婆が、◆◆の家にいて家主を待ってるな。◆◆に教えてやるか」と、用事ついでに家主の人に知らせたものです。なにしろ携帯電話がない時代です。通信手段は、このようにのんびりした口コミだけです。

 そういう時代ですから、車もなく、かといって商店街もない僻地なので、お互いに子守を頼んだり、洋服の仕立てを頼んだりしていました。洋服も衣料品店で買うのではなく、お金を払って近所の家に仕立てて作ってもらっていました。そもそも洋服屋がなかった。あるのは「よろずや」というコンビニみたいな店が二軒のみ。電気屋もなければ本屋も無い。道路だって最近出来たばかり。当時の登山ガイドに代表的なコースとして紹介されているくらいの場所なので何もかもが無い。今で言えば知床半島のような存在で秘境好きの登山客の名所のようなところでした。そういう僻地ですから、不便なことはお互い融通しあう。私はそういう漁村で複数の子守に三歳九ヶ月まで育てられていたのです。

 腰の曲がって杖で歩く老婆ですから、二歳から三歳くらいの男の子の方が速く走れます。逃げようと思えば逃げられるのですが、そういう気持ちは全くなく、むしろ老婆の後を追いかけることの方が多かった。いわゆる後追いというやつですが、母親に対する後追いとは少しばかり違って、農作業や干芋造りなんかを、じーっと見つめては、時々手伝ったりしました。

 子守といっても、四六時中子供の面倒をみているわけではなく、いろんな作業をしながら合間に世話をするのが子守のパターンです。子守学校の生徒も、子守しながら勉強をしていましたが、老人にだって子守の合間にできる仕事はあります。というか片手間に仕事をしていた方が、子守をしやすかったでしょう。私は、そういう環境で育ち、子守たちの片手間の作業をじーっと見て育っています。そして、作業を手伝いたがりました。

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 私が母親と下宿していたところは、農作業の合間に洋服の仕立てをしていました。当時は、電気アイロンなどはなく、鉄のアイロンを炭に熱して、指で温度調節しながらアイロンがけをしていました。私はじーっと、それを観察した上で自分でやってみようと思い、自分の顔にアイロンをあてて大火傷したことがあります。とにかく、周りを観察して、それをやってみようと思うのが、子守に育てられた子供の特徴だと思います。

 この経験が、息子が生まれたときに生きてきました。

 私は、息子が0歳の時から、ベッドメイクや部屋掃除などに連れて行ってます。そして、常に一緒に作業しています。部屋掃除をするわけですから、部屋は埃まみれになるので、嫁さんは非常に嫌な顔をしましたが、そんなことお構いなしです。ハイハイしている息子に布団をかぶせては、いたずらしました。私も小さい頃に、子守のおばさんや、子守のおばあちゃんと似たようなことをしてきていますから、これが私にとっては非常識ではないのです。

 しかしうちの嫁さんには、そういう経験がありませんから、このやり方にずいぶん戸惑ったようです。私は買い物にも必ず息子を連れて行き、買い物カートを押させてついてこさせます。雪かきや庭の手入れも側に置いておきます。私が花壇をいじると、息子も真似していじります。その結果、花壇が破壊されますが、叱りはしません。私の小さい頃の体験があるので、生あたたかく見守っています。最近は、皿を洗ったり、料理を創りたがっていますが、少しずつ手伝ってもらっています。

 ところで私には三歳以前の記憶が残っています。普通の子供なら三歳前で記憶は残りません。脳科学では、そういう定説になっています。けれど私は例外らしく、三歳以前のことを良く覚えています。逆に四歳以降の記憶があまりありません。四歳以降は、母親や子守の人から離れて、父親・祖母と佐渡島の都会(?)らしきところで暮らすことになったからです。つまり弟が生まれて、母親は弟と佐渡島の僻地に向かい、私は父親に預けられることになったわけです。

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 父親は厳格なために些細なことで物置に閉じ込められ、箸の持ち方一つで良く殴られました。優しい子守に囲まれた生活とは真逆な生活です。祖母も酷く口うるさい人でしたから、三歳までの子守時代とは全く違う環境になり、毎日不安なまま暮らしていました。子守時代とは天地ほど違う環境です。

 三歳九ヶ月まで私は子守たちにかわいがられました。僻地なのに、店が何も無いのに、昭和三十年代に、いったいどこから手配したのか、どういうわけかクリスマスケーキがでてきたりしました。当時としては貴重なホールケーキに対して、私は恐る恐る「どれ食べて良いの?」と聞いたものです。私の母親は、そこまで甘やかしません。

 子守たちと分かれてからも、子守の老婆たちは、遠くから私を訪ねてやってきました。何度も遊びにきては、帰り際に泣いてお別れしました。別れ際には必ず
「お父さんの言うことを聞いて、お利口にするんだよ」
と泣きながら言われました。子守されていた時には、絶対に言わなかった台詞を言うのです。そして何度も何度も遊びに来ては、時々、僻地に遊びに連れ帰ったりしました。それほどかわいがられました。そういうかわいがれっぱなしの環境から、厳格な父親と口うるさい祖母の元に預けられ、環境が一変したわけです。

 環境が一変すると、私は放置子ぽくなります。近所の老婆のところに勝手に遊びに行くようになります。知らず知らず以前の環境を求めてのことだったかもしれません。ご近所の人も、さぞかし驚いたかもしれません。当時の私にしてみたら、統一一貫性の本能が混乱しないための生存本能が働いたためにとった行動なんでしょう。幼児には、強い統一一貫性の本能があります。一貫した何かを求める本能があって、これが混乱すると、パニックになるのです。

 ただし、佐渡島の都会(?)には、佐渡の僻地と違ってちょっと違うところがありました。保育園がありました。私は、生まれて初めて保育園の年少組に行かされました。

 保育園に行って驚いたことは、子供の数です。今まで、これほど多くの同年代の子供の数を見たことが無かったので衝撃をうけました。しかし、それでも保育園に違和感なくなじめたのは、家庭にいるよりも安心感があったからです。私はこの時の体験をもとに、自分の息子を幼稚園を大好きにさせています。その方法は、以前このブログにも「子供を幼稚園好きにさせるコツ」として書いてあります。詳しくは、下記のサイトをクリックして読んでみてください。

http://kaze3.seesaa.net/article/447054742.html

 それはともかくとして、日本に制度として幼稚園・保育園・託児所ができる前は、いったい誰が幼児の面倒を見ていたかというと、『子守』なんですよね。私は保育園・幼稚園のない地域で、子守に面倒をみてもらっています。私の体験から言うと、子守は保母さんと似ています。別に何か教育されるわけでもなく、プログラムに沿って進行されるわけでもありません。日常生活と延長上に、子守をされる。農作業とか、洋裁の内職とか、家事の合間に見てもらってるわけです。

 それを幼児なりに観察しつつ、幼児なりに自分もやってみたいという衝動にかられ、ミラーニューロン(ものまね細胞)によって脳内に蓄積されていきます。親と違って子守には強く怒られたりしませんから、積極的にミラーニューロン(ものまね細胞)を働かせて、子守たちの生活習慣が幼児に遺伝していきます。そして作業を手伝ったりします。干芋を並べたり、仏壇に一緒にお供えしたりします。子守と一緒に生活をしていくと、一緒に共同作業をしたがるようになります。

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 逆に厳格だった父親には、多くのダメ出しを食らっていますので、怒られるたびに進化適応によって拒絶反応が出てきます。例えばいたずら書きをして強く怒られれば、書くことに拒絶反応が起きて、お絵描きや、字を書くことに対しても、なんとなく拒絶する心理状態になります。どんな生物にもそのような反応があるのは、そういう反応がなければ、あっという間に天敵に殺されてしまうからです。親が子供に必要以上に強く怒れば、子供は自らの生命保存のために学習して、拒絶の心理が働きます。

 幼児が階段を上がろうとして、それが危険な場合は、必要以上に強く怒ってしまうと、それがトラウマとなって高所恐怖症になったり、登山を嫌うようになりますから、その後の影響は甚大です。そのせいか武家社会では、子供に対して強く叱らない躾をしていたと言われています。もちろん武士ですから躾に厳しかったことは確かですが、強くは怒らない。むしろ子供に対してもっぱら暴力的に躾たのは農民階級の方だったといわれています。農民は臆病でも問題ないし、むしろその方が、自己保存のために良い場合もあるでしょう。

 まあ、そんなことはどうでもいいとして、これだけ環境が変わって、子供ながらに戸惑うと統一一貫性の本能が混乱します。これは脳に非常に悪い影響を与えることがわかっています。しかし、そこで悪い影響に対する歯止めになったのが、保育園だったかもしれません。長時間にわたって、緩い環境で保育されているので、環境の変化を和らげるクッションのような役割があったような気がします。

 現在では、どうなっているか分かりませんが、昔の保育園では、あまり教育的なことはしてなくて、ただ預かって遊ばせていることが多く、のんびりしていました。運動会・遠足といった行事も無く、それが私にとっては良かったのかもしれません。そのせいかその保育園でおきたことは記憶に残っています。記憶の法則として、嫌なことは忘れる傾向があるのに対し、楽しいことは忘れません。これは私だけではありませんでした。

 一年後、私は引っ越して、別の保育園に入り、最初の保育園の友達と別れます。それから十二年後に、小学校の合併で彼らと再会するわけですが、お互いに年少組の頃のことを覚えていました。これは今にしてみれば、すごいことかもしれません。

 というのも幼稚園出身の家内に
「幼稚園時代のことを覚えてる?」
と聞いても全く覚えてないからです。

 ちなみに家内は幼稚園(二年制)です。幼稚園だから授業もあったでしょう。そのうえ午前中で帰宅ですから友達との縁も薄かったかもしれません。ただし、家内の家庭環境が良かったようで、近所に親戚がいっぱいして、従姉妹どうしでよく遊んだらしく、その思い出話は、よく聞かされます。家内にとって楽しいのは、幼稚園では無く家族と、大勢の親戚たちだったようです。このへんの背景の違いから、子育てに関する考えの違いがでてきている。嫁さんは、できるだけ息子を幼稚園のプログラムに沿わせようとするし、私は、そういうことよりも親子で登山したり、親子で宿の仕事をすることにこだわってしまう。このへんの違いがおもしろいところです。


つづく。

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