2021年01月23日

リモートワークで働くなら嬬恋村

 ここ数日、暖かい日が続きましたが、そのせいか初めて北軽井沢にまともな雪が降ってきました。日本列島に寒波がやってくると、新潟や北陸で大雪になり、北軽井沢では晴天になります。逆に暖かい日が続くと、東京に雨が降り北軽井沢に雪が降ります。今日の北軽井沢は、まさにこんな感じです。

 本来ならばこの雪は、めぐみの雪となって、スキー場が大喜びするわけなんですけれど、新型コロナウイルスのせいで、スキー場はすっからかんになっていました。世の中、うまくいきませんね。

 新型コロナウイルスは、去年の3月頃から日本列島を恐怖に陥れたわけですが、 それでも12月から3月までは、スキー場に人が来ていました。だから去年の方が、まだマシだったと言えます。 今年はもっとひどい状況になっています。 スキー場で働いてる人たちは、深刻な状況だと思います。

 大型ホテルに関しても、冬にオフシーズンであっても、スキー場にあるホテルに移動することによって、なんとか人件費を出していたわけですが、そのパターンが通用しなくなったために、大手のホテルチェーンは青ざめていると思います。 結局、地元採用のアルバイトやパートさんを切ってしまうしかないわけで、地元の雇用が壊滅的な打撃をうけることになりました。

 こうなると観光地では、何か別の手を使って新事業を起こすしかないですね。例えば、リモートワークに適した村づくりをするしかない。つまり嬬恋村の通信環境に関するインフラを整備するしかない。群馬県のチベットとも言われているウルトラ・スーパー・超過疎地嬬恋村のメリットといえば、密にならないところです。人口が少なすぎてスカスカな村ですから、密にならない。

 おまけに軽井沢は近いし、草津温泉も近い。これだけ過疎地なのにも関わらず、東京までの交通の便はそんなに悪くない。その上、 野菜が安くてうまい。遊ぶところもないし、風俗産業もない。ちょっと車で走れば、あちこちに登山道があるし、免疫力をつけるには最高な地域でもあります。おまけにカラ松が大量にあって、そのカラ松が、人間の免疫力を高める。そして薬いらずの万座温泉までとても近いし、老人になれば、たった100円で嬬恋村ないの温泉に入ることができます。おまけにこの村では、何年も前から幼稚園も保育園も無料です。小学校の給食費もありませんし、学校の教材費も村が出してくれます。

 唯一の欠点は、働く場所がないことですが、新型コロナによってリモートワークで働く風習ができ、通信環境が今以上に整備されれば、こんなに働きやすい村はないと思いますけれどね。不動産は安いし、別荘は有り余っている。行政の方でも、移住のための様々な支援が行われていますから、この際 、嬬恋村に引っ越してきて、こちらでリモートワークされたらいかがでしょうかね? 大きなホテルも、部屋を余らすぐらいだったら、いそのことマンションかなんかにしてしまったらどうでしょうかね? いくら何でもそれは難しいかな?

  とにかく、今後は観光の形態を変えていかなければならないだろうし、リモートワークのためのインフラ設備を全国的に進めなければならなくなるでしょうね。あと、免疫力を高めるためのプロジェクトを観光関係者や自治体が進めていかなければならないと思うし、 それに伴って新しい産業が生まれなければいけない気がします。

 とにかく自粛自粛で守りに入るようではダメだと思う。 もちろん自粛も必要でしょうけれど、永遠に自粛することなんかできないんだから、自粛しなくても済むような社会体制作りがいると思うし 、私個人も何かしなければいけないんだろうな。小さな小さな一軒の宿屋が、できることは限られていると思うけれど、何かしなければならないと思う。

  観光協会も、商工会も、自治体も、国も、医療関係者も、いろいろ頑張ってると思う。みんな一生懸命頑張ってるのは痛いほど感じている。ただ言いたいことは、 そういう連中の努力をぶち壊すような、安易な外国人の受け入れだけはやめてほしい。下の図(Facebookからのコピペ)にあるとおり、空港検疫で陽性になった多くの人間が、外国籍です。もう、こういうのは止めましょうよ! 台湾のように水際でブロックしましょうよ。感染者の多くは、終息していると言ってる言い張ってる国なんだから、いい加減に現実に目をやって手をうちましょうよ。


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 それはともかくとして、私が一番心配してるのは、スキー場や大手のホテルが潰れることです。 何とか頑張って欲しいですね。大手が潰れれば、地域に対するダメージが大きく残りますから。だいたいこういう時代に、ピンチをチャンスにして一人勝ちする会社が出てくるものですが、嬬恋村や北軽井沢の中から、そういう会社が出てきて欲しいものです。 できれば嬬恋村に移転してきた大企業か、ピンチをチャンスに変えて一人勝ちする会社になってくれるとありがたいな。



つづく。

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2021年01月21日

春先のように暖かかった一日

 トランプ大統領の任期が終わってしまいました。最初は私も誤解していましたけれど、彼は偉大な大統領の一人だったと思います。彼の功績の第一は、数十年ぶりにアメリカから戦争をしなかったこと。これだけは褒めてあげてもいい。そしてもう一つ彼の功績として大きく取り上げたいのが、中東問題の解決です。その他にも、色々ありますけれど、戦争をしなかったことと、平和に貢献したという意味では、満点だった。

 話を変えます。

 ここしばらくは寒かったですが、今日は非常に暖かくて、部屋の中にいるよりも、小浅間山を散策してるほうが暖かかったです。ついでに浅間牧場馬も散策したんですが、春先のように暖かかったですね。

 非常事態宣言以降、めっきり暇になってしまったので、最近は毎日散歩しています。散歩することによって免疫力をアップさせるためです。

 新型コロナがこれだけ蔓延していたら、冬の間はじっとしてるしかないでしょうね。こうなることが分かっていたのだから、外国人の入国を緩和するべきではなかった。感染爆発と、入国制限の緩和は同時に起きていますから。統計的に見て入国制限の緩和こそが感染爆発の原因であることは間違いない。というのもGotoキャンペーンでの感染者は、11月までに、たったの130人だったから。


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 いずれ新型コロナも、いつかは小康状態になると思いますが、感染者が減ったからといって、入国制限の緩和はやめてもらいたい。お願いだから緩和だけはやめてもらいたい。3.11の時だって、日本中の観光地から外人が消えても、なんとかやってきたし、出来ると思います。インバウンドより、日本人客をとりこみましょうよ。Gotoキャンペーンだって県内限定にするとか、隣県限定にするとかでいいじゃないですか。というか、それよりも、医療崩壊が起きないような施設を作り、空港で外国からの感染者を隔離できるような施設を作り、水際で防御できるような体勢を整えるまで入国制限でいいじゃないですか!

 Go to キャンペーンも、事業化給付金も、いらないかな。それよりも、抗ウイルス用の壁紙とか、抗ウイルス用の空気清浄機を導入するための補助金を用意してくれる方がありがたいですね。でも本音言うと、そういうのもひっくるめて全ていらないから、入国制限の緩和だけは、やめてもらいたい。これから十年間、入国制限の緩和をしないと言うなら、Go to キャンペーンも、事業化給付金も、全てなんにもいらない。あとは自分で何とかします。

 お客さんが来なければ来ないなりに生活しますよ。他に仕事を探しますよ。細々と生きていきますよ。その辺の雑草を食ってでも生きていきますよ。ただ、子供たちが楽しみにしている、楽しい学校生活とか、スポーツ大会とか、修学旅行とか、運動会とかへの影響だけは勘弁してもらいたい。


つづく。

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2021年01月20日

今後、上毛かるた大会が無くなってしまうのか?

 新型コロナウイルスによって、様々な伝統文化が破壊されようとしています。
 その一つに群馬県の文化である上毛かるた大会も、開かれることはなくなりました。

 上毛かるたというのは、1947年(昭和22年)に発行された群馬の郷土かるたです。
 群馬県の名所旧跡や輩出した人を札としています。

 昭和21年、浦野匡彦氏は、満州から群馬へ引き揚げ、恩賜財団同胞援護会県支部を取り仕切り、戦争犠牲者の支援に取り組んでいました。当時は、戦争孤児や寡婦などの境遇は悲惨なうえに、GHQの指令により、学校教育での地理・歴史の授業は停止されていました。

 そこで彼は、かるたを通じて群馬の歴史・文化を伝えることにし、上毛かるたを作るわけですが、GHQ(占領軍)の検閲で難航したといわれています。

 そして、昭和23年に第1回上毛かるた競技県大会が開催。
 以降、毎年行われていて、2017年で第70回を数えています。


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 群馬県人にとっての上毛かるたは、県民のアイデンティティみたいなもので、東京銀座のホステスを口説く時も、相手が群馬県民なら上毛かるたの話題を出せば、どんな難攻不落の女性でも落とすことができると、まことしやかに噂されていたくらいです。

 群馬県民の嫁さんと結婚した後に、その噂は本当なのかと聞いてみたら、
「9割方本当かもしれない」
と答えたくらいですから、やっぱり本当なのでしょう。そのくらい群馬県民は上毛かるたを誇りに思っているわけです。

 現に、うちの嫁さんは、五十歳近くになっても上毛かるたを暗記しています。そして上毛かるたで勝負をすると信じがたいぐらい早いスピードで札を取って行きます。息子が四歳の時に、四歳児の息子と嫁さんが勝負をしていましたが、全く手加減しません。

 相手は四歳児なのだから、私はわざと息子に負けてあげて、息子のやる気を引き出したりするんですけれど、嫁さんのやつは容赦せずに四歳児の息子を叩き潰します。仕方ないので、私がわざと負けて見せて、息子のやる気を出すんですが、そうやってせっかく息子のやる気を出させてあげたにも関わらず、嫁さんのやつは、無慈悲にも、それを徹底的に叩き潰し、ワンワン泣かせてしまうのです。

 仕方ないので、息子と嫁さんが上毛かるたの試合をやる時は、私が審判になってハンデをつけさせました。嫁さんは、札を読み切るまで取ってはいけないことにしたわけです。それでも、嫁さんのやつは、鬼のように四歳児の息子を叩き潰して泣かせてしまいます。

 これが群馬県のスタンダードなのか?

と、呆れたものです。

 仕方ないので、四歳児の息子に、嫁さんに勝てるように特訓しました。
 どういう特訓かと言うと、絵札の文字を消して、絵だけで取るように訓練したのです。
 しかし、それでも息子は嫁さんに勝てません。

 これほど上毛かるたに強い嫁さんなんですが、読み札の意味を全くわかりません。信じられないくらい無知なのに呆れてしまったものです。例えば

「銘仙織出す伊勢崎市」

という読み札があるんですが、銘仙の意味を知らない。新島襄がどんな人かも知らないし、田山花袋がどんな人かも知らない。けれど、田山花袋のかるたが出たら、ガンガン取ってしまう。


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 まあそんなことはどうでもいいんですけれどね。結局、何が言いたいかと言うと、群馬県民がこよなく愛する上毛かるた大会が、新型コロナウイルスによって出来なくなってしまったということです。新型コロナウイルスは、GHQ(占領軍)の検閲よりも、大きな力を持っているということです。



つづく。

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2021年01月19日

小学校2年生の算数の宿題が九九ばかりで助かった話

 新型コロナウイルスで、嬬恋村の小学校が、臨時休校になってしまって、冬休みが一週間以上伸びてしまいました。それがやっと、昨日になって学校が始まったんですが、本当に困ったものです。冬休みに続いて、いきなり一週間以上の休校ですから学校の方でも宿題などを用意できるわけもなく、各自で勉強して下さいということでした。

 仕方がないので、国語は教科書の最後まで音読をさせ、算数は毎日九九の練習を欠かさず行いました。と言っても息子は、四歳くらいから九九ができていたので、息子にとって九九の勉強は、たいしたことではありません。

 どうやって四歳ぐらいから九九を覚えさせたかと言うと、九九の歌のCDを買ってきて、車で移動するたびに聞かせただけです。四歳から九九を勉強させたわけではありません。毎回毎回九九の歌を聞かされているうちに、歌詞を覚えてしまっただけです。





 九九だけではありません。ABCのうたや、ロックンロール県庁所在地なんかも歌詞を覚え、日本史年号の歌や、元素記号の歌や、一より小さい数の歌に、大きい数の歌、一本でも人参の歌や、十二ヶ月の歌に、落語の寿限無の歌まで、四歳から六歳まで、子供園に送迎しているときに車の中で繰り返し聞かせたら、歌詞をみんな覚えてしまいました。それも無理矢理に覚えさせることなく、勝手に憶えてくれたという感じです。


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 けれど、これは三歳児から六歳児だったから通用したのだと思います。小学生に同じことをしても無理かもしれません。

 これには根拠があります。

 実は、ABCの歌だけは、二歳児の時に二ヶ月だけ盛んに聞かせていたんですが、その時は息子は聞くだけで歌うことはありませんでした。そして月日が流れて、一年か二年経った頃に、息子が突然、お風呂の中でABCの歌を歌い出したのです。こども園でそんなものを教えるわけはないし、ある日突然、歌い出してしまった。心当たりがあるとすれば、二歳児の頃に二ヶ月だけ車の中で聞かせたことがあるだけです。つまり二歳児の脳は、憶えていたことになる。

 これは脳科学的にありえることらしい。

 これに驚いた私は、四歳児の息子に、車の中で毎日というに九九のCDを聞かせれば、七歳ぐらいになって突然歌い出すかもしれないと思ったので、毎日聞かせたわけです。最初の一年ぐらいは、黙って聞いてるだけだったので、やっぱり歌わないのかなと思ったんですが、一年間延々と聞かせ続けたら、お客さんが血相を変えて行ってきて、
「オタクでは四歳児の息子さんに、九九を教えてるんですか?」
と言います。

 もちろんそんな事実はないので、そっと息子の姿を眺めてみると、確かに九九の歌を歌っている。そこで駆け寄って
「もっと歌ってみて」
と言ったら歌わなくなってしまった。

 歌うのを強制してはダメなんだなと思ったので、しばらく放置していたら、ぽつりぽつりと歌うようになってきた。こいつはいぞと思った私は、歌うことを強制させずに、とにかく聞かせることに専念しました。あと実験として、志村けんの番組で「だいじょぶだぁ」で、よく放送されていた
「ウンジャラゲの歌」
も、私の声で聞かせました。その結果、一番反応が良かったのがウンジャラゲの歌でした。





 なので息子が最初に覚えたのが、ウンジャラゲの歌なので、最初に憶えたのが月曜日から日曜日までの曜日の名前です。次に覚えたのがABCの歌で、アルファベットを憶えました。その次に覚えたのが九九の歌。九九を四歳児が憶えてしまった。と言っても九九の歌の歌詞を覚えただけで、九九を理解しているわけではない。

 その次に覚えたのが一本でもニンジンの歌。これで数の数え方をマスターし、それに続いて覚えたのがロックンロール県庁所在地。残念ながら日本史年号の歌と元素記号の歌は難しすぎたのか覚えませんでした。

 大きく脱線しました。話を戻します。
 実は、息子が小学校に入る前に九九を覚えたために得をしました。

 どういうことかというと、小学校の二年生になると宿題が多くなってくるのですが、夏はともかくとして、冬になるとスケート部の活動があるために、なかなか宿題をする時間が取れません。放課後から夕方六時半までスケートの練習があるために、家に帰ると夜の七時になります。ご飯を食べてお風呂に入れば、宿題をする時間がなかなか取れません。それを危惧していたのですが、杞憂に終わったのです。

 実は、二年生の二学期の終わりともなると、算数の宿題は九九ばかりです。つまり息子に限って言えば、算数の宿題がないのと一緒です。だから、思う存分スケートの練習ができるわけです。

「こいつはラッキー!」

と思っていたら、新型コロナの大流行が起きてしまって、スケート部の活動はあっという間に中止になってしまいました。一週間後に軽井沢の大会があるにも関わらずです。憤慨したのは言うまでもありません。わざわざ高価なスケート靴を買って、準備万端整えていたのに、活動中止とは、スケート靴は高いし、研ぎ台なんかの付属品も高い。せっかく買いそろえたのに、この仕打ちはむごい・・・。ちなみにスケート部の再開の目処はたっていません。下手したら今年は、もう再開できないかも。新型コロナウイルスが恨めしい。


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つづく。

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2021年01月18日

【注意!】平日営業を止めている施設が増えてます

 新型コロナウイルスで、北軽井沢や嬬恋村の宿泊施設は、どこも壊滅状態になっています。特に大きな施設は、固定費も大変かかりますから経営が苦しくて平日営業を止めている状態です。それに伴い外来を受け付けている温泉施設・スキー場・レストランなども営業をしていませんので気をつけてください。

 もちろんうちの宿も非常に厳しくなっていますので、冬季の間は、原則として一人旅の宿泊を受け付けていません。二人以上だったら受け付けています。理由は、電気代灯油代で赤字になってしまうからです。昔はサービスのつもりで、受付たこともありますが、新型コロナウイルスのために、宿に体力が残っていませんので、そういったサービスができない状態です。これはうちの宿に関わらず、どこの宿さんもそういう状態です。


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 こういうご時世ですが、リピーターさんはありがたいですね。 先週末は団体さんでスノーシューをやるために泊まりに来てくれました。当然のことながら貸切状態です。大勢で四阿山に登るということでしたので、特別に、6時ちょっと過ぎに朝食を出しました。もし他のお客さんがいたら、そういうことはできなかったんですが、その団体さんの一組だけだったので、 こういう芸当ができたわけです。

 新型コロナウイルスによって、できないサービスも増えましたけれど、逆にできるサービスも確実に増えています。宿にお客さんが少ないので、団体さんの貸切状態になることも多いので、ある程度、融通が利かせられるわけです。

 これは家の宿に限らず、他の宿でも事情は同じかもしれません。なので、こういうご時世だからこそ、小さな宿に、いろいろ交渉して見るのもありかもしれません。少なくとも、うちの宿ではありです。緊急事態宣言が出ているわけですから、週末といえども、他に泊まり客がいない可能性がありますので、 そういう場合は団体さんのご希望に沿った提案ができるかもしれません。場合によっては貸切にすることも不可能ではありません。

 団体さんでなくても、 他に宿泊する人たちがいなければ、ご希望を叶えることができる可能性が大きいです。 リピーターさんならなおさらです。なので、日頃贔屓にしているペンションや旅館さんに、交渉してみるのもありかもしれませんね。

 ところで go to キャンペーンの過去の統計が、本部から送られてきました。それを見て驚いたのは、大半が旅館を利用しているということです。ペンション・ユースホステルなどの小規模施設の利用率は、たったの3%という少なさです。ほとんどのお客様は、旅館とか大型ホテルを go to キャンペーンを使って泊まっているようです。私は、新型コロナウイルスだからこそリスクの大きな大規模施設を避けるのかな?と思っていましたが、事実は逆でした。

 この数字には、かなり驚きましたが、よくよく考えてみたら私も、 Goto キャンペーンで、普段は泊まれないような温泉ホテルに泊まっていますから、世間の流れというのは、そういうものなのかもしれません。

 逆に言ってみたら、従業員を抱えていて固定費のかかる大型ホテルや温泉旅館などは、 Goto キャンペーンでかろうじて倒産しないで済んでいるのかもしれません。もし、これらが倒産してしまったら、そこで働いている従業員の生活も壊されてしまうので、これはこれで良かったのかもしれません。


つづく。

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posted by マネージャー at 06:35| Comment(0) | グンマーで嫁が出産と育児 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月16日

半世紀前に存在した、とんでも授業【10】

 昭和時代に普通にやって、現在では滅びてしまったものに体罰があります。今から考えたら信じられないことですが、昔は体罰が日常茶飯事でした。もちろん体罰をする先生と、口だけで怒る先生の二種類がいたのですが、どっちが嫌われていたかと言うと、信じられないことですが、どの先生も生徒に嫌われている人はいなかったと思います。

 これから十年後の嫁さんの世代になると、校内暴力が多発して多くの先生方が、子供たちの暴力の犠牲者になるわけですから、たった十年間で、どうしてこんなに変わってしまったのかが分かりません。

 私が小学校一年生から二年生までに担任の先生が五回も変わったことは以前述べました。五人の先生は全員女性の先生だったこともあって、このあいだに体罰を見たことは一度もありません。映画「二十四の瞳」のような日常風景画が基本であり、子供たちは担任の先生にとても可愛がられていたと思います。成績が少しでも良くなると、ひとりひとり呼び出されてとても褒められましたし、成績が悪くなれば、親切に特別に勉強を教えてくれました。それぞれキャラクターは違いますが、聖職者であるという姿勢は五人全てに共通していたと思います。

 ところが、小学校三年生になり二十二歳の男性新任教師が、遠方から赴任してくると、初めて体罰を体験して衝撃を受けます。その体罰とは、プロレス技でした。コブラツイストとか卍固めだった。と言っても、子供たちとじゃれあうように、ふざけてコブラツイストをやっていた。だから体罰と言えるかどうか、ちょっと分かりません。

 昔、「夕陽丘の総理大臣」という学園ドラマがありましたが、あの主人公にそっくりな先生でした。要するに子供たちに異常に馴れ馴れしい先生だったわけです。それまでの先生は、仰ぎ見る存在だったので、子供たちが衝撃を受けたのです。





 その時代というのは、70年安保が終わって就職できなかった人たちが大量に教員になった時代で、今までとは毛色の変わった教師が全国の小中学校に入ったのかなと思われます。こういう先生の存在によって、子供たちの中に存在していた偶像がガラガラと崩れていったことは確かです。

 映画「二十四の瞳」のような日常だった小学校が、学園ドラマの「夕陽丘の総理大臣」のような日常になってしまうわけですから、子供たちに混乱が起きないはずがありません。当時、こういう体験をした子供たちは、当時かなり存在していたのではないでしょうか?

 結局この先生は三年で島を出て行って、島の小学校は「二十四の瞳」のような昔の小学校に戻ったわけですが、その代わりに現れた五十代ぐらいの男の先生によって初めて体罰らしい体罰をする先生に出会いました。





 体罰といっても悪いことしたら頭にげんこつをくれるくらいです。それも痛いわけではなかった。でも、しょっちゅうポカポカ殴られました。その先生は、私とは別のクラスの担任の先生だったので、私はあまり殴られたことはないんですが、そのクラスにいた子供たちの話を聞いたら、宿題を忘れた人を一列に並ばせて、教科書でポンポンポンポン一斉に殴るのが日常だったという話です。

 まあ体罰といえば体罰なんでしょうけれど、それによってその先生を嫌いになったことはありませんし、その先生を嫌う子供たちがいたという話も聞いたことがありません。殴られても大して痛くないし、殴られた後は、普通に日常生活が行われていたので、さらりとしたものでした。むしろ、女性の先生によって、ねちねちと長時間にわたって怒られることの方が、よほど苦痛だったと思います。少しも痛くないげんこつの方が、楽でよかったわけで、その先生は皆に嫌われては無かった。

 むしろ自分たちの父親の体罰の方が痛かったと思います。現に私も父親の体罰によって何度も怪我をしています。コンセントを鞭代わりに叩かれて、背中の肉が削げたこともありますし、裸足で砂利道を走らされて足の裏がどす黒くなったことさえありましたから、学校の先生の体罰なんか、蚊に刺されたくらいにしか思ってなかった気がします。これは私が小学校六年の時の話で、昭和四十八年頃のことです。うちの嫁さんが、生まれた頃の話です。

 そして中学校に入ると、本格的な体罰を体験しました。私が中学校一年生の時の担任の先生は、物理の先生だったんですが、柔道を本格的にやっていたらしくて、悪さをした生徒に対して、大外刈りとか、釣り込み腰とか、払い腰とか、柔道技をかけるという体罰を行っていました。不思議なことに顔を殴るということはしませんでした。

 今まで大した体罰を受けてなかった私たちは、この先生に衝撃を受けました。給食を食べてる時に、友達とふざけあって、私が頭を打って倒れたのですが、それに対して怒って、私の友人に対して柔道技で懲らしめたわけです。

 で、その先生による体罰は、それっきりで、それ以降、卒業するまでの三年間、一度も見ることはありませんでした。みんな恐れて、その先生の前では、ふざけたことをしなくなったからです。そして、その先生の噂は瞬く間に広まって、その体罰の現場を見たことのない、他のクラスでも、その先生の前ではふざけたことがなくなりました。逆に言うと、その先生の授業中は、いつもシーンとしていて、その先生が
「この問題が分かる人?」
と問いかけても、手を上げて答える人は、ほとんどいませんでした。ほとんどいないので、私が大抵手を挙げて答えました。誰も手を挙げないと、先生がいつ怒り出すかという恐怖があったので、私が積極的に授業に参加しました。

 そのせいか、その先生は私のことを気に入ってしまったらしく、放課後に雑談するようになり、その先生の趣味が、私と同じで漫才や落語が趣味だったので、その話で盛り上がりました。

 結局その先生は、たったの一回きりの体罰で、みんなを恐怖させたわけですが、仲良くなってみると、そんなに怖い先生ではなかったことに気が付きましたが、それを私が友達に話しても、三年間の間、誰も信じなかったことが衝撃です。一回ついてしまったイメージは、何年たってもとれないものなんですね。

 結局、体罰はあっても日常的に体罰を行う先生は、私の時代でも、そんなに多くはなかったと思いますが、一人だけ、やたらと体罰を行う先生がいました。





 陸上競技の大会に出続ける体育の先生です。教師になりたての陸上選手だったと思います。大会が近づくと、放課後に何時間も何時間もガンガン走っていた先生で、大会の翌日には新聞紙面にもインタビュー記事などが掲載されていたと思います。そういう有名な先生が、典型的な体罰教師でした。

 と言っても、殴る蹴るは一度もしたことがありません。別に竹刀を持っていったわけでもありません。生徒がふざけると、ヘソを出せと言って、お腹を出させます。そしてお腹をツネります。

 それもあっさりしたもので、それが終わるとすぐに日常に戻りますので、誰もこの先生を嫌ったりしませんでした。むしろ正座して長時間説教されることの方がよほど苦痛でした。ちょっとお腹をツネられるくらいなら、そっちの方がよほどマシだったわけです。

 例えば、女子更衣室を覗いたとか、修学旅行の時に女子部屋に潜り込んだとか、そういうことが発覚した時、他の先生だったら、体罰を行わない代わりに、みんなが見ている前で、何時間も怒鳴られながら正座させられます。それからしたら体育の先生の体罰なんか屁でもなかったと思います。むしろ誰も見てないところでこっそりお腹をツネられる方が、よほど良かったというのが、当時の悪ガキの発想だったと思います。

 その昔、清水次郎長親分が、どうして、大勢の子分に慕われたかと言うと、子分を叱る時に人前で叱ったことがなかったという。たったそれだけのことで、東海道で一番慕われるヤクザの親分になったわけですから、大勢の前で正座させられることの方が、体罰なんかよりも、きついことなのです。

 それはともかくとして、その体育の先生くらい体罰を日常的に行っていた先生はいませんでしたが、不思議なくらいに人望がありました。おまけに悪いことをしたと生徒が納得した後に体罰を行っていました。体罰を行う前にも必ず生徒に
「悪いと思ってるか?」
と確認した上で行っていた。そして、ヘソをツネった後に、その後に全く引きずらなかった。子供たちにしてみたら、お腹を一秒ツネられる方が、十分も正座させられて怒られ続けるより楽だった。だから非常に人望があった。

 その人望に他の先生が快く思ってなかったくらいです。そういうのは生徒にすぐに分かってしまいますから、生徒の方でも、そのうちその先生を陰でサポートしていました。中には、先生を庇って身代わりになる奴が出てきました。例えば、体育の授業が熱心なあまり、次の授業にさしつかえるくらいに授業が延長することがあるのですが、それに他の先生が激怒すると、生徒の方が、体育の先生を庇って、
「先生は関係ありません。私が先生に勝手にしつこく質問してて、そのために次の授業に遅れました。悪いのは私です」
と身代わりになって怒られていました。

 それから、自分で罪を申告して、体育の先生の前で自分で自分のお腹をツネるやつも出てきました。後でバレるくらいなら、さっさと自白して自分で自分を罰する方が、その後の害が少ないからです。これは生徒の悪知恵でした。人の良い体育の先生は、このような悪知恵にコロッと騙されて
「潔い」
と感心していました。生徒にとっては、自分のお腹をツネるのは、たいしたことではありません。怖いのは、この先生を本格的に怒らせて、グランドを十周させられたり、腕立て伏せやスクワットを百回やらされることです。それを防ぐために、子供たちが悪知恵を働かせて、すすんで自白して自ら先生の前で自分を罰したわけです。





 まあいい時代だったと思います。この十年後に、全国の中学校に校内暴力の嵐が始まって学校の窓ガラスが片っ端から割られるなど、ひどい状況になるんですが、十年間で一体何があったのか、私にはさっぱり分かりません。校内暴力世代だった嫁さんの中学校時代の話を聞くたびに、別の星の話なのかな?と思ったくらいです。


つづく。

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2021年01月15日

半世紀前に存在した、とんでも授業【9】

 私が中学生の時には、三年B組とか、一年A組とかいうクラス名ではなくて、斉藤学級とか、本多学級と言う名前でした。担任の先生の名前が、クラス名だったのです。それが、三年B組とかに変わったのは、私が中学三年生の時です。それまでは、斉藤学級とか、本多学級と言うクラス名だった。つまり担任の先生の名前がクラス名だったわけです。それだけに、担任の先生の影響が大きかった。

 それは給食の時間にわかりました。私が通っていた中学校には、一学年に三クラスあったんですが、他クラスへの留学制度というか、生徒の他クラスへの一時的なトレード制度がありました。例えば、A組から三人・B組から三人・C組から三人。各クラスから三人ずつを給食の時間だけ他のクラスにトレードする制度です。給食を通して三クラスで交流を持とうと言うことをやっていました。

 例えば、A組から三人・B組から三人・C組から三人。各クラスから三人ずつを給食の時間だけ他のクラスにトレードする制度です。給食を通して三クラスで交流を持とうと言うことをやっていました。外部の人間を一時的に入れるという、この制度によって集団イジメなどの抑止力が働いていたので、これはこれで素晴らしい制度だったと思います。

 私はC組だったんですが、A組に行って彼らと一緒に昼食を食べてみたら、私のいたクラスと、あまりにも違っていて驚いた。そのクラスでは、みんなでじゃんけんをして、負けた一人が、全員の分の食器を片付けることになっていました。
「それはひどい」
と抗議したんですが、「負けるのが怖いのか」と言ってきたので、カーッとなって勝負を受けて勝っています。そして勝利した上で、負けて一人で全員のぶんの食器を片付けているの手伝ったのですが、手伝うのは私一人で、誰一人手伝おうとしない。負けた人に対する同情が全くない。それに義憤を感じた私ですが、気が付いたら私が悪者になっていた。シャレのわかんないやつだと周りから非難されていた。これに衝撃を受けた私は、クラスが変わるとこんなにも雰囲気が変わるんだと驚きました。





 私がいたクラスは、誰もがみんながお互いに助け合う雰囲気を持っていたので、じゃんけんで勝負して、負けたら食器を全部片付けるとか、負けたら一人で全部掃除するという文化がどうしてもわからなかった。そういう文化の違いが、給食時間におけるトレード制度で否応なく体験できたのは、今から考えたらすごく良かったと思います。

 あと、こういうじゃんけん勝負を許していたのも昭和時代の特色かもしれません。今だったらちょっと考えにくいですよね。

 このようなトレード制度は、いわゆる昭和時代の文化だと思います。クラスによってあまりにも雰囲気が違いすぎるので、その雰囲気の違いを体験しようというトレード制度ができたんだと思います。けれど平成時代になってからこういう文化があったと言う話を聞いたことがありません。つまりどのクラスに言っても大して違わないようになっていたんだと思います。どのクラスも均一化されていったんだと思います。

 あと、このようなトレード制度は、学校の先生が考えたものではなくて、生徒会か何かが企画立案したものだと記憶しています。そういう生徒の意見が学校の先生に通用したのが昭和時代だった気がします。これは生徒の意見を取り入れた先生も偉いと思いますが、こういう意見を先生に申し出る発想が生徒にあったということも 今から考えたらすごいことなのかもしれません。

 また、毎日ではありませんが、給食の時間に、担任の先生でない先生と一緒に給食を食べていました。これは生徒会の意見でこうなったのか、教職員の考え方で、そのような制度ができたのか、よく分かりません。ちょっと覚えてないです。

 それはともかく他の先生と一緒に食事をすると、その先生の色々な部分が見えてきて非常に楽しかったことを思い出します。

 授業では分からなかった先生の過去とか、先生の家族構成とか、先生の出身地なんかが聞けるからです。授業中にそういう脱線を嫌う先生も、給食の時間に限っては、無礼講だった気がします。

 特に、国体で現役でバリバリ走っていた陸上を専門とする体育の先生なんかと一緒に食事をした時が面白かったです。まだ24歳ぐらいだったかと思いますが、自分のことをおじいちゃんとか、年寄りと言っていました。当時は「年寄りじゃないじゃん」と思っていましたが、陸上の競技会の選手の中では、老人扱いされていたのかもしれません。

 その先生は、陸上部の顧問の先生だったんですが、放課後になるとガンガン走っていました。特に大会が近づいている時には、日が暮れるまでグランドを一人黙々と走っていて、それを見て部活動に身が入らなかった生徒はいなかったと思います。そういう先生と、一緒に給食を食べる機会は、今思えば非常に貴重な時間だったと思います。





 給食と言えば思い出すのが、脱脂粉乳です。私が小学校二年生の時まで、給食に脱脂粉乳が出ていました。大きなやかんに脱脂粉乳を沸かして、それを六年生のお兄さんが各児童のアルミか何かのコップに入れて配ったものです。そして昼食を食べる時間が始まると、脱脂粉乳の入ったアルミのコップに湯葉がってきていて、それを先割れスプーンで食べてから脱脂粉乳をのみました。温められた脱脂粉乳は、時間が経つと表面に湯葉のような薄い膜ができていましたから、これをスプーンで最初にすくって食べないと、薄い膜が唇から垂れ下がることになります。

 この脱脂粉乳の話をすると、体験者のほとんどの人たちが
「まずかった」
と言いますが、みんな肝心なことを忘れている気がします。どんなに不味くても脱脂粉乳を残していた児童はいなかったという事実です。

 私が小学校三年生の時から、脱脂粉乳が廃止されて牛乳になったわけですが、これを残す子供たちが続出しました。特に冬になると冷たくて牛乳が飲めないと言う子供たちが多かった。私は牛乳が大好きだったので、そういう子どもたちからたくさんもらって、一日に五本も六本も飲んだ記憶があります。そして、瓶牛乳の早飲み男として有名でした。キャップをあけるところからスタートして3秒で飲み干し、5本を15秒で飲みきっていました。紙キャップをどうやって開けたかというと、前歯であけて飲んでいます。

 そんなことは、どうでもいいとして、どうして脱脂粉乳を残さなかった子供たちが牛乳を残したかと言うと、冷たかったからです。あと、当時の食文化のためか、胃袋が牛乳やチーズを受け付けない子供たちがいて、温かい脱脂粉乳を飲めても冷たい牛乳は飲めないと言う子供が少なからずいたのです。なので給食の時間になると、私は牛乳やチーズをいろんな友達からもらっていました。多い時には牛乳五個とチーズ十個くらいもらったこともあります。

 ちなみに牛乳が給食に出始めた頃、牛乳瓶ではなくて三角の容器に入っていました。その三角容器の牛乳の飲み方を先生から教わった記憶があります。その三角容器も、いつのまにかなくなって、牛乳瓶に変わっていきました。そうすると、牛乳を残す子供たちが少しずつ減ってきました。

 理由は、単純明快で、学校のストーブの上に置いてあるお湯の入った大きなタライに牛乳を入れて温める人が出てきたからです。真冬に冷たい牛乳が飲めなかった子供も、牛乳瓶を温めることによって飲めるようになったわけです。けれど、ここで事故が続発します。長時間牛乳を温めすぎると瓶の底が割れてしまうのです。なので学校のストーブの上のタライは、午後になるといつも真っ白になっていました。そして教室中に授乳の香りが漂っていたのです。

 話は令和時代に戻ります。息子が入学した時に驚いたのは、一年生なのに給食当番があるということです。私が子供の頃は、給食当番は三年生になるまでありませんでした。一年生の給食の配膳は六年生が行っていましたし、二年生の給食の配膳も五年生が行っていました。なので、五・六年生はお昼になると下級生の給食の配膳のために非常に忙しかった。

 なぜなら、下級生の配膳の後には片付けが待っていたからです。ところが、どの時代にも食べるのが遅い下級生がいました。食べられないおかずがあったりすると、さらに遅くなります。そういう低学年の子供たちがいると、片付けをしなければいけない上級生のの昼休みがなくなってしまうので、イライラしながら待ったものです。ひどいやつになると、
「食べられないんなら残しちゃえ」
と悪魔のささやきをつぶやくやからも少なからずいました。早く片付けてお昼休みに遊びたいからです。特に気の小さな女の子をそそのかして、こっそり残飯を捨てさせたりしたのですが、それが女の子の担任の先生に見つかって、女の子だけが怒られるということがよくありました。


つづく。

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2021年01月14日

半世紀前に存在した、とんでも授業【8】

 私が中学生の時の担任の先生は、教員免許もないのに25年間、隣の村の教員をやっていたことをホームルームで話していた。

 その先生は、神奈川県の人で、いわゆる高専か何かを出ていて、当時の一流企業に務める予定だったんですが、体が弱くて肺か何かが悪かったために、病気療養のために佐渡島に一時的に滞在することになった。

 その時に暇だったので、教員のアルバイトをしたそうです。アルバイトですから、ずっと同じ中学校に勤めています。それが25年間ぐらい続いて、社会が落ち着いてきて、面倒なことが起きたので、正式な先生になったらしく、私のいる中学校に転勤になったと言っていました。だからその先生は、25年以上教職をやっていながら、二つの中学校しか赴任してなかったことになります。

 このような例は、他にもあって、中学3年生の時の学年主任の先生も、長年のアルバイトから教員になった口でした。それも私の住んでいた街の隣の村のことです。なので、その隣の村では、そういうことをよくやっていたのかもしれません。

 ちなみに、その先生は特攻隊の生き残りで、終戦時に陸軍少尉だったようで、あと何日か戦争が続いていたら死んでいたらしい。つまりパイロットだった。この先生の授業が面白かった。爆弾を川に投げ込んで魚を取った話とか、 陸軍時代の青春物語がとてつもなく面白かった。そういう青春時代を送ったせいか、やたら青春もののドラマが好きで、特に太陽にほえろが大好きだった。太陽にほえろというのは刑事ものの青春ドラマで、若い刑事がやたらと走りまくることで有名なドラマです。

 その話を他のクラスの友人にしたことがあったんですが、そのクラスではそういう話はしないとのことだった。どういうわけか、私のいるクラスでしか戦争の話をしなかった。





 こういうことは、当時よくあって、近所のおもちゃ屋さんの親父さんなんかもそうで、その人は戦争中に空母瑞鶴に乗って戦ったことがある人なんですが、その話は気に入った子供がいる時だけにしか話してくれなかった。その親父さんの奥さんにも話してなかった。なぜ知ってるかと言うと、親父さんから聞いたことを奥さんに話すと、初めて聞いたと言ったからです。私は、 その店で戦闘機とか戦車のプラモデルをよく買ったので、その親父さんにとても可愛がられて、 いろんな戦争の話を来てくれたものです。

 その話が、体験者にしか分からない話なんです。例えば空母瑞鶴のプラモデルがあってそれをしげしげと眺めていると、その親父さんは、本当の瑞鶴は、このプラモデルのように綺麗な形をしてなかったんだよと言います。戦艦大和でも何でもそうだったらしくて、工作の具合によってゴツゴツしていたらしかった。魚雷が当たった時の振動がすごくて、あれに比べれば新潟大地震なんて大したことはないと言っていました。こういう話は、私が大きくなるにつれて話さなくなり最終的には店に出なくなった。

 そんなことは、どうでもいいとして、この特攻隊あがり先生とは個人的に仲が良かったので、どうして先生になったのか?と聞いたことがあったんですが、失業して実家でぼーっとしていたら、村から教師になってくれと頼んできたので、教員になったと言っていました。軍人上がりなので教員免許を持っていたかどうかは、非常に怪しいですが、教員をやりながら免許を取ったのかもしれないし、そうでなかったのかもしれません。


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 男たちの旅路(NHK)より借用


 他に面白かったのは、中学1年生の時に習った数学の先生です。この先生は非常勤の爺さん先生でしたが、専門は地理と言ってました。地理の先生がどうして数学を教えてるのかよく分かりませんが、かなりお年を召した先生で、教務室に机があったかどうかもう怪しいくらいの先生ですが、授業は飛びぬけて面白かった記憶があります。おそらく学校で一番面白かった。

 どういう風に面白かったかと言うと、
「1メートルの長さというものは、実際には存在しないんだ」
というのです。どういうことかと言うと、世界基準を決める1メートルの物差しがフランスにあるらしいのですが、そのものさしは金属でできているので、温度によって膨張したり収縮したりするらしいので、正確な1メートルというのは存在しないというのです。子供心に
「そんなことは知ってるよ。それを言っちゃおしまいだろう」
と思っていましたが、その先生の意図は、そこではなくて、数学というのは、全て仮定で出来ている。つまり1メートルという単位が、存在すると仮定の上で、ロジックを求める行為であるという。つまり数学とは、計算では無く、ロジックを証明する学問だというわけです。論理学であり哲学なんだということです。

 これは中学1年生の時に教えられるわけですから、良い意味でも悪い意味でも、とんでもない先生だったと思います。なので、授業そのものは、すごく面白かった。大学の授業を聞いているような感じだった。

 ただし、私はこの先生に習ってる間に、数学の学力を落としました。授業が面白くて大好きだったのに学力を落としてしまった。ロジックを大切にするあまり計算を求める先生ではなかったからです。なのでテストの点数が、よくなる先生というわけではありません。数学に興味を持たせてくれる先生ではありましたけれど、それで成績が良くなるわけではないところが面白いところです。

 そして中学2年生になって、別の先生になってから成績が格段にアップした。ではその別の先生の授業が面白かったかと言うと、全く面白くなかった。面白くないのにどうして成績がアップしたかと言うと、担任の先生であり、この先生の人間性が好きだったからです。どうしてか授業がつまんなくても、先生の人間性を好きになると、成績はアップするらしく、この先生の時に限って私は何回か百点をとっている。

 ちなみにこの先生は、学生時代に宝くじを当てて、高額の賞金をもらい、そのお金で、内定が決まっていた一流企業に就職する前に1年ほど佐渡島で療養する予定が、暇だったので佐渡で教師のアルバイトをしているうちに、25年間教員生活を続けてしまったと言う先生だった。

 私はこの先生のもとで、数学のテストが良くなりました。授業は面白くなかったんですが、成績が上がったことは間違いありません。この先生の数学に対する考え方は、
「数学は暗記科目である」
という考えです。この考えに現在の私も賛同してます。やはり数学は暗記科目です。私たちは、1+1=2をわざわざ計算していません。九九を暗記するように暗記しています。だから指を使って計算をしません。でも算数を習いたての子供は、指を使って計算します。暗記してないからです。

 そういう意味で、数学の公式も暗記しないと話にならないし、数学の問題もある程度問題を解いて、問題のパターンを暗記しないと成績が良くならない。それを教えてくれたのが、あまり授業の面白くない担任の先生でした。そういう意味で私は非常に感謝しています。

 では、授業がとても面白かった数学の先生に対しては感謝してないかと言うと、そういうわけではありません。この先生のおかげで、知的好奇心がものすごくアップしたからです。その先生の教え方では、数学の成績が良くならなかったけれど、逆に数学に興味を持つことができました。ギリシャ哲学に興味を持ったし、インド哲学にも興味を持つようになった。そもそもその先生は、数学が哲学であること教えてくれたわけですから、受験勉強に必要な問題集なんかに興味が持てるわけがない。もっと根本的なものに興味の方向が入ってしまって、中学校の勉強に身が入らなくなってしまった。

 そういう意味では、こういう面白い数学の先生というのは、中学生や小学生には毒かもしれません。人によっては薬になるかもしれないけれど、人によっては劇薬になる可能性があると思います。

 ただし、こういう専門外の非常勤講師というのは、人間の幅を広げてくれるかもしれません。文部科学省の教育指導要領からの呪縛がないわけですから、こういう先生の指導のもとから天才がどんどん生まれてくるのかもしれません。テレビで有名な、でんじろう先生なんかも、そういう先生だと思います。






つづく。

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2021年01月13日

半世紀前に存在した、とんでも授業【7】2年間に担任教師が五回も変わった事件

 息子が小学校に入学して最初に驚いたのは、補助教員の先生がいたことです。補助教員というのは、担任の先生の他にもう一人先生がいて、勉強ができない子供や、注意力散漫になってる子供をサポートする役目のようです。

 ・・・ようですと言ったのは、そういう風に見えたというわけで、実際にそういう役割なのかどうかはよく分かりません。ただ授業参観に出た限りは、担任の先生の手の届かないところをサポートをしてるように見えます。息子のクラスは全部で29人なのですが、その29人を二人の先生が、見ている勘定になります。私の子供の頃に比べれば、至れり尽くせりです。

 実は、嬬恋村の小学校には、転校生がいっぱいやってきます。理由は新型コロナウイルスのせいです。都会に働きに出て行ったお父さんお母さんが、新型コロナウイルスで仕事を失って、Uターンして戻ってくるために、それに付属して転校生がやってくるわけです。そういう転校生は、友人関係はもちろんのこと、勉強面でも運動面でも不安を抱えていますので、そういう転校生を陰ながらサポートできる補助教員の制度は、かなり良い制度のように思えます。これが昔だったら、そういうことができなかったですから。

 では、50年以上前の私の子供の頃はどうだったかと言うと、とんでもない状態でした。一クラスが40人から45人ぐらいいて、それを一人の担任の先生が面倒を見ていたと思います。もちろん補助教員なんか存在しません。存在しないどころか、担任の先生が病気になっても、代わりの先生がいませんでした。


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 どういうことかと言うと、私が小学校一年生の6月頃に、担任の先生が肺の病気で入院したんですが、非常勤(正教員ではない)の先生が、臨時に雇われ担任の先生となりました。現在からすると、臨時の非常勤の先生が、担任を受け持つことも常識外れですが、それが二年も続いて、二年間に五人も担任の先生が代わったことも常識外れです。昭和四十年代の教員の給料は、とても安くて先生のなり手がいなかった時代です。デモシカ先生といわれた時代でした。

 私が小学校一年から二年にかけて、二年間に五人も担任の先生が代わった。つまり代理の先生が臨時に就任するわけですが、臨時の担任教師が、四人もいたわけです。つまり、私が小学校入学後の二年間に五人も担任の先生が代わったことになります。平均して、一学期ごとに担任の先生が代わったわけですが、二年間に五回も担任の先生が変わるという体験をすると、先生が変わるとクラスが全く別物になることに気づきます。ある先生の時は乱暴な状態になるし、ある先生の時は静かなクラスになる。担任が替わるだけでクラスの雰囲気が全く違ってくる。

 ある先生は、「人間に成績をつけるが嫌いなのでテストに点数をつけません」と言って○×だけの答案用紙を返したりしました。当然のことながら通知表にもそれが現れますので、教育熱心な家庭の子供たちは自分の通知表に青ざめます。成績の良い子ほど両親に怒られていたと思います。みんな同じような平均値の成績をつけられていましたから。

 こういうことをしたら今なら大問題になるところでしょうが、昔は、こういう個性派教師がいても何の問題もなかったまでしょうか?ただし、この先生は、点数はつけなかったけれど、成績が良くなった子供に対しては、一人一人呼び出して、すごく褒めていました。点数はつけなかったけれど褒め上手。そして親にもわざわざ言っていた。ただし点数になってないので親の方は「?」と首をかしげていたと思います。

 別の先生は、運動バカと言ってもいいくらいのスポーツウーマンで、体操ばかりやらせていました。この先生も変わり者で、生徒が「・・・をしたい」と言うと、本当にさせてしまう恐ろしい先生でした。例えば、「学芸会の出し物で何をやりたいですか?」と聞いてきた時に、よせばいいのにクラスの女の子が「バレエ」をやりたいと言う。バレーボールではなく、バレリーナのバレエです。当時、少女漫画でバレエがはやっていた。そんなもの佐渡島の田舎の小学校二年生ができるわけがない。しかし、その先生は
「じゃあ、やろう」
と言ったから大変です。授業をつぶしてバレエの特訓です。基礎もできてない小学校二年生ができるわけがないのに、勉強そっちのけでバレエの特訓。そして、アホらしいことに何とか「くるみ割り人形」のバレエを上演してしまう。


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 というわけで、教師が替わるとガラリと教室の雰囲気が変わることを体験したことは、非常に貴重な体験でした。そのうえ、どういうわけか校長先生は、全校集会で毎週、二ヶ月で入院してしまった元担任の先生の病状報告を詳しく教えてくれました。ひょっとしたら元担任の先生は、元ではなくて、正式な担任の先生であって、現在の担任の先生は、仮の担任なのかな?と思わせるような口ぶりでした。この報告が無かったら、二ヶ月しか習ってない私たちは、とっくに忘れてしまっているのに、何度もしつこく報告するので、記憶が消えることは全くなかった。

 で、代わりに担任になった先生は、やはり仮だったのか、突然に辞めていきます。そして新しい担任の先生が就任する。そして忘れた頃にジャングルジムか何かが、辞めた担任の先生から寄贈されている。ジャングルジムは、当時も現在も決して安いものでは無いです。車が買えるくらいの値段です。それを寄付した安月給の元担任の先生は、隣村の小学校で正式な先生になったという。

 で、手紙が送られてきて、「みんなと出会って本当に良かった。これから隣町で正式な先生になって頑張ります・・・・」みたいなことが書いてある。今から思えば、私たちが踏み台になっていたような気もしますが、その先生は、別れ際に涙を流しながら去って行ったわけですし、私も別れ際でギュッと抱きしめられたので、本当に去りがたかったのかなあと思います。もちろん小学校の低学年ですから、勘違いの記憶であった可能性もあります。

 このように昔の小学校では、かなり大雑把な人事が行われていたようです。これは私が体験した佐渡島の小学校だけではなくて、他の小学校でも行われていたようです。それが証拠に昔に出版された本に書いてあったりします。


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 例えば朝日新聞記者だった秋吉茂氏が書いた『美女とネズミと神々の島々』では、トカラ列島の悪食島を取材するために、島で滞在させてもらう条件として小学校の補助教員を申し出て、それに採用されています。昭和36年の話ですが、新聞記者が一時的に小学校の教員をやっていたわけです。それが『美女とネズミと神々の島々』に書いてある。そしてこの本は、その当時大ベストセラーになっているけれど、その辺を突っ込んだ人は、当時、誰もいなかったことを考えてみても、昔は教員資格に対してかなりおおらかになっていたような気がします。



つづく。

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2021年01月12日

半世紀前に存在した、とんでも授業【6】班活動

 群馬県に引っ越してきて、そして息子が生まれて、その子が小学校に入るにあたって、驚いたことが何度かあります。一番驚いたのは『団活動』です。浅間団とか白根団とか赤城団とか榛名団とか、いろんな団があって、運動会のチームになったり、道路清掃ボランティアのチームになったりして活動するのが、群馬県独特の団活動です。群馬県民は、この団活動が、全国どこでも行われていると思っていますが、そんなことはない。群馬県にしかないのが団活動。これには非常に面食らいました。


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 運動会・浅間団・白根団・赤城団・榛名団


 前置きはこのくらいにして、今から50年ぐらい前の話です。私が小学生の頃に、盛んに行われていたのが班活動というものです。

 例えば授業中に6人ぐらいの班を作って共同で勉強する。先生が問題をだして、班の仲間で考えて答えを出す。また班で共同研究をする。共同で発表会を行う。 班ノートというものを作って、同じ班同士で順番で日記をつけたりする。このようにやたらと班活動によって何かをさせようとする。そういうことがかなり多かった気がします。特に授業参観で、そのような活動が多かった。

 で、息子の授業参観に出かけてみたら、そういうことは行われていませんでした。
 今の小学校では、 班活動というのは下火になっているのでしょうか?

  この班活動というものに、疑問を抱いたのは、高校生になってからです。高校生以上になると、班活動がガクッと減ってきます。専門学校や大学生になると、ほぼ皆無になります。どうしてだろうと不思議に思っていたのですが、20年前に宿業を始めて、日本ユースホステル協会と契約し、北軽井沢ブルーベリーYGHというユースホステルになってから、班活動の謎について、分かるようになり、長年の疑問が氷解しました。

 ユースホステル始めてから、 ユースホステルの歴史を調べてみたのですが、日本におけるユースホステルの歴史は、日本青年団と切っても切れない関係にありました。この日本青年団・日本青年館が、戦後の義務教育に大きな影響を及ぼしていたのです。

 終戦当時、日本青年館に横山祐吉(日本ユースホステル協会を創設した人です)という人間がいたのですが、彼には、終戦直後に日本青年団を立て直そうとします。というのも日本青年団は、戦争末期に軍部によって解散させられていたからです。

 で、横山がどうやって立て直そうとしたかと言うと、GHQ(占領軍)に、 アメリカへ日本の青年を派遣して、アメリカの教育システムを吸収したい。だから日本の青年を派遣したいと要請しました。そして、アメリカ式の教育を日本に導入しようとしたのです。

 最初は日本青年館が、どうして日本の教育について、でしゃばったことをするんだろうと思っていましたが、よくよく調べてみると、戦前には、義務教育の小学校高等小学校以外、青年学校というものがあったんです。青年学校というのは、働きながら勉強する学校だったりします。そして、 青年学校の教師と、小学校の教師は行ったり来たりしていたわけです。その青年学校は、戦後に廃止されるわけですが、その結果青年学校の教師が、失業したわけではなくて、新制中学校の教師に移動したと言われています。

 まあそんなことはどうでもいいとして、青年団の親玉である日本青年館は、青年学校の親玉でもありますから、勤労青年の社会教育問題を真剣に考えていたわけです。そして、日本が戦争に負けることによって、 戦前の教育システムが、アメリカの教育システムに劣っていたから戦争に負けたと言う風潮もあったので、アメリカから教育システムを学ぶ必要性があると考えたわけです。


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 日本青年館


 GHQ(占領軍)の方は、最初の頃は、横山祐吉が再建しようとしてる青年団を危険視したのですが、よくよく調べてみると、元々は、かなりリベラルな団体であると見られていたことがわかり、しかも、横山祐吉ひきいる日本青年館そのものが、アメリカから積極的に学ぼうという意欲があったことが分かって、これを利用しようとしました。

 その後押しをしたのが、ラッセル・L・ダーギンです。彼は、大正8年から昭和17年までYMCA主事として日本に滞在して青少年活動を指導した親日家でありながら、昭和20年にGHQ民間情報教育局青年部長となって再来日した人です。もちろん日本語がペラペラで、日本の事情を全て知ってます。日本青年館のことも、横山祐吉も知ってます。だから日本青年館の横山祐吉を後押しして、青年の社会教育のために動きました。このラッセル・L・ダーギンが横山祐吉を大いにバックアップした。

 で、横山祐吉が手がけたのが『共同学習の手引き』と『公民館』です。
 YMCAでも『グループワーク』というものを作りましたが、
 最初に狼煙をげたのは、横山祐吉の『共同学習の手引き』です。
 そして文部省は、これをもとに、共同学習と公民館行政をすすめていきます。
 GHQ(占領軍)も、大いにバックアップしていきます。
 そして国会の予算会議で公民館の予算を通すときに、
 横山祐吉を参考人として証言させています。

 GHQ(占領軍)は、神風特攻隊に代表される戦時中の行動を封建的な縦割り社会からきていると思ってました。この縦割り社会を撲滅して、日本人を骨抜きにして、民主主義を根付かせるためには、一方的に上から教えると言う教育を廃絶しなければいけないと考えたわけです。教師が一方的に生徒を教えるというのを嫌ったわけです。そこで推奨されたのが横山祐吉が制作した『共同学習の手引き』です。 勉強は先生から一方的に教わるのではなくて、仲間を誘って共同で勉強しなさいということを推奨しました。これを協同学習とか、グループワークと呼んだわけです。 そしてこの考え方を当時の文部省が推奨した。その具体的な方法として、学校教育における班活動だった。

 そして、もう一つが公民館です。青年学校が廃止され、公民館ができた。上から教える学校というものをGHQ(占領軍)は危険視した。そうではなくて、共同学習するための場所を用意する。これが公民館です。そして、公民館側は、利用者のやることには介入できないとした。そして、この公民館の思想は、青年団活動の過去の歴史(つまり若連中・若者宿・郷中宿)とも一致してて、都合良かったわけです。もともと日本の伝統からして、若者に老人が上から下に教えるという制度は無かったし、あっても武士の世界だけで、主流では無かった。日本の伝統では、若者は若者が教える。そこには大人が介入しないというスタイルだった。だから公民館も共同学習も、すんなり日本社会に受け入れられた。

 ところが、これか各県に一斉に伝わったかと言うと、どうもそういうわけではないらしいというのは、私が群馬県に引っ越してきてからわかったことです。

 群馬県と新潟県では隣同士ですが、新潟県ではかなり積極的に班活動が行われたのにかかわらず、群馬県の同世代の人に聞いても、そういう話はあまりに耳にしません。どちらかと言うと、群馬県では班活動よりも団活動に力が入っていたような気がします。 班活動と団活動では、ベクトルの向きが全く違うので、この辺はすごく驚いています。私の個人的な感想をいうと、群馬県の団活動には、感心しています。行きすぎた班活動より良いと思う。上級生の下級生の思いやりが、良く伝わってくるし、下級生は上級生を尊敬している。空手教室にいくと、1年から4年生まで一緒になって仲良く鬼ごっこしている。私が子供の頃(新潟県)は、学年が違うと、ほぼ他人だった。

 まあそんなことはどうでもいいとして、どうして群馬県で、これほどまでに団活動が活発なのか、ちょっと分かりませんでした。そして群馬県くらい GHQ の意向に反抗した県はないと思う。あるとすれば佐賀県ぐらいでしょうか。この GHQ に対する反抗心は、どこから来てるんだろうかというのが、ずっと分からなかったんですが、息子が小学校に入学して6ヶ月ぐらい経ったところに、なんとなくわかりかけてきた。 ヒントは、上毛かるたにありました。


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 ただ今回も、文章が長くなったので、ひとまずここで筆置きます。どうして上毛カルタによって、群馬県民が、GHQ(占領軍)の意向を退けるようになったのか? どうして群馬が保守王国なのか? それを書くと、話がとてつもなく長くなるので・・・・。機会があったら書きたいと思ってますが、私が書かなくても群馬県民は、皆知ってることなので、そこは野暮というものですよね。



つづく。

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2021年01月10日

半世紀前に存在した、とんでも授業【5】ここに泉あり

 全国のユースホステルのマネージャーならほとんど体験してると思いますが、ユースホステルを開業すると、人形劇団が泊まりに来ます。




 人形劇団というのは、全国の幼稚園や保育園を回って歩く劇団のことで、いくつもの団体があります。それらの団体の泊まる宿がユースホステルです。他の宿は値段が高くて泊まれない。最も最近は、ユースホステルより格安のゲストハウスに泊まっているようです。うちの宿にも、ここ数年間は泊まりに来ることはなくなりましたが、昔は、よく泊まりに来て
「よかったら公演を見学しませんか?」
と誘われて、一緒に見に行ったりしました。

 こういうドサ回り劇団が、宿泊費を節約するためにユースホステルに泊まりに来る。彼らは、全国の保育園児・幼稚園児に娯楽を提供している。それを知るにつけ、私の子供の頃を思い出しました。私も、保育園時代・小学校時代・中学校時代に、ありとあらゆる劇団の芝居・音楽・公演をみてきたからです。


 前置きはこのくらいにして本題に入ります。

 私は佐渡島という離島の小学校と中学校を卒業していますが、 どういうわけか小学校中学校に、いろんな劇団がやってきた。音楽家もやってきた。 それはもう不思議なくらい、いろんな人たちが学校にやってきた。

 その人たちは、決まって、母校出身だった。故郷に錦を飾るではありませんが、母校で公演を行うという形式だった。ある時はフルートの演奏だったり、ある時はオーケストラだったり、ある時は演劇だったり、ミュージカルだったり、古典芸能だったり、落語だったり、腹話術師だったり、それはもう様様です。共通しているのは、その小学校・中学校の卒業生ということです。故郷に錦を飾るというのでしょうか?


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 映画『ここに泉あり』より借用


 面白かったのは、五十人くらいの大きな劇団の人たちが来たことがあって『ビバ・ブラジル』というミュージカルを見たときです。劇団の中に、中学の先輩いて、その人が母校出身という触れ込みだったけれど、けっこう下っ端だった。下っ端だけど、ステージでスポットライトを浴びて挨拶した。

 スポットライトというか、舞台の照明は大量に装備されてて、アンペアが足りないのか、電源ドラムか、いくつもあって、それが遠くのコンセントに繋がれていたことを昨日のように思い出します。

 今考えてみたら、劇団やオーケストラの事務所の人達の営業があったのかもしれない。それを学校や教育委員会が受けたのかもしれない。そう考えるようになったのは『ここに泉あり』(昭和30年公開)という日本映画を見てからです。

 今井正監督の作品で、群馬県高崎の市民オーケストラが、群馬交響楽団へと成長する草創期の実話を舞台とした映画なんですが、市民オーケストラが生き残りのために、学校にさかんに営業をかけて、すごい僻地の学校に演奏に行くエピソードが、とても印象に残ったからです。すごい僻地の学校に演奏に行くわけですから、嬬恋村の吾妻鉱山にも行ってるし、小串鉱山にも行ってて、ロケ地になっている。浅間山が、デーンと写っている。


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 映画『ここに泉あり』より借用


 で、うちの息子が通っている小学校に、映画『ここに泉あり』のような団体がやってくるかというと、やってこない。卒業生が故郷に錦をかざるように、音楽家が学校で演奏したとか、劇団が公演したとか、そういう話は、全くない。で、うちの御客さんに尋ねてみたのですが、他の小学校でも無さそうな感じです。

 ということは、平成時代・令和時代に、小学校に、劇団やオーケストラがやってくることは無いということになります。

 しかし、私が子供の頃は、年に2〜3件くらい、演奏会や劇団の公演があった。それこそ『ここに泉あり』のような感じで、プロの音楽家による生演奏を聞かせてもらったし、すごい舞台装置の演劇をみさせてもらった。何十という照明の煌びやかに圧倒されもした。その光景を一言で言うと、サーカスですね。


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 映画『ここに泉あり』より借用


 新型コロナウイルスが蔓延する現在・未来、学校にサーカスがやってくることは無いでしょうね。



つづく。

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2021年01月09日

半世紀前に存在した、とんでも授業【4】映画鑑賞

 昔の小中学校にあったけれど今の小中学校にないものに映画鑑賞というのがあります。昔は、僻地の学校で、映画の上映会をよくやりました。私が子供の頃は、毎月学校の授業で映画を見ました。

 佐渡島には、映画館というものが、あまり無かった。なので学校で何度も映画が上映されました。と言っても、最新作ではありません。古い名作です。例えば『路傍の石』とか『風の又三郎』とか『次郎物語』とかです。みんな戦前の作品だった気がします。洋画もありました。『野バラ』とか『菩提樹』とかいうドイツ映画を見た記憶があります。『路傍の石』は、文部省推薦の第一号映画だと聞かされました。『次郎物語』も戦前の文部省推薦映画です。このチョイスからして、戦前の文部省は、かなりリベラルだったと思います。天皇の人間宣言は、戦後(マッカーサー)が初めてでは無く、戦前である昭和12年に、文部省通達で行われていますので、それをみても、当時の文部省の雰囲気が分かるというものです。




 それはともかくとして、どうして古い名作を学校で上映したかと言うと、図書館が16mmフィルムを購入するためです。

 私が生まれた佐渡島の金井町というところでは、たったの人口5000人の小さな町でしたが、かなり大きな図書館を持っていました。それこそ軽井沢の図書館よりも大きい図書館がありました。

 その図書館には、大量の16mmフィルムと16mmプロジェクター(映写機)を置いてあって、16mm映画がずらりと置いてあったのです。アニメもあったし、外国映画もあった。佐渡島のドキュメンタリー映画もたくさん置いてありました。16mmフィルムとして販売されているものなら大抵置いてありました。

 離島の上に、小さな小さな町村ですから、図書館に大した予算はありません。なので、その図書館は小学校の中にテナントとして入ってました。第一次ベビーブームが終わって、子供たちの人数が減ったことによって、教室が余ってしまったのを有効利用したわけです。

 貧乏で予算が無い町が、精一杯考えた図書館行政で、建物は借り物でしたが、蔵書は多かった。蔵書が多いだけでなく、16mmのプロジェクターが何台もあったし、16mm映画も大量にあり、その多くは貴重なものばかりでした。もちろん、そんなものを買う予算は、小さな町にはありません。

 予算がないから小学校や中学校で、一人何百円か支払って上映会を開いたわけです。その収益で新しい16mmフィルムをジャンジャン買ったわけです。これで格安で映画は見れるし、資金なしで16mmフィルムは増える。言うこと無しです。それに一度買った映画は、何度も無料で見られます。だから、無料で見られた映画と、有料だった映画の上映会がありました。なんだかんだと言って、毎月一回は学校で映画を見ていたと思います。だから親は、子供を映画に連れて行かなくてもすむ。学校が、かわりにやってくれているから言うこと無しの全員がハッピーになる展開です。

 今から考えてみたらすごいことだなと思うんですが、離島のために映画館が無かったことや、民法テレビ局も一つしかなかったこと、ビデオテープというものがなかった時代という3つの環境が、こういうシステムを作り出したんだと思います。

 また、離島ゆえに、身分不相応に巨大な図書館をかかえていたと思います。小学校の空き教室を使って、テナントみたいに存在していたので、予算がかからなかった。だから小学校に大人たちが入り放題だったし、当時の小学生たちも、学校の図書館に行かずに、町の図書館に行った。大人仕様の町の図書館なら、最高の暖房が入っていたし、そこにはマンガ日本史全集みたいなものもあった。学校の図書館にないものがあった。その結果、子供たちが集まる場所となって、みんな本好きになっていった。

 これが現代の嬬恋村の場合、図書館がなくても何の問題もない。本が読みたければ、中之条に行けば大きな図書館があるし、軽井沢にも大きな図書館がある。さすがに映画館はないですが、昔は、嬬恋村にも映画館があったと聞きます。無くても電車で簡単に映画館に行けたことでしょうが、日本海という障壁に囲まれた佐渡島では、そこで完結しなければならない。

 嬬恋村が、群馬県のチベットと言われるところであるのは事実にしても、なんだかんだ言って陸続きです。船に乗らないと本州に上陸できない佐渡島とは全く条件が違う。波が荒れて船が出航できないなんてことはないからです。だから大きな図書館を充実させたし、16mmフィルムの貸し出しも行って、子供会や、町内会で上映会が盛んだった。今ならスカイパーフェクトTVもあれば、BSテレビでいくらでも映画が見られる。わざわざ16mmプロジェクターを用意することもないし、16mmフィルムで映画の上映をすることだって必要ない。しかし、当時は、映画が娯楽の王様だった。

 なので学校でも盛んに映画の上映会を行った。もちろん授業の一環ですから、普通の映画館と違った上映になったこともあった。16mm映画というのは、大抵、前編・後編の2巻に別れているのですが、先生が間違えて後編を先に上映することが良くあった。それを見ていた小学生の私たちは、
「何か変だな?」
と思いつつ、感動のエンディングシーンを見て、中途半端に感動してしまったりする。そして、ラストシーンを見終わった後に先生が
「これから前編を上映します」
と言って、前編を上映し始めるのです。当然のことながら、子供たちからブイブイ文句が出ますが、間違えた先生は
「映画館で映画を見たと思えば、いいんだよ。映画館に入れば、これと同じことが起きるんだから」
と屁理屈を言っていました。

 要するに、映画が始まってる映画館に途中入場て、途中から映画をみたと思って、見ればいいんだよという屁理屈なんですが、そもそもみんな映画館に入ったことがないので、
「途中入場?何それ美味しいの?」
という状態で、意味がさっぱり分からなかった。金をとって上映会をひらいていたわけですから、今から考えると、とんでもないことなんですが、昭和時代の小学校では、よくある日常の一コマだった。要するに今より大らかだった。



ドイツ映画『野バラ』 後編をみてから前編を見させられたのは、良い思い出




つづく。

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2021年01月08日

半世紀前に存在した、とんでも授業【3】計算尺

  前回、息子が小学校に入学する時に、用意しなければいけない入学式セットに画板がなかったことを書きましたが、もう一つ、無かったものに十玉算盤があります。十玉算盤が、息子の入学セットに無かった。十玉算盤が無かったかわりに、算数セットというものが増えていた。


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 この算数セットというやつが、くせもので、ちいさなおはじきみたいなものが大量に入っていて、それに一々名前をつけなければならない。そんな面倒くさいことできるかと思っていたら、世の中には、それを商売のタネにしている業者もあって、算数セットのおはじきやコインなどにつける名前シールを販売する業者がいたので、名前シールを注文しました。


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 昔は、こういった算数セットはなくて、かわりに十玉算盤があった。
 というか、十玉算盤で全て事足りるのに、
 どうして算数セットまような面倒くさいものが必要なのか、わけがわからない。


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 実は、うちの息子は、最初、算数が苦手で計算ができなかった。足し算の原理も、なかなか理解できなかった。理解した後も、いつも指を数えていて、計算が遅かった。なので、ネットで買った十玉算盤を与えて渡したら
「すごい! 魔法の道具だ!」
と驚いて、どんどん計算が出来るようになった。

 息子にしてみたら電卓を手にした気分だったと思います。
 そして、どんどん算数ができるようになった。
 暗算ができるようになった。
 頭の中に十玉算盤がイメージできたんだと思います。

 そして、そのうちに2桁までの足し算を暗記するようになり、指を数える必要がなくなり、暗算で答えが出るようになった。その結果、学校の授業が苦痛になってしまった。暗算でできるのに、めんどくさい「さくらんぼ計算」をしないといけないので、それが苦痛でならなかった。

 さくらんぼ計算というのは繰り上がりのある足し算を10のまとまりを作って「10といくつ」で答えを求めていく計算方法です。説明するのも馬鹿馬鹿しいので詳しくは下記のサイトをみてください。

https://js-mama-onayamikaiketsu.com/1833.html

 これは、うちの息子だけでなく、幼児から算盤をやっている子供は、全員が「さくらんぼ計算」や算数セットを苦痛に思っていると思う。へんな道具より十玉算盤の方が、具体的で分かりやすいし、位(くらい)の考え方も、いっぺんで頭にはいってくる。そのうえ何桁の計算でも、一瞬のうちに理解できてしまう。

 極論すれば、十玉算盤さえあれば、2年間で習う算数を1ヶ月でマスターできる。自然と足し算を暗記するようになれる。掛け算の理論まで、簡単に理解できるようになる。

 それに対して算数セットでは、位の考え方を、あとで習うので、わかりにくいし、位取りのところで、落ちこぼれる子供も多いと思う。現に、うちの息子も十玉算盤に出会う前まで、位取りをなかなか理解できないでいました。なので「さくらんぼ計算」や算数セットより、十玉算盤の方が、圧倒的に優れた商品だと思うのですが、いかがでしょうか?

 関係ないですが、いまはやりのインド式計算方法というのがありますが、あれは計算が速いですね。めちゃくちゃ早い。一度、息子に教えたんですが、すごく計算が速くなった。足し算の筆算を前から(つまり位の大きい方から)計算する方法なんですが、これだと計算が速くなる。とんでもなく早くなる。しかし、途中で、これを息子に教えてはダメだと気がついた。この計算方法は、ある程度、知能が高いひとでないと、混乱する原因になるし、学校の授業で習う位取り計算方法と真逆なので、息子の頭が混乱してしまう。なので、これを教えてはダメだと思いました。やはり、十玉算盤が、日本の風土に一番あうように出来ている。

 これは余談になりますが、私が子供の頃には、機械式計算機というものがあって、それのオモチャバージョンがありました。それが学研の『科学』と『学習』という雑誌の付録についてきたことがあった。

 その機械式計算機は、ダイヤル式黒電話(といっても分からないでしょうけれど)のようなダイヤルを回して、数値をいれると、計算結果がでてくるものです。昔の黒電話をかける要領で、ダイヤルを回すと、答えが出てくる。もちろん十玉算盤の方が、圧倒的に便利なのですが、子供の頃に、機械式計算機のオモチャに出会った私は、すごい機械だと大興奮した。そこに父親が
「もっとスゴイものがある」
と見せてくれたのが計算尺です。


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 まあ、そんなことは、どうでもいいとして、大昔にあった授業で、今は存在しない授業に『計算尺』というものがあります。『計算尺』というのは、いわゆる物差しみたいなものを使って、かけ算・割り算・三角関数・対数・平方根・立方根などの計算をする道具ですが、電卓が無かった頃は、みんな、これで計算していました。

 リチャード・ギア主演映画「愛と青春の旅だち」に、ヘンミの計算尺が登場しているし、映画「アポロ13」でも軌道計算を検算する場面でヘンミの計算尺が登場している。映画の『風立ちぬ』でも航空機の設計の場面で登場しています。ちなみに世界の計算尺の8割は日本製(ヘンミの計算尺)で、竹でつくられていたために気温による膨張がなかったために、世界中の一流科学技術者が、日本製計算尺を使っていました。金属製の計算尺だと、夏に熱膨張で狂いが生じるからで、どうしても日本製(ヘンミの計算尺)でないといけなかった。

 当然のことながら私も学校で計算尺を習っています。
 習っていますが、私の世代だと、使い方を説明されて、
 さらっと流しただけで、電卓の授業がメインでした。

 で、電卓の授業で何をやったかというとメモリー計算です。
 電卓にある 「M+」「M-」「MRC」 のキーの使い方を勉強したわけです。


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 使い方としては、例えば、100円のチョコ2個、50円の飴玉を5つ買ったとします。
 さて、全部でいくらになるでしょうか?
 という問題の解答を出すときに使います。

100円のチョコを2個→ [100][×][2][M+]→200
50円の飴玉を5個→ [50][×][5][M+]→250
合計 →[MRC]を1回 →450

 という具合です。
 こういう授業をやったわけです。
 電卓で複雑な計算をやったわけです。

 だから私の世代だけは、「M+」「M-」「MRC」 のキーの使い方を義務教育で習っていて、この使い方を知っています。

 なので、これを嫁さんの前で披露したら、嫁さんの奴は、いたく驚いていた。ということは、昭和四十七年生まれの嫁さん世代は、義務教育で習ってなかったということになる。もっとも嫁さんは、算盤塾に通っていたので、電卓のメモリー計算など知らなくても何の問題もなかったと思いますが。



つづく。

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2021年01月07日

半世紀前に存在した、とんでも授業【2】画板

 息子が小学校に入学する時に、用意しなければいけない入学式セットに画板(がばん)がなかった。画板といっても今の人にはわからないかもしれませんが、写生大会の時に使う木のボードのことです。私が小学校に入学する時には、その画板を買わされて、学校に持って行ったものです。図工の時間や理科の時間に画板を持って校庭に出て写生を行ったことが何度もありました。授業中によく写生を行った。また、年に二回ぐらい写生大会というものがあった。

 今では考えられないことですが、勝手にどこかに行って写生を行っていた。昼食に給食が出たかどうか覚えてない。弁当だったような気もするし、給食を食べに帰ってきもする。勝手にどっかに行って、一日中、何かの写生して学校に帰ってきた気がする。

 もちろん小学校に入学して間もない頃。小学一年生が、散り散りバラバラになって絵を描いていたわけですが、それでよく事故が起こらなかったと感心します。今じゃ考えられない。というか、息子が通う小学校では写生大会というのは存在してない。少なくとも小学二年生までは、そういうイベントはなかった。おそらく今後もないかもしれない。学校の道具に画板がないからです。


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 そういえば、昔は習字の授業が盛んでした。年明けになるとコンクールがあって、表彰された作品が廊下や体育館に次々と貼られたものです。子供会でも表彰していましたし、地域の自治体でも表彰してました。と言うか佐渡島という辺鄙な田舎の小さな市町村に、何人ものの書道家がいて、みんなそこに習字を習いに行ってた。昔は塾といえば、習字の塾であり、そろばんの塾であって、くもんのような学習塾というものはなかった。

 息子が通ってる小学校では、習字そのものがない。ひょっとしたら三年生になったらあるのかもしれませんが、一年生二年生の間はなかった。その代わり書写という授業がありました。書き初めの文化は、少しずつなくなっているのかもしれません。

 私が中学生だったとき、習字の時間には、学校の先生ではなくて、地域の書道家の先生が教えに来ていました。離島の、人口五千人程度の町村に、何人もの書道家がいて、それぞれ多くの弟子を抱えていたわけですから、今にして思えば驚異的なことかもしれません。そして、生徒一人一人に、別々の課題を与えて教えていました。全員一斉に同じ文字を書くということはなく、別々の課題が与えられた。その先生は私に対して「温故知新」という文字を書くように言われ、散々書かされた挙句、
「この意味を知ってるか?」
と聞かれたので
「知りません」
と答えると、初めて意味を詳しく教えてくれる。習字と言うより、国語の授業みたいだった。

 こういう習字の授業があるにも関わらず、さらに国語の授業で習字をやらされた。国語の先生も天才的に習字が上手い人で、赤い墨汁で次々と手本を書いてくれる。その先生は
「何を書きたいんだ?」
と聞いてくれて
「・・・が書きたいです」
と言うと
「・・・」
という手本を書いてくれる。つまり各自で何を書いてもよかった。先生に「◇◇を書きたいので手本を書いてください」と言うと、ものの2秒くらいで美しい手本を書いてくれる。それをサッと飛ばすものだから、手本が床に落ちる。それを慌てて拾って、その手本をもとに練習をしていた。でどうなったかと言うと、男子生徒の大半が
「天地真理」
と書いていた。歌手の天地真里(あまちまり)が全盛の頃でした。中には「レットイットビー」とか「神田川」とか「なごり雪」とか書いてる人もいたけれど、圧倒的に「天地真理」が多かった。

 そしてその書き初めを教室の後ろにでかでかと貼るわけですが、それを見た他の先生方が「どうしてみんな天地真里(あまちまり)ばかり書いてるんだ?」と聞いてきて、生徒たちが反論します。

「天地真里(あまちまり)じゃありません、天地真理(てんちしんり)です」






 そういえば、私が中学校二年生の時、一年で廃止になった授業があります。電卓という授業です。以前は算盤の授業だったらしいのですが、私が中学二年生の時だけ、電卓という授業になり、1年で廃止になってしまった。昭和五十年頃に、電卓戦争というものがありました。今でこそ百円ショップで買える電卓ですが、当時は高価なもので、カシオとかシャープでした。

 恐ろしいのは、電卓の下請けに、今をときめくインテル社があったことです。インテル社は、日本の電卓会社の下請けだったことがあった。国内の半導体メーカーはこの電卓用 LSI の開発を引き受けてくれなかったので、日本が開発した電卓用 LSI をインテル社に生産してもらった。しかし開発したマイクロプロセッサは、電卓以外の用途にも広く使えることから、インテルは日本の電卓会社から独占販売権を放棄してもらって、世界のインテルになった。日本の電卓会社にもう少し先見の明があれば、世界のCPU市場を日本が独占したかもしれなかった。実に惜しいことをしました。





 まあそんなことはどうでもいいとして、電卓の授業は一年でなくなってしまい、代わりにそろばんの授業が復活したかと言うと、そうではなかったらしい。電卓が普及したためか、そろばんを学ぶ必要がないと思ったのか、学校でそろばんをやる話を今では聞いたことがない。だとすると、あの電卓の授業こそは、諸悪の根源だと思います。プログラミングの授業なんかやめて、そろばんの授業を復活させるべきだと思うんですがどうでしょうか?


つづく。

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2021年01月06日

半世紀前に存在した、とんでも授業【1】話し方授業

半世紀前に存在した、とんでも授業【1】

 早いもので、息子の冬休みも残すところあと一日になりました。あっという間に三学期です。その三学期が終われば、小学三年生です。そして小学校三年生になると、英語の授業とプログラミングの授業があるらしい。そういえば、だいぶ前にダンスが学校の授業で行われるようになったという話でした。

 私の弟に、中学校の先生と高校の先生がいます。二人ともプログラミングの授業に賛成のようでしたが、私は、疑問に思っています。小学校で大切なのは、日本語であって、漢字の読み書きと、算数、体育が一番大切だと思っています。プログラミングなんかやらせるぐらいだったらそろばんをやらせた方がいいと思ってます。余計な授業を増やしてほしくないんですが、それについては、ここでは触れません。

 今回は、昭和三十六年生まれの私が、昔あって今はもうなくなってしまった、とんでも授業を紹介したいと思います。

 これは私が体験したことではないんですが、昔の佐渡島の中学校では、バイクに乗る授業があったそうです。昔は、技術・家庭という授業があって、男は技術を学び、女子は家庭科を学んだのですが、男子が学ぶ「技術」と言う授業で、バイク運転の授業があったらしい。

 これは私が中学生の時に、技術の先生が面白おかしく話してくれたんですが、昔はバイクに年齢制限もなければ、免許証もなかったらしい。届ければ誰でもバイクに乗れたらしくて、そういう時代に中学校でバイクに乗る授業を行ったらしいのです。

 とはいうものの、当時バイクは貴重品でしたから、どの家にもあるというものではなくて、見るのも触るのも初めてと言う生徒が多かったらしくて、そのためにバイクに乗る授業は、事故寸前で散々だったらしい。まあそうですよね。そのせいか、この授業はすぐに廃止になったとのこと。

 どうしてそんな授業とかあったかと言うと、終戦間もない当時の日本では、航空機とか車を生産することが制限されていて、自転車かバイクを生産して東南アジアあたりに輸出するしかないという危機感が日本に充満していたらしい。嬬恋村で行われた浅間火山レース(バイクの公道レース)は、そういう時代背景の中で行われた可能性が高いですわけですが、そういう雰囲気の中で、こういうトンデモ授業があったそうです。戦後間もない頃の学習指導要領には、GHQの影響で上から教わるのではなく、自ら体験して学ばせることを重視すべしと書いてあったらしく、その延長上で、バイク運転体験があったのかもしれません。戦後まもない頃は、上から教わるのは悪で、自分で体験するのが善だった時代でした。

 この話を、中学校の先生に伺った時に、昔は免許証を発行するのが緩かったんですねと言ったら、その先生は
「ゆるいも何も、免許証をそのものがなかった時代が長い間続いていたのだよ」
と言いました。車検証があれば免許証がいらなかった。排気量750 cc以下であれば、二輪、三輪、四輪を問わず免許証はいらなく、十四歳以上なら運転しても違法ではなかったらしい。十五歳から軍隊に入れるので、軍隊に入ったら車の運転がありえるので、その年齢まで引き下げられたらしいのです。それを聞いた私たちは驚いたのなんの。

 ただし、この話は、昔の恩師から聞いた話なので、私の記憶違いがあるかもしれないので、都市伝説ぐらいに思っていただいて結構です。ここから先は私が経験した「とんでも授業」です。



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https://global.yamaha-motor.com/jp/design_technology/technology/daysgoneby/003/より借用



 私の子供の頃には「話し方授業」というものがありました。これはどういう授業かと言うと、みんなの前で立って話をするという授業です。これは毎日順番に全員に強制されました。毎日行われて、朝の学活で二名と、夕方の学活で二名。一日に二回、合計四名がクラス全員の前で、何か話さなければならない。しかも必ず十日以内に自分の順番がまわって来る。

 十日に一回は、四十人ぐらいいるみんなの前で必ず何か喋らなければいけない。今思えばすごい授業だったと思います。この授業は、私が中学校に上がる時になくなってしまいましたが、中学生時代に、恩師の先生たちが、
「昔は話し方の授業というのがあったんだよ」
と言っていましたから、話し方の授業というのは、小学校だけでなくて中学校でもあったようです。

 それで面白かったのは、廃止になってしまった話し方授業が、中学校の先生たちには、とても良い授業であったという感触があったらしくて、いろんな先生たちが、時々それを自分の授業で復活させました。教育指導要領では廃止になってたと思うんですが、話し方授業は必ず生徒のためになると思っていた先生がいたわけです。そして国語の授業や、社会の授業や、ホームルームの授業などで、多くの先生たちが、話し方授業の続編をやらせました。

 この話し方授業は、私の最も得意だった授業で、私には楽しみな授業だった。ほとんどの同級生が、話すことがなくて、歌を歌ったり、特技のケン玉なんかを見せていた中で、私だけがみんなの前で歴史講談なんかを語っていた。

 特に得意としてたのが、川中島の決戦・ゼロ戦の話・航空エンジンの構造といった話で、それを面白おかしく解説するので、そのつど国語の先生が喜んでいました。そのせいか、何かと国語の先生に目をつけられて、感想文をみんなの前で読まされたり、私の文章を先生が笑いをこらえながら読んだりもしました。そして、それでクラスは爆笑の渦になり、国語の先生に、お前は文章の才能があるからそっち方面に進んだ方が良いと言われたものです。



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 ただし、その国語の先生の目利きは外れたようで、読書感想文のコンクールなんかには一度だって入選したことがありません。私の書く文章は、どっちかと言うとギャグありきの講談調で書いてありましたから、読む人が読んだら不真面目な感想文だと思われたに違いありません。

 こんな私ですから、よく演劇なんかにスカウトさせられて劇に出演させられました。三年生を送別する演劇で、志村けんばりのコントを行いました。当時、こういう馬鹿な子供たちは私だけでなく、他にも多かったのは、「話し方授業」の成果だったかもしれません。ある世代の人間は、大勢の前で演説をする事を苦手に思わないのは、「話し方授業」のせいだと思います。長くなったので今日はここの辺で筆を置きます。退屈で無ければ明日、トンデモ授業の続編を書きます。



つづく。

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2021年01月05日

ストーブにヤカンを見直してみた!

 昨日から息子と嫁さんは、おばあちゃんの家に出かけています。私は一人で留守番なのですが、お客さんもいなくて退屈なので、ホームセンターに灯油を買いに行きました。それと似たようなペンション仲間がホームセンターにいました。聞いてみたら我が家と同じで、正月にはキャンセルが続出して暇だったそうです。

 Gotoトラベルが中止になって、みんなキャンセルになったらしいです。ただ例外があって、リピーターさん達はキャンセルがなかったようです。この辺もうちの宿と同じでした。

 Gotoトラベルとは、宿泊費の35%と地域クーポン券の15%。合計50%を国が負担してくれる制度なんですが、実はまだ支払ってもらっていません。

 Gotoトラベル自体は、去年の7月から始まっているんですが、うちの宿に関して言えば、まだ1円ももらってない。ここで愚痴を言えば、税金は待ったなしでとって行くのに、Gotoトラベルの費用は未だに振り込まれてないと言いたいところですが、実は、未だに振り込まれてないことが、結果として助かった可能性がある。

 いつ支払ってくれるのかは、まだ分かりませんが、日本政府のことですから、年度末までには支払ってくれるでしょう。つまり、私たちのような宿屋が、御客さんゼロが続いて、本当にヤバくなった頃に入金されてくるはずですから、逆の意味で良かったです。


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 話は変わりますが、新型コロナ騒動で、給付金やGotoトラベルの費用が、全国各地に振り込まれることになっているわけですが、これで大儲けしたのが銀行かもしれません。ものすごい振込手数料になるからです。それを考えたら、日本政府も直轄銀行を持つべきではないでしょうか? 100%政府直轄の銀行があって、マイナンバーカードと連動できていれば、全国の銀行に振込手数料を支払わずに振り込める。でも結局のところ、引き出すためには、どこかの金融機関のATMを使わなければいけないんですよね。それだったら同じことか・・・・。役場にATMつくるわけにもいかないだろうし。

 いっそのこと、日本国政府が電子マネーを作っちゃったらどうでしょうかね?
 振込手数料のかからないスイカみたいなものをつくっちゃう。
 マイナンバーカードを電子マネーにしちゃうとか。

 まあそんなことはどうでもいいとして、実は、去年の12月から今年の3月末頃までに、もう一度新型コロナのピークが来ることは、宿屋仲間では予想がついていました。インフルエンザが大流行する時期に、新型コロナウィルスが、大流行しないわけがないからです。ですから今回のことは、想定内と言えば想定内です。どのお宿さんも準備はできていました。うちも覚悟をもって臨んでいます。

 12月から3月にかけては、お客さんが、ゼロでも生きていかれるように頑張ってきましたし、それは、どのお宿さんでも一緒でしょう。でもGotoトラベルを考えた人たちは、そうは思ってなかったふしがあります。だから1月末までキャンペーンを続けたんでしょうね。こういうキャンペーンは、インフルエンザが流行する期間に行わない方がいいです。

 それと外国からの入国制限を安易に緩和するのもどうかと思います。11月に入国制限を緩和したとたんに感染爆発が起きたわけですから、明らかに因果関係があるはずです。統計で見る限りGotoトラベルで感染爆発してはいません。ちょっと古い統計になりますが昨年11月までに、Gotoトラベルで感染確認されたのは、約130人です。

 それを考えたら、今回の感染拡大と、入国制限の緩和と、インフルエンザの流行する時期と、何らかの因果関係があるような気がします。特にインフルエンザの流行する時期の特色として、冬の乾燥が考えられます。で思ったのですが、乾燥を防ぐための対策としてストーブを見直してもいいんではないかと思いました。

 今どこの宿でもストーブは使っていません。みんなファンヒーターを使っています。危険だし、暖房効果もいまいちだからです。いまいちだけれど、ストーブだったらやかんを置いて沸騰させることができる。そして湿度を上げることができるわけです。そうすれば喉にもいいし、ウィルスを撃退する効果もあるはずです。停電の時を考えて、物置の奥底にストーブが2台ほどあったこと思い出して、何年ぶりかで、それを取り出してみました。メーカーは、コロナ。コロナの対流型ストーブです。


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 息子が生まれてから、幼児には危険と思って奥にしまい込んだストーブ。今まで使ってなかったストーブとヤカンが、新型コロナウィルス騒動で活躍するようになるかもしれません。あれで冬場の乾燥を少しでも緩和できたらいいなあと。でも、幼児連れの御客さんが来たら、使うことはできない。その場合は、客室にある加湿器つきの空気清浄機に大活躍してもらうことにします。


つづく。

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2021年01月04日

碓氷峠・元祖力餅 しげの屋

 碓氷峠・元祖力餅 しげの屋は、創業350年の老舗で、中山道の碓氷峠の頂上にあります。我が家では、毎年、正月に、碓氷峠の神社にお参りした後とか、七五三の後などに必ず立ち寄っています。この店は、群馬県と長野県の県境にまたがっていて、写真のように県境が分かりやすく書かれています。


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 旧中山道の街道最大の難所と言われた標高約1,200mの旧碓氷峠は、長野県と群馬県との県境。 そのちょうど県境の上に店を構えるのが「元祖力餅 しげの屋」です。入口から店内まで分かりやすく県境の表示がされていて、もちろん店の住所は長野県と群馬県と2つあるという、非常に珍しいお店です。


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 テラス席。やはり床に赤いテープで県境が書かれてある。


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 県境をまたいでみた息子・ジョンレノンお気に入りの場所でもある。


  店内は座敷席、テーブル席にペットOKのテラス席など80席以上あります。テラス席の藤棚の下の席はジョンレノン一家のお気に入り席でした。そのテラス席の上は展望台になっており、桜に新緑に紅葉が楽しめます。


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 展望台


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 展望台


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 展望台の上
 やはり県境が・・・・。


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 展望台からの眺め。高崎がみえる。晴れてれば筑波山もみえる。


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 この店の最大の名物トイレへ行ってみる!


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 これは男子トイレの小便器。巨大なバケツに小便をする。とても素晴らしい音がする。
 小便をしたらヤカンを斜めにして水で流すシステム。つまり、ヤカンが水栓なのだ!


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 これは大便用。


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 なぜか金魚が・・・・?


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 男子トイレは、外から丸見えになっている。


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 これは手洗い場(シンク)。
 水栓が、ヤカンになっている。
 ヤカンを斜めにすると水が出るシステム。


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 創業当時からの名物「力餅」の名は、中山道を往来する旅人たちが力をつけるために食べさせたものです。ちなみに、しげの屋の主は、熊野皇大神社の神主さんです。ここで美味しいのは、創業当時からの、あんこ、辛味大根、クルミ。 あんこは甘過ぎない大人の味。それにアイスと一緒の「力餅ソフト」は絶品です。


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 私たちのチョイスです!
 美味しかった!



0267-42-2402
長野県北佐久郡軽井沢町大字峠町2

https://www.facebook.com/shigenoya.karuizawa/
http://kumanokoutai.urdr.weblife.me/shigenoya/index.html?fbclid=IwAR02PKfpRwAT0fMzL9NlEweri_UNmll2Uy6wtQZo5yLBJukJMfDFel_m1Ag



つづく。

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posted by マネージャー at 20:26| Comment(0) | 旧軽井沢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月03日

初詣は、碓氷峠の神社

 なんだかんだと言って、連日お客さん続きだったんですが、1月2日の朝に最後のお客様がチェックアウトされて、1月3日の今日は、ようやくのんびりできることになりました。せっかくなので、碓氷峠にある熊野神社に お参りに行ってきました。


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 この神社は 、息子の名前【たける】の言われたなった神社です。息子が生まれた年のクリスマスに、旧軽井沢にある小さな教会で行なってるコンサートに入ったことがあるんですが、そのコンサート会場で、息子さんの名前は何という名前なんですか?と聞かれ、たけるですと答えると、日本武尊ですね。と言われました。そして、教会にもかかわらず、ヤマトタケルとうちの息子に幸せが訪れるように、歌をプレゼントしてくれたのです。

 こうった反応は、その教会だけではなくて、軽井沢で息子の名前を紹介するたびに、ヤマトタケルですか?と言われ続けました。そして軽井沢の人たちに息子の名前を【タケル】ですと、いうと、必ずヤマトタケルからとったんですか?と言われました。もちろん碓氷峠にある熊野神社でも同じことを言われています。軽井沢の人にとってみたら、タケルといえば日本武尊になるみたいです。

 逆に嬬恋村で息子の名前がタケルというと、そういう反応はゼロで、俳優さんから名前をいただいたんですか?という答えばかりです。日本愛妻家協会の聖地として頑張っている嬬恋村なのですが、嬬恋村ではヤマトタケルの知名度はイマイチのようで、軽井沢とは反応が全く違っています。そういうこともあって、嬬恋村民としてはあるまじきことなんですが、毎年正月の初詣には、碓氷峠の熊野神社に行ってます。 ただしささやかな抵抗として、群馬側の神社にお参りをしています。というわけで息子が産まれてから、初詣は必ず碓氷峠の熊野神社で行うと決めています。

 で、到着してみると、神社は例年と違っていました。
 長野側の狛犬には、マスクがしてありました。
 ちなみに群馬側の狛犬は、ノーマスクでした!


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 狛犬にマスク(長野県側)・ 群馬側はノーマスク!


 ちなみに碓氷峠の神社は、長野県側と群馬県側に別れています。
 私たちがお参りするのは群馬県側の神社です。
 しかし写真を見てもわかるとおり、長野県側の神社の賽銭箱は大きくて新しい。
 かなり繁盛しているみたいです。
 それに対して群馬県側の神社は、賽銭箱が小さくて古いです。


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 長野県側は新品の巨大賽銭箱。群馬の賽銭箱は古くて小さい!


 ここにお参りに来る県民の大半が長野県民である為だと思われます。

 私たちは群馬側の神社に家族でお参りをしたわけですが、息子が一生懸命に願い事をかけているので、 何のお願いをしたのと聞いてみたら
「新型コロナウイルスが絶滅しますように」
とお参りしたと言います。我が息子ながら立派なもんだと思って、どうしてそんなお祈りをしたのと聞いてみたら、新型コロナウイルスが絶滅すれば、もっとたくさんの旅行ができるかもしれないからと言ってました。

 それなら旅行したいとお願いすればよかったのにと思ったんですが、結局、新型コロナウイルスが諸悪の根源なので、息子の行動はある意味正しかったかもしれません。そう思うと、ちょっとこいつにかけてみようと思って、おみくじを引かせたら「大吉」でした。これで息子の願いも叶うかもしれない。つまり新型コロナウイルス騒ぎが終わるかもしれないと、ちょっと嬉しくなりました。

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つづく。

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posted by マネージャー at 21:40| Comment(0) | 旧軽井沢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月02日

大寒波で、水道管(湯)が破裂している噴水になってる別荘!

新型コロナとインフルエンザの同時流行が起こったらという危機感がありましたが、結果として、今期のインフルエンザ患者は、累計でたった383人、例年の0.5%以下という記録的な少なさになっています。

(9月1日を含む第36週から50週(12月7日〜13日)の15週間の累積の患者数)

過去5年間の平均患者総数は約9万人ですから、今期の患者数は0.5%以下ということになります。新型コロナの感染リスク回避が国民に浸透し、新型コロナウイルスの感染対策が、インフルエンザの予防につながっているとも考えられる。

https://www.nippon.com/ja/japan-data/h00867/

ちなみに2018年のインフルエンザによる死亡者数は、厚生労働省の発表だと、インフルエンザが直接死因となって死亡した人が、3325人。インフルエンザにかかったことによって基礎疾患が、悪化して死亡したとされる数値が、約1万人程度。この数値を考えてみても、新型コロナウイルスに対する感染対策が、インフルエンザで死亡する可能性を減らした気がします。

ちなみに致死率をみてみると、

インフルエンザの致死率は0.1%程度。
新型コロナウイルスの致死率は、0.1%〜4%程度。

新型コロナウイルスの致死率の幅に開きがある理由は、医療崩壊の有無による幅らしいです。


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 話は変わりますが、今年は大寒波が立て続けに襲ってくるようで、北軽井沢は、明日から急激に寒くなります。日本海側が大雪のとき、北軽井沢は晴れる傾向があります。北軽井沢に大雪が降る時は、東京で雪が降る時です。逆に言うと東京が晴れているときは、北軽井沢も晴れてる可能性が高い。つまり日本海側が大雪だと、北軽井沢が晴れている。つまり放射冷却で寒くなる。酷いときには、マイナス10度。下手したらマイナス15度になったりする。つまり路面が凍結して、運転に支障が出ます。

 朝の6時頃、愛犬コロの散歩にでかけたら、近所の別荘の水道管が破裂していて、温水が吹き出ていました。ボイラーがガンガンうごいていて、温水がシャワーのよう漏れていた。こいつはヤバいと思って、その別荘に声をかけるけれど、返事は無い。留守のようです。仕方が無いので、ボイラーの元栓をしめて、たまたま知っている人の別荘だったので、管理会社に連絡したのですが、正月で連絡が取れない。どうにもならないので、管理会社の玄関に水道管破裂のメモを貼り付けておきました。


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 別荘客の皆さん、留守をするときは、水の元栓を閉めておいた方がいいです。できるなら水道管の水抜きもやったほうが良いと思います。今回は、お湯の管が破裂したので、自動的にボイラーが作動して、やばいことになっていました。たまたま犬の散歩で通りかかったから良かったですが、そうでなければ、とんでもないことになっていた可能性があります。なにしろ冬の別荘地は、人が通ることがないですから。


つづく。

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posted by マネージャー at 20:15| Comment(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月01日

【峰の茶屋の信号にて】二輪駆動車は止まってはダメ!

 あけましておめでとうごさぞいます。
 今年も宜しくお願いいたします。


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 さっそくですが、 北軽井沢から軽井沢方面に車で出かけられる方に、ご注意申し上げます。北軽井沢から軽井沢に行く途中に、峰の茶屋という信号があります。毎年、冬になると、ここが難関になっています。昨日も、ここで苦戦している車を見かけました。

 峰の茶屋の信号について、詳しい場所をいえば、国道146号線と、白糸の滝・有料道路との交差点にあたるところです。小浅間山登山道のある四差路の信号の所です。そこが峰の茶屋の信号になります。この信号は、軽井沢方面から北軽井沢に来る場合、何の問題もないのですが、北軽井沢から軽井沢に向かう場合は、酷い難所になります。

 上がり坂だからです。

 上がり坂の信号で、いったん停車してしまうと、
 二輪駆動の車は、スタットレスタイヤでもスリップして上がれなくなります。
 路面が凍結しているからです。
 こういう場合は、人が押してもダメです。


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 なので、「信号が赤になりそうだな」と思ったら、だいぶ手前(できれば坂でない場所)で路肩に停車して、信号が青になるのを待つのが無難です。

 ただ、急に赤になってしまう場合もあります。その場合は、できるだけ止まらずに信号を越えた方がよいと思います。というのも、赤になっても数秒間は右折はOKなので、数秒間なら衝突の危険性は少ないです。このへんはケースバイケースなので各自で判断してください。

 ただし、地元民は四輪駆動車に乗っているので、自分の前に、地元民の四輪駆動車がいて、その車が、信号が赤で急に止まることがあります。その場合は、車間距離をあけて、やや斜めに止めると良いかと思います。そうすれば、坂の角度がゆるやかなので発進しやすいし、場合によってはUターンできます。

 また、車間距離さえあけて路肩に止めておけば、チェーンを装着できます。そこでチェーンを装着すれば、スリップせずに登れます。

 とにかく坂道の路面が凍結している場合、二輪駆動車はストップしないことです。
 ストップすると、スリップして登れなくなる可能性があります。

 軽井沢から北軽井沢にくる場合、峰の茶屋の信号は、下り坂になっているので、この心配はありません。ただ、それでも不用意で上がり坂で止まってしまうと、スリップして登れなくなる可能性があります。だから、できるだけ上がり坂で止まらないことです。どんなに美しい雪景色があっても、二輪駆動の車を運転しているときは、止まらないことです。いったん止まってしまうと、チェーンをつけないと動けなくなってしまいます。


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 逆に言うと、チェーンさえつけていれば、こんな心配いらないんですけれどね。不安だったら最初からチェーンを装着するという手もありますが、プラスチックチェーンならともかく金属チェーンは切れやすいので、これは最後の手段にしておきたいですよね。




つづく。

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posted by マネージャー at 08:40| Comment(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする