2010年06月13日

ろう石山ツアー

ろう石山ツアー

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 干俣区仁田沢集落の北西、数百メートル離れた山腹の緩斜面に、かつての盛況を示す巨大な焼成炉が、雑木の中に立っています。

 昭和15年、干俣の干川石蔵氏が同所立坪地区で炭窯造成中に、たまたまロウ石の鉱脈を発見しました。これを機に干川仁平氏や羽生田清太郎氏らによって、試験的に小規模な採掘が開始されました。当初、この場所は、ロウ石山と呼ばれ、10人ほどの人たちによって作業は続けられていました。

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 太平洋戦争中、この鉱石がアルミニウムなどの軍需物資として重要視され、昭和十八年、軍需産業の指定を受けました。以来、日窒鉱業が「上信鉱山」として、国家政策の一環として採掘されることとなりました。その状況について、昭和19年の頃には250人ほどの人が採掘のために動員されました。

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 その多くは干俣の民家に分宿し作業に従事したと言います。なお、その中には7〜80人ほどの朝鮮半島出身者もいたとされています。このため、現場には事務所や七棟もの建物も建ち、鉱山区としての形を整えました。

 採掘した鉱石は、山元から索道で仁田沢へ、それからはトラックで芦生田へ、芦生田からは草軽鉄道の貨車で軽井沢へと出荷されましたが、その産出は、年間1万5000トンにも達したと言います。しかし、これほどの大事業も、昭和20年8月の終戦を契機に一切終わりを告げました。

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 昭和29年、この良質な鉱石は見直され、小渕光平氏によって「光山電化上信鉱業所」として再開発されました。光山電化は、専ら耐火煉瓦の資材として採掘し、「日本鋼管会社」などに出荷するなど活況を呈しました。昭和32年には、高さ14メートル、直径4メートルの焼成炉を2基設置しました。この炉は、生鉱石中の結晶水を放出させ、収縮と膨張の変化を防ぐためのものであって、これによって、取引価格は2倍近くにもなったとされます。

 昭和31年(1956)、上信鉱業所にハロイサイトを焼くために、焼成炉の建設工事が始まりました。光山電化工業から築造を請け負ったのは、高崎市の株式会社小林タイルです。1号炉は祖父と孫の合作、2号炉は孫が作ったといいます。

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 昭和38年(1963)に火災が発生し、鉱山事務所や宿舎が焼失しました。鉱脈も尽きかけていていたことでもあり、これを機に、9年間の短い生涯を終えて上信鉱山は閉山。突然の幕切れでした。村に活況をもたらした、近代産業の発展に不可欠とされるロウ石山の採掘跡は、訪れる人もありません。

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参考サイト
http://kazeno.info/matushima/24-bunka/101.htm
http://www.geocities.jp/gunmakaze/column/09rouseki.html

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つづく。

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posted by マネージャー at 09:17| Comment(0) | 嬬恋村 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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