私が、死に向き合ったのは、かなり早い。
小学校5年生の時に、生まれて初めて
担任の先生になった恩師に死なれた。
この時は、まだ死というものが
よく分かってなかったので
「ああ死んだのか」で終わってしまった。
次は中学2年生の時だった。
先輩が突然死したのである。
その時は、事実を受け止めることができなくて錯乱した。
その頃には死について理解力が大きくなっていたんだろうと思う。
次は、高校2年の時である。
かなり錯乱した。
かなり長期にわたって落ち込んだ。
で、高校3年の時にも友人が死んだ。
やはり錯乱してノイローゼになった。
一生涯、引きずるような衝撃をうけた。
思春期に死と向き合うと、トラウマになる。
19歳になった時、大学で難病の人と親友になった。
血友病患者だった。
ものすごく気が合う友人だったが、
もう死と向き合うのが嫌になっていたので、
自然とこちらから距離をとってしまった。
後に風の便りで亡くなったことを聞かされた。
やはり、もう死はゴメンだとおもった。
しかし、人間は死からのがれられない。
その後も、多くの死を受け止めることになる。
すると、不思議なことに「死」に対して鈍感になっていく。
前置きは、ここまでにする。
ここからが本題である。
2000年5月、私は北軽井沢のペンションを買って、7月に宿をオープンした。そして、その年の12月に日本ユースホステル協会の認可を受けて、2001年1月7日に北軽井沢ブルーベリーYGHをオープンさせた。そして、何年かがたち多くのペンションオーナーと仲良くなるようになった。
といっても、個人的なつきあいをするペンションオーナーは、あまり多くない。たいていは観光協会がらみとか、自治体がらみの付き合いが多い。私自身、人づきあいが苦手なのもあって、地元民と一緒に遊んだりしない。そういう暇があったら観光地の調査を行ったし、せっせと登山をくりかえして、情報収集をおこなってきた。
しかし、どういうわけか、そんな私のところに、よく遊びに来るペンションオーナーがいた。元ユースホステルを経営していた某ペンションのオーナーである。彼は、50歳をすぎて独身だったので、うちの御客さんを見合い相手に紹介もしたが、うまくいかなかった。しかし、結果論からいうと、うまくいかなくて良かった。
彼は、私の大先輩であるし、私などよりも何十年も長く宿をやっていたのだが、よく私のところに質問にやってきた。今思えば、あれは質問をしにきたのでなくて、私に何かを伝えたかったのだと思う。何かを話したかったんだと思う。しかし、鈍感だった私は、「どうして、こんな基本的なことを聞きに来たんだろう?」といぶかしがった。あんまりしつこかったので、登山にさそってみたが、「激しい運動はダメなんだよね」と淋しそうに言った。
そのうち悩みをぽつりぽつりと話すようになった。彼が何故55歳まで独身だったかも分かった。いろんなことが分かった。で、いろいろアドバイスしていたら、ある日、ぱたっと来なくなった。
「商売繁盛で忙しいんだな」
と好意的に解釈して放置していたら、それから半年後に亡くなったことを、ずいぶんたってから聞かされた。癌で入退院を繰り返していたらしい。所属している自治体・観光協会が違っていたので、こちらには情報が入ってこなかったのだ。それから過去の記憶が走馬燈のように頭の中をまわった。いつも私に何かを言おうとしては、口ごもる彼の姿を何度も思い出した。
「そ、そうだったのか・・・・」
どうして、きちんと伝えてくれなかったのか。
恨み言の一つもいってやりたくなった。
と同時に「死」に対して鈍感になっていた自分を腹立たしく思った。
死に対して鈍感であってはいけないと思った。
その後、私は不妊治療を受けて息子が生まれた。
息子には「健康」の「健(たける)」とつけた。
五体満足に生まれますようにと祈って冷水を三十浴びて
断食の願掛けもおこなった。
その結果。元気な息子が生まれた。
その瞬間、息子の親孝行は終わったと思った。子供は、健康に生まれてくれただけで、一生分の親孝行を行ったも同然だと思った。これ以上、何を望めばいいというのだろう。生まれてくれてありがとう。それだけである。
つづく。
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私はいつもブルーベリーYGHさんちの横を通り過ぎて、
北軽井沢の別荘に通っているのですが。
このたびは、
にほんブログ村にて、
こちらのタイトルを発見し。
訪問させて頂きました。
ちなみに、私は幼少期の頃から難病を患っているので、
常に「死」と隣り合わせの日常を行っておりますが。
これからも嬬恋村の素敵な空気をいっぱい吸って、
日々、精進して参りたいと思います。
かげながらではありますが「たける君」の成長を祈っておりますね。
まはろ〜。
進之助さん
>健康であること、本当にそれだけで有り難い。
本当にそのとおりですね。私の友人に30年前に余命10年を宣告された人がいますが、医学の進歩のおかげで、いまでもピンピン生きています。それどころか毎日10q以上のマラソンしつつ、300名山をめざしてがんばっています。先週は、うちに泊まりに来てスノーシューツアーに参加しました。この人は、1級障害者ですが、むしろ長生きするのではないかと思っています。毎日、一生懸命に生きているし、ほんとうによく健康に気をつけているからです。彼からはいろいろ学ばさせてもらっていますが、健康であること、本当にそれだけで有り難いですね。