と書くと、何やら奇麗事のようなことを言っているように思えるかもしれないけれど、わたしは宿屋である。他人様より少しばかり、人々の人生を見ることの多い職場なのだ。他の人たちよりも、人様の幸せというものに、敏感になってしまうところがあるのである。
ここから話を変える。健康についてである。宿屋をやっていると、闘病している人たちとも、お話をする機会が多い。その度に、なんとかならないのかなぁ?と神様に祈ることも多いのである。今年は、事務所の前に小さな小さな神棚を作った。そして、そこに碓氷峠の熊野神社のお札を置いてある。別に信心深い訳ではないが、どちらかというと宗教には無関心であり、無宗教に近い人間ではあるのだが、胸が痛くなるようなお話を聞くと、自然と何かに祈らざる得ないことがあるのだ。だから今年は神棚を作ったのである。
まぁ、そんな事はどうでもいい。闘病してる人たちと出会うたびに、自分には何もできないことにイラついてくる。そのための神棚なのだが、それはともかくとして、世の中のお医者さんたちに、頑張って勉強してくれよと、自分なりにエールを送っている。実は、神様に祈っているのではなくて、研究室や現場で頑張っているお医者さんに祈っているのかもしれない。どうひっくり返しても、自分にはこれしかできないのだ。
医学の進歩は、お医者さんや科学者たちに任せるとして、私達に出来る事がある。少しでも病気にかからないように、健康を保つことなのだ。それは長生きすれば、癌になる確率が高くなるだろうけれど、いまは医学の進歩が早いので、少しでも歳月が経てば、治らないものも治るようになるかもしれない。
うちの近所に、寿命があと数年であることを宣告された友人がいるが、その友人は数年どころか20年生きている。そしてぴんぴんしている。とても死にそうな感じでは無い。しかし、 2日にいっぺんは透析をしないと生きていけない体ではある。にもかかわらずすごい健康体に見える。いまは300名山を目指して頑張っているところだ。彼が病気を宣告された時は、数年後に死んでくらいの医学水準だったのに、彼が健康を維持している間にいつの間にか医学が進歩したのだろうと思う。これも彼が、健康に対して真剣に向き合ったからなのかもしれない。
それにしても、健康というのは空気と水に似ている。空気も水もそれがなければ人間は生きていけないのだが、誰もが空気や水をありがたいと思わない。当たり前すぎて、ありがたみがわからないのだ。健康もそれに似ている。だから健康そのものの人の方が、大きな病気にかかりやすいと聞く。無病息災よりも、一病息災とはよく言ったものだ。 1つくらい病気を持ってた方が、健康に気遣うので長生きするということだが、それはよくわかる。フーテンの寅さんの渥美清も、若い頃に肺結核をやったために、健康に気遣うようになり、長生きをした事は有名であった。もし若い頃に灯を消しなければ、さすがの彼も無理な暴飲暴食で寿命縮めていたかもしれない。
つづく。
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