2015年04月10日

薪ストーブと用務員さん

 私が生まれたのは、昭和36年の7月である。出身地は新潟県は佐渡島。小学校に入学すると、そこには薪ストーブがあった。当時、薪当番というものがあって、朝早くに学校に行って、用務員さんから薪をもらってきた。その薪は、太い針金でぐるぐると巻かれていた。その針金を分解して、新聞紙などの焚きつけて朝ストーブに火をつけるのである。

 ところで、学校が終わると友達の自宅に遊びに行くことになる。そして夕方5時のサイレンが鳴ると家に帰るのだが、たまに友達のお母さんが、風呂を沸かしていた。当時、ボイラーのようなハイカラな風呂釜がある家は少なくて、五右衛門風呂か、巨大な樽風呂がほとんどだった。樽風呂の方が多かった気もする。もちろん薪で風呂を沸かすのだが、薪といってもみかん箱を解体して作った薪である。または、どっかから拾ってきた板を燃やして樽風呂を沸かしていた。それが珍しくて、私は、ずっと見学をしていた。というのも、私の家は当時珍しいボイラー式の風呂釜だったのである。つまり新築の家に住んでいたのだ。そのために薪で風呂を沸かす友人の家の風呂釜が珍しかったんだと思う。

 それはともかく、 9月から10月ぐらいになると、小学校の校庭で、用務員さんが汗だくになって薪割りをする風景が見られるようになる。 30ぐらいある教室の薪ストーブの薪を蓄えなければいけないからである。それはもう莫大な量である。それを、年配の用務員さんが、上半身素っ裸になって、ねじりハチマキで、次から次えと薪を割っていた。子供心に私と、その友人たちは、飽きもせずにずっと眺めていた。用務員さんは何時間も何時間も黙々と薪を割っていた。薪は、校舎の壁に次から次えと積み上げられていくが、何しろ凄い数なので、校舎の壁をずらっと薪の壁が包み込むようになる。だから校舎の窓を開けると、すぐそこに薪の束があるという具合である。

 ちなみに用務員さんは、とても優しい人だった。事情があって、私が泣きそうにながら学校に行くと、すぐに声をかけてくれて、心温まる対応をしてくれた。そういう用務員さんだから、みんなから好かれていたと思う。用務員さんには奥さんもいた。奥さんと一緒に学校に泊まり込んでいた。というか住んでいたと思う。毎日のように、夜の学校を見回っていた。私の父は、厳格な人間だったので、私は何度も家を追い出されて街中を放浪したのであるが、行き先は必ず小学校の縁の下だった。

 父親に殴られ蹴られ何度も追い出されているうちに、子供ながらに知恵がついてくる。家を追い出される時のために、学校の縁の下に、こっそり秘密基地を作っていた。当時は、段ボール箱のようなものはないので、用務員さんが割って束ねた薪をせっせと学校の縁の下に運び、それで椅子やらベットを作り、食料や現金や懐中電灯などを隠しておいていた。

 小学校2年生位の子供が、そんな不審行動をするものだから、用務員さんが気がつかないわけがない。縁の下で、いろいろ作業してるのを、用務員さんに見つかってしまった。怒られるのかな?と、びくびくしていたが、彼は何も言わなかった。私は慌てて逃げ出した。用務員さんが追いかけてくる事はなかった。けれど、これで秘密基地はおじゃんになってしまったと観念した。

 しかしである、翌日、その秘密基地に行ってみると、何一つ撤去されてなかった。私が、作ったままそのままの状態で存在していたのだ。すると、薪割りの音が聞こえてきた。私は縁の下から出てくると、用務員さんが、盛んに薪を割っていた。目と目が合ったが、彼は黙々と薪終わっていた。私には何事もなかったように、作業を続けていたのである。今思い出してみると、非常に不思議な気がする。なぜ用務員さんが、何事もなかったようにスルーしてくれたんだろうか? そして私が使ったために足りなくなった薪を、割り始めたんだろうか? 今思えば不思議な事だらけである。

 ただ思い当たることがあるというすれば、私は、夜の小学校で、よく用務員さんにお世話になっていることだ。父親が厳格だったので、ランドセルに教科書が1冊でも欠けていると、学校に取りに行ってこいと怒鳴られて、泣きながら何度も学校に取りに行ったことがある。もちろん、玄関から入るのではなく、窓からこっそり学校に入り込んだ。夜は暗いので電気をつけて自分の席の机の中をごそごそとやる。その度に、用務員さんが駆けつけてくるのである。それはそうだろう。夜の学校で電気をつければ、そこだけ目立つのだ。泥棒でも入ったかもしれないと、用務員さんが恐る恐る駆けつけてくる。しかしそこには、小学校1年生位の子供が泣きながら、落とし物やプリントを探しているのだから、そういうことが何度も何度も続けば顔見知りになってしまう。しかし彼は、深入りはしてこなかった。とても優しい人だったけれど、ある程度の距離を保って見守ってくれていた。それが良かった。秘密基地のそのままにしてくれていた。今では考えられないことかもしれない。

 私は小学校3年生になった時、
 その用務員さんがいなくなった。
 そして学校から薪が消えた。
 すべて石油ストーブになってしまったのである。
 日本はその頃から豊かになっていた気がする。
 ちょうど大阪万博が始まっていた。

つづく。

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posted by マネージャー at 21:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
一編の小説のようで、すっかり引き込まれてしまいました。

私の小学校にも用務員さんの一家がお住まいでした。
お子さんたちも小学生だったので、若いほうだったのかな。交わりはなかったけど、ほっとする存在でした。
いつからいなくなったのか…昭和の思い出話になってしまいましたね。
Posted by あんみつ at 2015年04月11日 18:38
本当にそうですね。いつから用務員さんがいなくなったのでしょう? 地方によっては、地元の顔の人を用務員さんに採用したところもあったようですね。また用務員をこずかいさんと呼んでいる地域もあったようです。これは西日本地域の話だと思いますが、戦前は、裏社会の人を採用して、面倒なトラブルが起きると、用務員さんが上手に解決したとも聞いています。新潟県などの雪国では、もっぱら薪割り労働者だった気がします。なにしろ、すごい量の薪を終わらなければいけませんから、 9月10月11月と、毎日のように薪を割っていましたね。今思えば、あれはすごい労働だったと思います。
Posted by マネージャー at 2015年04月13日 10:01
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