2015年09月11日

軽井沢周辺で雨でも楽しめそうな所 3のつづき 軽井沢駅舎記念館

軽井沢町のホームページの解説によると、

『新幹線関連事業で取り壊された旧軽井沢駅舎の再築保存施設で、とくに外観は明治末期の往時の姿を忠実に再現したものです。1階の展示室は、草軽軽便鉄道を含む信越本線当時の鉄道関連物の展示コーナーとなっており、2階の貴賓室は歴史記念室として再現され、一部の建具やカーテンボックスなどは取り壊し前に保管しておいたものを補修し再使用しています。屋外には貴重な鉄道機関車輌(5輌)も展示しています』

とあります。

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 この軽井沢駅舎記念館は、できたらアプトの道と一緒に見学したいのですが、それについて話し出したらキリが無いので、今回は、新軽井沢と旧軽井沢について話します。簡単に言うと新軽井沢が、旧軽井沢を滅ぼすきっかけを作った。旧軽井沢は、もう少しで滅びるところだったんです。しかし、滅びる寸前で旧軽井沢を救った人がいた。ショーとディクソンの二人です。彼らは、旧軽井沢を『天然の病院だ』と言って、外国人仲間を避暑にさそって、そのために旧軽井沢はよみがえったわけです。

 では、どうして彼らは旧軽井沢を『天然の病院だ』と思ったかというと、前例があったんですね。

 陸軍軍医総監の林研海(松本良順の甥)が、全国を調査して軽井沢が患者に良いことを発見し、明治14年に高崎の脚気患者を軽井沢の旅館(のちの万平ホテル)に、3年間にわたって、毎回50名ずつ交代で約200名を治療に向かわせています。もちろん日清・日露・北清などの傷病兵療養所も軽井沢は陸軍に利用されています。だからショーやディクソンが、軽井沢に訪れる前から旧軽井沢は、病人たちの保養地だったわけです。

 じゃあ、その明治14年の旧軽井沢の状態はと言うと、実は明治14年に長野県が調査を行っているんですね。それによると信濃追分は、110戸のうち、旅舎営業36戸、人力車70、馬車12と記録されています。それに対して軽井沢村は17戸のうち宿営業が12戸。幕末まで200戸近く数えた戸数が、たったの17戸。ただし炭焼で生計をたてている人がいて、それが71戸ありました。宿が寂れて収入の道を炭焼きに求めたんでしょうね。つまり軽井沢を森の無い草原の丸裸にした犯人たちは、生活苦に苦しんだ炭焼の71戸の人たちかもしれません。

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 これが明治19年の記録によると、もっと酷い。

「住民は離散し、軒並み空き家だらけになって家の手入れも出来ず、屋根にのせてある石が時折り、どかんどかんと落下し、殊に真夜中など無気味な響きを伴ったといいます。かつての江戸往還の中山道の宿場のメインストリートがベンペン草が繁茂して、子供の恰好の鬼ゴッコの遊び場、どの家も新らしい白い障子紙が貼れず、燃料は松まきのため家の中は煤ぶれ、毎年一回障子紙の貼りかえも出来ず、なかには古文書を探し出して貼ったり新聞紙を代用している貧困さ、学校の教師の俸給が払いきれず、正規の先生が変わって行く、仲間の者の教科書を回し読みしました。現在の旧軽井沢の繁栄と比べ想像も出来ない時代でした」

 そしてショー、ディクソンが初めて軽井沢を訪れたのが明治19年です。軽井沢は、土地も民家も安く手に入る状態でした。そのうえ炭焼の71戸が山を丸裸にして、軽井沢は見渡すかぎりの草原でしたから、宣教師たちの好む土地だった。つまり外国人が避暑地として来やすい場所になっていたのです。

 ちなみに軽井沢が、これほどまでに落ちぶれた理由は、明治17年5月22日に完成した碓氷新道。旧国道18号線のせいです。旧国道18号線は、旧軽井沢を迂回して沓掛(中軽井沢)、追分(信濃追分)に行きます。だがら新道から離れた軽井沢宿は、寂れるばかり。逆に栄えたのが軽井沢駅のある新軽井沢です。新軽井沢から横川まで馬車や人力車が通るようになりました。ちなみに明治21年の調査によると、長野県馬車の4割。2頭立馬車に限定すると6割が軽井沢方面にあったそうです。

 17戸しかなくて崩壊寸前の旧軽井沢。それに対して新軽井沢は、碓氷新道(旧国道18号線)ぞいの原野に、宿・茶屋・料理屋が並び、その数は100軒。鉄道工事の人夫たちも集まってきて、彼らを相手に遊女たちから博徒までやってくる。明治21年12月に直江津から軽井沢まで鉄道がが開通しますと、日本海の物流が新軽井沢に降ろされ、馬車や馬車鉄道に乗せかえられ横川駅に運ぶために、さらに繁盛し、旧軽井沢は、ますます寂れていきました。

 それに目をつけたのが、外国人だったのです。
 だから日本人が集まる賑やかな新軽井沢。
 外国人が集まる静かな旧軽井沢という棲み分けができたんですね。

 しかし新軽井沢から横川までのアプトの鉄道が開通すると、今度は、旧軽井沢と新軽井沢が逆転するわけです。新軽井沢が寂れていく。鉄道工事の作業員が消えていなくなり、馬車や馬車鉄道の連中も仕事が無くなって、新軽井沢は閑古鳥が鳴いてダメになっていく。それとは逆に旧軽井沢は、外国人が住みはじめてお金を落としていくわけです。ブラタモリでは、このあたりを突っ込んでほしかった。

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 しかし、新軽井沢の発展が無ければ旧軽井沢は、寂れなかったし、寂れてなければ、ショー、ディクソンが、そこに住んだかどうか疑わしい。もし旧軽井沢が繁栄していたら、遊女だっていただろうし、土地や屋敷だって高かったとおもいますからね。鉄道が軽井沢から横川まで、なかなか開通しなかったために、新軽井沢は大いに栄えて、開通したとたんに、新軽井沢は寂れていった。鉄道というのは、町を変えるほどの影響力があったんです。なぜなら、江戸時代からの日本は、資本主義が発達していて全国民が米相場に注目していた。だから物流に敏感になっていたんです。新交通に過剰反応したんです。

 例えば、高崎から東京まで鉄道が繋がると、群馬県民は、米を東京から買うようになった。それまでは軽井沢付近の村(佐久郡)から買っていたんです。でも、鉄道が出来て、佐久の米を群馬県民が買ってくれなくなったんです。でも、軽井沢から高崎まで鉄道がのびたら、また逆転する。群馬県民は佐久から米を買うようになる。だから必死になって地方は、鉄道を作ったんですよね。なので、当時の工期をみると信じがたいくらいに短い。平成時代より短いくらいなんですよ。信じられますか?


長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢1178−1246
TEL 0267−42−1398 (軽井沢駅舎記念館)
開館時間 9時 〜 17時 (入館は16時30分まで)
休館日 月曜日・祝日の翌日・年末年始
入館料 大人200円 子ども100円 (文化施設共通券もあります)



つづく。

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posted by マネージャー at 21:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 業界裏話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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