2018年03月10日

息子を連れて佐渡島へ 8 相川奉行所・川路聖謨・根岸鎮衛の耳袋

息子を連れて佐渡島へ 8 相川奉行所

 松浦武四郎の佐渡日誌の話です。佐渡の両津に到着した松浦武四郎は、役人の取り調べを受けています。そして、相川奉行所に上陸の許可を貰うために飛脚を出しています。そして相川奉行所から許可証をもらって初めて上陸し、加茂・三瀬川・吉井・新保・中奥・泉村・佐渡最大の名刹であった真光寺により、河原田・沢根・二つ岩神社をへて相川に到着。
 奉行所へは、翌日の早朝に奉行所に出頭しています。三十日の滞在願を出しています。その費用は、格安だったようですが、朝早く奉行所に行ったにもかかわらず、夕方三時まで待たされた上に白州に呼び出されて吟味をうけています。

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 この時、松浦武四郎の身元引受人は、宿泊している旅籠(旅館)の主(讃岐屋武右衛門)にお願いしていますが、当時の旅籠は、こういうこともしていたようです。おそらく旅籠の主は、宿泊しているうちに松浦武四郎の人物を確かめて、身元引受人となり、一緒に相川奉行所に付き添ったのでしょう。

 と言うわけで、今回は、相川奉行所跡地の見学を行ないました。

 昔、相川奉行所には相川中学校があって、古ぼけた看板に『相川奉行所跡地』とあっただけでしたが、国指定の史跡となって7億円もかけて相川奉行所が復元されたようです。少なくとも私が佐渡にいた四十年前には無かった施設です。

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 実は、相川奉行所は、幕府からも重要視されていた所で、長崎奉行所とならんで最も重要な施設でした。なので佐渡奉行には、幕府でも最高級のエリートが送られています。、ロシア使節プチャーチンと交渉した川路聖謨なども佐渡奉行を務めています。『佐渡日記』を著した久須美祐明も佐渡奉行です。アメリカ総領事ハリスと交渉をした中村時万も佐渡奉行を務めています。

 しかし、なんといっても一番有名な佐渡奉行は、『耳袋』を書いた根岸鎮衛(やすもり)でしょう。耳袋とは、彼が三十年間に書き続けた随筆集で、歴史の素人が読んでも圧倒的に面白い本です。岩波文庫で注釈つきで読めますが、古文はちょっと・・・と言う人は、平岩弓枝の「はやぶさ新八御用帳」・宮部みゆきの「霊験お初捕物控」・風野真知雄の「耳袋秘帖」を読むとよいと思います。

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 ちなみに桜吹雪といえば、遠山の金さんですが、あれは嘘で、本当は、耳袋の根岸鎮衛の方だったという説もあります。根岸鎮衛は富裕な町家か豪農出身で、根岸家の御家人株を買収して根岸家の家督を継いでいるからです。

 そう言う人が佐渡奉行になり、江戸町奉行になって、『耳袋』を書いたわけですが、本物の武士ならば朱子学でコチコチなのでオカルトは絶対に口にしません。しかし耳袋にはオカルトが満載されているので、根岸鎮衛は豪商の出自ではないか?といわれているんですよね。しかも入れ墨疑惑もある。

 その根岸鎮衛が、耳袋を書くきっかけとなったのは、佐渡奉行になって佐渡に着任し、佐渡の異文化にふれて驚愕したためです。まず彼は、佐渡に狐がいないことに驚き、ムジナ(タヌキ)の多さに驚き、ムジナに騙されたとか、ムジナによって繁盛したとか、ムジナの神社がたくさんあるとか、そういうことに驚いたり、佐渡の文化風習の違いに驚いたことが、耳袋を書きはじめたきっかけです。

 同じ佐渡奉行でも、川路聖謨は、佐渡の異文化を軽蔑しまくっていますから、根岸鎮衛の思想は相対的で、科学者のようでもあります。また、文章にヒューマニズムがあふれていて、他の佐渡奉行たちと全く違っていますから、彼こそは『本物の遠山の金さん』だったはずです。逆にいうと佐渡を貶しまくっている川路聖謨を佐渡島民は嫌っています。誰も川路聖謨の「島根のすさみ」を読もうとしません。

 さて、復元された相川奉行所ですが、よくできています。復元ですから写真はとりほうだい。幼児をつれて入っても何の問題もありません。嬉しいのは、学芸員さんがマンツーマンで解説してくれるところです。

学芸員さんの解説
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釘隠し
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復元なので、どの部屋にも自由に出入りできる
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精錬に使われた鉛の解説
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 ところで相川奉行所の面白いところは、奉行所内に金山関係の工場があったことです。その施設についても復元されていて解説を聞かせてもらえますし、それらを手で触る事もできます。息子は、いろいろな体験をさせてもらいました。

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 ちなみに松浦武四郎の佐渡日誌よると、相川町は人家五千軒で神社仏閣が多く、みな土地相応以上に豪華であると書かれています。江戸時代において相川は、江戸・大坂・京都・名古屋・金沢についでの大都市であったことがわかります。松浦武四郎は、金鉱石から金を取り出すセリ場や金の精錬を見学しています。相川の町並みの美しさにもふれていますが、川路聖謨は逆に「見苦し」と言っていますから、それぞれの立場から正反対のことを述べています。

 とにかく川路聖謨は、何かと佐渡をこき下ろしていますが、これは川路聖謨が佐渡奉行に赴任するきっかけとなった天保の佐渡一揆と無関係ではないでしょう。

 天保の佐渡一揆によって、川路聖謨の同僚である鳥居正房は失脚するわけですが、かっての同僚が、一揆のために病気になっているさまをみて、川路聖謨の涙が止まらなかったと言います。もちろん鳥居正房も涙しています。だから川路聖謨は、佐渡を憎んだとしても仕方なかったのかもしれません。そもそも天保の佐渡一揆の原因は、鳥居正房と関係なかった。

 鳥居正房は、一揆の首謀者である善兵衛を召喚して事情をただそうとしたけれど、善兵衛が応じないので逮捕して相川まで連れてきて取り調べたが黙秘しているのでやむなく投獄しています。しかも一揆側を恐れて善兵衛を釈放しています。

 にもかかわらず一揆側は、各地で暴動をおこしていますから、奉行の鳥居正房は泣きっ面に蜂で、その同僚だった川路聖謨にしてみたら、佐渡島民は憎き天敵のようなものだったかもしれません。鳥居正房は、年貢米を蔵からだして飢える島民に支給するなど善政を行なっていたので、川路聖謨にしてみれば、なおさら島民が憎かったでしょう。

 そもそも江戸時代を通して佐渡のような天領(幕府直轄地)では年貢が低く、そのうえ代官や奉行たちも善政を行なうことが多かったのですが、それが領民にわかっていたかどうか? そのために江戸幕府は慢性の赤字に悩むくらいですから。

 ただし、善兵衛が奉行所で黙秘した理由もわかります。
 今回、相川奉行所を見学してわかったことなのですが、
 相川奉行所では、お白州が2つあって、
 1つは奉行が直々に取り調べる場所で、
 もうひとつは小役人が取り調べる場所になっています。
 このへんは、高山陣屋などの代官所と違っていて、お白州が二つなんです。

奉行が使ったお白州
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奉行が使ったお白州
(ほとんど使われることは無かったらしい)
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小役人が使ったお白州
(ほとんど、こちらが使われていた)
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 そうなると善兵衛を取り調べたのは、小役人のお白州であったに違いなく、そうなると小役人の不正を訴える善兵衛としては黙秘せざるをえません。だからもし、鳥居正房が直々に取り調べをしていたら、結果は違ったものとなっていたと思いますが、残念ながら佐渡相川奉行所は、規模が大きく(100メートル四方)仕事量も多かったために、そうはいかなかったと思います。ここに悲劇があったのかもしれません。

 逆にいうと佐渡島民は、あまり島外のことに興味がありませんから、お白州が二つあることに疑問をもってないかもしれません。で、善兵衛を英雄視するあまり、鳥居正房や川路聖謨について冷淡で、奉行所のことや内情に詳しく調べることをしてなかったかもしれません。このあたりは、後世の冷静な研究者に期待したいところです。

参考1
高山陣屋
http://kmimu.html.xdomain.jp/castle/tokai/takajin_madori.html

参考2
相川奉行所
http://kaze3.seesaa.net/upload/detail/image/ttygv-thumbnail2.jpg.html
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つづく。


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posted by マネージャー at 09:36| Comment(0) | グンマーで嫁が出産と育児 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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