2018年03月14日

息子を連れて佐渡島へ 9 外海府をドライブ・鹿野浦・安寿と厨子王

息子を連れて佐渡島へ 9 外海府をドライブ

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 相川奉行所を出発した私たちは、外海府ユースホステルのある外海府に向かいました。外海府とは、佐渡島の北側で、最果ての地です。今でこそ佐渡島1周道路があり、簡単に行けるところなのですが、昭和40年頃(つまり私が4歳くらいの頃)までは、まさにサイハテの地で、知床半島と何ら変わるところのなかった場所です。

 村から村に向かう交通手段は、登山道使うか、船を使うしかなかったのです。それでも、私が生まれた57年前は、多少は便利になっていて、外海府ユースホステルまでは、路線バスが繋がるようにはなっていました。

 とはいうものの、道路は舗装されてなく、マイクロバスのようなボンネットバスが、やっと1台通れるくらいの道路で、対向車がやってこようものなら、どちらかがバックして道を譲るしかなかったような道路でした。その当時のことを思い出す外海府の佐渡島民は、

「新潟交通のバスの運転手は天才だったよね」
「あんな細い道を擦らずに抜けたんだものね」
「あと30センチで海に落っこちるような道を、よく運転したものだわ」
「しかも反対側は、崖だったよね」

と語っていました。私も激しく同意です。

 しかし、今の佐渡島は、海側を埋め立て、巨大な橋をつくり、大規模なトンネルを掘削し、道路を整備したために、小一時間で相川奉行所から外海府に到着できます。しかし、昔は、バスで半日がかりでした。道が悪く、くねくね曲がってて、対向車のたびにバックしたからです。

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 年齢の若い佐渡島人には、想像がつかないかもしれませんが、昔の佐渡島には、トンネルが1つしかなかったんです。昔は、佐渡島でトンネルといえば、中山トンネル一つで、他のものは、隧道と言っていました。

 隧道と言うくらいですから、戦前に掘られたらしく手彫りで崖を掘削したようなトンネルで、途中で海側に穴が空いていたりします。海からの海蝕洞窟とぶつかって、隧道と交差していたんです。時化のときは、バスの窓を開けていると、隧道の中にある海蝕洞窟の窓から、霧状の塩水が浸入してきたものです。しかし、そういう悪路も今は廃道となって、佐渡も便利な道路が走っています。

 ここで脱線します。皮肉なことに佐渡島は、便利になると同時に、一部のマニアから注目をあびるようになってきました。立派な道が出来ると、旧道は廃道になります。そのために佐渡島は、廃道・廃線・廃隧道マニアのかっこうの餌食となってしまっています。

http://yamaiga.com/tunnel/tochu/main.html
http://hazami.jugem.jp/?eid=580
http://blog.livedoor.jp/mt_kinpoku1172/archives/51924960.html
http://sado2008.jugem.jp/?cid=34
http://yamaiga.com/koneta/koneta_186.html

 上記のホームページを見てもわかるとおり、佐渡島の廃道・廃隧道は、とても怪しく、とても魅力的です。私には土地勘があるので、時間があれば、探検したかったのですが、時間が無いのと4歳の息子を連れて行ける場所ではないので、今回は新しく出来た道路から廃道・廃隧道を眺めるだけにしました。

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戸中隧道 http://yamaiga.com/tunnel/tochu/main2.htmlより借用

 ちなみに松浦武四郎の佐渡日誌の記録を読んでみると、相川を出発し、下相川・小川村・達者村・姫津村(佐渡ベルメールユースホステルのある場所)・北狄村(尖閣湾のある場所)・戸地村・戸中村・平根岬・鹿の浦・南片辺村・南片辺村・石花村と歩いて、石花村に一泊しています。

 注目すべきは、戸地村から戸中村の途中にあった二つの洞窟の記述です。深さ75メートルもある、この洞窟は、明治43年に開通した戸中隧道と交差します。私が幼児の頃に、戸中隧道の中で浴びた霧の塩水は、松浦武四郎が記録した深さ75メートルもあった海蝕洞窟が原因だったようです。

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戸中隧道 http://yamaiga.com/tunnel/tochu/main2.htmlより借用

 また、松浦武四郎は、戸地村の海に温泉が湧き出ていることも記録しています。
 おそらく黒島あたりにわき出ているはずなんですが、
 現在、それを利用している形跡はありません。

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 さらに松浦武四郎は、鹿の浦で、山椒大夫の伝説にもふれています。

 この「鹿野浦」には昔、農地がありました。しかし、どういうわけか民家が無いんですよ。民家が無い理由は、安寿と厨子王の呪いのせいだと言われています。安寿と厨子王の話は、誰もが知っていると思います。映画にもアニメにもなっていますからね。映画やアニメでは、立身出世した厨子王が、佐渡でめくらになった母親と涙の再会をして、めでたし、めでたしでおわるのですが、「鹿野浦」につたわる安寿と厨子王の話は、悲劇的です。

 安寿姫と厨子王丸は、越後の直江津で人買船に売られた。母は佐渡の島の鹿野浦に連れて来られ、虐待のはて盲目になってしまった。

 安寿恋しや ほうやらほう
 厨子王恋しや ほうやらほう

 と、毎日唄いながら鳥追いをしていた。安寿と厨子王は出世して母を迎えるため佐渡へ渡って来た。そして鹿野浦にいる母を探し出した。しかし盲目の母は、いつも村の悪童どもに、おれは厨子王だ、安寿姫だと、だまされていたので、実際の安寿があらわれても嘘だと言って信じず、持っている杖で殺してしまった。それから鹿の浦の川は、安寿の涙のために毒が流れるようになった。その後、この鹿野浦は、その祟りで一軒も住む者もなくなり、村人は全部片辺村の北に移住してしまった。これが、現在の北片辺村であるという。

現在の鹿野浦
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安寿塚
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 ここで、民俗学者である宮本常一を紹介したいと思います。宮本常一は、明治40生まれの民俗学者で、私の祖母と同年代です。そして1981年1月30日に73歳で亡くなりました。

 その時、私は二十歳でした。
 私は、四十回も佐渡に調査に来ている宮本常一氏が
 死んだという何かのニュースで知りました。

「宮本常一? 誰だ?」

と思った私は、国会図書館で彼の著作(もちろん佐渡に関する著作)を読んでみました。すると、これが非常に衝撃的で、元佐渡島民であった私の常識をひっくり返す内容だったのです。その一部を紹介しますと

「実は相川の町などは、外海府の人たちに支えられていると言ってよかった。相川は長い間全く労働者の街であり、商人の町であった。はなやかに生きている者の間に貧しく暮らしているものは多かった。そして貧乏人には子供が多かった。その子をもらって育てたのは海府の人たちである(宮本常一・離島の旅より)」

 つまり外海府は、相川なんかより裕福であったというのです。
 三歳まで外海府に住んでいたことがある私には「そんな馬鹿な?」という記述です。

 昔の外海府といえば、車の走れる道路は無く、今の知床半島と大差ない辺鄙なところであり、テレビの電波もろくに届かない未開地と言ってよかったので、この記述は間違っていると思いました。しかし、よくよく考えてみると、確かに養子をもらう家は多かったし、四歳以降に住んだ私の実家の家なんかより、三歳まで下宿していた外海府の家の方が大きくて立派だったことを思い出しました。毎日の食事にしても今思えば御馳走だった気がする。

 あれは誕生日だったか、クリスマスだったか、あるいは両方だったか、記憶ははっきりしてませんが、当時三歳だった私は、下宿のおばさんに二十センチ以上ある巨大なホールケーキを食べさせてもらっていました。昭和三十年代にそういうものを食べることができた家は、全国でも珍しかったと思います。

 もちろん私の実家でも食べたことはないし、そもそも親に誕生日を祝ったことは無い。せいぜい母親と一緒にパン屋のショーウインドに飾ってあったケーキを眺めたことしかない。いや、それ以前に昭和三十年代当時の外海府にケーキ屋なんかなかったし、せいぜい、よろず屋ていどの店が、寒村に一軒あるかないかですから、どうやって大きなホールケーキを手に入れたか疑問だらけです。

 宮本常一は、言います。
 
「海府の人たちは磯でアワビ・ワカメを取り、沖でイカを釣り、また田畑を耕して暮らしを立てていた。冬には雪で閉じ込められてしまうので、夏場の稼ぎだけで1年間の食生活費を稼がなくてはならぬので、村人たちはことのほか、激しく働かねばならず、そのため人出はいくらあっても足りなかった。そこで海府の人たちは相川の貧家から子供をもらい、もらって来ては育てたのである。(宮本常一・離島の旅より)」

 さて安寿と厨子王の話です。

http://artkuusatu.blog.fc2.com/img/20140216204942396.jpg/

 人買船に売られた安寿と厨子王の母が、佐渡の外海府(鹿野浦)に連れて来られてきたと言う話と、宮本常一の「海府の人たちは相川の貧家から子供をもらい、もらって来ては育てたのである」という話は、微妙にリンクします。海府は、昔から人手を必要とする地域だった。宮本常一が指摘しているように、海府地方では、人出はいくらあっても足りなかった。

「海府は米どころであった。(略)それらの米は相川に供給せられたのである。また山の雑木は切られて町として船で相川に送られた。一方から言えばこれらの村々は相川があったからこそ西北の海に面しつつもたくましく生き継いできたといえるのだが、それだけにまた自然におしひしがれそうな人生がそこに長く続いてきたのであったある(宮本常一・離島の旅より)」

 これは外海府ユースホステルのマネージャーも、同じ事を言っていました。外海府ユースホステルの御先祖の墓の中には、大きなものがあり、その大きな墓の時代は、山の雑木を相川に売って大もうけした時代であったということでした。外海府の古くて大きな屋敷の大半は、そういう家系だったということです。

「北小浦の宿で大敷の話を聞いた。昭和33年には水あげが1億円もあったそうである。そこで利益の2割を組合員で分けたのだが、一人当たり25万円もあった。また金が使い切れないので関西旅行した。一晩に1万円も取られる宿に泊まったそうだと、大変景気の良い話である(私の日本地図・宮本常一より)」

http://artkuusatu.blog.fc2.com/img/201312161606001ec.jpg/

 北小浦といえば、海府地方の中でも、限界集落もいいところですが、昭和33年頃は違っていたようです。ちなみに昭和33年の大卒初任給は、1万3500円です。その時代に海府のある漁村では、一晩に1万円も取られる宿に泊まって豪遊したわけですから、どれだけ儲かったのか? どうりで相川から人買いのように養子をもらいにくるわけです。限界集落化しつつある今の海府地方を考えると、想像もできません。

 残念ながら宮本常一氏は、この記録を残した昭和34年以降、海府地方を訪れてないので、その後、海府地方が、どう寂れていったか分からなくなっていますが、現在、限界集落であっても昔は違っていたということは確かなようです。

 再び鹿野浦の話にもどします。

「そのような村にも相川から養子をもらう風習があった。相川にはまずしい町家がたくさんあり、そういう家の子をもらってきた。相川や国中の方では子供が泣くと『海府へ牛のケツたたきにやるぞ』と言えば泣きやんだものであるという(私の日本地図・宮本常一より)」


「たいていの家に2、3人いたという。その子たちを土間の隅に藁を敷き、莚(むしろ)をしいてねかせた。・・・そして25歳になるまで家におき、その春一人前になった祝をしてやってフクギモノという晴着をつくってやる。それからさきは働いて得たものはすべて自分のものになる。そして婿にいくものも多かった。中には相川へかえっていくものも少なくない。妻をもらって分家したものもある(私の日本地図・宮本常一より)」


 この話を裏付けるように、昔の海府の戸籍には、「同居人二人」などと書いてあったらしい。安寿の母親は、こういう地域に売られていったのです。そして鹿野浦で鳥追いをしていた。そこに悲劇がおき、鹿野浦に毒水が流れ、そこに住めなくなった住民たちは、そこから隣村の北片辺に移住していったらしい。この北片辺に私は、〇歳から三歳まで住んでいました。そしてこの北片辺で有名な民話が夕鶴で有名な『鶴女房』です。

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つづく。

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posted by マネージャー at 09:56| Comment(0) | グンマーで嫁が出産と育児 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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