2018年03月19日

息子を連れて佐渡島へ 12 岩谷山洞・海鳴山・竜眼の池の伝説

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 翌朝も、外海府ユースホステルのマネージャーさんのお話を伺いました。ユースホステルの会員減についてや、ユースホステルの未来についてや、御客様の変化などです。やはり会員さんは減っていて、大半が一般客だそうです。といっても御客様が減ってるわけではなく、一般の御客様が増えただけのようです。源兵衛さんが店じまいしてからは、そちらのリピーターさんも外海府ユースホステルに合流したようです。やはりリピーターさんが多く、佐渡の外海府にしかこないという御客様が多いようです。

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 まあ、そうでしょう。立地と言い、施設レベル・食事レベルと言い、秘境さといい、ハマる人には、ハマります。鮭みたいなイワナが釣れるところなんて、この岩谷口ぐらいでしょうし、光明寺・山居池までの旧参拝道や、笠取峠の旧道歩きも魅力だし、観光ガイドに載ってない(つまりネットや本や郷土資料にも掲載されてない)滝や洞窟や石仏がワンサカありますからね。佐渡島民も知らない、佐渡博士も知らないところがワンサカある。それを源兵衛の御主人や、今は亡き外海府ユースホステルのお爺ちゃんに私は教わったわけですが、それだって私が全部知ってるわけではない。私の知ってるところなんて、1000分の1くらいでしょうけれど、それでも、その1000分の1だって、ネットにも、本にも、郷土資料にもないんですから。

 ただ残念なことは、それを知ってる生き証人たちが、次々と他界している現実です。これだけは残念でならない。今回は、四歳の幼児連れなので仕方ないけれど、息子が大きくなったら近いうちにもう一度、外海府ユースホステルに来たいと思いました。

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 その後、外海府ユースホステルのマネージャーに御挨拶して、岩谷山洞・岩谷観音・岩谷山洞窟に向かいました。といっても外海府ユースホステルのすぐそばで、ユースホステルから百メートルのところです。なにしろ掃除などかかさずに管理しているのが、外海府ユースホステルのマネージャーさんですから。もちろんマネージャーさんの御先祖様のお墓もそこにあります。墓も大小ありますが、昔の大きい立派な墓は、その頃、相川金山に物資を運んで大儲けした御先祖様だとか。

 民俗学者の宮本常一によると、佐渡・外海府の墓の特徴として火葬にしていることらしい。墓も海に突き出た岬に集中して固まっているだそうです。岩谷口も例外でなく、岩谷観音付近に墓が集中しています。昭和34年に宮本常一が岩谷口に訪れたとき、岩谷山洞には古くからの焼き場があったらしく「ここで多くの人が焼かれたことであろう」と言っています。

 一般的に言って土葬の地方は墓が集中することはありません。死体が腐って墓石が倒れてくるからです。しかし外海府地方は、薪炭に困らない地域なので墓を集中させるためにも火葬の方が都合がかったのでしょう。

 ちなみに岩谷山洞窟の天井には「南無阿弥陀仏」が書かれており、弘法大師が筆を投げ上げてスラスラ書いたと言う伝説があります。しかし、さすがにこれは眉唾で、佐渡島の歴史に詳しい田中圭一氏によれば

「その文字と、文字の下に彫られた花押はいずれも弾誓上人の筆跡である。しかし、弾誓上人は石を刻むことはしなかったらしいから、・・・これは、天保期、この地にとどまって多くの石造品を残した木食浄厳の製作にかかるものであろう」

と述べています。

 ちなみに弾誓上人とは、密教や修験道を極めた人で、山中の洞窟に籠って持戒・念仏・木食の修行をされた人です。彼は、いわゆる肉類や、人間が栽培した米野菜も食べない人で、木の実や草だけで修行した僧です。木の実や草しかたべないことを木食(もくじき)と言いましたから、木食弾誓上人とも言います。こうした苦行をすることで神仏の力を持つと言われ、佐渡には修験者が多くいたようです。

 また洞窟の奥には、竜眼の池があり、

「昔、母竜が、我が子の眼球をこの池で洗っていた。ある日、人の気配を察して逃げる際に、誤って眼球を池の中に落としてしまった。この眼球を拾った老人がこれを岩谷薬師に差し出すと、薬師は大変に哀れんで、眼球をきれいに洗った後に、池に戻してやった。だが、母竜が再び人間界に姿を現すことはなく、置き去られた眼球は、今でも夜中になると母竜を探して青白い光を発しながら池の中を泳ぐ」

という伝説を伝えています。また岩谷口観音の後ろにも洞窟があり、南佐渡・小木の岩屋山洞窟にまで繋がっているという伝説もあります。

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 松浦武四郎の佐渡日誌には、

「高さ100メートルほどある崖の下に洞窟がある。そこから200メートルほど離れた海岸から叫んでみると、その洞窟が何か答えてくれるような気がする。私も初めは気がつかず、海の波音が洞窟にこだましているのかと思ったが、 12回声を出して叫んでみると、そのこだまが帰ってきた。そこで家に腰をかけて色々叫んでみたら、伊勢の国度会郡度会村一ノ瀬にある鸚鵡岩よりもいっそうよくだまして聞こえた。すぐそばに岩谷明神神社があって、松が二から三株。いずれの上を纏ってあるのだろうか、村人もこの洞窟を崇拝しているらしく、しめ縄を張ってある」

とあります。これは、いわゆる『海鳴山』なのでしょう。詳しくは下記サイトを御覧ください。

(海鳴岩を解説したサイト)
http://henro.gozaru.jp/travel/sado/06-densetu/06-densetu.html
http://www.sado-kouryu.jp/sadonpo/area/iwayaguchi2016/

参考
https://blog.goo.ne.jp/i-epman/e/a8da8fe101ae506a4fa99c3409f20208
(度会郡度会町南中村の「鸚鵡石」)

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 この岩谷観音からしばらく歩くと滝があります。

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 この滝の横から笠取峠にいたる旧道があります。とんでもない難所で、写真の滝の近くにある登山道を上って山を越え、暗い松林を抜けて大ザレ川が流れる谷におります。そこからまた急な登りで笠取峠に到着。そして、そこを下ると真更川に到着します。半日のコースです。昔は、隣の部落に行くのに半日もかかっていました。いまは、海府大橋と佐渡一週道路ができたおかげで、30分もかかりません。

 しかし、昭和44年までは、陸路だと隣の村まで半日もかかるために、船で行き来していました。昭和45年の観光マップにもその航路が掲載されていますし、小学生だった私も見て知っていました。このへんが分からないと、外海府・内海府がどんなに不便なところだったか、若い佐渡島民にも分からないでしょう。宮本常一も松浦武四郎も、この不便な道を通って岩谷口から真更川まで歩いています。

 その真更川ですが、松浦武四郎の佐渡日誌には、

「海岸より300メートルほど沖に離岩という岩礁がある(略)。皆岩石ばかりで岸深く蚫(アワビ)が多い。弁天社あり、鳥居を建てたり(略)。またこれに並んで、前に鴨島という島がある(略)。諸国の廻船、大島と村の間に風町をするという。台場あり 50匁(五円玉50枚分の重さの砲弾の)大砲一門 3匁5分小筒2丁あり」

とありますから、この北の辺鄙なところに諸国の廻船が通過・または風待ちで避難していたことがわかります。廻船といえば、小木をイメージしている佐渡島民が多いですが、そのイメージは、そろそろ捨てた方が良いかもしれません。

 また、注目すべきは、ここにも台場(砲台)があったことです。この他にも松浦武四郎の佐渡日誌では、あちこちに砲台があったことを記録してますが、松浦武四郎がこれを記録したのは、ペリーが来航する五年前ですから、幕府は早くから、海防に対して対策をとっていたことがわかります。

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つづく。

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posted by マネージャー at 12:57| Comment(0) | グンマーで嫁が出産と育児 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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