2010年07月16日

北軽井沢ブルーベリーYGH10周年 4

北軽井沢ブルーベリーYGH10周年 4

「こうなったら赤字になろうが何しようが自由にさせてやろう」

と決意しました。そして落ちるところまで落ちてからペンションを再生させようと考えたのです。で、私は、仕事を辞める決心をしたのです。3年間会社で働いて返済する計画は中止し、私自身が本気になってペンション経営をすることにしたのです。

 と言っても、ペンション経営は、友人の自由にまかせました。倒産しようが何しようが、とりあえず友人の好き勝手にさせ、そのかわりに私は、会社を辞めたことを誰にも言わずに隠密に行動しました。

 だから、いきなり北軽井沢に乗り込んだのではありません。
 東京に潜伏し、ある作戦を実行したのです!
 そのある作戦とは、

1.税理士を雇って経理の勉強をする。
2.マーケッティングの勉強をする。
3.ペンションと宿泊施設の歴史を調べなおす
4.友人に「どんな宿にもう一度泊まりたいか」を聞き回る
5.たまに北軽井沢のペンションに訪れて、どんな様子か見てくる
6.そして北軽井沢周辺を徹底的に調べる

の6つです。

 と書くと、いつも「なにか遠回りしてるな」と言われるのですが、実は、これが近道なのですね。いや、近道であると信じています。というのも、これで劇的に集客が増えたからです。半年間、1名のリピーターもいなかったのが、2週間で御客様がリピートしたからです。

 まあ、それは置いといて、仮に、いきなり北軽井沢に行って、友人から経営権を奪って小細工しても失敗したと思います。うまくいくわけがない。むしろ外から客観的に眺めた方が、本質が見えてくるのですね。で、友人に好き勝手に仕事を続けさせたのです。それを私は外から眺めてみた。でも、ただ眺めるだけでは、何も分からないので、まず税理士を雇って経理の勉強をはじめました。それも簿記の歴史からです。複式簿記の本質がわかってくると、やるべきことが見えてくるからです。

 次にマーケッティングの勉強。最初は本で勉強しましたが、セミナーにも参加しました。そして実践もしてみました。例えば、今まで全く効果の無かったチラシに色々工夫&実験をしてみました。あと広告の宣伝文句にも、ちょっとした実験をしてみました。そしてデーターをとっていったのです。

 ペンションの歴史も調べなおし、ペンション客の嗜好も研究しました。あと友人に「どんな宿にもう一度泊まりたいか」を聞き回っていました。もちろん私がペンション経営していることは秘密のままにして質問しています。だから自分が体験した感動を素直に語って貰えましたのでありがたかった。

 で、たまに北軽井沢のペンションに顔をだしたのです。
 もちろん顔を出すだけ。
 口はだしません。
 そのかわりにジーッと自分の目でみせてもらった。

「ふむふむ、なるほど」
「へー、そうなのか!」

と感心しながらみせてもらったのです。

 最後のとどめが北軽井沢の調査です。
 北軽井沢の魅力探しです。

 ペンションの方は、ともだちがやっているので、そのやりかたに口はだせません。だから私は、友だちのやりかたの魅力探しからはじめ、北軽井沢周辺の魅力探しをはじめたのです。今さら友だちに
「ああしろ」
「こうしろ」
と言っても聞く奴ではなかったのです。

 だから、そいつの欠点を長所にかえて、御客様に売り込むことからはじめなければなりません。そのための経理の勉強でありマーケッティングの勉強をしたのですね。だいたい欠点を指摘してもなおしてくれる保障はなかったし、そうなると、むしろ欠点を武器に使う方法を考えた方がよいと思ったからです。

 あと北軽井沢の魅力にしたって、これが伝わらないと意味がありませんので、バンバン写真を撮りにいって、それをホームページで紹介していったのです。

つづく

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2010年07月22日

北軽井沢ブルーベリーYGH10周年 5

北軽井沢ブルーベリーYGH10周年 5

 ペンションの方は、ともだちがやっているので、そのやりかたに口はだせません。だから私は、友だちのやりかたの魅力探しからはじめ、北軽井沢周辺の魅力探しをはじめたのです。今さら友だちに
「ああしろ」
「こうしろ」
と言っても聞く奴ではなかったのです。

 だから、そいつの欠点を長所にかえて、御客様に売り込むことからはじめなければなりません。そのための経理の勉強でありマーケッティングの勉強をしたのですね。だいたい欠点を指摘してもなおしてくれる保障はなかったし、そうなると、むしろ欠点を武器に使う方法を考えた方がよいと思ったからです。

 となると、不器用な友人に勤まる接客方法は、ユースホステルしかないと考えました。というのも彼は、今は無き四国の定福寺ユースホステルのヘビーユーザーであり、ヘルパーでもあったからです。で、定福寺ユースホステルは、大勢のスタッフがいて御客様も混じり合って一緒に遊ぶような宿でありました。だからプライバシーを重視するペンションの接客スタイルとは、相容れなかったのですね。

 しかし、ユースホステルへの申請は、日本ユースホステル協会に一度断られています。近くに北軽井沢ウィンディーベルユースホステルがあったからです。で、北軽井沢ウィンディーベルユースホステルに宿泊予約の電話してみました。宿泊して、北軽井沢ウィンディーベルユースホステルのマネージャーと仲良くなり、日本ユースホステル協会への認可をとりつけるために協力できないかと思ったからです。

 しかし、予約はできませんでした。
 なぜかユースホステルの会員としての予約を断られるのです。
 つまり泊まれない。

 しかたないので日本ユースホステル協会に電話することにしました。

「こうなったら押しの一手で日本ユースホステル協会に頼み込み認可を受けよう!」

と思った私は、ユースホステルの会員が、北軽井沢ウィンディーベルユースホステルに泊まれないことを理由に、北軽井沢ブルーベリーYGHをユースホステルとして認可してもらおうと日本ユースホステル協会に電話しました。もちろん断られるかもしれません。

 しかし、施設をペンションと兼業ではなくユースホステル専業にするという条件をもちだして、粘り強く認可をしてもらうように交渉してやろうと思ったのです。むろん、そのためのプレゼンの準備も整えています。

 で、おっかなびっくり日本ユースホステル協会に電話してみたら、電話に出たのが小俣さんでした。

「北軽井沢でペンションをやっている者です。ユースホステルの会員でもあります。実は、うちのペンションをユースホステルにしたいと思って電話しました」
「・・・・」
「もちろん近くに北軽井沢ウィンディーベルユースホステルがあることは知っています。知っていますが、北軽井沢ウィンディーベルユースホステルは、どういうわけかユースホステルの会員が泊まりにくくなっています。ペンション客しか泊まれません。そこで、うちの施設をホステラー専用のユースホステルとしたくて、日本ユースホステル協会に電話したしだいです。ペンション兼業ではありません。ユースホステル専用です」
「では、群馬県ユースホステル協会の河野さんに会ってください」
「群馬県ユースホステル協会・・・ですか?」
「そうです」

 けんもほろろに断られるかと思ったら、
 群馬県ユースホステル協会にいけという。

「これは、ひょっとしたら、ひょっとするかな」

と、思った私は、すぐさま群馬県ユースホステル協会にアポをとりました。そして3日後に面談をうけることになりましたが、すぐに会社に3日間の休暇をもらい、膨大な提出書類の準備とプレゼンの用意しました。

 まず自分の過去の履歴をまとめた20ページほどの冊子つくり、過去十年間の青少年活動の記録と、『風のたより』のバックナンバーや、ぶるる知床、震災マニュアルといった、莫大な過去の行動記録と、数十枚の写真(活動記録)に、ユースホステル認可後の経営戦略まで書類で用意し、プレゼンテーションの準備もぬかりなく用意しました。

 なにしろ面接は一発勝負ですから、
 念には念をいれました。

 すでに先行の北軽井沢ウィンディーベルユースホステルがあるわけなので、よほど魅力あるユースホステルを作ることを訴えていかなければ、北軽井沢ブルーベリーYGHが、ユースホステルに認可されることはないと思ったからです。面接当日は、2時間前に群馬県ユースホステル協会に到着し、充分に下見をし、何度もプレゼンテーションの予習復習を行いました。そうして河野さんの面接を受けたのです。

 その結果、手応えがありました。
 河野さんは、マネージャー(ペアレント)養成講習会に出席し
 マネージャーの免許をとるように言ってきたからです。

 認可の確約は得られませんでしたが、マネージャー(ペアレント)養成講習会に出席しろということは、一縷のチャンスがあるということです。2000年10月頃のことです。しかし、マネージャー(ペアレント)養成講習会に出席してみたら驚くべき事に、鹿沢リゾートホテルの支配人が、いました。

「えええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ?」

 北軽井沢から2施設の宿主が、
 マネージャー(ペアレント)養成講習会に
 出席しているというのは、
 いったいどういうことなんだ?

 私は、疑心暗鬼になりました。

 北軽井沢ブルーベリーYGHは、認可されないのだろうか?
 すでに北軽井沢ウィンディーベルユースホステルがある。
 だから同じ村に、2つも新しくユースホステルが認可されるはずがない。

 とすると、北軽井沢ブルーベリーYGHか、鹿沢リゾートホテルのどちらかということになる。そうなると、施設の良さで有利な鹿沢リゾートホテルに軍配があがるかもしれない。

「それに北軽井沢に二軒できるより、北軽井沢と鹿沢で棲み分けられた方が、ユースホステル協会としても良いのかもしれない」

 と考えると、ますます、お先真っ暗になってきたような気がしてきました。

 さらに鹿沢リゾートホテルの支配人は、ホテルの図面を持ってきていました。それを得意満面に日本ユースホステル協会の皆さんに見せて、ユースホステル認可を迫ってきていたのです。そして日本ユースホステル協会のホステル委員会の方も、大いに乗り気で、鹿沢リゾートホテルのプレゼンを聞いていました。北軽井沢ブルーベリーのユースホステル認可は、絶体絶命のピンチに陥ったのです。

つづく

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2010年07月24日

北軽井沢ブルーベリーYGH10周年 6

北軽井沢ブルーベリーYGH10周年 6

 マネージャー(ペアレント)養成講習会に出席しろということは、一縷のチャンスがあるということです。しかし、マネージャー(ペアレント)養成講習会に出席してみたら驚くべき事に、鹿沢リゾートホテルの支配人が、いました。

 北軽井沢から2施設の宿主が、マネージャー(ペアレント)養成講習会に出席しているというのは、いったいどういうことなんだ? 私は、疑心暗鬼になりました。認可されるのは、北軽井沢ブルーベリーYGHか? 鹿沢リゾートホテルか? 施設の良さで有利な鹿沢リゾートホテルに軍配があがるかもしれない。と考えると、ますます、お先真っ暗になってきたような気がしてきました。

 さらに鹿沢リゾートホテルの支配人は、ホテルの図面を持ってきていました。それを得意満面に日本ユースホステル協会の皆さんに見せて、ユースホステル認可を迫ってきていたのです。そして日本ユースホステル協会のホステル委員会の方も、大いに乗り気で、鹿沢リゾートホテルのプレゼンを聞いていました。北軽井沢ブルーベリーのユースホステル認可は、絶体絶命のピンチに陥ったのです。

 しかし、そこに助け船を出してくれたのが、日本ユースホステル協会の真田さんでした。真田さんが私を日本ユースホステル協会のお偉いさんに紹介し、
「北軽井沢でユースホステルに申請を申し込んでいる、もう一人のマネージャーです」
と強力にいってくれたのです。

 この瞬間、私には真田さんが
『神』
に見えましたね。

(今でも私にとっては神ですけれどね)

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 ホステル委員の方も、小俣部長も私をジーッとみつめてきます。
 私の顔は青ざめていたにちがいありません。
 小俣部長が私に言いました。

「佐藤さんは、嬬恋村にユースホステルが2軒あっても異存はないですかね?」

 え?
 それって北軽井沢ブルーベリーYGHは、
 認可される予定ということ?

 さっきまで永遠の闇にいたとおもった私は、
 闇ではなく日食の最中にいたのかもしれない
 と思えてきました。

「異存ないです。何軒あっても異存はないです。隣に別のユースホステルがあっても、うちとしては何ら問題はありません。私自身が大勢の御客さまを呼んでくる自信がありますから」

 認可さえしてくれれば、御客さまをガンガン呼ぶことは私にはできるという自信は、全く根拠のないものではありませんでした。というのも某ユースホステルで2年間ヘルパーしていた時に、あることを集客を倍に増やしたことがあったからです。体験プログラムも、ツアーもやらず、ただの受付と食事提供の工夫だけで、御客さまを増やすことを過去に成功させていたので、自信と確信はありました。だから、嬬恋村にユースホステルが2軒あろうが10軒あろうが、何の問題もありませんでした。

 こうして、北軽井沢ブルーベリーYGHと、鹿沢リゾートホテルの2軒が認可される可能性がでてきました。ちなみに北軽井沢ウィンデーベルユースホステルは、御客さまとのトラブルによってユースホステル契約を解約されることになったということでした。

 その後、鹿沢リゾートホテルの支配人が私のところに近づいてきて、いろいろ話をしてきました。話をしているうちに、とても素晴らしい人であることに気がつきました。

「どうして嬬恋村に来たんですか?」
「素晴らしい村だったからです」
「だよね、そうだよね、素晴らしい村だよね」
「自然は素晴らしいし、水も野菜も美味しいし、言うこと無いです」
「それが分からない奴が多いんだよ」
「は?」
「妻も子供も、嬬恋村でホテルをやると言ったら大反対でねえ」

 鹿沢リゾートホテルの支配人は、市川さんと言いました。
 市川さんは、嬬恋村出身ですが、上京して苦労をかさねたうえで
 湘南(?)でスナックや飲食店を経営されたかたでした。

 でも、歳をとるうちに美しい嬬恋村の光景が忘れられなくなり、
 故郷の鹿沢にユーターンしてホテル経営をはじめたいと思いました。

 しかし、息子娘さんたちも、奥様も大反対。
 都会を離れたくないというのです。
 孤立無援の中で半ば強引に、嬬恋村にもどった市川さんは、
 しばらくのあいだ家族たちの中で針の筵だったようです。

「嬬恋村の良さを分かってくれるひとが、ここにいて良かった」

 私は市川さんと、すっかり意気投合して深夜まで酒を飲み交わしました。
 話題は、嬬恋村のことばかり。
 初対面でしたが嬬恋村を愛するということでは、
 同志であり、心の友でもありました。

 後日談になりますが、マネージャー(ペアレント)養成講習会が終わって、鹿沢リゾートホテルに遊びに行った事があります。そして市川さんと旧交ををあたためあいました。

「鹿沢リゾートホテルはユースホステルにしないんですか?」
「やめた」
「・・・・」
「北軽井沢ブルーベリーYGHさんが頑張っているからね」
「・・・・」
「これからは嬬恋村を愛する人に頑張ってもらいたい」

 鹿沢リゾートホテルのユースホステル化は、無くなってしまったようです。ちなみに鹿沢リゾートホテルは、ホテルと言ってもユースホステルみたいなところでした。何十人もの居候がいて、ユースホステルヘルパーみたいにボランティアで働いていました。昼間はスキー三昧。15時から朝10時まではホテルの仕事を手伝う代わりに、宿泊日とリフト代は無料にしてもらっていました。その雰囲気は、ユースホステルに似ていました。

つづく

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2010年07月26日

北軽井沢ブルーベリーYGH10周年 7

北軽井沢ブルーベリーYGH10周年 7

 さて、ユースホステルの認可が決まりそうになるとなると、やるべき事ができてきます。まず北軽井沢周辺の本格調査と、長野県・群馬県の道路状況の把握です。ユースホステルの最大の魅力は、体験プログラムにあります。その体験プログラムを実施するには、徹底した事前調査を行う必要があるのです。さいわい、北軽井沢ブルーベリーの経営は、友だちがやっています。食事作りも、ベットメイクも友だちがやる予定だし、それについては私は口出しをするつもりは無かったので、私は、体験プログラムと営業に全力を入ることにしました。

 で、本屋に行って観光ガイドブックを買いあさり、かたっぱしから名所旧跡を訪れて写真を撮りました。当時は、ホームページも発達して無く、デジカメなんて便利な物もなかったので、キャノンの一眼レフと三脚を持って毎日に三百枚以上の写真を撮影して現像に出しました。ガソリン代・フィルム代は、ものすごくかかりましたが、事前調査と記録写真は欠かせないものなので、体験プログラムを行うに当たってとても重要なことなのです。

 もちろん軽井沢のペンションにも宿泊しています。男一人でペンションに泊まると、かなり白い目で見られました。怪しまれましたし、宿のオーナーも、あきらかにドンビキしていました。この体験に
「しめた!」
と私は思いましたね。うまくすれば軽井沢を一人旅したい男性客を、うちが『独占』できると思ったからです。

 また、観光地を回ってみて、気さくに旅する男性に声をかけてみると軽井沢には意外に男性客も多いことに気がつきました。旧軽井沢銀座をブラブラするのではなく、静かな別荘地を散策する一人旅の男性客が案外多いのに気がついたのです。そういう御客さまは、お気に入りの喫茶店めぐりをしたあとに、信濃追分、佐久、御代田、小諸のビジネスホテルに泊まっているのです。軽井沢の半額の値段で泊まれるうえに、無料駐車状が完備しているからです。軽井沢の宿の中には、駐車状が有料のところもあるし狭いので、郊外のビジネスホテルに泊まる人も多かったのですね。この人たちに
「北軽井沢に泊まらないんですか?」
と、聞いたのですが、やはりペンションには抵抗があったみたいでした。

「前に泊まったことがあるんですが、まわりはカップルだらけで、いずらいんですよ」
「ユースホステルはどうですか?」
「この歳だと2段ベットはねえ」
「ペンションと同じようなユースホステルがあったら、どうですか? しかも個室でバス
トイレがあったとしたら」
「そりゃ、文句ないですけれど、そんなユースホステルは聞いたことがないです」

 ここで、また私は「しめた!」と思いましたね。
 これで新しい需要を掘り起こせると。

 広告費を限りなくゼロにして、体験プログラムで御客さまをよび、一人旅の男性客で御客さまをよぶ。これを集客の基本にするとして、問題はリピーターの確保です。友人に任せた半年間、ゼロだったのには何か原因があるはずでした。その原因を学んだばかりのマーケッティングでデーターをとって突きとめ、それを改善するのではなく、それを活かす方向性で、北軽井沢ブルーベリーを再建するプランをたてました。


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 ところが、その時、北は北海道の富良野で大事件がおきていました。
 賃貸の民宿をやっていた私の友人が、
 大家さんと揉めてトラブルをおこしていたのです。

 そのうえ、民宿をやっていた私の友人が
 極度のノイローゼになっていたのです。
「これはマズイぞ」
と、友人たちは焦りましたが、
みんな仕事がありますから誰も動けません。

 動けるのは、仕事をやめていた私だけだったのです。

 そういうわけですから、とりあえず北軽井沢ブルーベリーの再建は後回しにして、北海道の富良野に飛行機で飛んでいかなければならなくなりました。富良野の民宿『千葉荘』の再建と、友人のメンタルケアを、北軽井沢ブルーベリーよりも優先させなければならなくなったのです。

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 とりあえずペンション・北軽井沢ブルーベリーの再建はあとにして、富良野民宿千葉荘の再建のために北海道に旅立っちました。2000年11月末のことでした。この頃の私は、自分の人生の中でも、最も忙しかった頃だったかもしれません。北軽井沢と富良野の2つを何とかしなければならなかったからです。


つづく

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2010年07月29日

北軽井沢ブルーベリーYGH10周年 8

北軽井沢ブルーベリーYGH10周年 8

 今から二十数年前のことです。一人の親友が悪の道に入ってしまったことがありました。その親友は、私より一歳年上でしたが、いわゆる駄目人間であり、大学もギリギリの8年在籍したうえに三十歳をすぎても仕事をしていませんでした。今で言う引きこもりだったわけですが、二十年以上前には、そういう言葉はありませんでした。その男が私が勤めていた会社に部下としてはいってきた。三十歳になって、生まれて初めて仕事をするという彼に、私はネクタイの結び方から挨拶の仕方まで、手取り足取り教えてあげました。

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 いわゆる引きこもりであり、アニメオタクであり、マンガオタクであった彼の自宅の彼の部屋には、少女マンガが一万冊ほど山積みになっていました。レザーディスクのアニメも大量に持っていました。典型的な引きこもりだったわけですが、二十五年から三十年前の話しですから、いわゆる元祖ひきこもりといえるかもしれません。

 それだけに世間に疎く、年下の同僚に、よく虐められていました。私は見るに見かねて、彼を旅に誘ったり、山に連れて行ったりしました。すると1年くらいで人が変わったように健康的になり、ドモリは治り、普通の会話ができるようになり、体力もついてきて、妙義山をロッククライミングしたり、北アルプスを縦走したりするようになりました。おまけにユースホステルでヘルパーまでしました。

 そうなると女性たちにモテモテになってきます。三十歳まで母親以外の女性と口をきいたことの無かった彼は、大勢の旅仲間や、山仲間に囲まれるようになり、大勢の人々から慕われるようになりました。これは彼にとっては夢のような変化だったにちがいありません。そんな彼は、ある女性に恋をしました。四十歳ちかくになっての初恋でした。しかし、それは適わぬ初恋でした。失恋した彼は絶望のあまりに悪の道に走りました。私が止めても駄目だった。

 私は、全国の友人に相談しました。
 そして、みんなで、なんとか
 悪の道から彼を取り戻そうということになった。


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 で、その時に、凄い行動をとった人がいました。九州は福岡県の端っこから、飛行機に乗ってやってきた女性がいたのです。その人の名前は「三苫」と言いました。三苫さんは、私の友人とは、あまり面識が無かった。それどころか私とも、あまり面識が無かった。しかし、私が親友のことで困っていると聞いて飛行機でかけつけてくれた。頭が下がった。その心意気に。その行動に。私は、心の底から、その友情に感謝しました。私は、義理人情に弱いので、いつか借りを返したいと、ずーっと思っていました。


 そして、数年後、三苫さんは、稚内に住む旅仲間と結婚しました。
 旦那さんは、稚内の病院で言語療法士をやっていましたが、
 旦那さんの夢は、旅人民宿を開くことでした。

 三苫さんは、愛する旦那さんの夢をかなえるべく、
 北海道中をさがしまわって、富良野の不動産に売りに出している
 民宿の持ち主に、頼み込んで、賃貸させてもらうことにしました。

 その民宿は
『千葉荘』
と言いました。

 私が、ペンション・北軽井沢ブルーベリーを開業して数ヶ月たった頃でした。


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 ところが、開業してまもなく、大家さんとトラブルになってしまったのです。そのうえ三苫さんは、極度のノイローゼになってしまいました。私は、私が苦しかった時に、九州から飛行機で三苫さんが、かけつけてくれたことを思い出しました。

 北軽井沢ブルーベリーの再建なんかやってる暇は無いと思った私は、すぐさま北海道の富良野に飛行機で飛んでいきました。もちろんノーマルチケットで千歳まで飛び、そこから電車に乗って富良野に向かいました。御客様と同じ交通手段を使って『千葉荘』に向かったのです。途中、『とほ宿』関係者や『フリー宿』関係者にも連絡をとり、アポをとりました。北海道ユースホステル協会にも連絡し、ユースホステルの申請についての打診をしてみました。

 富良野についたら直ぐに観光協会に向かいました。そして、千葉荘と富良野の情報をあつめまくりました。で、11月の富良野を一人でじっくり歩いてみました。『千葉荘』問題にかかる前に、富良野と千葉荘について少しでも知っておこうと思ったからです。そして富良野の人々の気質を知っておこうと思ったからです。

 で、あちこち歩いていると、身体が芯まで冷えてきました。11月の富良野は、雪も積もって路面は凍結しており、寒さが身にしみました。で、夜、真っ暗になって千葉荘に到着したのです。千葉荘は、古くてボロボロの民宿でしたが、そこには温かい灯が灯っていました。


つづく

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2010年07月30日

北軽井沢ブルーベリーYGH10周年 9

北軽井沢ブルーベリーYGH10周年 9

 富良野の民宿『千葉荘』に到着した私は、三苫さんとじっくり話あいました。三苫さんのダンナさんは、まだ稚内の病院で働いていたので、三苫さんは一人だけで民宿『千葉荘』をきりもりしていました。そのためかゆとりが無かったのかもしれません。また御主人と離ればなれに生活しているためか、寂しかったのだろうと思います。そのうえ大家さんとのトラブルで、すっかり参っている様子でした。

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 私は三苫さんと打ち合わせして、三苫さんの親戚ということにして、トラブっている大家さんに御挨拶することにしました。御挨拶し、大家さんと何とか仲良くなれるようにするのが私の使命です。で、手土産を持って、2人して大家さんの所に御挨拶にいきました。

 大家さんのご自宅は、民宿『千葉荘』の、すぐ後ろにありました。

 誤解は、すぐに解けました。
 簡単なことでした。

 南国育ちの三苫さんと、雪国育ちの大家さんの文化の違いからおきる誤解でした。それも最初は、小さな誤解だったのが、徐々に大きく誤解が拡大されたものでした。例えば、雪が降ると、大家さんはすぐに雪かきに出ます。雪国の人間なら、隣が雪かきをはじめたら一緒にはじめるのがルールです。でも九州育ちの三苫さんさんは、雪の美しさににうっとり見ほれてしまうのです。
「もっと降らないかなあ」
なんて言っている。こんな些細な文化の違いから誤解が生まれ、それが徐々に大きくなって無用なトラブルまで発展していくのですね。私は大家さんと話をしながら、誤解というものは、ほんとうに小さな小さなひび割れから生まれるんだなあと、あらためて思ったものです。

 また三苫さんは、御主人に対する不満も私に漏らしてきました。

「せっかく、ご馳走を作っても、新聞を読みながら食べるのよ、信じられない!」
「ひょっとしてダンナさん、酒飲み?」
「うん」
「やっぱりね」
「やっぱりって?」
「酒飲みは、ちびちび食べるんだよ。そういう文化なんだ」
「文化?」
「日本酒の飲み方を説明するとね、まず少しばかりの肴を食べ、そのうえで酒を口に含ませるんだよ。酒と肴はセットなんだ」
「・・・・・・」
「例えば、サザエのキモなんかを食べるよね? すると口の中が苦くなる。そこに辛口の酒を口に含ませると辛口なのに酒が甘くなる。その快感のために酒飲みという人種は、生きているんだよ。だから酒飲みに早食いはいないんだ。酒を美味しく飲むために、肴をチビチビ食べるのが酒飲みの食べ方なんだよ」
「でも、せっかく作った料理が冷めちゃうじゃない」
「うん、冷めちゃう」
「それって変でしょ?」
「変じゃない、変じゃない。フランス料理のフルコースだと思えばいいのさ。あれはワインがメインで、料理は肴みたいなものだろう? だから少量を1品づつだしていくよね。酒飲みのダンナさんも一緒。冷めないように、小出しに肴をだしてあげると喜ぶよ」
「私、フルコースは作れないし」
「別にフルコースを作らなくて良いのよ、煮干しを小皿に出してみたり、惣菜の残り物を小皿に入れて出してみたり、キューリを切って味噌と一緒に出してみたり、1分の手間ですむ簡単料理を小出しに出すだけでいいのよ。そう考えたら酒飲みの料理って、とても楽だと思わない?」
「えええええええええええええええ? そんなんでいいの?」
「いいの! いいの! 酒飲みには、それがありがたいのよ。酒飲みに新聞置いて冷めな
いうちに食べろと言っても無駄なのよ」
「ええええええええええええええええええ? そうだったの?」
「ま、これも、ちょっとした誤解だなあ」
「・・・・」
「ま、結婚というのは異文化を受け入れることだからね。いろんな誤解も生まれるさ」

 大家さんは、三苫さんのことをとても心配していました。女手一人で民宿をまわしていくことの辛さを知っていましたから「はやく稚内にいるダンナさんを呼んで来なよ」と助言してましたし、それは私も同感でした。富良野病院に紹介してあげるからとも言ってくれました。

 数日後の土曜日、三苫さんのダンナさんがやってきました。私は、ダンナさんに、はやく富良野で就職して2人で一緒に生活できるようになればいいのにねと言ったのですが、ダンナさんは渋い顔をしていました。富良野病院は言語療法士の雇用をもつ方針は無いというのです。

「富良野でダメなら旭川でどうだろう? ちょっと遠いけれど、旭川ならまちも大きいし、言語療法士の口があるんじゃないかな?」
「うーん」

 そして、翌日の日曜日。再びダンナさんは、稚内に帰っていきました。三苫さんは、泣きながらダンナさんのバスを追いかけて走っていました。その姿に、不覚にも私ももらい泣きをしてしまいました。この二人が再び一緒に生活できるのはいつのことだろうと思いました。

「三苫さん、ちょっとアドバイスがあるんだけれど」
「何?」
「寂しいだろう」
「うん」
「だったら御客さまを友だちにしちゃいな」
「・・・・」
「北軽井沢なら無理だけれど、富良野なら可能だよ。御客さまも宿主と友だちになりたがるのが北海道の旅人の特徴だからね」
「うん」
「場合によっては、御客さまをヘルパーにやとっちゃえ。もしくは近所と仲良くなって、宿に出入りさせて賑やかな宿にしちゃうんだ」
「うん」
「富良野は寒いだろ。駅からここまで歩いてくるのに死ぬほど寒かった。遠いし、寂しいし、道は暗いしね」
「すいません迎えに行かなくて」
「そういう意味じゃないんだよ。駅からここまで歩いてくるのに遠いし寒かったけれど、千葉荘に到着すると、千葉荘に灯りがついているんだよ」
「灯り?」
「うん、灯りがついていて、三苫さんと宿の御客さまが楽しそうに笑っている。それがとっても温かくて眩しいんだ。外の風景と真逆で感動的でさえあったな。俺は思ったね。こんな宿に泊まりたかったって。懐かしい風景だなって」
「・・・・」
「これも三苫さんの人徳だよ。御客さまと宿主が一緒になって癒し合っている。それが、とっても眩しいんだ。残念ながら今の北軽井沢ブルーベリーには、そういう風景は無い。でも民宿『千葉荘』には、ある。これを活かしていこうよ」
「・・・・」


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 東京に帰った私は、友人達に
「北軽井沢じゃなくて富良野に行ってくれ」
と言いました。

「北軽井沢は、だいじょうぶ。俺が行くから。それより富良野こそが心配だ。富良野の千葉荘を全力で応援してくれないか」

 みんな快く引き受けてくれました。そして大勢の人たちが富良野の民宿『千葉荘』に遊びに行ってくれました。御客さまとしてでなく、お手伝いとして、民宿『千葉荘』をささえてくれたのです。


 話は前後しますが、私が民宿『千葉荘』に行っている間に、フリー宿グループと、とほ宿グループの関係者とアポをとりました。北軽井沢ブルーベリーは、ユースホステルの認可がおりそうだったのですが、場合によっては、それをやめて、フリー宿グループと、とほ宿グループに加盟することも考えていたからです。

 まずフリー宿グループの人に、グループ参加を申し込んだのですが、電話で簡単にオーケーが出ました。ユースホステルでも民宿でもオーケーということだったので、北軽井沢ブルーベリーも、民宿『千葉荘』も、問題なく加盟できることになりました。

 しかし、とほ宿グループに加盟することは難しかった。まず御近所の加盟宿の了解をとらなければならないことと、加盟まで3年もかかることと、加盟宿の何軒かの推薦状が必要なことです。で、某加盟宿の宿主さんが、民宿『千葉荘』にやってきたのですが、残念ながら「千葉荘」を温かく迎えてくれるという雰囲気ではありませんでした。私とは名刺交換しても、千葉荘の名刺は受けとってもくれませんでした。
「あ、ダメだな」
と思いましたね。北軽井沢ブルーベリーは加盟を認可されたとしても、千葉荘は、親の敵のように思われていると。民宿『千葉荘』は、まだ開業して2ヶ月しかたってないのに、どうして、そう思われてしまったのかは、不思議と言うしかありませんが、これで北軽井沢ブルーベリーの進路が決まりました、『とほ宿』と『ユースホステル』のどちらを取ろうか迷っていたのですが、民宿『千葉荘』が加盟できないなら、『とほ宿』ではなく『ユースホステル』をとってしまおうと。


oretatinotabi7.jpg

 まあ、それは良いとして、問題は経営危機に陥っているペンション・北軽井沢ブルーベリーのことです。北軽井沢ブルーベリーの再建をスタートさせる前に、ある問題点が出て来ました。その問題点というのは、ペンション経営をまかせていた友人が、ペンションにすっかり嫌気がさしてきているということでした。そして嫌気がさしている友人は、
『俺は北海道でやりたい』
と言ってきたのです。

つづく

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2010年07月31日

北軽井沢ブルーベリーYGH10周年 10

北軽井沢ブルーベリーYGH10周年 10

 問題は経営危機に陥っているペンション・北軽井沢ブルーベリーのことです。北軽井沢ブルーベリーの再建をスタートさせる前に、ある問題点が出て来ました。その問題点というのは、ペンション経営をまかせていた友人が、ペンションにすっかり嫌気がさしてきているということでした。そして嫌気がさしている友人は、
『俺は北海道でやりたい』
と言うのです。北軽井沢には永住する気は無いというのです。


movie2.jpg


 私は最初、その友人と北軽井沢ブルーベリーの再建をめざすつもりであり、ペンション業務全般を全て友人にまかせ、私は、営業と体験プログラムだけを行う予定だったのですが、友人の心は北軽井沢にはなく、北海道に向かっていました。全く自己資金の無かった三苫さんが、賃貸という手段で民宿『千葉荘』を開業できたためか、その友人も北海道で賃貸物件を探し始めていました。そして、摩周湖付近に民宿のめぼしい賃貸物件をみつけていたのです。


about11.jpg


 友人の夢は、あくまでも北海道で宿をやることであり、軽井沢周辺には興味がない、または、もう懲り懲りという感じに見えました。そのうえ宿に対する細かいこだわりが、ありました。あくまでも小さなユースホステルのような宿を目指しており、ペンションを憎んでいるような感じさえありました。よほどペンションと相性が悪かったのかもしれません。というか軽井沢と相性が悪かったのかもしれません。

 私は、こうなることを察して、私は会社を退職して日本ユースホステル協会のマネージャー養成講習会に出て、日本ユースホステル協会にユースホステル申請を出したわけですが、申請してすぐにユースホステルになるとはかぎりません。

 私が知っている長崎えびすユースホステルは、申請後1年も待たされていますから、北軽井沢ブルーベリーも1年くらい待たされるんだろうなあと、漠然と思っていたくらいです。ですから、私も、その友人も、もう1年くらいペンションを続けるつもりでいたのです。

 宿は赤字。
 軍資金は減る一方。
 給料はろくに払えない。
 おまけに、もう1年くらいペンション経営は続く見込み。


life2.jpg


 そんな状況の中で三苫さんが、ほとんど資金ゼロで民宿『千葉荘』を開業させ、なかば成功させつつあったのです。しかも、ペンション北軽井沢ブルーベリーと違って、営業成績はよい。黒字なのです。御客さまもいっぱいきているのにも驚きましたが、なによりもリピーターが多い。北軽井沢ブルーベリーのリピーターがゼロなのに、民宿『千葉荘』にはワンサカいる。施設もサービスも北軽井沢ブルーベリーの方が、圧倒的に良いのに、北軽井沢ブルーベリーは倒産寸前で、民宿『千葉荘』は前途洋々。

 で、インターネットで検索すると摩周湖に民宿の賃貸物件があった。しかも温泉付きで、温泉収入だけで1日に何万にもなるという。さぞかし友人の心は高鳴ったことでしょう。

「摩周湖に行ってきて良いですか?」
「分かった行ってこいよ。北軽井沢ブルーベリーは、俺一人で充分だから」
「まあ行ったところで、俺には賃貸物件を借りる金は無いですけれどね」
「金のことは心配するな。俺が何とかする。あいかわらず借金は減ってないけれど、100万くらいは手配する。北軽井沢ブルーベリーがあるのだから、それを担保に、みんなも貸してくれるだろうし」
「すいません」

 こうして友人は、摩周湖に向かい、賃貸物件を見学に行ったのです。ただし、物件は素晴らしかったのですが、賃貸契約には失敗してしまいました。資金の問題ではなく、貸す側に心変わりがおきたためです。でも、失敗したとは言え、広い北海道には、民宿の賃貸物件は、他にもたくさんあるにちがいなく、チャンスがあれば民宿『千葉荘』のように独立できるかもしれません。また民宿『千葉荘』の三苫さんは、女手一人による苦戦から人出を欲しています。2人で相談の結果、北軽井沢に永住する気がない友人は、民宿『千葉荘』を手伝いながら独立のチャンスをうかがう・・・・ということになりました。

 まあ、仕方ないことですが、そうなると困った。
 北軽井沢ブルーベリーの再建計画が、
 白紙に戻ってしまったからです。
 すべての計画が一からやりなおしになりました。


point2.jpg


 他の大勢の友人たちには、民宿『千葉荘』に行ってくれとたのんである。だから北軽井沢ブルーベリーへの応援は見込めない。嫁さんは、仕事はやめられないし、辞めたら唯一の安定収入が途絶えるし、おまけに友人が、富良野の転出するのは、2001年1月11日に決定しており、期限は刻々と迫ってきていました。再建計画を変更するのには時間は、あまりにもありませんでした。おまけに料理の練習も、家の引き継ぎも、引っ越しも、何もかもできてなく、準備は何一つできていません。

 そんな時に、日本ユースホステル協会から電話が入りました。
「施設をみせてほしい」
とのことでした。
「ああ、どうしよう? 何一つ準備はできてない」

 私の進退は、ここにきわまりました。

つづく

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2010年09月03日

北軽井沢ブルーベリーYGH10周年 11

北軽井沢ブルーベリーYGH10周年 11

 問題は経営危機に陥っているペンション・北軽井沢ブルーベリーのことです。北軽井沢ブルーベリーの再建をスタートさせる前に、ある問題点が出て来ました。その問題点というのは、ペンション経営をまかせていた友人が、ペンションにすっかり嫌気がさしてきているということでした。そして嫌気がさしている友人は、
『俺は北海道でやりたい』
と言うのです。北軽井沢には永住する気は無いというのです。

 まあ、仕方ないことですが、そうなると困った。
 北軽井沢ブルーベリーの再建計画が、
 白紙に戻ってしまったからです。
 すべての計画が一からやりなおしになりました。

 他の大勢の友人たちには、民宿『千葉荘』に行ってくれとたのんである。だから北軽井沢ブルーベリーへの応援は見込めない。嫁さんは、仕事はやめられないし、辞めたら唯一の安定収入が途絶えるし、おまけに友人が、富良野の転出するのは、2001年1月11日に決定しており、期限は刻々と迫ってきていました。再建計画を変更するのには時間は、あまりにもありませんでした。おまけに料理の練習も、家の引き継ぎも、引っ越しも、何もかもできてなく、準備は何一つできていません。

 そんな時に、日本ユースホステル協会から電話が入りました。
「施設をみせてほしい」
とのことでした。
「ああ、どうしよう? 何一つ準備はできてない」

 私の進退は、ここにきわまりました。

こういう場合、一番大切なことは、優先順位を見つけることです。再建計画を変更するのも、料理の練習も、家の引き継ぎも、引っ越しも、集客のための営業も全て後回しにして、日本ユースホステル協会の認可をとるべく、施設のリホームを行うことにしました。

 まず最初に手をつけたのが、外回りです。
 外装のリホームです。

 施設というものは、見た目が一番大切ですから、それを大胆に修繕することからはじめました。と言っても金はありませんから、全て自分の手で行いました。脚立・スライダーなどの足場と、塗装器具・ペンキなどを買ってきて、1週間がかりで、外装工事を行いました。さいわい、高所作業(とび職)の仕事をした経験があったので、外装工事はなんとかなりました。

 次に内装工事です。これは、それほど傷んでなかったので、ワックスを塗ったり、掃除や小さな工事でなんとかなりました。窓ガラスもサッシもピカピカにしました。で、日本ユースホステル協会の視察の方を待ったんですが、やってきたのが日本ユースホステル協会の小俣さんと、群馬県ユースホステル協会の河野さんでした。

 で、3日後、日本ユースホステル協会から電話がありました。

「北軽井沢ブルーベリーYGHのユースホステル契約が決まりました」

 嬉しかったですねえ。
 本当に嬉しかった。

 しかし、難問も待ち構えていました。日本ユースホステル協会から
「できるだけペンション客を入れないように」
という条件がついていたからです。

「えええええええええええええ? ペンション客を入れずして、どうやって集客しろというのか?」

 これは、契約解除となった北軽井沢ウインデーベルユースホステルが、ホステラー(つまりユースホステル会員)とペンション客の間にトラブルがおこったことが原因らしい。しかし、北軽井沢ブルーベリーの再建計画は、ペンション客の集客を中心に組み立ててあります。いまさらペンション客を入れるなと言われても、代わりにホステラーがくるわけではありません。

 事実、北軽井沢ブルーベリーYGHが、ユースホステルとしてオープンしても、しばらくの間、ホステラーは来てはくれませんでした。最初の3ヶ月間は、ペンションしかいなかったのです。ですから、ユースホステルに認可されたからと言って、ユースホステルの会員が泊まりに来てくれたわけではなかったのです。逆に全く泊まりに来てくれなかった。不思議なくらい、誰も来なかった。

 ユースホステル開業する前に聞かされていたことは、「ユースホステルをオープンすると、そのオープンを狙って会員が、ドットおしかける」という事でしたが、北軽井沢ブルーベリーYGHが、オープンした開所記念に泊まった御客様は、たった4名で、うち会員は、たったの2名でした。つまり半分がペンション客。そして、その後、2週間ちかく御客様はいませんでしたね。

 しかし、幸か不幸か、その2週間の間に、料理の練習や、雪道で自動車を走らせる練習ができたし、冬の観光地の調査もできました。ホームページの検索エンジン登録作業や、建物のリホームも同時進行で行えました。ただ、全く、御客様が来ないのには参ってしまった。

「このままでは、干上がってしまう」

 私は決心しました。
 最後の手段を使うことを!


つづく

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2010年09月04日

北軽井沢ブルーベリーYGH10周年 12

北軽井沢ブルーベリーYGH10周年 12

 ユースホステル開業する前に聞かされていたことは、「ユースホステルをオープンすると、そのオープンを狙ってユースホステルのヘビーユーザーが、ドットおしかける」という事でしたが、そんな事は無かった。
 北軽井沢ブルーベリーYGHが、オープンした開所記念に泊まった御客様は、たった4名で、うちユースホステル会員は、たったの2名でした。

 しかも、その後2週間ちかく御客様はゼロ状態。

「このままでは、干上がってしまう」

 2001年1月の暖房費は、10万円。電気代は、8万円。何もしなくても、毎月30万くらいが消えて行ってしまう。おまけにインターネット代が3万円。当時は、北軽井沢にフレッツadslというものがなく、インターネットに莫大な費用がかかっていました。おまけに、引き継ぎが完璧でなかったために、水道管の凍結や、ボイラーの故障や、下水が凍結で流れなくなったりで、おおわらわ。

 業者を呼んで修理を頼んだのですが、腕の悪い職人さんだと、

「あきらめるしかないですね」
「え?」
「壁と床を壊しましょう」
「そ、そんな.....」

と言ってきます。

 あきらめの悪い私は、別の業者を呼びました。
 それも金にいとめをつけずに一番腕の良い人をたのみました。
 職人さん一人の時給は、2500円。
 高額な修理費用にはなりましたが、
 壁を壊さずなんとか修理をしてもらいました。

 と同時に、業者まかせにせずに一緒になって修理をしました。
 もちろん食事や茶を出して一緒に修理しながら修理方法を教わりました。
 次は、自分でやるために。

 こうやって冬期の施設メンテナンスを覚えていくと、すこし余裕が出てきます。
 やっと御客様の呼び込みにでられるようになってきます。
 ちなみに、ここまでくるのに2週間もかかりました。
 逆に言うと、2週間、ずーっと施設メンテナンスにかかりっきりだったのです。

 まず、嬬恋村観光協会に挨拶にいき、嬬恋村が広告雑誌じゃらんに掲載する無料宿泊券を提供することにしました。で、そのかわりに、嬬恋村の広報ビデオなどを借りまくってダビングしたり、御客様がいたら紹介してもらうようにしました。しかし、これは無駄でした。そもそも嬬恋村観光協会に、問い合わせ自体が少なかったらしい。でもまあ、これは最初から期待してなかったです。私が気合いを入れたのは、軽井沢駅での呼び込みです。

 車で40分もかかる大雪の真冬の軽井沢駅にいって客引きをしたのですね。最初は勇気がいりましたが、やってみると、これが案外うまくいきました。4人ぐらいのグループをみつけては、

「冬期割引セールのペンションに泊まらない? 1泊2食6500円。4名様の貸し切りペンション。しかも、白糸の滝や、鬼押し出し園まで無料で案内するよ」

と声をかけると、意外なことに直ぐに交渉成立しました。
たまに

「うーん」

と迷ってると、

「なら野鳥の森の案内もつけゃおう」
「ええ?」
「ついでに星野温泉も連れて行きましょうか?」
「本当ですか?」

となってしまう。

観光協会に行こうとする御客様を見つけては、
こういう営業で北軽井沢ブルーベリーYGHに連れて行ったのです。

 ただし、この方法だと、1日1件の御客様しかとれません。
 でも、もともと予約はゼロなので、
 1件はいれば大助かりなので問題有りません。

 他のペンションだと、御客様がいない冬は、
 どこかでバイトしているらしかったのですが、
 時給700円でバイトするより、駅で客引きする方が
 よほど金になります。なのに誰もやる者はいない。

「どうして、誰もしないのかなあ?」

と不思議に思っていたら、その理由がすぐにわかりました。
何回かやっていると、警察がやってきて、
駅で客引きをしてはならんと言ってきたからです。
な、なるほど..........orz

つづく

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posted by マネージャー at 15:52| Comment(1) | テーマ別雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月28日

北軽井沢ブルーベリーYGH10周年 13

北軽井沢ブルーベリーYGH10周年 13

 ユースホステル開業する前に聞かされていたことは、「ユースホステルをオープンすると、そのオープンを狙ってユースホステルのヘビーユーザーが、ドットおしかける」という事でしたが、そんな事は無かった。北軽井沢ブルーベリーYGHが、オープンした開所記念に泊まった御客様は、たった4名で、うちユースホステル会員は、たったの2名でした。しかも、その後2週間ちかく御客様はゼロ状態。

「このままでは、干上がってしまう」

 2001年1月の暖房費は、10万円。電気代は、8万円。何もしなくても、毎月30万くらいが消えて行ってしまう。おまけにインターネット代が3万円。当時は、北軽井沢にフレッツadslというものがなく、インターネットに莫大な費用がかかっていました。おまけに、引き継ぎが完璧でなかったために、水道管の凍結や、ボイラーの故障や、下水が凍結で流れなくなったりで、おおわらわ。

 で、車で40分もかかる大雪の真冬の軽井沢駅にいって客引きをしたのですね。最初は勇気がいりましたが、やってみると、これが案外うまくいきました。しかし、何回かやっていると、警察がやってきました。で、客引きをしてはならんと言ってきました。

 困った私は、カー用品店のイエローハットに行きました。イエローハットに行けば、鍵山さんの本がある。そこに何かヒントがあるはずだと。で、吹雪の中、御代田のイエローハットに行き、鍵山さんの本をかたっぱしから読み始めました。で、鍵山さんが過去に映画を作っていることに気がつきました。


イメージ-01.jpg


 北軽井沢ブルーベリーYGHには、たくさんのビデオが置いてあります。かれこれ2000本くらいになります。人気ビデオもあれば、誰も見ないビデオもある。その誰も見ないビデオの一つに、
『てんびんの詩』
という映画があります。鍵山さんが作った映画です。

 で、全くヒットせずに誰にも知られず埋もれてしまった映画です。
 映画マニアの私も知らなかった。
 それだけに幻の映画だった。


 軽井沢駅で客引きを禁止されたあと、御代田のイエローハットで鍵山さんの本を読んでいたら『てんびんの詩』という映画をイエローハットが制作したことがあると書いてあった。直感的に
「ここにヒントがある」
と思った私は、その作品を探しに車を走らせました。佐久・上田・軽井沢・小諸・御代田のレンタルビデオ屋さがしました。

 吹雪の中でした。
 家に帰らず、
 車の中で仮眠をとりながら、
 何十軒ものレンタルビデオ屋をまわり、
 なんと長野市内のレンタルビデオ屋で、ようやく見つけました。

 それも、レンタルではなく、中古落ちで、たったの33円で売られていました。もっと正確に言うと、3本で百円のコーナーに乱雑にやまずみされていました。それもエロビデオと一緒に。

 ちなみに『てんびんの詩』は、Yahoo!オークションで五千円もします。

http://auctions.search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%81%A6%E3%82%93%E3%81%B3%E3%82%93%E3%81%AE%E8%A9%A9&auccat=&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&tab_ex=commerce

 今でこそ、このビデオが見直され、高値が付いていますが、まだ鍵山さんが、今ほど有名でなかった2001年当時は、たったの33円でも売れてなかったのです(もっともビデオは33円だったけれど、探すためのガソリン代は1万円以上した)。しかし、これを見つけた私は、大喜びで北軽井沢ブルーベリーYGHにもどり、飯も食べずにビデオを見ました。ビデオの内容は、このようなものです。

 近江商人の家に生まれた主人公は、小学校を卒業すると、父から鍋蓋を売ってこいといわれます。それを売ることもできないようなら商家跡継ぎにはできないと。おまけに、丁稚小僧と同じ服装をさせられ、家族ではなく使用人と一緒に飯を食べるようにいわれ、弁当にいたっては、梅干ししか入ってない御飯しかない。

 そんな境遇に不服な主人公は、さっさと鍋蓋を売るために、店に出入りする者の家に行き、親の威光を使って売ろうとするが売れない。かげで父が手をまわし、修行の一環であることが知れ渡っているからです。ですから、もみ手で媚びたり、脅したり、嘘をついたり、いろんな小細工をするが売れない。そういう小細工では、いっさい売れないのです。

 だいたい鍋の蓋です。
 売れるわけがない。
 蓋のない鍋があるわけがないから、売れるわけがない。
 3ヶ月間。一つも売れない。

 しかし、ある事がきっかけで、何十個も売れるようになるのです。
 しかし、そのきっかけとは・・・・。


tenb.jpg


 『てんびんの詩』を見終わった私は、まさに鍵山さんらしいテーマだなと思いました。忘れかけていた商売の原点というものを改めて考えさせられました。売る者と買うものの心が通わなければ売れないと。人の道にはずれて商いはないと。見終わった後にボロボロと涙が落ちて止まらなかったです。

 そして、見終わった直後に予約の電話がかかってきました。死ぬほど、ほしかった予約ですが、当時の北軽井沢ブルーベリーYGHは、その御客様のニーズと合わなそうだったので、お断りし、別の宿を紹介し、いろいろな旅のアドバイスをしました。すると、その御客様が、別件で、別の日の予約をしてくれました。「お前の宿に興味をもったから泊まりたくなった」と言うのです。私は、御客様をお断りすることによって、御客様の予約を頂いたんですね。

 御客様が来ない。
 だから、必死になって御客様を集めようとし、
 宿にあわない御客様をとめたりする。
 媚びたり、嘘をついたり、小細工して御客様を泊めようとする。
 これは、『てんびんの詩』の鍋蓋売りの少年と一緒です。
 しかし、これでは鍋の蓋は売れません。

 私、北軽井沢ブルーベリーの経営を半年間、友人にまかせても全く収益が上がらなかった理由が分かった気がしました。友人がやっていた1年間、リピーターがゼロだった理由も分かった気がしました。私は、友人が宿主をやっているあいだ、旅行代理店を回ったり、チラシを配ったり、大金をかけて宣伝をしたり、集客のために走り回ってばかりいたわけですが、一度も実際に御客様と向き合ってなかったんですね。

 もっとも、当時の私は、埼玉県に住んでいたわけで、向き合いたくても向き合えなかったわけですが、それでは駄目だったわけです。そもそも友人に、宿の経営を任せたのが間違いであって、どんなに「俺にやらしてくれ」と言っても心を鬼にして断るべきだったのです。しかし、アマちゃんだった私は断り切れなかった。で、御客様と向き合わずに宣伝ばかりしていたのです。これでは、うまくいくはずがない。

 これが分かってから北軽井沢ブルーベリーYGHは、快進撃するようになりました。まず、リピーター1号が現れました。1年間、リピーターがゼロだったのに、たったの2週間でリピーターが現れ始めました。それもユースホステルの御客様ではなく、ペンションの御客様です。

 私は初年度に、250万円の宣伝費をかけました。今は、ほとんど宣伝費は使っていません。250万円の宣伝費をかけて、リピーターはゼロ。今は、ほとんど宣伝費は使っていませんが、7割の人がリピートしてくれます。これも全て『てんびんの詩』のおかげであり、鍵山さんがくれたヒントのおかげだと思っています。


 北軽井沢ブルーベリーYGHには、2000本のビデオがあります。
 人気ビデオもあれば、誰も見ないビデオもある。
 その誰も見ないビデオの一つに『てんびんの詩』があります。
 制作されたのは、1988年。
 バブルの頃の作品です。
 バブルの頃に、こんな作品を作った会社があったんですね。
 けれど全くヒットせず
 誰にも知られず埋もれてしまった映画でした。
 そのビデオは、北軽井沢ブルーベリーYGHのビデオコーナーでも
 人知れず埋もれていました。
 あまりに地味でボロボロのビデオだったために、
 いつだったか、嫁さんがゴミ出そうとしていたのを、慌てて救い出し、
 今は、私の本棚に置いてあります。

つづく

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posted by マネージャー at 17:50| Comment(6) | TrackBack(0) | テーマ別雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月28日

老人たちの話し 1

老人たちの話し 1

 どうも昔から私は、老人に好かれる傾向がありました。
 で、それに思い当たることが無くも無かった。

 私は、子供の頃、親元を離れ佐渡島の僻地で年寄りに育てられていた。
 それも、たったの3年間。
 0歳から3歳の間だけだった。
 3歳になった時、その僻地を去ったわけですが、
 僻地で御世話になった年寄りたちとは、
 その後も十数年の交流がありました。
 みんな私の顔を見に遊びに来たからです。
 そして、別れ際に大粒の涙を流しながら、こう言うのです。

「お父さんと、お母さんの言うことを聞いて、行儀良くするんだよ。お父さんたちに心配かけちゃだめだよ。みんなに、ありがとうの気持ちを忘れてはだめだよ」





 幼少の頃、私は父親・祖母の顔を知りませんでした。
 母親と一緒に佐渡島の北片辺というところに住んでいたからです

 母親は、小学校の教師で、当時は僻地だった北片辺小学校で働いており、私はベビーシッターに育てられていたわけです。ベビーシッターと言っても村の年寄り連中のことです。北片辺の老人たちに預けられていたんですね。昔の日本には、こういうベビーシッター制度がどこにでもあったんですね。でないと、子供を置いて、山の畑や、海の漁には出られなかった。

 で、私は、北片辺の老人たちにいたく可愛がられたわけです。たった3年だけれど可愛がられた。そして、その後も十数年の交流が続いたんです。連休なんかになると、北片辺から老人たちが軽トラに乗ってやってきて、私を拉致するように北片辺に連れて行った。そして北片辺で一緒に遊んだのです。ですから私の老人好きは、幼児の頃に原点があった。





 ところが3歳になると状況が変わってきた。
 弟が生まれたのです。
 母と0歳の弟は、北片辺に行ってしまった。
 母とは、離ればなれになってしまった。

 私は、実家で、父と祖母と一緒に暮らすことになった。今まで見たことも無かった父・祖母と暮らすことになった。ところが、私は、この父・祖母と相性が良くなかったのです。あまり可愛がられた記憶が無い。殴られた記憶しか無い。父も祖母も厳格なタイプで、幼少の頃の私は、なつかなかったようです。

 私が生まれつきの難聴だったことも、親子関係を悪化させたようです。父親の言語を理解できないために、父親を激昂させてしまい、よく殴られたり、2階の物置に閉じ込められたりしたしました。で、どうなったかと言いますと、近所の老人たちと毎日あそぶようになった。私の両親や祖母は、私と遊んでくれる近所の老人たちのことを
「淋しい人たち」
と思っていたようですが、それは逆でした。淋しかったのは私の方で、私から老人たちに近づいていったんですね。そんなこととは知らない私の両親や祖母は、
「どうも近所には子供好きの老人が多いなあ」
と勘違いしていたようです。

 それにしても良い時代でした。4歳の幼児が、(つまり私のことですが)、近所の庭先で仕事している老人をボーッと見ていると、こっちへ来なさいと手招きしてくれて、いろいろ話し相手になったり、御菓子をくれたり、自宅の飼犬や飼猫を紹介してくれるのですから、今では考えられないことです。こうして私は、いろんな老人たちと知り合いになっていった。


siruber-08.jpg


 そして、しばらくたつと仲良くなった老人たちが私に「自分の人生」を語り始めました。と言っても4歳の私に本当の意味が分かるわけがない。戦争の事とか、騙されたこととか、駆け落ちしたこととか、息子が家出したこととか、4歳の幼児に意味が分かるわけがないんです。しかし、彼らは、同じ事を繰り返して何回も何回も言うんですね。それは厳密に言うと「ひとりごと」だったのかもしれません。しかし「ひとりごと」を何回も言うものだから、ボイスレコーダーのように4歳の幼児の脳みそに記憶されてしまった。

 今でもハッキリ思い出せる。恐ろしい話や楽しい話しでいっぱいだった。幼児の頃の私は、ものすごい無口だったから老人たちは、ついつい「ひとりごと」を言ってしまったのかもしれない。これは後日わかったことですが、老人の中には元731部隊の将校もいたけれど、彼も私に「ひとりごと」を言ってました。

 長い前置きになりましたが、ここからが本題です。
 
 私が10歳を越えた頃には、誰も私に「ひとりごと」を言わなくなった。私に知恵がついてきたら、みんな黙ってしまったんです。質問しても答えてくれない。例外的に答えてくれた人はいたけれど、7割の人は、とぼける。中には、本当にボケた人もいたかも知れないけれど、大半はボケたふりをしたんですね。ある時期からは、老人たちは、肝心なところで無口になってしまった。

 1970年(昭和45年)頃のことです。
 70年安保があった時代。
 この頃を境に、世の中が変わっていたんですね。

 そして、1970年(昭和45年)頃に、私は母親と上京し、
 東大病院で難聴の診察をうけているんです。
 その時に、安保闘争のあった東大安田講堂を見学しています。
 私が小学2年生の時です。
 私は、この東大の大学病院の耳鼻科で、ものすごい衝撃を受けることになります。


つづく

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2011年05月29日

老人たちの話し 2

老人たちの話し 2

 1970年(昭和45年)頃に母親と上京し東大病院で難聴の診察をうけました。
 私が小学2年生の時です。
 私は、この東大の大学病院の耳鼻科で嫌な体験をしました。





 東大病院は大きかった。
 患者も大勢いました。
 行列も凄かった。
 最初は、母親の付き添いで診察を受けましたが、検査は一人で受けさせられました。
 大勢が順番待ちで、部外者は列に並べなかったからです。

 で、一人で検査を受けるはめになりましたが、検査前に説明書を読まされました。
 しかし、読めない。
 難しい漢字が、いっぱい書いてあって読めない。
 せめてルビが振ってあれば、意味がつかめるのですが、それもないから読めない。
 小学2年生になったばかりの子供には

「高音」「低音」
「聴く」
「致します」
「御願いします」
「下さい」

という文字は強敵なのです。まだ習ってない。

http://www.jfecr.or.jp/kanji/sakuin.html

 例え文字を習っていても「致します」は読めない。
 読めたとしても意味を理解するのは難しい。
 どうして良いか、オロオロしているうちに、
 自分の番が来てしまった。
 そして病院の人が事務的に

「説明書は読みましたか?」

と怖い顔で聞いてくる。私は恐る恐る

「(読んだけれど)分かりませんでした」

と答えました。すると

「駄目じゃ無いの! 大勢の人が待ってるんだから無駄な時間をつかわせないで」

と、とりつくしまもなく

「きちんと読んでから来なさい」

と怒られて、もう一度、一番後に並ばせられました。

 もう反論というか、言い訳できる感じでは無かったです。
 私は列の最後でボーゼンとするしかなかった。
「きちんと読んでから来なさい」
と言われても、そもそも小学2年生に理解できる説明書でないわけですから、どうしようもない。

 しかし、そうこうしているうちに、また自分の番が近づいてくるんですが、分からないものは分からないですから、自分の番が近づいてくると、だんだん恐怖をおぼえてくる。幼かった自分は、怒られるのが嫌で、また最後尾にまわってしまった。で、超能力を使って説明書を解読しようとしていたのですが、解読できるわけが無い。どんな念力を使ったところで分からないものは分からない。





 これが大人なら隣の人に聞くなどの知恵が働くのですが、佐渡島の田舎から上京したばかりの小学2年生には無理な相談。だいたい昨日まで2階以上の建物を見たこともない子供なんです。エスカレーターも、エレベーターも、自動ドアも知らない土人として育った子供ですから、まわりにいる背広を着た東京の大人たちなんて、エイリアンぐらいにしか見えない。

 第一、私が困っていても、みんな無視している。
 こんな時、佐渡島の老人たちなら困っている子供がいたら
「どうしたの?」
 と聞いてくれるけれど、東京大学の病院に来ている大人たちは
 エイリアンみたいにムスッとしている。
 だから怖い。

 で、何時間も、もじもじしているうちに母親が
「遅いぞ、変だな」
と気がついて見に来ました。

 そして、母親の助けを借りて、ようやく説明書の意味を解読することができたんです。

 当時の東大病院は、一事が万事、こんな感じですから、いまだに私は東大医学部というものを信用していません。患者よりも、病院の都合を優先してできているという体験を小学2年生の時に刷り込まれてしまったからです。こういう病院が、正しい診療が出来るはずがないと、いまだに偏見をもっています。幼い頃に刷り込まれた体験は、この歳になっても残っている。


つづく

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2011年05月30日

老人たちの話し 3

老人たちの話し 3

 先日、1年ぶりに友人が、北軽井沢ブルーベリーYGHに遊びに来てくれました。
 彼女は、ワーキングビザで1年間フランスに滞在していました。
 仕事は、ベビーシッターです。
 これは、その彼女との会話

「ベビーシッターか、いい制度だね。日本も、その制度を活用すれば良いのに」
「いや、フランスだってベビーシッターを雇える家は少ないです。フランスでも、お金持ちでないとベビーシッターなんか

、とてもじゃないけど雇えません」
「はあ? それ変だよ」
「?」
「言っちゃなんだけれど、俺は幼児の頃にベビーシッターの御世話になって育ったんだから」
「あ!」

 古いつきあいなので、彼女は私の幼少の頃を知っています。私がベビーシッター(村の老人たち)の御世話になって育ったことを知っていたので「あ!」と声をあげたのです。私は、今年で五十歳になりますが、私の世代の佐渡島の人間は、多かれ少なかれベビーシッターの御世話になっています。子供を近所どうしで預けあったりしているのです。そして、その時の話題が、ずーっと後になってでてくるのです。





 例えば、私の弟は、近所に預けると、ワンワン泣いて手におえなかった。
 だから、こっそり逃げるように去って行った。
 それが、数年後に茶の間の話題になる。

 私の場合は、逆に近所の人と馴染んでしまい、
 嫌がることが少なかった。
 それが、数年後に茶の間の話題になる。

 私も弟も、こんなぐあいにベビーシッターを体験している。
 しかし、当時の私のうちの家庭は、
 金持ちどころか貧乏人もいいところだった。

 いや日本中が貧乏だった。
 だからベビーシッターといっても、
 時給を払ったかどうかは知らない。
 払ってなかったかもしれない。
 払う代わりに、店の品物を買ったりしたのかもしれない。
 これは今じゃ考えられないことかもしれない。

 あと、ベビーシッターの多くは老人だった。
 それも、よく話しをする老人だった。
 しかし、体力は無かったと思う。
 みんな、杖をついていた。

 今じゃ、杖をついている老人なんか見たことが無いけれど、
 昔は、老人の大半は腰が曲がっていた。
 杖無しでは歩けなかった。

 子供の頃から田畑で働いていたから四十歳を過ぎた頃から腰が曲がってしまっていたのだ。で、農閑期に温泉に行っていた。春までに温泉で曲がった腰を元に戻さないと、身体が壊れてしまうのだ。そういう次第なので、六十過ぎの老人たちは、みんな腰が曲がっていた。だからベビーシッターできるような体力は無い。腕力で子供を押さえつけることなど不可能なのです。

 で、彼らは、どういう技を使って子守をしたかというと、話術で子供たちを惹きつけるしか無かった。昔話・民話なんかがそうで、いくらでも「話」をもっていました。とはいっても、無限に話があるわけでは無い。同じような話を何度もするようになる。しかし、これが飽きない。古典落語のように飽きない。

 話は、昔話だけでは無い。「ひとりごと」も言う。つまり自分の人生のお話し。実は、これが一番面白かった。昔話よりも面白い。なにせ語り手が興奮して語るので、その熱気が伝わってくる。もちろん幼児には意味は分からない。でも何度も聞いているので、全て暗記してしまう。だから今でも全部覚えている。というか忘れられないのだ。

 例えば、シベリアの秘境の話。家を建てたら夏になると泥の中に沈んでしまった話。河で魚を捕るときに、爆弾を使って魚を気絶させて手づかみで捕まえた話。青森市の話。青森の床屋で働いていたら「父危篤」の電報がきて、大急ぎで佐渡に帰ったら嘘電報だったうえに見合い相手が待っていた話。そんな話を毎日のように聞かされた。というか、意味も分からずに面白がって聞いていた。





 年老いたベビーシッターたちは、こういう話をしながら私の子守をしつつ、
 竹細工なんかを作っていました。

 ちなみに、その竹細工は、役場の人が老人たちに作らせていた。
 役場が老人たちに竹細工を作らせて、どこかで販売していた。
 生活に困った老人たちを助けるためです。

 その役場の人と、四十年後(2003年)に佐渡島のドンテン山の
 山小屋(ドンテン山荘)でバッタリあったりもした。
 もちろん私は覚えてないし、初対面もいいところだったけれど、
 相手は私を知っていた。
 その時には、佐渡の図書館の館長だった。
 しかし、昔は、老人に竹細工を作らせる役場の担当者だった。


http://www.ryotsu.sado.jp/donden/


 話は脱線するが、佐渡島のドンテン山の山小屋は、日本一人気のある山小屋で、泊まることさえ難しい山小屋だった。私は地元のコネで泊めてもらった。客室ではなく、ピカピカの天文観測室に泊めてもらった。ちょうど、土井君も一緒だったが、彼は、例によってアルコール中毒の悪い癖がでてしまい、酒を飲み過ぎた土井君は、ピカピカの天文観測室でゲロを吐いた。

 偉大だったのは、ペンション「歩゚風里」のオーナーの三苫さん。
 すかさず、自分の手で土井君のゲロを受け止めた。

「宿がゲロまみれにしては、翌日に泊まる御客さんに迷惑がかかる」

と咄嗟にとった宿主らしい行動だった。
「歩゚風里」のオーナーの三苫さんは、私たちの間で英雄になった。
逆に地に落ちたのが土井君の評判。
しかし土井君の悪い癖は、あいかわらず治ってない。


つづく

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2011年05月31日

老人たちの話し 4

老人たちの話し 4

高校3年生の時(1979年11月)、あるテレビドラマを見ました。
私の人生が変わってしまったのは、そのテレビドラマからです。
そのテレビドラマには、素晴らしい曲が流れていました。
英語の曲でした。
日本語にすると、こんな歌詞です。


 大地に日は昇る。
 一日がやってきた。
 頭上には太陽が輝いている。

「けれど、その太陽は、
 どのくらい、そこにいるのだろうか?」

 地平線から日が昇る。
 大地は、日光を食べ尽くす。
 一瞬で食べ尽くす。
 そして太陽は西の方に沈んでいく。



作曲:Yukihide Takekawa
作詞:Yoko Narahashi

The land of the rising sun
Has come to see the day 
The sun is overhead
But how long will this sun stay

The sun rose over the horizon
And the land ate up its rays
It ate too much too fast
And it took on western ways

It's burning bright above
But it's burning up all the land
And the sun will set in time
And rise on a vast new land

The sun is setting on the West
The sun is rising on the East


YouTubeで、その曲を聞いてみてください。



ゴダイゴの曲でした。

「太陽は、いつまでも頭上に無い。
 いつか西に沈んでいく」

この歌詞の本質を一番わかっているのが老人たちかもしれません。
「少年老いやすく、学なりがたし」
とは、よく言ったものなのです。

 それはともかくとして、1979年11月に私は『男たちの旅路/車輪の一歩』というドラマをみました。まだ見たことがない人は、ぜひ見ていただきたいです。私の友人の多くは、私に無理矢理に見させられています。昔は、定期的に上映会をひらいていたからです。

 『男たちの旅路』とは、どんなドラマかと言いますと、過去を背負った特攻隊の生き残り(鶴田浩二)と、チャラチャラした若者(水谷豊)のぶつかり合いのドラマです。特攻隊の生き残り(鶴田浩二)は、戦争を知らない若者が大嫌い。逆に若者(水谷豊)は、特攻隊くずれの高圧的な男(鶴田浩二)に反発する。そういうドラマなのです。





 まあ、そんなことはいいとして、このドラマに感動した私は、上京してすぐに警備会社のアルバイトをはじめました。警備会社には、このドラマにでてくるような吉岡指令補(鶴田浩二)のような人間がいるのではないかと思ったからです。今にして思うと、我ながら、ずいぶん単細胞な頭だなあと思いますが、驚くべき事に、ドラマに出てくるような警備員に、吉岡指令補(鶴田浩二)のような警備員に会うことができました。

 当時、不況でしたから警備会社には、いろんな人たちがいました。会社の重役だった人までいました。40万円の失業保険をもらっていた人もいたんです。しかし、会社が倒産して働き口が無く、警備会社に入ってきた元大企業の重役さんなんかがいたりしました。大工さんとか、元特攻隊員の生き残りとか、いろんな人たちがいました。私は、そういう人たちから、敬礼の仕方や、答礼のしかたを習い、ビル警備のアルバイトをしました。深夜のビルを守る仕事です。

 当然のことながら夜は長いですから、世間話に花が咲きます。まだ世間知らずの18歳だった私は、年輩の警備員さんのお話が面白くて、いろいろな人生のお話を伺いました。もちろん私が、聞き役です。なにせ、私には語る人生が無い。しかし、諸先輩には、まぶしいくらいの人生経験がある。だから、話が面白くてたまらない。だから話を聞いてばかりいました。







 しだいに私は、みんなから可愛がられるようになり、
 居心地のよい職場になってきました。
 ここで一生を暮らすのもいいなと。

 しかし、ある日のこと。
 諸先輩一同が、ズラリとあらわれて私に、こう言いました。

「警備員をやめなさい」
「いい若い者がする仕事では無い」

 これには参った。私は、この警備会社に就職してもいいかなと思ってた矢先だったからです。しかし、私を可愛がってくれた諸先輩達は、真剣に私のことを心配してくれてるようなのです。

「お前は、何かやりたいことはないのか?」
「警備会社に入って、いろんな人生をみたいんです」
「どうして、そう思った?」
「『男たちの旅路』というドラマを見て感動したからです」
「あれは、ドラマだぞ。フィクションだ。作り話に感動してどうなる?」
「でも感動したんです」
「・・・・・」
「・・・・・」
「あのなあ、お前を感動させたのは、警備会社じゃない。山田太一という作家が、考え出した脚本だ」
「山田太一?」
「なんだ、そんなことも知らなかったのか? 日本で最も有名なシナリオライターだよ。この人が作った警備員の話が、大勢の視聴者を感動させたんであって、実際の警備会社は何一つ関わってないんだよ。お前は、警備会社に感動したんでは無くて、山田太一に感動したんだ」
「・・・・・・」
「お前には、将来がある。いい若いもんが、最初から警備員をめざしてはだめだ。もっと可能性にチャレンジしろ。真面目に学校に行って、たかみをめざせ。警備員になるのは会社が倒産してからかも事業に失敗してからで良い」

 特に倒産した製紙会社の元重役だった人が、熱弁をふるって私の警備会社就職に反対しました。私は、この人を尊敬していましたから、その忠告を聞き入れました。そして図書館に行き、山田太一氏の本(脚本)をかたっぱしから読破することにしました。で、読み始めたとたんに体内に電流が走りました。どのドラマも私が大好きだったドラマだったからです。





 当時はインターネットもパソコンもありません。そのうえ私は田舎に住んでましたから、テレビ局は民放が一局しかなかった。テレビを見るにしても、脚本家の名前なんか一々調べはしなかったから、山田太一なんて名前は知らなかった。にもかかわらず、私が好きだったテレビドラマの大半が山田太一さんの作品だった。私は自分でも知らないうちに山田太一ワールドを好んでいたのです。

 特に『高原へいらっしゃい』が好きだった。

 中学2年生の時に見て感動し、将来、自分もホテルマンになりたいと思っていました。中学校の時は、山田太一さんのドラマでホテルマンになりたいと思ったし、高校の時は、山田太一さんのドラマで警備員になりたいと思って上京しました。いまにしてみれば、えらい単細胞な話ですが、結果として私は、ユースホステルのマネージャーになっています。『男たちの旅路』の世界ではなく、『高原へいらっしゃい』の世界を選んだわけです。



つづく

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2011年06月01日

老人たちの話し 5

老人たちの話し 5

ちょっと脱線します。
ベビーシッターについて御本人から面白いコメントがついたもので。

「マネージャーさん! お金持ちでないとベビーシッターを雇えないんじゃなくて、他人が自分の家で一緒に住むと言う形が日本では感覚的に浸透しにくいんじゃないかっていったんですよ〜。場所の問題もあるし。でも、感覚ってことであればマネージャーさんの子ども時代のお話や、そういえば私の母が子どもだった頃の家には色んな人がいたって話も思い出して、あ!と思ったんです。やっぱり核家族化してきてから今の感覚になってきたのかな」


昔は、ふつーに他人が家に住んでましたからね。
幼児の私と母親は、ふつーに他人の家に住んでいたし、
そこには、村の年寄りをはじめとして、
大勢の子供たちがふつうーに出入りしてました。

もちろん鍵なんかありゃしない。
どこの家にも全く無かったと思います。
泥棒がいたら入り放題!





 この風景が、今の人には分かりにくいと思いますから、
 もう少し具体的に書いておきます。
 でないと昔の佐渡島の風景を知る者がいなくなってしまう。
 佐渡島民だって、知らない人が多いと思います。


 私が幼児の時に御世話になった家には、いろんな人が自由に出入りしていました。それこそ家族みたいにです。御客さんとしてではありません。だから自由に出入りし、コタツに入って温まっていても、菓子が出るわけでも、茶が出るわけでも無い。ふつーに世間話するだけです。家族に菓子や御茶を出さないのと一緒です。


 そこのおばさんと買い物に行って帰ってくると、玄関に杖がある。
 すると
「◆◆のバアがきたな」
と言う。

 杖の形で、これは◆◆のバア。これは◇◇のバア。と、一発でわかる。
 下駄や草履ではわからない。
 留守中に◆◆のバアが、来たのですが、
 買い物で留守だったので、勝手に上がり込んでコタツにあたっていたわけです。
 全ての家に鍵が無いから、自由に上がることができたんですね。

 で、コタツにしても、豆炭コタツなので、朝にセットしたら夜まで暖かい。電気コタツのように買い物の時に電機を切る必要も無かったんです。ちなみにコタツは掘りコタツです。いろんな人が出入りするので、堀コタツでないと、足が邪魔になって大勢が入れない。もちろんストーブなんてものはない。あっても囲炉裏・火鉢だけです。

 家に入ると◆◆のバアが、勝手に堀コタツに入って待っていました。
 今なら「何の用?」と聞くことになるのですが、
 当時は、用がある方が珍しい。
 用が無くて勝手に入ってくるケースが多い。

 で、おばさんは、勝手に家の仕事をはじめてしまう。
 私は、◆◆のバアとコタツで遊び始めます。
 こういうところも、下宿先のおばさんにとって、
 ◆◆のバアの存在はありがたかったと思います。
 ◆◆のバアにしてみたら、単に小さい子供と遊びにきただけでしょうが。





 ちなみに、どうして「◆◆のバア」と言うかと言いますと、昔の佐渡島では、名前で呼ぶことは少ないんです。自分の名前が重要になってくるのは、小学校に入ってからであって、いわゆる西洋文明にふれるまでは、名前というものは重要ではなかった。だから、みんな屋号でよんでいたんです。

 ◆◆というのは、屋号です。
 ◆◆の父ちゃんといえば、◆◆の主人のこと。
 その息子は、◆◆の跡取り。
 その母親は、◆◆のバア。

 で、佐藤智子なんて名前では呼ばない。屋号で呼ぶ。北軽井沢ブルーベリーの奥さん、北軽井沢ブルーベリーのバア。という感じで呼ぶんです。それがめんどくさい時には、「バア」とか「バアよ」という言い方をする。そうしないと集落全体が「佐藤」だったりするのでややっこしい。

 で、私が下宿していた家と、◆◆の家は、家族みたいにつきあっていて、共同で軽トラなんかを買っている。そして一緒に山仕事をしたりしている。そういう家が、何軒もあって、田植えとか稲刈りとか漁業で共同作業をするんです。

 しかし、共同作業をしつつも分業もする。例えば、私が下宿していた家では、男手が無かったために洋裁をしていました。毎日、村の人の服を作っていた。電気アイロンが無かったので、囲炉裏の炭なんかでアイロンを温めながら洋裁をしていた。ユニクロなんか無かった時代ですから、小さな子供服なんかは、みんな手作りです。

 思い出してみると、そこには原始共産制度が、しっかり生きていたような気がする。

 ちなみに、◆◆の家と、下宿していた家は、微妙に離れています。
 下宿していた家は、海に接しています。
 今は、堤防やテトラポットで台無しになっていますが、
 昔は綺麗な海と接していました。

 家の構造は、砂浜−船小屋−小さな畑−蔵−民家 という感じで細長ーい土地に、いろんな建物があって、海からの風や波を防ぐ構造になっていました。もちろん海側に窓なんかありません。窓は全て山側をむいていました。土地が海に向かって細長いのは、風と波をふせぐためだったんです。





 で、◆◆の家は、山側にあったのです。つまり漁師の家と、そうでない家が仲がよかった。親戚でも何でも無いのに仲がよかった。逆に漁師の家同士、つまり隣近所が仲がよかった記憶が無いです。あるいは仲がよかったのかもしれませんが、私の記憶だと、漁師同士が家族のように仲良くしていたというケースは覚えてない。それから察するに、海山で、お互いに助け合って生きていたのかもしれない。

 あと、佐渡で自動車を買い始めたのが、こういう僻地の農家でした。サラリーマンよりも、農家の方が車を先に買っているんです。しかも軽トラ。それを何軒か共同で買っている。耕耘機・トラクターなんかも共同で買って一緒に仕事をしている。しかし、買う前も一緒にしていた。共同で一斉に田植えや稲刈りをしていた。

 田畑は、山にあります。民家のある海から遠いですから、村から大人たちはいなくなります。そうなると腰の曲がった老人たちの出番です。三歳だった私は、真っ暗になるまで腰の曲がった老婆に引き取られます。小学校の教師だった私の母も、真っ暗になるまで小学校で働いていますから、私は、真っ暗になるまで老人と一緒の生活です。逆に言うと暗くなると母親が迎えがくることを体験で知っていた。

「真っ暗」

というのがポイントですね。
暗くなっても簡単に電気を付けなかったんですね。
で、暗闇な夜道を母親と二人して帰っていった。

 道には、たくさんの御地蔵さんがあったのを覚えています。なぜ覚えているかと言いますと、御地蔵さんは、いつも真っ赤な服をきていて、とても鮮やかだったからです。野ざらしなのに、いつも綺麗な真っ赤な服を着ていた。あれは、誰が着せ替えていたんだろう?

 外灯なんか無い時代ですから、真っ赤な服を着た御地蔵さんは、月あかりでみています。
 海というのは、海が月光を反射して、夜でも明るいんですね。
 ちなみに、この北片辺は、「民話・夕鶴」の発祥の地です。


つづく

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2011年06月02日

老人たちの話し 6

老人たちの話し 6

 佐渡の北片辺のことを書いているうちに、懐かしくなってインターネットで北片辺を調べてみました。今は、どんな状況なのかと。で、写真をみつけました。

62kat-12.jpg

 もう無残としか言いようがないです。
 美しかった北片辺の風景は、もうありません。
 海岸は、堤防とテトラポットにかわってしまっている。
 まあ、仕方ないことなんでしょうね。

 Googleマップでも調べてみましたが、昔あった道もなくなっている。かわりに巨大な橋と巨大なトンネルになっている。昔は、正面から車が来ると、どっちかがバックしなければならなかった。第一、島を一周する道路が無かった。だから交通手段は、バスというより船だったところが多かった。

 1日1便の両津行きのバスが出ている。そういう場所も多かった。そのために佐渡は、昔の登山ガイドに載っていた。登山道が載っていたのではなく、島の海岸線のルートが載っていた。そのせいか自動車の通行できない僻地なのに旅館は多かった。しかも江戸時代から続いている老舗の旅館も多かった。戸数が三十くらいしかない集落に旅館が三軒ということも珍しくなかった。そういう意味では、僻地だった頃の佐渡島の方が、今より栄えていたのかもしれない。





 前にも言いましたが、私は4歳になると、母親と別れ、父親と祖母のもとに引き取られます。佐渡の北片辺という土地から離れ、佐渡の泉というところに住むことになります。ここは、佐渡にしては都会だったので、北片辺のような風景は無かったのですが、やはり鍵はなく、いろんな人が家に出入りしていました。六畳と四畳半と土間の小さな借家だったのに、いろんな人が出入りしていた。

 その中の一人に、とても仲がよかったおじさんがいましたが、病気になり死んでしまった。何でも731部隊の将校だったらしく、身元がバレるのを嫌がって、病気になっても病院に入院すること拒んだために病死してしまった。

 まあ、そんなことは、どうでも良いのですが、私は父親と祖母によく怒られましたから、新しい環境になじめませんでした。そういう状況の中で、北片辺から老人たちが、よく遊びに来てくれました。

 私は、北片辺の人たちに、よほど可愛がられたみたいです。親戚でもないのに、いろんな人たちが次々とやってきた。そして私の顔をみて帰っていった。そのうち北片辺の人たちは、当時、高価だった軽トラを買って、みんなで遊びに来ました。休みになると私を拉致するように北片辺に連れ帰ったりもしました。このように北片辺との交流がつつきました。

 こういう子供時代をおくると、街中で老人を見ると無性に涙が出てくるようになる。祖母とは、口喧嘩が絶えないのに、見知らぬ老人に涙が出てくる。こういう条件反射が、二十歳くらいになるまで続きました。

 一般的に可愛がられるという行為は、「甘え」の原因を作ると言われます。確かに原因にはなりますが、私は、決して悪いことだとは思いません。そういう記憶は、大人になって、ギリギリのところで人間を人情深くする。つまり人間を性善説にしてしまうと思うからです。

 むしろ人に甘えることを知らないまま大人になった方が怖い気がします。「甘え」を知らない子供の方が、大人になってから凶暴になる可能性がある。かといって、無制限の甘えは、人間を駄目にする。ここが難しいところですね。





 以前、9歳のお子さんと、お母さんが、スノーシュー体験をしに北軽井沢ブルーベリーYGHに泊まりに来ました。土井君がいないので、私がガイドをしました。最初は、真面目にガイドをしていたのですが、9歳の子が、あまりにも甘えん坊なので、途中で無茶苦茶あそんでしまった。雪をかけて埋めてしまったり、母親がみてないところでポカリと叩いたり、漫画見ながらラーメンを食べてると「行儀わるいな」と鼻をつまんだり。どんどん距離を縮めたら、ものすごく仲良くなってしまった。

 で、草津ユースホステルにチェックインするために、お別れすることになったのですが、
「一緒に草津ユースホステルに行こう!」
と駄々をこねはじめた。

 お母さんは大爆笑です。
 9歳のお子さんは、
 私が宿屋のオーナーであることを忘れてしまっていた。
 そのくらいに仲良くなっていた。

 けれど私は、単に甘やかしただけではない。マナー違反には何度もポカリと頭を叩いている。そのうえで一緒に笑い転げながら雪遊びしている。甘えるところは甘えさせている。これは、かって北片辺の老人たちが、私にしてくれたことを、9歳の子供さんにしただけなんですね。しかし、具体的に、どのように接したか、というのは言葉では説明しにくい。

 こういうものは、世代を超えて体験で受け継ぐしか無い。
 逆に言うと、体験で伝えられなければ、
 終わってしまう。

つづく

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2011年06月03日

老人たちの話し 7

老人たちの話し 6

 モテキというドラマがありました。人間には、誰にでも一度はモテる時期があると言います。それを過ぎると急にモテなくなる。そういうものらしい。但し、モテキが5歳の頃なのか、50歳の頃なのか、25歳の頃なのかは、人それぞれらしい。





 この「モテキ」という現象、ある意味、真実をついてると思いますね。私の友人(男)に、すごくモテる奴がいたんですが、何故か彼女は、みんな5歳くらい年下だった。で、35歳くらいまでは、すごくモテモテだったんですが、45歳の現在、全くモテなくなってしまった。

 45歳だと、5歳年下は40歳。つまり、その世代の女性の大半は結婚してるか、結婚をあきらめてマンションを買っているかですから、対象となる5歳年下の女性そのものが少なくなっているからモテなくなる。つまりモテキは終わってしまっているわけです。

 高校時代に、なぜか先輩にだけモテる男がいましたが、高校3年生になると、バッタリもてなくなってしまった。こういうケースもある。やはり、人には、それぞれのモテキがあるみたいです。カップルになるための相性というものがあるんですよ。それがモテキを形成するための重要な要件となる。


 ここからが本題です。


 実は、若者と老人たちとの相性というのも、ある気がします。
 というのも私は、明治生まれの人と相性が良かったからです。
 明治生まれと、大正ひとけた生まれでは、
 同じ老人でも気質がまるで違っていたからです。
 これが大正二けた、昭和ひとけたになると、まるで違ってくる。


 明治生まれの老婆には、字の書けない人が多い。スミとか、トメという名前の老婆が多いのも、この世代なんです。そして、必ず兄弟が十人以上いる。後妻の子供と、前妻の子供でわかれていたりする。

 私の祖母の名前も「スミ」でした。
 そして明治生まれでした。
 祖母は、大勢の兄弟の中で、
 学校に行かず子守ばかりしていたために字が書けなかった。
 しかし、決して無教養であったわけではなく、
 むしろ今の高校生より、ものを知っていたと思います。

 で、私が二十歳の頃、あれは1981年頃のことです。ある町工場で雑用のアルバイトをしたんです。そこに明治生まれの老人が働いていて、なんだか良く分からないけれど、すごい職人だった。私は、その老人から、とても可愛がられたんですね。逆に昭和生まれの専務には、ひどく嫌われたんですが、明治生まれの職人さんには、ものすごく可愛がられてしまった。





 で、明治生まれの職人さんのそばで、ずっと働いていた。私は、好奇心いっぱいで、老職人さんの仕事をじーっと見る。見ながら、休み時間に見よう見まねで、真似をしたりする。それを年老いた老職人が、目を細めながら、時たま禅問答みたいなことを言う。

「肘だ」
「え? 肘って、どういうことですか?」

 老職人は、ニヤニヤ笑うだけで、それ以上答えてくれない。仕方ないので、休憩が終わった後に、ジーッと盗み見るわけですが、わけが分からなくて、首をかしげてしまう。それをまた老職人は、ニヤニヤ笑う。そんな毎日なんですが、そういう現場を昭和一桁生まれの人に見つかったら、たいへんです。怒鳴られ蹴られてしまう。

「何ぼけーっと見てるんだ! さっさと働け」

と雷をおとします。彼らは、働いてるふりでもいいから、忙しそうに動いてないと機嫌が悪い。もちろん明治生まれの老職人は助けてくれません。笑いながら見ているだけ。しかし、時々助けてくれることもある。怒られてる最中に
「たばこ買ってきてくれ」
と用事を言いつけてくれる。私は、よろこび勇んでタバコを買いに行きました。





 ちなみに、この老職人たちは、その世界では人間国宝みたいな人だったらしく、造のエンジン部品をつくっていました。当然のことながら造船所や大きな工場に出張に行くことが多い。役立たずだった私もお供するのですが、通用門に入るときなど、名前を書くときに必ず私が代筆しました。

現場では、私は役立たずなので、私の仕事は、この代筆くらいなもんです。代筆だけの仕事で、1万円の日給はもらいにくいので、ある日、アルバイトを辞めることを決意し、老職人にうちあけました。すると驚くことに老職人は、こう言ってきたのです。

「困ったな、俺は字が書けないんだよ。また新しく別の奴をさがさないとな」
「・・・・・」

 最初、冗談かと思いました。
 難しい図面を読める人が字が書けないわけがない。
 新聞だって読んでるし、難しい計算もバッとこなす。
 だいたい、人間国宝といわれている人が、字が書けないわけが無い。

 しかし、字が書けなかったのは本当だった。
 読めても書けなかった。
 文字を書かせると書き順がデタラメだった。
 あきらかに学校教育をうけてない。
 しかし、文盲というわけではない。
 逆に凄いレベルの知性をもっている。
 なのに何故?

「むかしはよ、学校に行かなくても本は読めたのさ。横に小さなカナをふってあったからな」
「そういう問題ですか?」
「ははははは」

 老職人は言います。

「そうか、辞めるのか。おめーは見込みあると思ってたんだがな。若い奴には、珍しく、おれの仕事を盗もうとしてたからな」
「あれは、好奇心というか、なんというか」
「他の奴はよ、専務の顔色をみてばかりなのにな」
「・・・・」
「専務は、動く奴が好きなのよ。働く奴よりもな。人偏(にんべん)は、いらねえんだ」
「でも、私は、まだ働けてせん」
「そう簡単に働けるようになってたまるかってーの」

 この後も、この明治生まれの老人には驚かされることばかり続いた。
 明治生まれの老人の中には、このような破天荒な人が多い。
 今の価値基準では、計れきれない。

つづく

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2011年06月04日

老人たちの話し 8

老人たちの話し 8

 老人たちの話しをするとき、どうしても避けて通れないのが大正生まれの人たち。
 一言で言えば、この時代の生まれの人たちは、ダンディな人が多いですね。
 明治生まれが破天荒だとすれば、大正生まれは、おしゃれでダンディ。
 明治生まれに比べると理屈が通じやすいし学もある。
 うちの御客様にも大正生まれの人たちが時々来ますが、やはりダンディな人が多いですね。

 それはともかく、大正生まれともなると言葉遣いも、
 方言が無くなって共通語に近くなります。
 そして身なりも格好良くなる。
 腰の曲がった人も減ってくる。
 これが昭和一桁となると、怒りっぽい人が多いのに、
 大正生まれの老人たちは、オットリしています。
 オットリしているけれどダンディ。趣味をもっている。
 もちろん地方と都会では全く違いますけれど、やはりダンディかなあ。

 あと、面白いのは写真。
 大正生まれの老人たちは、自分の写真を撮っている。
 明治生まれだと、自分の子供の頃の写真を持ってない人が多い。

 で、大正生まれの老人たちに写真をみせてもらうと、若い頃に洋服を着ている。
 全員ではないけれど洋服を着ている。
 女性はスカートをはいている。
 それも、かなりファッショナブル。
 ところが、結婚すると和服になる。
 これが不思議。
 結婚後も洋服って女性は、ほんとうに少ない。

 洋服が一般的になるのは、もっと後なんですね。
 彼らの息子さん達が、洋服。
 で自分たちが和服。
 家族の写真が、洋服と和服がまじってたりする。

 嫁さんのお祖父ちゃんが大正生まれで、
 一度、北軽井沢ブルーベリーYGHにやってきたことがありました。
 車で北軽井沢を案内してあげると
「木のトンネルだ!」
 と喜んでいました。
 おしゃれなだけでなく、
 ポエムな、おじいちゃんでした。

 第二次大戦では、錦糸勲章をもらうくらい優秀な兵隊さんで、
 中国に、大勢の友人がいたそうです。
 夫婦げんかして、中国に帰ろうとしたこともあったらしい。
 大正生まれの老人たちには、こういう謎めいたところがあります。


つづく

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2011年06月10日

刷り込み1

 刷り込み。
 宿屋をはじめた人間には、ある種の刷り込みがはいっている事が多い。


 その昔、民宿をやっていた友人の厨房にお邪魔したとき、
「アッ」
と驚いたことがありました。

 皿の大半がプラスチックやアクリルだったからです。
 さらに、その人の得意料理が和食だったので、余計に驚いてしまった。
 まな板も包丁も立派な物を持っているし、
 こだわってダシをとる人なのに、皿がプラスチック。
 ひとことで言って

「ありえない」

しかも食堂が蛍光灯だった。これも

「ありえない」

 だから、さんざん忠告したのですが、頑固な彼は私の忠告を聞かなかったんです。
 そして気がついたら廃業してました。
 しかし、どうして皿がプラスチックで平気だったのだろう?
 どうして食堂が蛍光灯で平気だったのだろう?
 という疑問は、ずっと心に引っかかったまま年月がたちました。

 で、ラーメン屋を開業した別の友人のところに御祝いに行って、また驚いてしまった。
 丼とコップがプラスチックだったからです。
 あんまり驚いたので、ちょっと考えてみました。
 皿がプラスチックで平気な、二人の友人の共通点はなんだろう?と。

 で思い当たったことは、二人ともチェーン店の居酒屋に勤めていたことです。
 チェーン店の居酒屋には大した皿はありません。
 そもそも大した料理もない。
 チェーン店の居酒屋の基本は、不味くない料理を出すことにあります。
 加工も本部がやっていて、店では盛りつけるのが大半の仕事になる。
 皿だって壊れにくいものを使うからプラスチックの皿もあったりする。
 1枚五千円の皿を使うことは絶対無い。
 百円ショップの皿が中心になる。


 つまり最初に働いた店のスタイルが、刷り込まれているということ。
 本人は気がついてないけれど、刷り込まれている。


 そう考えると私も刷り込まれていることに気がつきました。
 私の調理経験は、そこそこ高級な割烹と、魚河岸のマグロ屋です。
 出汁巻き卵だけで千円もする店がスタートだったので、
 プラスチックの皿は、絶対にありえない。
 食堂の蛍光灯もありえない。

 私は、食器と照明が、料理の味を変えてしまうことを、これでもかといういくらいに学んでいるから、メインの皿が五千円以下ということはありません。ニッコー・ナルミ・ノリタケなどのブランド物を必ず使っています。そうしないと御客様に失礼だという、そういう刷り込みをされている。また、味も変わってくるという刷り込みをうけている。


 まあ、そんなことは良いとして、それを考えると、うちの宿に一つ問題があることに気がつきました。うちの嫁さんです。うちの嫁さんは、調理場で働いたことが無い。そのために彼女は、私の作法を刷り込まれている。つまり、私という限界があったということですね。

「こりゃいかん」

と思った私は、慌てて嫁さんを高級料理店に連れて行くことにした。
まず嫁さんに高級料理を食べさせて、学ぶことからスタートしないとと思ったんです。


つづく

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タグ:刷り込み
posted by マネージャー at 23:55| Comment(2) | TrackBack(0) | テーマ別雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月13日

刷り込み2

ささらーさん

>高速のPAで食事をしたときにお茶を入れる際、
>コップがプラスチックか陶器を選べたんです。
>よく見ずに手前にあったコップをとったのでプラスチックのコップに
>入れたのですが、やっぱりなにか違うと思いました。

>大量に洗うほうからしてみれば割れないものの方がいいのでしょうが、
>実際に口にする際にはやっぱり陶器かガラスのほうが
>おいしく感じるのはなぜなんでしょうね。

>ブルーベリーの平皿は開所当時からナルミ(でしたか?)だったのは
>本当によかったなと思います。
>配膳をお手伝いしていても気分が違うのです。



西洋料理は、絵みたいなもので、皿が画用紙。
料理が絵の具なんです。
どちらも重要。

和食は、別の意味で皿が重要です。
皿は、大地。
料理は素材。
2つで一つの世界観をつくる。
だから高級料亭では、御客さんのキャラにあわせて皿を決め、
その皿にあわせて料理を決定したりします。
やはり、どちらも重要なんですね。

だからプラスチックの皿をみた時は、かなり驚きました。
私より料理にこだわっていた奴だったので、
よけいに驚いたわけです。

どんなに料理にこだわってても、
どんなに味を追求しても、
どんなに良い包丁をもっていても、
どんなに盛りつけに熱心でも
肝心な皿がプラスチックでは、苦労が無駄になりかねない。
食堂の蛍光灯も駄目です。
客室は蛍光灯でもいいけれど、
食堂は蛍光灯ではいけませんね。

しかし、そうは思わない人たちが数人いて、その人たちには共通する何かがあったわけですね。その何かというのは、最初に働いた場所に共通点があった。これが刷り込みというやつかと。


 で、うちの嫁さんですが、飲食店で働いたことが無い。つまり何も刷り込まれてないと思っていたら、そうではなかったんです。私のやり方が刷り込まれていました。私は、オープンして1年間は、ひとりで24人分を作っていました。

(昔は、最大24人泊めていました)

 しかも料理中に予約の電話がジャンジャンはいる。
 送迎もしなければならない。
 これを全部ひとりでやってたんです。
 ヘルパーさんはいませんでした。

 当然のことながら、いそがしすぎる。
 死ぬほど忙しい。
 いちいち鍋やフライパンなんか洗ってられない。
 だから、鍋・フライパンを3倍くらい用意し、使用した物をかたっぱしから積み上げて、後で洗っていました。本当は、良くないことなんだけれど、そうしないと料理が間に合わなかった。

 食事が終わったら温泉ツアー。
 御客さんの相手もしなければならない。
 皿を洗うのは23時以降になる。
 そして洗い終わるのは、夜中の1時だった。

 そういう状況下のところに嫁さんがやってきて、悪い見本を刷り込んでしまった。
 どういうわけか嫁さんは使用した鍋をすぐに洗わないでよいと勘違いしてしまった。
 これを矯正するのに時間がかかりました。
 いったん刷り込まれたものは、矯正が難しいんですね。
 そういう意味で悪い見本を見せてはいけなかった。

 おまけに夫婦という関係は、難しい。
 上下関係で無いので、どうしても甘えがでてしまう。
 で、外の世界を見せないと、理解がすすまないと思った次第です。

 仕方が無いので、毎日のように軽井沢で外食することにしました。
 よそを見せて、自分たちの反省点を見つけようと。
 そしたら嫁さんは大喜びです。

 勉強なんだからな。
 遊びじゃ無いんだからな!

 と言っても「分かった分かった」と浮かれている。
 こんな勉強なら大歓迎と浮かれている。
 私は、わかってるのかなあ?と散財の毎日を続けました。
 財布の現金は、どんどん減っていく。
 頭をかかえました。

(そうだ、ついでに軽井沢のグルメガイドも作っちゃうかな)

 で、できたのが、このサイトです。

http://gourmet.kaze3.cc/

つづく

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posted by マネージャー at 10:15| Comment(2) | TrackBack(0) | テーマ別雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする