2016年06月06日

今日は、研修と会議で東京に来ています

今日は、研修と会議で東京に来ています。
つまり、全国のユースホステルの多くは店じまいしているかもです。
だって、多くのマネージャーさんたちと、さっきまで一緒に飲んでいましたから。
さすがに東京は暑いですね。
正直言って、もう帰りたいです。
3日も息子の顔を見られないのは、さすがに辛いし、
お客さんと接することもできないのは、ちょっとさびしい。
なにより、庭の草刈りが、気になってしょうがないですね。
肉体派の私にとって机に向かうのは、本当に辛いです。

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2013年07月18日

利用者の立場から、こんなサイトがあったら便利という御意見募集

実は、契約ユースホステル連絡協議会公式サイトのホームページを作っています。
これです。

http://a-yh.net/index.htm

で、よりよいサイトにするために皆さんのお力をお借りしたいと思います。
利用者の立場から、こんなサイトがあったら便利というごいけんがありましたら、

RXB10552@nifty.com

までご連絡ください。
御意見をおまちしています。


つづく。

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2012年06月15日

浴槽の解体に驚かれたこと+α 修善寺YHについて

進之助さん
えばさん
マサさん


私が、行こうとしていたところは、修善寺YHです。
もう閉館しているようですが、あそこにはシルマン記念館が併設されており、
それだけでも見学しようと思っていました。

そこにはドイツから寄贈された貴重なシルマンの遺品が展示されています。

修善寺YHが完璧に無くなれば、シルマンの遺品が消えてしまう可能性もあるので、どうしても見たかったのと、その近所で鍼灸師をやってるペアレントさんが、日本ユースホステル協会の生き字引的存在というか、日本最長老のペアレントさんであり、私を含め、その人の元で、日本中のペアレントの師匠でした。おそらく日本のユースホステルのペアレントの5割が、この人の弟子にあたると思います。

昭和37に伊豆臼井YHがスタートして、そこのペアレントになったのが、現修善寺YHのペアレント・高梨さんです。そして、伊豆臼井YHで、第一回ペアレント講習会が開かれました。伊豆臼井YHが、現修善寺YHに移ってからも、それは続き、私も、高梨さんから、ホステリング講習・ツアー講習をうけています。ちなみに昔は、ヘルパーになるためには、ここでヘルパー研修をうけて資格をとる必要がありました。

(ちなみに、あの脚本家の橋田壽賀子さんも、高梨さんのところで学んでいます。高梨さんは、橋田さんとヨーロッパホステリングにも行っています)


 高梨さんは、医師から余命数年と言われて、ユースホステル運動にかかわったわけですが、余命数年どころか大長寿の大先輩になっています。ちなみに高梨さんの定年は、とおにすぎていたのですが、シルマン記念館がある修善寺YHを引き継ぐ人がいなかったので、老骨にむち打って、再びペアレントになった方です。
超カリスマペアレントで、全盛期のミーティングは自ら歌って踊りました。もちろん独身ですから一人で、100人の御客さんを相手できるはずもなく、御客さんにジャンジャン手伝わせて、多くの居候を住まわせていたようです。三余荘ユースホステルのペアレントさんの息子さんも、近所ながら自転車で泊まりに行ったようです。しかし、かなりのお歳なので引退されることになったようです。

 この高梨さんが、定年で一度、修善寺YHをやめられたとき、後任者が、修善寺YHの歴史というか、いわれを知らなくて、横山祐吉氏や中山正男氏の遺品などをゴミに出したんですね。それを見ておられなかったので、老骨にむち打って、高齢の高梨さんが、再びペアレントになったのですが、やはり高齢すぎて体がいうことをきかない。過去に何度も入院しれたぐらいだから、もともと体は悪い。昔は不治の病だった結核のために肋骨だって一部は無い。
 私は、この高梨さんに、ゴミに出されていた横山祐吉氏の水墨画をいただいています。
 横山祐吉氏のことを調べに修善寺YHに調査に行ったときに頂いたのです。
 そのときの絵は、北軽井沢ブルーベリーYGHの倉庫においてあります。
 いずれ、価値が分かる人が日本ユースホステル協会に現れたら日本ユースホステル協会に返却するつもりはあるのですが、肝心なシルマン記念館の行方さえ決まってないので、しばらくは私が保存しておこうと考えています。

 さて、このさいだから私が、ぜひ行ってみたい、もう一度、訪れてみたいユースホステルを書いておきます。言っておきますが閉館するわけではありませんよ。ただ、一寸先は闇ですからねえ。決して人気のユースホステルではありませんが、どれも、伝統あるいわれのあるユースホステルか、ペアレントさんが凄い人(但し味も濃い)なのです。もし、行かれる人がいるなら、一度、私にどこが凄いのか?聞いてから行くと、10倍面白く泊まれますから、一度相談してみるといいですよ。これは、他のどのYHにも言えることですけれどね。前もって情報を仕入れておくと旅が面白くなります。


稚内モシリパユースホステル
積丹ユースホステル
島牧ユースホステル
室蘭ユースホステル
脇野沢ユースホステル
カワヨグリーンユースホステル
メープル仙台ユースホステル
道中庵ユースホステル
田沢湖ユースホステル
みさとユースホステル
会津の里ユースホステル
ユースホステル加波山荘
九十九里浜白子ユースホステル
上田まほろばユースホステル
外海府ユースホステル
木曽旅情庵ユースホステル
千光寺ユースホステル
自然の森M.G.ユースホステル
大洲郷土館ユースホステル
ユースホステル 対馬西山寺
ルノワルユースホステル
島原ユースホステル
高千穂ユースホステル
ユースホステル高那旅館




あと、伝説の元ユースホステル。
いつか行きたい!と思っている宿です。

旧鴛泊ユースホステル(現在は民宿)
旧天売YH(現在は民宿)
旧えりも岬ユースホステル(現在は民宿)
旧小夜の中山ユースホステル(現在は民宿)
旧依田園ホステル(現在はホテル)
旧徳沢園(現在は山小屋)
旧霧島高原ユースホステル(跡地に20年以上放置されて朽ちていたC5699がある)
その他


残念ながら無くなってしまった伝説のユースホステルを書いておきます。
無くなる前に行きたかった!

三余荘YH(静岡県)      :平成24年5月31日付
YH八洲旅館(沖縄県)     :平成24年4月30日付
ファンホース新冠YH(北海道) :平成24年3月31日付
大湯温泉黒森YH(秋田県)   :平成24年3月31日付
日光大谷川YH(栃木県)    :平成24年3月31日付
トレック石垣島YH(沖縄県)  :平成24年3月31日付
東京代々木YH(東京都)    :平成24年3月15日付
水前寺YH(熊本県)      :平成23年11月30日付
八幡平YH(岩手県)      :平成23年6月30日付
函館YGH(北海道)      :平成23年6月30日付



あと休館中の伝説のユースホステル。

おいらせYH(青森県)     :当分の間
金沢YH(石川県)       :当分の間(再開される可能性有り)
浜坂YH(兵庫県)       :当分の間


選んだ理由は、後日のべましょう。それなりに理由があるんですよ。
行かれる予定がある人は、私に相談してください。土井君でもいいです。
ポイントを伝授しますよ。


つづく。

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2012年06月05日

三余荘ユースホステルが無くなってしまう! その4

三余荘ユースホステルが無くなってしまう! その4

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 土屋宗三郎(三余)の弟子、依田佐二平の一族は、戦後の農地改革などで没落した。ただ、依田家の土地に温泉が出た。それに目をつけたのが藤田観光で、依田家のそばに大沢荘という宿をはじめた。昭和28年のことである。そこに御客さんが、訪れる姿をみて依田家も宿をひらこうと考えていた。しかし、依田家に残されたのは古い屋敷と蔵だけであった。

 昭和32年4月。日本ユースホステル協会が文部省所轄の財団法人となった。スポンサーは、東洋醸造であった。この会社は、今は旭化成に吸収合併されてしまっているが、「ハイリキ」という日本初の缶酎ハイを出した会社であり、力正宗という日本酒も作っていた。この会社が資金を出して日本ユースホステル協会を支えた。

 それによって歴史が大きく展開した。

 日本ユースホステル協会を創設した横山祐吉氏は、それまで日本青年団協議会の職員であった。そこを退職して、日本ユースホステル協会の正式な専属職員となったのである。そして横山祐吉氏は、青年団のコネを使いながら精力的に地方を回った。そして地方の名家や旅館に
「ユースホステル活動に協力してください」
と頭を下げて回った。昭和33年から38年頃の話である。

 横山祐吉氏は、伊豆半島も回った。昭和34年頃である。依田家にもやってきた。依田家は、ユースホステルの開業を決断し、昭和35年8月からスタートした。すると大勢の若者たちがやってきた。この頃、伊豆半島に立て続けにユースホステルが開業したので、大勢の学生たちが旅にやってきた。もちろん徒歩旅行である。伊豆半島一周道路は、まだできてなかった。
 
 それを知った土屋三余の曾孫にあたる土屋九彦氏(15代目の当主)も、自宅をユースホステルにしたいと思って、日本ユースホステル協会に申請した。しかし却下されてしまった。近所に依田園ホステルがあったからである。

 ちなみに依田家と土屋三余の家は親戚である。
 土屋三余の嫁が依田家の娘なのだ。
 土屋九彦氏(15代目の当主)は、依田家に出向いて
「ユースホステルの看板を譲ってくれ」
とたのんだ。

 依田家は快諾した。ユースホステルとして成功した依田家であったが、温泉を掘り当てて、温泉旅館としても大成功をおさめていた。なにしろ建物が古く、文化財的価値があったので旅行者が大勢訪れていた。ちなみに、下記のサイトが、元依田園ホステルであり、今の「大沢温泉ホテル・依田の庄」である。

http://www.osawaonsen.co.jp/index.htm

 こうして三余荘ユースホステルが誕生した。
 若者たちは、三余荘ユースホステルに殺到した。
 もちろん徒歩である。
 後にバス旅行者も増えた。
 シーズンは地元民より、旅行者の方が多くなった。
 バス会社は、三余荘ユースホステルの前にバス停を作った。
 バス停の名前は、「ユースホステル」であった。

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 ちなみに三余荘ユースホステルには、最大で60名も宿泊した。
 そこには若者たちの青春群像があった。

 それを見ていた三余荘ユースホステルのマネージャーの息子さんは、私もユースホステルを使って旅に出たいと思った。高校生の時にユースホステルの会員証を作った。そして、高校時代に三浦半島(神奈川県)の先端にある観音崎ユースホステルで、ユースホステルデビューした。城ヶ島ユースホステル・氷川丸ユースホステルと、横浜や三浦半島を3泊4日で回った。三余荘ユースホステルが、オープンしてから5ヶ月後のことであった。


つづく。

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2011年07月06日

インターネットで、じゃんじゃん書くのはいいことだと思ってます

げんごさん

>すいません、書きすぎましたか?


私は、インターネットで、じゃんじゃん書くのはいいことだと思ってます。
私なんか書きすぎて、何度も検閲が入ってますから。
このブログにも検閲が入るくらいですからw



ただ、ユースホステルのマネージャーって、
インターネットに弱いんですよね。
口コミには強いんだけれど、ネットには弱い。
だから、私が出しゃばって、他人様の宿を宣伝したりするんですが、
本当なら御本人が自分の口で宣伝した方がいいんですよね。

でも彼らは、インターネット・ITというものは、
科学技術だと思っているんですよね。
違いますよ!
テクノロジーなんかじゃない。
作文ですよ。
文章ですよ。
日記ですよ。
YouTubeだったら、文章でさえ無い。
画像だったら動画でさえない。
自分自身そのもの(またはユースホステルそのもの)だと思うんです。



自分をさらけだし、
ユースホステルをさらけだす。
それがインターネットの良さであり、
ネットの情報の良さだと思うんですよね。
決して難しいことでは無い。
さらけ出した方が勝ちなんだから。


そこのところが分かったら、前に進めるんだけどなあ。


つづく

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2011年07月01日

函館YGH(北海道)が、昨日をもって閉館しました。残念。

函館YGH(北海道)が、平成23年6月30日をもって閉館しました。
残念です。
このユースのマネージャーのお父さんは、登別あかしや荘のマネージャーでした。
登別あかしや荘は、私が初めて北海道で泊まった、思い出深い宿です。
とてもすばらしいユースでした。
夜の星空観察が楽しかったなあ。


実は今年になって閉館したユースホステルは、7軒もあります。
寂しいですね。

 函館YGH(北海道)      :平成23年6月30日付
 松山ダウンタウンYH(愛媛県) :平成23年3月31日付
野中温泉YH(北海道)     :平成23年3月31日付
 東山YH(京都府)       :平成23年3月26日付
神上寺YH(山口県)      :平成23年3月15日付
 横浜ベイサイドYH(神奈川県) :平成23年3月13日付
 三次YH(広島県)        :平成23年3月1日付

野中温泉YH(北海道)は、歴史あるユースだっただけに残念です。
東山YH(京都府)だって、人気ユースでしたし。
あと、大阪府服部緑地YH(大阪府)が、
平成23年8月31日をもって閉館する予定だとか。


新しいユースができないかなあ。
若い人がでてこないかなあ。




つづく

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2011年03月04日

ユースホステルは甦るのか?28(最終回)

ユースホステルは甦るのか?28(最終回)

 歴史を調べるとユースホステル業界の発展は、青少年たちの口コミと支部協会の活発な活動、それに無数のグループ活動によるところが大きいことは、連載で何度も何度も言いました。しかし、今まで発展を支えてきた青少年たちの口コミと支部協会の活発な活動、それに無数のグループ活動は、いつのまにか消滅しています。そして、それに変わるモノがない。

 ユースホステルの過去の成長の最大の理由は、アナログな口コミですね。これがやユースホステルの武器だった。いわゆるマンモスの牙だった。しかし、関係者は、かっての武器の威力を知らないまま、その効果を意識しないまま、盛況を迎え、かっての武器が消えてしまったのも気がつかないまま、じり貧に向かっている。

 ところで、アナログな口コミ。つまりユースホステルにとってマンモスの牙を、ユースホステルのマネージャーたちが嫌った時代があった。マネージャーたちは、マンモスやサーベルタイガーの牙を毛嫌いした。全部が全部ではないけれど、マンモスやサーベルタイガーをシャットアウトしようとしたことがあった。これが

 ユースホステルオタクバッシング。

でした。

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 もちろんバッシングすべき理由が個々のユースホステルマネージャーにはあった。
 けれど、それによって熱烈な信者たちを根こそぎ消してしまったのも確かだった。

 しかし、この方法は、マーケッティングの法則から言うとちょっとはずれている。
『8対2の法則』
というものがあって、2割の顧客が8割の利益を生むのが一般的な考えですから、どの企業もリピーターを確保するために血眼になっている。どの企業も常連やサポーターを欲しがっている。にもかかわらずユースホステル業界のみが、どういうわけかリピーター排除をしてきた。一般企業とは異なる道を歩んできた。そして、アナログな口コミを根こそぎ排除してしまった。これは商売の法則に反する行為です。

 企業の常識に反している。

 私は、10年前に、北軽井沢ブルーベリーYGHのホームページを作っています。
 で、多くのホームページをリンクしてきましたが、
 10年前には、100以上の個人のユースホステル関連サイトがありました。

 ホームページだけでも、100以上ものサイトを運営しているサポーターがいたのです。
 それだけユースホステルオタクたちがいた。
 それだけユースホステルサポーターがいた。
 しかし、現在は、ほとんど壊滅しています。
 ほぼ、皆無になっている。


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 私はユースホステルオタクたちに問題がないとは言わない。しかし、彼らが熱心なサポーターであったことは確かだった。熱心にホームページを立ち上げて、施設や料理の画像をアップしてくれた。いろいろ宣伝してくれた。そして仲間を増やしてくれた。これは揺るぎない真実だった。

 それをユースホステル関係者は少しでも
『ありがたい』
と思っただろうか?

 私の知る限り、そういう関係者たちは少なかったと思う。むしろ目の敵にしていた人が多かった。関係者たちは、マンモスやサーベルタイガーの牙を支えきれなくなっていた。問題をかかえる人たちを疎ましく思っていたと思う。しかし、何であれ彼らから恩恵を得ていたことも確かだったのだ。それを少しでも理解していたのだろうか?

 問題は、そういったユースホステルオタクたち、ユースホステルサポーターを排除するならば、彼らが担ってきた宣伝や広報をユースホステル側が行わなければいけないということです。ユースホステルを支えてきたサポーターたちの口コミを排除するならば、その口コミをユースホステル側が代わりに行わなければならないんですね。

 しかし、現実にはできてない。
 できてないのならバッシングしては駄目です。

 ホームページで、ユースホステル売り込むのは簡単です。
 しかし、サポーターたちのように口コミを拡げるのは関係者には難しい。
 私たちマネージャーが100人で頑張っても、
 信者(サポーター&オタク)100人の力におよばない。

 これは冷徹な事実です。

 私も、一人のユースホステルサポーターとして、ユースホステルのサポーターのホームページを作ってみました。

http://yh.shiruman.net/
http://b-yh.seesaa.net/
http://kazeno.info/kanto/index.html

しかし、10年前の信者(サポーター&オタク)たちが作っていたホームページに遠くおよばない。マネージャーであるために本音の口コミが書けないことと、もう普通の御客さんではないからです。いくらマネージャーが頑張ってみたところで限界はある。これに対してサポーターたちのホームページの素晴らしいこと。ちょっと紹介してみましょう。


http://www001.upp.so-net.ne.jp/noriyo/
http://homepage.mac.com/shoukichi44/shoukichi/
http://homepage1.nifty.com/SWALLOW-EXPRESS/
http://www82.sakura.ne.jp/~hashimoru/tabi-youth-hostel.htm
http://ameblo.jp/mika450/entry-10092481852.html
http://first-backpacker.info/category/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9B%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AB%E3%81%AB%E6%B3%8A%E3%81%BE%E3%82%8D%E3%81%86


 昔は、もっと凄いサイトがいっぱいあった。
 でも、みんな消えてしまった。
 100近く消えてしまった。
 この消えてしまった分をユースホステル関係者が補っているかというと、全く補えてない。
 それどころかマネージャーの半分は、ホームページさえ作れないのが現状なのです。


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 もう一度言います。
 ユースホステルのかっての成長の理由は、アナログな口コミでした。
 これがやユースホステルの最大の武器だった。
 けれど、このアナログな口コミがインターネットによって駆逐される。

 じゃあ、ユースホステル側がインターネットを使いこなせているかというと、全く駄目。それでも初期の頃は、熱心な信者たちが自分たちでホームページを作って宣伝してくれていた。しかし、それさえも、ユースホステル側は、上手にサポートしてあげられなかった。

 個人サイトを紹介したり感謝したりしなかった。
 これによって、インターネットででおくれてしまった。
 そして、ユースホステルがインターネットにとってかわられてしまった。

 インターネットが無かった時代は、ユースホステルこそがインターネットだったのに、
 その役割をインターネットに全部もっていかれてしまった。





 ここで昔話しをしましょう。1975年のことです。私が中学1年生の時に『宇宙戦艦ヤマト』というアニメが放映された。それまでアニメに全く興味がなかった私は、この『宇宙戦艦ヤマト』の虜になってしまい、アニメやマンガに熱中しだしました。実は日本のアニメブームは、この『宇宙戦艦ヤマト』から始まりますが、当時には、熱狂的なファンはいても、マニアもオタクもいなかった。

 しかし、いつのまにかマニアが出現し、オタクが現れ、社会からバッシングされるようになる。そのうち作家たちもオタクバッシングするようになる。しかし、マニアやオタクたちは熱心な購買層でもある。その購買層が市場を拡大していった。そして多くの作家たちを誕生させていった。だから多少、社会の顰蹙を買うことがあってもアニメ界は、マニアもオタクも拒絶しなかった。市場原理に忠実だった。

 善悪を別にして、ユースホステル業界は、その逆を行ってしまった。ここには市場原理と別の法則が働いていた。そのために、善悪は別にしてユースホステルという青春(ライフスタイル)が絶滅しかかっている。というか熱心なサポーターたちが提唱していたライフスタイルが絶滅しかかっている。

 まあ、それが悪いと言わないが、
 代わりの青春(ライフスタイル)をユースホステル側が提案できてない。
 これが問題なのだ。

 昔は、今より提案できていた。ヤマケイなどの多く出版社がユースホステルを使った旅のモデルコースを掲載した本がたくさんあった。私も、そういった本を買って計画をたてたものだった。東京都ユースホステル協会などでは、窓口で旅のアドバイスをしてくれていた。他にもボランティアでアドバイスしてくれる団体がたくさんあり、ユースホステル新聞の地方版に掲載されていた。

 もっとさかのぼって初期の頃のユースホステルは、会員の海外旅行レポートまでもユースホステル新聞に掲載していた。そしてユースホステルの会員になると、こういうワクワクなライフスタイルがありえるのだと実例をもって示していた。海外留学生の海外レポートも載っていた。こういう記事は、他のマスコミでは読めなかった。『地球の歩き方』は、そういうユースホステル新聞から生まれた。ユースホステル新聞の地方版にも、そんな記事がたくさん載っていた。感謝や感動の記事も載っていた。それを読んでは心をときめかせていた会員がたくさんいた。そういう時代もあったのだ。しかし、それらの大半は滅んでしまい、ユースホステル側からユースホステルという青春(ライフスタイル)を提案できなくなっていた。


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 と言っても、全てのユースホステルが、ユースホステルを使ったライフスタイルを提案出来てないのではない。一部のユースホステルは、ホームページなどで積極的に提案しているし、口コミなどを利用して独自のライフスタイルを提供している宿もたくさんある。しかし、それが全体として有機的に動いてないのだ。サポーターやボランティアを有効活用するシステムができてないのだ。一人旅しようと考えている若者の心が折れないようにサポートするためのシステムができてないのだ。

 デルというパソコンメーカーがある。
 パソコンを買ってトラブルがあると、24時間のサポートをしてくれる。
 そうでなくても、サポート用のホームページにアンサーがついている。
 マシントラブルがあると電話してサポートしてもらう。
 JAFにしたって同じように安心を買えるシステムになっている。
 そういうサポートが、ユースホステル業界には無い。
 これが問題なのだ。


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 これが昔なら、ユースホステルには別のサポートがあった。会員同士の互助や、マネージャーが会員の親代わりになった。もちろんマネージャーは怖かった。親代わりだから厳格だった。でも困っていると助けてくれた。私が財布を無くして身動きとれないでいると、そっと金を貸してくれたマネージャーがいた。この人は昔気質で怖かったけれど困っている人には優しかった。でも、この人は規則を破るホステラーには遠慮無く怒鳴ったから今の時代には生きていけないと思う。

 今では、旅人に対する、こういうサポートは通用しない。
「上から目線」
と言われてネットでバッシングされるに違いない。

 現代は、デルやJAFのようなサポートでないと世の中に通用しない。しかし、もし会員証にデルやJAFのようなサポートがついていたり、便利リンクの入ったQRコードがついていたり、旅行傷害保険がついていたら、もっと会員は増えると思う。実現は難しいだろうが、イザ困ったと言うときに電話で旅人の達人から助言が得られるとしたら、どんなに若い人にとって心強いかしれない。


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 また、横山祐吉氏が積極的に推進したグループ活動をネットで展開させることも一案だろうし、ネットでサポーターを一から育てていくことも大切であろう。会員が発信するユースホステルレポートを日本ユースホステル協会のサイトで取り上げるなど、サポーターたち情報発信を利用する方法もあるだろう。そうすれば『地球の歩き方』よりも巨大なサイトになるに違いない。なにせ世界に5500の宿泊ネットワークがあるのだから。他にも、案は沢山あるが、一々あげたらきりがないので、ここでは書かない。

 だいたい私が書いたユースホステルの復活策なんて、今から60年前に、中山正男氏と横山祐吉氏が、すでに実行しているものばかりなのだ。それを現代風にアレンジしているだけだ。私よりも、もっと良い案を提案できる人が、世の中にごまんといるはずである。

 ただし、思いつきの案では絶対に失敗する。慎重に歴史を検証しないで、思いつきにたよってしまったら、失敗は目に見えている。だからこそ慎重にユースホステルの歴史をふり返ってほしい。そういう思いをこめて、今、本を執筆しています。

つづく

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2011年02月18日

ユースホステルは甦るのか?27

ユースホステルは甦るのか?27

 歴史を調べるとユースホステル業界の発展は、青少年たちの口コミと支部協会の活発な活動、それに無数のグループ活動によるところが大きいことは、連載で何度も何度も言いました。これらを一言で言うと、日本におけるユースホステル運動の発展は、若い人たちの支えと、全国各地の志し有る人たちの行動によって築かれたものです。日本ユースホステル協会は、そのパワーをうまくリードしたにすぎません。下からのパワーによって大きくなった組織がユースホステル業界でした。

 実は、これがマンモスやサーベルタイガーの牙です。

 若い人たちは、いずれ歳をとりますし、青少年たちが頑張れば、組織は大きくなります。大きくなってしまえば創業にかかわったという喜びと感動は消えてしまうでしょうし、そうなれば組織は老化しますし、守成に入らなければならない。しかし、その切り替えがうまくいかなかった。


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 今まで発展を支えてきた青少年たちの口コミと支部協会の活発な活動、
 それに無数のグループ活動は、いつのまにか消滅しています。
 しかし、それに変わるモノがない。
 そうなると、脱イデオロギー化をめざして無目的な協会を作ってきた
 横山祐吉氏の意図が全て裏目にでてきます。

 現代の青少年たちに、ユースホステルが提供する青春(ライフスタイル)が、
 明確に見えてこないからです。
 旅行業者が提供する体験プログラムと差がないように見えてしまう。


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 しかし、両者は根本的に異なるのです。

 旅行業者が提供する体験プログラムは、あくまでも顧客のニーズを満たすものでしかないですが、ユースホステルが提供する体験プログラムは、ユースホステルという青春(ライフスタイル)の一つの形態でしかない。体験プログラムに一つのライフスタイル、つまり生活の場が微妙に加味されたのが、ユースホステルが提供するプログラムですから。

 しかし、これが分かりにくい。
 目的を持たない組織であるために分かりにくい。
 分かりにくいから、ユースホステルの認知が低くなる。


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 昔なら、この分かりにくさを、青年たちや支部協会やグループ活動の地道な口コミ活動で補ってきた。いや、口コミ活動が広報のメインだった。多くの青年たちがサポートしてくれた。それによってユースホステル業界は大きくなれた。しかし、その青少年たちが高齢化して、ユースホステル業界から消えてしまうと、すっかり火が消えてしまったようになってしまった。

 支部協会も、青少年たちの活動も、しだいに消えていった。
 残されたものは、施設とマネージャーだけがのこされていた。

 前にも言いましたが、ユースホステルのマネージャーは、ユースホステルの第一線ではありませんでした。不思議なことに、第一線は、ユースホステルではなく支部協会だった。利用者側であるグループ活動の方だった。宿屋は、あくまでも
『協力者』
の立ち位置にあった。


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 もちろん宿屋みずから第一線に入っていく者もいましたが、宿屋が業界を引っ張ったわけではない。ここがドイツのケースと徹底的に違っている。本家のドイツは、宿屋こそがユースホステル運動だったわけだが、日本の場合は、正反対で、利用者本体がユースホステル運動の主体だった。だからドイツユースホステル協会の会長は、
「日本のユースホステル運動は、ドイツにおけるワンダーフォーゲル運動に似ている」
とまで言った。

 つまり、かっての日本のユースホステル運動は、ドイツにおけるワンダーフォーゲル運動のようなものであったと。逆に言うと、現在の日本ユースホステル運動の衰退は、ユースホステル運動が衰退したというより、いわゆるワンダーフォーゲル運動が衰退したようなものかもしれない。

「つまり利用者側の立ち位置にいた活動が衰退した」

という事なのですね。

(ただ、もともと日本ユースホステル運動は、利用者側の団体だった)
(最初に利用者ありきで、宿はあとからできた)
(だからもともとユースホステルの主役は、利用者側であった)


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 逆に言うと、かっての日本のユースホステル運動は、利用者がリーダーシップを発揮して運動を牽引してきた団体だったとも言える。しかし、そういう時代ではなくなってしまった。利用者は、別の青春(ライフスタイル)に熱中しだしたからです。だからこそ、宿側は、明確にユースホステルというライフスタイルを提案していかなければならないのです。長くなったので、今回は、これまで。次回でこのシリーズの最後とします。

つづく

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2011年02月15日

ユースホステルは甦るのか?26

ユースホステルは甦るのか?26

 毎日旅行社が調査した、面白いデーターがあります。世代によって、旅行好きの世代と、出不精(旅行嫌い)の世代がいます。そして、旅行好きな世代の息子たちは、同じく旅行好きであるという統計結果がでています。具体的に言うと、戦中派と団塊の世代は旅行好き。昭和一桁世代は、出不精(旅行嫌い)の世代です。そして、団塊ジュニア世代と戦中派ジュニア世代は、旅行好き。昭和一桁の親をもつ世代は、出不精(旅行嫌い)だったりする。





 私の親は、昭和一桁ですから出不精(旅行嫌い)の世代にあたりますが、確かにそうかもしれません。逆に、うちの嫁さんは、団塊ジュニア世代であり、旅行好きの世代ということになりますが、これも当たっています。

 スタッフの土井君も、団塊ジュニア世代で旅行好きの世代ですが、彼の御両親も旅行好きです。というか彼の御両親は、若い頃にユースホステルを使って旅をした世代です。だから息子にも自由に旅をさせましたし、ユースホステルも教えました。

 ちなみに土井君の一人旅は、小学校の卒業旅行からです。
 凄いもんです。中学校の時にも卒業旅行に一人旅をしたとか。
 よく親御さんが許したなあと思います。

 それに対して、私の親は絶対に一人旅を許さなかった。それどころか自転車で県道を走るのさえ、なかなか許可してくれなかった。小学校6年生の時には、友だちと、佐渡島の標高わずか千メートルの山に登山をしようと企画したのですが、私の親は許さなかった。土井君の家庭と比べてみると、恐ろしいくらいに過保護だった。

 これは、私の家だけでなく、他の家でも似たようなものだった。というのも、小学生だけの登山を許可しなかったのは、私の家だけでなく、山に行こうとした同級生の親の全員が許可しなかった。つまりどの家も許可しなかった。標高わずか千メートルの山にも許可しなかった。

 もちろん、みんなの親は昭和一桁生まれです。彼らの子供の頃には、大日本青少年団が存在していた時代です。この世代は、少年の一人旅を、なかなか許さない。もちろんユースホステルも知らないし、子供の頃は、
「知らない人と口をきいてはいけない」
と親に言われて育っています。

 もちろん親の言いつけ反抗はしない。
 こっそり親の目を盗むことはあっても反抗はしない。
 昭和一桁生まれの親は、頑固で子供のしつけに厳しいのです。
 こういう親の元で育つと、なかなか一人旅をしようと言う気にはならない。
 だからユースホステルの存在を知らないまま大きくなっていく。

 ところが、私より十歳年下になると、つまり団塊ジュニア世代になると一人旅に出かける人が多い。簡単に親から一人旅の許可をもらっているし、家庭によっては親がユースホステルを紹介して、一人旅をすすめたりする。

 団塊の世代は、さかんにユースホステルで旅をした世代なので、一人旅が「いかに人生に役立つ」かを良く知っている。一人旅の効果をユースホステルの素晴らしさを実に良く知っている。だから息子たちにも、さかんに一人旅をすすめる。


110210-5-01.JPG


 どうしてすすめるか?

 体験的にユースホステルが提供する青春(ライフスタイル)を知っているからです。それが息子や娘たちに大きなプラスを与えるかを体験的に知っているからです。しかし、その知っている世代が壊滅しつつある。滅びつつある。だからユースホステルは、どんどん会員を減らしつつある。これではいけないんですよね。なんとかしなければならない。

 私たちユースホステルのマネージャーや、ユースホステル協会は、それに対する対策をたてないといけないが、実際には、何もしてない。というのも今までは、過去の貯金で食べてきている。過去の貯金。それは、利用者の口コミです。ユースホステルの素晴らしさを宣伝するのは、使っていただいた利用者の口コミに
たよっていた。それにあぐらをかいて自ら宣伝をしてない。ユースホステルが提供する青春(ライフスタイル)について、明確に示してない。これが一番の問題です。


110210-5-03.JPG


 実は、これに気がついたのが、北軽井沢ブルーベリーYGHがオープンして2年目に入る2002年の3月頃でした。とにかくユースホステルが提供する青春(ライフスタイル)を分かりやすく、みんなに伝えないといけないと思い、私は、体験プログラム(ツアー)の実費以外の無料化を決断しました。

 無料でツアーは行う。
 しかし、条件をつける。
 条件は、たった一つ

「ツアー参加者には、写真を広報で使わせてもらう」

 これだけです。
 
 

 
 
 そして、10年間、無数の無料ツアーを行い、

http://tour.kaze3.cc/calender2.htm
http://tour.kaze3.cc/calender3.htm

 これらのツアーで莫大なデジタル画像をあつめ、
 ユースホステルが提供する青春(ライフスタイル)を撮り貯めた。

 この計画には多くの友人たち(『風のたより』の仲間たち)が、この戦略に手を貸してくれた。これが、また、ありがたかった。大勢のスタッフが、大勢のヘルパーたちが私たちの作戦にのってくれた。そしてツアーに参加してくれた。

 1回のツアーで二百枚くらい撮影しているので、累計二十万枚くらいの画像がたまっています。日本広しと言えども、これほど自由に使えるツアー画像をもっているのは、北軽井沢ブルーベリーYGHぐらいでしょう。

 ただし、この試みは、必ずしも回りのユースホステルに好意的に見られたわけではありません。しかし、十年にわたって、ユースホステルが提供する青春(ライフスタイル)の資料を集めた意義は大きかった。というのも私は、これらの20万枚の写真を使っていくらでもPR活動をすることができる。



つづく

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2011年02月12日

ユースホステルは甦るのか?25

ユースホステルは甦るのか?25

 いつからユースホステルが衰退したかというと、これはもうハッキリしている。横山祐吉氏が日本ユースホステル協会から退いた昭和47年からです。

 ちなみにユースホステル利用率が爆発的に増加しはじめた昭和30年の大学進学率は13パーセント。ほとんどの人間は、進学せずに勤労していた。そして大学進学率の推移は、昭和45年までの15年間の間に、たったの4パーセントしか上がってない。

 つまり昭和30年から45年の間の青少年たちの大半は、勤労青年だった。
 そういう時代にユースホステルは、爆発的に発展していった。

 しかし、ある時期から日本の青少年たちは、ユースホステルの提供する青春に興味を失ってしまった。彼らは、学校という青春を享受しはじめたからです。そのうえ何を血迷ったか、文部省は、高校生のユースホステル運動を禁止してしまった。ユースホステル界にとって将来の貴重な人材を根こそぎ絶ってしまった。

 でもまだ、この時代には貯金があった。衰えたとは言え、ユースホステルには、まぶしいくらいの魅力が残っていた。そのために日本の青少年たちは、ユースホステルという青春を知っている人と、ユースホステルという青春を全く知らない人に別れていきます。

 この分離が、後日、悲劇を生みます。
 ユースホステルという青春に対して、
 偏見のようなものが、
 じわじわと社会に育っていくからです。

「はあ? 一人旅のどこが面白いの?」

 しかし、こういう偏見が蔓延するとユースホステルという青春にのめり込んでいる人たちは、そうでない人たちに説明しようとしなくなる。自分の趣味の世界に没頭してしまい、一種の世捨て人のようになってしまう。そして今で言う「オタク」扱いをされてしまう。





 良くも悪くも団塊の世代では、全員が高校に進学しなかったし、進学したとしても普通科に行くとは限らず、工業科・商業科・水産科・農業科に行く人の方が多かった。大学に行くのは、ほんの一握りだった。つまり、ある程度価値観の多様化が認められていたし、全員が同一価値観を強制されることはなかった。しかし、昭和47年以降になると受験戦争が激化し、猫も杓子も高校にいくようになってしまう。それも大学進学を前提とした普通高校に集中するようになる。そうなると、普通と違う価値観をもった人間は、とても生きにくくなる。

 学園生活に熱中する人たちは、クラスメイトとのつきあいや、部活動、受験勉強などをとうして「クラスの団結」という言葉を錦の御旗にしだしたし、教師たちもそれを支援しました。友だちは、同じ学年の同じクラスに限られるようになってしまった。

 そういう世界が「あたり前」になってしまうと、ユースホステルの世界が異常にみえてくる。出身地も違うし、年齢も違う。何から何までバラバラでありながら、一期一会の出会いの中で、ほんの一瞬の間に、ものすごく仲良くなってしまう人たち。そのくせ、明日は、バラバラに去っていく。そういう世界が、学園生活に熱中する人たちに異常に見えてくる。

 だから衝撃をうける。
 単一な価値観の中に生きた人ほど衝撃をうける。

 肯定的に衝撃をうけた人は、ユースホステルっていいなあと思い、ますますユースホステルにのめり込んでいく。否定的に衝撃をうけた人は、ユースホステルを使う奴らは、一般社会からはずれていると、ユースホステルから距離を置く。

 良くも悪くも、団塊の世代以前の時代には、そういう衝撃は無かった。しかし、みんなが右えならえで普通高校に進学し、猫も杓子も受験勉強をはじめ、クラスメイトという狭く限定された人づきあいしかしなくなると、ユースホステルに出会ったときの衝撃は大きい。

 そして、衝撃が大きければ大きいほど、反応も大きい。
 反発も大きければ、
 感動も大きくなる。
 で、私は、感動した口であり、
 私の嫁さんも感動した口です。

 しかし反発した人も多かった。
 私の同級生の中には、ユースホステルに対してネガティブに攻撃する人も少なからずいた。
「社会のクズの集まり」
「宗教ぽい」
など、無茶苦茶なことを言ってくる人もいました。
そのくらいに酷い偏見を受けた。
逆に言えば、それだけ彼らは
「受験戦争」
「クラスの団結」
「部活動」
といった画一的な価値観に縛られていたと考えることもできる。





 この時代は、全国民が紅白や水戸黄門を見たし、巨人戦を見た。見ないと話題についていけなかった。マイノリティは肩身が狭かった。だからどの家庭でも無理してテレビを買った。無理して、みんなと一緒でいようとした。そういう時代だからこそ、ユースホステルに出会うと衝撃をうけた。団塊の世代たちより衝撃が大きかった。衝撃が大きい故に、ユースホステルに熱中する人は、どんどんはまり込んでいった。

 インターネットが無かった時代は、ユースホステルがインターネットそのものだった。北海道旅行する時には、津軽海峡を渡ってすぐにある大沼ユースホステルか、函館ユースホステルで、これから帰ろうとする御客さんから口コミ情報をもらって旅だって行った。四国旅行や中国旅行をする時には、京都宇多野ユースホステルに泊まって、そこにある各地のユースホステル口コミ情報をメモして、それをもとに計画をたてた。情報はユースホステルの中にあり、ユースホステル利用者の口コミが一番信頼できる情報だった。

 もっと分かりやすく言えば、昔のユースホステルは、「地球の歩き方」という海外旅行雑紙そのものだった。Google検索そのものだった。Yahoo!の知恵袋そのものだった。列車の時刻表に悩んでいると、どこともなく鉄道マニアの人が現れてきて、ダイヤとよばれる怪しい手帳をとりだして、アッという間に悩みを解決してくれた。どこのユースホステルにも、インターネットの駅ネットみたいな人が御客さんとして泊まっていて旅慣れてない人に親切にアドバイスしていた。城マニアもいたし、歴史マニアもいたし、山マニアも、看板マニアも、郵便局マニアも、路線バスマニアも、スケッチマニアもいた。地域の生き字引のような常連もいた。こんな多様な価値観が許される社会は他には無かった。

 さらにユースホステルは、人種のるつぼだった。いろんな国籍の人たちがいたし、いろんな年代の人たちもいた。しかし、ユースホステルで人種といったら、ちょっとニュアンスが違う。旅行形態の違いをいう。サイクリスト、チャリダー、ヒッチハイカー、とほダー、下駄、番傘、リアカー、乗り鉄、撮り鉄、JRラー、山屋、鳥屋、ライダー、バイカー、原チャリダー、忍者、仮面ライダー、ジプシー、カヌーなど、いろんな人種たちがいたので、いろんな面白い話が聞けた。画一的な学校生活しか体験したことがなかった当時の学生たちには衝撃的すぎて目がクラクラした。

 その結果、ユースホステルに青春の全てを捧げる人たちもでてきた。稼いだ金を全て旅に費やすひともでてきた。テレビもいらない。オシャレもいらない。就職もせずフリーターのまま、ただひたすら旅だけに生きる人たちもでてきた。ところが、そういう人たちも、30歳を越えるとユースホステルに泊まりにくくなった。ユースホステルは、若い人たちに独占されていた。

 そうなると、そういう世代を対象としたユースホステル形式の民宿が生まれた。当初は、ユース民宿といっていた。そこは酒もタバコもOKだったので利用者は、比較的高齢だった。こうしてユースホステルの類似施設が生まれていった。ユースホステルが提供した青春(ライフスタイル)は、確実に日本に定着するかに思えた。

 しかし、これがアッという間に滅びてしまった。
 劇的に滅びてしまった。





 原因は、ユースホステルが提供した青春(ライフスタイル)が何であるか、具体的でなかったことにあります。ユースホステルで何が出来るのか? ユースホステルに行くことによって、どういう風に生活が変わるか具体的に分からない。というか説明できない。ユースホステルの良さは、言葉では分からない。行ってみるまでわからない。そういう特殊性が、滅びる原因となってしまった。

 これが昔なら
「とにかく行ってみよう」
という事で出かける人も多かった。

 ところが、昭和60年頃から様子が変わってきた。旅行会社のマーケッティングによるPR活動によって情報が氾濫し、情報を御客さんが選択できるようになった。そうなるとユースホステルというインターネットもどきは必要なくなってきた。さらに旅行雑紙の普及が、テレビの旅行番組が、パソコン通信の普及が、インターネットの普及が、それに拍車をかけた。若者たちはアテのない旅をしなくなり、具体的なものに走った。例えばペンションという新しい宿泊施設に走り出した。ペンションは、ペンションに泊まるという青春(ライフスタイル)を具体的に写真にして御客さんに見せていた。それは、とても分かりやすいものだった。その逆にユースホステルという青春(ライフスタイル)は、分かりにくいままで放置されたままだった。


つづく

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2011年02月11日

ユースホステルは甦るのか?24

ユースホステルは甦るのか?24

 前回にも述べましたが、団塊の世代によって、青少年の人数が増えたからユースホステル利用者が増えたのではなく、青年団よりもユースホステルを利用する道を撰んだと考えるが妥当です。

 かって青年団は、巨大な牙をもっていた。機関誌は、日本最大の百万部という発行部数を誇っていた。今で言えば一千万部規模の雑紙を毎月発行していた。その日本青年団が、戦後にはサッパリふるわなくなってしまった。団塊の世代の青少年たちは、青年団ではなくユースホステルを撰んだ。青年団が提供する青春よりも、ユースホステルが提供した青春の方を好んだ。

 そう考えた方が無理がない。
 逆に言うと青年団の衰退が理解できれば、
 ユースホステルの衰退の原因が見えてくる。

 ある時期から日本の青少年たちは、ユースホステルが提供する青春に対して拒絶反応を示した。しかし、ユースホステル側は、それが分からずに、自分たちの成功体験ばかりを追ってしまった。つまり、マンモスの牙をますます大きくする方向に向かってしまった。

 じゃ、いつからユースホステルが衰退したかというと、これはもうハッキリしている。横山祐吉氏が日本ユースホステル協会から退いた昭和47年からです。昭和47年から減っている。で、昭和45年の高校進学率が、82.1パーセント。大学進学率が17.1パーセントです。ちなみに平成15年になると、高校進学率が、96.1パーセント。大学進学率が41.3パーセントです

http://www.gender.go.jp/whitepaper/h16/danjyo_hp/danjyo/html/honpen/chap04_08.html

進学率があがるとユースホステル利用率が下がる。



 ちなみにユースホステル利用率が爆発的に増加しはじめた
 昭和30年の大学進学率は13パーセント。
 ほとんどの人間は、進学せずに勤労していた。

 そして大学進学率の推移は、昭和45年までの15年間の間に、
 たったの4パーセントしか上がってない。

 つまり昭和30年から45年の間の青少年たちの大半は、勤労青年だった。
 そういう時代にユースホステルは、爆発的に発展していった。
 そして、青年団は小さくなっていった。
 これは何を意味するのか?

 勤労青年にとって、ユースホステルが提供する青春が、とても居心地の良いものだったとも言える。また、当時の大学生は、いわゆる裕福な階層であり、エリートであったとも言えますから、そういう大学生には、ユースホステルは居心地が良かったともとれる。何にしても大学進学率が低かった時代には、ユースホステルが提供する青春は、若者たちに好評だったという事実は、動かしがたい事実として受け止める必要がある。





 ちなみに、現在の(平成時代の)ユースホステルの状況も、これに似たデーターがあります。これは、北軽井沢ブルーベリーYGHに限ったデーターですが、北軽井沢ブルーベリーYGHのオープンから今年までの十年間において、リピートの多い御客さんは、学生ではありません。社会人です。二十歳の学生は、あまりリピートしない。しかし、二十歳の社会人は、盛んにリピートする。これが三十歳になると、もっと顕著になってくる。三十歳の学生よりも、三十歳の社会人の方がリピートが多くなってくる。

 これは、どういうことかと言いますと、学生時代には、学校という明確で分かりやすい青春がある。しかし、社会人になると、必ずしも自分にとっての青春があるとは言えない。おまけに出会いのチャンスも減るし、仕事仲間も横の繋がりというより縦の繋がりになっている場合が多い。社会人の世界は、自由気ままな世界であるとはかぎらない。そういう立場にある人は、ユースホステルが提供する青春にはまりやすい。

 しかし、すでに学校という青春をもっている人にとって、ユースホステルは単なる宿屋でしかない。ユースホステルを単なる宿屋として見られてしまっては、どうしても欠点が目立ってしまう。ドミトリーだし、規則がある。値段が安いくらいしか長所はみあたらない。

 ここまで書けば、私が何を言いたいか分かりますね?

 ある時期から日本の青少年たちは、ユースホステルの提供する青春に興味を失ってしまったということです。彼らは、学校という青春を享受しはじめたからです。井戸の外に出るのではなく、井戸の中の青春に興味をもちはじめた。スポーツや勉強に熱心に打ち込むようになったのです。



 そのうえ何を血迷ったか、文部省は、高校生のユースホステル運動を禁止してしまった。
 ユースホステル界にとって将来の貴重な人材を根こそぎ絶ってしまった。
 (ユースホステルは甦るのか?15を参照のこと)

 さらに不幸なことに、ユースホステル運動が、停滞をはじめる昭和47年以降は、
 学園ドラマが大ブームになります。

 俺は男だ!
 飛び出せ!青春
 われら青春!

 といった学園ドラマが全国の青少年たちの心をとらえ、若者たちは学園生活に青春をかけるようになりました。さらに『俺たちの旅』といった大学生の青春ドラマが若者たちの心をとらえ、『俺たちの朝』といった夢をもつ若者の青春群像ドラマが若者たちから支持されました。その後は、熱中先生、夕陽が丘の総理大臣、金八先生、スクールウオーズといった学園ドラマが、ジャンジャン大量生産されていきます。青少年たちは、善悪は別にして、ますます学校生活にのめり込んでいきます。



 このとき、ユースホステル業界は、もっと学校というものを真剣に考えるべきだった。学園生活に打ち込む若者たちに、何かしかけるべきだった。もともとユースホステルは、学校からスタートしたしたものだったのだから。でもまだ、この時代には貯金があった。衰えたとは言え、ユースホステルには、まぶしいくらいの魅力が残っていた。そのために日本の青少年たちは、ユースホステルという青春を知っている人と、ユースホステルという青春を全く知らない人に別れていきます。

 この分離が、後日、悲劇を生みます。
 ユースホステルという青春に対して、
 偏見のようなものが、
 じわじわと社会に育っていくからです。

「はあ? 一人旅のどこが面白いの?」

 この偏見は、ユースホステル側が、ユースホステルという青春(ライフスタイル)を青少年たちに、きちんと伝えてないために生じたものです。どうして伝えられなかったかと言いますと、そもそも横山祐吉氏が、日本ユースホステル協会を脱イデオロギー団体にしてしまったために、具体的に説明する技術をもってなかったためです。

「ユースホステルとは、◇◇◇である!」

という説明を横山祐吉氏は禁止し、

「なんでもありがユースホステルだ!」

と言ってしまったために、説明しにくい青春(ライフスタイル)になってしまった。
それが学園生活をおくる若者たちに理解してもらいにくい存在になってしまった。

甲子園をめざして野球に打ち込むことは理解できても、
ユースホステルを使って旅する意義は、経験してみないとわからない。
言葉では説明しにくい。



つづく

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2011年02月10日

ユースホステルは甦るのか?23

ユースホステルは甦るのか?23

 日本のユースホステル運動は、世界史に無いくらいな驚異的な速度で大きくなった。
 これは日本史上、他に類が無いくらいだった。
 ということは、あきらかに日本ユースホステル協会には、牙があった。
 そして、牙が大きくなっていった。
 マンモスやサーベルタイガーのように。

 と書くと
「団塊の世代があったからな」
「団塊、つまりベビーブーム世代がユースホステルを支えたんだよ」
「あと昔は類似施設がなかったからね」
と言い訳する関係者がいます。

 もう、そう言われると新参者の私は、ずっと黙ってしまうしかないのですが、ユースホステル業界しか見えない人ほど、そういう風に現象をとらえる傾向があります。

 これは実に残念なことです。
 そんな簡単な問題ではない。

 ユースホステルの栄枯衰退を青少年たちの数や、類似施設との競争のせいにしては何も見えなくなる。もっと検証してみた方がよい。皆さんも、ちょっと考えてみてください。ユースホステル業界に存在した大きな牙の正体は何であったのか?





 確かに団塊の世代とともにユースホステル業界は巨大化し、団塊の世代の終わりと共にユースホステル業界は、小さくなっている。しかし、一方、日本青年団・日本青年団協議会は、団塊の世代の時代になっても決して巨大化しなかった。どんどん小さくなっていった。

 日本ユースホステル協会が巨大化しているのに、
 日本青年団協議会は、大きくならなかった。
 だから人数(少子化)の問題ではない。

 つまり、団塊の世代の青少年たちは、
 青年団を生活の場に撰ばなかった。
 彼らの一部は、ユースホステルを撰んだ。

 つまり団塊の世代の人数が増えたから
 ユースホステル利用者が増えたのではない。
 団塊の世代の青少年たちは、
 それまであった青年団よりも
 新しくできたユースホステルに魅力を感じた。
 そう考えた方が自然です。


 そして、その魅力こそがサーベルタイガーの牙であると。





 青年団にも、かっては巨大な牙が存在した。機関誌は、百万部という日本最大の発行部数を誇っていた。しかし、ある時期に、その牙は、自らの成長を妨げてしまった。マンモスやサーベルタイガーの牙が大きくなりすぎた。そこに登場したのがユースホステルだった。そう考えた方が無理がない。とすると、日本青年団の衰退を理解することが日本ユースホステル運動の衰退を理解することに繋がる。

 昔の青年たちは、青年団に魅力を感じた。
 そこには若い力をぶつける場所があった。
 夜間講習会があり働きながら勉強できた。
 高価だった本が置いてある図書館もあった。
 悩みがあればみんなに相談できたし、男女交際の場所もあった。
 夜這いという特殊な世界もあった。
 祭りでは、大人をおしのけて村の主役になった。
 みんなで金を出し合いながら、交代で代表をお伊勢参りに出した。
 村の若者たちみんなで助け合い、お互いにいたわりあった。
 つまり青年団は、青年たちの生活の場であり、青年たちの青春そのものだった。

 しかし、その青年団も、戦後はふるいませんでした。戦後のベビーブームで生まれた団塊の世代たちは、そのような青年団から距離をおきはじめた。青年団に青春を預けようとはしなかった。かっての青年団の魅力が、団塊の世代の青少年たちには、
「うざい」
ものに見えた。

 青年団は、村を基盤としている。

 村を青年の力で変えていくというのが青年団に青春を預けた人たちの理想だった。しかし、団塊の世代たちは、村そのものをダサイと感じた。村という狭い世界を嫌って、未知の世界に飛び出していった。すすんで集団就職で上京し、村の親に仕送りするようになった。団塊の世代は、新しい世界に飛び込んでいくチャレンジャーだった。つまり、彼らが求めていた青春は、青年団が提供する青春とは別のものだった。むしろ正反対のベクトルをもっていたものだった。それは狭い世界にとらわれない自由な生き方だった。

 だから団塊の世代の青年たちは、村を基盤とした青年団でなく別のものを撰んだ。
 会社であったり、宗教であったり、政治活動であったりした。
 もちろんユースホステルを撰んだ者も多かった。

 ユースホステルは、脱イデオロギーな組織であり、組織としての目的も曖昧な自由な世界だった。だから自由を愛する団塊の世代は、ユースホステルに魅力を感じた。ユースホステルには、ルールさえ守れば、しがらみのない自由さがあった。気に入らない宿やグループは、自由に捨てることができた。





 そのくせ、ユースホステルの世界は孤独ではなかった。
 普通なら「自由」は、孤独を生む。
 村社会にありがちな「お節介」が無ければ「自由」になれる。
 しかし、その自由は孤独とセットなのです。

 田舎を捨てて、上京すれば自由を得られる。
 しかし、都会の孤独も襲ってくる。
 誰もかまってくれないコンクリートジャングル。
 いつしか孤独感が、こみあげてくる。

 しかし、日本のユースホステルには、「孤独」は無かった。
 横山祐吉氏の天才的な手腕で「孤独」という副作用を最低限に抑えた。
 グループ活動を盛んに導入したからです。
 (詳しくは、ユースホステルは甦るのか?13を参照すること)
http://kaze3.seesaa.net/article/182309283.html

 そのうえ御茶会(ミーティング)をユースホステルに採用した。
 歌も踊りも採用した。
 これによって「孤独」を感じさせない「自由」を旅人に提供した。

 こうして団塊の世代の青年たちは、盛んにグループ活動を行って自由を謳歌した。
 自由に一人で旅しても「孤独」とは無縁だった。
 ユースホステルという旅は、自由と平等の象徴だった。

 さらに、御茶会では、みんなで歌を歌ってダンスも踊った。
 孤独という副作用は、ますます少なくなっていった。

(皮肉なことに、この現象は、21世紀になって秋葉原で復活することになる)





 フォークソングとフォークダンスは、ユースホステルから広まった。最初はフォークダンスとは言わずにスクエアダンスと言いました。GHQの指導の下でアメリカ軍人の講師を招いて横山祐吉氏が日本青年団に積極的に取り入れたものでしたが、青年団では広まらずに、ユースホステルで広まりました。横山祐吉氏は、その普及活動の先兵だった。横山祐吉みずからスクエアダンスを若者たちに教えてまわった。日本ユースホステル協会の古い幹部は、横山祐吉に踊りを習った。

 それがいつしかフォークダンスとなり、ユースホステルでオリジナルな踊りに変質し、学校教育に取り入れられるようにもなりました。新米教師の多くは、ユースホステルのホステラーでした。やがて体育の授業で子供たちがフォークダンスを踊らされるようになり、音楽の教科書にかってのフォークソングが載るようにもなった。

 こうしてユースホステルを巨大化させる牙は、どんどん大きくなっていった。
 そして青年たちを青年団でなくユースホステルに集めることに成功した。
 ユースホステルは、団塊の世代の青少年たちに
「ユースホステルという別の青春」
 を提供した。
 団塊の世代たちは、その青春をいたく気に入ってしまった。
 これが日本ユースホステル運動のマンモスの牙となった。

 しかし、その牙は、ある時期から自らの生命を犯すようになるかもしれない。青少年に、別の青春が生まれることによって、ユースホステルは、青年団と同じような運命をたどるようになるかもしれない。では、別の青春とは何か?

つづく

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2011年02月09日

ユースホステルは甦るのか?22

ユースホステルは甦るのか?22

 今回は、ちょっと趣向を変えて生物の進化について語ってみます。生物の種は無数に現れては消えていきます。弱肉強食の競争の中で、多くの種が競争に敗れて消えていきました。そのうえで生命体は、幾多の大量絶滅の時代をえて今日の姿を残しています。これらの生存競争の浮き沈みの中で、ある種の法則があるのを発見したのは、明治元年生まれの丘浅次郎です。丘浅次郎は、生命体の生存競争で勝ち残ってきた生命体は、その勝利原因によって滅びることを発見しました。

 例えば、サーベルタイガー。

 世界最大の牙をもったサーベルタイガーは、その牙の大きさ故に、どんな哺乳類にも負けない強さを誇り、おそらく食物連鎖の頂点にたったと思われます。牙が大きければ、大きいほど強い。だから適者生存の結果、サーベルタイガーの牙は、どんどん大きくなってきます。サーベルタイガーだけではありません。





 マンモスもそうです。牙が、どんどん大きくなっていく。氷河期で餌が少なくなると、少ない餌をめぐって争奪戦になる。そうなると、牙が大きいほど餌を確保しやすくなる。だから適者生存の結果、マンモスの牙は、どんどん大きくなってきます。牙が大きいほど生存率が高くなるからです。

 しかし、サーベルタイガーもマンモスも、ある時期に滅びてしまいます。原因は牙の大きさによって、アゴが牙を支えられなくなり、食事も満足にとれなくなるからです。サーベルタイガーは、野ねずみのような小さな獲物をしとめられなくなるし、マンモスは林の中に入れなくなる。ある時期まで有利だった条件が、あるラインを越えると、生存には不利になっていく。じゃあ、牙を小さくすればいい話しなのですが、そうはいかない。長い間に形成された遺伝子は、子孫が減り始めると、なおのこと牙をどんどん大きくしてしまい、ついには種が絶滅してしまいます。





 この丘浅次郎の理論は、生物の進化だけでなく、
 私たちの社会にも当てはまることが多いように思います。
 ちょっと例をあげてみましょう。

 その昔、戦後の日本の復興を支えたのは、国鉄であり、ダムであり、優秀な官僚であり、教育水準の高さだと言われていた時期がありました。

 国鉄は、復員兵士たちを吸収して雇用を確保し、新しい技術を開発して、国鉄一家と呼ばれるほどになり団結を誇りました。渥美清主演の国鉄映画シリーズが生まれたくらいに模範的な企業だった。ダムの建設は、水資源の再利用と公共事業による景気対策をすすめ、工業化のためのインフラの整備をすすめました。優秀な官僚たちは、日本経済をひっぱっていきました。高度な教育水準も日本経済を陰からささえました。これらは、サーベルタイガーやマンモスの牙のように日本を世界第2位の経済水準におしあげた原因だと言われています。

 しかし、これらの牙は、ある時期から日本経済の足を引っ張るようになります。国鉄は赤字を出し、ストライキばかりでサービスは酷くなるばかり。ダム建設も利権と汚職の温床になってきました。優秀だったはずの官僚も天下り利権の話しが聞こえ始めました。教育は、金をかければかけるほど荒廃していき、国際的な学力はどんどん低下していきました。どれもこれもサーベルタイガーやマンモスの牙みたいになってきているのです。こうなると牙を大きくするという発想は滅びへの道に見えてさえきます。もっと別の発想が必要になってきます。





 では、かって急成長したユースホステル界には、どんな牙があったのか?
 
 ここに、ユースホステル運動の復活の鍵があります。しかし、その鍵を見つけるには、慎重に、そして正確に歴史を検証する必要があります。私が、くどいくらいにユースホステル運動の歴史の検証にこだわってきたのは、そのためです。

 安易な思いつきでは、ユースホステルの再建はできない。誰かが捨てられてしまった歴史を掘り起こして、それらを再検討して貴重なノウハウとして積み重ねていくしかない。それをしないで単なる思いつきで改革を始めたら悪い方向に流れてしまう。歴史をみてもわかるように、根拠のない思いつきでアッという間に滅びた組織ならいくらでもあります。


 というわけで、いよいよ結論です。
 ユースホステルには、どんな牙があったのか?
 そして、どんな牙がユースホステルを滅ぼそうとしているのか?

つづく

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2011年02月04日

ユースホステルは甦るのか?21

ユースホステルは甦るのか?21

 この鈴木重郎の洞察は、正論すぎる。
 天才的な推察としか言いようがない。
 さすが横山祐吉のライバルであっただけのことはある。

 しかし、彼の正論によって、日本ユースホステル運動は政治的な活動に足を突っこんでしまったかもしれない。日本青年団協議会のように。


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 横山祐吉が働いた日本青年館は、田澤義鋪が作ったようなものでした。つまり田澤義鋪こそは、青年団の父親みたいなものでした。で、田澤義鋪は徹底した自由主義者だった。青年たちに愛情をそそぎながらも彼らには自助論の精神で接しました。社会を改革するのではなく、おのれ自身の向上を説いたのです。つまり骨の髄から自由主義者だった。

 そういうことろに熊谷辰治郎や横山祐吉が弟子入りした。
 当然のことながら2人とも自由主義者になります。
 何度も憲兵に連行されるくらいですからバリバリの自由主義者です。

 ところが、バリバリの自由主義者になってしまうと、その自由主義の原理によって、国家社会主義の本まで作ってしまうことになる。自由主義というのは、言論の自由を認める主義ですから、自由主義の敵であってもその言論を封印することはない。だから青年団が欲しいと言ってくれば、たとえ自分の信念とは違う本でも出版してしまう。熊谷辰治郎も横山祐吉も、そういうことをやっていました。

 ところが田澤義鋪が、そういう行動を怒ったわけです。
 で、熊谷辰治郎と横山祐吉は驚いた。

 この二人の弟子たちは、自由主義者であるはずの田澤義鋪に怒られて目を白黒させたわけです。自由主義者のしせに国家社会主義の思想の入った本を出版してはならん怒り出す。これじゃ自由主義者の原則にはずれているではないかと。本物の自由主義者なら自分と違う意見も認めるはずでしょ? 田澤義鋪先生は、ちょっと矛盾しておるぞと。そのように思ったわけです。


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 しかし、それから何年もたたないうちに日本から自由な言論が無くなってしまった。田澤義鋪も日本青年館から追いだされ、次郎物語の下村湖人も青年団研修所を追放されてしまった。気がついたら日本青年館には、バリバリの国家社会主義たちが占拠していて、ヒトラーユーゲントを歓迎する準備をしていた。そして初めて横山祐吉は、
「ああ、こういうことだったのか」
と思ったわけです。田澤義鋪先生は、これを防ぎたかったんだと。

 横山祐吉は、こういう体験を戦後にもしています。

 GHQが潰そうと考えていた日本青年館を守り、日本青年団の復興のためにがんばり、日本青年団協議会をたちあげて事務局長までやったにもかかわらず、青年団の政治的な活動の中でしだいに干されていくのです。仕事が無くなるのです。その時も、こう思ったはずです。ああ、こういうことだったのか。田澤義鋪先生は、これを防ぎたかったんだと。

 この2つの体験によって横山祐吉は、脱イデオロギーをめざすなら
 権力を使ってでも、専制君主になってでも、
 たとえ正論でなくても、
 筋が通って無くても、
 日本ユースホステル協会をイデオロギーから守りたかった。


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 だからライバル関係にあった静岡県ユースホステル協会の鈴木重郎氏が、
 どんな正論でもって議論をしかけても横山祐吉は微動だにしなかった。
 正論が、良い結果をもたらすとは思ってなかったのでしょうね。


 ちなみに横山祐吉の師匠である熊谷辰治郎は、
 戦後の日本青年団に正論で戦いをしかけました。
 日本青年連盟なる別組織を作りました。
 だから日本青年団協議会のメンバーの一人は熊谷辰治郎に殺意を覚えたとまで言っています。

 しかし、横山祐吉は、中山正男氏と相談して違う方法を撰びます。
 日本青年団協議会と揉めません。
 結論を言うと円満退職します。

 横山祐吉は中山正男氏に相談すると、
「だったら日本ユースホステル協会の事務局にこい」
と言います。

 しかし、日本ユースホステル協会には金がない。横山祐吉に払う人件費が無い。3人の子供が大学に行ってるので横山祐吉は無給では働けない。ただ、日本青年団協議会の方もできれば横山祐吉氏を追い出したかった。

 で、中山正男氏は、日本青年団協議会と繋がりのある静岡県ユースホステル協会の鈴木重郎氏と一緒に、東洋醸造所(静岡県)に出かけていった。中山正男氏にしてみれば、横山祐吉を日本ユースホステル協会の戦力にしたいし、日本青年団協議会にしてみれば、うるさい爺さんには消えて欲しい。で、鈴木重郎氏と中山正男氏の利害が一致して東洋醸造所(静岡県)に出かけていった。そして

「日本ユースホステル協会で横山祐吉氏を使いたいので毎月いくらかの金をくれませんか」

と御願いしました。


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 そして毎月5万円(当時としては大金)の援助をしてもらえるようになった。
 名古屋市内の会社で、高卒初任給8200円の時代の5万円でした。
 その御礼に東洋醸造所の社長が、日本ユースホステル協会の2代目会長になったわけです。
 ある意味で横山祐吉にとって、中山正男氏と鈴木重郎氏は恩人でもあった。
 で、横山祐吉は恩は決して忘れないタイプの人間でもあったようです。


つづく

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2011年02月03日

ユースホステルは甦るのか?20

ユースホステルは甦るのか?20

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 日本ユースホステル協会を創設した中山正男氏は、大きなことをやることが好きでした。大風呂敷を広げることが大好きだった。で、日本ユースホステル協会を巨大化させることに全力をつくしました。彼の目標は、日本ユースホステル運動を大きくして派手な活動を行って世間を驚かせる。大雑把に言えば、これにつきたと思います。彼の本質は無思想であり、あるのは浪花節と人情のみ。親子愛のみ。戦後、政治も思想も教育も何もかもが変わった中で、普遍だったのが馬喰一代の親子愛だった。その親子愛の延長が彼にとってのユースホステル運動だった気がします。

 これに対して横山祐吉氏には、明確なグランドデザインがあった。しかし、それを中山正男氏に訴えた形跡は無い。いや、訴えなくてもよかった。中山正男氏は、そういう細かいことには口出ししなかった。横山祐吉氏に全部任せていた。ただ、大法螺を吹いてその実行を命令するのが中山正男氏の癖で、その大法螺は、必ず実現されてしまった。そのために日本ユースホステル協会は、わずか二十年で、日本最大クラスの財団法人にまで発展しました。


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 横山祐吉氏は、そういう発展の中で着々と自分の計画(グランドデザイン)をすすめていった。計画(グランドデザイン)とは、ユースホステル協会を目的をもたない団体にする。つまり脱イデオロギーな団体にすることです。目的は、個人個人にまかせてしまおうというのが横山祐吉氏の考えです。つまり会員には『自助の精神』を持たせるのが横山祐吉氏の考えです。

 それに反抗したのが、静岡県ユースホステル協会の会長である鈴木重郎氏です。
 彼は、それではまずいと言った。
 ユースホステル協会としての目的を持つべきだと言った。
 そして自助の精神よりも社会を改革していくことが大切であると述べました。
 鈴木重郎氏と横山祐吉氏は、思想の上で真っ向から対立していました。

 ところが、思想上、対立はしていても、
 横山祐吉氏が反論した形跡は無い。

 横山祐吉氏は、鈴木重郎氏の言論を塞いでない。自由に言わせている。そして、静岡県協会の活動も自由にやらせている。鈴木重郎氏を日本ユースホステル協会の理事として迎えている。ただし、本部の人事には口出しさせてないし、本部では横山祐吉氏の権力は強かった。そのうえで鈴木重郎氏を役員として丁重に迎えている。このへんが面白いところです。


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 ちなみに鈴木重郎氏は、日本青年団協議会の初代事務局長です。横山祐吉氏は、2代目事務局長です。そして初期の頃からユースホステル運動に関わってきた人であり、古いつきあいをもっています。しかし、お互いは決して仲がよいとは言えなかった。鈴木重郎氏は、社会党の人で左寄りだったということもあります。日本青年団協議会時代には、文部省に喧嘩を売り日本青年団の思想をリードした人でもあります。

 ところが横山祐吉氏は、そういった『特定の思想』が嫌いだった。だから鈴木重郎氏が何度も
「ユースホステル運動の指針を示せ」
「ユースホステル協会は長期計画をたてろ」
「総括をしろ」
と言ったにもかかわらず無視を続けた。

 さらに鈴木重郎氏は、いろんな事を言っている。理事会の発言でも、凄いことを言っている。そして、彼の発言の全てが正論づくめなのです。会員の役員の選挙権を認めろとか、でなければ、どういう趣旨で活動しているか明確に示せとか、今から思えば正論過ぎるくらいに正論を言っている。

 もし、ユースホステル協会のやっていることが青少年運動だとしたら趣旨が分からなければ詐欺ですよね。どんな趣旨か分からないNPOに金は出せない。逆に趣旨が明快でないならば、それはサークルと同じだから会員に選挙権がなければおかしい。そうじゃなくて、趣旨が曖昧で、会員に選挙権が無いとしたら、ユースホステルの会費は、どういう性質なものになってしまうだろうか?

 運動に対する寄付でもなく、
 サークルに対する会費でもない。
「じゃあ何だ?」
 と問われると答えは一つしかない。

 利用権。

 しかし、会費が利用権ならば、公営ユースホステルが全国に網羅されたら誰も払わなくなる。公営ユースホステルが網羅されないとしても、類似施設(つまり民宿やゲストハウスなど)の誕生で誰も払わなくなる。そうなると類似施設によって既存のユースホステルは、滅びるぞと鈴木重郎氏は、昭和五十二年頃に叫んでいた。

 この鈴木重郎氏の洞察は、正論すぎる。
 天才的な推察としか言いようがない。
 さすが横山祐吉氏のライバルであっただけのことはある。

 しかし、鈴木重郎氏が叫んだ頃は、中山正男氏も横山祐吉氏は墓の中でした。この鈴木重郎氏は、いつも正論を述べる。この正論だけで日本のユースホステル運動が、ここまで大きくなったかというと、そういう事は無いと思う。また彼の正論によって、日本ユースホステル運動は政治的な活動に足を突っこんでしまったかもしれない。日本青年団協議会のように。当時の若者というのは、無茶苦茶に暴走しましたから政治的な団体活動をするようになってしまったかもしれない。だから横山祐吉氏は、脱イデオロギー化をめざした。そのへんの事情は私にもよくわかる。


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 しかし、横山祐吉氏は「脱イデオロギー化をめざした」とは言わなかった。いつも禅問答で、のらりくらりと逃げた。自分の思想さえも無臭化してしまい、横山祐吉氏が何を考えているのか? 近い人にさえ誰も分からないという状態のまま放置し、墓の中に入ってしまった。残された日本ユースホステル協会の職員にしてみれば、いい迷惑だったかもしれない。


つづく

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2011年02月01日

ユースホステルは甦るのか?19

ユースホステルは甦るのか?19

 初期の頃の日本ユースホステル協会というか、中山正男氏は、大きな風呂敷を拡げるのが好きだったようです。公営ユースホステルを飲み込んだのもそのためだったようです。利用者の便宜をはかるためでもあったでしょうが、公営ユースホステルの有る無しでは、統計が違ってくるのです。年間の総宿泊利用者数が違ってくる。

 中山正男氏は、何でも一番が好きだったので、利用者の数、会員の数、ユースホステルの数が多いのが好きだった。で、公営ユースホステルを飲み込むなどの努力の結果、世界で2番目のユースホステル大国になったわけです。一番は、ユースホステル発祥の地であるドイツです。ドイツは、国ぐるみでユースホステル運動に力を入れているので1番。そして2番目が日本です。

 ここで重要なことは、1番と2番が第二次大戦の敗戦国だったという事実です。
 しかも2番が有色人種の国だった。





 ユースホステルの発祥はドイツであると言っても、ドイツは第二次大戦以降、しばらくは国際ユースホステル連盟に加入もさせてもらえませんでした。連盟の本部は、イギリスにあるのです。ドイツは、ヒトラーの時代に国際ユースホステル連盟を脱退しています。そのドイツが1番になった。国際ユースホステル連盟の会長もドイツ人が就任した。そして日本が2番になった。国際ユースホステル連盟の副会長に横山祐吉氏が就任した。

 これは、当時の状況から考えると凄いことなのです。

 これは、今の若い人には分かりにくいことかもしれませんが、第二次大戦も人種差別は凄かったのです。うちの嫁さんは、1972年生まれですが、その1年前までアメリカでは黒人に選挙権は無かった。横山祐吉氏が戦後の青少年運動指導者としてアメリカ視察に行ったとき、黒人のレストランに入ったわけですが、ものすごい大歓迎された。
「どうしてだろう?」
と不思議に思っていると、店のオープン以来はじめて黒人以外の人間が入店したからです。そのぐらいに世界中の人種差別は凄かった。

 東京オリンピックのときなど、はじめて大半の選手が閉会式まで帰らなかった。これはオリンピック史上初のことで閉会式には、世界中の選手が喜びながら入場してきた。日本のオリンピック関係者たちは「何故だろう?」と不思議に思って選手たちに聞いてみたら、彼らはこう答えました。

「日本人は有色人種の俺たちと、なんの偏見もなく握手してくれる」

 スポーツの世界でも、このくらい人種的な偏見は強かった。





 そんな中で、ましてや敗戦国の日本は、ものすごく肩身が狭かった。
 敗戦国というだけで世界中からバッシングされた。
 たとえば、戦後間初のオリンピックには敗戦国には参加資格を与えられなかった。
 ブリュッセルの南極観測の会議では
「なぜ日本がここに いるんだ。敗戦国日本には国際舞台に上がる資格はない」
と非難されました。

 それに反発した日本が南極観測参加に申し込んだとき、日本に割り当てられた観測場所は、南極東部のプリンス ハラルド海岸というアメリカ・イギリスなどの戦勝国が、7回も上陸を試みて失敗している場所を日本に押しつけてきた。アメリカ海軍の報告書には、接岸不可能と記されていた場所でした。よーするに、そういう嫌がらせさせられたわけです。しかし、その絶対に上陸不可能と言われたところに第一次越冬隊は上陸して、世界中を驚愕させる観測データーを持ち帰った。日本は、こういう差別と戦っていた。





 もちろんドイツも敗戦国だった。
 しかし彼らは人種差別されることはなかった。
 そういう世の中で生きてきたのが中山正男氏であり横山祐吉氏だった。
 これがわかってないと中山正男氏が大風呂敷を拡げる理由がわからないかもしれない。

 中山正男氏には、ユースホステル運動をもって世界に日本の国威を示そうという気概があった。横山祐吉氏に、それがあったかは定かではない。しかし、あったと思う。で、何をしたかというと、日本でユースホステルの国際会議を開いた。飛行機をチャーターしてホステラーをじゃんじゃん海外に送り込んだ。そして大儲けして、その資金を国際ユースホステル連盟に対するロビー活動に使った(のではないかと言われている)。


 そして、横山祐吉氏らは国際舞台で大活躍をするのです。しかし、どんな活躍をしたのかが、今ひとつ分かっていません。しかし、大活躍したことは間違いない。というのもドイツユースホステル協会が、横山祐吉氏を特別扱いしているからです。横山祐吉氏の墓が、リヒャルト・シルマンの墓の隣にあるからです。

 これは、ものすごいことであり、この事実を現在のドイツユースホステル協会の関係者の大半が、知っています。ウィルヘルム・ミュンカー(ドイツユースホステル協会の産みの親)の墓が何処にあるのか知らないドイツユースホステル協会の人も、横山祐吉氏の墓がリヒャルト・シルマンの墓の隣にあることは知っている。そういう人に私は何人も出会っています。つまり、そのくらい横山祐吉氏は、ドイツで知られている。


ウィルヘルム・ミュンカーの墓
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リヒャルト・シルマンの墓
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横山祐吉の墓
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つづく

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2011年01月31日

ユースホステルは甦るのか?18

ユースホステルは甦るのか?18

 キリスト教が日本に入ってきたとき、ゴッドを「天主」と訳しました。
 いい訳だと思います。
 もしゴッドを「仏様」と訳したら誤訳になりますね。
 ゴッドと仏様は別物です。

 しかし、現代ではゴッドを「神」と訳してますね。
 これは誤訳もいいところです。
 本来、神というのは、神道における超自然的存在のことです。
 絶対神のことではありません。
 しかし、キリスト教はゴッドを神と訳しました。
 これは誤訳です。
 だから「カミ」と言われたらゴットなのか神社の神様のことなのか
 文脈から推理しないと混乱します。


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 これと同じ事が、日本ユースホステル運動にもおきています。公営ユースホステルの存在です。日本では運輸省が公営ユースホステルを作りましたが、これは文部省管轄の日本ユースホステル協会とは別の組織です。で、日本ユースホステル協会こそが国際ユースホステル協会に所属している組織であり、公営ユースホステルは、全く別物です。その理由は、公式には会員証がなくも泊まれるからです。一般的に言ってユースホステルは、会員証が無ければ泊まれないことになっています。つまり身元がはっきりしてないと泊まれないのです。しかし公営ユースホステルは誰でも泊まれます。

 これをユースホステルといって良いのか?
 普通なら駄目です。

 国際ユースホステル協会の基準に達してないからユースホステルではない。ですから公営ユースホステルが出来たときに日本ユースホステル協会は、「ユースホステル」という文字を商標登録して使わせなくするか、それが駄目なら自らを改名して「ユーゲントヘヤベルゲ(ドイツ語)」などを商標登録してユーゲントヘヤベルゲ(ドイツ語)と、そうでないものを区別すべきだったでしょう。

 ところが、日本ユースホステル協会を創設した中山正男氏と横山祐吉氏は、そうはしなかった。公営ユースホステルも、日本ユースホステル協会の中に飲み込んでしまった。彼らは、あまり些細なことにこだわらなかった。もっと大きな世界に目を向けていってたのです。


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 しかし、この大局的な判断は、将来に禍根を残します。会員証を取り扱わないということは、忙しいときに煩雑な手間をかけなくてよいということになります。つまり、そういうユースホステルが得をするということになる。公営ユースホステルと、民営ユースホステル・直営ユースホステルの間に不公平な状況が発生します。

 さらに公営ユースホステルには、減価償却費というものがありません。国と自治体の予算で建設しているので建設費を経費に入れなくて良い。もちろん銀行に借入金の利息を払わなくて良い。ただでさえ民間のユースホステルに対して有利な経営をしているのに、会員証を取り扱わないという有利な材料をもっている。そのうえ日本ユースホステル協会に支払う上納金まで払わないところさえある。公営ユースホステルは、あらゆる面で恵まれている。にもかかわらず、日本ユースホステル協会は公営ユースホステルを飲み込んでしまった。不公平になるのを承知の上で、全国各地の公営ユースホステルを日本ユースホステル協会は認可してしまった。

 どうしてそんなことをしたのか?

 一つは、利用者のためです。公営ユースホステルは大規模なものが多く、ベット数も多い。つまり学校利用などの団体利用をしやすい。そのうえ自治体運営のために自治体から援助を受けやすい。つまり良い施設を維持できる可能性がある。それにせっかく運輸省が予算をだしてくれたのだから、わざわざ水をさしたくないということもあったでしょう。

 もう一つは、中山正男氏にしろ、横山祐吉氏にしろ、海外に目が向いていた。日本のユースホステル運動をジャンジャン盛んにして、会員を増やし、宿泊数を増やし、ベット数を増やし、施設数を増やし、ヨーロッパにホステラーの使節団を送り込み、世界に注目を浴びたいという意気込みがあった。そのためには、本来ならユースホステルと言っていいかどうか微妙な公営ユースホステルまでも日本ユースホステル協会が認可したのです。


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 実は、このような大局的な判断は公営ユースホステルだけにかぎりませんでした。地方協会の認可においてもゆるいものでした。東京などの一部を除いてじゃんじゃん認可していった。しかも、実に統制がゆるかった。フランチャイズのような商法上の契約を結ぶことなく、「やりたい」と言ってきた若者にジャンジャン任せていきました。

 そのうえ、国内のユースホステル運動さえも地方協会に丸投げしてしまった。逆に言うと、そのゆるい縛りによって若者たちの活動が活発になり、日本におけるユースホステル運動は爆発的に発展していきました。地方協会なしに初期の頃の盛んなユースホステル運動はありえませんでした。しかし、最初は若かった地方協会の役員たちは、どんどん高齢化していきました。そして、いつのまにか若者たちは消えていきます。中山正男氏も横山祐吉氏も積極的に若者たちを起用しましたが、起用された人は必ずしも若者を起用するとは限らなかった。


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 まあ、それはともかく、このゆるい組織の形態と、地方協会へのユースホステル運動の丸投げ、そしてグループ活動の積極的な活用によってユースホステル運動は、大いにもりあがりました。特に埼玉県ユースホステル協会や、静岡県ユースホステル協会は、一時期、ものすごいパワーをもっていました。地方協会が観光バスを自分たちで持っていたり、海外旅行を主催したりして大儲けしていたのです。もちろん他の県も活発な活動をしていました。ある時期までは、地方協会が潤っていた時代があった。そして国内は、地方協会にまかせて世界に目をむける中山正男・横山祐吉がいた。


つづく

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2011年01月28日

ユースホステルは甦るのか?17

ユースホステルは甦るのか?17

 宿屋にユースホステル運動への理解がなければ、会員は増えにくい。
 にもかかわらず、日本ユースホステル協会は、
 宿屋をぬきにしてスタートを切ってしまった。
 これは不幸なスタートでした。


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 そんな状況の中で横山祐吉氏は、ユースホステル運動を理解した宿屋を増やすべく縦横無尽の大活躍をしました。地方の青年団関係者の縁をたよって民間宿泊施設に余っていた部屋をユースホステル利用者に使えるようにしてもらったのです。横山祐吉氏みずから一軒一軒まわって旅館・神社仏閣・山小屋・庄屋などに部屋を提供してもらったのですね。

 実は、その時のことは、北海道のユースホステルでヘルパーしていた時に、オフシーズンに北海道を旅しているときに、複数のマネージャー(ペアレント)から聞いています。日本ユースホステル協会の横山祐吉氏が、頭を下げてまわったようです。だから、その頃からのマネージャーたちは、ユースホステル協会ができたときには、平身低頭、頭を下げてユースホステルになってくださいと言っておきながら、今になって、でかい面するなんて!と怒っていました。

 また、日本ユースホステル協会の広報をやっていた人が、横山祐吉氏に劣悪施設として、ユースホステル契約を解約したいリストを見せたときに、横山祐吉氏は
「俺が土下座して御願いした宿を切るのは許せん」
と突っぱねたと言います。横山祐吉氏にしてみれば、宿(ユースホステル)が無くて苦しいときに、青少年のために部屋を提供してくれた宿主を裏切ることはできなかったのでしょうね。横山祐吉氏には、こういう情があった。けれど、この情のために後年の利用者にしわ寄せが行ったりもした。


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 まあ、そんなことは、どうでも良いのですが、ここで重要なのは、初期の頃のユースホステルは、横山祐吉氏に拝み倒されてユースホステル契約したところが多かったと言うことです。で、そのうち会員が増えてきて旅行バブルがおきると、経営のためにユースホステルをはじめるところもでてくる。そして、ユースホステル好きな若者が、自らユースホステルを経営しはじめたりもしてくる。

 こうなってくるとユースホステル経営者のタイプ・気質が分かれてきます。拝み倒されてユースホステルをはじめたマネージャーと、ユースホステルが好きで好きでマネージャーになった人では取り組みがちがってきます。温度差がでてきます。前者は、ユースホステルという枠にこだわらないし、後者は良くも悪くもユースホステル的になります。

 こうなると利用者の方も二分されてきます。
 前者にあった利用者は前者に泊まるし
 後者にあった利用者は後者に泊まる。
 つまり、利用者も二通りの気質が生まれてきます。

 そして、ユースホステル運動に熱心なグループと、そうでないグループに分かれてきます。各マネージャーで価値観が変わってくる。これは脱イデオロギーをめざした横山祐吉氏の狙いどうりの結果であったかもしれませんが、意外な後遺症が残りました。多様な価値観・多様なユースホステルが出現することによって、入会業務に熱心なところと、そうでないところに分かれてくるのですね。


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 そのうえ、もう一つ不幸なことがおきてしまった。
 公営ユースホステルの誕生です。

 実は公営ユースホステルは、日本ユースホステル協会とは別の流れで誕生しています。日本ユースホステル協会は、青年団からの流れで文部省主管の団体です。しかし、公営ユースホステルは、国交省(旧運輸省)の予算で建てられており、国交省(旧運輸省)が管轄していたのです。そのために公営ユースホステルは、直営ユースホステル・民営ユースホステルと、決定的に違うところがあります。

1.公共の宿であること
2.会員証が無くても泊まれること
3.一部が、日本ユースホステル協会に属してないこと

 日本ユースホステル協会発足以来、協会関係者は、自前のユースホステルを持ちたいと熱望して来ましたが、特に財団法人として認可(昭和31 年)以来、所管官庁である文部省に対して国費でユースホステル建設して欲しいと陳状を繰り返して来ました。一方運輸省でも観光的見地から、日本に外国の若者を誘致することを主な目的として、ユースホステル建設国庫補助金の予算要求を昭和32年度に行きましたが、実現をみませんでした。

 このため昭和33年度予算要求の際に日本ユースホステル協会の中山正男氏と横山祐吉氏が、大蔵省の応接室を占拠し、陳情をくり返し、総理大臣岸信介の裁定まで持ち込み、1億円の予算がきまりました。これで日本ユースホステル協会の直営ユースホステルが建てられるかとおもいきや、文部省・運輸省が仲良く分け前をはねてしまった。


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 文部省には1億円のうち6000万円が配分されましたが、これは青年の研修を目的とする「青年の家」建設のためのものとなり、ユースホステルには一円もおりてこなかった。運輸省は、4000万円を「ユースホステル建設補助」として予算獲得し、地方自治体に補助交付して、いわゆる「公営ユースホステル」を建設していきました。

 ところがこの公営ユースホステルは国民の税金によって建てられたものですから、特定の会員だけのものではなく、一般の人たちにも公開すべきであるとの考え方から、誰でも利用できることになりました。会員証が無くても泊まれるのは、そのためです。もし、日本ユースホステル協会が、政府の団体であったら直営ユースホステル、公営ユースホステル、民営ユースホステルという区別は無かったでしょうし、「青年の家」もユースホステルとして建設されていたでしょう。しかし、日本ユースホステル協会が民間団体であったために、このような複雑なシステムとなった。

 その結果、日本のユースホステル運動は、
 公営ユースホステルと、
 日本ユースホステル協会という
 2つの組織が出来上がり、事実上分裂してしまったのです。

 これが、ただでさえ無目的な団体である日本のユースホステル運動は、全く混乱してしまう。

 一生懸命入会業務を行う宿があり、
 入会業務に気乗りしない宿があり、
 全く入会業務を行わない宿がある。


 (公営ユースホステルは入会しなくても泊まれる)

 そして互いに層の異なる御客さんをもつようになる。



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つづく

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2011年01月27日

ユースホステルは甦るのか?16

ユースホステルは甦るのか?16

 ユースホステルのマネージャーになる前は、なんとなくユースホステル運動の最前線は、ユースホステルであり、ユースホステルのマネージャーが先頭をきって頑張っているのだと思っていました。嬬恋村の観光協会なら、ペンションのマネージャーが中心になって活動しています。だからユースホステル協会も、宿屋の主が中心になって活動しているのかなあと思っていました。

 で、2001年に4月。北軽井沢ブルーベリーYGHをオープンして4ヶ月しかたってないにもかかわらず、私が群馬県ユースホステル協会の理事に任命されることで
「そうか、やっぱりな!」
と思って理事会にノコノコでかけていったのですが、出席してみたらまるで違っていた。ユースホステルのマネージャーは私一人でした。その後、谷川岳ラズベリーYHがオープンしたのですが、曽原マネージャーは、なかなか理事にはなれなかった。当時は
「あれ?」
と、不思議でなりませんでした。
「最前線にいる宿主が中心ではないのか?」
と。


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 しかし、これは私の誤解でした。日本でユースホステル運動が開始した時、その運動の推進者は、宿屋ではなかった。教育関係者や青年団関係者や青少年運動関係者たちが推進した。だからスタート時点でのユースホステルは1軒もなかった。そこでYMCAや日本青年館が、空いている部屋の一部をユースホステルとして貸しただけだった。つまり運動の主体は宿でなかった。

 当然のことながらユースホステル運動は、宿泊からスタートしてない。で、どこからスタートしたかというと、行事からスタートしていた。しかも、その行事をバックアップする者がいた。自転車振興会です。日本ユースホステル協会を創設した中山正男氏の親友(清水斉)が、自転車振興会にいたからです。

 で、日本ユースホステル協会の立ち上げは、銀座の自転車会館で、日本最初のホステリングは、なんとサイクリングだった。もちろん自転車振興会がスポンサーです。日本ユースホステル協会は、その後、この自転車振興会から多くの援助をうけることになります。自転車(競輪)とユースホステル運動は、切っても切れない関係になります。


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 それはともかくとして、日本におけるユースホステル運動は、宿(ユースホステル)から始まってないのですね。宿屋のマネージャーが集まって、ユースホステル運動をはじめたわけではない。ここが本家ドイツのユースホステル運動と決定的に違っているところです。

 宿がない。
 だから行事を行った。
 ハイキングやサイクリングを行った。
 コーラスやスケッチも行った。
 そしてお茶会を行った。

 お茶会には、下中弥三郎・大宅壮一・尾崎士郎といった超有名人を集め、その娘たちまで動員しました。そして青少年会員たちと仲良く談笑したわけです。場所は、日本青年館です。で、多くのグループを作ってグループ活動をはじめました。三浦昭夫、栗林貞明、毛利良彰といった人が活躍しました。横山祐吉氏の息子さんである横山岑生氏もグループ活動の中心にいたひとです。彼らが日本ユースホステル運動を作ったのであって宿屋が作ったのではなかった。これは、地方協会でも事情は同じでした。だから群馬県ユースホステル協会の理事会に出てみたら、そこに宿屋は私一人しかいなかったということがおきてくる。

 これは日本ユースホステル協会の発達史としては、
 とても不幸なスタートだった。
 では、どういうところが不幸だったか?


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 これは常識で考えてもらえば分かるかと思いますが、普通、宿屋というものは、御客さんを増やそうとする。会員を増やそうという発想にはならないのです。会員を増やしても御客さんが増えるとはかぎらない。むしろ減る可能性があります。これは協会側にいると分かりにくい。ユースホステルの利用者にもわかりにくい。しかし、ユースホステルとペンションの二軒を経営すると、すごくよくわかる。具体的に例をあげて解説してみましょう。

 例えば、7室24ベッドのペンションを経営したとします。予約受付の電話は、満室でも7本です。チェックインも7回、チェックアウトも7回です。駐車場も7台分あればいい。しかし、7室24ベッドのユースホステルを経営すると、予約受付の電話は24回。チェックインも24回、チェックアウトも24回です。駐車場も24台分必要になる可能性がある。道案内の電話対応も24回になる可能性が出てくる。つまりユースホステルにするとペンションより忙しくなる。人件費のコストがかかるのです。そのうえ会員入会登録作業があったりすると、10人の入会登録があれば、一人5分の時間が割かれたとして50分も拘束される。忙しい合間に煩雑な手続きが必要になり、顧客サービスが低下するのです。

 これがペンション客ならば、1室の代表者に連絡すれば、連れの御客さん全員に伝わります。しかし一人旅の御客さんが中心のユースホステルの場合、24名全員に伝えることになることもある。その煩雑さにたまりかねて、入会業務に熱が入らなくなる。入会のための営業よりも、集客に繋がる顧客サービスに力を入れようとする。それが宿屋がとりたくなる行動なのです。だから宿屋に理解が無ければ、入会業務に熱が入らないのです。


(と、文字にしてはみたけれど、これで利用者や協会に熱の入らない理由が伝わるかと言ったら、伝わらない気がする。文字にしても空しいだけ。こればかりは体験しないと分からないでしょうね。逆に言うとユースホステルのマネージャーなら私の言わんとすることは、身に染みてわかると思う。ぶっ倒れる寸前のところでフラフラになりながら作業している人間が、御客さんを減らしてでも入会勧誘しているマネージャーなら分かるのだが、一般人に分かれと言っても絶対に無理でしょうね)


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 宿屋にユースホステル運動への理解がなければ、会員は増えにくい。
 にもかかわらず、日本ユースホステル協会は、
 宿屋をぬきにしてスタートを切ってしまった。
 これは不幸なスタートでした。

 そんな状況の中で横山祐吉氏は、
 ユースホステル運動を理解した宿屋を増やすべく縦横無尽の大活躍します。
 それは....?


つづく

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2011年01月26日

ユースホステルは甦るのか?15

ユースホステルは甦るのか?15

 しかし、このPR作戦は、うまくいきませんでした。横山祐吉氏が理事長を解任された昭和47年以降、ユースホステルの会員は、じゃんじゃん減っていったのです。現在まで、何人もの理事長が交代し、理事や評議員も次々と変わっていきましたが、どうにもならなかった。会員は減る一方でした。時限爆弾は、爆発し続けていきました。


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 実は、この爆発し続ける時限爆弾を私が知るきっかけがありました。それは忘れもしない2001年。北軽井沢ブルーベリーYGHユースホステルがオープンした年の3月に、群馬県ユースホステル協会から理事の任命をいただいた時でした。

 新参者の私が、恐る恐る理事会に参列してみてと、背広をきた紳士たち。それも六十歳から七十歳くらいの紳士淑女のみなさんが大勢現れました。普段着の人間は私一人です。というか私は作業着で参加してしまい自分の非常識に赤面するはめになった。

 で、型どおりの理事会が開かれ、末席で小さくなっているうちに理事会は終了。そのまま二次会に移行しました。で、紳士淑女の皆さんと名刺交換をしたわけですが、群馬県の社交ダンス協会会長だの、リクリエーション協会の会長だのの名刺をいっぱいもらったわけです。そして、みなさんお互いに「ちゃん」づけで呼び合っている。


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 どうやら戦後の青年団再建の流れから生じたリクリエーション関係のグループ活動からのつきあいらしい。で、理事の皆さんは、戦後それらの団体を設立した創業の志士たちであったわけです。もちろん、彼らが青年の時に創業したわけですから、最初は青年のあつまりだった。けれど、それが高齢化することによって青年は、ごくわずかになってしまった。青年との距離は、祖父と孫の距離より大きくなってしまった。

 しかし、彼ら老紳士たちが引退すれば、かわりに若い人たちが入ってくるとは、とても思えません。逆に組織は潰れてしまう気がします。これは、日本ユースホステル協会に関しても一緒で、いま頑張っている理事たちを一掃して、代わりに若い人を採用しても、ユースホステルに若者が戻ってくるとは、とても思えない。逆に悪くなる一方だと思えてならない。

 というのも若い人たちほど、ユースホステル運動の歴史を知らない。
 ユースホステルができた経緯を知らないからです。
 これはもう絶望的なくらいです。
 私が他のマネージャーたちと話し合っても話が通じない。
 つまり過去の遺産がノウハウとして蓄積されていない。
 それらが多くのマネージャーに継承されていないのです。

 だから創業の理事さんたちに引退しろなんてとても言えない。
 彼らが引退したら過去の遺産は消滅し、
 日本ユースホステル協会は消えてしまいかねない。
 私には、そう思うだけの根拠があります。
 過去をふりかえろうとしないマネージャーたちの過激な意見を何度も聞いているからです。

 会員証を廃止しろとか、
 ペンションと同じようになれとか、
 ユースホステル運動やめて宿屋組合になれとか、
 会員証をキャッシュカードにしろとか、
 いろんな無茶を言ってくる。


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 このような不幸の原因は、創業者と今の経営者の間に歴史が共有されてないことにあるかもしれません。このことは、横山祐吉氏が自ら作ってしまった道です。協会としての目的をもたなかったために、みんなが歴史を共有できなかったのです。

 あと横山祐吉氏は、自分を語ろうとしなかった。そのために横山祐吉氏の考え(グランドデザイン)が回りに浸透しなかった。いや、わざとぼやかした。ぼやかした上で、強力なリーダーシップを握ったので、よけいに回りが理解できなかった。しかも、それは脱イデオロギー路線をすすめる横山祐吉氏の狙いでもあった。けれど、そのために、ユースホステル運動の歴史を共有できなかった。協会としての目標や理念に全員一丸となって進むことが出来なかった。


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 おっと話しが遠回りしました。
 ここまでは、前置きです。
 やっと本題に入ります。

 2001年3月、私は、群馬県ユースホステル協会の理事になりました。そして理事会に参加し末席で小さくなり、名刺交換したあとで、一人の理事さんを前橋駅に送っていくことになりました。その方は、かなりの年齢の方でしたが、群馬県のユースホステルの歴史について昔のことを聞かせてもらいました。

「どうしてユースホステルの利用者が減ったんでしょうかね?」
「それは、はっきりしている」
「どうはっきりしてるんですか?」
「これは誰も言わないが、ユースホステル運動が下火になったのは、高校生にユースホステル運動を禁止してからだよ」
「え? どういうことですか?」
「・・・・」
「話しの流れが見えません」
「学生運動が激しかった1970年頃、日本政府が、法律で高校生の政治運動を禁止したんだよ。それにともなって高校生によるユースホステル運動も禁止されたんだ」
「はあ?」
「それまでは、全国の高校にユースホステルクラブがいっぱいあったんだ。高校生のうちにユースホステルクラブで旅行したりした。そして全国の様々な高校生と交流をおこなっていた。今で言えばインターネットのようにユースホステルで出会いを経験し、感動と共に高校を卒業した」
「・・・・」
「そして、ある者は社会人となって、ユースホステルを使ったグループ活動に専念したり、ある者は大学生となってユースホステルを使って一人旅をして見聞を広めたりした。昔は、ユースホステルに高校生がいっぱいいたんだよ。でも、ある日突然、高校生のユースホステル運動は禁止されてしまって、その後、数年とたたずにユースホステルの会員は激減していったんだ」
「・・・・」
「私は、群馬県のある高校のユースホステルクラブの部長でね、ユースホステルを使っていろいろなイベントをやったんだけれどね。今、理事でいるのも、その時の縁でねえ」
「・・・・」

 前橋駅に月が大きく輝いてる夜でした。
 その理事さんは、月を見ながら呟きました。 

「ユースホステルは、箱に閉じ込められた高校生にとっては、新しい世界。新鮮な衝撃だったんだよ。親や先生の教えてくれる世界の他に、別の世界があったんだと」

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つづく

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2011年01月25日

ユースホステルは甦るのか?14

ユースホステルは甦るのか?14

 ただし、横山祐吉氏も中山正男氏も、若い人たちをジャンジャン起用はしているのです。起用はしているけれど、ちょっと油断すると、高齢化は着実に進行してしまう。そうなると若い人たちは、ユースホステル運動に無関心になっていく。思い入れを感じてくれなくなるのです。これが時限爆弾です。若い人たちの無関心こそが最も恐怖すべき爆弾だったのです。だから横山祐吉氏は、その対策もたてていました。

 それは、PRによる広報活動でした。

 日本ユースホステル協会が、広報のための予算を得たとき、最初に行ったことは、3種類のユースホステル新聞を作ったことです。一つは会員に読ませる新聞。もう一つは関係者に読ませる新聞。そして最後に外部にPRするための新聞。そして1970年の10月21日に、全国ユースホステル広報担当者会議を甲府ユースホステルで31都道府県から36名の広報担当者を集めて開催しています。

 ここで横山祐吉氏は、このように述べています。

「ユースホステル運動のPRは、人間関係の結びつきのある会員仲間を対象として働きかける、すなわち「クチコミ」が最も効果的です。その一方で、難しいと言われるPRは、無関心な者を説得する方法です。PRにはこの二つの異った要素を考えて行われなければなりません」

 さすが横山祐吉氏です。
 一番難しいとされる広報活動を熟知しています。
 無関心の者を説得することが一番難しいことを良く知っている。


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 実は横山祐吉氏は、広報の専門家でした。大日本青少年団の広報部長をやっていた人だったからです。そして日本最大の雑紙「青年」を発行していました。ですからマスコミに知り合いはおおかったし、文化人とのおつきあいも多かった。広報こそは横山祐吉氏の最も得意分野だったかもしれません。その横山祐吉氏が、全国ユースホステル広報担当者会議で、このようなことを言っています。

「ユースホステルは若人の生活の場です。
 この生活に密着したPR活動でないと効果が上がらない、
 若人の人生観と離れてPRはありません。

 PRは人生であると考えてもいいです。

 PRすることによって青少年の生活を豊かにする。
 青少年の生活を変えていく。
 考え方を変えていく。
 よい環境を作っていく。
 それがPRの目的です」

 これを1970年に言ったのですから横山祐吉氏は天才でした。
 広報の本質を良く知っていました。


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 実は広報というのは、宣伝ではない。宣伝と広報ではまるで違っている。宣伝を英語でプロパガンダと言いますが、ナチスは宣伝省というものを作りました。宣伝は、こっちの意図するところに相手を導くことが目的です。ナチスは、そういう省庁を作ってドイツ国民を導いていった。

 これが広報となると少し様子が違ってきます。広報のことを英語でPR(Public Relation)と言いますが、PRとは、己の自己修正のための宣伝方法です。相手を導くのではなく、相手に利益をもたらすための自分を変えてしまう宣伝方法です。つまり、御客さんとキャッチボールして自分を相手にあわせていく宣伝方法です。で、肝心の横山祐吉氏は、どのようなPRをしろと演説したかと言いますと、

1.ユースホステルは若人の生活の場である。
2.この生活に密着したPR活動でないと効果が上がらない。
3.若人の人生観と離れてPRはありえない。

と言いました。つまり青少年が、ユースホステルに求めているものを無視してはPRもへったくれもないぞと言っているわけです。そして当時の青少年たちが求めていたものを提供したのが、ユースホステルであり、ユースホステル新聞であり、多くのグループ活動であったわけです。

 そして、これらをまとめた世界。つまりユースホステルの世界は、当時の日本に一つしか無かった。今でいえば、ユースホステルの世界は、インターネットみたいなものであったかもしれません。自由で、いろんなグループがあり、情報が豊富で、しかも出会い系であった。そして、ユースホステルを利用すれば確実に生活が楽しくなった。いろんな人たちと知り合いになれ、いろんな体験ができて、いろんなコネクションができあがった。

 横山祐吉氏は、それをPRしろと言ったのです。
 PRすることによって青少年の生活を変えていき、
 みんなに喜んでもらいなさいと言っている。
 つまり最高のPRは、あなたの生きざまを見せることだと。

「PRは人生であると考えてもいいです(横山祐吉談)」

 また、こうも考えていたはずです。日本ユースホステル協会は、何のイデオロギーも持ってないところだから、それは個人個人がもつべきものだから、青少年の各自に、いろんな人生をみつけだしてもらいなさいと。そして、それを密かに応援できるユースホステル協会になりなさいと。つまり青少年が、ユースホステルに求めているものを提供してあげなさいと。

 そうすれば無関心な人たちもユースホステルの世界に興味をもってくれると。
 口コミで会員が増えていくと、
 グループ活動も盛んになり、サポーターが増殖していくぞと。


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 しかし、このPR作戦は、うまくいったとは言えません。横山祐吉氏が理事長を解任された昭和47年以降、ユースホステルの会員は、じゃんじゃん減っていったからです。現在まで、何人もの理事長が交代し、理事や評議員も次々と変わっていきましたが、どうにもならなかった。会員は減る一方でした。時限爆弾は、爆発し続けていきました。


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 実は、この爆発し続ける時限爆弾を私が知るきっかけがありました。それは忘れもしない2001年。北軽井沢ブルーベリーYGHユースホステルがオープンした年の3月に、群馬県ユースホステル協会から理事の任命をいただいた時でした。新参者の私が、恐る恐る理事会に参列してみて、末席で小さくなっていると、驚愕する事実を聞かされたからです。

つづく

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2011年01月24日

ユースホステルは甦るのか?13

ユースホステルは甦るのか?13

 日本ユースホステル協会を創設した横山祐吉氏と中山正男氏ですが、
 どっちがボスだったかと言うと中山正男氏だった。

 中山正男氏は、本気で青少年運動をやりたかったんでしょうね。ずいぶん無茶な事をして日本ユースホステル協会を大きく発展させていった。その功績は、主に中山正男氏の手腕によるところが大きかったでしょう。中山正男氏がいなければ、ここまで大きな発展はしなかった。理事をぶん殴るといったこともしたし、泥棒みたいなことをしてサヨナラパーティーの景品を集めたりもした。


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 中山正男氏は、壮大な大風呂敷式を拡げる男だった。
 金もないのにアジアユースホステル会議を開いたり、
 国際ユースホステル会議を開いたりした。
 で、来賓の御客様のホテル代が払えません。
 だから助けてくださいと岸総理に泣きついて、内閣官房費で払ってもらったりした。
 そういう無茶苦茶なことをやって、ユースホステル運動を大きくしていった。

 そういう無茶苦茶な中山正男氏に対して、横山祐吉氏は、じっと耐えて従ってきた。
 そして兄貴として立ててきたんです。
 中山正男氏のどんな無茶苦茶な行動にも反抗せずに忠実な部下として行動してきた。

 ところが、そういう横山祐吉氏ではあったけれど、本当の意味で日本ユースホステル協会を牛耳ったのは横山祐吉氏の方だったのです。中山正男氏は、トップとして威勢が良かったけれど、大風呂敷を広げる人だったけれど、本質的に無思想だった。青少年運動に対しての一定の思想性は無かったのです。

 ところが、横山祐吉氏には明確なグランドデザインがあった。
 日本ユースホステル協会は、横山祐吉氏のグランドデザインのもとで
 着々と作られていったのです。

 しかし、このグランドデザインが、当時のユースホステル関係者には全く分からない。いや、分からせなかったと言ってもいいでしょう。わざと分からなくしたふしがある。多くの学生諸君が横山祐吉氏のところに押しかけて
「ユースホステル運動って何ですか?」
と問いかけても、歯切れの悪い言葉で煙に巻いた。例えば

「ユースホステル運動とは、富士山に登るようなものです。道はたくさんある。どこから登っても良い」

と禅問答のようなことを言った。それを聞いたユースホステル関係者は、ボーゼンとして言葉が出なかったと言います。関係者の人たちは、さぞかし困ったでしょうね。これじゃ何を目標にしてよいか分かりませんからね。しかし、この言葉こそ、横山祐吉氏の目指したところです。

 ユースホステル関係者の中にも、この言葉の意味するところを理解している人は、ごく少数いたことはいました。日本青年団から日本ユースホステル協会に移ってきた人たちです。城宝栄作さんなんかは、よく分かっていたと思います。それは何であるかと言いますと、

協会としては脱イデオロギーを目指したい

ということなんですね。

 協会としては、目的を固定したくないということです。
 そういうものは個人個人がもってもらいたい。
 それの手助けはするけれど、
 協会としての方向付けはしたくないということなのです。


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 これは横山祐吉氏の独創ではなく、日本青年団時代に教わった田澤義鋪イズムなんです。田澤義鋪の思想そのものなのです。思想とか、目的とかは個人にまかせる。それについては協会は関知しない。しかし、それを目指す青少年たちの手助けを行うというのが田澤義鋪イズムであり、横山祐吉氏の考えた日本ユースホステル運動なのです。

 だから横山祐吉氏は、ユースホステル運動という言葉さえも嫌った。密かに「運動」という言葉を嫌悪したのです。のちに日本ユースホステル協会の二十年史を作るときに「日本ユースホステル運動二十年史」とはしなかった。三十年史、四十年史、五十年史は、『日本ユースホステル運動・・・・年史』となっているのに、横山祐吉氏が編纂させた二十年史だけは、『運動』の文字が消えているのです。彼は、この運動という文字が嫌いだった。けれど、それを関係者の誰かに話してはないのです。誰にも話してない。ひっそりと心の奥にしまって墓場までもっていってしまった。


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 じゃあ、何故横山祐吉氏は、協会としては脱イデオロギーを目指したかったか? 協会として目的を固定したくなかったか?というと、これにも深いわけがあります。そのわけを話すと長くなるので今回はやめておきます。ただ言えることは、GHQが指導して行わせた『共同学習』や『グループ活動』や『グループワーク』が横山祐吉氏の狙っていた協会としては脱イデオロギーを目指したかったという方向性にとっては、とても都合のよいものだったのですね。だから盛んにユースホステル運動においてグループ活動を奨励したのです。

 しかし、当時の日本ユースホステル協会の関係者は、面食らったと思います。協会としては、目的を固定したくない。そういうものは個人個人がもってもらいたい。それの手助けはするけれど、協会としての方向付けはしたくないという考えは、一個人の理念としては立派な考えなんでしょうが、組織の人間としては、
「はあ? 何で?」
ということになると思います。

 しかし、これについては絶対に譲らなかった。
 独裁者として力を発揮して反対派を容赦なく追い出したと言います。
 もちろん裏から手を回して、再就職の世話をしていたようですが。

 さらに横山祐吉氏は、文部省と一緒に
「指導者のためのユースホステル活動」
(ここでも運動という文字は使われていません)
を出版して、トドメをさしました。

 この本に
「ユースホステルは、YMCAやボーイスカウトや青年団のように目的をもった団体でなく、ホステルを利用することを目的とした団体である」
と書いてしまった。この本が、ユースホステルの研修会に使われるようになったわけですから、ユースホステル協会は公式に無目的団体であることを表明してしまった。そして、目的や理念は、個人個人が背負うことになってたのです。


 ただし、文部省と一緒に発行した「指導者のためのユースホステル活動」は、律令みたいなものです。現代風にいえば、憲法前文みたいなものです。これだけでは、何の活動も出来ません。そこで、御成敗式目や武家諸法度のような非公式なものを密かに作った。これがグループ活動の推進でした。

 スケッチグループとか、
 写真グループとか、
 ハイキンググループとか、
 合唱グループとか、
 ウォーキンググループ

といったグループを量産させて自由に活動させました。


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 これが大当たりに当たりました。
 若者たちは、興奮しました。
 ユースホステル運動が、自分たちの生活の場になった。
 ユースホステル運動が、自分たちに幸せをもたらした。
 しかも若者たちが、主役だった。
 少なくとも彼らは、そう思った。

 グループ活動というのは、基本的に出入り自由です。
 気に入らないことがあれば、出て行けばよい。
 しかし、田舎だとそうはいかない。
 近所つきあいもあるし、出て行きにくく息の詰まる思いもする。
 特に昭和三十年代、昭和四十年代はそうだった。
 ところが、その当時のユースホステル新聞には無数のグループがあった。
 そして、どのグループも出入り自由だったし、脱会の後腐れもなかった。


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 だいたいユースホステルそのものが一期一会の世界です。みんな後腐れない自由を愛する仲間たちです。グループを脱退するのも自由。入会するのも自由。自分でグループを作るのも自由でした。自分の趣味のグループを立ち上げてメンバーを募集したりもした。募集は、ユースホステル新聞の地方版で行ったり、旅先のユースホステルで勧誘したりしました。

 こうして乱立していったユースホステル運動のグループ活動には、新鮮な自由さがありました。だから当時の若者たちは、グループ活動に熱狂し、しだいにユースホステル運動にはまっていきました。これこそ横山祐吉氏の狙いだったと思います。

 でも、これには時限爆弾がしかけられています。そうやってできあがったグループの会員たちは、すぐに年をとっていくといことです。グループは、つねに若い世代によって新設されなければ、どんどん高齢化がすすみ、消滅していくはめになります。例えば、女性なら結婚して子供が出来たらスケッチグループでスケッチして旅する暇が無くなってしまう。

 ユースホステル協会の役員なんかもそうです。財団法人化のさいに、会員による総会を廃止して、役員の互選にしてしまった。そうして横山祐吉氏は協会を特定イデオロギーから守ろうとした。イデオロギー好きな団塊世代の不毛な議論を警戒してした。その行為の善悪はともかく、その結果、役員の高齢化が進みました。互選のシステムは、役員に無理して若い人を入れようとしない限り、役員の高齢化は避けられません。何もしなければ役員は、どんどん偉い人の集まりになっていく。

 ただし、横山祐吉氏も中山正男氏も、若い人たちをジャンジャン起用はしているのです。起用はしているけれど、ちょっと油断すると、高齢化は着実に進行してしまう。そうなると若い人たちは、ユースホステル運動に無関心になっていく。思い入れを感じてくれなくなるのです。これが時限爆弾です。若い人たちの無関心こそが最も恐怖すべき爆弾だったのです。だから横山祐吉氏は、その対策もたてていました。それは.....?


つづく

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2011年01月23日

ユースホステルは甦るのか?12

ユースホステルは甦るのか?12

 グループ活動。小学校時代によく聞かされましたし、実際グループ活動による勉強をさせられました。グループ活動と言わず「班活動」と言う言葉を使った地方もあったと思います。企業においても、生産現場ではクオリティーサークルというグループ活動をやった人も多いかと思います。

 このグループ活動という言葉は、戦後に普及した言葉です。
 GHQの民政局が、さかんに普及させた言葉です。
 最初は、グーループ活動とは言わず、共同学習と言っていました。

 横山祐吉氏は、戦後まもなくGHQの指導の下に「共同学習の手引き」を出版しています。そして青少年運動において盛んにグループ活動を奨励したのです。この時、YMCAの永井三郎氏も、横山祐吉氏と一緒に、さかんにグループワークの普及運動を行っています。





 これはどういうことかと言いますと、それまでの日本では学問において上下関係が強かったのですね。師匠と弟子という関係が強かった。武道しかり、御稽古事しかり、古典芸能しかり、飲食店しかり。これをGHQの民政局が嫌ったのです。

 こういう上下関係が、日本の軍国主義の元になったと誤解した。
 で、上下関係による勉強方法を廃止して、
 グループ活動による共同学習をさせようとした。
 日本人に共同学習をおしえてやろうと息巻いて、
 さかんにグループ活動を推奨したのです。

 しかし、このグループ活動こそ、日本の伝統的姿でした。「和」を大切にする日本人の伝統だった。むしろ「和」のために特攻隊への志願が成立したといっても良い。それをGHQの連中はわからなかったんですね。だから横山祐吉氏は、大喜びでGHQが推奨する共同学習・グループ活動・グループワークをとりいれてしまった。その結果、日本の伝統とマッチしていたために爆発的に普及してしまった。それが私たちが、小中学校でやらされたグループ活動であり班活動でした。

(余談になりますが、イジメ問題は、私たちが小中学校でやらされたグループ活動と無関係ではありませんね。第二次大戦中に兵隊だった人の話だと、敵なんかより内務班のイジメが怖かったと言ってるくらいですからね)





 話しは変わりますが、横山祐吉氏が青年団の内部で干されるようになります。そのために青年団を辞めて、日本ユースホステル協会の専従になり、ユースホステル運動に熱中します。そして、ユースホステル運動にグループ活動・グループワーク・共同学習を大々的に取り入れるのです。

 スケッチグループとか、
 写真グループとか、
 ハイキンググループ

といったグループを大量生産させて自由に活動させます。
そしてユースホステル新聞などにとりあげて活動を煽ります。

 また、茶話会と称した集まりを盛んに行いました。会員を集めて懇談会を開いたのです。そこには理事長をはじめとする幹部をみんな出席させ、下中弥三郎や大宅壮一といった有名どころまで動員し、その娘たちまでかきあつめて、若者たちをお茶会に集客しました。

 忘年会は、サヨナラパーティーとして豪華景品を用意しましたが、ユースホステル協会に金はない。で、どうしたかというと、平凡社社長の下中弥三郎の自宅に乗り込んで、テレビでも何でもかたっぱしから持って行って景品にした。また、そごうデパートの社長が役員なのをいいことに、デパートから何でももっていった。ここまでくると立派な泥棒です。中山正男氏は、そういうことをする無茶苦茶な人間でした。しかし、こういう無茶で人を集めて、彼らにグループを作らせた。こうやって若者を増やしていったのです。





 さらに支部協会をジャンジャンつくりました。全国にグループ活動を普及させるには、支部を作って支部にグループ活動を推奨してもらった方が早いからです。さらに支部にユースホステル新聞の地方版まで作らせて、グループ活動を活発化させていった。こうして、雨後の筍のようにグループが量産されました。そしてグループ連合なるものができてくる。

 若者たちは、興奮しました。
 ユースホステル運動が、自分たちの生活の場になった。
 ユースホステル運動が、自分たちに幸せをもたらした。
 しかも若者たちが、主役だった。
 少なくとも彼らは、そう思った。

 しかし、思い出してください。昭和31年に日本ユースホステル協会が財団法人になった時、役員は互選になってしまっている。会員の総会は開かれなくなったのです。つまり、会員には議決権はなく、日本ユースホステル協会は、よりワンマンな体制になっている。これは横山祐吉氏が、青年団を青年に渡したのと全く違った決断をしている。

 しかし、そのワンマンな中山正男氏・横山祐吉氏の体制によって、学生たちを大々的に起用するようになったし、グループ活動の積極的な導入によって、ユースホステル運動は、青少年にとって身近になっていったのです。だから中山正男氏と横山祐吉氏の体制でないと、ああまで発展したとは思えない。





 ユースホステル業界の評価では、横山祐吉氏に関しては、賛否両論ですが、肯定的な感情をもつ人の大半は、学生時代に日本ユースホステル協会に行って横山祐吉氏に面会を求めた人たちです。初期の頃のユースホステル協会では、横山祐吉氏は、どこの馬の骨か分からないような学生たちの話しに耳を良く傾けたようです。どんな学生たちとも気軽に会ったらしい。そういう気軽さをもっていながら、組織の長としては独裁者であった。独裁によって若者たちの居場所(=ユースホステル運動)を作っていった。それが大成功を収めた。しかし、そこには時限爆弾もセットされていた。

 その時限爆弾とは何か?


つづく

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2011年01月22日

ユースホステルは甦るのか?11

ユースホステルは甦るのか?11

 横山祐吉氏が、日本ユースホステル協会を設立するのは昭和26年11月です。きっかけは、GHQが日本の青少年運動家を招待したことにはじまります。横山祐吉氏は、第3回目の招待で渡米し、ひょんな誤解から日本ユースホステル協会の人間と間違われて、アメリカユースホステル協会の人間と対面することになり、ユースホステル運動を知ることになります。





 で、帰国後、親友である中山正男氏に、ユースホステル運動について伝えると、中山正男氏は、ユースホステル運動の理念に興奮して2人ではじめることになります。しかし、この時点では横山祐吉氏は、日本青年館の職員でしたから、日本ユースホステル協会の仕事を精力的に行っていたわけではありません。むしろ中山正男氏が、次々と奇想天外な手をうって、世間にアピールしていました。資金も事務局も中山正男氏によって賄われていました。

 まず中山正男氏は、平凡社社長の下中弥三郎を会長に祭り上げます。そして平凡社から資金援助を得て、下中弥三郎の秘書だった金子智一を日本ユースホステル協会の職員としました。さらに中山正男氏は、大宅壮一、賀川豊彦といった有名人を続々と顧問に引き入れ、自民党政府のところや、文部省にも乗り込んでいき、朝日新聞などのマスコミも大々的に使って日本ユースホステル協会は、どんどん大きくなります。おまけに中央大学などのワンダーフォーゲル部の部員まで理事に取り込み、日本交通公社のトップまでもユースホステル運動にとりこんでしまいます。

 つまり、初期の頃の日本ユースホステル運動は、中山正男氏の能力と、義弟の金子智一氏の事務能力が実に大きかった。中山正男氏ぬきに日本ユースホステル運動の成長はありえなかったと言っていいと思います。横山祐吉氏は、この中山正男氏の強引でワンマンな手腕に、ひきまわされていますが、中山正男氏は必ず結果を出す人であったので、横山祐吉氏の方が年上であったにもかかわらず、中山正男氏を兄貴分として使えました。

 ここで不思議なことがおきます。

 中山正男氏は、超ワンマンなくせに、貪欲に若い人たちを引きずり込んだのです。日本ユースホステル協会を立ち上げたときに、もっと前からユースホステル運動を行っていた中央大学の学生たちが抗議にきたわけですが、その学生たちに
「そいつはいい! 一緒にやろう」
と声をかけて、学生たちを理事にしてしまった。若者たちを惜しげもなく起用した。そして彼らを使って日本初のユースホステル行事を行ってしまった。もちろん中山正男氏のコネでマスコミで大々的に記事にしてしまった。

 このように学生たちをガンガン使ってユースホステル運動を広めていった。やがて学生たちは、ヨーロッパに留学したりする。するとヨーロッパからの手紙がユースホステル協会に届きますから、それをユースホステル新聞に掲載しました。ネットのない時代ですから情報に飢えた若者は、ユースホステル新聞に掲載されたヨーロッパ情報を貪るように読みました。





 とにかく中山正男氏のやりかたは、無茶苦茶だった。
 彼は織田信長のようにワンマンに仕事をすすめました。
 その手法は、とてもじゃないが民主的とは言えなかった。
 しかし、そのワンマンさによって若者をじゃんじゃん取り込んでいきました。
 善悪はともかく、ワンマンで若者をユースホステル運動に惹きつけました。

 こうして何年かたつと、ユースホステル協会も所帯が大きくなり、ユースホステル協会創設より5年後の昭和31年に財団法人化されます。と同時に組織が大幅に変化します。会員が総会によって役員を選出していた青少年団体としての基本的要件が廃止され、役員の互選になってしまいました。現在のユースホステル協会の骨幹が、この時にできあがったわけです。

 と同時に、これ以降にユースホステル運動が大発展することになります。
 と同時に、後にユースホステルが衰退するための時限爆弾もセットされます。





 それはともかくとして横山祐吉氏は、青年団を文部省ではなく、青年に渡した。
 ところが、どういうわけか
 ユースホステル運動に関しては、完全に青少年には渡さなかった。
 役員は役員同士の互選にしてしまい、総会を開くスタイルにはしなかった。

 どうして、そうなったのか?
 これには深いわけがあります。

 しかし、それを述べるときりがないのでやめておきます。
 別の機会に述べることにします。

 とにかく横山祐吉氏(中山正男氏)は、ユースホステル運動を完全に青少年には渡さなかった。あくまでも本部の強力な指導力によってユースホステル運動を驚異的に発展させていった。日本のユースホステル運動の牽引車は、間違いなく横山祐吉氏であり、中山正男氏であった。その運営はワンマンなものでした。しかし、ワンマンでありながら若者たちの力を引き出しました。そして、日本に本当の意味でのワンダーフォーゲル運動を定着させました。これをグループ活動と言いました。

 グループ活動。

 私たちの耳には、目新しい言葉ではありません。
 しかし、この言葉は、戦後に普及した言葉です。
 新しい言葉なのです。
 しかも横山祐吉氏によって普及された活動です。
 つまり私たちは、知らず知らずのうちに
 GHQと横山祐吉氏の影響をうけていたということになります。

 最初は、グーループ活動とは言わず、共同学習と言っていました。横山祐吉氏は、戦後まもなくGHQの指導の下に「共同学習の手引き」を出版しています。これをユースホステル運動に大々的に取り入れたのです。そしてグループワーク、グループ活動として、ユースホステル運動の基本的な活動母体にしました。まあ、一種のサークル活動みたいなものです。これを若者たちに奨励し大量生産していった。そしてユースホステル新聞で紹介し、メンバー募集の記事を載せたりした。このグループ活動がユースホステル運動を大きくしていく母体となったのです。

つづく

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2011年01月21日

ユースホステルは甦るのか?10

ユースホステルは甦るのか?10

 さて、大日本青少年団が滅びてどうなったか?
 大日本青少年団時代の幹部が公職追放令になります。

 しかし、公職追放令になった熊谷辰治郎氏の弟子が、戦後の青少年運動を復興させるのです。日本ユースホステル協会を創設した横山祐吉氏です。日本青年館の事務局長だった横山祐吉氏は、GHQ(占領軍)がやってくると、即座に面会を求めてアメリカへの青年団の派遣を要請しました。ヒトラーユーゲントの来日によって、日本が大きく転換したことを知っていた彼は、青年を渡米させることによって社会を大きくかえようとしていたのです。

 ここで横山祐吉氏は、大きな転換を行います。
 青年団を青年の手に渡したのです。
 文部省には渡さなかった。

 実は、ヒトラーユーゲントの来日によって、日本中が熱狂(フィーバー)した時にも、何名かの識者はヒトラーユーゲントの欠陥を冷静に指摘していました。見事な規律をみせるヒトラーユーゲントやドイツ人たちにも重大な欠陥があったと見抜いていました。彼らは鈍重であり、官僚的な硬直性をもち、器用さが無いと。日本軍人たちも、一部ではヒトラーユーゲントを疑問視していました。というのも、日本陸軍は、日華事変において中国のドイツ軍事顧問団を壊滅させているからです。ドイツ軍事顧問団に率いられた中国国民党軍は、機械仕掛けの兵隊人形のように戦って全滅したのにたいし、日本軍は小規模単位の集団で状況に応じて器用に戦線を突破していったからです。日本陸軍は、ヒットラーの軍隊を真似するまでは実に強かった。しかし、ドイツを手本にした日本は戦争に負けてしまった。

 商売や戦争は結果論がものを言います。どんなに立派な理論であっても負けたら無価値。どんなに素晴らしい商品も売れなかったら無価値。結果が悪ければ全て無価値。戦前の大日本青少年団は、ヒトラーユーゲントのごとく文部省の配下にありました。それを改めて各県が自主的に青年団を結成すべく、横山祐吉氏は盛んに指導者講習会をひらきました。そして「共同学習の手引き」を出版。これは、上からの命令によって機械的に動くのではなく、いろいろな価値観をもった人間が、それぞれの趣味にあわせて多くのグループを作って学んだり遊んだりしなさい。そのための手順が「共同学習の手引き」でした。現代流にいうならば、価値観の多様化を認めろとか、オタクは悪くないという感じでしょうか?


 そもそも横山祐吉氏は、元祖オタク人間であり、演劇オタク、音楽オタク、写真オタク、ダンスオタク、少女小説オタク、さらに自作フィギア(もちろん少女!)まで作って遊ぶという凝りようで、大正デモクラシーの申し子みたいな人でしたから、ヒトラーユーゲント的な統制好きな人間たちとは相性が良くなかったのです。もっというと元祖もえ好きなでした。そのうえ点字までやっていてた。それが横山祐吉氏でした。後年の横山祐吉氏を知る日本ユースホステル協会の人たちは、これを聞いたら真っ赤になって反論するかもしれませんが。








 横山祐吉氏は、黒子のように活躍して青年団を青年の手に渡しました。そして出来上がったのが日本青年団協議会です。その初代事務局長が、鈴木重郎氏であり、後の静岡県ユースホステル協会の会長です。ところが静岡県在住では、事務がはかどらないので、二代目の事務局長に就任したのが横山祐吉氏でした。日本青年館からの出向でした。これが横山祐吉氏の運命を変えることになります。横山祐吉氏は、ここで干されることによって、青年団よりもユースホステル運動に走ってしまうからです。

 それはともかく、横山祐吉氏は、この時代に素晴らしい活躍をします。
 青年団を青年の手に渡したことです。
 これは横山祐吉氏がGHQの担当官と密接に話し合い、
 お互いの誤解をとくことによってGHQの理解の上で実現したことです。

 これはインパクトがありました。
 青年団が一時的にせよ盛り上がった。


 話しは変わりますが、若い女性に人気がある歌手・福山雅治がユースホステルを使って旅をするらしい。それを聞いたファンの女の子が、ユースホステルに興味をもったという事件がありました。福山雅治が、どこでユースホステルを知ったのかはわかりませんが、もし、ユースホステル運動を若者に手渡すつもりがあるならば、日本ユースホステル協会は、彼を理事か評議員に迎えるという発想があってもよいでしょうね。福山雅治が名前だけでも日本ユースホステル協会の理事になってくれたら、若い入会者は増えること間違いないです。


fukuyama.jpg


 大学のユースホステル研究会の代表者も、評議員か理事に迎えるべきでしょうね。そういう発想があっても良い。しかし、そうはならないのは、東京都のアニメ規制に子供の代表者を迎える気がないのと一緒です。そういう発想は日本社会では、あまり聞いたことが無い。どこでも子供たちは、蚊帳の外に置かれていて、子供たちも少しも疑問に思わない。というか、その方が楽であると考えているふしもある。いつまでも子供のままでいられますから。

 ここで評議員とか理事とかの役職が出てきましたが、これは誰が決めるのか?
 互選なのです。
 つまり、偉い人同士が決めるらしい。
 で、偉い人たちが就任するらしい。
 財団法人というものは、たいてい、そういうふうになっているらしい。

 あえて「・・・らしい」と書いたのは、私にも良く分からないからです。
 はっきり言えることは、ユースホステルの会員には選挙権がないということですね。


つづく

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2011年01月20日

ユースホステルは甦るのか?9

ユースホステルは甦るのか?9

 そのうえもっと運が悪いことに、ヒトラーユーゲントの来日イベントがあった。これが日本史を悪い方向にもっていく作用があった。当時の日本人たちは、ヒトラーユーゲントを誤解した。統制のとれた団体だと誤解した。確かに統制はとれていたけれど、彼らのトップは青少年であることに気がついてなかった。それに気がつかずに、日本の青少年団も、かくあるべしと思い込んでしまった。

 ヒトラーユーゲントを指揮していたのは、バルドゥール・ベネディクト・フォン・シーラッハというドイツの大学生(当時24歳)でした。彼は、二十歳になったときにナチスの学生連盟指導者して4年間活躍し、昭和6年、24歳にしてヒトラーユーゲントのトップになっています。





 ここで考えて欲しいことは、日本青年団のトップに、二十四歳の若者を起用することがあったか? 日本ユースホステル協会のトップに、二十四歳の若者を起用することがあったか?ということです。残念ながらありえない。

 しかし、過去に、その世代の青年たちが日本史を変えるくらいの大活躍をしたことがあった。幕末維新の時です。明治維新をリードした志士たちは、ほとんど二十歳代でした。黒船が来たとき、吉田松陰は、わずか23歳でした。密航に失敗して牢獄にいれられたのが24歳です。その頃、伊藤博文は13歳です。明治維新が完了したときの伊藤博文にしても26歳です。明治維新で活躍した人の多くは、二十歳代でした。それを考えると、ヒトラーユーゲントのトップに24歳の青年が就任したことは、少しも驚くことではなく、むしろ老害が目立つ現代日本の方が、異常に見えてきますから不思議です。

 ナチスの善悪はともかく、あのナチスでさえ、青少年のリーダーに歳の近い青年を起用したことは、注目してよいと思います。あのナチスでさえワンダーフォーゲル運動の伝統を無視してないのです。しかし、ヒトラーユーゲントが来日し、それに気がついた日本の青少年運動家たちがいたかどうか?

 昭和13年、日本とドイツは、お互いに青少年を派遣しあいました。
 ドイツからは、ヒトラーユーゲント30名が来日。
 日本からは、大日本青少年ドイツ派遣団30名が訪独。





 ヒトラー・ユーゲントの代表団は、昭和13年8月16日に横浜港に到着しました。彼らは、11月12日までの約3ヶ月間、日本各地で大歓迎を受けました。この時、日本の青少年運動家たちは、ものすごい衝撃をうけます。ヒトラーユーゲントたちが、鉄のような規律をもってロボットのような正確無比な動きをみせたからです。
 集団訓練における整然たる姿。トップの指令によるキピキビとした動きに愕然としたのです。つまり、見事なまでに統制がとれていた。日本の軍人たちよりも、整然と動き若々しかった。ヒトラーユーゲントには、上から死ねと命令されれば、整然と美しく切腹しそうな勢いがあった。後に神風特攻隊をだした日本軍人たちも、ヒトラーユーゲントの美しき統制行動には脱帽してしまった。

 逆に言うと、日本の青年たちには、そういう部分が欠けていた。

 これは無理はないのです。日本は昔から統制行動を苦手としているからです。戦国時代から日本武士は小規模部隊で独立した行動をとり、バラバラに功名をきそうのが武士たちの習いだったからです。武士たちは、決して奴隷ではない。褒美をもらうために命がけで戦う自営業者たちです。

 それに対してヨーロッパの軍人、それもプロイセンの軍人たちというのは、一種の奴隷です。農奴の中から体格の大きい者をかきあつめて武器を持たせて整列させ、整然と敵に向かわせたのが彼らの軍隊。つまりロボットのように美しく整列し、整然と突進していくのがヨーロッパの兵隊たちであり、自営業者というより奴隷、いや大企業の社員たちでした。だからヒトラーユーゲントたちが、鉄のような規律をもってロボットのような正確無比な動きをみせたのは、むしろ彼らの伝統でした。

 その逆が日本でした。日本武士たちの本質は、自営業者の集合体です。具体的に言うならば、観光協会みたいなものです。小さなペンションが、一つの観光協会に入会して、せっせと御客様をかきあつめようとしているけれど、基本的にはバラバラであったのと一緒です。だから私たちの社会に、ヒトラーユーゲントのような動きをする伝統はなかった。だから当時の日本の青少年運動家たちは、ヒトラーユーゲントの美しさにショックを受けてしまった。

 で、ヒトラーユーゲントを真似しようと日本青年団の改革を行うのですが、ヒトラーユーゲントのトップが青年であったことを分かってなかったのです。ですからヒトラーユーゲントを真似て作られた大日本青少年団は、決して日本の青年の手には渡りませんでした。残念ながら大日本青少年団は、文部省の支配するところとなったのです。そして、終戦と共に滅びてしまいます。ドイツユースホステル協会が、戦争が終わっても滅びなかったのにです。

 さて、大日本青少年団が滅びてどうなったか?
 大日本青少年団時代の幹部が公職追放令になります。

 この公職追放令が、悲劇の元になります。というのも公職追放令で追放された人の中には、本来なら追放されなくても良いひとが大勢いたからです。自由主義者の容疑で何度も憲兵に捕まった人まで公職追放令になってしまった。そのために貴重な人材が戦後の青少年運動を支えることができませんでした。熊谷辰治郎氏などがそうです。熊谷辰治郎氏は、月刊青年団で何度も軍部のテロを攻撃した人ですが、そういう人を公職追放令で追放してしまった。

 しかし、代わりに熊谷辰治郎氏の弟子が、戦後の青少年運動を復興させるのです。日本ユースホステル協会を創設した横山祐吉氏です。日本青年館の事務局長だった横山祐吉氏は、GHQ(占領軍)がやってくると、即座に面会を求めてアメリカへの青年団の派遣を要請しました。ヒトラーユーゲントの来日によって、日本が大きく転換したことを知っていた彼は、青年を渡米させることによって社会を大きくかえようとしていたのです。

 ここで横山祐吉氏は、大きな転換を行います。
 青年団を青年の手に渡したのです。
 文部省には渡さなかった。


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2011年01月18日

ユースホステルは甦るのか?8

ユースホステルは甦るのか?8

 昭和8年、ドイツユースホステル運動の躍進に驚いた日本の文部省は、ただちにユースホステル運動を取り入れます。しかし、残念なことに、この年にナチスが選挙で大勝し、政権を手に入れます、そしてドイツユースホステル協会を乗っ取るのです。そして、ドイツユースホステル協会は、ヒットラーユーゲントに吸収合併されます。ここから先は、どの歴史書にも悪口しかかかれてありません。ドイツユースホステル協会は、ヒトラーユーゲントとしてナチスの手先になってしまったと。





 ところが、奇妙なことに、そういわれているヒトラーユーゲントも、完全に大人の統制下におかれていないのです。不思議なことに青年に指揮されています。毛沢東や金正日のケースと違っているのです。つまりワンダーフォーゲル運動が発生したドイツの伝統に従っています。

 ヒトラーユーゲントで編成された第12SS装甲師団も、ドイツで最も若い師団長のもとで訓練され、将校の大半が若者ばかりでした。しかし、この第12SS装甲師団が、ノルマンディー上陸戦で大活躍し、他の大人たちの部隊が次々と撃破されていくうちで、2ヶ月間も連合軍の攻撃を跳ね返しています。こういう事は、日本ではおきていません。学徒出陣はありましたが、学生たちだけで部隊を編成し、彼らに近い年齢の将校とともに部隊を編成して奮戦したという例はゼロです。全員、大人たちの手下にされて戦場に散っています。





 それは、ともかくとして、せっかく日本がドイツユースホステル運動を取り入れようした時に、それがヒトラーユーゲントに変わってしまっていたというのは、日本の不幸でした。ユースホステル運動の本質を知るチャンスを奪われてしまったからです。

 ここでおさらいをします。

 ドイツでは、ワンダーフォーゲル運動によって、少年たちが旅に出かけました。驚くべき事に少年たちは、自己管理によって最も道徳で模範的な人間でした。そこには非行はありませんでした。しかし、最盛期でも、たったの5万人にすぎませんでした。

 ところがリヒャルト・シルマンが、ドイツユースホステル協会を作り、全国にユースホステルを設置しますと、旅する少年の数が、5万人が50万人になりました。しかも大半が貧しい少年たちでした。そして、それはワンダーフォーゲル運動とは違うスタイルの旅になっていました。ユースホステルという施設が出来ることによってワンダーフォーゲルとは違った文化が生まれたのです。

 それはどんな文化か?
 一言で言うと、融合です。

 ユースホステルという箱が出来ると、その箱に多くの種族が集まってきました。リヒャルト・シルマンは、それを拒否しませんでした。大歓迎しました。そのかわりに最低限の規則を作りました。規則を守る限り、どんな種族も差別なく受け入れる。そういうスタイルをリヒャルト・シルマンはとりました。

 これは、ヒトラー式ではなく、プロイセン式でした。
 ルールを守る限り差別はないというのがプロイセンの伝統でした。

 その結果、ドイツの少年たちは、母国にいながら多くの外国人を知る機会を得たし、いろんな世代の大人たちも知り得たし、いろんな身分の人たちと、同じ釜の飯を食い、一緒に歌を歌うことが出来ました。ユースホステルの中に、もう一つの世界(地球)ができあがり、それを体験することができたのです。

 これは、ドイツの少年たちだけでなく、各種族の大人たちにとっても、エキサイティングなことでした。というのも、それ以前の世界史には、そういう箱(ユースホステル)はありませんでしたし、そういう文化(ユースホステルを使った国際交流)は無かったからです。しかも、そこは大人たちではなく、少年たちが主役の世界でした。こういう世界は、歴史始まって以来だったのです。だから世界中が、ドイツのユースホステル運動に注目したのです。

 しかし、日本は少しばかり遅れて注目してしまった。そのためにユースホステル運動の本質をよく理解できない。しかたなくワンダーフォーゲル運動の方に目を向けてしまった。けれど、ワンダーフォーゲル運動もナチスによって姿を消していたので、ワンダーフォーゲル運動を健康法に位置づけてしまった。登山サークルの一種と取り違えてしまった。ここに戦前のユースホステル運動が早期に消滅してしまった悲劇があります。

 そのうえもっと運が悪いことに、ヒトラーユーゲントの来日イベントがあった。
 これが日本史を悪い方向にもっていく作用があった。
 当時の日本人たちは、ヒトラーユーゲントを誤解した。
 統制のとれた団体だと誤解した。

 確かに統制はとれていたけれど、
 彼らのトップは青少年であることに気がついてなかった。
 それに気がつかずに、日本の青少年団も、かくあるべしと思い込んでしまった。




つづく

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2011年01月17日

ユースホステルは甦るのか?7

ユースホステルは甦るのか?7



 東京都が、アニメの表現規制を行い、それに出版社が反発して物議をかもしていますが、規制賛成派も規制反対派も、共通して言えることは、子供たちの意見を無視しているところです。そういう意味では、両者は同じ穴の狢です。反対派も賛成派も、本質的に差はないと言えます。

 ・・・・・と書くと必ず、こんな事を言ってくる人がいます。

「子供たちは規制反対だろ? 規制反対する出版社と子供たちは利害が一致するのでは?」

 なるほど、管理されるのにうんざりしている子供たちなら規制反対になってしまうかもしれません。そのように考えたくなるのも無理はないかもしれません。しかし、多少なりともドイツワンダーフォーゲル運動の歴史を知る者にとっては、多少なりともドイツユースホステル運動の歴史を知る者にとっては、そうとも言い切れないのです。





 第二次大戦の敗戦は、日本の子供たちに強いショックを与えました。ある者は放心し、ある者は米兵のジープを追いかけてはチョコレートをもらい、ある者はパンパンとなって米兵に媚びを売りました。エログロがはびこり、治安は悪くなる一方であり、青少年犯罪は、上昇していきました。

「戦争に負けたのだから仕方ない」
「国中が焦土になったのだから仕方ない」

と当時の日本人の誰もが思いましたが、
そうは思ってなかった敗戦国民もいました。
西ドイツです。

 同じ敗戦国でも日本とドイツでは、その悲惨さにおいて天地ほども違っていました。悲惨なレベルが日本とはケタはずれでした。東からは共産主義の脅威の下に1000万の難民が西ドイツに流れこみました。しかも、この中の500万は少年たちで、大半は両親を失っていました。彼らは、西ドイツの戦争孤児50万の少年たちと合流し、西ドイツ全土を流浪しました。当然のことながら少年の犯罪率は増加しましたが、それでも戦後の日本より低かったのです。これは、どういうことなのでしょうか?

 1947年の厚生省児童局の統計によれば、
 養護施設に入所している少年は4013人、
 街頭の浮浪少年は1472人でした。

 しかし西ドイツでは、550万の戦争孤児が全土を流浪していたのです。
 ケタが違います。
 3つもケタが違うのです。

 「火垂るの墓」のような悲惨な人生をおくる可能性のあった少年たちは、西ドイツ全土に550万もいたのです。もちろん西ドイツ政府とて、手をこまねいているわけではありませんでしたが、占領軍のきびしい統制によって、1949年までは、どうにもなりませんでした。

 しかし、ここに奇跡のような事件がおこるのです。
 奇跡は、少年団と映画館の間におこった各地の争いからはじまります。

 当時ドイツでは映画作製がきびしく制限されていたため、外国映画がドンドン流れ込みました。映画の多くはエログロもの、西部劇など教育の上に悪影響を与えるものが多いことは日本と同じでした。しかし、違っていたのは、少年たちの態度でした。

 エログロもの、西部劇など教育の上に悪影響を与える映画の上映を少年団たちが、実力で阻止したのです。風紀の乱れる映画上映の反対運動を少年たちが率先してデモを行い、そして自分たちを守ろうとする少年たちが、映画館の前で腕を組んで通せんぼうをしたのである。映画館と少年団との間に争いのおこったのは当然で、あるときには暴力ざたに発展したことさえありました。

 当時の日本は逆でした。日本の青少年たちは、いたずらに大人に反発し、昔ながらの教育に対して何でも「封建的」だと批判し、日本の青少年たちは西部劇などの外国映画に夢中になり、当時の基準で、あきらかにエログロとされる映画さえ喜んで見に行きました。それどころか、全国にヤクザ踊りが流行しました。ヤクザの着物姿で刀を差して踊る、見物人はヤンヤの拍手喝采でした。

 そんな時代に、同じ敗戦国でも西ドイツでは、ドイツの風紀を守るため、子供たちの環境を守るために教育の上に悪影響を与える映画の上映を少年団たちが、実力で阻止したのです。しかも、それを指導したのは大人たちではありません。子供たちが、子供たちの判断で立ち上がり、子供たちのリーダーシップによって、子供たちだけで闘いは進められたのです。

 この事実の中には、どうして一時は世界一位の会員数を誇った日本ユースホステル協会が、これほど簡単に衰退していくのに対して、ドイツユースホステル協会は、今なお盤石なのかという疑問に対するヒントが隠されています。西ドイツの少年運動は、大人たちが造ったのではなく子供たちが造ったのです。





 さて、東京都のアニメ規制の話しに戻ります。
 ここまで述べれば、規制賛成派も規制反対派も、
 同じ穴の狢
 と言った意味が分かるかと思います。もっと言うと

「子供たちは規制反対だろ? 規制反対する出版社と子供たちは利害が一致するのでは?」

と言い切った人も、同じ穴の狢です。

 ワンダーフォーゲル運動的に考えると『おかしい』ということになります。
 ワンダーフォーゲル運動的な考えでは逆です。
「子どもたちを守るのは子どもたち自身である」
というのがワンダーフォーゲル運動的ですから、アニメを規制するなら、その委員会に子どもの代表がいないとおかしい。

 本当の意味でのワンダーフォーゲル運動を経験した国であったなら、子供たちに自己管理させるはずです。というのも子供たちがワンダーフォーゲルという自己管理の活動をさせると、子供たちは、実に道徳的になるからです。むしろ大人たちよりも保守的になりやすい。





 だから、子供たちの代表が委員会にはいっていれば、ひょっとしたら、第二次大戦直後の西ドイツの少年たちの奇跡を、現代の日本で見られたかもしれない。大人たちと子供たちが言論で戦う姿が見られたかも知れない。いや、逆にそういう光景は、日本では起きないかも知れない。というのも日本の子供たちに
「俺たちにも発言権がある」
という発想が全くないからです。

 いや、発想がないのではない。
 そういう発想をさせないのが日本社会でなのあると。

 そういう事を考えるのは大人になった後でよい。
 今は勉強しなさい・・・・というのが日本社会であると。

 こういう社会の中で子供たちは、
 いったい誰が旅に出るというのだろうか?
 どうして、ワンダーフォーゲル運動が根付くというのだろうか?
 どうして、ユースホステル運動が根付くというのだろうか?

 日本の子供たちにとって、旅も、ワンダーフォーゲルも、いっさい余計なものであって、単なるレジャーでしかないものであるならば、旅にこだわる必要は無い。ワンダーフォーゲルやユースホステルにこだわる必要は無い。レジャーは他にもある。いろんなレジャーがある。だからユースホステル運動をレジャーの一つと考えるならば、ユースホステル運動の未来は暗いものになる。しかし、別のアプローチで考えてみると、ものすごく明るい未来が見えてくる。


つづく

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2011年01月15日

ユースホステルは甦るのか?6

ユースホステルは甦るのか?6

 教師たちは、生徒たちが非行にはしらないように管理し、注意してきましたが成果をあげなかった。だから監視を強めることになって、教師と生徒の関係がギクシャクしていた。ところがワンダーフォーゲル運動においては、全くそういうことはない。少年が少年を指導することによって、全く健全な子供たちの世界ができあがる。子供たちがワンダーフォーゲルという自己管理の活動をさせると、子供たちは、実に道徳的になる。

 子供たちがワンダーフォーゲルという
 自己管理の活動をさせると、
 どうして彼らは道徳的になるのか? 





 答えは実にシンプルです。
 管理する苦労がわかるからです。

 子供たちは、いつも管理される側であった。そのための管理のための規則を嫌う傾向にある。しかし、ひとたび管理する側になると、管理の難しさに閉口する。そのために時として子供たちは、大人たちより厳しいモラルを、子供どうしで作り上げるのです。それは、時に間違ったモラルであったりもする。そのためにイジメが発生して自殺者をだしたりもする。けれど、子供たちを放置すると、モラルが崩壊するということはない。絶対にない。むしろ子供たちが自主的に作るモラルの縛りは、大人たちの作る縛りよりも、強く残酷であったりする。それがイジメによる自殺に発展することさえある。結果として悪事に手を貸すことさえある。

 しかし、子供たちが作る子供のためのモラルが、間違ってない方向であれば、ドイツのワンダーフォーゲル運動に見られた素晴らしい理想的な子供たちの世界ができあがるのです。初期のドイツワンダーフォーゲル運動を行った子供たちは、12歳から19歳の年齢でした。彼らが、教師が見張っているわけでもないのに、進んで模範的な人間であろうとする。そういう世界ができあがるのです。

 しかし、この単純明快なことを、(一部を除いて)大人たちは、なかなか理解できなかった。ワンダーフォーゲル運動の素晴らしき成果を、肉体運動や健康に求めたり、ドイツの歴史や文化に求めたり、徒歩修行にもとめたり、宗教的背景にもとめたり、教育的効果に求めたり、レジャーによる精神的解放にもとめたりして、見当違いの結論をだしていました。

 当時の日本の識者たちも同じで、ワンダーフォーゲル運動を消極的健康法と認識しています。そのうえで文部省体育課は、東京を中心とする125コースを設定しました。しかも、それらのコースの大半は、登山コースで伝統的な修験道のコースが多々含まれていました。しかし、当時の日本の子供たちが、それらのコースに殺到し、日本にワンダーフォーゲル運動が根付いたかというと、そういう事は、全くありませんでした。



 
 それは、まだまだ貧しかったからか?
 違います。

 第一次大戦直後のドイツは、当時の日本より、遥かに拙かったけれど、さかんにワンダーフォーゲル運動が行われていました。第一、もっともっと貧しかった江戸時代においては、おかげ参りという伊勢参りブームがおきています。ブームは、 260年にわたる江戸時代に15回ほど発生していますが、このブームがなんとも気違いじみた、御祭り騒ぎをひきおこしました。

 ある日、気がつくと村から人間がいなくなる。
 村がからっぽになる。
 それは、もう神隠しのように消えてしまう。
 どこへ消えたのかというと、みんな伊勢参りにでかけてしまった。
 そんな現象が、全国の津々浦々でおきたのです。

 ある村では、6〜10歳くらいの子供たちが消えてしまう。
 ある村では、女性全員が消えてしまう。
 ある村では、老人が全て消えてしまう。

 こんな現象が、全国で同時におきてしまうのです。当然のことながら、みんな旅支度などせずに出かけています。お金も通行手形も持っていません。集団ヒステリーのように発作的に伊勢参りに出かけるのですから、そんなもの誰だって用意していません。じゃあ、どうやって旅をしたのかと言いますと、野宿のためのゴザをかかえ、柄杓を一本手にして沿道で施しを受けながら伊勢に向かったんですね。勝海舟のお父さん(勝小吉)も、そうやって伊勢参りをした口です。





 その中には、親・主人の許可を得ない「ぬけ参り」も多くみられたと言います。
 ぬけ参りというのは、今で言えば、集団家出・集団脱走・集団退職で伊勢参りに向かうことです。

 驚くべきは、6〜10歳くらいの子供たちのグルーブ参拝です。ある日、突然、親にも奉公先の主人にも内緒で家をとび出し伊勢へでかけるんですから凄いものです。少女たちの集団もいました。女性の旅人には、関所もうるさかったのですが、信仰旅行とあれば、堂々と関所を通れたようです。宝永2年の伊勢参りブームの時に、京都所司代が1カ月間、京都を通過する参詣者に関する調査をしました。それによれば、

京都通過総数      51500人のうち、
6〜16歳までの子供が  18500人(35.9%)
また女性が       21000人(40.7%)
成人男子が       12000人(23.3%)

となっています。成人男子より、女子供の方の数の方が圧倒的に多いというこの事実には、ただただ驚かされます。

 また、1705年の宝永2年に4月9日〜5月29日までの50日間、本居宣長がその数を調査し、その著作『玉勝間』に書いています。それによると、50日間で 362万人。ということは、単純計算にして1日当たり約 72000人。これを1日8時間で割ってみると、1時間あたり 9000人、1分間に 150人が通過していったことになります。当時の伊勢街道の道幅は、かなり狭いですから、ラッシュの新宿駅なみに混雑していたことになりますね。第一に50日間で 362万人だなんて、お正月の明治神宮や鶴岡八幡宮より混んでいたことになります。すごいもんです。

 さらに1830年の文政13年の頃には、九州から出羽の国まで全国の人民、 500万人が、突如として伊勢参りにでかけています。500万人といえば、当時の人口の 20パーセントにあたりますが、身体の不自由な老人や、幼い子供、お役目があって移動がままならない武士たちを除けば、人口の半分くらいが伊勢に向かったのではないかと思います。ここまでくるとブームなんて生易しいものではありません。伊勢街道は通勤ラッシュというより、おしよせる人民の津波。まさに民族の大移動です。この現象を世界史的な視点で見てみますと他に類例がありません。日本には、そういった歴史があるのです。これに比べれば、ドイツのワンダーフォーゲル運動なんて、ごくごく小さな運動です。なにしろ最盛期に5万人を越えなかったからです。

 さて、これらの伊勢参り・抜け参りをした江戸時代の少年少女たちのモラルは、どうであったか? きわめて高いモラルをもって旅をしたと言われています。ワンダーフォーゲル運動を行ったドイツ少年たちに匹敵する素晴らしいモラルで自らを律し、模範的な旅人であったことが当時の記録に残されています。ですから関所の役人たちも、幕府の首脳たちも、諸藩の大名たちも、このような伊勢参りを規制することは、決してなかった。

 話しを戻します。

 よーするに当時の文部省は、ドイツのワンダーフォーゲル運動を取り入れようとしたけれど、日本の子供たちは、全く興味をしめさなかった。旅をするかどうかは、貧富の差は関係ない。貧しくとも旅する人は旅をする。金が無くとも旅する人は旅をする。これは少年少女にも言えます。江戸時代の貧しい少年少女たちでさえ、民族大移動のように伊勢参りをした。だから貧しかったからワンダーフォーゲルに興味をもてなかったわけではない。ワンダーフォーゲル運動に何の魅力もなかったから誰も、それを行わなかった。

 昭和8年の日本の少年少女には、ワンダーフォーゲル運動に、これっぽっちの興味も持てなかった。そんなものより、出世とか、青雲の志とか、軍艦とか、映画むとか、御馳走とか、豊かさに憧れていた。わざわざ貧しい身なりで貧乏旅行に行こうとは思ってなかった。それより列車にあこがれ、自動車にあこがれた。ドイツの少年たちが、列車や自動車に反発して徒歩で歩いたのとは、別のベクトルがはたらいていた。

 昭和初期の文部省は、あきらかに見当違いの考えをしていた。
 子供たちを、どのように方向付けるか?
 そればかり考えていた。

 だからドイツの子供たちのように、教師が見張っているわけでもないのに、進んで模範的な人間であろうとする。そういう世界を作ることに失敗してしまった。というか、日本の子供たちは、徒歩旅行にさえそっぽを向いてしまった。親たちに至っては、そんな金にもならんことに、エネルギーを使うことを馬鹿馬鹿しいとさえ思っていたふしがある。そのうえ、文部省も、当時の親たちも、子供を押さえつけることばかり考えていたふしがある。そういう世界に、ドイツのワンダーフォーゲル運動に見られた、子供たちの進化が見られるわけがない。

 ただし、いつの世にも例外はいます。
 当時の日本にも、例外がいた。

つづく 

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posted by マネージャー at 23:00| Comment(2) | TrackBack(0) | ユースホステルの話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月14日

ユースホステルは甦るのか?5

ユースホステルは甦るのか?5





 リヒャルト・シルマンによって第一次大戦後、一夜にしてドイツ中に大量の格安の宿ができあがると世界中の旅人は、ドイツに殺到しました。これに驚いたヨーロッパ諸国は、ドイツに続けとばかりにユースホステル協会を設立し、昭和7年に国際ユースホステル連盟ができあがったのですが、これの音頭をとったのはドイツではなく、オランダユースホステル協会です。

 イギリスでは、クエーカー教徒の重鎮であるキャッチプールがイギリスユースホステル協会を設立し、政治家たちに広く支援を求め、着々とユースホステルの整備を行いました。彼らは自然を愛し自然を熱心に保護しようとするグループの人たちで、ユースホステルも宿屋というより、日本の山小屋(それも避難小屋)に近いものでしたが、多くの支援者に支えられて整備されていきました。

 ポーランドも国策としてユースホステル運動にとりくみました。国策にするくらいなので、ポーランド政府は、リヒャルト・シルマンの理念を熟知しており、ユースホステル運動の素晴らしさをよく理解していました。国際ユースホステル連盟には、ポーランド教育省体育学校衛生局長と運輸省観光局代表が参加しています。

 オランダは、ドイツのワンダーフォーゲル運動のような団体が、リヒャルト・シルマンの思想をくみとって、世界でも最も質実剛健なユースホステルが作られていきました。多くのボランティアによってユースホステルは、支えられており、規則は厳しく、食事はペアレントと共にお祈りをしてから食べました。ドイツ以外で、一番早くユースホステル運動が定着したのが、このオランダ協会です。オランダが、国際ユースホステル連盟設立の呼びかけ人になったのも、当然のことでした。

 このように、ユースホステル運動は世界中に広まっていきましたが、国によってユースホステル利用の規則が緩やかな国と、厳しい国がありました。規則の厳しい国の代表がオランダでしたが、厳しい国は、たいていワンダーフォーゲル運動が盛んな国でした。なぜそうであったのかは、この文を最後までわかるでしょう。

 このような状況下で日本政府も動き出しました。文部省が調査を行い、民間人もユースホステルを紹介しました。しかし、残念ながら彼らは、ユースホステル運動とワンダーフォーゲル運動をゴッチャにしていました。

 ただし、リヒャルト・シルマンとドイツユースホステル運動の歴史は正しく理解していたようで、これを詳しく紹介しています。当時のドイツユースホステル協会の実態をかなり詳しく調査して、会費から会員証から規則について、実態を調査しています。そしてユースホステルを『青年宿泊所』として紹介しています。にも関わらず、当時の文部省では、ユースホステルよりもワンダーフォーゲルを積極的に取り入れようとしました。

 当時の文部省は、ドイツには二千以上のユースホステルがあり、それが、どのようにして一夜にできあがったか? そして、その事実が、どういう意味をもち、どのように世界史を変える力をもっていたか、全く理解できなかったようです。


 ここで脱線しますが、ドイツには二千以上のユースホステルができることによって、
 どのように世界史が変わったのか、
 少しばかり実例を紹介してみましょう。

 一夜にして二千以上のユースホステルがドイツにできあがって、世界中の旅人がドイツに殺到したことは前にも述べましたが、それらの旅人の中には、アメリカ人も少なからずいました。彼らアメリカ人は、ドイツのユースホステルで、ドイツ人の旅人の親切に出会い感動して帰る人が多かったのです。そういう旅人の多くが、第二次大戦のさなかにドイツ人に対する憎しみに満ちた偏見がでるのを防止してくれました。そして彼らは、第二次大戦後、悪いのはナチスであってドイツ人ではないと動いたからです。

 しかし、こういう動きは、第一次大戦の時には決しておこらなかった。第一次大戦の時にドイツを助けたのは、心ある日本人たちです。明治時代のお雇い外国人にドイツ人が多かったために、その弟子たちである日本人の多くは、民間レベルで第一次大戦後のドイツを積極的に救援しました。星新一のお父さんなんかが、その体表的な例です。そういう意味で民間交流は、とても大切なのです。





 逆にいうと戦前の日本に日本ユースホステル協会があり、全国に二千のユースホステルがあったとしたら、第二次大戦中にアメリカの日系人が収容所に入れられることはなかったかもしれません。というのも、アメリカユースホステル協会は、何度も日本にホステラーを送り込む計画をたてていたからです。で、実際、十名の大学生を昭和11年7月17日のシアトルからの船で日本に派遣しています。ちなみに彼らの小遣いは60ドル。日本円にして210円。当時の大工の日当が2円でした。コロッケ三銭、国鉄五銭、銭湯七銭でした。ユースホステルを使った貧乏旅行に来たとはいえ、アメリカ人学生の懐は、当時の日本人がうらやむほど裕福でした。

 ただ、残念ながら当時の日本には、一軒のユースホステルもありませんでした。仕方なく賀川豊彦が世話をしてYMCAが彼らの宿泊を引き受けたわけですが、もし、この時、ヒトラーユーゲントを大歓迎したようにアメリカのホステラーを大歓迎し、そのうえ日本にユースホステル網が充実していたら、日本史は違った歴史になっていたかもしれません。というのも、西部地区のアメリカ人にとっては、ヨーロッパ旅行より日本旅行の方が近くて便利で格安だったからです。彼らが大量に日本にやってきて、ユースホステルで日本人の若者とふれあっていたら間違いなく日米史は変わったものになっていたでしょう。たとえ戦争を防げなかったとしても、歴史は変わっていたでしょう。

 現に多くの知日アメリカ人が、アメリカ軍による過酷な占領政策を変えさせています。その代表的な例がYMCAの名誉主事であったラッセル・ダーギン氏です。彼は日本で三十年間、キリスト教で布教活動をつづけた人で日本語がペラペラなひとでしたから、占領軍の偏見に満ちた占領政策を次々とひっくりかえしてくれました。幸か不幸か、戦前の日本には信教の自由があり、多くのキリスト教団体が日本で活動していましたから、戦争に負けても彼らが日本の味方をしてくれたのです。ちなみに、このラッセル・ダーギン氏は、日本ユースホステル協会を創設した横山祐吉氏の師匠筋にあたる人です。ラッセル・ダーギン氏ぬきには日本ユースホステル運動史は語れませんので、この名前は覚えておくとよいと思います。





 だいぶ話しがはずれました。
 話しを元に戻します。

 ドイツには二千以上のユースホステルができる。これは世界に凄い衝撃を与えました。世界は、これに倣おうとした。日本も倣おうとした。しかし、日本では、ユースホステルの建設よりも、ワンダーフォーゲル運動を進めるほうにベクトルが向いていったのです。

 ワンダーフォーゲル運動は、最盛期であっても五万人をこえることはなかったと言います。ドイツユースホステル運動は、最盛期から落ちぶれたとはいえ現在でも二百万の会員を誇っています。つまりワンダーフォーゲル運動は、ドイツの伝統的エリートである教養市民層の子供たちでした。けれど、この小さな運動は、すごいインパクトをもっていました。

 彼らは、12歳から19歳のメンバーで構成されており、そこには大人がいませんでした。少年が少年を指導していたのです。しかも、酒もタバコも博奕もない。教師が見張っているわけでもないのに誰も悪事に手をそめない。それどころか誰もが進んで模範的な人間であろうとする。

 これはドイツにかぎらず世界中どこでも一緒ですが、教師たちは長い間、生徒たちが非行にはしらないように見張って、時に注意してきましたが、少しも成果をあげなかった。だから生徒への監視を強めることになって、教師と生徒の関係がギクシャクしていた。これは洋の東西を問わず、時代を問わず、いつどこでも起こりうる普遍的な現象ですが、ワンダーフォーゲル運動においては、全くそういうことはない。少年が少年を指導することによって、全く健全な子供たちの世界ができあがる。子供たちがワンダーフォーゲルという自己管理の活動をさせると、子供たちは、実に道徳的になる。





 この事実に世界は驚愕しました。

 そして、この事実に日本の文部省が飛びつきました。
 というのも日本にも似た事例があったからです。
 それは日本青年団の田澤義鋪の青年合宿であり、
 協調会の労働講習会であり、
 修養団の天幕講習会でした。

 また民間でも、のちに日本ユースホステル協会初代会長になる平凡社を創設した下中弥三郎氏が、児童の村小学校を開設し、子供たちが自分の好きなように勉強させるという生活させており、そこから数々の著名人を誕生させていました。

 しかし、当時の文部省は、子供たちがワンダーフォーゲルという自己管理の活動をさせると、どうして彼らは道徳的になるのか? 今ひとつ分かってなかったのかもしれません。もし分かっていたら、すぐに日本にユースホステルを量産していただろうし、そのユースホステルの管理方法も、現在とは変わった形になっていたと思うからです。これは、戦後に発足した日本ユースホステル協会にしても一緒です。


子供たちがワンダーフォーゲルという
自己管理の活動をさせると、
どうして彼らは道徳的になるのか?
 

つづく

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posted by マネージャー at 23:13| Comment(0) | TrackBack(0) | ユースホステルの話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする