2006年10月01日

シルマン伝までの経緯1 伝記が無い?

シルマン伝までの経緯1 伝記が無い?

 出版までの経緯を述べるのは、簡単ではありません。しかし、一部のユースホステル関係者、およびユースホステルマネージャーには、5年前からの周知のことであったと思います。

 そうです。
 あれは5年前のことです。
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 私が北軽井沢ブルーベリーYGHを開業した年は、日本ユースホステル協会五十周年記念の年でした。そして、東京の国立オリンピック記念青少年総合センターでラリーが開催されていました。

 ユースホステルの経営者は、ラリーへの参加義務がありました。私は、ユースホステル運動の研究部会に参加しました。その部会は、上田まほろばユースホステルのマネージャーである斉藤さんと五十年史編集委員の磯野さんが中心になってやっておられました。
 そこには、今回、シルマン出版を応援してくれている、遠野ユースホステルのマネージャーや、トイピルカ北帯広ユースホステルのマネージャーさんも一緒に議論されておりました。お二方は、覚えておられるでしょうか?

 議長は、今回のシルマン伝の出版において大変御世話になりました、日本ユースホステル協会の五十年史編集委員の磯野さんでした。ところが、その部会で磯野さんが、

「日本にはユースホステル運動を提唱したリヒャルト・シルマンの伝記が売られていません」

とおっしゃいました。正確に言えば、一九六三年に日本ユースホステル協会が出版した『ユースホステルの祖父 リヒャルト・シルマン』だけで、それも日本ユースホステル協会に数冊残っているだけだと聞きました。正直申しますと、その時の私は、
『リヒャルト・シルマンって、いったい誰よ?』
とシルマンについて全くもって無知だったのですが、それはともかく、

『仮にも世界の80ヶ国に約5500ヶ所の施設がある世界最大の宿泊ネットワークを作ったユースホステル運動の創始者の伝記が無い』

という状態が、本当に、ありえるんだろうかと思いました。落ちぶれつつあるとはいえ、2001年当時国内に13万の会員があり、国内に300以上の施設があるのです。その創業者の伝記がないと聞いて驚くなという方が無理です。
 ショックを受けた私は、磯野さんに、自腹を切って一九六三年に日本ユースホステル協会が出版した『ユースホステルの祖父 リヒャルト・シルマン』を復刻出版したい。それをユースホステル協会に寄付したいと申し出ました。

 すると磯野さんは、あとで事務所にいらっしゃいとおっしゃいました。


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2006年10月02日

シルマン伝までの経緯2 難航する調査

シルマン伝までの経緯2 難航する調査

 私は、日本ユースホステル協会の事務所に飛び込み、日本ユースホステル協会にある資料をかたっぱしから借りてコピーしました。また買えるものは全部買いました。
『日本ユースホステル運動五十年史』
を編纂した磯野氏にも、お話を伺いました。

 また、日本ユースホステル協会の事務局の小俣さんに一九六三年に協会が出版した『ユースホステルの祖父 リヒャルト・シルマン』をホームーページなどに公開して良いかと打診したところ、営利活動でなければかまわないと、好意的な御返事をいただきました。この方もシルマン伝の必要性を感じているのかと思いました。

 さっそく自宅に帰って『ユースホステルの祖父 リヒャルト・シルマン』テキスト文字に変換し、ホームーページに公開しようと思ってみたら、ヨーロッパの歴史的な知識が不足している日本人には、理解しにくい部分があることに気がつき、その作業を中止しました。

この本を日本で出版しても良いのだろうか?

という素朴な疑問が湧いてきたのです。

 この本の著者は、リヒャルト・シルマンについて、ある種の距離を置いているなという雰囲気を漂わせていました。それからドイツ史に対するある種の偏見があるというか、イギリス的な見方があるというか、シルマンの業績について、ドイツ史的な視点立って書かれていないのが、ものすごく気になりました。

 つまり、イギリス人のフィルターがかかっているのです。
 それは、ドイツ史に無知な私にも充分に察知できました。

 それから、この本には、日付などの間違いがあったり、著者または訳者の勘違いと思われるところもありました。

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 例えば、昭和19年5月にシルマンたちがアルテナ城に結集したのが、ノルマンディー上陸1ヶ月後と書いてありましたが、1ヶ月前の間違い(または誤訳)であることは、多少戦史を知っている者なら誰にでもわかることですが、これを復刻出版したばあい、間違いを直して復刻すべきか、それとも、そのまま出版して、注釈に間違いであることを正すのか、迷いました。

前者なら資料の改ざんになるし、
後者の場合、読者のポテンシャルに水を差します。


 他にもモンロー・スミスとシルマンが出会った年月を数年も間違えていたり、ドイツの歴史的事情を無視して評価を書いたり、クリスマス休暇事件の背景を無視していたり、プロイセンについてふれてなかったり、ドイツの教育システムについて、最低限のことを抑えてないことに不満がありました。

 そこで、復刻出版を中止し、シルマンについて、もう一度、自分で調べ直すことにしました。しかし、これが、ものすごく難航しました。というのもシルマンに関して日本語に翻訳された資料が極端に少なかったからであり、私自身が、ドイツ語も英語もできなかったからです。

 例えば、シルマンの生まれたハイリゲンバイル郡のグルネンフェルトと言っても、さっぱり分かりません。地図をあたってみても場所が特定できないのです。というのも、その土地は、東プロイセンからポーランド領になっており、現在はポーランド名である Gronowko に変更されているからです。

 こんなことも語学ができないために調べ上げるのに何日もかかりました。ようやく位置を確認し、やっとシルマンの生まれた土地が、内陸なのか、海のそばなのか、平均気温は何度なのかということが分かりました。

 それからシルマンが生きた時代のプロイセンの文化や民俗、そして教育制度も、ある程度理解するまで時間がかかりました。

 とにかく資料がありませんでした。最初は、あたりをつけてインターネット書店で購入しましたが、これでは駄目だと観念して、北軽井沢から東京に上京し、財布と相談しながらかたっぱしから買い集めました。絶版になった本は古本屋にたのむか、国会図書館に日参してコピーをとり続けました。

 インターネットによる調査も難航しました。ドイツの人名・地名は、マイナーすぎて検索に出てきません。時間がとれたら私が、ドイツ関連の資料を整理してホームーページに公開したいと思ったくらいです。幸いなことに私は昔、ドイツを旅したことがありましたので、その時の記憶だけがたよりでした。
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2006年10月03日

シルマン伝までの経緯3 失敗した連載

シルマン伝までの経緯3 失敗した連載

 リヒャルト・シルマンについての調査結果は、季刊 『風のたより』という同人誌に連載しました。連載初期は、簡単な伝記物語を数回ほどで終わる予定でした。

 ところが連載がすすみ、シルマンを調査していきますと、『風のたより』に連載したシルマン伝は、致命的な欠陥を持っていることに気がつきました。それは、私自身がドイツのことをよく知らなかったために多くの勘違いをしてしまったことに原因があります。

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『風のたより』に連載されたシルマン伝は、国際ユースホステル協会が一九六三年に出版した『ユースホステルの祖父リヒャルト・シルマン』を基礎資料とし、ドイツ史を調べたことを味付けした連載でしたが、掘り下げて調べていくうちに、どうしても分からなくなってしまったのです。

 例えば、ヒトラーの登場。何か突然あらわれた感じがするのです。どうして登場したのか、どんなに調べても、さっぱり分かりません。しかし、古本屋で見つけた

『シャハト伝(フランツ・ロイテル著/千倉書房/昭和十三年発行)』

を読むことによって、目から鱗が落ちました。

 シャハト博士は、ナチス政権において、経済成長を推進したことで有名な人ですが、彼の業績よりも、ドイツの通貨問題・賠償金問題・外債問題を通じてヨーロッパがどのような歴史に進んだかということの方に目がいきました。そして

「ああ、こうやってヒトラーが現れたのか」

と分かりかけてきました。そして、いろいろな手がかりが掴めてきました。ヒトラーを支持する者は、どこから現れてきたとか、反抗したのは何者だったのかとかです。

 例えば、最もヒトラーを支持し、ユダヤを迫害したのは、ライン地方の人々であり、逆に最もヒトラーに反抗したのもライン地方の人々でした。では、シルマンの生まれたプロイセンではどうであったか?と言いますと、その全く逆です。迎合もしなかったし反逆もしなかった。ユダヤへの迫害も少なかった。それは統計を見ると一発でわかります。焼き討ちされたユダヤ寺院の数を地域別に調べると一目瞭然なのです。

 こうなると
「シルマンの生まれ育ったプロイセンとは、どんなところか?」
という疑問がわいてきます。

 私は今まで漠然と「プロイセンは軍国主義の国=プロイセン性悪説」をイメージしていましたが、ナチスに焼き討ちされたユダヤ寺院の数を地域別に調べてみると、そんな単純なものではないことに気づき、もう一度プロイセンを一から洗い直してみると、今まで持っていたプロイセンのイメージがガラガラと崩れてしまいました。

 しかし、これは無理のないことだったと思います。プロイセン性悪説は、司馬遼太郎をはじめとする日本の歴史小説の通説でしたし、あの西ドイツでさえ、戦後まもなくの間、第二次大戦の原因をプロイセンになすりつけていたからです。しかし、プロイセンに関する専門書をよく読むと、それは冤罪であることに気がつきます。

 その結果、『風のたより』のシルマン伝の構成を大幅に変更せざるをえなくなりました。そして連載にドイツ史を大幅に導入しました。第一次大戦についても大きくふれてみました。

 しかし、すでに書いてしまった連載部分をどうするかが問題でした。どのように継ぎ接ぎすれば良いのだろうかと真剣に悩みましたが、前提が変わった以上、いろいろ工夫してみたのですが、どうしても書き換えは不可能でした。シルマン伝の連載した時のテーマと、違うテーマになってしまっているからです。

 私は、『風のたより』に連載を始めたときに、漠然とドイツ統一からワンダーフォーゲル運動が生まれ、そこからユースホステル運動が生まれたと思っていました。ところが詳しく調べていきますと、ワンダーフォーゲル運動とユースホステル運動は、それぞれ別のコンセプトから生まれていました。

 また、ユースホステル運動には、シルマンの個性が大きく影響しており、その前提としてプロイセン地方の文化風習が欠かせないこともわかりました。その結果『風のたより』のシルマン伝を全て書き直さない限り、解決がつかないという結論に達しました。

「よし連載を停止し、シルマン伝を自費出版しよう」

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 私は、シルマン伝を一から全部書き直して自費出版する決意をしました。2006年は、日本におけるユースホステル運動55周年。リヒャルト・シルマン御逝去から45周年。この記念すべき時を前にして、リヒャルト・シルマン伝を自費出版することになりました。

 本の内容は、『風のたより』に連載されたものと全く別物になっています。違う視点で書き直してあります。そのさいに参考として

『若き教養市民層とナチズム(田村英子)』
『ドイツ青年運動(ウォルター・ラカー)』
『ワンダーフォーゲル入門(大島鎌吉)』

などの資料を特に重視してあります。テーマも内容も大幅に変えました。ユースホステル運動は、ワンダーフォーゲル運動の延長ではなく、一種の国民運動と捉えなおしました。

 しかも、その国民運動はナチスに強奪され利用された悲劇が、新しいシルマン伝を書く上でのテーマになると思いました。

 逆に言うと、ナチスが何故、あれほどドイツ国民に熱狂的に支持されたかも、今の私には、おぼろげながらに理解できます。ナチスは、シルマンの考えたユースホステル運動のノウハウをたくみに盗み取って、自分たちの政権維持のために利用し、シルマンを追い払ったからです。

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2006年10月04日

シルマン伝までの経緯4 プロジェクトX

シルマン伝までの経緯4 プロジェクトX

 自費出版にあたって二十社くらいの出版社に見積もりをとりました。2006年6月のことです。

 時間があれば、持ち込み原稿として費用をかけずに出版社に出版してもらいたかったのですが、時間がありませんでした。どうしても、2006年8月26日のシルマンデーに間に合わせたかったからです。

 2006年6月に決意したばかりで原稿はできてませんから、原稿を書くのに2週間かかったとして、原稿が完成するのが、6月末。それから出版社を回ったとして、うまくいって半年後、下手したら1年後になります。2006年8月26日のシルマンデーに間に合うわけがありません。これに間に合わせるには、自費出版でないと無理なのですね。

 そこで二十社くらいの出版社に見積もりをとりましたが、分かったことは、自費出版であっても、必ず審査があるということです。つまり、いくら金を積んでも基準値に達してないものは、出版できないということでした。

 それから費用の面でも多くの資金がいることがわかりました。私の原稿は、最初、350ページに達するものでしたから、見積もりをとると平均して200万〜300万という高額なものになりました。そのうえ大手出版社の場合、制作期間を三ヶ月以上要するところばかりでしたから、どこを選んでも8月26日のシルマンデーに間に合いませんでした。

 そこで、最後の手段として古い友人の集まりである『風のたより』の仲間に声をかけ、彼らのノウハウを利用して8月26日のシルマンデーまでに本を作ることにしました。私をのぞく幸い4人が参加協力を申し出てくれました。

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 まず、350ページの原稿の内容を削ることから始めました。不要と思える箇所をどんどん削り、中身をどんどん薄くしました。文章も簡潔にし、要点を絞りました。
 それでも、300ページ近く残っていたので、行組みを多くしました。一般的に本は、一行40文字×16行が基準となります。これを一行45文字×19行にしてページ数を減らし、読みにくくならないように、たくみに句読点や改行を工夫しました。空欄スペースも、どれが適切か、五十回近く印刷しては検討しなしました。


 原稿は、文章の完成度より、読みやすさを優先しました。読者を高校生に想定し、難しい表現を避け、わかりやすい易しい言葉を使いました。「だ、である」調ではなく、「です、ます」調で文章を書き、なおかつ1ページでも減らすように簡潔にまとめました。ページが増えると、予算も増えるからです。そして、なんとか232ページまで減らすことに成功したのが、7月中旬。

シルマンデーまで、1ヶ月のタイムリミットが迫っていました。

 その間、宿のことは全て家内にまかせっぱなし。私は、原稿書きに忙殺されホームーページの更新も、ツアーにも出かけず、北軽井沢ブルーベリーYGHの御客様をジャンジャン逃がしていました。開業以来最悪の営業数字を記録する中、もっと最悪なことに、夏のヘルパー(ボランティアスタッフ)が全くいなかったのでした。

 いや、正確にいうと陳さんという台湾のヘルパー希望者が一人だけいましたが、外国の人を採用したことが無かったために私の不安は募りました。結局、この陳さんが、日本人以上に勤勉だったために、こちらは大助かりだったのですが、北軽井沢ブルーベリーYGHは、毎年4人以上のヘルパーさんが、必死になって働いて、ようやくまわるのに、これでは、どうにもなりません。私は、御客様を減らす決意をしました。

 そして日本ユースホステル協会にメールでシルマン伝出版許可のメールをしたのが7月28日。タイムリミットまで、あと28日を切っていました。

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 日本には、言論の自由があります。誰がどんな本を出そうが自由なことは確かなはずですが、いくら個人の自由と言っても、リヒャルト・シルマンのことを書く以上は、日本ユースホステル協会のチェックが必要なのかなと思いなおしました。

 そこで、日本ユースホステル協会にメールしたのですが、運悪く、担当の小俣事務局長が海外出張されていました。また、日本ユースホステル協会側も寝耳に水状態で、突然のことに驚かしてしまい、日本ユースホステル協会の皆様には、たいへん御迷惑をおかけいたしました。

 しかし、この時点では、本を出版するといっても、四百冊くらいしか予定してなく、うち三百冊は寄付を目的にしており、こちら側は、それほど大げさなこととは考えていませんでした。とにかくリヒャルト・シルマン伝が市販されてないという最悪の状況を是正することが第一目標でしたから、
「百冊程度の流通在庫があればいいや」
「どうせ十冊くらいしか売れんだろう」
と安易に考えていました。

しかし、日本ユースホステル協会に出版の打診してみて、思ったより大事(おおごと)なのかもしれないと考え直し、そっそく原稿のゲラ刷りを郵送しましたら、多くの著名な方々から、もったいない御言葉をいただき、たいへん恐縮してしまいました。調子にのりやすい私は、よし、もっと、この本を良いものにして、この機会に、シルマンの偉業を世間にアピールしてやれと思い、仲間と相談しました。

 こうして、コピー印刷(オンデマンド印刷)による限定四百冊発行の予定を中止し、オフセット印刷にわる本格的な出版を行うことを決意しました。こうして四十万の予算は、ふくれあがって百四十万の予算となってしまいました。

 三十万かけて出版用専門フォントや出版デザインソフも購入するはめになりました。資金回収は、とっくにあきらめていましたが、集客減のうえに、増える出費には頭を悩ませられました。

 しかし、ここで問題がおきました。日本ユースホステル協会とのやりとりが長引いてしまって2006年8月26日のシルマンデーに間に合わなくなってしまったのです。

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2006年10月05日

リヒャルト・シルマン

 ドイツの名もない一人の小学校教師が、ユースホステルを提唱し、世界中にそのネットワークを広げる基礎を作りあげたことは、あまり知られていません。
 リヒャルト・シルマン先生。
 一九〇九年にユースホステル運動を提唱してから、一代にして世界中に、この運動を広げた人ですが、彼の生きた時代は、激動そのものでした。

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 まず、第一次大戦。
 ユースホステル運動は中断し、多くの人々の命が奪われました。
 そして敗戦。狂乱インフレ。全ての財産が一夜にして消滅。
 その後の国家社会主義者(ナチス)による追放。
 そして、第二次大戦と敗戦。
 爆撃と戦闘でドイツは焦土となり世界から孤立。
 ドイツユースホステル協会の国際ユースホステル連盟への復帰は却下され続けました。

 しかし、そういう絶望的な状況下からもリヒャルト・シルマンは、何度も何度も不死鳥のようによみがえり、再起し、コツコツと世界中にユースホステルのネットワークを作りあげていきました。

 リヒャルト・シルマン。

 彼は、英雄でもなければ、天才でもありません。学校を中退したために学歴もなく、これといった才能もない平凡な小学校教師でした。それもドイツ語しか話せない田舎の貧乏教師でした。

 その平凡な教師が、世界中にユースホステル運動を広めたと言ったら、あなたは信じますか? 外国語を話せなかった人間が、世界にまたがるユースホステル運動を、たった一代で展開していった人がいると言ったら、あなたは信じますか?

 そんなリヒャルト・シルマン先生のホームーページ、
 そして本が出版されます。
 詳しくは、下記のサイトをどうぞ。

  http://shiruman.net/

 実は、リヒャルト・シルマン先生の伝記は、何十年も市販されていませんでした。ユースホステル全盛の時代でさえも、シルマン先生の伝記は、絶版となった国際ユースホステル協会のものだけでした。そのために、ユースホステル協会関係者でさえも、リヒャルト・シルマン先生のことを良く知らないままでした。

 これではいけないと思った私は、リヒャルト・シルマン先生の業績を多くに伝えたいと思って仲間数人と一緒に自腹を切って自費出版を行いました。

 予算は140万。百冊も売れれば良い方でしょうから、おそらく大赤字。いや、印刷した本全部売れても赤字です。ははははは。嘘だと思うなら出版社(印刷会社ではないよ出版社だよ)に見積もりとってみてください。きっと衝撃をうけるでしょう。

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2006年10月06日

シルマン伝までの経緯5 完成

シルマン伝までの経緯5 完成
 シルマンデーに間に合わない。何のために御客様を減らしてまで夏の忙しい合間に努力してきたのか? と一瞬落ち込んだ私ですが、シルマンデーが無理なら、日本ユースホステル協会の55周年記念を発売日にしようと思い直し、どうせなら千部くらい印刷し、300〜500冊くらいを全国の書店に配本できないものかと考えました。

 とはいうももの、いくら金を積んでも300冊も配本してくれるものではありません。取り次ぎ業者が、本の内容を審査して、オーケーがでないかぎり無理なのだそうです。だから大金を支払って500冊を御願いしても、100冊しか配本されなかったということもよくあるそうです。

 また、100冊配本されたとしても、店頭に100冊並ぶかどうかは、微妙なところです。
 ダンボール箱から取り出されないまま返品されることも多いのだそうで、これは、本の委託販売制度と関係あります。

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 本の問屋さんは、売れる本と売れない本をセットで委託配本するわけですが、小売りである書店は、売れない本を箱から出さないまま返品してしまうのだそうです。

 そう考えると、仮に『リヒャルト・シルマン伝』を全国の書店に配本してみたところで、あまり意味は無いのかなと思い、最初の計画では、配本予定は無かったのです。

 しかし、委託配本は、初版の第1回きりです。これを逃すと二度と配本のチャンスが無いのです。

 それを考えると、せっかく、リヒャルト・シルマンの名前を全国に知らしめるチャンスがあるにも関わらず、それを使わないというのは、みすみす広報のチャンスを失うようなものだと思いなおしました。

 はたして、この配本が、どれだけユースホステルと、リヒャルト・シルマンの知名度をあげるかわかりませんが、これで少しでも、ユースホステルについて社会へのアピールになればと思いました。

 ここで本音を言ってしまえば、書店で買われるより、事務局から直接買ってもらった方が、少しでも私たちの資金の回収につながります。しかし、それでは、シルマンを広報する意味が無いんですよね。やはり、本は書店に並んでほしいし、普通の人に買ってもらって読んで欲しいのです。たとえ、どんなに赤字になったとしてもです。

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 ちなみに日本ユースホステル運動55周年記念のイベントは、10月16日です。本は、15日までに全国の書店に配本され、早ければ15日、遅くとも16日に並ぶ手はずになっていますが、本当に並ぶかどうかは、そもそも著者が無名であり、リヒャルト・シルマンという人間も、日本では全く無名なので、全く期待できません。

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 それで、もし『リヒャルト・シルマン伝』に興味がある人がおられましたら、どうか書店の人に聞いてみてください。リヒャルト・シルマン伝があるかどうか質問してみてください。質問するだけなら、お金はかかりません。

 もし、配本されていれば、箱から取り出して見せてくれるはずです。そして、パラパラっと立ち読みをして、興味がわきましたら買っていただけると嬉しいです。

 最初から買うつもりのある方は、書店に注文してもよし、web書店で検索されて買うもよし、事務局への購入予約フォーマットから注文してもよし。どういった買い方でもよいと思います。

 発売前に、手に入れたい方は、事務局に注文した方が、何日か早く手に入ると思います。事務局に本が届くのは、10月10日頃だと思いますので、その数日後には届くと思います。



 最後に感想です。

 本を書き、自分で出版してみて、世の中に、こんな大変なことはないと思いました。

 私は、本を出している人をとても無条件に尊敬します。費用と手間を考えたら本を出すことは、絶対にわりにあいません。

 特に学術書を出している人、
 小松政夫じゃないが、
 あんたは、偉い!
 たとえ大学教授であろうと、
 仕事でだしている人であっても、
 趣味ででしている人でも、常人のなせる技ではないと思いました。

 かくいう私も、シルマン伝を出すまでに百冊以上の参考文献を手に入れ、国会図書館でコピー(1ページ30円)しまくりましたが、資料代だけで50万はかかっています。肝心なドイツ語の資料は皆無なのにです。あったところで私にはドイツ語は読めないので、意味は無いのですが、本格的なシルマン伝を書こうと思ったら、ドイツ語を勉強した上に、あと100万円の資料代がかかったはずです。

 これを学術書の印税で回収することは、絶対に不可能なはずですから、手間と労力を考えたら、どんな有名教授のネームバリューを使っても大赤字になったはずです。

 ちなみに印税は、1割が相場で、良く売れている本でさえ、三千部をこえることはありません。計算すれば分かると思いますが、本を出すということは、金をドブに捨てる行為に等しいものです。それを自分で行ってみて今更ながら本を書き上げ、そして出版することの難しさを感じました。
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2006年10月08日

シルマン伝事務局に届きました!

ただいま、シルマン伝事務局に届きました!

ご注文の方、お待たせしました。
明日にでも発送します!

ただ、特典付録が、まだ完成してないので、
特典付録は、間に合えば同封しますが、
間に合わなければ、後日、郵送させていただきます!

とりあえず、本体は、明日郵送しますので、読んでみてください。
歴史好きな方には、面白く読めると思います。

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2006年10月09日

ごめんなさい!

ごめんなさい!
今日、シルマン伝を発送しようと思ったのですが、
連休中ということもあって、あまりにも忙しいので
発送は明日(10月10日)にします。すいません。

早い人は、明後日に届くかと思いますし、
遅い人でも、13日頃には届くんじゃないかな?

ちなみに1冊の人は、冊子小包。
2冊の人は、エクスパック。
3冊以上の人は、冊子小包で送ります。

(本の重量は350グラムでした。けっこう分厚い)
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2007年03月17日

スノーシューイング

スノーシューの普及は私のライフワークみたいなものです。もっと、もっとスノーシューが広まって、大勢の皆さんがネイチャーウオッチングを楽しんでくれたらいいなと思っている私です。スノーシューは、本当に楽しいですから。

嘘じゃないですよ。
騙されたと思って一度参加してみてください。

ところで3月10日にシルマン伝やスノーシューの本を出してくれた自費出版社の方(パレード)が遊びに来てくれました。そして思いっきりスノーシューイングを楽しんで行かれました。

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皆さん、事前に私のスノーシューの本を読んできてくれたせいか、どなたもスノーシューイングの天才でした。ほぼ全員が冬山どころか夏山も初めてだというのに、驚異のスノーシューイングテクニックで、標高2100メートルの湯ノ丸山を登山。

凄いですねえ。
考えられませんねえ。

参加者には7歳と9歳の女の子が混じっているのにもかかわらず、一番元気だったのが、この2人の女の子だったから驚き桃の木でしたね。
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2007年04月07日

2つの本

シルマン伝とスノーシュー入門の2冊を出版してから半年近くなります。そこで売れ行きの報告を行いたいと思います。

まず、リヒャルト・シルマン伝。

売れていません。
みごとに売れていません。
変品の山になっています。

それ以前に、本屋に並んでいませんね。問屋を通じて数百冊配本しているのですが、予想どうりというか、1ヶ月もたたないうちに半分が返品されています。つまりダンボール箱から開けられてないうちに返品されているということなのでしょう。

しかし、これは覚悟の上のことです。いわゆる想定内のことです。営利を目的としてない以上、しかたがないと諦めています。それでもまあ、日本ユースホステル協会や群馬県ユースホステル協会、その他の支援団体の協力もあって、1000冊ちかくは売れています。しかし、それはあくまでも協会の支援があってこそであり、本屋では信じがたいくらい全く売れてないです。

 では、スノーシューの本はどうだったか?

 これが予想以上に売れました。まだ、集計がまとまってないですが、シルマン伝の数倍は売れています。これは、どういうことなのでしょうか?
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2007年04月08日

シルマン伝のゆくえ

シルマン伝の売れ方を考えてみます。

私は、シルマン伝の他にスノーシューの本を出しました。2冊同時に出したのには、わけがあります。売れ方に、どういう違いが出てくるか確かめたかったからです。そして、スノーシューの本とシルマン伝では、大きな違いがでてきました。

まず、シルマン伝。

ほとんど、アマゾンで売れたのが特徴です。書店では、ほとんど売れていません。配本したはいいが、1ヶ月もたたないうちに返品の山となりました。

書店ではなく、アマゾンで売れたというのも微妙です。ユースホステル協会関係者に売れたと思われるからです。つまり一般の読者は見向きもしなかったということなのでしょう。残念ですが。

しかし、シルマン伝は、協会関係から数百冊という大量の注文がありました。また、僅かですが一般読者の口コミが伝わり、じわじわと売れてきています。直販も160冊を突破しました。この数字は、自費出版としては決して低い数字ではないのでしょうが、私たちは、過去に
『ぶるる知床』
という本を、直販で800冊販売したことがあります。その経験を考えても、日本初のリヒャルト・シルマンの伝記に対する社会の関心は低いと思いました。

ただし、100冊の寄付の効果は少しづつ現れつつあります。ほんの少しですが、世にリヒャルト・シルマンを見直す動きも出てきました。しかし、まだまだ、シルマンに光りが当たったとは言えない状態です。

逆にスノーシュー本は、調子がよかった。
つづく・・・・・。
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2007年04月22日

出版の難しさ

それにしても本を出すということは難しいですね。
成功したスノーシューの本はともかくとして、
シルマンを世の中に広めるのが、いかに至難の業であるか、
思い知らされました。

しかしユースホステルの創立者、リヒャルト・シルマンの
素晴らしい業績は、絶対に忘れてはならないですし、
もっともっと世に訴えていきたいと考えています。



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2008年03月07日

山本七平著 「空気」の研究

山本七平著 「空気」の研究


私たちは「空気読めよ」と言ってますが、「空気」って何でしょう? 実は、日本が戦争やバブルでこれだけだめになったのはその「空気」のせいです。過去を振り返ってみるにいかに「空気」のせいで日本が失敗したでしょうか。

 イジメも空気が原因になります。
 また、空気作りの名人は、黒幕になれます。

 この本を読むと「空気」という言葉が使えなくなります。「空気」という言葉の怖さを知りつつも、「空気」を読まないことには社会の中では生きていけないのが現状です。そこで空気作りのメカニズムを理解することと、そして「空気」に対抗する唯一の手段「水を差す」などについて知る必用があります。そのための教科書か、この本です。

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 どのような「空気」を盛り上げて
 「水を差す者」を沈黙させても、
 「通常性」は遠慮なく「水」を差しつづける。

 そしてわれわれは常に、
 論理的判断の基準と、
 空気的判断の基準という、
 一種のダブルスタンダードのもとに生きています。

 われわれが通常口にするのは論理的判断の基準ですが、本当の決断の基準となっているのは、
「空気が許さない」
という空気的判断の基準です。

 戦後直後、「自由」について語った多くの人の言葉は結局
「いつでも水が差せる自由」
を行使しうる「空気」を醸成することに専念しているからです。

 人が「空気」を本当に把握し得たとき、
 その人は空気の拘束から脱却できます。


山本七平著 「空気」の研究より


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2008年09月16日

ホームレス中学生を立ち読みしてしまった

ホームレス中学生を立ち読みしてしまった。
買うほどの本ではないと思いましたが面白かった。



つづく

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2009年03月13日

森を歩く―森林セラピーへのいざない

実は、こんな本が欲しかったんです。「森林療法」「森林セラピー」について詳しく解説してくれ、そして案内してくれる本が。

森を歩く―森林セラピーへのいざない
(角川SSC新書カラー版) (新書)
田中 淳夫 (著)

新書: 175ページ
出版社: 角川SSコミュニケーションズ (2009/03)

内容(「BOOK」データベースより)
近年、耳にするようになった「森林療法」や「森林セラピー」という言葉。これまでは感覚的にしか捉えられていなかった森の持つ力を、科学的に解明しようという研究も始まった。そのひとつが林野庁を中心とした「森林セラピー」事業。2009年3月現在、全国に31カ所の森林セラピー基地、4カ所のセラピーロードが認定されている。本書では森林療法の成り立ちや施術の方法だけでなく、ドイツのクナイプ療法についても紹介、森林が人を癒す仕組みについて考察した。さらにおすすめの森林セラピー基地10カ所もルポ。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
田中 淳夫
1959年大阪生まれ。静岡大学農学部林学科卒業後、出版社・新聞社を経て、現在フリーの森林ジャーナリスト(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


mori.jpg


私は、以前からホームページで

http://homepage2.nifty.com/blue_berry/00-top-51.htm

北軽井沢で森林浴を楽しみましょうと、言ってきましたが、森林浴の具体的な方法論については、詳細に書いてきませんでしたね。実際、北軽井沢ブルーベリーYGH のツアーも、散歩とかハイキングとか、インタープリテーションプログラムとか、ネイチャーウオッチングくらいしか、やってきませんでした。

 しかし、この本には、もっと多彩なバリエーションの森林浴。つまり「森林療法」「森林セラピー」が紹介されています。森林ヨガ、スノーキャロット、森林トレーナー、人間に会わない森林浴、マタギ道、宗教セラピー、天空ラセピーなど。一言で、森林療法、森林セラピーといっても色々な、やり方があるのですね。いまさらながら考えさせられました。

 しかし、この本の面白いところは、それらの各種セラピーの紹介よりも、第1部の「森は本当に人を癒せるのか」の部分の記事です。「どうやら森林が、病気によいらしい」という意見は、山岳関係者には常識になっていますが、実は、根拠が曖昧だったりするんですね。経験で感じているだけだったりする。それについて、第1部の「森は本当に人を癒せるのか」について詳しく述べられています。

 ここで、上原巌さんが登場します。この方がキーポイントになる方なのですが、恥ずかしながら私は、この方を名前くらいしか知りませんでした。軽井沢で盛んに森林療法研究会が開かれていたのも知らなかった。本当にお恥ずかしい。森林療法研究会については、私が説明するより下記のサイトを御覧ください。

http://www.geocities.jp/ueharaiwao/
http://www.janis.or.jp/users/bigrock/

ちなみに、この本の著者のブログが公開されています。
森林ジャーナリスト・田中淳夫さんのブログです。
下記をごらんください。

http://ikoma.cocolog-nifty.com/moritoinaka/
http://homepage2.nifty.com/tankenka/chosha.html

購入は、こちらで。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4827550662/morikoroweb-22

それにしても、どうして今まで日本森林療法協会に注目してなかったんだろう? そういう意味では、著者の田中淳夫さんに感謝。

つづく

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2009年04月16日

戦場から女優へ

こんな番組あったんですね。
思いっきり笑いました。






それはともかく、最近、感動した本を紹介。
戦争孤児と、養母の壮絶な記録です。

戦場から女優へ (単行本)
サヘル ローズ (著), Sahel Rosa (原著)


という本があります。

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これは感動します。
イラン人のホームレス親子の話です。
もちろん実話。


ついつい引き込まれて一気に最後まで読みきってしまいました。

イラン・イラク戦争で壊滅した村。
家族全員が死亡。
村人全部が死亡。

救助隊のボランティアの女性が瓦礫の中をさまよい、
最後に目にとめた青い花。そこに幼い彼女の手が。
死にかけた主人公。
その主人公を助けたボランティアの女性(独身)は、
死にかけた4歳の戦争孤児を養子にすることにした。

それゆえに養母は金持ち一族から追放され、
ホームレスとなります。

唯一の望みは日本人のフィアンセ。
そのフィアンセをたよって日本に到着するのですが、
このフィアンセに捨てられる。

イラン人の養母と、娘はホームレスとなる。
警察の目を逃れて公園の土管で生活する。

自分も飢えながらも子供に注ぐ母の愛情。
その愛を受け止めて必死に母に喜んでもらおうと頑張る彼女。
極貧の生活の彼女らを救ったのは・・・・?

そして極貧故にイジメがはじまる。
極貧故に、子供の誕生会で、
みすぼらしいケーキしか出せなかったお母さん。
そこからイジメがはじまるのだが、
それをお母さんに気づかれないように芝居する娘。

とにかく泣ける!
涙無しには読めない。


そして、その親子の娘は
今は女優さんになっています。
お母さんへ芝居しているうちに、
本物の女優になってしまった。

よかった、よかった。

これが、オフィシャルサイト。

http://sahel.mlacky.net/index2.html

こちらがブログ。

http://blog.goo.ne.jp/jasmine_angle_12_24


ちなみに主人公の彼女(サヘル)は、
最初に紹介した動画の
科学忍者隊ガッチャピン
に出演しています。

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つづく

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2009年11月16日

大江戸実々奇談 21話

今日は、「実々奇談」の紹介です。

実々奇談とは、軽井沢の近隣である佐久市にあった岩村田藩の祐筆を務めた阿部重之進重保が自ら体験したり、人から伝え間いた奇談63話を、嘉永七(1854)年に15巻3冊にまとめたものです。

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この本は、小諸市に住む安部輝男さんが、文書を解読して自費出版したものがでています。それを買って読んだのですが、嘉永七(1854)年の原本だけに、現代語訳なしでスラスラ読めるようになっています。今回は、本書を紹介したいと思います。

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ちなみに安部輝男さんは、この本を出した時は、90歳でした。
まだ生きていれば、100歳ですが、
はたして、お元気でおられますでしょうか?

 どうして本書を紹介する気になったかと言いますと、学生時代に学んだ歴史が自虐史観すぎからです。しかし、そういう嘘は、いずれバレるものです。というのも、江戸時代には大量の古文書が残されていて、その発掘が進むにつれて、江戸時代の庶民は世界一豊かであったことが証明されてしまうからです

 大江戸実々奇談も、そういうたぐいの文書なのですが、実は、この本は、ものすごく面白い。面白すぎて、ぐいぐい引き込まれてしまいます。江戸時代に興味ある方は、ぜひ読んで欲しい本です。

 と言うわけで、今回は、大江戸実々奇談 21話を紹介します。
 江戸時代の庶民と武士の娯楽が生き生きと書かれてあります。
 武士と庶民。
 その関係は、どういうものであったでしょうか?

 秋葉原でハルヒダンスを踊っていた若者と比較してみてください。
 実は、江戸時代も、平成時代も大差ないことが分かります。
 では、21話を読んでみましょう。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
大江戸実々奇談 21話

第二十一話 王子道にて諸人を化かせし者の事

 東京の王子に飛鳥山という桜の名所があります。ここは、今も昔も花見のスポットで、江戸時代でも、大勢の人々が、花見をしながらドンチャンさわぎをしていました。もちろん酒に酔って、悪ふざけをしたり、はめを外すのも、今も昔もかわりありません。

 ある日のことです。
 どこかの侍が、田んぼで九裸となっていました。
 衣類で大小の日本刀を巻いて肩にかけ、
 丸裸のサムライは、田んぼを歩きながら、
 大きな川を渡っているような身振りをしながら
「これは深い、深い」
と、独りで叫んでいました。それをみつけた庶民たち、大勢集まってきてワイワイガヤガヤと野次馬の列をつくり、見物をはじめました。

「さては、あの侍、狐に化かされたな? いまに馬の糞を食うぞ」
「いやいや、たんなる花見の酔っぱらいだろう」
「いーや、気が狂ったのさ、かわいそうになあ」

と、笑う者がいたり、気の毒思う者がいたり、みんな腰を下ろして見て居たのでした。やがて、この侍は、田んぼにて着物を着て、帯を締め直して真面目な顔で
「まず、今日は、是まで」
と見物に向って言いました。

見物人は大笑い。

あれは侍のパフォーマンスだったのでした。
「やれやれ、キツネじゃなくて、侍に化かされたわ」
とつぶやき、見物人たちはザワザワと解散していきました。

(大江戸実々奇談 21話 文章は現代語に、私流に意訳してあります)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

なんとも微笑ましいではないですか。そして、この文には、当時の武士と町人の姿が生き生きと書かれてあります。私たちは、この本から、もう一度江戸時代を見直してみたほうが良いと思います。次は、江戸時代の乞食と非人についての日常を紹介してみたいと思います。


つづく。

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2009年11月17日

大江戸実々奇談 38話

今日は、「実々奇談」の紹介の続きです。

実々奇談とは、軽井沢の近隣である佐久市にあった岩村田藩の祐筆を務めた阿部重之進重保が自ら体験したり、人から伝え間いた奇談63話を、嘉永七(1854)年に15巻3冊にまとめたものです。

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今回は、大江戸実々奇談 38話の紹介。

江戸の庶民が、世界一裕福であったことは、今や定説になっていますが、それがどのくらい裕福であったか? 江戸時代のホームレスの生活水準を垣間見ることによって、推測することが可能になります。そこで、生きてくるのが、この資料。大江戸実々奇談38話です。これを読むと、乞食に対するイメージが、ガラリと変わるでしょうし、それに施しをする江戸庶民の裕福さにも驚かされることでしょう。

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第三十八話 百姓江戸に来りて金子を溜めし者の事

信濃の国長久保宿(長野県小県郡長和町長久保)に、貧しい百姓がいました。運も悪く徐々に落ちぶれていくばかりでした。また、そこには、同じくらいに貧しい百姓がいました。二人は、お互いに、こんな相談をしました。

「俺たちは、お互いに歳も若い。なのに、こんな山奥で、やることもなく、飢えながら一生を終わるのも、やりきれないなあ」
「そうだなあ」
「そこでだ、江戸(東京)に行こうと思う。どうだろう?」
「江戸?」
「江戸で働き口をさがし、どんなことも辛抱して頑張れば、多少の金はできるかもしれない」
「そうだなあ、こんな山奥で朽ち果てるより、その方がいいかもしれないなあ」

 二人は、相談の上、江戸に行くことにしました。もちろん嫁さんとも相談しました。嫁さんは、親類に預かってもらい、旅費を調達し、旅支度整え、江戸へ向かいました。江戸では、馬喰町の宿屋に泊りました。

 馬喰町は、今では日本屈指の問屋街ですが、江戸時代では、旅籠屋がずらりと並んでいた、いわば旅宿街でした。古くは馬喰たちが出入りする宿場町的様相があったといいますが、やがて郡代屋敷がおかれて、江戸と地方の商店などと公事訴訟事件などが起ると、次第にその地方から出てくる人のために宿屋が増加し、ずらりと並ぶ旅宿街だったといいます。つまり、地方から上京してくる、おのぼりさんたちの宿泊地だったのですね。

 その馬喰町の宿屋で、二人は、こんな約束をして分かれたのです。

「この後は、お互いに、良いと思う働き口を求めて分かれよう」
「ああ」
「でも、十年後の本日と同じ日をもって、この宿で再会し、一緒に故郷へ帰ろうじゃないか」
「そうだな、十年後に逢おう」
「約束だぞ」
「約束だ!」

 二人は、堅く約束致し、翌日思い思いに働き口を求めて別れました。

 かくて一人は、本町四丁日薬種屋(薬局)へ奉公し、
 もう一人は、どういうわけか浅草雷門前で
 宿無しの乞食となりました。

 そして、互に顔を合わすこともなく光陰矢のごとく十年は、
 アッという間に過ぎてしまいました。

 薬種屋へ奉公の者は、努力をかさね、六十両余りも貯えていました。
 そして主人に暇を貰い、十年前に分かれた、
 あの馬喰町の宿に泊り、友の来るのを待ったのです。
 ところが、約束の日になっても、一緒に上京した友人は現れません。

「久しさ年月なれば、もしや友の身に異変でもあったのだろうか?」

など思い巡らし、さりとて尋ねるあてもないし。あと三日ほど待って一人でも帰国しようと心を定め、

「となると故郷への土産を買っておこう」

と宿を出たのですが、そういえば浅草観音に御願いしたことを思い出し、この度成就の御礼参りをしなければと雷門前に行ったのでした。

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 ところが、その雷門で、
 思いもかけず彼の朋輩に会ったのです。
 それも菰被りの乞食姿。
 驚いたのは、それを発見した友人でした。
 乞食姿の彼を、物陰に引き連れ

「これは観音のお導きか! 久し振りだなあ」
「ああ、久しぶりだ」
「だが、どうした? どうして乞食姿なんだ?」
「・・・・」
「おまえと、別れた後、おれには世話人になってくれる人がいて、本町の薬種屋へ手代奉公に有りつき、辛抱のかいあって、今は金子六十両余り出来た。そして退職し、馬喰町の宿にて、おまえさんを待っていたんだが、おまえさんは来ない。さりとて住んでる場所も分らないし、一人で国元へ帰らんと、今日は浅草観音へ心願成就の御礼詣りに来たんだ」
「・・・・」
「出会えたのは、嬉しいが、その姿では故郷へは帰れまじ。どうするかね」
「アッハハハハハハ!」
「金ならあるぞ」
「はあ?」
「故郷に錦を飾る金なら、三、四年のうちに貯めたよ」
「ええええええええええっ?」
「最初乞食仲間に入りし当座は、その日の食にも困り、日銭は十二、三文にて凌いだもんだった」
「・・・・・・・・」
「しかしな、毎日、同じ場所で乞食をやってると追々、顔見知りもでき、貰いの飯も三度食して余るようにもなった」
「・・・・・・・・」
「日々のお恵みも、六百文から、七百はもらうようにもなったさ」
「え?」

注/江戸時代の物価/文化文政年間(1806〜1830)
  焼き豆腐・・・・ 5文
  こんにゃく・・・ 8文
  桜餅・・・・・・ 4文
  汁粉・・・・・・16文
  かけ蕎麦・・・・16文
  風呂・・・・・・10文
  串おでん・てんぷら・イカ焼きなど、なんでも4文。

 1両=4000文。桜餅1000個買えます。
 1日600文もらい続けると、1週間で1両の稼ぎとなる。


「おれは、博奕はやらない。だから他に使うことも無かったので十年間もっぱら貯め置いて、三百両くらいの貯金がある。だから明日にも、おまえさんのところに訪ねようと思っていたんだよ」
「・・・・」

 苦労して六十両を貯めた友人は、呆然としていました。
 空いた口がふさがりませんでした。

「だったら明日にも旅立とう」

 乞食の友人は、乞食仲間の足を洗い、入浴・髪月代・衣類を整え、元の百姓となり、馬喰町を尋ね二人で国元へ帰ったのでした。

 身を落せば、もうかることも出来るという事なのだろうが、誰も、このくらい思い切って身を落とす勇気はないでしょう。目的のためには手段を選ばない名誉も伝統もかなぐり捨てるのも、また一つの勇気かもしれません。


(大江戸実々奇談 38話 文章は現代語に、私流に意訳してあります)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
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つづく。

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2009年11月18日

大江戸実々奇談 63話

「実々奇談」の紹介の続きです。

実々奇談とは、軽井沢の近隣である佐久市にあった岩村田藩の祐筆を務めた阿部重之進重保が自ら体験したり、人から伝え間いた話を15巻3冊にまとめたものです。

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今回は、大江戸実々奇談 63話の紹介。

江戸時代は、女性がやたらと強かった時代です。女尊男碑の時代ですね。原因は、はっきりしています。男の数が多すぎたんです。江戸の人口の7割が男で、女性はたったの3割。結婚できる恵まれた男性は、数少なかったようです。で、女性が優位な江戸には勝ち気な女性が出現するわけですが、そういう人たちを「おきゃん」と呼んだそうです。昔の時代劇には、必ず、そういうキャラがでていましたね。そういう時代に不倫がばれたら、どうなるでしょうか? 第六十三話は、そういう設定の物語です。

第六十三話 密夫方の女房金子を取りし事

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第六十三話 密夫方の女房金子を取りし事

 時は、天保時代。七左衛門と言う大富豪の農家がありました。近隣の村から美人妻を嫁にもらい、何一つ不自由なく暮らしていました。七左衛門の小作人に惣吉と言う貧乏農夫がおりました。結婚して、七左衛門の田を借りて、小作人として働いていたのですが、いつのまにか、七左衛門の美人女房と忍び会い、いわゆる不倫関係になってしまいました。それが七左衛門の耳にも入ったのです。

 ある日のタ方、七左衛門は、用事ができたと言って遠くに出かけました。すると、美人女房は、さっそく惣吉を呼び寄せ、こっそりと酒肴を楽しみ互いに酔いを催し同じ床に添い寝したのです。しかし、これは七左衛門の罠でした。

 今宵あたり惣吉が忍び居るやも知れずと、雨戸をそっと開け、忍び足に奥へ行きてみれば、案の定、女房、惣吉これを知らずして睦み合っていたのです。七左衛門は、これを取り押え声を荒らげ

「おのれら、あるじの目をかすめ不義いたずら、もはや逃がるる術なし。覚悟致しろ!」

と枕で散々に打ちすえました。
もちろん不倫を見つかった両人は、ただただ、詫び入るばかり。
そうなると七左衛門は、無念やる方なく

「おのれら、殺すは犬を斬ると同じ。されば許し難きを忍び、不倫の代償として七両二分の慰謝料をもってくれば勘弁してやる」

と言いました。
命が助かった惣吉は、詫びるだけでした。

「命さえ御助け下さらば、七両二分、さっそく持ってきます。以後、かかる不始末、決して致しません」
「ならば、詫び証文を書きなさい」

惣吉は、詫び証文を書き逃げ帰りました。
美人女房も、いまさら面目なく
「出来心なんです」
と消え入るように泣き崩れて頭をさげ
「こんな事は、二度としませんから許してください」
と言いました。
そこまで言われると七左衛門は、
ほれた弱みがあります。
許すことにしました。

 ちなみに、江戸時代において不倫は重罪にあたります。両者死罪となり、協力者は中追放か死罪になります。しかし、これは建前上のことでした。ようするに親告罪だったので、被害者が訴えない限り表沙汰にならないのです。
 姦通現場に乗り込むなど動かぬ証拠を掴まないかぎり奉行所など司法機関が訴えられた二人の関係を見極めるのが難しい。一時の感情のもつれで訴えられればきりがないため当事者間か双方の家主地主など土地の顔役が話し合う内済を命じお互い冷静に話し合い、それでも成立しなければ訴訟を受け付けたのです。
 つまり内済を経て訴えるため内済金を支払って解決することが多く内済金を「首代」と称し江戸では七両二分(加害者の経済状態に応じて値段は変動)という相場まで庶民に知れ渡っていました。

 ただし、夫は現場を発見すれば、
 間男と妻を殺害しても罪には問われません。
 だから惣吉は、命が助かったと安堵したのです。

 ただし惣吉は、自宅に帰ったけれど、
 首代(慰謝料)のを払う目処をがなかったので、
 女房にうち明けました。

「実は、今夜、はからずも、七左衛門殿宅にて、美人奥さんに酒を振るまわれ、あるじの留守宅にて大いに酔い潰れてしまいました」
「はあ?」
「そして目覚めて見れば、七左衛門の女房の布団に一緒に寝てました」
「なんですって!」
「ごめんなさい。でもって、そこに七左衛門が帰ってきて、この間男め!と、言われてしまい、殺されそうになりました」
「あきれた」
「そんでもって、平謝りに謝って、首代(慰謝料)の七両二分で許してもらったのですが、その金のあてもないので・・・」
「恥さらしだねえ」
「はい」
「それでも男かい」
「男だから恥をかいたわけで」
「おだまり」
「はい」

 惣吉の女房は、気丈でした。

「とにかく、しでかした事はしょうがない。家財諸道具を全部売り払い金を作りましょう」
「でも、そうしたら、死ねと言われるようなもの」
「じゃ、あんたの首を差し出すの?」
「いえ、家財諸道具を全部売り払います」

と全部売り払って七左衛門方へ首代(慰謝料)を持参の上、詫びることによって示談が成立しました。しかし、この惣吉夫婦、翌日よりして食うにも事欠き、その上寒さをふせぐ着物さえもありません。そこで惣吉の女房は、思案めぐらし、夫にも話さず七左衛門に会いに行きました。

「私の夫が心得違いにて不義を致しました。まことに不埒です。それを、首代(慰謝料)の七両二分で示談にしてくれ、まことに有難とうございます。また、御家内様をも、そのままにさし置かれたようで、波風立たず、惣吉の喜び例えん物なく御礼申し上げます」
「・・・」
「しかるに私、御内儀に今日の稼ぎ男を寝とられ、その上、家財道具も皆売りつくし、わたくしの衣類も質入れして寒さに震える毎日です」
「・・・」
「そのうえ、食うにも事欠くありさま。このままでは、乞食にでもなるしか、ありません」
「・・・」
「こうなったのも、憎き、わが亭主と、七左衛門殿の御内儀です」
「・・・」
「かくなる上は、奉行所へ許えたい」
「そりゃ困る」

 前にも言いましたが江戸時代において不倫は、両者死罪となります。
 惣吉も死罪になりますが、七左衛門殿の美人妻も死罪なのです。
 不倫に関して江戸時代は、男女同権だったのです。

「そりゃ困る」
「困るだと? ふざけんない! 困ってるのはこっちだい! こちとら、この寒さを単衣の着物で震えてるんだ!」
「そんな」

 不倫されたとはいえ、
 七左衛門は恋女房に死なれたくありませんでした。

「もし、その儀、御迷惑と思し召さば、私への首代(慰謝料)として、十五両払いな! そしたら示談にしてやってもいい。いやなら奉行所にて此の始末、ぜんぶぶちまけてやる!」

 あわてた七左衛門は、十五両を渡して示談にしてもらいました。

 惣吉の女房は、売り払った品々、質物などを買い戻し、そのうえ五両も余ったので、良き新年を迎えたということらしい。めでたし、めでたし。

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(でも、これほど気位の強い嫁さんだと、浮気したくなる惣吉の気持ちも少し分かるような気もします。世間では、これを逆美人局と言いますから)

つづく。

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2009年11月19日

大江戸実々奇談 22話 離婚について

大江戸実々奇談 22話
「実々奇談」の紹介の続きです。


現代は離婚ブームです。世の中離婚だらけ。昭和時代は、離婚は悪いイメージがあり、人口当りの離婚率は1%以下でした。最近は徐々に増え、2000年代は2%ほどで推移しています。

では、江戸時代ではどうだったのでしょうか?
実は、今より高かったのです。


江戸時代〜明治前期の離婚率は、統計によると現在の2倍の4%前後だったそうです。農業が中心だったため、女性も働き手としての地位があり、再就職先に困らなかったためと考えられています。

武士階級にいたってはなんと離婚率は10%
にも達していたと言われています。
ちなみに女性の再婚率は50%以上です。


 昭和11年制作の映画「丹下左膳」では、子供の教育方針で、左膳と内縁の妻が夫婦ゲンカになり、左膳が負けるシーンがあります。昭和11年ですから、70代以上の人は江戸時代生まれです。つまり、江戸時代を知っている人には、これがリアリティーな夫婦の姿であったようです。以上の背景は、大江戸実々奇談の中にも、よく出てきます。第二十二話の「仇を思にて報ぜし人の事」を読むと、よく分かります。

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第二十二話 仇を思にて報ぜし人の事

 栃木県宇都宮に百姓孫七という者がいました。夫婦の間に一人娘も十八歳となり、跡継ぎの息子もないので養子を貰わんと探し、隣村に小百姓の倅、次男の清助という24歳を婿養子に取り、娘と結婚させ夫婦としました。しかし、この清助は、百姓の仕事に疎く日を経るにしたがい養家の心に叶わず、両親に訴えました。

「夫の清助は、百姓仕事に馴染まず、うわの空です。かかる亭主を持ちては、行く行く百姓の生業さえ難しいでしょう。離婚したいと思います」
「もっともだ。私らも同じように思っていた。あの婿は百姓に向いてない」
「そうなんです」
「この際、離縁して他の婿をとろう。もっとよく働く婿をさがそう」

 こういう事は、この時代では珍しいことではありませんでした。
 農家もやはり一種の能力主義社会だったのです。
 で、離縁にも間に立つのが仲人です。
 仲人を通じ清助方へも離縁を申しつけ親元へ帰しました。
 清助には拒否権はありません。さっぱりと諦め
「もう百姓になるのはやめました。江戸に出でて商人になります」
と両親と語り、若千の金子をもらい故郷をたちさりました。

 そして江戸に到着。馬喰町三丁目に小店を開き、『下野屋』と暖簾を掛け、木綿もの、手拭などを仕入れて商売を始めました。
 幸い売れゆき良く、御客様もつきました。
 そして得意先も増えました。
 その清助の勤勉な働きぶりに感心し、媒酌者もあらわれて、妻を迎えることもできました。そして毎日勤勉に働きました。そして三年間、呉服の行商に励むことによって資金もでき、店を拡げ、店員2人3人と増えていきました。

 一方、その清助を追い出した栃木県宇都宮に百姓孫七は、その後病死致し、残された母娘も百姓仕事を失敗し、田畑も質入してしまい、どんどん没落してしまい、最後には家さえも失い、縁者を頼ってわずかばかりの寄付をうけながら、母娘共々巡礼姿となって、江戸に向かいました。いわゆる親子のホームレスですね。そのホームレス親子が、人々の好意をたよって、江戸表に到着。下谷山崎町に四畳敷の長屋に、一日十六文の上納金を払って住まわしてもらいました。

 よーするに、日払いの簡易宿泊所に泊まりながら、西国巡礼の姿で乞食をしていたわけです。柄杓を差し出し、寄付を募って歩き、その寄付で、その日暮らしをしていたわけです。そして、ある日、馬喰町の方へまわって、一銭、二銭の寄付を受けつつ、馬喰町三丁目へ来たわけです。そこには清助の経営する『下野屋』もありましたから、親子は、その店先にも立ち西国巡礼の寄付を御願いしました。

 驚いたのは清助です。
 二人をまじまじと見て

「そなた達は、宇都宮在方孫七どのの連れあい、娘子ではないですか?」
「えっ?」

 立派に成功している清助。
 聖(乞食)に身を落とした母娘。
 巡礼顔を上げ見れば、身なりこそ違え以前養子の清助。

「これはこれは懐かしきお二方」

 親子は、大いに驚き恥じ入り、消えようとしました。

「あ、何処に行きなさる!」
「・・・」
「絶えて久しく御目にもかかりませんでしたが、御無事のようで、なによりです」
「・・・」
「ぜひ、お話もあれば、先ず先ず勝手に廻り足など洗って奥へ上がり給え」
「・・・」
「さあ、どうぞ、どうぞ」

 母娘は、裏口より座敷に通しされました。
 清助は、国元の事などを訊ねました。
 別れた元妻は、涙ながらに語りました。
 父、孫七が病死したあとの不幸を語り、
 過去に一方的な離縁をした非礼を返す返すも詫びました。
 清助は、

「詫びなどいりません。あなた方は、むしろ大の恩人です」
「?」
「縁あって一旦は親子、夫婦となったものの、私はあなた方に嫌われ、離縁されました」
「・・・」
「その結果、なにくそと、国元を離れたればこそ、この店が持てたのです。そのまま離縁せず、在所にあったらば私とて、あなた方と同様なっていたでしょう」
「思いもかけぬお言葉、痛く恥じ入ります」
「恥じ入ることはありませぬ」
「あらためて粗略に致せし非を深く詫いたします」

 どうやら巡礼姿に身を落とした親子は、人の心の痛みを身にしみて学習していたようでした。乞食は、人の善意をあてに生きています。善意がどれほどありがたいものか、その体験によって学んだようでした。働きが悪いからと、簡単に夫を離縁した自らに、どれほどの善意があったものか。そう考えると、ただ、清助に頭を下げるしかありませんでした。

 その後、清助は、母娘を店に迎え入れ、店の裏に家を建てて住まわせ、衣食など不自由なく届けました。母娘両人手を合せて感涙にむせびました。

 母娘は、御恩返しにと、本店に通い勝手の手伝い世話などをしました。そして、江戸の水に馴染んだころに、優秀な番頭との結婚をとりもち、この夫婦に暖簾を分け与え表店にて大物商を営ませました。

 清助のかかる厚き情を心に刻んで、母娘夫婦共々商いに専念しつつ、暖簾分けした店も日を追い繁昌していきましたが、何にも増して主人の恩を忘れるべからずと、万事、本店を大切に仕えたと言います。仇に報ゆるに恩を施せし清助の仏心、世にも珍しきことゆえに、ここに記録して置きます。


(大江戸実々奇談 22話 文章は現代語に、私流に意訳してあります)
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つづく。

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2009年11月20日

大江戸実々奇談 35話 非人に落ちし者物藷りの事

大江戸実々奇談の紹介・最終回

これで最終回としておきます。他にも面白い話がいっぱいあるのですが、きりがないので、このあたりで切り上げようかと思います。今回は、裁判の話、弁護士の話、詐欺の話、障害者の話、武士の話、どれにしようか迷ったのですが、非人の話にしました。江戸時代のリアルな非人の話も、知っておいて損はないと思いますので。読むと、非人についての意外な側面に驚かされると思います。これが事実なら、今までのイメージを一変させなければなりません。大江戸実々奇談には、そういう話がいっぱい詰まっています。


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第三十五話 非人に落ちし者物藷りの事

 文化七年の事です。
 芝浜姶町一丁目に、大工の親分と、弟子三人がいました。弟子の中でも喜八は、とにかく怠け者で、博奕の毎日で、終いには夜逃げしてしまいました。親方と弟子たちは、親許を始め、仲間うちなど心当りを探しましたが行方知れず。あきらめて、四、五年がすぎました。

 ある日、大工たちは、川崎大師へ参詣するために鈴ヶ森を通りかかると、喜八そっくりな男が、菰を纏って乞食の姿をしているのを見つけました。

「もし、そなたは喜八にてはあらざるや」
「・・・」
「不思議な巡り合わせなれど、その姿は、どうしたことか?」
「面目なき次第なれど、お懐かしゅうございます。親方の意見も用いず遊び暮し、かかる姿となりましたが、いまさら、後悔しても・・・」
「それにても、これまで、どうやって暮らしてきたのだ?」
「・・・」
「今まで何してたんだ?」
「面目ない、それだけは御勘弁を」
「言いたくないのか?」
「御勘弁を」
「じゃ、どこに住んでるかだけでも教えてくれ」
「・・・」
「それくらいは、いいだろう」
「へい」
「住まいは、どこだ」
「品川の松右衛門の長屋に住んでいます。これだけで、勘弁してください」
「わかった」
「・・・」
「では、さらば、いずれお会い致さん」

 こうして親方と弟子たちは別れたのですが、喜八の変わり果てた、哀れな姿にみんなに同情の心がでてきました。

「あわれだなあ、あんな乞食姿になってしまって」
「身からでた錆びとはいえ不欄ですね」
「このまま見捨てて置くわけにはいかないなあ」
「奴には、他にも友が大勢いることだし、みんなで金を出し合って、せめて綿入れの服一つもこしらえて渡すか」
「そうですね、そうしましょう」

 彼らは、川崎大師へ参詣致し、日暮頃に浜松町へ戻り、さっそく、この事を、親方や、知り合いへ話し、少々ずつ銭を集め、三分余り集めました。一両は四分ですから、0.75両ほど集まったことになります。文に換算すると3000文。けっこう大金が集まりました。江戸時代の庶民たちは、けっこう人情があったようです。この三分で新しく木綿の布をあつらえ、綿入れの服を完成させ、みんなで品川の松方衛門の家を尋ねていきました。哀れな喜八の喜ぶ顔をみるために。

 しかし、行ってみて仰天しました。
 喜八の住む地域は、スラムではなく新築の立派な造りの家ばかりだったのです。
 その長屋の入口の小屋蕃に
「喜八と申す者の住まいはどちらでしょうか?」
と訊ねると、小屋のもの訝り顔に両人を見つつ
「四、五軒先に高張提灯の出している宅がある。そこだ」
と指さすので、行ってみると、また仰天することになりました。

 入口には、玄関がありました。戸や障子なども新しく、部屋の中は新しい備後表の畳を敷き、奥に六畳敷外一間もあり、これは間違いかと惑いつつも、
「御免ください」
と、ご挨拶をすれば、女房らしき女性が、切立ての結城木綿の綿入れを着て現れました。帯は、綾織の高価な美しい帯を締めていました。

「どちらさまでしょうか?」
「芝辺より尋ねてきました。。昔の友だちです。喜八どのに会いたいのですが」
「わぎわざ有難とうございます。唯今、少々用事がありまして、近所へ参りしが、ほどなく帰るはずです。まずは、お上り下されかし」

 部屋にあがると、また仰天しました。
 座敷の様子は、ちょっとした富豪の家にもひけ劣らなかったからです。
 喜八の女房は、火打箱を持って来て
「タバコでも一服召し上り下さい」
と言ってきました。

「よろしければ、煙草盆を御願いできますか?」
「友様ならば御免下さるべし」

 江戸時代では、非人の煙草から煙草の火をもらうのを嫌がっていました。
 だから、喜八の女房は、火打箱を持って来てきたのですが、
 喜八の仲間たちは、あえて
「よろしければ、煙草盆を御願いできますか?」
 と言ったわけです。

 俺たちは、非人かどうかは、関係ない。
 喜八の友達であり、
 その喜八の奥さんなのだから、
 奥さんの煙草から、
 煙草の火を移してもらいたいと主張したわけです。

 この事実は、江戸時代であっても、
 非人差別を断固拒否する人たちがいたということを意味します。


 暫くして、喜八が帰りました。
 ここで、また仰天させられます。
 喜八の姿は、新しい木綿入れを着ており、
 羽織を着て、髪型もビシッとなっていたのです。
 ボーゼンとなっている旧友の前に喜八は座り、
 丁寧に挨拶致しました。

「よくぞお尋ね下され、手前、誠に嬉しき限りです。先日お目にかかりしところは、往来のこととてろくろくお話も出来かね、たいへん失礼致しました。むかしの馴染とて心におかけ下され、返す返すも有難とうございます」

 旧友たちは、持参してきた綿入れの服を出しそこねてしまいました。
 そして、世間話をしつつ、この謎について質問しました。

「前にあったときは、乞食の身なり。しかし、こんなに結構な身分いるのは、どういうことか?」
「実は、非人に落ちてより半年も過ぎぬ間に、少々小口もききける故、この小屋の小頭に取り立てられました。そして、このように贅沢をさせてもらっていますが、然りながら、仲間の規定にて、時々は先項の姿で物乞いに出ることになっています。これも、この世界のルールというものです」
「・・・」
「もし、あのまま大工をやっていても、せいぜい裏店にて食うや食わずに等しき暮だったでしょう。こんな贅沢な暮らしは、一生かかってもできなかったでしょう。けっこうな身分に見えるかもしれません」
「・・・」
「しかし、非人に落ちると、氏神様へのお供えができません。これは、悲しいです。今はあきらめていますが」
「・・・」

 これには旧友たちも、慰さめる言菜もなく、
 しばらく雑談などを交わし暇を告げ、
 心尽くしの綿入れを秘かに持ち帰りました。


(大江戸実々奇談 35話 文章は現代語に、私流に意訳してあります)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 この物語で一番悲しいことは、
 心尽くしの綿入れを、
 渡せなかった
 貰えなかった
 ことかもしれませんね。


 そういう意味で、物質よりも
 心の温かさの大切を著者は訴えたかったのかもしれません。

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つづく。

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2010年04月24日

大江戸実々奇談の紹介

今日は、「大江戸実々奇談」の紹介です。

 大江戸実々奇談は、去年の11月にも紹介したのですが、大勢の御客様から「もっと紹介して」との要望がありましたので、あらためて、もう一度紹介することにしました。

 実々奇談とは、軽井沢の近隣である佐久市にあった岩村田藩の祐筆を務めた阿部重之進重保が自ら体験したり、人から伝え間いた奇談63話を、嘉永七(1854)年に15巻3冊にまとめたものです。この本は、小諸市に住む安部輝男さんが、文書を解読して自費出版したものがでています。それを買って読んだのですが、嘉永七(1854)年の原本だけに、現代語訳なしでスラスラ読めるようになっています。

 どうして、この本を紹介する気になったかと言いますと、学生時代に学んだ歴史が自虐史観すぎからです。しかし、そういう嘘は、いずれバレるものです。というのも、江戸時代には大量の古文書が残されていて、その発掘が進むにつれて、江戸時代の庶民は世界一豊かであったことが証明されてしまうからです。大江戸実々奇談も、そういうたぐいの文書なのですが、実は、この本は、ものすごく面白い。面白すぎて、ぐいぐい引き込まれてしまいます。江戸時代に興味ある方は、ぜひ読んで欲しい本です。


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今回は、大江戸実々奇談 39話の紹介。

 と言うわけで、今回は、大江戸実々奇談 39話を紹介します。
 江戸時代の裁判の様子が生き生きと書かれてあります。
 被告と原告。
 その関係は、どういうものであったでしょうか?
 江戸時代にも冤罪があったのでしょうか?
 今回は、裁判についてのお話です。

■第三十九話 弁護士について

 江戸時代にも弁護士がいます。いや、司法書士がいました。公事師と言っていました。公事師とは、江戸時代に存在した訴訟の代行業者のことです。彼らは訴訟の当事者の依頼を受けて、必要な手続方法や訴訟技術を教示したり、必要な書類の作成代行を行ったりしました。そして、いつの時代にも悪徳弁護士(公事師)がいたことも確かでした。今回は、悪徳公事師と、正直公事師のお話です。

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第三十九話 公事師に出入事を聞きし人の事



 奥州(東北地方)の農夫の一人が、裁判のために上京し、江戸馬喰町の宿屋に長逗留していました。長期滞在しているうちに、信頼できる公事師(弁護士)もできるようになり、心を開いて、おたがいに世間話をするようになっていました。ある日のことです。農夫が公事師(弁護士)に質問しました。

「実は、裁判の際に、不利な方でも、やりようによっては、勝訴する方法があると聞きました」
「・・・・」
「その方法を教えていただけまいか?」
「そりゃ無理です」
「どうして」
「これは口で説明しても理解できない性質のものですから」
「そこをなんとか」
「この事は、口で説明しにくいのです。現場で機転をきかせて、やることであって、詳しく説明しても、教えたとおりには、なりませんよ」
「そこを何とか教えてください。私たちの今後の心得ともなりますから」
「・・・・」
「なんとか教えてくださいよ」
「こればかりき、人に話すことはできないんですよ。私たちの秘密ですから」
「・・・・」

 公事師(弁護士)は、口を割りませんでした。
 そして数日後、あの公事師が、農夫のところにやってきました。

「すいません、急にお金が必要になりました。四、五日の内には間違いなく返済しますので、二両をお貸し下さいませんか」
「いいですよ」

 お金は、約束とおりに返済されました。
 もちろん利息も含めてです。

 そして、その後も公事師は、何回か、四両、五両と借りにきました。もちろん、約束を違えることなく、利子の外に酒・肴さえ持参して返済に現れました。農夫は、金銭感覚に潔癖な公事師(弁護士)の態度に感心し、すっかり公事師(弁護士)を信用するようになりました。そして、また公事師(弁護士)が、金を借りにやってきたのです。

「毎度のこととて、申すも憚りながら、急にお金が必要になりました。十五両ほど貸して貰えませんか? 来月はじめには、きっとお返ししますので」

 農夫は、今度は高額なので思案しましたが、今まで一度も約束を破ったことがなかったので、快く承諾しました。しかも借用書も取らず貸し与えました。それっきり、公事師は訪れることがなくなりました。約束の日限が過ぎても、何の挨拶も、引き延ばしの断りもありませんでした。農夫は、ちょっと不安になりましたが、あえて催促もせずに、四ヶ月から五ヶ月ほどすぎました。そして不安になって、公事師のところに催促に行ったのです。

「いつぞや、ご用立てしました十五両、御都合よろしければ返済してください。もう期日も過ぎて久しいです。私たちも長期滞在しているので出費もかさみ、手許にお金が少なくなってきました」
「これは、迷惑千万な話だ」
「へ?」
「冗談もたいがいにして欲しい」
「だって十五両、返してないじゃないですか」
「私は、そんな大金借りてない」
「なんだって! そんな馬鹿な! そんな無法は許さんぞ。今まで泥懇にしていたから催促もせずにきたが、去る何月何日十五両を貸したじゃないか。忘れたとは言わせないぞ」
「余りに酷い、言いがかりだ」
「なんだって?」
「ならば裁判にしたらどうだ」

 これには、農夫も大いに怒り、宿の亭主とも相談の上、願書をしたため奉行所へ訴え出ました。江戸時代、貸金催促の民事訴訟は、ずいぶん多かったようです。そういう場合は、幾口もの案件を記録して、どうしても返金しないで困るからお上の力で取り立てて貰いたい、と訴状をもって奉行所へ願い出ました。

 奉行所では、これを取り上げると三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)八人の判を押した証書を造り、裏書に『何時何日評定所に出頭せよ』と関係者双方に呼出命令を出しました。この八判は桐の箱に納めたまま原告に下げ渡され、原告は内容を見た後、これをくびに懸けて被告の許に行き渡しました。そして、両者は、評定所に出向き、奉行の審理を受けるのです。

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 農夫は、公事師の所に向かい、八判(出廷状)を渡しました。

「明日、奉行折へ御呼出しがあった。よって、そこもとへ八判(出廷状)を渡す」

 すると公事師は、いったんは、八判(出廷状)を懐にしまうのですが、

「裁判なんかできるものか。この八判(出廷状)は偽物だろう」

 と八判(出廷状)を懐より取出して拡げてながめ、大いに笑いました。

「こんなもので脅しをかけようとしても無駄だぞ。おれは騙されんから。逆に名誉毀損で訴えてやる」

 と八判(出廷状)を引裂き、火鉢に燃やしました。
 驚いたのは農夫です。

(こんな無法者は、見たことがない。この事件をもってしても入牢は必定。其の上、如何なる罪になるか。増っくき奴かな)

 そして翌日。
 双方が奉行所へ出廷。
 奉行は、先ず農夫に訪ねました。

「そのほう、金を貸し与えしこと相違ないか?」
「はい、十五両を貸し与えましたこと相違ございません」
「ほう」
「おそれながら、それだけでは、ございません。昨日、御奉行様から頂いた八判(出廷状)に就きましても、これは偽物だと言いがかりをつけ、大笑いして、引裂き燃やしました」
「なんだと! それは聞き捨てならぬ、その方は、ひとまず控えよ」

 農夫は、ひとまず引き下がりました。
 代って公事師が呼び出されました。
 奉行は、カンカンになって公事師に問いただしました。

「その方、かの者より十五両を借用したというのは本当か。もっとも懇意なれば、借用書無しで借りたそうだが、よもや忘ることあるまい」
「それ何ですが全く記憶に御座いません。もっとも時々は、少々の金を借り受けたこともありましたが、約束の期限を守らなかったことは、一度だってありません。先方に、お尋ね下さい」
「それはいずれ吟味しよう。されどかの者の申し立てに、その方、八判(出廷状)を引裂き火鉢にくべたとか、それは本当か?」
「そんなおそれおおいこと覚えがありません。八判(出廷状)なら、ここに持参してきましたので御覧下ささい」
「これは、昨日差し遣わせし八判(出廷状)だ」
「あの農夫は、こんな嘘を言う人なのです」
「・・・・」
「お金の借用の件も、御賢察下さい」
「・・・・」

 そして農夫が呼び出されました。

「今、この者の申すこと一々吟味いたした。かかるに、その方、公事師が八判(出廷状)を焼き捨てたと申し立てたが、公事師は本物の八判(出廷状)を持参していた」
「え?」
「奉行の前にて斯かる嘘言を申し立てしこと、不埒の至りなり。かくては、証拠の書き付けもなきことゆえ、十五両の借金のことも嘘にちがいあるまい。不届き千万である」
「・・・・」

 農夫は、こうして奉行にさんざん叱られました。
 もちろん公事師(弁護士)には、何のお叱りもなし。
 こうなってはと、不本意ながらかの金子は損金とし、公訴取り消しにしました。
 すると、あの公事師がやってきたのです。
 そして深く頭を下げました。

「先日の裁判の件、ひらに御容赦あれ」
「はあ?」
「あえて、あのような裁判にしたのは、お手前が、不利な裁判を勝訴する方法を知りたいと申されたので、その方法を試してみせたのです」
「えええええええ!」
「これは、借用した十五両に利息です。お受け取りくだされ」
「こりゃ、あきれ果てたわ」
「すまん、すまん」
「左様でしたか。私は、いっこうに存じませんでしたから、全く以って不法の者もあるものかなと立腹いたしておりました」

 農夫は大笑いしました。

「とにかく、話だけでは、分り難いのです。これは当事者にならないと、なかなか理解しにくいものなんですよ」

(大江戸実々奇談 39話 文章は現代語に、私流に意訳してあります)


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2010年11月05日

武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書)

武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書)
磯田 道史 (著)



 この本が映画化されると聞いたときは
「ぜってー無理だ」
と思っていましたが、もう公開間近です。



 そもそも「武士の家計簿」なる本は、小説でもなんでもなく、学術書です。

 はじまりは、著者が神田の古書店で、30年近く書き込まれた武士の家計簿を発見し、それを調査したら、驚愕な新事実を発見したことにはじまります。私が、この本を読んだのが7年前でしたが、数ページ読んだだけで、ひっくりかえるくらい驚いた記憶があります。学校の歴史の授業は、嘘ばっかり教えていることは、よく知ってましたが、この本を読んだとき、日本史の根本が全く分かってなかったことに気がつかされ、しばらく茫然自失した記憶があります。

 例えば、金沢藩・猪山家(70石)の当主直之の小遣いは、年間にして銀19匁。しかし、家来の草履取りの給金は、銀83匁と月々50文の小遣い。それに年3回の御祝儀をもらい、外出するたびに15文の駄賃(チップ)をもらっていました。外出は、2日に1回くらいありましたから、そうとうの金額をもらっていたことになります。しかも衣食住は保障されていました。つまり、家来の草履取りの収入は、当主の10倍くらいあったわけです。

 よく「武士は食わねど高楊枝」と言いますが、これは本当のことだったのですね。家来は、草履取りといった卑屈な仕事をしていても、たくさん金をもらっていましたが、当主の小遣いは、草履取りの1割もない。当然のことながら、家来は、その家計の状態を知っていますから、武士たちが、どんなに威張ってても、草履取りは尊敬していたわけです。

 じゃあ、70石どりの武士の当主の小遣いが、どうして、それほどまでに少なかったかと言いますと、これにも訳がある。給料の大半を「身分費用」に使っていたのです。自分の家来に小遣いをわたしたし、来訪があれば、相手方の家来にも祝儀をわたしていました。つまり、来客があれば、じゃんじゃん金が無くなっていく。さらに辻番にも金品をわたしていた。

 じゃ、来客が無ければよいじゃないかと思うのですが、そうはいかない。武士の身分になると、さまざまな行事があり、そのつど親戚一同が集まるしきたりになっている。節分や、端午の節句や、袴入れの儀式、元服や、七五三など。そういう行事が毎日のようにあり、おおぜいの親戚が集まり、逆に親戚のところに出かける必要がある。

 これを怠るとどういうことになるかと言うと、武士でいられなくなる。具体的に言うと、武士教育がなりたたないのと、万が一、世継ぎが出来なかったばあい、家名が断絶するおそれがある。だから、日頃から親戚づきあいを非常に大切にしたのですね。養子をもらうために。そして養子を出すために。

 で、その費用が、莫大な金額になっています。
 草履取りなどの家来たちは、そういった行事があるたびに
 御祝儀をもらっていたから、武家社会の最大の利益者は、
 草履取りなどになった、農村の次男坊たちであったかもしれません。

 ここで著者は言います。

「江戸時代は、圧倒的な勝ち組を作らない社会であった。武士たちは、威張っていますが、家来草履取りの給料より少ない収入でいる。幕末の日本に百姓一揆が、大発生していますが、百姓たちは絶対に武士にとってかわって政権を奪おうとしなかった理由が、ここにあります」

 このへんを読んだときに
「なるほど!」
と大声をだし、嫁さんに訝しがられた記憶があります。

 これじゃ革命がおきようがない。
 日本社会に革命がなかったのは、まさにこれが原因だったかもしれません。
 驚くべきは、他にもあります。

 明治維新後、失業した武士たちの多くが銀行員となって成功してたことは、前々から知っていましたが、その理由も本書であきらかにされています。江戸時代の武士たちは、トレーダーであった事実が、彼らの家計簿でわかったからです。どういうことかと言いますと、彼らは、年貢を現物で支給されていなかったからです。

 猪山家の家禄は70石と切米50俵です。金沢藩の1俵は5斗なので、合計95石。このうち税収が42石。42石うち屋敷に運んだ米が8石。家来含めて8人家族だったので8石だけ、屋敷に運び、のこりの34石を銀に両替しています。この他に拝料金を8両もらっていました。つまり、金・銀で給料をもらっていたのですが、金銀では買い物が出来なかったのですね。銭に両替しなければならない。で、FXをやっていたわけです。あと、米の換金レートにも敏感に対応しなければ、損をするので、江戸時代の武士たちは、意外にことに、みんなトレーダーであったわけです。

 こういった事実を突き止めていくと、なぜ明治維新が成功したのか? なぜ明治政府が、武士たちの録をとりあげても不満が少なかったのかが、少しづつ見えてくるのです。そういう意味で、この本は歴史に興味ある人には、必読の書ですが、この本を、どのように映画化したのか? そのへんが気になります。

 なにか、著者の研究成果を、無茶苦茶にされてなければいいのですが。宣伝動画をみると、何か嫌な予感がします。映画に、へんないじくりがないことを祈ります。と同時に、原書を読む人が、もっと増えて欲しい。





http://www.bushikake.jp/


キャスト

猪山直之:堺雅人
猪山駒:仲間由紀恵
猪山成之:伊藤祐輝
猪山政:藤井美菜
猪山直吉→猪山成之:大八木凱斗
猪山常:松坂慶子(特別出演)
おばばさま:草笛光子
猪山信之:中村雅俊

西永与三八:西村雅彦
嶋田久作
宮川一朗太
小木茂光
茂山千五郎


スタッフ

監督:森田芳光
原作:磯田道史『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』(新潮新書)
脚本:柏田道夫
音楽:大島ミチル
撮影:沖村志宏
制作:エース・プロダクション


つづく。

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2010年11月06日

武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書)2

武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書)2




 「武士の家計簿」についての続き。

 この本には、武士の結婚についても書かれてあります。江戸時代における武士の離婚率は、非常に高かったわけですが、その理由は長い間わかりませんでした。

 ところが「武士の家計簿」を読むとわかってしまいます。彼らの経理には、「妻から借り入れ」と書かれてあるからです。つまり、妻と夫の財産は別物であったわけです。さらに、妻の実家から多くの援助があったことも「武士の家計簿」によって解明されました。武士の妻にとって、嫁ぎ先より実家の方が親密だったわけです。嫁ぐと言っても、完璧に嫁ぎ先のものになってなかった。逆に言うと、娘が嫁いだとしても、それで縁が切れるわけでないので、さまざまな援助が、後々まで必要になってくる。そのへんが猪山家の家計簿を調査する上でわかってしまった。

 面白いのが結婚です。

 嫁ぎ先は、将来の嫁(いいなづけ)に対して、ものすごく気をつかっています。何度も会食の設定をし、貧乏なのに豪華な土産をもたせています。で、結納を行い、藩の許可をもらって、さあ結婚かと思いきや、結婚おためし期間というものがありました。これは『江戸の親子(中公新書 太田素子)』にも明らかにされていますが、4ヶ月も同居させる例も珍しくなかった。猪山家の場合は、何度か、嫁が両家に行ったり来たりする状態が続き、本人たちに愛が生まれると、15日くらいお泊まりをし、そして実家に戻り、実家の親に
「嫁になりたい」
と言って、正式な結婚をするわけです。

 つまり、見合い結婚といっても、
 実質的な恋愛結婚なのですね。

 見合いは、親同士の面接。
 そのあとに「おためし期間」がある。
 この「おためし期間」は自由恋愛ゾーンであり、
 このへんが分からないと、
 昔の時代劇の考証が分からなくなる。

 で、結婚後、
「やっぱり駄目だ」
と思ったら簡単に実家に戻った。
妻は、結婚しても、完全に嫁ぎ先の人間になってなく、実家との結びつきが強かったのです。





http://www.bushikake.jp/


キャスト

猪山直之:堺雅人
猪山駒:仲間由紀恵
猪山成之:伊藤祐輝
猪山政:藤井美菜
猪山直吉→猪山成之:大八木凱斗
猪山常:松坂慶子(特別出演)
おばばさま:草笛光子
猪山信之:中村雅俊

西永与三八:西村雅彦
嶋田久作
宮川一朗太
小木茂光
茂山千五郎


スタッフ

監督:森田芳光
原作:磯田道史『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』(新潮新書)
脚本:柏田道夫
音楽:大島ミチル
撮影:沖村志宏
制作:エース・プロダクション


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2010年11月19日

漢字は日本語である (新潮新書/小駒勝美/著)

漢字は日本語である (新潮新書/小駒勝美/著)





 この本は、脳科学者「養老孟司」さんの各種の著述と一緒に読まないと、誤解されるというか、誤読されるおそれがある本です。

 日本の漢字と、台湾・中国・ベトナム・朝鮮の漢字は、全く別の文字であるからです。その差は、ギリシャ文字と、英語のアルファベットの差よりおおきいのです。それを詳しく述べているのが、脳科学者の「養老孟司」さんなのです。養老孟司さんは言いました。一つの文字(漢字)には、一つの音しかないのが、(日本以外の)世界中の漢字文化圏の原則なのです。

 しかし、日本には、音読みと、訓読みの2つの読み方があり、さらに呉音と漢音と唐音があり、当て字があって、略字や筆記体があり、名前にだけ使える「名乗り」という読み方もあります。三浦知良(かずよし)という名前がありますが、「知」という文字は、訓読みでも「かず」とは読みません。訓読みではないのです。名乗りで「かず」と読むのです。つまり、音読み・訓読み以外の読み方である名乗りの読み方なんですね。

 「寿司」という文字は、当て字とよばれる読み方です。「すし」を漢字で書く場合、正解は、鮨・鮓の2つしかありません。「お腹」も当て字です。本当は「御中(おなか)」が正解になります。けっして「おんちゅう」ではありません。このように文字に、いくつもの読み方があるのは、日本だけの現象で、他のアジア諸国では、1つの文字に1つの読み方しかありません。これは、英語でもロシア語でもアラビア語でも一緒です。しかし、日本語は、1つの文字に多くの読み方があるのです。この文化が、日本に強力な「マンガ・アニメ文化」をつくり、「携帯小説
 ・ライトノベル」を量産する背景となり、インターネットで顔文字が氾濫する原因となっています。

 ところが、この漫画やアニメ・携帯小説・ライトノベルをバカにする風潮があります。しかし、それは見当違いであることが、現在では脳科学者によって証明されています。漫画は、人々をバカにするどころか、人間の知能を飛躍的に高めるということが、脳科学の立場から言われ始めているのです。その代表格が『バカの壁』で有名な養老孟司さんです。詳しくは、下記の書き込みを読んでください。


http://kaze3.seesaa.net/article/154701257.html
http://kaze3.seesaa.net/article/154823932.html


 どうして脳科学者たちが、マンガに注目したかと言いますと、こういうことです。交通事故か何かで脳に障がいをうけ、漢字を読めなくなるとします。ところが、カタカナは読めたりするのです。その逆もあったりする。

 ところが、こういう例は海外には無いのですね。
 日本だけの現象なのです。

 アメリカ人も、中国人も、インド人も、文字が読めなくなったら全部の文字が読めなくなる。日本人みたいに漢字だけ読めて、カタカナは読めないと言うケースは無いのです。読めないときには、全て読めなくなるのです。ところが日本人だけは例外なのです。日本人みたいに漢字だけ読めて、カタカナは読めないと言うケースもでてくる。

 この原因を脳科学者たちが究明すると、カナを読む脳と、漢字を読む脳は、別の場所であることがわかりました。表音文字のカナを読む脳の部分は「角回」という場所であり、漢字を読む場所は「左側頭葉後下部」だったのです。だから、「角回」だけが故障しても日本人は漢字だけは読める。新聞でも漢字だけ追えば、大体の意味は分かる。逆の場合もある。しかし、西洋のように表音文字を使っている場合は失読症になるのです。

 ということは、日本人が読書する場合は、脳の「角回」と「左側頭葉後下部」を使っているわけであり、日本人以外は「角回」だけを使っていることになる。そのために読書のスピード違ってくる。日本語の本は、英語の本の4倍の速度で読めてしまうのです。この事実は、言語学者の間で大昔から知られた事でした。翻訳する人たちの大半が、日本語を英訳する方が、その逆よりも早いと言っています。読む速度が違ってくるからです。

 じゃあ中国人は?

 中国人は、欧米人と一緒です。脳の「角回」しか使ってない。
 だから中国人も本を読む速度が遅いんです。
 日本と同じ漢字を使っていながら脳の「角回」しか使ってない。

 どうしてか?

 dogはドッグで別な読みはありません。
 catもキャットであって、catをドックとは言いません。
 1対1が原則なのです。
 これは、カタカナやヒラガナと一緒ですね。
 しかし、漢字はそうではありません。
 例として「重」という漢字をあげてみましょう。

 中国語としての「重」には音声は1つしかない。
 これは英語と一緒ですね。
 脳の「角回」しか使ってない。

 しかし、日本語では「じゅう」「ちょう」「おも」「かさ」「え」という多くの読みがあります。つまり脳の「角回」では読めない。で、左側頭葉後下部(つまり言語中枢)を使わざるをえないのです。つまり、中国で使われている漢字と、日本の漢字は、まるで違う言語であるということなんですね。それを『漢字は日本語である (新潮新書/小駒勝美/著)』の小駒勝美さんは、漢字学者の立場から言っているのですが、それがAmazonのレビューを書いている人に、きちんと伝わってない。

 実に「惜しい」と言わざるをえない。もっとも、この本は、学術書というより漢字研究者による「雑学本」であり「豆知識本」なので、突っこんだ話しは、わざと避けているので仕方ないのですが、それにしても惜しい。

 ただ、「雑学本・豆知識本」としての本書は、高いレベルの本であり、
 読むうちに漢字の魅力にとりつかれてしまいます。
 たとえば、漢和辞典の致命的な欠陥について述べています。

 漢和辞典は、漢文を読むための辞典だったのです。ところが、現代の日本人が接する漢字は、あくまで日本語に使われる漢字なのです。したがって、漢和辞典で日本語に使われる漢字を調べるのは、どうしても無理があります。漢和辞典には、日本語で使用される熟語がきちんと収録されてはいません。漢字一字一字の意味も、日本語では、中国の古典に使われるのとはかなり変化しています。しかし漢字は日本語でもあるのです。「秋桜(コスモス)」や「秋刀魚(さんま)」は、漢和辞典には載っていないのですね。

 また、同じ意味でも全く違う漢字を使うのが日本人の面白いところです。


 例えば「お椀」について。
 木製なら「椀」
 陶製なら「碗」
 鉄製だと「鋺」
 つまり、「おわん」と言っても材質によって書き換える必要がある。
 このへんが日本語の難しいところです。
 「おわん」という読みにも、何種類の漢字がある。


 逆に「あいづち」は、「相槌」でも「相鎚」でも正解。
 最初は、相槌だったのでしょうが、
 金槌の登場で相鎚でも間違いでなくなってしまった。
 逆に言えば、どちらを使うかは、センスの問題になります。
 このへんが日本語の面白いところです。


 玉と王が同じ意味であること。
 むしろ、どちらかと言うと玉の方が上位なんですね。
 このあたりは将棋の世界とは真逆です。


 竜と龍も同じ意味。
 竜は新字。
 龍は旧字。
 よーするに国と國の違いと一緒。


 隣と鄰は、もともと同じ文字。形が違うだけ。
 峰と峯は、もともと同じ文字。形が違うだけ。
 裏と裡は、もともと同じ文字。形が違うだけ。
 娘と嬢は、もともと同じ文字。形が違うだけ。
 漢字は、昔、どの部首をどの位置に置いても良かった。
 そういうものであったらしい。
 長い時期をおいて、それが1つの文字に厳選されたのですが、
 日本では、2つ以上残った文字もあったわけです。
 そして娘は(むすめ)と訓読みとして使い、
 嬢は(じょう)と音読みに、令嬢という用法で使いましたが、
 本来、娘も嬢も同じ文字でした。
 これを、日本では、上手に区別して使っているわけです。


 これが極端になると、渡辺。
 渡辺には56種類の異体があります。
 中国には、基本的に一文字しかありません。
 だから、外国人に言わせると、中国語より日本語の方が、はるかに難しい。



 准看護婦の「准」という文字は、「準」の俗字。
 つまり同じ文字なのですが、
 どうして、この文字が常用漢字に入っているかというと、
「日本国憲法」に使われているからです。

 終戦直後に大急ぎで日本国憲法をマッカーサーから作らされたときに、慌ててGHQの原案を翻訳したときに、ついうっかり「条約を批准」というところに俗字を使ってしまった。うっかりしたんですね。しかし、憲法は、改正できないので、准という文字を常用漢字にしてしまい、准と準の2つの文字が出来てしまった。だから法律用語には、准を使い、日常会話には準を使います。全く日本語は油断ならない。



 しかし、斉藤と斎藤は全く別の文字。
 斉藤は、「ひとしい」の意味。一斉という使い方をします。
 斎藤は、「身を清める」の意味。書斎・斎宮という使い方をします。
 つまり全く別の漢字なんですね。
 斉藤さんは、斎藤さんではないのです。
 斎藤とも子を斉藤とも子と書いてはいけないんですね。



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つづく

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2010年11月20日

漢字は日本語である (新潮新書/小駒勝美/著)

漢字は日本語である (新潮新書/小駒勝美/著)2




 この本の面白いところは、「中国語には文法が無い?」かもしれないという説を紹介しているところです。

「えええええええええ? そんなバカな?」

と思って先を読むと、このように書いてあります。英語には格のの変化があります。過去形と未来形では文字が変わります。単数形と複数形でも文字が変わります。しかし、中国語には、そういう変化はない。時制を示す語形変化がない。

 日本語は、おくりがなによって、格のの変化や単数形と複数形を表せます。しかし、中国語には、それがない。そこで中国語に文法が無いという説をとなえる学者たちが出てくるのですね。単に漢字を並べただけなのではないのかと。

 逆に言うと、そうであるからこそ、漢字は中国人にしか発明することは出来なかったともいえます。日本人やヨーロッパ人は、ひらがなやアルファベットは発明できても漢字を発明することは絶対にできない。文法が、それを許さないからです。しかし、中国人なら漢字を発明できる土壌をもっていたわけです。中国語の構造は、漢字を使うには便利な言葉なんですね。

 ところが日本語は漢字を使うのに不便な言葉だった。しかし、アジアには漢字が先にあったので、やむにやまれず使わざるえなかったのです。ここで逆説的になりますが、日本語は漢字を使うのに不便な言葉だったために仮名が生まれることになり、訓読みが生まれ、日本語が豊かになったわけです。そして、日本人が日本人のための漢字を作っていくことになりました。日本独自の漢字です。

 あと、この本は、面白い指摘がなされています。日本語にスペースがないことです。英語にもドイツ語にも単語ごとにスペースがある。だからパソコンには、スペースキーが大きくつくられています。これは中国語でも韓国語でも一緒でスペース無しには文章を作れません。しかし、日本語には、スペースが皆無です。これは、漢字と平仮名の組み合わせによって、スペース無しに文章を構成できるからです。逆に言えば、もし、日本語に漢字がなかったとしたら、平仮名だけだったとすれば、やはりスペースが無いと読みにくくて仕方なかったと思います。

 それから面白いことに、著者は、世界で最も難しい文字は、平仮名だと言います。「あ」「ふ」「む」といった平仮名は、はじめて覚える人にとって、とても難解な文字なのだそうです。だから平仮名をレタリングするのは、プロにしかできない。逆にアルファベットや漢字やカタカナは、素人にもレタリングが出来る。

 それから面白かったのが、
「戦前の横書きは、右から左に書いた」
というのは嘘という話し。

 たしかに戦前に写した古い写真をみると、本屋の看板に「山本書店」ではなく、「店書本山」と書いてあります。確かに右から左に文字が書いてあります。だから戦前の人たちは、「店書本山」のように右から左に文字を書いたと思いがちなのですが、これが大きな間違いであることを知って驚きました。

 戦前も戦後も、大学ノートに文字を書くときには、左から右に書いていた。
 つまり今と変わらなかったらしい。

 では、「店書本山」と書かれた看板は何であったか?
 なんと、これは縦書きなのだそうです。
 「店書本山」は横書きでなくて縦書き。
 一文字だけで改行した看板なのだそうです。

 なーるほど! 



つづく

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2011年07月07日

国家の実力―危機管理能力のない国は滅びる 1

国家の実力―危機管理能力のない国は滅びる



久しぶりに面白い本を読みました。
これは対談なのですが、おもに佐々淳行さんが語っています。
警察官の現場として、浅間山荘事件などで活躍した佐々淳行さんの語りが面白い。
現場でないと知らないことを語っています。
論より証拠、ちょっと抜粋して紹介してみましょう。




◆四十年前から進歩していない学生運動政権

佐々
 先生は経験者だからよくご存じでしょうけれど、学生運動が燃え上がっていた昭和四十三年の暮れに、いままでの放水車ではどうにもならないというので、十二気圧をかけられる高圧放水車を予備費でなんとかお願いしますと大蔵省に陳情したんです。それで新鋭の高圧放水車を二〜三台詞達して、東大の安田講堂攻めをやった。ところが、ベニヤ板で窓をふさいであって、放水しても跳ね返されちゃう。

 あれは城攻めにはあまり役に立たなかったんです。

 その代わり、水平に操作して少し加減した水圧で
 デモ隊の足元を狙って打つと、たちまちひっくり返る。

 きっと菅さん仙谷さん
 なぎ倒された経験があるんじゃないですか(笑)。


 その時の記憶があるからか、
 いきなり警視庁第一機動隊の高圧放水車を指名してきた。

 あの人たちの記憶は昭和四十四年一月で止まっているわけです。


渡部
 面白い(笑)。
 当事者だけが知る話ですね。


佐々
 最初に聞いた時は吹き出しちゃいましたよ。
 それに高圧放水車の射程は水平で百メートルだし、
 あんな放射性物質が満ちているところへ防護衣もなしに近寄れたものじゃない。
 事実、見事に失敗しました。
 私は「警視庁第一機動隊の無念さは察するにあまりある」と、ある本に書いたんですけどね。
 装備・機材もなしで、できないことをやらされたんだからね。
 政府首脳は記憶が停止していたがために警視庁第一機動隊を過大評価したんです。


渡部
 学生運動の時代の記憶で国の政治をやられたんじゃたまったものではないですね。

佐々
 それから次に自衛隊のヘリコプターが水を入れた容器を積んで、
 原発上空から水を投下したでしよう。
 あれも私たちが東大安田講堂に対してとった戦術です。
 自衛隊は随分断ったらしいけれど駄目なんですよ。

 安田講堂の時は、放水車では射程が足りなくて屋上に水が届かなかった。
 彼らは平気で石やら火炎瓶を投げてきましたからね。
 ならば上から水をかけて催涙ガスを落としてやろうというので、
 ヘリコプターで行ったわけです。

 ところが、失敗しました。
 ヘリコプターのローターが強烈な風を起こしているから、
 水をまいても正確に屋根には落ちない。
 それどころか、地上で見守っていた警察官たちに降りかかってきた。
 おかげで私たちも催涙ガスの粉から水からかけられて大変でした。
 一月十八日ですから、寒いんですよ(笑)。
「俺たちに水をかけるやつがあるか!」
「中止!やめやめ!」
と言って止めさせた作戦なんです。
 これを彼ら(菅内閣)はやったんですね。

 どうやら彼らは、
 あの作戦が効果がなくて中止になったことに
 気づいていないようです。
 四十年たったいまでも。



渡部
 やられたことだけを覚えていた。
 佐々さんは失敗したと思っていたけれど、彼らには一応効いたのでしよう。


佐々
 そうなのでしようね。
 彼らなりの経験則で「これだ」と思ったんでしよう。
 いい作戦だとね。
 でも、それが失敗していることをわれわれは知っているわけです。
 おまけに今回は原発上空でしょう。
 放射線が強かったし、ホバリングなんかできません。
 だから飛びながらまいたわけだけれど、水は見当違いな方角に飛んで行きました。

 安田講堂の時は私らも困ってしまって、ちょうど本郷の消防署から消防車が来ていたから手伝ってくれと頼んだんです。高圧放水は彼らのほうがすごいですからね。そうしたら、断られました。

「うっかり手伝うと、本当の火事で出動したときにホースを過激派に切られたりするから駄目だ」

と。

 私、本郷署長と大げんかしたのですが埒が明かないので、警察庁から消防庁に頼んで正式に命令を出してもらったんです。それで消防車にベニヤ板を張った窓に向けて高圧放水をしてもらったら、ぱかっと開くんです。われわれ警察側は感心して、
「やっぱり消防車の威力にはかなわないな、我が高圧放水車は駄目だね」
なんて言っていたんですよ。

 ところが、今回の原発事故の対応で、菅政権は私たちが失敗した上から二つの方法を第一弾、第二弾と繰り出したわけです。あれを見て「本卦還りか」と思わず笑ってしまったんだけど、彼らは四十年前の記憶を後生大事に覚えていたわけです。それで、やっと三号機の爆発から三日後になってハイパーレスキュー隊に応援要請をしたわけですが、実は石原都知事は当初からハイパーレスキュー隊を派遣していたんですね。ところが官邸や原子力安全.保安院の手順が悪く、また出動途上で一号機が爆発を起こし、状況が変わったこともあり、いったん帰ってきていた。

 そこに海江田経産相が「速やかにやらなければ処分する」と言ったものだから慎太郎さんが激怒したわけ。「何を言ってやがる。俺たちが派遣したのに使わなかったじゃないか」ってね。

 結局、ハイパーレスキューの後に出てきた遠距離からピンポイントで水を注入できるコンクリートポンプ車が効いたわけですが、業者は「あれを使えばいいのに」と最初から言っていたんです。でも、その情報は届かなかったわけです。要するに、学生時代の経験則だけを頼りに政治を行っているんですよ。しかもそれが正しいと思っている。本当に四十年前で思考が止まってしまっているんです。






 いかかでしょうか?
 ものすごく興味深い対談ですね。
 しかし、こんなのは序の口で、この後、佐々節が爆発します。
 読んでて、爆笑の連続。
 まさに「踊る大捜査線」です。
 まあ、読んでみてください。
 



◆ミグ25戦闘機事件が生んだ安全保障会議設置法

佐々
 一九八六年に安全保障会議設置法という法律ができて私が初代の内閣安全保障室長になったのですが、それまでは危機対応なんて実にいい加減なものでした。例えば、ハイジャックが起こったらどの省が担当するかなんて法律には書いていないから、各省庁とも譲り合って大混乱が起こっていました。ダッカ事件の時がそうでしたし、それからソ連のべレンコ中尉がミグ25戦闘機に乗って領空侵犯して函館空港に着陸した時はもっとひどかった。あれは記録に残しておいていいぐらいのひどさでしたよ。

渡部
 どのようにひどかったのですか。

佐々
 まず各省庁の緊急会議が官邸で開かれました。当時は安全保障室がなかったから官房副長官の主宰です。そこで出席者が言ったのは、これは防衛庁の責任だと。自衛隊法第八十四条には、領空侵犯に対しては着陸させたり、または退去させるための必要な措置を講じさせるとある。それをみすみす突破されたのだから防衛庁の責任だというわけです。

 そうしたら防衛庁の政府委員が、確かに第八十四条はそうだけれど、それは日本領空を飛行している間について書かれた法律で、すでに強行着陸しているのだからここから先は航空自衛隊に責任はない。これは入管の問題だから法務省の責任であると言うわけです。

 そうしたら今度は法務省が、入管というのは泳いで国境を越えてくるなり貨物機に忍び込んで不正入国した場合を想定している、軍用機で飛んできたというのは前例がない、だからこのケースは入管では扱わない、と言うのです。

渡部
 なるほど。法務省がそう言ったのですか。

佐々
 ええ。でも、ベレンコ中尉は密入国になるのではないか、だとすると出入国管理の問題だからやはり法務省でしようと言うと、法務省は警察の責任だと言い出したわけです。なぜかというと、ミグ25は空港に置きっぱなしになっている、これは遺失物法で取り扱うべきだと(笑)。しかも
トカレフ拳銃を持っていたから銃刀法違反、
威嚇射撃もしたから火薬類取締法違反

だって。戦闘機を遺失物法で扱うなんてバカな話は聞いたことないとわれわれが怒ると、今度は密輸だと言い出した。密輸なら大蔵省の税関が所管である、と。

渡部
 めちやくちゃな理屈ですな(笑)。

佐々
 本当の話です。
 そして最後は「アメリカに亡命したい」と言ったので外務省。そういう、どたばた騒ぎがあったのです。
 それを苦虫をかみつぶしたような顔をして聞いていたのが後藤田さんです。それで「こんなことをやっていたら、日本が駄目になる」と言って安全保障会議設置法をつくったのです。縦割りの省庁では解決できない、また地方自治体も解決できないような特定の問題については、国が国家危機管理としてやろうというわけです。その場合、安全保障会議を束ねるのは官房長官にしようと。そういう形で国家の危機管理という観念を後藤田さんが確立したわけです。
 そして国防に関することも、それまでの国防会議設置法を廃案にして安全保障会議設置法にまとめたんです。だから、安全保障会議設置法というのは基本的には国防なのですが、そのほかに緊急事態対処というのが入りました。緊急事態対処とは何かと言うと、後藤田さんの答弁によると、ミグ25のような特殊な亡命事件、ダッカ事件などのハイジャック、大韓航空機撃墜事件のような特殊国際事件、そして関東大震災規模の自然災害や治安問題を伴う災害です。

渡部
 それは正解でしたね。

佐々
 ええ。結局、自衛隊法第八十三条には災害派遣は都道府児知事等の要請により出動する旨が書かれているのです。阪神淡路大震災後は、緊急で要請を待ついとまがないときには要請を待たなくても出動できるという項が追加されましたが、本来、災害派遣は自衛隊の任務ではないのです。災害対策は主として自治省(現総務省)の所管で、自治省の外局に国土庁というのがありましたけれど、その国土庁長官がやることになっていた。そして、その根っこは地方事務ですから、知事と市町村長がやるのが原則なんです。
 ただし、何県にもわたる大災害の場合は国務大臣が非常災害対策本部を立てて対処する。それよりも大きな災害の場合は、内閣総理大臣が緊急災害対策本部長として直接指揮すると書いてある。これは今まで一回も使ったことがなかったのが、この間の大震災で初めて使ったのです。それは村山さんの時の阪神淡路大震災の教訓があって、総理直接指揮でなければいけないというので、初めて「非常」でなくて「緊急」にしたんです。ところが、緊急というのは先に述べたように経済統制を行うということなんです。先生もご承知のように、物価統制令と買い占め売り惜しみ防止法というのがありましたよね。

渡部
 ありました。物価安定本部、「安本」というのがあった。

佐々
 昔はそこで経済統制をやっていました。今度も売り惜しみとか買い占めを取り締まるということで、海江田経済産業大臣の所管になったわけです。でも、経済産業省というのは昔の通産省です。通産省に危機管理をやれといっても、警察、自衛隊、消防と何も関係ないのだから無理というものです。

渡部
 それはそうでしようね。

佐々
 どうしてそんなおかしなことになったかと言うと、これも原発に関係している。平成十一年に東海村のJCO臨界事故があったでしよう。あの時の所管官庁が科学技術庁だったのですが、研究ばかりしていて実務はまったく駄目で、十年問、一回も現場視察に行ったことがなかったそうです。だから、現場の作業員は濃縮ウランをバケツとひしゃくですくっていたわけです。これは科学技術庁では駄目だというので、その後、橋本行政改革で科学技術庁がなくなって文部科学省になった時に、原子力の学問に関する部門は文部科学省に行き、経済に関係するエネルギー部門は経済産業省に持っていったわけです。そして、その実務を担うようになったのが今回にわかに有名になった原子力安全.保安院なんですね。昔、動燃(動力炉・核燃料開発事業団)というのがありました。これは経済企画庁の所管だったのですが、その流れでいま経済産業大臣の所管になっているわけです。

渡部
 なるほど。それなら危機管理の対応なんてできるわけはないですね。三原山が噴火した時の島民避難はこうして行われた

佐々
 だからやはり安全保障会議設置法を早急に通用すべきでした。これによって各省庁が縦割りでバラバラにやっていた取り組みが内閣に集中できるんですから。ところが、それをやらなかったわけです。国会で「安全保障会議になぜかけなかつたか」と質問が出たのですが、それに民主党の福山哲郎という官房副長官が答えています。

「安全保障会議というのは総理の諮問機関でございまして、これを開くより、法律(災対法)に基づいて迅速に対応するほうが時間的に早いと判断した」さらに「そもそも安全保障会議は諮問の対象に災害や地震はなっていない」と。確かに書いていません。書いていないけれど、覚書がたくさんあって、それが先の「後藤田四項目」になっているわけです。そこで「通常の災害は災害対策基本法の枠内で処理できる。ただ、関東大震災程度の大災害が起きた場合、災対法の枠内で処理できないような政治的、社会的大混乱が起きることを予想し、その時に(安保会議が)必要」ということを後藤田さんは明確に言っています。それは議事録が残っていますよ。

渡部
 そうですか。

佐々
 私は内閣安全保障室長在任中の昭和六十一(一九八六)年十一月に起きた大島三原山の噴火でこの法律を使いました。噴火の後、最初は国土庁に十九省庁を集めて災害対策会議が始まりました。そうしたら災害の名称を大島災害対策本部とするか、三原山噴火対策本部とするかとか、日付を元号にするか西暦にするかとか、そんな会議を延々とやっているんです。
 日付なんてどっちでもいいじゃないですか。だから「なんでそんな馬鹿なことに時間をかけているんだ?」と聞いたら、「天皇陛下ご不例につき、この災害警備の問に崩御されると本部の名称が変わります」なんて言うわけです。「それなら西暦でいいじゃないか」と言ったら、「前例がありません」と。
 それから持ち回り閣議にするか、国土庁長官一任の非常招集にするかとか、どうでもいいことを話している。地元の町に溶岩が迫る様子をNHKが生放送していて、一万三千人が大噴火で死亡するかもしれないという時にですよ。
 それを後藤田さんに報告すると烈火のごとく怒りました。そこで私は内閣官房副長官の藤森昭一さんと一緒にクーデターを起こしました。藤森さんが中曾根康弘さんに「伴走いたしましよう。総理」と進言したのです。伴走というのは国土庁の災害対策会議とは別に安全保障会議設置法による安全保障会議を立ち上げるという意味です。国土庁ではとても手に負えない事態に備えて、後藤田官房長官の総指揮で別の動きを始めることを決めたわけですね。
 ところが、後藤田さんは「安保会議設置法もまだできたばかりで難しい局面があるかもしれないけれども、佐々君、君やれ」と。中曾根さんも「全責任を私が負うから、指揮しろ」と言うんですよ。私自身には何の権限もありませんが、総理の命令ということであればやむを得ません。指揮を執らせていただきました。すぐに都知事の鈴木俊一さんに海上自衛隊出動要請を促しました。さらに当時は橋本龍太郎さんが運輸大臣でしっかりしていましたから、島民を避難させるのに運輸省の権限で夏しか就航しない東海汽船のフェリーボートなども含め約四十隻を編成し
 て、南極に行く途中の観測船「しらせ」まで現地に向かわせたんです。大きすぎて接岸はできないんだけれど、一万二千トンの「しらせ」が救援にくるわけですから。島民は、その姿を見ただけで安心しましてね。

渡部
 ああ、それはそうでしようね。

佐々
 それで国土庁の災害対策会議が終わった午後十一時四十五分頃、われわれ官邸はすでに島民に避難指示を出していました。それで午前四時までには全島民一万人と観光客三千人を全員船に乗せました。
 しかし避難させるのも大変なんですよ。いわば強制疎開ですから。床柱にかじりついて「お爺さんの死んだこの家で死ぬ」と言ったお婆さんもいたそうです。乱暴な言い方だけれど、機動隊には「何がなんでも、無理矢理にでも連れてくるように」と命令を出して、全員を避難させたんです。その後も問題がありました。というのは、大島の管轄区域は自治省(当時)でいうと東京都なのですが、海上保安庁のルールでいくと静岡県になっている。でも、静岡に避難民を上げると陸送をどちらがゃるか、その襲用をどちらが負担するかで東京との問で絶対にモメ事が起 こる。一万三千人ですから大変です。 それで後藤田さんに「このままでは大問題になりますから竹芝桟橋に上がるという方針にしてはいかがでしようか」とお伺いを立てると、「すぐに指示しろ」と。「でも私には権限がないんですよ」と何回も言ったのですが、「なんとかしろ」と(笑)。しようがないなと思って海上保安庁から安全保障会議に出向してきている保安官に「俺からと言うなよ」と念押しして、「警備救難監に情報として流せ」と命令を出したんです。「静岡に上げると陸送の問題が生じるから竹芝桟橋に上げたほうがいいのではないでしようか。
 ご参考までに総理、官房長官もそういうご意見です」と言えってね。そうしたら全船が竹芝に向かっているという連絡がきた(笑)。その頃には東京の公立学校やYMCAなどを確保して、毛布や握り飯の準備が進められていました。これが危機管理というものです。

渡部
 おっしゃるとおりですね。






つづく

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2011年07月08日

国家の実力―危機管理能力のない国は滅びる 2

国家の実力―危機管理能力のない国は滅びる 2

つづきです。

あんなり面白い本だったので紹介します。
対談なのですが、おもに佐々淳行さんが語っています。
警察官の現場として、浅間山荘事件などで活躍した佐々淳行さんの語りが面白い。
現場でないと知らないことを語っています。
論より証拠、ちょっと抜粋して紹介してみましょう。







◆阪神淡路大震災でのある支店長の勇断

佐々
 それで一つ思い出しました。阪神淡路大震災の時、日銀の神戸支店長に遠藤勝裕氏という傑物がいたんです。彼はジェット機が落ちたかと思うくらいの轟音と激震に遭遇した直後、自分がこの大災害に際して何をすべきかを考え、「そうだ。俺の役割は町に紙幣を出すことだ」と気づくんですね。

 日銀の支店は設備の損傷はありましたが、幸いにも大金庫が無事でした。
 遠藤さんはそれを開けてしまうんです。
 緊急時に普通は閉める大切な金庫を、逆に開けてしまう。
 そしてそこにあった札束を全部取り出し、紙幣の流通を止めなかったのです。
 本人は「兵庫児一日分の金額が入っていた」と言っています。
 だから何十億円でしよう。


渡部
 随分と大胆な行動ですね。


佐々
 そして次に被災地の民間銀行が壊れていないかを点検しました。
 そうしたら日銀のほかに一つだけ壊れていない銀行があった。
 すると三日後には、そこと日銀神戸支店内に、
 被災して休業中だった各銀行の支店の臨時窓口を開設するわけです。
 さらに兵庫県警本部に連絡を入れて警備を要請しました。
 普通なら各支店に配置しなくてはいけない。
 二百人の警察官が二か所で済むわけだから、本部長も随分助かったと話していました。
 二十名で済んだそうです。

 もっとすごいのは、震災当日のうちに金融特例措置という五か条の布告を独白の判断で出したんです。例えば通帳や判子がなくても身分証、免許証を提示したらお金が借りられる、半焼けの紙幣は普通の紙幣と交換する、などと。

 もちろんこんなことを日銀本店や大蔵省本省がすぐに承認するわけがありません。
 ところが、当時の大蔵省の神戸財務事務所長というのがまた傑物でね。
 これを決裁するんです。
 そしてこのルールでどんどんお金を出しました。


渡部
 ほう。


佐々
 こんな話もあります。
 遠藤さんが震災後、市内を視察すると、
 コインを持たない被災者が自動販売機を蹴っている様子を目にするんです。
 そして「そうか、物があってお金がないと暴動が起こるな」と考えた。
 そこで銀行協会に申し入れて、
 百円玉九枚と十円玉十枚を入れた千円の袋を四千袋つくり、
 避難所に行って「銀行協会からの義援金でございます」と渡して歩いたそうです。



渡部
 いやすごい話だ。
 初めて聞きました。
 その遠藤という方はその後どうなりましたか。


佐々
 本当はクビだったんです。
 なにせ日銀のあらゆる掟を破ったわけですから。
 当時私は遠藤さんとは一面識もなかったんですが、解任だと聞いた時はカッときて日銀の役員に電話で談判しました。「遠藤さんを辞めさせると聞いたけれども、本当か」「いや、いま内部でそれが問題になっているところです」。聞いてみると、災害に遭った地域を救済するために過去に何度かこのような超法規的行為をやっていた札付き″の支店長だったらしいです。

 日銀内部は「とんでもない日銀マンだ」「これこそ日銀の鑑」という二つの意見に分かれていて、私はその日銀役員に「彼のような功労者をクビにするなんてとんでもない。本店に栄転させなさい」と強く言いました。それが聞き入れられたのか、遠藤さんはクビにならずに調査役になりましたよ。







◆大震災当日に実感した日本人の我慢強さ


佐々
 緊急事態が起こった時、高層の高い場所にいると大変ですよね。アメリカのペンタゴンというのは五階建てです。あれは軍の施設や危機管理担当施設が高いところにオフィスを要求するのは愚かだという思想なんです。エレベーターが止まっても、すぐに駆け上がったり駆け降りたりできなくてはいけないからと。それで石原慎太郎さんがこの間、彼のいる知事室は七階ですから、「俺、七階まで駆け上がれない。失格だ」って言っていました。


渡部
 知事室を降ろせばいいんですよ。


佐々
 一階か二階にすればいいんですよね。旧警視庁では、一階二階というのは古くから鑑識とか捜査一課とか刑事部がとったんです。私は警備部でしたが、かろうじて三階に入りました。それで公安が四階。それより偉い人は五階でも六階でも、どうぞお好きなところへというわけです。われわれは停電でエレベーターが止まった時に、駆け上がり駆け降りしなければいけないから。ところが、新警視庁の警備部というのは十何階かにあるんです。


渡部
 今度の地震で懲りたでしよう(笑)。


佐々
 懲りたと思いますよ。前に後輩の警備部長のところに行ったら、「先輩、もう一時間ぐらいお茶飲んでいてください。素晴らしい夕陽が見られますから」と言うわけ。それを聞いて私はちょっと皮肉を言った。

「君ね、俺たちは刑事部と三階と二階の取り合いっこやったんだぜ。駆け上かり、駆け降りしないといけないだろう。それだけの緊急性のある仕事だし、忙しいからエレベーターなんて待っていられない。ちょっと見たところ、君、だいぶ贅肉がついているようだけど、ここまで駆け上がれるのか。駆け降りるのはもっと大変だぜ。足がもつれるから……」

なんて(笑)。

 ペンタゴンの周りなんて昼休みになるとみんな走っていますよ。フィジカルフィットネスといって基準となる体型が決められていて、ときどきチェックされるんです。太ってきたら「やり直し」とダメ出しされる。それでも自己管理できないとペンタゴンから追い出されてしまうんです。それで「ちょっと私らの時よりたるんでるぞ」なんて言うものだから、若造たちに煙たがられるの(笑)。





◆アメリカの救援を拒んだ村山内閣

渡部
 今回の菅政権の対応はことごとく後手に回りましたね。
 あるいは、無駄に時間の浪費をしていたように思えてなりません。
 何を考えているのかと首を捻りたくなるようなことがしばしばありました。


佐々
 これも大切な教訓だから申し上げておきますと、阪神淡路大震災の時、首相の村山富市さんも官房長官の五十嵐広三さんも地元出身の土井たか子さんも、社会党の面々はガバナンスという点でまったく駄目だったんです。自衛隊は憲法違反だから災害の救援に来るなと言う人たちですから。


渡部
 自衛隊アレルギーの連中ばかりです。
 それに、いつまでも自衛隊に出動を要請しなかった
 当時の貝原俊民知事の責任も避けられません。


佐々
 ただ、この時の政権は幸いにも自民党が与党に入っていました。役に立ったのが運輸大臣の亀井静香君でした。

 アメリケアーズというアメリカ最大のボランティア組織があって、震災後、日本国際救援行動委員会の理事長だった私に「ノースリッジ地震のお礼をします」と電話をかけてきたんです。ご存じのように阪神淡路大震災のちようど一年前の一九九四年一月十七日、ロサンゼルスで震災が起きて、日本は懸命に支援したんです。

「そのお礼にジャンボ機一杯の百トンの物資、それに人名の医師団、数十人のボランティアを連れて日本に向かう。一月二十三日午後一時に関西空港を開けてほしい」

という電話でした。

 ところが、村山さんも五十嵐さんも
 アメリカの恩を受けたくないという理由で申し入れを断ってしまうんです。


 それとは別に、インディペンデンスという空母がヘリコプターで重傷者を搬送して救急医療を引き受けるという申し入れもありました。空母ですから、パイロットが怪我をして帰って来た時に治療をするため、外科医がたくさん来っている。百床くらいベッドを持っています。ところが村山さんはこれも断りました。外務大臣の河野洋平さん、彼もだらしのない男で、右へならえで、この話を蹴ってしまう。

 それでアメリケアーズからの支援をどうしたかというと、理事長の私が受取人になったんです。ところが、受け入れるには運輸大臣に空港を開けてもらわなくてはいけない。亀井大臣はあさま山荘事件で一緒に仕事をした私の後輩ですしね。追いかけ回してなんとか自動車電話で連絡をつけました。

「亀井君、君のバカ力が役に立つときがきた。関西空港を開けてほしい。援助物資を運ばなくてはいけないが、陸路は使えない。ついては君の指揮下にある海上保安庁の巡視船とヘリコプターを手配してほしい」

と。周囲は「無理でしよう」と言っていたんですが、空港に着くと「大臣の命令により」と言って海上保安庁の隊員百五十名が整列して待っていて、敬礼して通してくれました。驚いたことに四隻もの巡視船とヘリコプター三機を借りることができた。その協力のおかげで、援助物資は無事、神戸の災害対策本部に送ることができたんです。


渡部
 まさにお手柄でしたね。震災の当日といえば、僕は村山さんと懇談会をやっていたんです。


佐々
 ああ、知っています。新春文化人懇談会というのですね。私はこの日の総理の行動をきちんと把握しようと皆に聞きました。村山さんのもとに第一報が入ったのが午前七時なんです。地震発生から一時間十四分も経過していた。そして十時からの閣議の後、二十一世紀地球環境懇話会という会合に出席しています。神戸でどんどん人が焼け死んでいる時に、オゾン層を破壊するフロンガスの規制をどうするか、といったことを話し合っていたんです。神戸のことは「ひどい地震だったらしいね」という程度で話題にもならなかったらしい。渡部先生たちとの懇談合もこの日だったんですね。


渡部
 そう。「総理、神戸が大変なのにこんなことをしていてもいいのですか」と言ったら「大丈夫ですからどうぞ」と言って予定時間を十五分もオーバーしました。


佐々
 その間も自衛隊の車両やヘリコプターはエンジンを回し、いまかいまかと指示を待っていました。天災が途中から人災に変わったんです。それに比べれば、今回は官邸に入ってくるのは割に早かった。地震直後の二時五十六分ぐらいには来たみたいです。阪神淡路の経験がありましたから、実働部隊もみんな早く反応しました。自衛隊の偵察機が飛び立ったのが十分後だと言いますから、非常に反応はよかった。
 ただ、問題はそれからです。

 官邸で何があったかというと、菅さんが
「まず防災服に着替えよう」
というところから始まったそうです。それで閣僚がみんな着替えて閣議を防災服でやるという物々しいことになった。ところが、現場に行くわけじゃないですよ。官邸の中で防災服を着て緊急事態に対応しているという気分″になっていったんです。


渡部
 パフォーマンスですよ。


佐々
 まさにそうですね。私が防衛庁にいた時、「九月一日の防災の日に着ろ」と防災服が配布されたんです。その日の朝、仮想大地震があることになっていて、防衛庁の参事官会議には全員防災服で出ろと言うわけです。

 私はそういうのが嫌いなので苦々しい顔をしていたのですが、そのうち全省庁でトラブルが起きました。全省庁の官房長が電話のやりとりをしている。何をやっているかと思ったら、防災服の上着はズボンの外に出しておくのか、ベルトの内側にたくし込むかという相談をやっている(笑)。

 おそらく今度もそのたぐいのことをやったと思いますよ。
 各大臣の秘書官だとか総務課長が互いに官邸に電話して
「防災服はベルトの下に入れましょうか、外に出しますか」
って絶対やったと思う。
 まず防災服に着替えようなんていうのは、そういうレベルの話なんですよ。
 これから劇場型のパフォーマンスをやるための舞台衣装なんですね、彼らにとっては。





つづく

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posted by マネージャー at 00:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月21日

書評 山登りはじめました

山登りはじめました
山登りはじめました2

みなさんに、ぜひ読んでいただきたい本がこれ!
山ガールの『バイブル』的な本です。



山好きな人も、山が嫌いな人にも呼んで欲しい本です。
これを読むと、勇気が湧いてきます。
著者の鈴木ともこさんは、運動が大の苦手。

201107190.jpg

最初は、高尾山さえ、おっかなびっくり登るレベル。
しかも、リフト使っているし。
そんな著者が、少しづつ山にとりつかれていきます。

201107191.jpg

へたうまな漫画なんですが、実に読みやすい。
そのへんの登山ガイドなんかより、よほど読みやすい!

で、山屋さん(登山家)に対する一般人のもつイメージを分かりやすく教えてくれる。
たとえば、こんなシーン!

201107192.jpg

笑っちゃいました!

そうか、一般人さんたちは、
私たち登山家を、
こういうイメージでみているのか!



べ、勉強になるなあ......orz(冷や汗)



つづく

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posted by マネージャー at 03:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

書評 山登りはじめました2

書評 山登りはじめました2

この本は、山登りはじめました(鈴木ともこ)の続編です。
実は、この本の最初のページに芳ヶ平湿原の紹介があります!




注文した本がとどいて、
ページをめくったしき
わーーーーーーーーーー芳ヶ平湿原だ!
って、喜びましたね!


7-17-F-17.jpg


で、読んでいくと、芳ヶ平ヒュッテのことが書いてある!


7-17-F-18.jpg


そうか、そういう風になっているのか!
芳ヶ平ヒュッテは、毎回、通り過ぎるだけだったんだけれど、
今度、ケーキを食べに行こうかなと思っている!


7-17-F-20.jpg


それは、ともかく、この続編も面白いので、
興味のある方は、ぜひとも読んでいただきたい。
山屋の私がお薦めする良書です!


つづく

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posted by マネージャー at 03:21| Comment(3) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月15日

殿様の通信簿

うちの嫁さんは、イケメン俳優好き。
歴史嫌いの、うちの嫁さんが、珍しく「忠臣蔵」は好きだったことが判明しました。
イケメン俳優が大挙してでていた「忠臣蔵」をみたらしい。
で、こんな事を言ってきた。

「浅野内匠頭って、親父ギャグに切れたんだよね?」
「はあ?」
「おまえのは、武士道ではなく、鰹節ドーだと言われて頭に来て切りつけたんでしょ?」
「えええええええええええええええ?」
「ドラマでやってたんだけれど」

 そんな話は聞いたことがない。
 しかし、それで会話を切ってしましては、歴史ファンの名折れなので、こう切り返しました。

「志村けんのギャグで、バカ殿シリーズってあるよね」
「うん」
「あれ、モデルがいるんだよ」
「本当?」
「誰をあろう浅野内匠」

 すると、今度は嫁さんが

「ええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ?」
「いや、本当さ」
「ドラマじゃイケメン俳優が・・・・・」
「ところが実際は、志村けんのバカ殿シリーズそのもの」
「うそでしょ? 証拠あるわけ?」
「あるある、おおあり! しっかり証拠が残っているし、歴史の本にも分かりやすく書いてある。たとえば、この本を読んでみな」




 浅野内匠頭は、無類の女好き。美女を差し出す人間を重用し、政務を放り出して、夜昼となく酒色にふけっていた。そのうえ政治は家臣に丸投。藩政は大石内蔵助がおこなっていた。だとしたら、あのリーダーシップもあたりまえ。しかし、この大石も評判は悪く「土芥寇讎記」によれば、大石らは女色にふける主君をいさめない不忠者とされています。

 さらに浅野内匠頭の評判記では、内匠頭が下女に非道のことをしたので、いずれ改易になるだろうと噂されていることが書かれている。松の廊下以前にも内匠頭は何回も暴力事件を起こしていた問題児だった可能性もあるのではないかとも言われている。さらに内匠頭の母の弟は、松の廊下に先立つこと21年前に、芝増上寺での将軍家綱の法事で、同役を刺殺している。よーするにバカの一族ということ。

「ほら、完全無欠な志村けんのバカ殿シリーズそのものでしょ?」
「うーむ、これを知ってたら忠臣蔵に感動はしなかった」
「でしょ?」
「家臣こそ、いい迷惑だわ」
「いや、その家臣だって、たかだか四千石の旗本。つまり家来もいない小さな家に、四十七人で乗り込んで惨殺したわけだから、弱いものいじめもいいところでしょう」
「うーん」

 嫁さん、ちょっとショックをうけていたらしい。
 イケメン俳優に騙された報いを受けたようで、ちょっと溜飲がさがった。


つづく。

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ラベル:殿様の通信簿
posted by マネージャー at 10:11| Comment(5) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月16日

逆説の日本史 水戸黄門って、悪者?

うちの嫁さんは、歴史嫌い。
なのに水戸黄門は、見ていたらしい。

「そうそう、テレビの水戸黄門シリーズは終わるんだってね」
「本当? そりゃ残念」
「あれ、面白かったからね」
「忠臣蔵の浅野内匠頭と違って、水戸黄門は正真正銘の正義の味方だしね」

 これだから素人は困る。
 と、言って切り捨てても仕方ないので、
 歴史オタクのはしくれとして、真実を伝える気になってしまった。

「あのね、水戸黄門って、悪者なのよ」
「ええええええ? またなの?」
「いやいや、本当」
「ドラマじゃ正義の味方だよ」
「ところが実際は、江戸のホームレスを相手に、刀の試し切りをして遊んだバカ殿。いや、狂気の暗君」
「うそでしょ? 証拠あるわけ?」
「あるある、おおあり! しっかり証拠が残っているし、歴史の本にも分かりやすく書いてある。たとえば、この本を読んでみな」



「うーん、じゃ悪代官をやっつけたという話は?」
「嘘も大嘘」
「そんな。でも、火のないところに煙はたたないともいうし」
「そこが問題なんだよ。そもそも水戸黄門の時代の将軍は、誰だか知ってる?」
「さあ?」
「五代将軍綱吉。生類哀れみの令を発した犬公方」
「やっぱり、悪い将軍なんだ」
「とんでもない。五代将軍綱吉こそは、徳川家十五代将軍の中で最高の名君なんだ。ホームレスに食事をあげたり、罪人たちの人権に気をつけたり、動物虐待をやめさせたりした。能力主義で人材を活用するシステムを作ったのも綱吉。そして四百万石の直轄領を細分化して、能力ある代官を派遣したのも綱吉。つまり代官制度を作ったのは綱吉で、これ以降に直轄領の生産性は大きくはねあがることになる」
「ほう」
「ここで思い出して欲しいのが水戸黄門のドラマ。悪代官をやっつける筋書きでしょ? つまりね、あれは綱吉の子分をやっつけるということなのよ」
「ええええええええええええええええええ?」
「綱吉のせいで、ホームレスを相手に、刀の試し切りをして遊ぶことができなくなったサムライたちは、犬を相手に刀の試し切りをして遊んだりしたけれど、やがて、それもできなくなってしまった。で、腹をたてた連中がいたということ。そういう連中が、水戸黄門あたりを親分にあおいだ」
「・・・・」
「で、水戸黄門は、自国の領内で犬狩りをして虐殺し、綱吉に毛皮を届けたりした」
「将軍は怒ったでしょう?」
「いやいや、そこは、将軍の方が大人ですからね」
「結局、水戸黄門は悪者だったと?」
「うん。だけど、江戸庶民たちは、ワルの水戸黄門の方に憧れて、それが講談『水戸黄門漫遊記』になって後世に伝わったわけだ。あれは、水戸黄門を称えると言うより、綱吉を陰でバッシングする物語なんだよ。講談に出てくる悪代官は、綱吉をかさねてるんだな。だって代官制度を造ったのが綱吉なんだから。かわいそうに綱吉は、正真正銘の名君だったのに、なぜか庶民から嫌われていた。で、ワルだった水戸黄門の方が庶民から人気があったのよ」


つづく。

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ラベル:逆説の日本史
posted by マネージャー at 21:30| Comment(17) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする