2009年08月22日

あずまや温泉

菅平にある、あずまや温泉!
露天風呂は
標高1500メートルの展望台



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日本百名山の一つ四阿山の中腹1500メートルにあります。
露天風呂の周囲には景色を遮る囲いがなく、
天気さえよければ左手の浅間山から北アルプスまでの
大パノラマが一望できます。

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冬季にはリンゴ風呂となるため、このリンゴ目当てに
カモシカやキツネが人間が入浴中の時にやってくるとか!

一度冬に入ってみたいですね。

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あずまや高原ホテル(あずまやこうげん)
〒386-22小県郡真田町十の原1278 
TEL(0268)74ー3300

風呂 内湯3(男1・女2)、露天4(男2・女2)
泉質 弱アルカリ性単純泉
効能 神経痛、リューマチ、筋肉痛、冷え性、肩こり
入浴のみ 11:00〜16:00
入浴料 1000円

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これが内湯。

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露天風呂。

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つづく。

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2009年08月28日

千古の滝

真田十勇士の一人、霧隠れ才蔵が修行したと言われている滝が
千古の滝です。

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真田は、シルマンウォークで歩きたい場所です。
次のシルマンウォークの候補地にあげてもいいですね。
その場合は、上田駅で集合か?
それはともかく、この千古の滝は、
江戸時代に温泉だったらしい。

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富士見の風呂として、おおぜい入りに来たらしい。

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で、この近くにあるのが千古温泉。
ひなびた秘湯です。

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ちなみに川底は、1枚の岩盤であるために
あまり石ころがみあたりません。
石樋のような川になっています。

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つづく。

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posted by マネージャー at 14:31| Comment(2) | 真田 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

千古温泉

秘湯です。あれ、こんなところにあるの?
という町外れ。
田んぼの中に看板があって、施設はみあたらない。

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で、川におりてみると、川縁にひっそりとあります。

長野県上田市真田町長6395-1
TEL 0268-72-2253 駐車場 25台
定休日 毎月20日(土日祝の場合は翌日) 宿泊施設 あり
料金 大人=500円、小人=250円 営業時間 10:00〜20:00 <

単純硫黄温泉、源泉温度24.4℃
効能 消化器病(胃腸病)、皮膚病、神経痛、糖尿病、婦人病

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遠くに千古の滝が見えます。

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川底は岩盤。

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つづく。

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2009年08月29日

真田の郷、角間渓谷

昔から鬼が住むといわれた秘境。
角間渓谷を紹介。
シルマンウォークの候補地にしてもいいですね。

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ここは、猿飛佐助が修業した場所ともいわれており、
忍者の秘密基地だったらしい。

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すごい階段を上っていくと

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こんな社があります。
岩谷観音です。

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 角間渓谷には長さ20メートルに及ぶ天狗の欄干橋をはじめ鬼が城、男石、百間長屋、猿飛岩、鬼の門、獅子の牢、鞍外しの岩等、奇岩怪石が多いところです。昭和61年には森林浴の森日本百選に選ばれました。

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つづく。

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posted by マネージャー at 16:17| Comment(0) | 真田 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

真田本城

真田本城

ここに来ると難攻不落のすごさがわかります。

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真田軍団こそは、戦国最強の軍団でした。それが証拠に
武田信玄の部隊の中でも、最も強く、
上杉の領土を次々と侵したのが真田軍団だったからです。
この真田軍団をもったから武田信玄は
強かったと言われているくらいです。

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しかし、真田軍団が有名になったのは、第一次上田合戦で、二千の兵力で徳川軍七千を破ったことでした。家康は、この真田軍の強さに驚いて的にしたくないので政略結婚をしかけます。

次に驚かせたのは関ヶ原の戦いです。上田城で徳川秀忠率いる3万の軍勢をわずか二千で迎え撃ち、秀忠軍が関ヶ原の戦いに間にあわなかった原因を作りました。

そして大阪城の攻防戦で大活躍。淀殿がいなければ、豊臣軍が勝ったかもしれないとも言われ、島津軍が「真田こそ最強」と絶賛したとも言われています。その真田氏発祥の地が、ここだと言われています。

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このような山城にもかかわらず、水源があり、
守りやすい城を造ったところが真田氏のすごいところです。

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そして真田氏のすごいところは、親から孫兄弟まで、一族全員が優秀であったことですね。そして、その真田の末裔は、嬬恋村にしっかり根付いており、嬬恋村を支配する人々も、先祖をたどれば真田氏だったりします。選挙になれば、村長は必ず、嬬恋村西部(旧真田)出身者でないと当選しないと言われているくらいです。嬬恋村東部(北軽井沢方面)は、絶対に勝てないとも言われているくらいです。

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これは、買い物にしても同じで、嬬恋村西部(旧真田)は、上田に買い出しに行き、嬬恋村東部(北軽井沢方面)の住人は、軽井沢に買い出しに行きます。婚姻に関しても、嬬恋村西部(旧真田)の人が、県を越えて真田に嫁に行ったりする例が、みられるそうです。まあ、このあたりの事情は、よそ者である私(新潟県出身)には、ちょっと分かりにくい部分があるので、今後も調査を続けていきたいと思っています。

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つづく。

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2010年09月13日

シルマンウオーク 真田本城

シルマンウオーク 真田本城

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 真田本城は、戦国期に活躍する真田一族発祥の地である真田の郷にあります。真田の城作りは、特徴があります。水源のある小山に、稜線ごとに、いくつもの要塞をきずくやりかたです。で、分不相応に大きいのです。

 これは、真田軍団の戦法に原因があります。
 真田軍団の戦法は、機動防御なんです。
 つまり土地(城)に執着しない。

 有利な位置で戦って、自分は怪我することなく相手に大傷ををおわせ、さっさと撤退する方法です。だから分不相応に大きく、数も多い。そのかわりに豪華な石垣や立派な館が無いのが特徴です。この本城も、そういうタイプの城で、ふだんは少数の人しかいないのが普通で、平時は麓にある真田氏館にみんな住んでいました。と書くと武田信玄のスタイルを思い出しますが、まさにそのとおり。これは武田信玄を真似したのではなく、武田信玄が真田を真似したのですね。

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眼下が真田の平野。
この平野をはさんで、向こうの山にも城があります。
このへんは城だらけです。
城で平野をかこっている感じです。

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この多くの城で機動防御を行うのが真田軍団の得意な戦法です。

ここで機動防御について解説しておきます。

 機動防御とは、陣地の死守を行わない防御です。敵に攻めさせて撤退をし、ある程度出血させつつ退却していく防御方式です。第二次大戦中のドイツ軍の指揮官ロンメル将軍や、マインシュタイン将軍が得意とした戦法で、自分より強力な連合国軍を何度も破っています。

 真田軍団が、こういった機動防御を得意とした理由は、上杉謙信の軍団と何度も戦ったためでしょう。無敵武田軍団も、上杉謙信の軍団と正面から戦ったら負けます。だから機動防御するしかなかったのですね。逆に上杉謙信の軍団は、何度も武田軍団を破りながらも結果として、かれら武田軍団(=真田軍団)の侵攻を止めることができなかった。

 これは、越後勢が雪で動けないときに、さかんに侵略し、雪が溶けて上杉軍団が救援にやってきたときに機動防御する。そのようにしてジワジワと領土拡大を行ったのです。「人は城、人は石垣」という言葉は、機動防御の発想なんですね。

 これを極限まですすめたのが織田信長。わざと攻めやすい平城を作って相手を誘い込み平地での決戦を行う。武田軍団が西進したときにも、適当に戦って撤退しようとした。まさ機動防御を行おうとしたのですが、徳川家康がウンとは言わなかった。で、徳川家康が三方原の戦いを行って敗退するわけです。

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つづく

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2010年09月14日

山家神社 シルマンウォーク


 山家神社(やまがじんじゃ)は、真田の本拠地の中心にあります。
 この近くから嬬恋村に通じる2つの古道の交差点でもあるからです。

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 その古道とは、1つは四阿山鳥居峠に通じる道であり、そもそも四阿山は、山家神社の御神体でもありました。日本武尊も、ここを通ったと言われています。養老年間(717-724)に修験者「浄定」が加賀白山より勧請合祀し四阿山に山家神社の奥宮を建立したそうです。 この神社は、いまでこそ神社ですが、もともとは四阿山修験道の聖地でもありました。明治政府の神仏分離令によって修験道は弾圧されたために、山家神社は、神社となり、修験者はなりをひそめたと言います。

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 もうひとつの古道は、角間産と湯の丸山の間にある角間峠を通って嬬恋村に抜けるルートです。かっては、登山道として地図に記載されたルートでもありますが、現在は崖崩れのために通行止めとなっています。この角間ルートは、多くの忍者たちの修行の地でもあり、猿飛佐助も、この地で修行したといわれていますが、本当のところどうなんでしょう? 


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 山家神社には四阿山奥宮社殿の扉が残されています。
 そこには「大檀那幸綱並信綱」「永禄五年」(1562)の文字があります。
 初代真田幸綱と二代信綱が奥宮社殿を修復ているのです。

 つまり、この神社こそが真田の本拠地であったわけで、彼らは修験者の大親分であった可能性が高いのですね。で、嬬恋村の草分衆(開拓者)たちが真田系の修験者であったことを考えると、真田軍団は古くから山伏の大ネットワークを築いており、それらが忍者として活躍していた可能性があります。四阿山は、上州・信濃で深く信仰された修験のメッカにもなっていて山家神社はその里宮でありました。


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つづく

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タグ:山家神社
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長谷寺(ちょうこくじ) シルマンウォーク

 長谷寺(ちょうこくじ)は、天文16年(1547)、真田幸隆が上州安中の長源寺から伝為晃運和尚を招き創建されました。場所は、山家神社から山に入ったところにあります。やはり山家神社一帯は、真田の本家のようですね。ここには、真田幸隆・真田昌幸の墓があります。


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 ここで、真田の系図について説明します。もともと真田氏は海野氏でした。海野氏の分家が、今の角間渓谷・角間温泉のあたりに土着したのが真田一族のご先祖様です。角間渓谷を西に行くと、山家神社で四阿山修験道の総本山です。東に行くと嬬恋村(角間山と湯の丸山)の鹿沢温泉です。

 で、角間温泉・角間渓谷に行ったことがある人は、わかると思いますが、すごく怪しいところです。まさに忍者と修験者の地というかんじなんです。いつか、ブログで紹介しますね。

 ちなみに真田氏は、もともと海野氏の分家なので、最初は海野を名乗っていました。ところが、武田信玄の父である、武田信虎によって天文10年(1541年)に滅ぼされてしまい、海野一族は嬬恋村の親戚のところに逃げます。その時に真田姓に変更し、真田幸隆となっているのです。この真田幸隆は、その後、父を追放した武田信玄の部下になり、信玄の部下として大活躍し、故郷を制圧して、その領土をもらいます。そして、長谷寺を創建して墓をつくるわけです。

 では、この真田幸隆が、武田軍団の中で、どれほどの活躍をしたかといいますと、おそらくナンバーワンの活躍だったようです。というのも、武田信玄が唯一、敵わなかった村上義清を滅ぼせたのは、真田幸隆の力が、あったからです。世間では、武田信玄といえば、上杉謙信をライバルに思う人が多いですが、武田信玄は上杉謙信に負けていません。互角の勝負を繰り返しています。

 ところが、その武田信玄が唯一、勝てなかった相手があります。村上義清です。村上義清こそは、最強軍団であり、武田信玄は何度も死にそうな目にあわされています。そして影武者が次々と犠牲になっていた。武田信玄の戦績は49勝2敗20分けとされていますが、このうちの2敗は、村上義清がつけたものです。しかも壊滅状態になるまでコテンパンにやられている。

 ところが、この村上義清を、アッという間にやっつけた男が真田幸隆です。真田幸隆は、戦いでは勝てないとみて謀略で村上勢の武将切り崩し、幸隆の謀略によって砥石城を奪いかえしました。そして最強軍団であった村上勢の武将たちが、真田の家臣となり、最強真田軍団ができてくるのです。


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石門の上部には六文銭。
このアーチは創建当時のもの。

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 長谷寺は寛保2年(1742)には土石流により土砂に埋まり、宝暦7年(1757)に火災、明治23年(1890)にも火災にあい、現在の本堂は昭和53年(1978)に再建されたものです。 場所は、上田市真田町長4646


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これが、真田幸隆・真田昌幸親子の墓です。
真田昌幸は、徳川軍を2回破った男です。
2回目は、関ヶ原の戦いの時で、3万8000の最強徳川軍を、
たった2000の兵で上田城で足止めした男です。


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2010年09月15日

十割手打そば処「福田」

十割手打そば処「福田」
: 0268-72-4422
E-mail : soba_fukuda@yahoo.co.jp  
URL : http://soba-fukuda.com/
営業時間午前11時〜午後7時 定休日毎週金曜日
〒386-2201 長野県上田市真田町長4197-1


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ここは、つなぎをつかわず そば粉と水だけで打った十割そばの店です。

いわゆる蕎麦通は、8割蕎麦が美味しいと言います。
ラーメンのようにこしがあるからです。
しかし、私は十割が好きなので、
蕎麦通たちとは、口論が絶えません。
ま、好みの問題でしょうね。
子供の頃から十割を食べてきた人間にとっては、十割がいいし、
二八を食べてきた人間にとっては、八割がいい。


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ところで、信州蕎麦ですが、
圧倒的に八割蕎麦が多い。
十割は皆無にちかい。
その中で、こういう店があるのは珍しいですね。

ちなみに北軽井沢ブルーベリーYGHでも蕎麦を出すことがあります。
乾麺のものを出す場合もあるし、
国産蕎麦粉をつかった生麺をだすこともある。
で、前者が十割で、後者が八割です。
美味しいのは、生麺の方ですが、
国産十割の生麺は高くて手が出せない。
で、蕎麦打ちセットを買ってきたのですが、
御客様に出せるようになるまでは、あと数年の修行が必要なようです。

今は蕎麦がきで手一杯。



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posted by マネージャー at 09:23| Comment(5) | 真田 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

真田氏歴史館

真田氏歴史館

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 真田氏歴史館は、真田氏館跡にあります。真田氏館跡は、真田氏の上田城築城以前の居館といわれ、地元では「御屋敷」と呼んで親しまれています。中世豪族の居館の形態が、ほぼ完全な形で保存されており、真田氏一族の貴重な遺跡として昭和42年(1967)に長野券史跡の指定を受けていますが、ツツジの名所として知られています。

 と、書くと、歴史好きの方ならピンとくると思います。武田信玄の館も「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)」と言うんです。で、真田氏館とそっくりなんです。もちろん両方とも平城。簡単に落とされそうな城なのですが、その館を囲むように四方に山城がある。

 と、書くと本能寺で織田信長が不意打ちに殺されたように、真田氏も、大丈夫だったのか?と思いたくなりますが、おそらく大丈夫だったのでしょう。というのも真田氏は、山伏の大親分であった可能性が高いからです。四方に山伏の情報ネットワークがあり、敵が攻めてきたらすぐに法螺貝などで知らせることができた。また、あちこちに狼煙台があって情報伝達を行っていました。嬬恋村にも、桟敷山に狼煙台があったそうです。これによって敵が攻めてきたらすぐに山城に移動して、機動防御を行いました。

 機動防御とは、敵を出血させながら巧みに撤退しつつ
 敵が疲れてきたときに反撃する方法です。
 真田軍団は、いつもこの手で勝っています。

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真田氏歴史館

 武田二十四将として活躍した真田幸隆をはじめとする真田一族の歴史を古文書や武具等の豊富な資料で紹介しています。館内の展示は、年代に沿って配置されており、観覧していくうちに真田氏の活躍の様子をわかりやすく理解することができます。

http://www.city.ueda.nagano.jp/hp/sys/20091103000001128.html
http://www.city.ueda.nagano.jp/hp/sys/20090914111737918.html

【開館時間】 9:00〜16:00
【休館日】 火曜日
【料金】 一般200円(160円)・小中高100円(80円)
※カッコ内は25名以上の団体料金
【問合せ先】 TEL:0268-72-4344

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真田氏館(御屋敷公園)

真田氏館(御屋敷公園)

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 天文十(1541)年、武田信虎(信玄の父親)、諏訪頼重、村上義清は連合して海野平に侵攻し、海野氏を攻めました。そして敗れた海野氏と真田幸隆は、嬬恋村の羽尾幸全を頼りました。そして真田幸隆は、武田信虎を追い出して甲斐国主となった武田晴信(信玄)に仕官します。

 真田幸隆は、武田家の家臣となるわけですが、
 その武田軍団も村上義清に全く敵わなかった。
 負けまくった。
 村上義清は、ものすごく強かった。
 武田軍は、ボロ負けしてしまった。

 そこに現れるのが真田幸隆です。武田軍が全く歯が立たなかった戸石城を、なんと独力で城を乗っ取り、村上義清を真田の地から追い出したのです。といっても戦って勝ったのではありません。謀略で追い出したのです。おそらく山伏のネットワークを使ったと思われます。別の言葉で言えば、忍者を使ったわけですね。

 真田氏館はこの頃から、幸隆が没する天正二(1574)年までの間に、平素の居館として構築されたと推定されます。あえて小さい平城にしたのは、山伏や忍者の出入りが簡単になるためかもしれません。真田一族は、武力よりも情報を重視していましたから。

 ちなみに、この時代の山伏は、医者でもあります。
 いろんな所に出入りできる身分であることも、
 情報を得やすい立場でもありました。

 幸隆の死後は信綱が跡を嗣ぎましたが、天正三(1575)年、長篠・設楽ヶ原の合戦で信綱・昌輝兄弟は織田信長・徳川家康連合軍に破れ、幸隆の三男(真田昌幸)が真田家を相続しました。天正十(1582)年三月に武田氏が滅亡し、昌幸は織田(滝川一益)、北条氏政、上杉景勝、徳川家康と四回主人を代えました。


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 天正十一(1583)年に真田昌幸が上田城を築城開始し、天正十三(1585)年に移りました。真田氏館は廃されましたが、現在敷地に建つ皇大神宮は、昌幸が居を移すにあたり、旧館敷地の荒廃を防ぐために勧進したものだと伝えられます。しかし、これは表向きでしょう。本当は・・・・・?


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2010年09月16日

信綱寺(しんこうじ) シルマンウォーク

信綱寺(しんこうじ) シルマンウォーク

 真田幸隆の長男、真田信綱の墓があります。信綱の首は、家臣の白河兄弟の手によって真田に持ち帰られ、信綱寺に葬られました。今回は、墓には行ってませんが、この境内の裏山に墓はあります。

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 真田信綱は、武田信玄・武田勝頼の二代に仕え、『甲陽軍鑑』によれば永禄四年(一五六一年)の第四次川中島の戦いでは父・幸隆とともに妻女山攻撃の別働隊に加わっていたといいます。永禄六年(一五六三年)の岩櫃城攻略の前後から、幸隆は上野国吾妻郡での活動が主となっており、信濃の本願地は後継者である信綱が事実上支配していたと思われます。

 戦場では父・幸隆や弟の真田昌輝らとともに行動しており、幸隆とともに信濃国や上野国を転戦し、永禄十一年(一五六八年)には昌輝と兄弟で駿河国攻めの先鋒を担い、永禄十二年(一五六九年)の三増峠の戦いでは昌輝や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げています。その後も主要な戦いには必ず名を連ね、主に先鋒として活躍しています。

 どうして先鋒なのか?
 最強軍団であったからという理由もありですが、
 謀略と情報収集能力を買われてのことだと思います。


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 天正二年(一五七四年)に幸隆が死去すると正式に真田家の家督を継ぎますが、一年後の天正三年五月二十一日(一五七五年七月九日)の長篠の戦いで弟の昌輝とともに戦死。享年三十九。信綱を討ったのは徳川方の渡辺政綱だといいますが、信綱の首は着用していた陣羽織に包まれて、家臣の白河兄弟が甲斐に持ち帰ったといい、この「血染めの陣羽織」は、上田市の信綱寺に収蔵されています。

 なお、信綱寺は、信綱の弟・昌幸が、位牌所として建立した寺で、この南には古城と呼ばれる尾根があります。ここは中世に真田氏が居館を構えていたと言われる由緒のある地です。


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あと、もう一つ残念なことがあります。
この寺には、暑さに負けて車で行ってしまったことです。
本来なら真田市街から古城跡の黒門を越えて寺に行った方が良かったのですね。

そうすると、この信綱寺が単なる寺でないことが分かるからです。
つまり城塞に建てられた寺であることがよくわかります。
イザとなったら城に早変わりするようになっているのです。
機動防御の拠点に使えるのです。

そして、黒門から寺に向かう参道に、ものすごい数のアジサイがあります。
6月から7月にかけて見事なアジサイが見られます。
そして次々と色を変えるアジサイこそは、真田軍団の本質をあらわしています。


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長野県上田市真田町長8100
TEL 0268-72-2204(上田市真田地域自治センター 産業観光課)
料金 境内自由


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2010年11月26日

十割手打そば処「福田」

十割手打そば処「福田」
やっぱり行きましたか!
よほどのお気に入りですね!

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十割手打そば処「福田」
: 0268-72-4422
E-mail : soba_fukuda@yahoo.co.jp  URL : http://soba-fukuda.com/
営業時間午前11時〜午後7時 定休日毎週金曜日
〒386-2201 長野県上田市真田町長4197-1

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ここは、つなぎをつかわず そば粉と水だけで打った十割そばの店です。
28の多い信州では珍しいですね。

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2011年05月31日

シャクナゲが美しい四阿温泉ツアー

シャクナゲが美しい四阿温泉ツアー

嬬恋村も当たりでしたけれど、
菅平のシャクナゲも大当たり!

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台風の中、来てくれた御客さん
感謝!

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最後は、けんちゃんラーメン!

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つづく

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タグ:四阿温泉
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2012年09月17日

砥石城ハイキング

砥石城ハイキング

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ここは、アニメ「サマーウォーズ」の舞台になったところです。
この城をみると、真田軍団の強さの秘訣を知ることが出来ます。

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まず、どれが主要塞なのかわからない。
北の枡形城、南西の米山城、南の砥石城。
危機におちいったら戦線を移動できるようになっています。
敵に打撃を与えながら後退し、こちらは兵力を温存する方法です。
この戦法は、真田一族の得意技で、第二次世界大戦で栗林中将が、硫黄島でも行っています。
そのさい、アメリカ軍は、建国以来最大の被害をうけました。

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硫黄島では、米軍の死傷者が、日本軍の死傷者を上まったことで有名ですが、それは兵士にかぎったものであって艦船の被害を含めると、実際の被害はもっと大きく開きます。また、日本軍の被害も、微々たるものであり、死傷者の大半は、軍医による薬殺であったことが、捕虜の軍医の証言によってあきらかにされています。つまり、米軍の砲弾で死んだ日本兵は、驚くほど少なかったわけですが、もし、日本軍に充分な食糧と砲弾の備蓄があれば、米軍はもっと苦戦したことはまちがいないと思われます。これも真田軍団の得意とした機動防御を硫黄島戦で応用した結果とも言えます。

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ちなみに機動防御の天才が、ドイツ軍の天才マインシュタインですが、彼の戦法は、まさに真田軍団の戦法ににています。敵に攻めさせて、つかれた所を叩くのが機動防御。この機動防御によって、強兵徳川軍を二度も大敗させたわけですから、真田の城の構造は、非常に面白い構造になっています。

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ふつう、城には武器・食糧が備蓄されていて、そこに籠城するのですが、真田軍は簡単に城を捨てます。捨てても北の枡形城、南西の米山城、南の砥石城と陣地を変えられるし、そもそも城にこだわっていません武器食糧にこだわらずに、身軽に移動します。あまり長期戦を想定してないと思われます。城も、ぬけ道がたくさんあって、いろんなところに出られるようになっています。

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2012年09月18日

十割そば 福田

十割そば 福田

旧真田町にきたら『福田』ですよね。
地元民が、いきつけにしている蕎麦屋です。
今回のツアーのお昼御飯は、ここでした。

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十割手打そば処「福田」
: 0268-72-4422
E-mail : soba_fukuda@yahoo.co.jp
http://soba-fukuda.com/
営業時間午前11時〜午後4時(土日祭日は午後7時) 定休日毎週金曜日
〒386-2201 長野県上田市真田町長4197-1
9月の休み7日 14日 21日 28日
10月の休み 5日 12日 19日 26日



つづく。

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2013年05月08日

砥石城散策

アニメサマーウォーズの舞台となった砥石城を散策。
ここは、真田軍団発祥の地であり、
その強さを探るための城です。

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真田軍団の強さとは、一言で言うと機動防御。
撤退しながら相手に出血をしいて、
最後にトドメを刺す戦術です。

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旧ドイツ軍のマインシュタインなどが得意とした戦法で、どんどん撤退していって相手が弱ってきた所をたたく方法です。だから、砥石城も、いくつかの城とつながっていて、各城が連携されていて、どんどん撤退できるようになっている。

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アニメ・サマーウォーズでは、この機動防御が全くふれられていませんが、これでは真田軍団の強さはわかりません。世間では、真田軍団は、巧妙な作戦で勝ったように思われがちですが、それは違います。真田程度が考えた戦術ならたいしたものではない。問題は、それを実行する早さなのですよ。つまり機動防御とは、早さが命なのです。速度が倍になれば、軍隊も倍になったのと同じ。これが機動防御の本質です。

攻める側と守る側。
早く動けるのは、地理を知り尽くしている守備側。
これを利用して、相手に出血をしいるのが機動防御。

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2013年05月11日

砥石城散策2

砥石城散策2

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機動防御について、つづきです。

警察の『機動隊』という名前を聞きますね。
旧日本海軍にも『機動部隊』というものがありました。
両方とも『機動』という名前が付きますけれど、機動というのは、動くという意味なんです。

つまり、警察の機動隊は、動く警察。
何かあったら、部署や管轄を超えて動き回る部隊です。
しかも、ものすごい数が、1点に集中する。
そして、用が済んだら、さっさと別の所に移動する。
これが機動隊。

旧日本海軍の機動部隊も同じで、とにかく動き回る部隊。航空母艦を集中し、高速戦艦を護衛につけた部隊。航空母艦+高速戦艦のセットが機動部隊。航空母艦の弱点は、高速な巡洋艦。これを撃退できる高速戦艦を護衛につけることによって太平洋を自由に動き回れる艦隊ができて、日本海軍は大暴れしました。

で、機動防御ですが、これは動く防御です。
真田軍団は、動きながら防御する天才でした。
その理由は、彼らの大半が山伏であったことと関係があります。
真田氏の宗教は、四阿山を信仰する修験者たちでありました。

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ここ伊勢山地区は、アニメサマーウォーズの舞台。
実は、このアニメ、公開の時に上田の映画館で見ました。
で、残念ながら地元民は、あまり見に来てなかった。

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2014年11月27日

真田軍団発祥の地 砥石城

真田の戦術は、機動防御にある。
この砥石城は、その戦術のうえにつくられている。
山の稜線を延々と城が続いている。

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機動防御とは、土地や城にこだわらずにドンドン撤退して戦う戦法である。第二次大戦中のドイツ軍が得意とした戦法で、ドイツ軍は、しばしばソ連軍を機動防御で破った。にもかかわらず、最終的にドイツが負けたのは、ヒトラーが撤退を認めなくなってしまい、得意の機動防御が使えなくなったからである。天才将軍マインシュタインは、ドイツを負かしたのはソ連軍では無くヒトラーであると言っている。

機動防御の本質は、土地の取り合いでは無く、敵を痛めつけることにある。
だから、どんどん撤退して敵の犠牲を大きくする。
で、味方は無傷のまま撤退する。
これをつづけて敵の戦意を失わせるのが目的なのだ。
第一次真田合戦も、第二次真田合戦も、その戦術で徳川軍を敗退させている。

砥石城は、その機動防御にそってつくられている。
いかにも真田の城らしい。

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ちなみに戦国時代、敵が攻めてきたら農民は、どうしたか?
山に逃げている。
立て篭もる山城ではない山に逃げている。
もちろん、食料もそこにかくしている。
つまり、山城は、いくつもあったのである。

あと、山以外にも逃げている。
寺社である。
寺社は、戦国武将にとって治外法権の場所だった。
つまり寺社領の山に逃げれば生き延びられた。
そこから山伏となって、全国に散っていくのが真田軍団たちである。
突然、人間が消えてしまうのだ。
これでは敵方は、真田を制圧できない。

真田だけではない。
そういう領主は全国どこにでも居た。
だから天下統一なんか誰も出来ないと思っていた。
ところが、織田信長は、伊賀攻めで、治外法権の寺社まで殲滅を行った。
こんなことをしたのは、後にも先にも信長しかいない。

つまり地方領主を制圧して天下統一するには、信長のような人間にしか出来ない技であった。
では、なぜ徳川は、真田を一度も敗れなかったのか?
機会があったら、この続きを書く。

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つづく。

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