2010年07月14日

北軽井沢ブルーベリーYGH10周年 3

北軽井沢ブルーベリーYGH10周年 3

 北軽井沢ブルーベリーYGHは、最初ペンションでした。中古ペンションを買い取ったからペンションからスタートしたのです。大勢の友人が融資をしてくれ、たちまち二千万が集まりました。


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 しかし、金を借りても返せなかったら意味がありません。いろいろと試算してみた結果、買ったばかりの中古ペンションを賃貸にだすと年間360万の家賃が入り、夫婦で一生懸命働いて毎月30万円の貯金をすると、さらに360万くらいの貯金がたまり、1年間で合計700万円の返済ができる。これなら3年くらいで全額返済できることがわかりました。これならノーリスクです。私は、サラリーマンをしながら、余裕で3年以内に借金を全額返済し、無借金経営からペンションをスタートさせることができるからです。これで一件落着のはずでした。

 ところが、意外なところに伏兵があらわれました。

 百万ほど金を貸してくれた友人の一人が、
「俺にペンション経営をさせてくれ」
というのです。

 正直言って悩みました。友人に経営をまかせたら、家賃収入はゼロになるし、へたしたら赤字になるかもしれません。つまりリスクができる。私は悩みましたね。なにせ友人から金を借りている。返せなくなって友人を失いたくない。かといって、「俺にペンション経営をさせてくれ」と言ってくる友人のたのみを断るのは辛い。

 情をとればリスクができる。
 リスクを避ければ、友人のたのみを切り捨てることになる。

 もし私が、立派な経営者なら友人のたのみは断っていたはずです。しかし当時の私は、どこか甘ちゃんなところがあり、結局、情に流されてしまい、友人に経営をまかせることになってしまった。しかし、予想どうり経営は失敗してしまいました。年間二百万もの広告費をだして、そこそこ集客したのは、良かったのですが、リピーターがゼロでした。価格は安くしたし、詰め込みもやってません。しかし、どういうわけかリピートする人はいなかった。これでは赤字になります。

 当時私は、ガラス清掃の仕事をしており、午前中で仕事が終わっていましたから、お昼過ぎから、あちこちの旅行代理店をまわり、パンフレットを配って歩きました。これなら金がかからないので、赤字化を防げると思ったのです。しかし反応はゼロに近かった。おまけに、たまに客をおくってくれた旅行代理店の支払いに法外な手数料がかかることがわかって、ボーゼンとしてしまいました。クーポンを現金化するのに、すごい金額がかかってしまうのです。

 さらに自宅に帰ってから、チラシのポスティングまでやりましたが、これも反応無し。その後は、深夜おそくまで、作ってもらったホームページの検索エンジン登録をコツコツやっていましたが、アクセス数は一向にあがらない。


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 そのうえ悪いことは、重なるもので、「俺にペンション経営をさせてくれ」と自信満々に言ってきた友人が、あまりに御客様が来ないためにノイローゼ気味になってきました。1週間、人間と会話してないとメールに書いてくるのです。必然的に問い合わせの電話に、その影響が出てきます。で、ますます予約が減るという悪循環になるのです。

 これじゃまずいぞってんで、共通の友人を集めてアドバイスを求めました。みんな融資してくれてる人たちなので、いろいろな真剣に考えてくれ、いろいろなアイデアをだしてくれました。それを「俺にペンション経営をさせてくれ」と言ってきた友人にメーリングリストを使って、そのアドバイスを書き込んでもらったのですが、彼は淡々と
「貴重な御意見ありがとうございました」
とだけ答えるだけなので

「うん?」
「変だな?」
「何かよそよそしい返事だな」

と思い、北軽井沢に偵察にきてみたら、
彼は私の顔をみるなり吠えまくりました。

「みんな何も分かってないですよ!」
「現場のことは知らないくせに」


と怒っていました。それはもうメーリングリストの書き込みとは全く違っていました。彼は、すでに誰の忠告にも耳を貸さなくなっていたのです。つまり友人たちのアドバイス作戦は見事に失敗したわけです。こうなると

「もう何を言っても無駄だな」

と思った私は、

「こうなったら赤字になろうが何しようが自由にさせてやろう」

と決意しました。そして落ちるところまで落ちてからペンションを再生させようと考えたのです。で、私は、ガラス清掃の仕事を辞める決心をしたのです。3年間ガラス清掃で働いて返済する計画は中止し、私自身が本気になってペンション経営をすることにしたのです。

 具体的に言うと、必死になって軽井沢駅前で客の呼び込みをし集客するつもりだったし、繁盛しているペンションで修行させてもらうことも考えました。とにかく中途半端なことでは、赤字は増える一方だし、最悪の場合は、売却して友人からの借金だけでも返済をしなければならないと思ったのです。

 と言っても、ペンション経営は、友人の自由にまかせました。
 倒産しようが何しようが、とりあえず友人の好き勝手にさせ

 そのかわりに私は、会社を辞めたことを誰にも言わずに
 隠密に行動しました。

 だから、いきなり北軽井沢に乗り込んだのではありません。
 東京に潜伏し、ある作戦を実行したのです!


つづく

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2010年12月08日

馬喰一代 中山正男の故郷1

馬喰一代 中山正男の故郷1

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日本ユースホステル運動の父、中山正男の故郷を訪ねる。

 2010年11月29日から、12月3日まで、日本ユースホステル運動の父、中山正男の故郷を調査してきました。中山正男は、北海道北見国サロマ湖畔の佐呂間村に生まれました。そして、北見市の西側にある留辺蘂町に引っ越し、ここで小学校を卒業し、札幌の第二中学校に入学。そして、上京し、専修大学に入りますが、中退します。

 と、書くと何やら教養人ぽい家庭に育ったような気がしてきますが逆でした。中山正男の父、米市は無学で粗暴な馬喰であり、母親は4人もかわっていました。最初の母親は、浮気のすえ米市が追い出してしまい、2番目の母親は別の男と駆け落ちで逃げてしまい、3番目の母親は発狂して死んでしまい、4番目の母親は全盲になり死んでしまった。4人の母親は、中山正男が小学校を卒業するまでの12年間にかわっており、そして、そのうちの2人は行方不明であり、2人は死んでしまっています。

 こういう家庭環境で育った中山正男ですが、数々の事業をてがけ、多くの文学を発表し、直木賞候補にもなり、その作品の多くが映画化・テレビ化されました。なかでも最も有名なのが『馬喰一代』です。4人の母親に去られて父一人・子一人の物語。父性愛をえがいた『馬喰一代』とその映画は、日本中の人間の瞼を涙で濡らしました。


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 日本ユースホステル運動史の中心人物中山正男を語るには、この馬喰一代をぬきには語れません。というのも中山正男ほど、青少年運動に縁が遠かった人間もないからです。最悪の家庭環境に生まれ育ち、素行も行儀も悪く、ともすれば社会常識に欠ける部分もあった中山正男は、とてもじゃないが青少年を指導するという柄ではなかったはずなのです。にもかかわらず、日本ユースホステル協会を創設し、最終的に会長となって活躍するのは、映画『馬喰一代』を見て涙したものなら、小説『馬喰一代』を読んで涙したものなら、何の違和感もないでしょう。

馬喰一代は、無法松の一生と並んで、父性愛をテーマとした日本映画の最高傑作であることは、まちがいありません。チャップリンのキッドよりも、ハリウッドのクレイマークレイマーよりも、泣かせるドラマでした。


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 しかし、馬喰一代には脚色がありました。真実は、もっと悲惨であり最悪だったのです。あまりにも悲惨すぎて逆にリアリティが無いので、悲惨さをオブラートに包み、よりマイルドにしてあったのです。主人公の米市にしても、もっと粗暴でした。しかし事実を事実として書いてしまうと、かえって嘘くさくなるので、映画や小説の馬喰一代は、あえて粗暴な父親のキャラクターを抑え気味にしてありました。そういう悲惨な境遇から中山正男は、這い上がっていき、日本史を変えるほどの大活躍をするのですが、その彼が日本ユースホステル協会を設立した時には、

「はて? どうしてなのか?」

と回りの人間は訝しがりました。中山正男ほど、青少年運動と縁の薄い人間もなかったからです。現に、日本ユースホステル協会の会長になった時に、

「これじゃ銀座で飲むことも出来ない。ホステスの手を握ろうとしたらユースホステルの会員証をだしてくるんだものなあ」

と困惑したくらいです。中山正男は、決して清廉潔白な人間でなかったし、聖人君子でもなかった。むしろ人間としてはゲスな部類であり、ダジャレや猥談に熱中し、時にアッとみんなを驚かせるほどの奇矯を行いました。その彼が、日本ユースホステル協会を設立した理由は、何であったか?

 すべては『馬喰一代』にあります。
 そこに全てが書かれてあります。
 では、馬喰一代とは何であったのか?

 私は、その謎を解くために、北海道は、北見市に向かいました。
 たったの4日間の旅ですが、馬喰一代の世界をみつけるために。


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 最近、アロマテラピーという言葉を聞くことが多くなりましたが、アロマテラピーは、1920年代はじめ、つまり大正10年頃に、フランスの香料の研究者であったルネ・モーリス・ガットフォセ(1881年-1950年)が、火傷をしたときに、とっさにラベンダー精油に手を浸したところ傷の治りが目ざましく良かったことから、精油の医療方面での利用を研究し始めたことから始まったと言われています。つまりアロマテラピーじたいは、比較的最近になって提唱された療法であり、盛んになったのは戦後になってからです。


 しかし、日本では江戸時代から日本式のアロマテラピーが盛んであり、明治時代においては、北海道北見市付近において大々的に生産され、一時期は世界の70パーセントの市場を独占していたことは、以外に知られていません。


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 馬喰一代の世界を語るには、北見のアロマについて少し研究する必要があります。
 で、私が訪ねたのが北見薄荷記念館です。
 この記念館は、中山正男の正体を解明するのに重要な施設であったりします。


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つづく

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2010年12月09日

馬喰一代 中山正男の故郷2

馬喰一代 中山正男の故郷2


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 最近、アロマテラピーという言葉を聞くことが多くなりましたが、アロマテラピーは、1920年代はじめ、つまり大正10年頃に、フランスの香料の研究者であったルネ・モーリス・ガットフォセ(1881年-1950年)が、火傷をしたときに、とっさにラベンダー精油に手を浸したところ傷の治りが目ざましく良かったことから、精油の医療方面での利用を研究し始めたことから始まったと言われています。つまりアロマテラピーじたいは、比較的最近になって提唱された療法であり、盛んになったのは戦後になってからです。

 Simonsen, J. L. (1947)によれば、日本では2000年以上前からハッカとその成分(メントール)の存在が知られていたと言われています。そして江戸時代では日本式のアロマテラピーが盛んであり、明治時代においては、北海道北見市付近において大々的に生産され、一時期は世界の70パーセントの市場を独占していたことは、意外に知られていません。

 馬喰一代の世界を語るには、北見のアロマテラピーについて少し研究する必要があります。で、私が訪ねたのが北見薄荷記念館です。この記念館は、中山正男の正体を解明するのに重要な施設であったりします。ちなみに北見薄荷記念館は、ハッカ記念館とも呼ばれています。ハッカキャンディーのハッカです。かって北見では、世界のハッカの70パーセントを大量生産していました。では、ハッカとは何なんでしょうか?

 ハッカとは何か?

 分かりやすく言うと「ミント」のことを言います。シソ科ハッカ属の仲間です。このハッカが、医薬品として江戸時代から生産されていたのですが、北見で大量生産されることによって、世界中に輸出されることになりました。世界が、北見のハッカを欲していたのです。また、日本は、医薬品として、さまざまなハッカ製品を海外に輸出していました。つまり日本は世界最大のアロマ王国であったわけです。ですからフランスあたりからアロマテラピーなどが入ってきても、北見市民は、
「何をいまさら」
てなもんでした。アロマテラピーなら北海道の北見が元祖だぞと。

 論より証拠。
 それらの製品をみてみましょう。

 これはうがい薬にリップクリーム。
 見たことのあるものがたくさんありますね。

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 メンソレータムもハッカ製品でした。
 メンソレー(メントール)といった名前からしてハッカ製品であることがわかります。

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 うがい薬もハッカ製品。

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 当然のことながら仁丹もハッカ製品。

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 胃腸薬もハッカ製品。

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 各種の傷薬もハッカ製品。
 キンカンなんかは、代表的な製品です。

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 さらに目薬や湿布薬までハッカ製品。 
 サロンパスといったおなじみの製品が並んでいます。

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 というわけで、ハッカ産業は日本の最重要産業でした。
 ですから多くの人々が視察に来ています。
 昭和天皇陛下も御視察にこられています。


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 もちろん平成の天皇陛下(当時皇太子)も御視察にこられています。


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 脱線しますが、義宮(現天皇陛下の弟)様は、馬喰一代の大ファンで、映画馬喰一代のロケ地に行って撮影の様子を御覧になり、さらには、映画館にもいらっしゃいました。そして中山正男と対面し、一緒に写真まで撮っています。戦後とはいえ、皇室の方が「馬喰一代」といった下層階級の生態をえがいた映画をみたのは、ちょっとした事件であったかもしれません。


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 まあ、そんなことは、どうでも良いとして、
「なぜ北海道の北見でハッカ産業が発達したのか?」
「それも、どうして日本のハッカだったのか?」
という疑問です。

 その疑問に答えてくれたのが、北見ハッカ記念館の施設長佐藤敏秋さんです。

「そもそも、どうして北見のハッカが世界を席捲したのですか?」
「ハッカ草はまず蒸溜釜で蒸して原油を取り出します。そしてその原油を遠心分離器にかけて結晶と精油に分けます。この結晶こそ、ハッカ脳と呼ばれるものです」
「脳?」
「脳とは、一番大切なところという意味です。クスノキから樟脳をとりますよね。あれも脳です。樟脳は、血行促進作用や鎮痛作用、消炎作用などがあるために主に外用医薬品の成分として使用されています。で、クスノキで一番大切なところが樟脳。ハッカで一番たいせつなところがハッカ脳。」
「なるほど」
「ハッカ脳。つまりハッカの結晶は、日本で栽培されていた和種ハッカでないと精製できなかったのです。西洋ハッカ、つまりペパーミントでは、作れなかったのです」
「そうだったんですか!」
「だから他の国ではハッカ油は抽出できても、ハッカ脳は精製できなかったんですね。しかも日本ハッカは、ペパーミントなどより良質な製油がとれたのです。これが北見のハッカが世界中で認められた理由です」
「なるほどねえ」
「ちなみにハッカは、栽培された土地によっても香りが変わり、日本のハッカの方が甘みが強く香り、やわらかです」


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 ちなみに北見市に入植が開始されたのは、明治30年の頃です。高知県の坂本龍馬の甥である坂本直寛らを主宰者とする移民(北光社移民団)112戸が北光社農場を開設し、四国人を中心とする平民屯田兵597戸が入植したのが始まりです。中山正男の父、中山米市も伊予松山から屯田兵の息子として北見に入植しました。

 当時、北見は、野付牛と言われていました。アイヌ語のヌプンケシ(野の果て)が語源で、最高気温が35度をこえ、最低気温がマイナス30度をこえる自然環境の厳しいところでした。さらに原野には、背丈より大きい熊笹が一面を覆っていました。場所によっては、山葡萄やコクワのツルが繁殖し、そこを歩くのも容易ではなかったといいます。そして、蚊柱などの虫の大群が人々を襲いました。

 そんな大地を開墾するのは、腰囲ではりませんでした。今と違ってブルドーザーもパワーショベルもない時代です。草木を伐採し、熊笹をぬき、石ころや切株を掘り起こし、やっとの思いで作り上げた小さな畑も、たいした実りは期待できず、ちょっと油断していると強い雑草に負けてしまいました。北海道の雑草は、夏の短さを知っているためか、とってもとっても強く、後から生えてきて、作物の実りを妨害しました。

 入植者たちは、頭をかかえました。
 そんな時、夢のような話しが舞い込んできました。

「雑草を生やすだけで金になるらしい」
「雑草を? そんなバカな!」
「いや、ほんとうだってよ。なんでもハッカという雑草が金になるだと」
「ハッカ?」

 ハッカというハーブは、もともと雑草であり、どんな植物よりも強かったのです。

「手間は殆どいらないんだと。強い雑草だから。おまけに香りが強くて虫も寄りつかないらしい」
「それがなんで金になる?」
「薬に使うらしい。湿布薬とか、毒消しの材料になるらしい」
「ほう・・・・・・」

 こうして北見にハッカ栽培がはじまりました。
 そして北見市は、世界最大のハッカ栽培地になっていくのです。
 そのハッカ栽培によって登場するのが、仲買人・雑貨商・馬喰たちです。
 馬喰一代の物語は、ここからスタートします。


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つづく

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2010年12月10日

馬喰一代 中山正男の故郷3

馬喰一代 中山正男の故郷3

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 ハッカは、最強のハーブでした。
 古くは漢方薬として使われましたし、
 抗菌性が強いために防腐剤や防虫剤や芳香剤としても偉大な力を発揮しました。

 特にダニに対する効果が強く、どんなダニも殺虫しました。
 アリやゴキブリもハッカの威力で姿を消し、
 ネズミさえもよせつけません。
 だから有力な殺虫剤が存在してなかった頃は、
 それに代わるものとして世界中の人々が北見のハッカ脳(結晶)を買い求めました。


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 日本のハッカ結晶(ハッカ脳)は、世界各地に輸出されました。
 ハッカの結晶は、日本で栽培されていた和種ハッカでないと精製できませんでしたから、
 ハッカ結晶の世界市場は日本の独占状態となりました。
 特に北見地方のハッカが世界市場を制圧しつつありました。

 その理由は、北見地区が自然条件の厳しい
「日本最後の開墾地」
 であったことにあります。
 雑草が強く荒れた土地を開墾するには、非常に大きな労力が必要となります。
 麦であっても、大豆であっても、壮絶な自然との闘いが必要なのです。
 仮にやっと穀物が実ったとしても、鹿や熊たちが遠慮なしに食べにやってきます。


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 でもハッカの栽培には、そんな苦労はいりませんでした。もともと強い雑草であるために、他の雑草との戦いに負けることはないし、その実りを熊や虫たちに奪われることもありませんでした。そのうえ北見は、もともとハッカ生産の処女地であったために、他のハッカ品種との交配による害も少なく、純度の高いハッカ生産ができ、良質な製油と結晶を生産できました。

 しかし、なにより北見の人たちがハッカを栽培した最大の理由は、もっと別の所にありました。輸送の問題です。北見市は、北海道の一番遠い内陸にあります。そこから豆などの穀物を市場に輸送するには、莫大な経費がかかるのです。これでは市場競争に勝てません。

 しかし、ハッカとなれば別です。
 ハッカなら、ハッカの輸送は考えなくても良い。

 ハッカを精製し、製油や結晶に変えてしまえば、加工品は、かなり小さくなって輸送費もかからないし、付加価値も大きくなります。そういう意味で、ハッカくらい北見の産業に適したものはなかったのです。そのために最盛期には、栽培面積2万ha、取卸油収穫量千トンという膨大な数字が記録されています。そして、それらから湿布薬・筋肉痛薬・メンソレータム・ドロップ・セキ止め薬・胃腸薬・かぜ薬・目薬・かゆみ止め・育毛剤・水虫薬・虫よけ・抗菌剤・歯磨き粉・仁丹・口臭除去剤・シャンプー・化粧品・石鹸・洗剤・などが生産され世界中に輸出されました。


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 しかし、「ハッカが儲かる」と言う話しが全国に伝わると、日本中の事業家が北見に集まりました。そして商魂たくましい仲買人が暗躍し、ハッカで一旗あげようと色々な手段を講じるようになってきたのです。

 北見ハッカ記念館の施設長佐藤敏秋さんは言います。

「仲買人たちは、非常にうまく立ち回りました」
「というと?」
「カルテルを結んで、農民たちからハッカを安く買いたたこうとしました」
「でも農民もバカじゃないですよね」
「はい。しかし、仲買人は、一筋縄ではいかない連中なんですよ」
「・・・」
「例えば、Aという仲買人が、ある農家の所に買い付けに行きます。相場が45円なので45円で売ってくださいと言うのです。農家は、安すぎると言って売りません。しかし、Aという仲買人は、アッサリひきさがります」
「ほう」
「次の日、今度はBという仲買人が、その農家の所に買い付けに行きます。相場が45円から40円に下がったので、40円で売ってくださいと言うのです。農家は、安すぎると言って売りません。もちろん、Bという仲買人は、アッサリひきさがります」
「・・・」
「そして、その次の日、今度はCという仲買人が、その農家の所に買い付けに行きます。相場が40円から35円に下がったので、35円で売ってくださいと言うのです。こうなると、さすがに強気だった農家も、不安になってくる。ハッカが暴落するのではないかと、気が気でない。そこをつけ込んで『ハッカの値段が暴落していく可能性があるから早く売った方がいいよ』と忠告する。しかし、それでも農家が断ると、Cという仲買人も、アッサリひきさがります。決して無理強いしません」
「・・・」
「そして、そのまた次の日、今度はDという仲買人が、その農家の所に買い付けに行きます。相場が35円から30円に下がったので、30円で売ってくださいと言うのです。こうなると農家も、かんねんして30円で売ってしまうのです」
「それじゃ詐欺みたいなものじゃないですか」
「そうです。そのために泣いた農家が何軒もあり、儲けるところはドンドン儲けました」

 これがカルテルの本質です。
 こういう事があるから近代国家は、
 独占禁止法という法律でカルテルを禁止しているのです。

 しかし、開拓時代の北海道には、海千山千の欲の塊が跋扈しており、
 ちょっとでも油断していたら生き血を吸われるのがあたりまえでした。


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 そのへんは西部開拓時代のアメリカと似ているかもしれません。
 このへんの事情は、映画『馬喰一代』をみると、非常によくわかります。
 実によく描かれています。
 さらにハッカ記念館の施設長佐藤敏秋さんは言います。

「仲買人たちは、非常に情報を集めました。情報は金になったのです」
「どんな情報ですか?」
「農家へ挨拶まわりに行くのです。そして世間話をしてくる。で、その農家に金があるかどうかを調べるのです。金があれば、相場が上がるまでハッカを売ってくれない。しかし、金が無くなれば、相場が下落してもハッカを売ってくれる。安くハッカを手に入れるには、そのへんの情報が無いといけない」
「なんとまあ・・・・」
「それで、さまざまな手段で情報を仕入れるわけです。馬喰なんかを使って農家の情報を仕入れるわけです」

 ここで私は、本題にはいりました。

「北見市には馬喰が多かったですか?」
「多かったですねえ」
「いつ頃まで多かったのでしょうか?」
「昭和35年頃まで大勢いました」
「なぜ馬喰が多かったのでしょう?」
「昭和35年頃までは、北見市に車もトラクターも無かったんです。動力はもっぱら馬なんです。馬がなければ話にならなかった。だから大勢の馬喰がいたんです」
「では、基本的なことを聞いて良いですか?」
「どうぞ」
「馬喰って何なんですか? ものの本によれば、家畜商とあります。辞典で調べても家畜商。インターネットで検索しても家畜商と出てきますが、家畜商のことを馬喰と言うのですか? もし家畜商が馬喰のことだとすると、どうして中山正男は、みんなから蛇蝎のごとく嫌われたと書いたのでしょう? 本当に家畜商が馬喰のことを言うのでしょうか?」

 施設長佐藤敏秋さんは言いました。

「違います」

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つづく

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2010年12月11日

馬喰一代 中山正男の故郷4

馬喰一代 中山正男の故郷4

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「北見市には馬喰が多かったですか?」
「多かったですねえ」
「いつ頃まで多かったのでしょうか?」
「昭和35年頃まで大勢いました」
「なぜ馬喰が多かったのでしょう?」
「昭和35年頃までは、北見市に車もトラクターも無かったんです。動力はもっぱら馬なんです。馬がなければ話にならなかった。だから大勢の馬喰がいたんです」
「では、基本的なことを聞いて良いですか?」
「どうぞ」
「馬喰って何なんですか? ものの本によれば、家畜商とあります。辞典で調べても家畜商。インターネットで検索しても家畜商と出てきますが、家畜商のことを馬喰と言うのですか? もし家畜商が馬喰のことだとすると、どうして中山正男は、みんなから蛇蝎のごとく嫌われたと書いたのでしょう? 本当に家畜商が馬喰のことを言うのでしょうか?」
「違います」

 佐藤敏秋さんは言いました。


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「3万円の馬を買って、4万円で売る。そういう商売で、馬喰が生きていたわけではないのです」
「え?」
「それでは儲かりませんから、3万円の馬を10万円にも、20万円にもするには、別の知恵が必要でした」
「・・・・」
「3万円の馬が、10万円にならないとすると、馬喰たちは農家に『この馬は病気だ』と言って返品するわけです。そして、しばらくして馬主に、バカな飼い主を見つけたから、俺が3万円で売ってやるから、売れたら1万円よこせと、話しをもちかけます」
「はあ」
「で、馬の飼い主には、バカな売り主がいるから、10万の馬を5万円で買ってきてやるから、俺に1万円よこせと言う。そして、売り主と買い主の両方を騙して、両方から金をせしめるわけです。そのうえ裏金ももらうことにする」
「なるほどねえ」
「しかも、馬喰たちは、売買後もトラブルがあると両者の間に入って、示談役として両者から金をせしめたりもしました。そのうえ売り主と買い主から情報を仕入れて、ハッカの仲買人に情報を売ったりしました。なにせ農家と密接に繋がっているから、場合によってはハッカ商の手下になることもありえました」
「へえー」

 中山正男の『馬喰一代』には、馬喰という職業は、みんなから蛇蝎のごとく嫌われたと何度も書いてありますが、佐藤敏秋さんのお話によって、その理由が分かった気がしました。やりくちがヤクザとたいして変わらないからです。


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 しかしよく考えてみれば、このようなことは開拓時代の北海道では、あたりまえであったのです。北海道の名付け親である松浦武四郎の記録をよめば、開拓時代の北海道では、商人たちが、どれほどあくどいことをやってきていたか、いやというほど書いてありますから、北海道史をかじった者なら知らない人はいません。だから今でも北海道は、農協の力が強いのですね。

 そういう環境の中で、中山正男の父である米市は、自らハッパ馬喰(インチキ馬喰)を禁じ手にしました。理由は、息子の正男のためです。


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 ここで、中山正男の生い立ちを書いてみます。
 映画『馬喰一代』には、それにふれてませんし、
 直木賞候補となった小説の方も多少の脚色があって正確ではありませんから、
 補則の意味で書いておきます。


 中山正男が生まれたのは、北見の留辺蘂ではなく、佐呂間村でした。父の米市は、馬喰の仕事をしながらサロマ湖のほとりで猟師の手伝いをしていました。場所は浜佐呂間のあたりです。ここで中山正男は、父の米市、母の「はるの」の子として生まれます。はるのは、平凡な農家の娘で右を向けと言えば、三年でもだまって向いているというような大人しく柔順な人でした。その両親のもとで生まれたのが中山正男です。明治44年1月26日のことです。



写真は、浜佐呂間の町
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写真は、サロマ湖YH
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 米市は、動物のように正男を可愛がりました。毎日、息子の寸法をはかり、足の太さや胸囲まで暗記したと言います。そして可愛い寝顔を何時までも覗いていた米市は、正男の顔に墨をぬってひげをはやしたり、眉を太く書いたり、眼鏡を書いたりして遊んだといいます。その親バカぶりは、正男が、怪我をして血を吹いて倒れていた時には、馬具をかける間ももどかしく、裸馬のまま、網走の病院まで三十キロも走った事もありました。


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 ところが、その米市が浮気をしました。

 馬喰たちは、よく料亭に通いました。当時の料亭には、売春婦たちがいました。米市は料亭の女を買うようになりますと、売春婦たちの寝技にすっかり参ってしまいました。そうなるとマグロの女房には、ものたりなくなり、ついには前妻を暴力でもって雪の降る中に追い出してしまいました。生母は、
「めかけでも良いですから、ここに置いてください」
と泣きながら懇願しましたが、米市は、生母を追い出して売春婦の「その」を二番目の妻に迎えました。酷い話です。

 しかし、けなげにも生母は、夜に米市の家に忍び込み、こっそり正男に乳を飲ませました。そして、それが米市にバレて半殺しにされました。生母は泣く泣く正男と別れざるをえませんでした。しかし米市は「その」に逃げられてしまいます。このへんの描写は、映画にも小説にも書かれてありません。生母は病気で死んだことになっています。



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 ここから、クレイマークレイマーばりの、父親と息子の二人暮らしになるのですが、子煩悩の米市は、息子のために女学校出のインテリの売春婦を身請けして妻にします。三番目の妻である「ゆき」です。プライドの高い米市は、ゆきの前で土下座して
「息子のために後妻になってくれ」
とたのみこんだと言います。

 インテリの「ゆき」は正男を可愛がりました。そして米市の見込んだとおり、三番目の母は、正男の教育のために精魂をかたむけました。そのせいか中山正男の成績はあがりました。さらに「ゆき」は、米市にも手紙で注文をだしました。

「子供はその親を手本とします。とくに悪い事を真似たがるものです。お願いですから、正男のいるわが家で宴会を開いたり、賭博をするのはやめて下さい」

 短気な米市も、正男の教育問題に関しては、三番目の妻の言いつけを守りました。米市は、しだいに父親らしくなり、家庭的になっていきました。そして正男は、成績がトップになり、総代まで選ばれました。しかし、子供というものは残酷でした。
「やーい、お前の母ちゃん淫売(売春婦)!」
とはやしたてるクラスメイトたち、それが大合唱となる事もありました。正男は
「違うわい」
と涙ながらに拳骨で反撃し大乱闘となりました。

 米市は、そんな正男と母親のために、引っ越しを決意。
 サロマ湖畔から、留辺蘂へ移ったのです。
 大正十年の秋でした。
 その歳は、のちの盟友・横山祐吉が、東京音楽学校(芸大)に入学した歳です。
 

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つづく

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2010年12月12日

馬喰一代 中山正男の故郷5

馬喰一代 中山正男の故郷5

 馬喰一代によれば、中山正男は、サロマ湖湖畔のカワグチというところに生まれたといいます。ところが、カワグチという地名は地図では確認できません。ただ、馬喰一代の記述により、浜佐呂間あたりだと推測することができます。これが浜佐呂間の町。そしてサロマ湖の近くです。当時は、電気も店もなかったと言います。

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 米市は、このあたりで漁師の手伝いをしながら馬喰をやっていたと言います。兼業しているところをみると、この頃は、まだ馬喰という職業は、羽振りのよい職業ではなかったようです。ちなみに米市のライバルである尾崎天風も、馬喰から身をおこしてサロマ湖あたりで木材の事業をやって大儲けしていました。

 この尾崎天風は、偶然にも田澤義鋪の故郷・佐賀県鹿島の生まれの人です。北見市史編さんニュース64号および馬喰一代によれば、明治31年にサロマ湖に移住してきて、常呂(サロマ湖)と野付牛(北見)を結ぶノッケ街道の駅逓馬橇の御者をしていました。彼は山に火をつけてその山の焼木や破損木の払下げを願い、もし許可になったら、この時とばかりに近くの山の盗伐をやって、許可石数の何倍も伐りまくる。それを坑木や製材にしてボロい儲けをしたと言われています。

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 そして大正の始め頃には佐呂間の役場の隣で料理屋を経営し、大正3年の佐呂間村分村独立のときにく役人を接待し、役場も当初村民が陳情した場所と違う「佐呂間市街、天風の料理屋の道路向」に決定し、料理店の一部を月8円で借上げて改装し仮庁舎として開設しました。そして、大正4年には釧路新聞支社の肩書きも得たと言います。しかし、馬喰一代にあるように本人は、無学にちかく文字を覚えたのは、兵役後、二十歳の中山正男すぎてからだと言われています。


 中山正男の生家から4キロほど西に行った幌岩に生母「はるの」の実家がありました。
 これが幌岩の風景です。

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 また、幌岩には、幌岩山があり、展望台があります。
 眼下にサロマ湖が見渡せます。

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 この幌岩から、吹雪の中を4qほど歩いて、中山正男に乳を飲ませに通ったといいます。


 これが武富士。

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 中山正男の家から10qも離れています。学校で使う文房具は、ここまで歩いて行かないと買えませんでした。父の米市は、教育熱心で、中山正男が日記を書き損じたりすると、容赦なく破り捨てられ、武富士まで買いに行けと怒鳴られました。当時、7歳の中山正男は、夜中に10qの道を歩いてノートを買いに行かされました。もちろん熊が出て危険ですから、父の米市も提灯をもって、こっそり後をつけていったと言います。


 そんな教育熱心な米市は、中山正男の教育のために女学校出の母親(後妻)をさがしますが、無学な馬喰に女学校出のインテリ嫁がくるはずもありません。しかし、留辺蘂の西にある大温泉地帯である「温根湯」に身をもち崩して売春で生活している「ゆき」という女性がいると聞いた米市は、ゆきの前で土下座して
「息子のために後妻になってくれ」
とたのみこんだと言います。

 この「ゆき」が3番目の母親になるわけですが、
 「ゆき」が働いていた「温根湯」には、有名なキタキツネ牧場があります。
 留辺蘂は、あちこちにキタキツネ牧場がありますが、
 温根湯のキタキツネ牧場が一番有名です。

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中には、おいなりさんがあって、鳥居の中に本物のキツネが寝ています。

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これは、樹に登ってイチイの実を食べているところ。

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話しは変わりますが、この温根湯は、大温泉地帯でした。
そして、多くの温泉旅館がたちならびました。
そして、花街が形成されました。
そこでは、キツネの化かし合いがあったことでしょう。

留辺蘂にも旅館が解説されました。
留辺蘂にもポン温泉がありました。

アイヌ語で、オンネとは、大きいの意味。
アイヌ語で、ポンとは、小さいの意味。

つまり留辺蘂にある大きい温泉が、温根湯温泉。
つまり留辺蘂にある小さい温泉が、ポン温泉です。

で、留辺蘂には、この2つの温泉が開発され、旅館がたくさんでき、
売春婦たちも大勢あつまってきました。
温泉街に御客さんが集まるということは、羽振りのよかった人がいたということです。

つまり、北見にはもハッカで儲けた人がおり、
それに寄生するかたちで、馬喰(家畜販売)で儲けた人がおり、
彼らが遊びに来るところが、ポン湯のあった留辺蘂であり、
温根湯温泉であったわけです。
その温根湯温泉に、新潟から駆け落ちしてきて、亭主に死なれた女性がいました。
その女性が、中山正男の3番目の母親になります。

つづく

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2010年12月15日

馬喰一代 中山正男の故郷6

馬喰一代 中山正男の故郷6

 北見市が栄え始めたのは、大正に入ってからです。まず不毛の大地が、ハッカの生産によって潤いました。そして明治44年(1911)、池田〜野付牛(北見市)の間に鉄道ができて、木材の伐採がはじまりました。それまでは、樹を伐採しても輸送手段がなかったのですが、鉄道開設によって木材産業が栄えました

 さらに大正元年(1912)11月、野付牛(北見市)〜留辺蘂間に鉄道が開通することによって、留辺蘂は急速に発展しました。そして大正4年、野付牛村から分村独立して留辺蘂町(武華村)が誕生しました。留辺蘂町は、山に囲まれた場所にあるために、豊富な森林資源に恵まれていました。森林資源の開発によって、にわか成金がつぎつぎと生まれ、木材を運ぶ馬も高値で売れるようになりました。馬喰たちに幸福な時代がやってきたのです。


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 こうして北見や留辺蘂に、どんどん富裕層が生まれたわけですが、それらの金持ちが遊ぶ場所として、留辺蘂に、ポン湯温泉やオンネ湯温泉が開発され、花街が形成されました。飯盛り女(売春婦)たちも大勢集まりました。馬喰たちは、そこで遊びまくりました。そして気に入った女を身請けして妻としました。馬喰は、人々から蛇蝎のごとく嫌われていましたから、飯盛り女(売春婦)と一緒になることも多かったそうです。

 ちなみに留辺蘂町は、人口に対して異様に呉服屋が多いところです。その理由は、それらの呉服屋の大半が、かっては置屋(芸妓の抱元・今でいうタレント所属事務所)であったと言います。留辺蘂は、そういう町でもありました。大都市・北見市から金持ちが遊びに来る場所でもありました。これは留辺蘂図書館の大林さんの指摘によってわかったことです。


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 さらに大正9年(1920)には森林軌道が敷設されました。
 林業が盛になると、ますます馬の需要が増えてきます。
 馬喰たちは大活躍することになります。

 中山米市は、大正10年の秋に、サロマ湖から留辺蘂に移転することを決意します。その頃の留辺蘂は、木材景気で、どんどん人口が増え、馬喰たちのビジネスチャンスも大きく広がっていたからです。また、3番目の妻「ゆき」の病気(精神病)も気になっていました。無医村の佐呂間とちがって留辺蘂なら医者がいますから。またインテリの「ゆき」にとっても町はワクワクするところであり、電気がつながっており、汽車が通っており、映画が見られるというだけで嬉しかったようです。


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 中山米市は、留辺蘂の宮下町というところに家をかまえました。
 土地は、二百坪くらいあるでしょうか?
 決して広い土地ではありません。
 ここに拠点を置き、馬の売買を行っています。
 なぜ留辺蘂の宮下町であったのか?
 統合移転前の留辺蘂小学校(特別教授場)があったのと、
 留辺蘂駅逓があったためだと思われます。
 また背後に紅葉山がそびえ、山の幸が得られるためだったからかもしれません。


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 この頃は、鉄道開設とともに木材需要がのび、急激に人口が増え、三百名ほどしかいなかった小学校の児童たちが、3年くらいで千五百にもふくれあがるといった変わりようでした。子どもたちの増加に学校の拡大がおいつかず、二部制にして交代で授業をおこなったり、消防署や映画館を間借りして、ある学年は映画館(大黒座)で授業を行ったりしました。そういう所に、中山米市・正男親子は引っ越してきたのです。

 引っ越してきた中山米市は、すぐに留辺蘂のスターになります。

 木材とハッカ景気に湧いた留辺蘂には、全国からインチキ香具師が集まってきました。彼らは、子分をつかってサクラになってもらい、
「さあ、さあ、今落としたマルイチの丸をあてたものには、金時計一個を進呈しますよ。そのかわりあたらぬものは二十円、どうだ十八金の時計が二十円とは安いもんじやないか」
と見物客と賭をします。

 最初は、子分のサクラが、みごと金時計をせしめてみせます。
 それを呼び水に善良な百姓たちを騙して金を巻き上げるわけですが、
 一日で何千という大金をハッカ農家の親父がすってしまいます。
 それに強い義憤を感じた米市は、同僚の馬喰どもとさそいあって
 香具師たちと一戦たたかうために現れました。

「おい、その勝負、買った」
「よしきた、さあさあ、二十両積んだ」

 米市は、十円札二枚をつきつけました。
 そして賭勝負に打って出て、みごとイカサマをみやぶりました。

「何をするんだい」
「静かに手の平を見せろ」

 イカサマがばれた瞬間、香具師のサクラたちが腹から短刀をとりだし、米市をとりかこみました。イカサマがばれるたびに、このように百姓たちを脅して泣き寝入りさせるのが、香具師の常套手段です。しかし、今回は相手が悪かった。米市は、最強の喧嘩男であり、馬喰仲間も一緒でした。

「やい、てめいら、よくも今まで汗水ながして働いた百姓どんのハッカの金をまきあげていやがったな。もう勘弁ならねえ。俺たち馬喰にとっては、百姓どんは大事な米櫃なんだ。命にかけても護らなくてはならない御相手さまだ、さあこのへんで一切合財幕にしてやるから、どっからでもやってこい」

 一人のサクラが、群集の中に消えました。
 それは駅前の宿屋に仲間を呼びに行ったのですが、
 彼らが大勢の仲間を連れてきた頃には勝負はついていました。
 しかし、香具師たちも
「このままじゃすまさないぞ」
と、身内を総動員して反撃をしようとして全北海道に動員をかけましたが、警察は、馬喰たちの味方になって手打ちになり、インチキ香具師たちは二度と留辺蘂にやってきませんでした。米市は、香具師叩きの米と言われるようになったと言います。(馬喰一代より)

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 中山米市は、農家が香具師たちの餌食にならないように
 追い払ったわけです。
 馬喰たちは、農家に寄生して生きているわけですから、
 インチキで農家から金をまきあげる香具師たちを許せなかったのでしょうね。


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つづく

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2010年12月16日

馬喰一代 中山正男の故郷 番外編2

馬喰一代 中山正男の故郷 番外編2

女満別空港レストランにて
北見といえば、ハッカでしたが、現在はハッカは作られていません。
石油から作る低価格の合成ハッカのせいです。

私はハッカ記念館の施設長の佐藤さんに
「でも、天然物の方が身体にいいんですよね?」
と聞いたのですがキッパリと
「同じです」
と言われてしまいました。

「メントールは、天然であっても合成であっても全く同じです。天然物の品質の良いモノ、つまり純度が高いモノほど合成のものに近くなります」

な、なるほど。道理だ。
これじゃハッカは生産されないわけだ。へこむなあ.....orz。



というわけで、北見では観光用の一部を除いてハッカは作っていません。
で、今は何を作っているかという「玉ねぎ」です。
なるほど北見の「玉ねぎ」は美味しい。
というわけで、女満別空港で北見の玉ねぎラーメンを食べてみました。


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玉ねぎにレモンをかけて食べます。
味は、玉ねぎに合う塩ラーメン。
薄口です。

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これ、最高に美味しかった!
ちなみに嫁さんは、サロマ湖のホタテ丼を注文していました。
サロマ湖のホタテのおいしさに病みつきになってしまったようです。

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つづく

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馬喰一代 中山正男の故郷 番外編3

馬喰一代 中山正男の故郷 番外編3

留辺蘂駅のそばに「馬喰一代」という地酒が売っていました。

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おもてには懐かしい遊具が。

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これが馬喰一代の地酒。

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これは酒風呂の元

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つづく

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2010年12月17日

馬喰一代 中山正男の故郷 番外編4

馬喰一代 中山正男の故郷 番外編4

ここは、中山正男が生まれたサロマ湖のほとり。

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そして道の駅。

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どうでも良いけれど音楽をジャンジャン流すのはやめてほしい。
ダサすぎる。
田舎の観光地ほど、こういうところは無神経で、
音楽を流せばよいという考えは止めた方がよい。
センスを疑われますよ。

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しかし、この道の駅は、感心するところがあった。
地場産物を上手に紹介しているのである。

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これは地ビール。
思わず買おうかとおもってしまった。

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アイスも特色あり!
これも魅力的ですね。

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モエ要素まで!

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ホタテも食べてみた。
美味しい!
いや、うま過ぎる!
私の人生でに食べたホタテで一番おいしかったかも!

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蒸し牡蠣?
聞くとサロマ湖は、ホタテより牡蠣が名物らしい。

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待つこと10分で出てきました。

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食べたら美味しいのなんの!
最高!
厚岸や広島の牡蠣より美味しいかも知れない!
(失礼)
いや、これは最高でした!
牡蠣は、揚げものや、焼くよりも
蒸した方が美味しいかも知れない。

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つづく

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2011年12月17日

東儀秀樹って誰だろう?

東儀秀樹って誰だろう?
今日、テレビを見ていたら東儀秀樹という男のドキュメンタリーをやっていた。
「あれ?」
と思ってみていたら奈良時代から続く楽家(がくけ)の家系の人だった。
サイトで調べたら

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%84%80%E7%A7%80%E6%A8%B9

略歴
1959年10月12日生まれ。商社マンだった父親の仕事の関係で、幼年期をタイ、メキシコで過ごす。成蹊高等学校卒業後に國學院大學の二部で学ぶかたわら、宮内庁式部職楽部の楽生科で雅楽を学ぶ。1986年から10年間、楽師として活躍する。宮内庁の楽師として活動する一方で、1996年にファーストアルバム『東儀秀樹』でデビュー。雅楽器とピアノやシンセサイザーといった現代楽器の珍しいコラボレートで話題となった。同年宮内庁を退職しフリーランスでの活動をスタートさせる。 本人は雅楽器だけでなく、ピアノ、キーボード、シンセサイザー、チェロ、ドラム、ギターなどさまざまな楽器の演奏をマルチにこなせる。また、「生きてきたぼくたちへ」等自らボーカルを執る楽曲もある。

映画をはじめテレビ番組やCMにも楽曲を提供し、また雅楽師として音楽や歴史、バラエティなどのテレビ番組に出演している。 俳優としても活動しており、2008年放送のNHK大河ドラマ『篤姫』では孝明天皇役で出演した。(ちなみに天皇が篳篥を演奏することはありえない。その身分にふさわしいのは笙あるいは和琴であろう。)また2009年には木村拓哉主演のドラマ『MR.BRAIN』にゲスト出演した。

古典芸能であった雅楽を現代音楽と結びつけ、その素晴らしさを一般に知らしめ、広く認知された。この功績により2004年、文化庁芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。専門として演奏する雅楽器は篳篥(ひちりき)であるが、龍笛(りゅうてき)、鳳笙なども演奏する。ただし宮内庁の楽師には管楽器において「他管を侵さず」という厳格な決まりがあり、例えば篳篥を選んだ時点で他管の龍笛及び笙を演奏することはない。また最近は雅楽よりも庶民的な芸能で、既に衰退してしまった伎楽の復興にも力を入れていて、コンサートなどでも度々上演している。

2004年には自ら上海に出向いて、中国民族楽器の若手演奏家をプロデュース。TOGI+BAOというユニットを組んで日中両国で活躍していたが、2008年夏のコンサートツアーをもってTOGI+BAOの活動は休止、近年は同年齢でもあり古くからの盟友でもあるバイオリニストの古澤巌と全国ツアーを開催することが多い(古澤とはそれ以前にも年数回コンサートを開いていた)。

2008年に京都嵯峨芸術大学の客員教授に就任。また、大正大学、池坊短期大学の客員教授も勤めている。


人物
元々雅楽の世界に入る前は、海外での生活で耳にした洋楽のロックやポップスやJAZZなど影響を受け、学生時代は友達とロックバンドを組み本人はエレキギターを担当した。高校を卒業したらプロのギタリストでやっていきたいと本気で思っていたそうだが、 母親の東儀九十九(とうぎ つくも)から「どうせ音楽の世界に入るのなら、東儀家の血を引くものとして雅楽をやってみてはどうか」と勧められて宮内庁に入庁した。現在でも自らのライブでギタープレイを披露することがある。自宅スタジオには学生時代から集めた数多くのギターコレクションがある。





私は、この人を知らなかったのですが、この人と同じ名字の雅楽家なら知っている。
日本ユースホステル協会を設立した横山祐吉氏の師匠が、
『東儀鉄笛』
なのです。

東儀鉄笛とは、日本を代表する雅楽家でありながら、西洋音楽(クラッシック)に興味をもち、さかんに洋楽にのめりこんだ男です。この人のおかげで、もの凄い勢いで日本にクラッシックが普及したんですね。これは、世界にないことなんです。

そもそも民族音楽家というものは、保守的であり、他国の音楽をとりいれないんです。
拒絶反応が起きる。
ところが、日本に限っては、そういう事はなく、
雅楽家たちが、すすんでクラッシックの勉強をして、
芸大の教授になったりしている。
その切り込み隊長が、東儀鉄笛。

しかも、東儀鉄笛の凄いところは、西洋音楽にあきたらず、
西洋芝居まで手を出して、劇団を創設し、
自ら役者として大活躍している。
もたちろん芸大の教授と雅楽の仕事もこなしながら。

で、最終的には演劇研究所を造って、そこの第一期生に横山祐吉が入っている。
つまり日本ユースホステル協会を創設する横山祐吉氏は、
東儀鉄笛の思想を濃厚に受け継いでいる。
これについては、機械があったらまた書きます。


それにしても、東儀秀樹って誰だろう?
すごく気になる。
雅楽世界についても、とても気になる。
彼らは、昔から開明的だったのは知っていましたが、
今の雅楽師たちも、同じなのだろうか?
誰か知ってる人がいたら、教えてください。


つづく。

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2012年12月11日

日本風景街道戦略会議に参加した話 その1

 選挙も近いですが、日曜日は忙しいので、夫婦で不在者投票に行ってきました。正直言って、数年前までは政治には無関心でしたが、そうも言ってられなくなりました。群馬県の吾妻郡は、ここ数年で大きな変化があり、それを目の当たりにしたからです。どうしても政治に目覚めるしかなかった。
 
 旅行業界もしかりです。ユースホステル業界、グリーンツーリズム、エコツーリズムなど、多くの観光業界が、ここ3年間に、根こそぎやられてしまった。特にグリーンツーリズム業界は死に体です。ユースホステル業界も仕分けによって、かなりダメージをうけています。いろんな旅行業界が、たった3年で死亡宣告をうけてしまった。だから観光関係者は、現政権に怨嗟の声をあげている。
 
 そんな悲惨な旅行業界のなかで、唯一、元気をとりもどした団体がある。
 
 日本風景街道戦略会議である。
 
 http://www.mlit.go.jp/road/sisaku/fukeikaidou/
 
 幸か不幸か、この団体は、国ではなく、地方が主導権をもって動いていた。そのために事業仕分けされても影響が少なかった。実は、この団体の全国会議が、11月に嬬恋村で行われていて、私は、浅間2000国際自然学校の代理という資格で参加している。
 
 で、参加して驚いた。
 熱気が凄いのである。
 どうしてか?
 会議に参加してみながら少し考えてみた。
 考えたら簡単に答えがみつかった。
 
 この組織は、トップダウンでは無く、ボトムアップなのだ。
 トップは、下を陰から応援するだけの組織なのだ。
 しかも、側面支援している人が多い。
 大学教授たち、テレビプロデューサーたちなどが、側面支援している。
 その側面支援を上手に生かしている。
 
 それに対してユースホステル業界は・・・・と反省させられてしまう。私たちの業界は、こういう組織に100歩、いや1万歩くらい遅れているのだ。というか、そもそも下(地方協会)が、ほぼ全滅してしまった。かといってトップに力があるわけでもないし、側面支援も無い。
 
 では、どうすれば良いのか?
 
 実は、かっての日本ユースホステル協会も、日本風景街道戦略会議のような団体だったのだ。ユースホステル運動は、下からわき起こった運動だったのだ。それが、どうして、このような状況になったのだろうか?


つづく。

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2012年12月12日

日本風景街道戦略会議に参加した話 その2

日本風景街道戦略会議に参加した話 その2

http://www.mlit.go.jp/road/sisaku/fukeikaidou/

 日本風景街道戦略会議に参加して驚いた。

 そもそも、こういう諸団体は、国の方針によって生まれる。いろんな観光諸団体にしても、国の方針によって誕生し、それが地方の行政などを動かして、我々民間の観光団体がききこまれていくわけです。決して下から生まれるわけでもないし、民間から自然発生するわけでもない。国が何十年もかけて支援していき、いろんなイベントや講習会をうけて、やっと民間に根付いていくわけです。

 で、サポーターになったり、資格をとったり、各諸団体を立ち上げて活動するわけですが、それが政権交代で政治家が替わると全てがパーになる。二階にあがらせておきながらハシゴを外されてしまうかっこうになる。で、外されたハシゴに困惑するのです。まったく迷惑な話です。こういう事をするなら最初から国は観光に手を出すなと言いたい。

 しかし、日本風景街道戦略会議は、国がハシゴを外した後も被害が少なかったらしい。幸か不幸か、この団体は、国ではなく、地方が主導権をもって動いていた。そのために事業仕分けされても影響が少なかったらしい。地方の有志の人たちが動くことによって、ますます活動が活発になったらしい。

 財政的な裏付けも少なくてすんだことも、被害が少なかった原因だった。日本風景街道というブランドを立ち上げるのが主な目標というのもよかった。新しい箱ものや人件費が必要なかったのもよかった。必要なのは知恵だけだったのが不幸中の幸いだった。

 これは、グリーンツーリズムなどの諸団体も、条件は一緒であったが、こっちはもろに影響をうけた。まだまだ農家には商品開発パワーが蓄えられてなかったのだ。だからハシゴを外すなら、少しづつ徐々に外していかないと、せっかく芽吹いた苗が枯れてしまうのだ。ユースホステル業界にしても一緒である。いきなりハシゴを外されても困惑する。外すなら少しずつ外すべきである。

 まあ、それは良いとして、この3年間で私たち観光関係者は、すこし学んだことがある。国が立ち上げたプロジェクトに安易に乗っかってはいけないと言うことである。距離をおかないとダメだ。いつ政権が変わってハシゴをはずされるか分からないからである。かといって、距離をおきすぎると民間の力だけでは、どうにもならない事もある。例えば、観光地に工業団地や廃棄場などが建設されて観光資源が壊滅するという例もある。やんばダムなどがそうである。私は、一貫してダム建設は反対であったが、あそこまで工事した物を途中でやめて放棄されては、やんば地区は廃墟になるしかない。やめるなら代案として、元の風景にもどす大工事をスタートさせるべきなのだ。そのほうが、数倍の金はかかるが、風景を守るためという長期戦略のうえではアリだろう。しかし、それができないなら、安易に工事を放棄すべきでは無いし、もっと慎重な調査があってしかるべきだっただろう。

 さて、長い前置きだったが、ここからが本題である。

 日本風景街道戦略会議で、非常に興味深い研究レポートを聞いた。
 CCCの存在である。
 (筑波大学 石田東生教授のレポート)

つづく。

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2012年12月13日

日本風景街道戦略会議に参加した話 その3

日本風景街道戦略会議に参加した話 その3

 日本風景街道戦略会議で、非常に興味深い研究レポートを聞いた。
 CCCの存在である。
 CCCとは、対日強硬派であったフランクリン・ルーズベルト大統領が行ったニューデール政策の一つである。ルーズベルトは1933年3月4日に大統領に就任すると、すぐに4つの事業をスタートさせた。

1.TVA(テネシー川流域開発公社)などの公共事業
2.CCC(民間資源保存局)による大規模雇用
3.NIRA(全国産業復興法)による労働時間の短縮や超越論的賃金の確保
4.AAA(農業調整法)による生産量の調整

である。そのうち最も力を入れたのが、CCCである。特にCCCキャンプは、ルーズベルト大統領の肝いりで、就任したその日からプロジェクトが発動している。

 では、CCCキャンプとは何か?
 平たく言うと、ヒットラーユーゲントのアメリカ版である。

 目的は、表無きは、500万人以上の若年失業者の救済と教育になっている。しかし、内実は、軍隊式のキャンプであり、軍隊式に各種の職業教育をやりながら建設作業をおこなって、厖大な土木工事を行うのである。アメリカは、この公共事業によって経済を復活させるとともに、軍事訓練をおこなっているのだ。

 で、第二次世界大戦は、アメリカが勝ったというより、CCCキャンプが勝ったと言われている。CCCキャンプが、後のアメリカ軍を大きく支えたのであって、CCCキャンプがなかったらアメリカは勝てたかどうかあやしいというのだ。

 私たちは、なんとなくアメリカは、物量で勝ったと思っていたが、実際はルーズベルトが1933年3月4日に大統領に就任してすぐに、ナチスと同じような政策をスタートさせていたことに驚かざるをえない。しかし、そういう情報は、日本国内のインターネットで検索してもでてこない。つまり、今まで耳を遮断されていたのだ。そもそもCCCキャンプなんて今まで聞いたことが無い。

 しかし、ルーズベルト大統領は、就任のその日に関係機関の会議をスタートさせ、その13日後に議会へ教書。最初のCCCキャンプが発動したのは、大統領就任から34日後なのである。いかに、このプロジェクトがフランクリン・ルーズベルト大統領の肝いりだったかがわかる。しかし、これを社会科で習った記憶は無いし、このCCCキャンプがアメリカ経済を復興させて、第二次世界大戦の勝因になったなんて話も聞いたことも無い。やはり、我々は長いこと情報を操作されていたのである。

 実は、私は、横山祐吉伝を書いているのだが、フランクリン・ルーズベルト大統領が、CCCキャンプを大規模に作っていた時代に、日本政府も、ルーズベルト大統領に見習おうとしていたのに、日本においては最後まで抵抗していた勢力があったのを知っている。日本ユースホステル協会の前身であった日本青年団である。

 戦後、GHQが、その青年団を軍国主義の手先であるかのように断罪したがとんでもない話だ。日本版CCCキャンプの設立に最後まで抵抗したのが、大日本青年団の下村湖人であり、その様子は著書「次郎物語第五部」に詳しく書かれてある。フランクリン・ルーズベルト大統領の方が、よほど軍国主義的である。なにせ日本においては、第二次世界大戦の終盤になるまで日本版CCCキャンプなんぞができなかったのであるから。それはともかくとして、CCCキャンプの発見によって、私が書いている横山祐吉伝は、内容を大きく方針変更せざるをえなくなった。


つづく。

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2012年12月15日

日本風景街道戦略会議に参加した話 その4

日本風景街道戦略会議に参加した話 その4

 CCCキャンプとは何か?
 平たく言うと、ヒットラーユーゲントのアメリカ版である。

 戦後、GHQが、その青年団を軍国主義の手先であるかのように断罪したがとんでもない話だ。日本版CCCキャンプの設立に最後まで抵抗したのが、大日本青年団の下村湖人であり、その様子は著書「次郎物語第五部」に詳しく書かれてある。フランクリン・ルーズベルト大統領の方が、よほど軍国主義的である。なにせ日本においては、第二次世界大戦の終盤になるまで日本版CCCキャンプなんぞができなかったのであるから。

 では、大日本青年団は、どうして日本版CCCキャンプを拒否したのであろうか? 彼らは、日本版CCCキャンプの代わりに、どういうキャンプを作ろうとしていたのだろうか?

 その答えは、下村湖人の著書「次郎物語第五部」に詳しく書かれてある。大日本青年団は、CCCキャンプのようなものを忌み嫌った。ヒットラーユーゲントに対しても同様である。その代わりに精神修養の道場を作った。青年団講習所である。ここで、青年団のリーダーたちを集めて、何もしなかった。何一つ指示も出さないし、講師も用意しない。つまり教育もしてない。もちろん土木作業もしてない。

 全く何もしない。
 ただ、共同生活だけをした。

 共同生活をすることによって、少しづつ人間の精神を鍛えた。具体的に言うと、講習所所長みずからトイレ掃除をやり、食事をつくり、風呂の薪を割った。けれど、講習所所長は、なにも命令しない。だから講習に来た青年たちは、とまどってしまう。

「どこかの偉い人たちが、立派な御託を話してくれる」

と思っていた講習に来た青年たちは、戸惑ってしまう。

 第一、何をやっていいのかわからない。しかし、講習所所長は目の前でトイレ掃除をしている。黙ってみているわけにもいかず、かといって、どうやって手伝って良いのかもわからない。そもそも、講習所のルールさえわからない。何時に就寝なのか? 何時に朝食なのかもわからない。いや、いったい何しにきているのかもわからない。時間の無駄にしか思えない。

 しかし、これが数日続くうちに、自然のうちに流れができてくる。講習所の所長が、トイレ掃除をする前に誰かがトイレ掃除を終わらせいてる。食事も誰かが作っているし、講習所の建物は、日がたつ毎にピカピカになっていく。いつの間にか暗黙のルールができあがって、誰もが助け合うようになる。と同時にみんな涙が出るようになる。いろんなものに感謝の念がで、食事するときは深く祈るようになる。そのうちお互いの悩みをうちあけるようになり、誰彼なくアドバイスするようになる。

 これを下村湖人は、「白鳥蘆花に入る」と言った。

 真っ白な蘆花の中に真っ白な鳥が静かに降り立つ。
 背が高い白い花にその姿は隠れる。
 が、羽根の風が、波紋が広がるように、
 静かに白い花たちを揺らしていく…。

 白い鳥の姿は、白い花の中に隠れて見えない。
 でも、起こした羽風は、確実に、周りに影響を与えている。

 そこには、ヒットラーや、ルーズベルトのような英雄はいない。
 名も無き個人が、静かにその徳を周りに影響を与えている。
 そうやって世の中を少しずつ変えていく。

 これが、大日本青年団の青年団講習所の所長である下村湖人の理想であった。青年団講習所の目的は、そこにあったのである。ヒットラーユーゲントやアメリカのCCCキャンプと比較して、どれだけ違っているかわかると思う。大日本青年団は、青年団講習所を修養の場所としたのだ。


 ところがである。
 いくら人間の修養を高めても
 恐慌時代の経済の発展には寄与しない。
 ここに大日本青年団の悲劇があった。

 ヒットラーユーゲントも、ルーズベルトのCCCキャンプも、軍国主義の権化であったが、この2つは経済を成長させる。しかし、大日本青年団の青年団講習所の方式のキャンプだと、そのキャンプには経済的な寄与は無いのである。


つづく。

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2015年02月13日

日本YH史外伝 1 流行歌の元祖

 結婚した頃、ヘアバンドのことをカチューシャと言っていたのに驚いたことがある。なぜヘアバンドのことをカチューシャというのであろうか?それから10数年後、カノンというアニメを見てまた驚いてしまった。ここでもヘアバンドのことカチューシャと言っているのである。疑問はさらに深まった。

 ここでまた話を変える。私は映画好きである。黒澤明の映画も当然のことながら全て見ている。用心棒や七人の侍なども大好きなのだが、スターウォーズの原型となった隠し砦の三悪人も大好きである。影武者などは公開初日に封切りで最前列で観たくらいである。しかし1番好きなのは、生きるという映画であった。胃がんで死を宣告された役所の課長が、残り少ない人生を、住民たちの苦情の元となっている場所を公園に変えるという事業に捧げるという話である。そこのラストシーンで、主人公が歌う歌はゴンドラの唄という歌であった。

  いのち短し
  恋せよ乙女
  あかき唇
  あせぬ間に

 主人公は、最初やけになって見知らぬ女の子を連れ回して、酒場で浴びるように酒を飲んでいた。その時、女の子に歌を歌えとせがまれるのだが、その主人公は、ピアニストに、ではゴンドラの唄をお願いします。と、伴奏をお願いした。ピアニストは笑いながら、大正時代の歌ですねといった。当時映画を見ていた私は、きっと古い流行歌なんだろうなぁと思っていた。いや最近まで思っていた。

 ここでまた話は変わる。
 コロコロ話が変わって申し訳ないが、もう少しお付き合い願いたい。

 私は10年ぐらい前から日本ユースホステル史を調べている。そして、色々調べるに当たって驚かされることがいっぱいあった。ユースホステルの創設に関わった関係者たちが、日本史を変えるような事件に直接的に間接的に色々関わっていることだ。その一つに元祖流行歌を作った事件がある。

 日本ユースホステル協会の創設者横山祐吉の師匠は、東儀鉄笛と言う人である。彼が所長をしていた私立新劇研究所を卒業したのが横山祐吉であった。この東儀鉄笛は、最初坪内逍遥の文芸協会で活躍していた。しかし、島村抱月と松井須磨子のスキャンダルで島村抱月が退会。そして相馬御風、水谷竹紫らと芸術座という劇団を結成した。

 芸術座は大正3年にトルストイの『復活』を上演した。この時劇中で西洋風の歌を歌わせるという日本初の試みがあった。これが当時の日本人に衝撃をもたらした。歌の名前はカチューシャの唄。カチューシャとは、松井須磨子が演じた劇中の女主人公の名前である。そのカチューシャが付けていたと言う宣伝文句で売り出されていたので、そのヘアバンドの固有名詞となったと言われている。

 これで私が長年疑問に思っていたカチューシャと言うヘアバンドの固有名詞の謎がわかった。

 ところでカチューシャの唄を作詞したのは、島村抱月と相馬御風であった。島村抱月はともかく相馬御風と聞いて驚いた。彼はあの有名な童謡「春よ来い」の作詞者である(新潟県出身者ならば知らぬ者はいない)。

  春よ来い 早く来い
  あるきはじめた みいちゃんが
  赤い鼻緒の じょじょはいて
  おんもへ出たいと 待っている

 で、もっと驚いたのは作曲者の中山晋平であった。中山晋平は、のちに横山祐吉が編集主任となる「少女号(大正8年)」と言う少女雑誌に掲載されている「背くらべ」の作曲者である。大正8年といえば、童謡運動が始まったばかりで、日本中の少年少女雑誌に次々と童謡が発表されていた時代でもあった。少女号での童謡発表も大正8年の後半からである。

 柱の傷は一昨年の
 五月五日の背くらべ
 ちまきたべたべ兄さんが
 計ってくれた背のたけ

 しかし1番驚いたのは、この中山晋平も横山祐吉も東儀鉄笛を師匠に持っていることである。もちろん両方とも東京上野音楽学校(現在の芸術大学)の生徒であった。東儀鉄笛はそこの講師でもあったが、両者ともに学校で東儀鉄笛から教わったという記録は無い。しかし中山晋平は東儀鉄笛の自宅で住み込みの弟子をやっていたし、横山祐吉に至っては、演劇研究所で東儀鉄笛から演技をじっくり教わっている。もちろん横山祐吉の奥さんとなる人も東儀鉄笛の弟子である。

 まぁそんな事はどうでもいい。

 日本の流行歌のはじまりは、どうもこのカチューシャの唄らしいのだ。当時はテレビもラジオもなかったので、全国的なメディアは新聞雑誌書籍に限られている。劇場もメディアとも言えなくはなかったのだが、全国を講演して回らなければ、地域限定的なメディアとなってしまう。つまりかなりローカルなメディアなのである。

 とはいうものの、日本初の劇中歌という試みは新聞雑誌に取り上げられたし、全国の人々がそこに注目した事は間違いない。人々は競って芸術座に入場し、劇中歌のカチューシャの唄を聞いた。それを見ていた中山晋平は、カチューシャの唄の歌詞を劇場の中に張り出したのである。人々は競ってそれをメモし、そして歌い出した。講演後に観客たちはカチューシャの唄の合唱を始めたのである。そしてその歌は口から口へと伝わっていった。

 この時代、もう一つのニューメディアが登場する。レコードである。カチューシャの唄はレコードで発売された。そして何万という数が発売された。これは当時の蓄音機の普及台数よりも多い数である。今で言えばメディアミックスの始まりかもしれない。

 そして翌年の大正4年。芸術座は、ツルゲーネフの『その前夜』を講演した。そこでも劇中歌が歌われた。もちろん原作にはそのような歌は存在しない。その劇中歌が何を隠そう黒澤明の生きるのラストシーンで歌われた『ゴンドラの唄』である。

  いのち短し
  恋せよ乙女
  あかき唇
  あせぬ間に

 このゴンドラの唄は、日本の流行歌第二号であろう。どうりで映画生きるのシーンで、伴奏するピアニストが笑いながら大正時代の歌ですねといったわけだ。要するに昭和26年と言う時代において非常に古い歌と認識されていたということだが、それもそのはず、元祖流行歌の第2号なのだから古いといえば本当に古い歌なのだ。映画「生きる」の主人公は、若かりし頃に芸術座のツルゲーネフの『その前夜』に熱中したという設定だったのだ。ここでもう一つの謎もわかってすっきりした。主人公は、典型的な大正デモクラシーな男だったのである。

 ちなみに長く大ヒットした流行歌としては、カチューシャの唄よりもゴンドラの唄であろう。ツルゲーネフの『その前夜』の舞台は水の都ベネチアであったが、実はベネチアなどよりももっと壮大な水の都が過去の日本にはあったのである。それは江戸である。ベネチアと同じように、かつての江戸や明治時代の東京には、水運が巡らされており、船があちこち行き交っていたのだ。それはベネチアのゴンドラのようでもあった。その辺の情景は滝廉太郎の「花」にも描写されている。

 大正4年に劇中歌ゴンドラの歌を聴いた観客たちは、当然のことながら水の都であった過去の東京を知っていたに違いない。ツルゲーネフの『その前夜』の公演を見ながら、彼らは若かりし頃の船あそびや、秘めた恋心を思い出していたのかもしれない。黒澤明が、映画生きるで、主人公にゴンドラの唄を歌わせた理由も、その辺あたりにあるのかもしれない。なにしろ生きるの主人公は、ドブになった悪臭漂う河川を埋め立てて公園を作る話なのである。

 話が長くなったので、今日はここまで。

つづく。

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2015年02月23日

日本YH史外伝 2 謎の俳優

 先日、山岳会の団体様がスノーシューをしにブルーベリーに泊まった。ガイドに土井君と古くからの友人である上原一浩先生に来てもらった。先生といっても、過去の先生では無い。鍼灸の先生であり、指圧整体の先生でもある。昔は高校の教師をしていたこともあったのだが、重度の障害者であるために退職され、鍼灸・指圧・整体の学校に通って、今はブルーベリーの近所で自営業をしている。この二人と私と私の嫁さんとで、ちょっとした宗教談義になった。はじまりは土井くんのご両親の話からである。土井くんのご両親は、お墓を作らずに何年か経ったら合同の墓に入ることにしたらしい。

 ひょっとして浄土真宗じゃない?

 と聞いたらビンゴだった。

 こういうシステムは、浄土真宗に多い事は聞いている。谷川岳ラズベリーユースホステルのマネージャーである曽原君のところも浄土真宗だった。なので彼のご尊父もそういう形だったと記憶している。そういう形で浄土真宗の方たちの中には、お墓を持たない人も多い。

 次に私は、群馬県の横川に住んでいる上原一浩氏に宗派を聞いてみた。曹洞宗と彼は答えた。

 ああ・・・・なるほど。

 実は群馬県に曹洞宗は多い。うちの嫁さんの宗派も曹洞宗である。嬬恋村も曹洞宗の寺しかない。他の宗派は無い。皆無なのだ。もし、私が嬬恋村に墓を建てるとしたら、曹洞宗の檀家になるしかないのだ。嬬恋村の人にとっては、何の不思議もないことなのかもしれないが、これがどのくらい異常であるかと言うと、私の生まれた佐渡島は、嬬恋村の二倍程度の面積しかないにもかかわらず、数百のお寺がある。宗派はすべて揃っている。しかし、面積的には佐渡島の半分ほどもある嬬恋村には、お寺は一つしかない。それも曹洞宗だけである。あまりにも違いすぎることに私は驚いているのだが、嬬恋村から出たことのない人にとっては、この異常さが理解できないのかもしれない。

 ところで曹洞宗という宗派は、非常に不思議な宗派である。まず住職が面白い。話が非常にうまい。説得力もある。曹洞宗の教義そのものからして、これが宗教なのだろうかと思うこともある。例えば臨済宗は、仏になるために一心不乱に座禅を行うのであるが、曹洞宗になるとそれがひっくり返ってしまう。座禅そのものが仏の姿であると。座禅でなくてもいい、農業にしても学問にしても一心不乱に何かを行うことそのものが、仏そのものであると言い切る宗派でもある。誤解を恐れずに言えば道を究めることが、禅であり仏であると言っているのだ。当然のことながら、日本最大の宗派は曹洞宗だったりする。そして日本最大のボランティア団体も曹洞宗の系統だったりする。

 まぁそんな事はどうでもいい。
 今日はうちの嫁さんの話である。
 うちの嫁さんが、良寛て何をやった人なの?と聞いてきた。

 返答に困ってしまった。私は新潟県民だが、新潟県民で良寛を知らないものはない。岩手県民が宮沢賢治を知っている以上に、新潟県民は良寛を知っている。例えば、花巻に行ったとしても、そこには宮沢賢治牛乳なるものはない。しかし、長岡や柏崎あたりではみんな良寛牛乳を飲んでいる。いろんなところに良寛の名前がついている。

 しかしである、それだけ親しみのある名前であったとしても、良寛が何をやった人なのか、ほかの県の人に伝えられる新潟県民が入るとはとても思えない。インターネットで検索してみるといい。具体的に何をやった人なのか、わかりやすく書かれているサイトなどないと思う。

 そうなのだ。良寛も曹洞宗のお坊さんなのである。そもそも曹洞宗の教義からして、それ(結果を残すこと)が目的では無い。結果が目的ではなくて結果に向かって行動している行為が、すがたが、仏であるというのが曹洞宗なのだ。つまり何かをやったことが素晴らしいのではなく、そのための行為が仏そのものであるというのが曹洞宗の考え方なのだ。だから嫁さんには、今ひとつ良寛がどういう人だったのかわからなかったのだろう。実は私もよくわかってない。あるのは子供の頃から聞かされていた子供好きな良寛の人徳のイメージだけである。

 ところで、なんでそんなことを聞いてくるのか嫁さんに聞いてみた。嫁さんは子供の頃に新潟の出雲崎に行ったことがあった。出雲崎は良寛の出身地だった。そこの林間学校で出雲崎小学校の歌を歌わされたらしいのだが、校歌の中に良寛の文字があったらしい。そして、なんとなく偉い人なんだろうなぁとは思ったらしいのだが、 四十歳を過ぎても、どこか偉いのかインターネットで調べても分からなかったらしい。無理もない話である。私も先ほどWikipediaで調べてみたが、さっぱり要領を得ないことばかり書いてある。これなら私が昔読んだ、子供のための絵本の方が、よほど要領得ている。

 それはともかく、出雲崎と聞いて佐渡島出身の私には、どうしても思い出すことがある。佐渡島を歌った二つの唄である。 一つは松尾芭蕉。

 荒海や 佐渡に横たふ 天の川

もう一つは、北原白秋の砂山である。

 海は荒海
 向こうは佐渡よ
 すずめなけなけ
 もう日は暮れた

 松尾芭蕉はともかくとして北原白秋の砂山は、かなり有名な童謡である。作曲は、カチューシャの唄やゴンドラの唄などの元祖流行歌を作ったあの中山晋平である。だから中山晋平という名前は、新潟県では知らぬ人はいない。新潟県民にとっては、ゴンドラの唄の作曲者というより、砂山の作曲者なのだ。

 この中山晋平は、他にもたくさんの童謡を作曲している。

『シャボン玉』
『てるてる坊主』
『あめふり』
『証城寺の狸囃子』
『肩たたき』
『雨降りお月』
『兎のダンス』

すべて今でも歌われている名曲ばかりである。特にシャボン玉は素晴らしいメロディーである。童謡という枠を超えて日本で生まれた代表的なメロディーの一つと言っても良い。しかし、最も中山晋平らしい作曲はそこでは無い。証城寺の狸囃子の方だろう。どこが中山晋平らしいかというと、作詞を改ざんして作曲して作ったのが証城寺の狸囃子だからである。最初に、野口雨情が作詞したときは、

 証城寺の庭は
 月夜だ月夜だ
 友だち来い
 おいらの友達ァ
 どんどこどん

という歌詞であった。これを

 しょ、しょ、証城寺
 証城寺の庭は
 つ、つ、月夜だ
 みんな出て来い来い来い
 おいらの友達ァ
 ぽんぽこ ぽんの ぽん

に変更した。このほうがメロディーが生きるからである。中山晋平は、そういうことをよくやった。日本の流行歌第一号であるカチューシャの唄からして、歌詞を変更して作曲している。もちろん作詞家の許可は取っている。彼は作詞を変えることによって素晴らしい作曲をすることを得意としていた。要するに彼は文人としての能力もあり、ある意味で天才的な作詞家でもあったのだ。

 ところが、彼は上野音楽学校では何度も落第しかかっていた。理由は、ピアノ科のくせにピアノはへたくそだったからである。しかし、田舎者の彼は、素朴すぎる故に素行が良いとされ彼を応援する教授たちも多く、なんとか無事に卒業している。

 この逆が、横山祐吉である。彼は中学校四年で、難関の上野音楽学校を一発で合格している。中山晋平は、本人はひた隠しに隠しているが、 一年浪人している。つまり、入学時の音楽の才能としては、横山祐吉の方がはるか上だったとも言えるが、横山祐吉のほうは素行が悪いとされ、音楽学校を中退せざるを得なかった。

 これは当時としては決して珍しいことでは無い。そういう人はやたらと多かったのだ。横山祐吉の一年先輩である歌姫・佐藤千夜子もそのパターンで退学しているが、男と一緒に天丼を食べたとか、そんなレベルで退学になっているわけだから、素行が悪いといっても今の基準で言えば、何一つ悪いことをしているわけでは無い。

 ただ貧乏な芋学生でバンカラで素朴であった中山晋平は、そういうことのできない人間であった。これが彼にとって幸いした。ただし、彼は、ピアノ科のくせにピアノが下手だった。成績は一番下を這いずり回っていた。

 この二人の共通点が一年以上にわたって東儀鉄笛の弟子であったということなのだが、中山晋平は音楽の師匠として東儀鉄笛の内弟子であった。中山晋平が、東京上野音楽学校に入学する前は、東儀鉄笛の家で書生をしていた。東儀鉄笛とは、千三百年続く雅楽の家柄に生まれ、宮内庁雅楽寮に勤める傍ら西洋音楽などを学び、東京上野音楽学校の講師にもなった人である。中山晋平は、この東儀鉄笛にバイオリンを学ぶのだが、 一年半もかかって全くものにならなかった。あまりにも酷い音程に、東儀夫人はノイローゼになったくらいである。

 横山祐吉は、当時でいる言うところの素行の悪さを問題とされ上野音楽学校を中退し、若月紫蘭の私立演劇研究所に入るわけなのだが、そこの所長が東儀鉄笛である。つまり、東儀鉄笛と言う人間は、その当時において最も有名な俳優の一人であったのだ。しかも、新劇界における天才俳優として日本を一世風靡した人物でもあった。そして、その付き人だった人こそ、のちにアジャパー天国で名をなす喜劇俳優、伴淳三郎である。できは、東儀鉄笛と言う人間は何者なのか?





つづく。

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2015年02月24日

日本YH史外伝 3 東儀鉄笛の正体

 坪内逍遥は、明治期を代表する英文学者で、作家、翻訳家、劇作家、評論家である。シェークスピアを研究し、日本最初の小説論「小説神髄」を発表し、心理主義的写実小説の創造を主張、日本の近代文芸に大きな影響を与えた。そのうえ早稲田大学文学科を創設し日本で初のシェークスピアの個人全訳という偉業を成し遂げている。

 坪内逍遥は、早稲田大学講師であった島村抱月の発案をとりいれ明治三十九年に文芸協会を結成した。それは文学、美術、演劇などの革新を目指して日本の文化芸術の拠点構想だった。大隈重信を会長に、坪内逍遥、高田早苗、鳩山和夫、三宅雪嶺、坪井正五郎などの人物たちが発起人に名を並べている。そして、以下の公演を行った。

明治三十九年十一月、歌舞伎座で、桐一葉(逍遥)、ベニスの商人、常闇(逍遥)を発表。
明治四十年十一月、本郷座で大極殿(杉谷代水)、ハムレット、浦島(逍遥)を発表。

 それまでも、ベニスの商人やハムレットなどは、歌舞伎界の二代目左団次や川上音二郎が演じていたが、かなり試行錯誤をしていた。というのも、この時代にはテレビもインターネットもなかった。もちろん日本人は西欧の文化風習を知らない。例えばドアをノックすると言う風習を知らない。したがって役者がドアをノックした場合、それが何を意味するか観客は分からないのである。

 困り果てた左団次は、劇中に注釈を入れてノックの意味を語ったりもした。そうしないと、西洋の演劇が当時の日本人に意味が伝わらなかったのだ。一時が万事、こういう調子なのである。ここが分からないと、なぜ当時の文士たちが演劇にとりくんだかがわからない。現在の劇団の人たちの苦労と、根本が全く違うのである。

 そもそもベニスの商人やハムレットの台詞そのものが、翻訳調である。つまり日本人の会話になりきってないのだ。そのために、当時の日本には難解であるために意味が通じないということがよくあった。意味がわからなければ、役者なって台詞は覚えられない。感情を込めようがないのだ。

 当時は西洋風の劇場からして、日本にはなかった。当時の日本の劇場には、椅子がなかったのだ。もちろんいすのある有楽座が後日誕生するが、当時の日本人にとっては椅子が心地悪くて非常に不評だった。座敷でないと芝居を見る気がしなかった。

 そういう日本文化の中にいて、西洋演劇を見るということは、非常に奇異なことだったのである。そのために、左団次や川上音二郎のハムレットやベニスの商人は、日本風に翻案したものが多かった。当然のことながら、英文学研究者である坪内逍遥や外国人のベルツなどにとっては醜悪なものでしかなかった。

 シェークスピアを読んだことのある人ならわかると思うが、言葉の洪水でできている。映画のロミオとジュリエットを見たことがある人は多いと思うが、あのセリフを思い出してほしい。むちゃくちゃな言葉の洪水である。愛を語るに、なぜあれほどの言葉の洪水がいるのだろうかと、日本人なら思うだろう。それを日本語に翻訳するわけだから、翻訳調の台詞はますます長くなる。それも直訳に近いものだから余計に分かりにくい。それが動作と合わないのだ。

 そもそも当時の日本には芝居即台詞劇と言う観念が確立されていなかった。日本の伝統的な演劇は、台詞がメインでは無い。歌舞伎の荒事や仕草とか、様式美がメインであるので、台詞は決して多くない。

 もちろん台詞の量的な問題ばかりが原因では無い、当時の翻訳は、話し言葉のリズムやテンポの配慮を欠いていたのである。当時名翻訳と言われていた坪内逍遥のベニスの商人にしても歌舞伎の調子が強かった。現代的な口語訳ではなく能狂言の調子が取り入れられていた。だから耳で聞く舞台の言葉としては非常に分かりにくかったのである。それは森鴎外にしても変わらなかった。役者がこのような変な日本語を鵜呑みにさせられたのだから台詞が頭に入らなかったのは当然であった。

 そのような状況下で文芸協会は素人を寄せ集めてベニスの商人を発表したのだ。結果は、最悪の状況になってもおかしくはなかった。しかし、意外なことにベニスの商人は、 一人の天才的な役者によって注目される。その天才的な役者こそが、東儀鉄笛であった。彼はシャイロックを演じ、そのヒール性(悪役)を遺憾なく発揮したのである。その後も、東儀鉄笛は色々な役を演じ、その都度人々に天才と絶賛された。

 ここで東儀鉄笛の正体を明かそう。

 東儀鉄笛は、明治二年六月十六日東儀鉄笛は生まれている。出身は、京都市上京区である。もっとも誕生の翌年に父(東儀季芳)が上京したために一年も住んでいない。東儀家は千年余も続く雅楽師で、父親は篳篥(ひちりき)の名手として知られている。その教育はスパルタ式そのもので、苛烈を極めたらしい。そのために東儀鉄笛は息子には、雅楽を教えたりつがせたりしなかった。

 ところで明治八年一月二十九日、東儀鉄笛の父親(東儀季芳)は政府から西洋式の音楽を学ぶことを命じられている。外国の使節をもてなすべく洋楽を演奏する必要に迫られていたのだ。

 明治十二年五月鉄笛の父親(東儀季芳)は、ドイツ出身の松野クララ夫人からピアノも習い始めた。ピアノは、明治二年に初めて輸入されているが、実際に日本人が弾きこなせるようになったのは、東儀鉄笛の父親たちが最初であったと思われる。ちなみに明治十三年に東儀鉄笛の父親(東儀季芳)が、「海ゆかば」を作曲している。日本最初の軍歌は、彼が作曲していた。なんと雅楽師が作曲していた。その曲は軍艦行進曲の中間部に今も聞くことができる。

 ところで東儀鉄笛が、宮中に出仕し始めたのは明治十二年であった。当時の雅楽師にとっては、西洋楽器も履修科目になっている。東儀鉄笛は明治十九年ごろに海軍軍楽隊のお雇い外人教師だったドイツ人のフランツ・エッケルトが教えに来るようになっている。彼は「君が代」に伴奏、和声を付けたことで有名だが、東儀鉄笛は、彼から西洋音楽とドイツ語を学んでいる。そして、毎日のように鹿鳴館で生演奏させられていた。鹿鳴館の音楽は、雅楽師たちが担当していた。

(ちなみに明治三十六年にドイツで行われた世界国歌コンクールで「君が代」は一等を受賞して世界最高峰の音楽家たちに賞賛されている。また少なからずの音楽大学の設立に雅楽師たちが関わっているのも見逃せない事実でもある)

 つまり当時の雅楽師たちは、西洋文明の最新教育を受けている知的エリートたちであった。そして薄給な貧乏エリートたちであった。初期は石高十三石。ウルトラ貧乏な足軽よりも更に貧しかった。これでは楽器を維持するのも大変であったことだろう。しかし、彼は明治三十年十一月十日に宮内省を退職している。若い世代の先頭に立ち待遇改善を訴えたが、それがもとで首になったといわれている。

 しかし世間は東儀鉄笛の才能を放置しておかなかった。その後すぐに帝国教育界の事務長に迎えられている。そしてドイツ学協会学校の分校監事、早稲田大学講師並びに職員、と、あちこちから引っ張りだこになっているところをみても、彼の才能を世間がどのように見ていたかがわかる。

(ちなみにドイツ学協会学校。つまり獨協大学の原点にあたる学校では、明治三十二年から明治三十九年まで教壇に立ち、東儀鉄笛の指導のもと明治三十三年の大正天皇のご成婚のお祝いの会に、生徒たちがドイツの軍歌を歌っている)

 実際、彼は宮内省を退職した三ヶ月後に、明治三十一年二月に和応会という会を結成し、海軍軍楽隊、陸軍軍楽隊、雅楽師、東京音楽学校の有力者とともに会合を重ねている。これが縁で東京音楽学校の講師をしたり、音楽塾の講師をしていたりもしている。また、早稲田文学の社員にもなっていた。そして坪内逍遥の文芸協会に出入りするようになるのである。(彼は宮内省を退職して間もなく結婚しているが、雅楽師をやめてからの方が生活は安定していたのかもしれない)

 このような世間に顔の広い知的エリートが、役者として登場し、その才能を遺憾なく発揮したのは、当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。当時の歌舞伎役者たちとは、まるで違う存在なのであった。当然のことながら役者としての幅は広い。なにしろ西洋を肌で知っているし、国家の威信をかけて外国人使節を前に演奏する度胸もあった。それを十八年間宮内省で経験しているのだ。当然と言えば当然である。

 そして、この東儀鉄笛が、素人劇団に毛が生えたようなレベルよりも、もっと冴えない演技しかできなかった当時の文士劇団であった文芸協会の危機を救ったのであった。下手くその中の役者たちのなかで、彼のシャイロックは、完璧に見えた。

 そんな彼に書生として一年半学んだのが、あの中山晋平であった。中山晋平は東儀鉄笛からバイオリンを習っていたが、これは全くものにならなかった。数多くある中山晋平の伝記によれば、東儀鉄笛はほとんど教えてないことになっているが、新劇を研究している資料を読むと全く違っている。東儀家の家族がノイローゼになるほど中山晋平はへたくそなバイオリンを弾き続けていたとあるからだ。おそらく中山晋平にとって、東儀鉄笛の書生をしていた頃の思い出は、中山晋平にとって隠しておきたかった黒歴史だったのかもしれない。彼には、そういう隠し事が多くあるので、彼の伝記の多くは要注意を要する。

 では、日本ユースホステル協会を立ち上げた横山祐吉と、その妻である横山貞夫人にとって、東儀鉄笛とはどのような存在であったのだろうか? 東儀鉄笛が所長をしていた、私立演劇研究所は、横山祐吉にとってとても心地よい空間であったことが分かっている。彼の履歴書に演劇研究所に居たことがきちんと書いてある。実は彼は、心地悪かった過去の履歴は決して履歴書に書かない。そういう男なのである。では、私立演劇研究所とは、いったいどのようなところだったのだろうか?

つづく。

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2015年02月26日

日本YH史外伝 4 新劇研究所

 歴史の中で、大きな役割を果たしながら、全く無名のまま消えていた人が数多くいる。その中の一人に若月紫蘭と言う人がいる。夏目漱石の弟子であり、翻訳家でもあり、古浄瑠璃の研究家でもあり、短歌において名をなした人でもあり、そして新劇運動で決定的な役割を果たした人でもある。

 彼は日本で初めてメーテルリンクの幸せの青い鳥を実質的に翻訳した人である。明治四十五年のことであった。若月紫蘭は、東大の英文科で夏目漱石に文学を学んでいる。夏目漱石とは、何度も手紙の往復をしており、かなり親密であったと思われる。兵庫県洲本中学校教諭、石川県七尾中学校校長代理ののち、

 職分論 サミュエル・スマイルズ
 勤倹論 サミュエル・スマイルズ

を翻訳している。スマイルズは、「天は自らを助ける人を助ける」の名文句で有名な自助論の著者でもある。この自助論は、明治時代に日本で最も多く読まれたベストセラーでもあった。当時の日本人は、自助論を発見することによって、西欧に論語に相当する書物があると思い、この精神によって西欧諸国が近代国家になったのだと理解した。そのスマイルズの著作を翻訳したのが若月紫蘭である。

 彼はその後、1908年(明治四十一年)「万朝報(朝報社)」の記者となっている。万朝報(朝報社)は、大衆的な新聞社で高浜虚子、幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三が在籍した新聞社でもある。その万朝報の記者時代に東京の文化風習を調べ、貴重で歴史的価値のある『東京年中行事 春陽堂(明治四十四年)』を出版している。 さらに明治四十五年においては、

 英語練習ノート・若月保治・東亜堂 1912
 蓄音器の話・若月保治・朝報社 1912
 自動車の話・若月保治・朝報社 1912
 電車の話・若月保治・朝報社 1912
 活動写真の話・若月保治・朝報社 1912
 汽車の話・若月保治・朝報社 1912.8
 飛行機の話・若月保治・朝報社 1912.8

 などを上梓しており、大正にはいってからメーテルリンクの『幸せの青い鳥』を植竹書院で出版している。しかも当時の雑誌(新小説)などに、その梗概が掲載され、評論家たちがいろいろ論評を述べている。

 さらに大正二年、『サロメ オスカー・ワイルド 現代社 (近代脚本叢書)』を出版。

 この台本をもちいて大正四年に芸術座は、島村抱月の演出、松井須磨子の主演で、帝国劇場で公演を行っている。芸術座は松竹と提携して大衆化路線になるのだが、大正七年十一月五日に島村抱月の突然の死、そして松井須磨子の後追い自殺によって芸術座は崩壊する。往年の大女優である水谷八重子は、この芸術座に子役としてでている。

 その水谷八重子は、崩壊した芸術座の残党たちでつくった民衆座でメーテルリンクの『幸せの青い鳥』の主演を演じている。大正九年二月のことである。横山祐吉がまだ麻生中学に在学している頃である。その劇団員の中には、大佛次郎夫妻もいた。前にも言ったが大佛次郎の実兄が野尻抱影。麻生中学校の英語教師であり、小説家でもある。

 とにかく、サロメにしても、青い鳥にしても、若月紫蘭の翻訳脚本によって芸術座などの新劇の舞台が大成功した事実は、新劇界において若月紫蘭の存在を大きくした。

 翻訳といっても、現代における翻訳とは意味が違う。当時の日本には、共通化された口語表現がなかったわけであるから、演劇脚本の翻訳は、新しい日本語(口語)を作る作業にも近いのである。つまり近代日本語を作るにも等しい事業だったのである。

 メーテルリンクの幸せの青い鳥。この作品を映画などで見た人は多いと思うが、よくも悪くも、この作品は、新しい日本語(口語)にかなり影響を与えている。翻訳した若月紫蘭も、かなり衝撃を受けたことであろう。そして、大正十年「人と芸術」を仲間の作家たちと創刊。多くの新作を発表した。さらに翌年、大正十一年十月に万朝報を辞職。東儀鉄笛とともに新劇研究所を設立。

 新劇研究所は、小石川駕籠町(東京都文京区南部の春日町から白山の方に向かったところ)にあった。理事に劇作家の津村京村(つむらきょうそん)、同じく劇作家の平尾盈高(ひらおみつたか)、巌谷小波門下の生田葵山(いくたきざん)などがいて、所長が東儀鉄笛であった。

 そこに新劇の研究生たちが、週に二回ほど集まって台本読みを行った。必ずしも役者になろうという人たちだけが集まったわけでは、ないが、もうすでに役者として活躍しておられる人も研究生の中にはまじっていた。次の公演までの間、役者として修行を行うためだ。

 後日、名女優として歴史に名を残した人をあげれば、千田是也の妻として劇団俳優座の創立に参加した岸輝子(代表作・映画にあんちゃん、白い巨塔など)がいる。この頃の彼女は、陸軍病院の看護婦をやりながら新劇研究所に通っていた。

 千田是也、東野英治郎らと俳優座を結成した東山千恵子(代表作・映画東京物語など)もいたらしいが、詳細は不明である。

 変わり種には、河原侃二(かわら かんじ)という俳優・詩人も通っていた。萩原朔太郎と『侏儒』を創刊し、北原白秋、山村暮鳥、前田夕暮、室生犀星、村田ゑん、尾山篤二郎、木下謙吉、北原放二らと一緒に活動している。その後、水谷八重子の「わかもの座」、村山実たちの「踏路社」に参加し、浅草オペラの舞台にさえ出演していた。また「築地小劇場」の設立メンバーでもあった。その後は、映画スターとして大活躍し、戦前は松竹、戦後は大映で多くの映画に出ている。大映が倒産してからは版画家として活躍した。

 有名どころをいえば、映画監督の豊田四郎(とよだしろう)も研究生であった。「夫婦善哉(1955年)」や「恍惚の人(1973年)」の監督である。彼は次々と文芸作品を発表しつつも、森繁久弥の駅前シリーズを作った名監督である。林芙美子の『泣虫小僧』も映画化している。

 後の作家もいた。『新潮』の名編集者として鳴らし、太宰治の担当だったことで知られる楢崎勤(ならさきつとむ)も研究生であった。彼は小説家でもあり、読売新聞記者としても活躍している。

 作家の有名どころをあげれば、『放浪記』で有名な林芙美子だろう。森光子が長いこと演じた「でんぐりかえり」で有名な、あの『放浪記』の作者である。彼女は、新劇研究所ができた翌年にあたる大正十一年に上京し、下足番、女工、事務員・女給などで自活しながら、新劇研究所に通った。そこでシナリオを読むという体験をし、その影響か『芙美子』という名前でシナリオ風な日記をつけはじめた。それが『放浪記』の原型になっている。ちなみに、この関係で知り合った新劇役者と彼女は同棲しているし、年末年始には横山祐吉の自宅でカルタ大会に参加している可能性も高い。

(ちなみに彼女の文学的自叙伝によれば「私は、大正十一年の秋、やっと職をみつけて、赤坂の小学新報社と云うのに、帯封おびふう書きに傭やとわれて行きました。日給が七拾銭位だったでしょう。」とある。言うまでも無く小学新報社とは、鹿島鳴秋や清水かつらが「少女号」の出版社であるが、後年、横山祐吉もここで働くことになる)




 シナリオライターを目指している人もいた。新劇研究所のそばで小学校教員をしていた天笠貞である。彼女は、ここで横山祐吉を見初めて彼と結婚する。そして、志賀恭子という名前で児童作家としてデビューする。

 東儀鉄笛の付き人をしていた伴淳三郎は、新劇研究所の入所しようとするが、あまりにも秋田弁の訛りが酷いので、面接で若月紫蘭に落とされてしまった。アルファベットを秋田弁でしゃべってしまい、聞き取れなかったらしい。所長の東儀鉄笛の付き人であっても、ダメなものはダメであった。しかし、転んでもただでは起きないのが伴淳三郎である。
「東儀鉄笛の付き人の俺は、秋田弁で新劇研究所を落とされた男」
という秋田弁キャラを確立させ、それを売りに映画界に残った。

そして新劇研究所に合格した映画監督の豊田四郎と出会い、あの駅前シリーズで起用され大ブレークするのである。世の中、何が起きるかわからない。




つづく。

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2015年03月09日

日本YH史外伝 5 マイフェアレディ

日本YH史外伝5

 日本ユースホステル協会を設立した横山祐吉は、若い頃、若月紫蘭の新劇研究所に通っていた。何故新劇だったろう?それがわからなかった。そこで私は、国会図書館に通って新劇について多少なりとも調べてみた。そして大筋を理解した上で、ブックオフやAmazonで片っ端から新劇関係の資料というか本を買いあさった。ありがたいことに、かなり貴重な資料が、 1円ぐらいから買うことができる。もちろん書き込みや、劣化の激しい本ばかりではあるが、単なる資料なのでそんな事は気にならない。とにかく資料集めまくり、それがかなり重要なものであったら、何万円しても状態のいい本を再び買い直すから問題ないのだ。

 そんな状態であるので、一階にある3人部屋(12畳)は、私の臨時の書斎となって、新劇の本が山積みになっている状態である。そこには嫁さんは入ってこない。入ってくるのは1歳児の息子だけだ。息子は盛んに新劇の資料を振り回して遊んでいる。本当に困ったものである。

 まぁそんな事はどうでもいいとして、珍しく私の書斎に嫁さんが入ってきた。こういう事は、1年に何度もない。本当に珍しいことではあった。そして何を考えたのか、山積みになった新劇の本をじーっと見ていた。嫁さんは、根本的には、こういう書物には全く縁のない人間である。どちらかというと、ハリーポッターとか、指輪物語みたいな本を読むタイプなのだ。それが何を思ったか、じーっと山積みになった資料をみてつぶやいた。

「これは、大学時代にやったなぁ」
「はぁ?」

 よくよく聞いてみたら、うちの嫁さんは大学で劇芸術と言う物を専攻していたらしい。そういえばそういう話を、結婚前に聞いたことがあったような気もする。山積みされた新劇の資料の中には、彼女が教科書に使ったであろう本もあったらしい。

 これはいいなと思った私は、いろいろ質問してみたが、何も出てこなかった。大学で学んだものは、すっかり消えてしまったらしい。一体4年間で何を学んだのだろうと、不思議に思ったのだが、よくよく考えてみたら、そういうものかもしれない。勉強というものは、自分で自らやろうとしなければ身に付かないものなのだ。外から強制された勉強は、すぐに頭から消え去ってしまうものなのだ。

 これは私も同じである。

 受験勉強などで得た知識は、すぐに忘れてしまう。資格試験で一夜漬けで勉強した知識も頭に残ってない。逆に絶対に忘れることのできない知識というものは、興味があったことか、体でたたき込まれた体験を伴う知識である。

 長い前置きはここまでとして、本題に入る。

 日本ユースホステル協会を設立した横山祐吉は、若い頃、若月紫蘭の新劇研究所に通っていた。何故新劇だったろう?それがわからなかった。そこで私は、新劇について多少なりとも調べてみたら、戸板康二と言う作家が、日本にもマイフェアレディがあったと、発言していたのを見つけ、なるほどなと思った。横山祐吉も、ミュージカルマイフェアレディの主人公のように人生が変わってしまったのだなと思った。



 マイフェアレディというのは、有名なミュージカルである。主演はオードリーヘップバーンで、社会の底辺で暮らしていた発音が無茶苦茶な女性を、言葉を上品に話せるように改造することによって、王女様のような人々に仕立てて、世間を欺くという物語である。この映画の面白いところは、底辺の人々が、徐々に上品な言葉を覚えていくうちに、人格まで変わっていくことである。言葉が変わるだけで、底辺の女性が少しずつ高貴な女性の人格に変化していくのだ。

 その指導をするのは、言語学の教授なのであるが、いつしか底辺の女性はその教授に恋をする。もちろん教授も女性に恋をするのだ。これがミュージカル映画のマイフェアレディの大まかなあらすじである。この映画の見所は、主人公の女性に上品な言葉を教えることによって、人格や身のこなしを含めて何もかもが変わってしまうというところである。

 まさに、こういう事件が過去の日本にもあったのである。そーゆー女性がいたのである。その女性の名前は小林正子。別の名を松井須磨子という。日本初の新劇女優であった。中山晋平が作曲した、あのカチューシャの唄を歌った人でもある。



 松井須磨子が生まれたところは松代である。真田藩士の家柄で、いわゆる旧家であった。そこの9人兄弟の末っ子として生まれている。裕福な旧家の生まれなので何不自由なく育ち、お嬢様として育てられている可能性が高い。おそらく皆に可愛がられていたと思われる。しかし16歳の時に父にしなれた。父は臨終の間際に東京に出なさいと言った。それに従った松井須磨子は、 2番目の姉の家に身を寄せ、戸板裁縫女学校に通った。そして卒業すると同時に千葉県木更津で割烹旅館を経営しているところに嫁いだ。

 ところがである。彼女は、はにかみ屋で声が出なかった。ろくに挨拶ができなかったのだ。これは旅館の女将として致命的であった。おまけに大女であった。顔も美人からほど遠かった。その上、ろくに口がきけない上に、挨拶などの行儀作法もてんで駄目であった。

 旧家の 9人兄弟の末っ子という立場で、甘やかされて育ったせいか、何一つ接客ができなかったのである。18歳まで甘やかされて世間を知らずに生きてきたのだ。そんな娘がいきなり旅館の女将になったとしてもうまくいくわけがない。自信喪失して鬱になるのも無理はないだろう。彼女は、生理が来ると布団に寝込んだ。それを舅が嫌った。その結果半年も待たずに離縁され木更津の旅館を去り東京の榊病院に入院した。そこで知り合ったのが前沢誠助である。松井須磨子は、 4年後にその前沢誠助と結婚するのだが、 そのきっかけが芝居であった。

 前沢誠助は巌谷小波の門下生であった。巌谷小波は、おとぎ話の開祖みたいな人なのだが、その門下生がおとぎ芝居の演劇をやっていた。そこにやってきたのが松井須磨子である。なぜか彼女は女優になりたがっていた。ところが松井須磨子は初対面の挨拶も出来なければ、ろくに口もきけない。美人と言うわけでもなく鼻ペチャでむしろ人並み以下だった。おまけに顔も体も大きく、動きはがさつで、全く落ち着きがなかった。その上教養もなかった。

 女優としては、とても成功するとは思えなかったのである。

 そんな彼女が、唯一武器にできる物と言ったら、女性と言う武器である。といっても、社交的なわけでもなく、大して美人というわけでもないので、果たして武器になったかどうかはわからない。

 しかし、現実世界は、理屈通りには動かない。
 この挨拶もできない松井須磨子を嫁にする物好きな男がいた。
 前沢誠助である。

 何がどこを気に入ったのか、彼が彼女にデレデレになり、自分のコネをフル活用して松井須磨子を女優にするのである。

 まず坪内逍遥の文芸協会の演劇研究所に研究生として入所させた。おそらくそこしか入るところがなかったと思われる。どんなドサ回りの劇団であっても、挨拶もできない器量の悪い大女に仕事がなかったと思う。しかし坪内逍遥は、彼女の入所を認めた。理由は簡単で、でかいからである。同期に3人の女性がいたが、 3人ともでかかった。みんな170センチぐらいあったといわれる。



 この文芸協会に講師として存在していたのが、東儀鉄笛であり、島村抱月であった。
 東儀鉄笛は、いわゆる明るいスケベで、よく下ネタを言っては人を笑わせる。
 それに対して島村抱月はむっつりスケベであったらしい。

 松井須磨子は、もともとは不器用な人間だったので、とにかく一生懸命演技の勉強した。と言うより前沢誠助のコネクションで、いろいろ家庭教師をつけて頑張った。当時、最新技術であった整形手術も前沢誠助の援助でしている。前沢誠助は、ありとあらゆる力を使って松井須磨子に尽くした。そして松井須磨子は、文芸協会の島村抱月や坪内逍遥に認められるようになる。つまり、マイフェアレディの日本版がそこにあったのだ。

 しかし事実は小説より奇なりである。
 いや、事実はミュージカル映画より奇なりである。

 この物語は、マイフェアレディのようにハッピーエンドでは終わらなかった。松井須磨子は、そこまで尽くしてくれた前沢誠助をいとも簡単に捨ててしまうのである。そして、次のパトロンを探し求めるのだ。最初は坪内逍遥に甘い声をかけたようだが、倫理に厳格な坪内逍遥にそんなものが通用する訳がない。明るいスケベの東儀鉄笛にも何か仕掛けたようだが、京都人である海千山千の東儀鉄笛に通用する訳がない。

 最後に残ったのがむっつりスケベの島村抱月である。もちろん妻子がいる。小さな子供たちもいて、あのカチューシャの唄やゴンドラの唄を作曲した中山晋平が書生として、島村抱月の子供の子守をしていたのである。その島村抱月を松井須磨子は公私ともに何かと頼るようになった。依存するようになった。

 松井須磨子は依存症の病気を持っていた。 17歳で旅館の嫁になって捨てられてしまった女である。それがトラウマになったのだろうか? 何かに捨てられまいと、怯えるように、常に誰かに依存するようになっていた。最初は前沢誠助に依存していた。そしてマイフェアレディのように女優としてデビューする。すると前沢誠助のことはケロリと忘れてしまって、島村抱月に依存してしまった。いつも全方位に顔を向けて、依存すべき人間を探しているような女性だった。だから、島村抱月でなくてもよかったのかもしれない。しかし、島村抱月は、自分に依存してくる松井須磨子を支えてしまったのだ。そして不倫関係が成立してしまうのである。

 中山晋平は、それに苦しんだ。
 島村抱月の子供たちが悲しんでいる姿にを苦しんだ。
 それを師匠である島村抱月に何度も訴えたが、だめだった。

 中山晋平がのちに童謡作家として数々の名作を残すのは、この時の苦しみがあったからである。そう思うと、彼が作曲した砂山やシャボン玉を聞いてみると、心にズシリとくるものがある。



 それはともかく、マイフェアレディのような物語はこれ1つでは無い。日本ユースホステル協会を作った横山祐吉にも同じような体験があったのである。彼も芸事で大化けした体験が何度もあったのだ。最初は弁論であった。無口でろくに挨拶もできず、人と口がきけない横山祐吉を大きく変えたのは麻生中学校の弁論部であった。彼はその弁論部で、先輩たちから弁論を鍛えられ、弁論大会で代表に選ばれている。その時に毛虫が蝶々に変化する快感を覚えたのだ。

 次は音楽であった。横山祐吉の音楽の才能を開花させた男は、目の見えない視覚障害者であった。目が見えないにもかかわらずピアノを弾く友人に音楽の才能を開花させられた。ここでもマイフェアレディのような奇跡が起きた。毛虫が蝶々に変化した。そして東京上野音楽学校の声楽科に1発で入学している。

 そして次は新劇であった。もちろんここでもマイフェアレディのような奇跡が起きている。というかもうすでに奇跡とは言えない。弁論部で鍛えた声、声楽科で鍛えた声、それらの才能が、台本の朗読で人々を驚かしている。ここでは最初から蝶々であったかもしれない。ただ不思議なことに、横山祐吉は、毛虫を蝶々に変えてくれた恩人の名前を後世に残してない。

 ただ一ついえることは、松井須磨子ほどでは無いにしても、少しばかり人に依存するようなところがある。それは彼のその後の人生を見るとよくわかるのだ。 そして依存すべき人々に全て先立たれてしまうと、彼は振るわなくなるのだ。


つづく。

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