2010年02月26日

私の小学校時代を思い出した1

アドベンチャー集団doがお泊まりになりました

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 先日、アドベンチャー集団doがお泊まりになりました。アドベンチャー集団doとは、小学生の自然体験を主に行っている団体です。なのでユースホステルにちびっこが登場。いいですねえ。ユースホステルぽくて良いですね。で、子供たちを見ていると、私が子供だった頃の事を思い出してしまいました。

 実は私は、いや、私の同級生は、かなり変わった小学生時代をおくっています。事のはじまりは、小学校1年生の時のことです。担任になった女性の先生が、1年の1学期で入院してしまったのです。

 私は、この先生が大好きでした。
 そして、この先生は、とても面白い先生で、
 とにかく子供たちを笑わせる天才でした。

 たとえば「雀(すずめ)」の絵を見せて、スズメという文字を書かせます。私たちは、覚たての文字を使って「すず目」とか、鈴木君などは「鈴め」とか書いたりします。すると先生は、「すず目」とか「鈴め」の文字を見て、
「目玉に羽根が生えて空をとぶのか?」
「鈴に目がはえるのか?」
と、オーバージェスチャーで笑わせてくれます。

 あと、私語をしたり、迷惑行為をする子供たちがいたら、全員に、こう叫ばせました。

「あかちゃん、あかちゃん、べろべろばー!」

 こういう指導は、今だったら問題になったかもしれませんが、私の記憶に間違えなければ、これによって、誰もが行儀良くなりました。みんな「あかちゃん」呼ばわりされたくなかったんです。

 あと、小学校1年生だと、早生まれと、遅生まれに差が出てきます。どうしても早熟な子がいるんです。そして、早熟の子は、みんなに知ったかぶりをする。すると、先生がやってきて例のオーバージェスチャーで

「頭でっかちカブンスウ!」

と頭を大きくみせて、みんなを笑わせました。これは、志村けんのアイーンや、ダッフンダみたいなものなのですが、そういう一発ギャグをいっぱいもってて、みんなを笑わせたのです。ちなみにカブンスウの意味は、3年生の時に入院している先生をお見舞いに行き、御本人から聞き出しました。よーするに過分数のことですね。分母より分子が大きい数字。だから「頭でっかちカブンスウ!」だったのです。

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 まあ、そんなこと、どうでも良いのですが、この大好きだった担任の先生が、夏休み前に入院してしまった。病名は、あとで知らされたのでしたが癌でした。当時は不治の病でした。ところが、先生は、4年間にわたって生きながらえた。

 ここから不思議なことがおきます。
 1年の2学期に別の先生が担任になり、
 2年になると、さらに3人の先生が担任となり
 合計4回入れ替わったのです。
 つまり、2年間に5人の先生に習ったのです。

 1学期ごとに、よーするに4人の代用教員に教わったのですが、こういう経験は、ちょっと珍しいのではないでしょうか? これに対して父兄は、不満を漏らしたと言います。私の父も怒っていました。しかし、子供たちには、少しも不満がなかった。子供にしてみれば、正教員も代用教員も、先生は先生です。

 むしろ、子供たちの嗅覚は、代用教員の方に軍配をあげていました。どの先生も、別れ際に涙があふれていましたし、お辞めになってから、小学校にジャングルジムや滑り台なんかを寄付してくれていました。そこには確実に二十四の瞳の世界があったと思います。

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 例えば、小学校2年生の3学期のことです。学芸会で何をやるかホームルームで相談した時のことです。だれか女の子が
「バレーを踊りたい」
と言い、先生が
「やりましょう」
と言った。

 もちろんみんな、バレーなんか踊れるはずがないし、先生だって踊れない。で、どうしたかと言うと教科書を閉まって朝から晩までバレーの稽古をして、ついに学芸会で、『くるみ割り人形』を踊ってしまった。佐渡島という田舎の小学校の、小学校2年生が。今だったら絶対に問題がおきていたでしょうが、当時は、おおらかだった。

しかも、これは、1969年のことだった。


つづく。

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2010年02月27日

私の小学校時代を思い出した2

私が小学校に入学したのは、1960年代の末でした。そして、入学早々、担任の先生は、夏休み前に入院してしまいました。癌でした。先生は、4年間にわたって闘病生活をおくることになりますが、ここから不思議なことがおきます。

 1年の2学期に別の先生が担任になり、2年になりますと、さらに3人の先生が入れ替わりに担任となり、合計4回入れ替わったのです。つまり、2年間に5人の先生に習ったのです。1学期ごとに4人の代用教員に教わったのですが、これに対して父兄は、不満を漏らしたと言います。私の父も怒っていました。

 しかし、子供たちには、少しも不満がなかった。むしろ、子供たちの嗅覚は、代用教員の方に軍配をあげていました。どの先生も、別れ際に涙があふれていましたし、お辞めになってから、小学校にジャングルジムや滑り台なんかを寄付してくれていました。そこには確実に二十四の瞳の世界があったと思います。

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 例えば、小学校2年生の3学期のことです。学芸会で何をやるかホームルームで相談した時のことです。だれか女の子が
「バレーを踊りたい」
と言い、先生が
「やりましょう」
と言いました。もちろんみんな、バレーなんか踊れるはずがありませんし、先生だって踊れません。で、どうしたかと言うと教科書を閉まって朝から晩までバレーの稽古をして、ついに学芸会で、『くるみ割り人形』を踊ってしまいました。


 そして、小学校3年生になりました。
 クラス替えが行われました。


 癌で入院した先生に、学校が見切りをつけ、代用教員ではなく、正規の先生を雇うことにしたのです。そして、その正規の先生というのは、大学を出たばかりの新任の先生でした。いわゆる団塊の世代の先生であり、しかも男の先生でした。そのためにクラス編成まで変えてしまいました。

 私は、団塊の世代の新任の先生のクラスに入りました。

 そして、その先生に3年間習うことになるのですが、この先生が変わり者でした。いわゆる典型的な団塊世代の先生でした。そのために驚きの毎日が続きました。

 今までの代用教員の先生の世界は、二十四の瞳の世界でした。どの先生も母親のような優しさがあり、いつも易しい言葉を使って、優しい言葉をかけてくれました。

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 しかし、団塊世代先生は、容赦なく難しい言葉を使いました。今まで聞いたことのない単語が耳に入ってきました。「ジミントウ」とか、「アンポ」とか、小学生には理解しがたい単語がポンポンでてきました。でも、授業は面白かった。なにしろ脱線が多かった。いつの時代だって、子供にとって脱線は大歓迎です。だから子供たちの人気者でした。

 ただし、「★★先生」とは誰も言わなくなりました。
 かわりに「★★」と呼び捨てにしました。

 その先生は、当時佐渡島の金井町に1軒しかない、パチンコ屋によく出入りしていました。台は十台しかない小さなパチンコ屋でしたが、そこにいくと必ず、その先生が居ました。日曜日には、かならずいますので、用があるとパチンコ屋に駆けつけたものでした。そういう小学校の先生は、今まで見たことがありませんでしたので、そういう理由でも、その先生は人気者になりました。ただし、みんなに呼び捨てにされていました。


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 その先生は、豆が嫌いでした。
 給食に豆が出てきますと、露骨にムッとしていました。
 とくにヒジキに入っている大豆にムッとしました。

「おい★★の機嫌悪いぞ、どうしてだろう」
「うーん、どうしてだろう?」
「あ、豆だよ豆。ヒジキに豆が入ってる!」
「あー、そうだったのか」

 子供たちは、ムッとしている先生のために、せっせと、先生の給食から豆を一つ一つ取り除いてだしました。すると先生は、ニコッと笑い顔を見せました。そんな先生は、今まで見たことがありませんでしたので、そういう理由でも、その先生は大人気者になりました。ただし、みんなも、嫌いなものを遠慮無く残飯にしました。


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 ある日、ホームルーム(当時は、学級活動といった)で、
 先生は、こんなことを私たちに問い始めました。

「君たち! 今、百万円あったら、何が食べたい?」
「・・・・」

 質問の意図が分からなかったので、
 私は黙っていましたが、同級生たちは

「スイカが食べたい」
「一番高いチョコを食べたい」
「十段のケーキを食べたい」

と、めいめい答えていました。
そして、最後に先生が答える番になりました。
私たちは、わくわくドキドキ先生の回答を期待して待ちました。

 どんな立派な答えがでるのだろうか?
 どういうオチがあるのだろうか?
「百万円で飢えた難民のたちに、余っている米を買って、海外に送れ」
 なんていうオチを想像しながら、
 先生の回答を
 わくわくドキドキ期待して待ちました。
 きっと、いい話にまとめてくれるんだろうなと。
 しかし、先生の回答は、意外なものでした。

「先生は、百万円あったら、中華料理のフルコースを食べたい
「・・・・」

 沈黙が教室に流れました。
 沈黙には2通りありました。
 どこがオチなのか?という沈黙と
 フルコースという単語の意味がわからないという沈黙でした。

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つづく。

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2010年02月28日

私の小学校時代を思い出した3

 つづきです。小学校3年生の時、私は、団塊の世代の新任の先生のクラスに入りました。そして、その先生に3年間習うことになるのですが、この先生が変わり者でした。いわゆる団塊世代先生でした。驚愕の毎日が続きました。詳しくは、私の小学校時代を思い出した2を読んで貰うとして、この頃、私の家庭に異変がおきました。

 父親が、成績が悪い私にガリ勉を要求しだしたのです。
 テストの点が悪いと、遠慮無く私を殴りつけました。

 そのうえ小学校教師である母親が、私と同じ学年を担当することになり、家に帰ると、母親が私の勉強をみだしました。具体的にいうと、授業の予習をさせました。その結果、私は、とんでもないことになりました。

 学校が、つまらなくなってしまったのです。

 どんな授業も、すでに自宅で予習してあったために、教室の授業が、まるでつまらないのです。そのために、授業中に漫画を描いたり、悪戯をしたり、居眠りをしました。

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 団塊世代先生は、そんな私を注意し、何か質問などをするのですが、すでに予習してあるので答えられました。しかし、それで学校の成績が良かったかというと、全くダメでした。だいたい授業がつまらなくて、授業をサボっていますので、成績が良くなる訳がありません。だから私は、今でも、公立小学校においての授業の予習は、害毒そのものだと思っています。

 公立小学校では、授業は絶対に予習してはダメ。
 むしろ予習は禁止し、
 学校で先生から楽しく学ぶことに専念する。
 どうしても勉強させたいなら復習だけにする。


 これが公立小学校においての子供の正しい勉強だと思います。
 でないと、子供は授業嫌いになってしまいます。

 まあ、そんなことは、どうでも良いのですが、団塊世代先生は、新任であるために、それなりに教育熱心でした。そして私に対して不思議そうに首を捻っていました。どうして、授業をサボっているのに質問しても答えられるのだろう? なのに、どうしてテストの点が悪いのだろう?と。教育熱心な先生であればあるほど、そういう疑問が湧いたのだと思います。それを事あるごとく教室で言いましたし、家庭訪問でも言いました。私は、そんな団塊世代先生に漠然と

「何で、そんなに頭の悪いことを言うのだろう?」

と不思議に思っていましたが黙っていました。

 下手なことを言って、告げ口されて厳格な父親を怒らしたくなかったし、母親から余計に勉強をみさせられたらたまったものでなかったからです。だから黙っていました。


 そして小学校5年になると、
 大事件がおきました。
 父親が浜松に単身赴任で転勤してしまったのです。

 厳格な父親がいなくなりますと、これ幸いとばかりに、
 自宅で予習するのをやめてしまいました。
 もちろん復習なんかするわけがない。

 つまり、全く勉強しなくなったのです。

 かわりに毎日遊びまくりました。
 すると意外なことがおきました。
 成績がアップしました
 具体的に言うと通知表が4と5ばかりになりました。
 こんな事は、生まれて初めてでした。

(ちなみに中学になると父親が単身赴任から帰ってきて、また成績が下降した)

 世間の先生や親たちは、
「遊ぶだけで、成績がよくなるわけがない」
と思うでしょうが、事実は小説よりも奇なりです。
どうして成績がアップしたのか、ちょっと説明してみます。


 私は、遊びに熱中するあまり、
 オタク世界にまっしぐらに進んでいました。



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 まず切手。切手オタクに走るあまり、切手情報なら何でも知っていました。小学校5年生で国立公園と国定公園を全部言えましたし、どこにあるかも地図で知っていました。そういう切手のシリーズがあったからです。

 広重の五十三次名所図会にも調味をもち、五十三次ことなら何でも言えるようにもなりました。そういう切手のシリーズがあったからです。切手オタクの道を極めると、小学5年生の子供を、高校生並みの知識魔に成長させうるのです。当時はインターネットが無かったので、切手オタクたちは、図書館にいりびたりました。


 軍事オタク・兵器オタクの道にもすすみました。

 艦上戦闘機・翼面過重・馬力過重・機械式過給器・風洞実験といった難しい漢字が読めるだけでなく、意味まで理解したうえに、空気力学や機械工学や原子物理学まで調べるようになりました。

 おまけに第二次大戦の兵器なら何でも数字が言えるようになりました。例えば、零戦二十一型の乾燥自重、装備重量、全幅、全長、翼面積、発動機、速力、上昇力、航続距離などを全てピッタリ言い当てられるようになりました。兵器の種類なんて、何千もあるわけですから、何万という数値を暗記したことになります。

(ただし今は全部忘れてしまったが)

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 もちろん怪獣オタクの道にも進みました。怪獣の身長体重は、全部ピタリと言い当てられましたし、ついでに恐竜についても詳しくなり、最終的には肉食動物まで詳しくなり、動物博士になったものです。そして虎とライオンが戦うと、どっちが強いか?などと空想しました。


 さらにラジオオタクにもなりました。通信販売で部品を買い、自作ラジオを作って遊びました。金がなくなると、いろんな所からガラクタを集め、片っ端からハンダ付けにして、珍妙な機械を製作したりしました。ハンダ付けが面白くて面白くてしようがなかったんですね。さらに照度計を自作して、ありとあらゆる照度を調査したり、テスターでいろんなものの電流電圧を調べました。

 そのうち高性能の短波放送用のラジオを買って貰うことに成功し、世界各国の日本語放送を受信し、電波情況を放送局に手紙に書いてベリカードを貰うようになりました。ベリカードとは、聴取者が放送局に受信報告書を送付した際に、その証明として放送局が発行するカードのことで、当時、それを集めるのがブームになっていました。

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 時代劇オタク・歴史オタクにもなりました。
 テレビの大江戸捜査網の虜になり、隠密同心ごっこをやりました。
 それがこうじて図書館で夢中で捕物帖を読みました。
 それが最終的に岡本綺堂の半七捕物帖に向かうのですが、
 今思えば恐ろしい小学生だったかもしれません。
 なぜなら岡本綺堂の本は、大人でさえ難しい読み物だからです。

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 SFオタクにもなりました。小学5年生ともなりますと、ウルトラマンでは我慢できなくなります。そういう年頃になった頃、NHKの少年ドラマシリーズが始まり、タイムトラベラー(時をかける少女)に熱中しました。

 当時、どの図書館にも、SF小説専門のハヤカワ文庫がありましたから、それをかたっぱしから読みました。おかげで、小学生のうちから慣性の法則とか、相対性理論を独学で学び始めるようになりました。

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 話が大きくずれましたが、私が何を言いたかったかと言いますと、こういった遊びの結果、学校の成績が上がったということなんですね。別に真面目に勉強したわけでないし、塾にかよったわけでもない。自慢じゃありませんが、父親が単身赴任してから一度だって勉強したことがありません。それがかえって良い結果を出すようになったのは皮肉です。

 あと、どういうわけか団塊世代先生は、夏休みに宿題をだしませんでした。出さない理由も言いました。団塊世代先生は何やら難しい教育理論を述べたような気がするが覚えてません。
 おかげで思いっきりオタク道に走ることができました。
 その結果、小学5年生くらいで、かなり難しい事を調べるようになり、真面目に勉強しなくても成績が良くなったのです。だから私は、今でもオタク道に対して、否定的な感情をもっていません。むしろ肯定的な考えをもっています。

 逆に小学生のうちから子供たちに勉強させることに否定的な考えをもっています。小学生にとって大切なことは勉強ではなく、好奇心であると。一番大切なことは、健全な好奇心を育てることであって、それさえ育っていれば、あとは放っておいても子供たちが勝手に勉強し出すもだと思っています。

 私がユースホステル運動を行っている原点は、そういった私の過去が、私をつき動かしているからです。だからガラにもなく、リヒャルト・シルマンの伝記まで書いてしまった。




つづく。

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2010年03月01日

私の小学校時代を思い出した4 スカートめくりの話

私の小学校時代を思い出した4

 つづきです。小学校3年生の時、私は、団塊の世代の新任の先生のクラスに入りました。そして、その先生に3年間習うことになるのですが、この先生が変わり者でした。いわゆる団塊世代先生でした。驚愕の毎日が続きました。詳しくは、私の小学校時代を思い出した2または3を読んで貰うとして、今回は、スカートめくりの話です。

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 当時、男子の間でスカートめくりがはやりました。スカートめくりをしない奴は、男ではないという風潮でした。そこで団塊世代先生は、スカートめくりをした男に、こんな罰を与えました。帰りのホームルームの時に、みんなが見ている前でパンツを脱がされフルチンにさせられたのです。今だったら問題行為でしょうが、これでスカートめくりの悪弊は消えて無くなりました。

 本来なら、これで「目出度し目出度し」ということになるのでしょうが、そうは問屋が卸さなかった。確かにスカートめくりは無くなったが、いぜんとして男子たちは、みんなが見ている前でパンツを脱がされフルチンにさせられたのです。

 冤罪のために。

 女子たちは、どんどんつけあがっていきました。最初は掃除をサボると「スカートめくりされた」と先生に訴え、みんなが見ている前でパンツを脱がされフルチンにさせられました。

 それが、いつの間にか、女子たちが掃除をサボって、男子たちだけが掃除をするようになった。そうしないと、みんなが見ている前でパンツを脱がされフルチンにさせられるからです。

 よーするに女子に脅されたわけです。

 これは子供ながら貴重な体験でした。
 権力の恐ろしさ、冤罪の恐ろしさを
 身をもって体験したからです。

 と同時に、何が問題であったか、何が間違いであったかが、子供心に理解できるようになりました。団塊世代先生の間違いは、相手の証言を一方的に信じたことにあり、それが恐ろしい事件を引き起こしたということを。つまり被告に反対尋問の権利が無かったために、冤罪が次々に生まれていったということを小学3年生で学ぶことができたことは、非常に貴重な体験でした。

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 日本国憲法第37条の2には
「刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ」
と書いてあります。

 だから反対尋問を却下された田中角栄裁判が暗黒裁判だったことを
 渡部昇一氏が指摘した時には、すぐに気がつきました。
「ああ、田中角栄は、パンツを脱がされフルチンにさせられたんだな」と。


 そうそう、田中角栄で思い出したことがあります。

 私の名前は、佐藤ですが、私が小学校5年生になるまでは、日本の総理大臣は、佐藤総理でした。この佐藤総理が、なかなか総理を辞めなかったので、全く縁もゆかりもない私に対して、みんなは
「佐藤はいつ辞めるんだ?」
とからかい始めました。

 当時、庶民は次期総理として田中角栄を待望していました。
 私の実家は新潟県ですから、田中角栄は人気がありました。
 それがエスカレートしていって
「佐藤総理は辞めろ! 田中角栄に変えろ!」
と関係ない私を殴ったり、つねったりするようになりました。

 小学生というものは、まことに、たわいもないことでイジメをはじめるものです。私は、こんなつまらないことでイジメのターゲットにされたわけですが、イジメの原因なんて、たいていが、つまらないことがきっかけだったりします。

で、田中角栄が総理になり、その田中角栄が金脈問題で退陣すると、
 みんな田中角栄の悪口を言い出しました。その時は、
「みんな、本当に節操がないな」
とあきれたものです。

 そのうえ佐藤元総理が、ノーベル平和賞をもらうと
「やっぱり佐藤総理は偉かった。それに比べて田中は....」
なんて言い出した奴が多かったのに、言葉もでませんでした。

 人間というものは、なんと無責任な生き物だろうと思ったものです。

 ところでイジメと言えば、小学生時代には、つきものですね。
 私も、イジメの被害者・加害者両方を体験しました。
 酷かったのは、ある子をクラス全員でいじめたことがあった。
 その時は私も加害者だった。
 今から思えば、なんであんなことをしたんだろうと思います。

 それは、ほろ苦い思い出であり、
 今でも目ざめの悪い思い出です。
 具体的に言うと、
「野ブタ。をプロデュース」
という番組がありましたが、ほぼ、同じようなイジメが、私の小学生時代にもありました。具体的に言うと、下記の動画のようなイジメです。





 その時、一人一人は大したことをやってなかったと思いますが、クラス全員でやると、これが凄いダメージになるのです。というのも、私もやられたことがあるので、そのダメージの大きさがよくわかるのです。これは、やられた者でないと、なかなか理解しにくいでしょうね。

 で、今になって当時を思い出すと、イジメのおこりやすいクラスと、そうでないクラスがあったことです。というのも、全くイジメが無かったクラスもあったからです。では、どういうクラスにイジメが多かったかといいますと、みんなが仲がよいクラスほどイジメが多かった。団結心が強いクラスほどイジメが壮絶だったんですね。

 逆にイジメがおこりにくいクラスというのは、あまり、まとまりのないクラスだった。具体的に言うと、リーダー的な存在が、いなくて、各自がめいめいオタク道に走っていて、一人一人、別々の趣味の世界をもっているようなクラスでは、イジメはおきにくかったような気がします。

(だから私は趣味の世界に走るオタク道に否定的ではありません)

 それが証拠に中学生になったらイジメは、消えていった。中学生になると、小学生時代よりも多趣味になるし、クラブ活動が盛んになります。みんなで一緒に団体行動することなんか無くなって、自分の好きな世界に没頭し出すので、イジメなんかやってる暇がなくなるんですね。


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 高校になると、もっと、その傾向が強くなる。

 ところで私は高校時代に転校しています。
 それもかなり特殊な高校に転校しています。

 具体的に言うと、小学生時代に逆戻りしたような高校に転校した。その高校の先生たちは、非常に特殊なイデオロギーをもっていて、やたらとクラスの団結を強調する高校でした。

 具体的に言うと、文化祭のために1ヶ月ほど、授業を中止して、文化祭の準備だけをおこなう高校でした。勉強なんかどうでもいいという感じで「クラスのまとまりこそ一番大切」という姿勢の学校だった。その学校に転校して驚いたことは、小学生のころにやっていたイジメを目撃したことでした。具体的に言うと、知恵遅れ気味の同級生を殴る蹴るの暴行でいじめていた。ちょうど、こんな感じです。下記の動画をみてください。




 これを目撃した時、目が点になったが、
 それをやめさせようとすると、一緒にイジメられるようになる。

 転校する前は、元旧制中学の進学校にいたので、イジメなんて想像もつかなかった。そんなことをする暇があったらクラブ活動や受験勉強をやっていたし、だいたい、そういう大人げないことは、自分自身のプライドが許さなかったと思います。

 しかし、クラスの団結を強調する高校では、さかんに誰かをイジメていたんですが、悪質なことには、そのイジメには、「和をみだす」という大義名分があったんです。だから始末におえなかった。

 で、そういうイジメに義憤をもっていたら、
 わりと、まともだった某先生が、
 私の心中を察して

「こういう空気が、維新や戦争や安保闘争の原因を作ったんだよ」

とおっしゃり「空気の研究・山本七平」という本を紹介してくれました。それを読んだ私は、すっかり目から鱗が落ちました。全ての謎が全部解けたという感じになりました。そして、その瞬間から私の人生が変わったのです。

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つづく。

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2010年03月02日

私の小学校時代を思い出した5 ハブ

私の小学校時代を思い出した5

 つづきです。今回は、ハブについてです。

 ハブといっても蛇のことではありません。仲間はずれのことです。イジメに似ていますが、イジメとは違います。イジメの場合は、徹底的に除外することですが、ハブとなるとそうではない。ある一定限度は仲良くする。しかし、一定限度を超えたところでハブく(省く)。つまり除外することです。生かさず殺さず除外する。見方によっては、イジメより残酷です。


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 しかし、このハブという言葉は、新潟県にはありませんでしたし、私の子供の頃にも体験した記憶がない。世代が違うからか?というと、そうでもない。同じ世代でも東京においては、ハブは、日常においてよくみかける行為だったと言います。今は、どうなんでしょうか?

 私が、このハブという言葉を知ったのは、東京に上京してからのことで、その存在を知って驚愕した覚えがあります。具体的にいうと、ある人と仲良くしていたら、別の友人が急によそよそしくなった。そして、どこかに呼び出され、このように忠告されました。

「あいつハブられているんだよ、お前も近寄らない方がいいぞ」
「はあ?」
「つるんでると、おまえもハブられるぞ」

 しかし、そんな忠告は無視したので、私もみんなからハブられたらしい(笑)。で、あえて「らしい」と書いたのは、日常生活の上で全く問題がないために、全く気がつかなかったからです。どうやらハブられているらしいのですが、当時の私は多趣味だったし、我が道をすすんでいるために、何一つ問題がなかったのですね。そのためにハブっている人間も、ハブっていること自体忘れてしまったみたいなのです。それを後で、友人が教えてくれて大笑いしたことがある。

 で、ここからが問題なのですが、ハブられていることを気にしている人は、ますますハブられていったことです。そして、それがイジメにエスカレートしていったことです。

 つまり仲間はずれにされるのに敏感な人ほど、ハブられやすいといえうことであり、鈍感な人ほどハブぶられにくいということです。いつも友達とつるみたがる人ほど、ハブられやすいんです。最初から我が道をいってる人は、ハブの対象から除外されてしまうんですね。

 だいたい一人だと気が楽ですよね。気を遣わなくてもいい。自由、束縛がないから好きな趣味に思いっきり走れます。自分の好きな時間の使い方ができるます。学校なら勉強、職場なら仕事に力を入れることもできます。悪いことは一つもない。

 でも、決して人づきあいを無くすのではなく、困ってる人がいたら助けるし、声をかけられたら返事もします。一人でも何も困らないけれど友達が増えるのは、嬉しいなとは思っている。でも、無理してつるまない姿勢はもっている。そういう人は、ハブの対象から除外されてしまうんです。



 さて、ここからは、私の小学生時代の思い出です。
 新潟県には、ハブという言葉も無かったし、
 そういう文化もなかった。
 イジメはあったけれど、ハブは無かった。

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 けれど、ある時、事件があった。ある女の子が
「某先生は贔屓する」
と盛んに噂をながしたんですね。

 すると、その先生には「贔屓先生」というレッテルが貼られ、それがクラス中に広まった。まあ、そういう事は、子供たちの間では良くあることで、たいていの先生は、気にもしないんですが、その先生は気にしたんです。そして、よせばいいのに子供たちの前で謝ってしまった。

 それからが、もう大変だった。

 謝ったことが火に油を注いだようになって、ますます子供たちのバッシングは先生に強まってしまった。といっても相手は先生だからイジメるわけにはいかない。そこで面従腹背になる。つまりハブられる状態がおきたのですよ。


 今、思い返せば、あの先生は、本当にお気の毒だったと思います。心ある子供たちは、みんなそう思っていたはずです。しかし、どうにもなりませんでした。なにせ、バッシングを行う主力が女の子たちでしたから、もう、どうしようもない。どうしても流れをかえられない。この手のバッシングは、女の子の方が陰湿だったので、まことにお気の毒だった。


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 この事件をある人に相談したら、
「女の子は嫉妬深いんだよ。だから贔屓という言葉が出るんだ」
と教えてくれました。

 いつも、誰かと自分を比較するから「贔屓」という言葉がでるんだと。そして他人に嫉妬するから「贔屓」という言葉がでるんだと。でないと、そういう発想は生まれてこないというのです。なるほどなと思いましたね。まあ、それは、ともかくとして、この先生の失敗は、子供たちの人気を気にしたことでしょうね。気にしなければ、なんてこと無かった事件だったと思います。


つづく。

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2010年03月03日

私の小学校時代を思い出した6

私の小学校時代を思い出した6

 つづきです。今回は、男子と女子についてについてです。

 男子と女子。両社の文化には断絶がありました。
 これは大人になって気がついたことです。

 男子の悩みが、女子にはわからない。
 その逆もあったと思いますが、
 私が男なのでわかりません。

 小学生時代の男子にとって、一番の悩みはトイレです。学校で大便ができないという悩みです。学校で大便をすると、すぐに、「おーい、誰かウンコしてるぞ」と、みんなが集まってきて冷やかすからです。だから、わざわざ自宅に帰って大便する人や、病院や役場や公園にしにいく人がいました。しかし、女子には、そういう悩みがないんですよね。

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 ある日、男子トイレで誰かが大便をしていました。
 それを発見した友人たちは、
「おーい、誰かウンコしてるぞ」
とみんなを呼び集め、みんなでホースをもってきて、上から水をかける悪戯をしたのですが、やがてトイレのドアが開くと、びしょ濡れの先生が、仁王立ちでたっていました。もちろん、その後は、どうなったか言うまでもありません。


 関係ないですが、最近、嫁さんと議論することによって、男子と女子の目線の違いについてを発見しました。ことのおこりは、こうです。ある男性が、ある女性にジロジロ見られているという事件がありました。嫁さんは
「それは、ジロジロ見ている人が気があるんだよ」
と言いました。私は
「そんな馬鹿な」
と反論しました。


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 男社会では、不用意に目が会うと喧嘩に発展することがあります。だから、ジーッと見つめられた場合、本能的に
「俺、何か悪いことしたかな?」
と反省するものです。身に覚えがなければ
「何で見るんだよ!」
と反発心が湧いてくるはずです。それほど目と目を合わせることは、子供時代は危険なことでもあります。

 ところが、嫁さんいわく
「女は、好きな人がいるとジーッと見つめたくなる」
というのです。私は
「それ、逆だろう! 好きな奴がいたら、逆に目線を合わせられなくなるだろう」
と反論したのですが、うちの嫁さんは、そうではなかったらしい。

「それって危険だぞ。男社会では、ニホンザルと一緒で、目線があったら喧嘩に発展することもあるぞ。だからジーッと見られたら何か悪いことしたかな?と不安になるか、反発するかのどっちかだぞ」
「そんな馬鹿な」
「いやいや、本当! 男社会では、目線が会うと、ガンとばしたな!って言って因縁つけられることは、よくあるんだよ」
「好きな異性だったら違うでしょう」
「好きな異性だったら逆に意識してしまって相手の目をジーッとは見れんよ」
「好きだから見るんじゃないの?」
「逆だよ、逆! やな奴がくると見るんだよ。そうでなければ、その人の首筋に大きなホクロがあって、そこに毛が生えているから、それをジーッと見るとか.....」
「なんだそりゃ!」

 議論は平行線になりました。


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つづく。

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2010年03月04日

私の小学校時代を思い出した7 給食

私の小学校時代を思い出した7

 つづきです。今回は、給食についてです。

 給食で思い出すことは、同級生のこんな会話です。

「給食って不味いね」
「どうして、あんなに不味いんだろう」

 この会話を聞くたびに私は心の中で叫びました。

「美味いと思うぞ!」

 給食を不味いという奴らは、家庭で、どんな御馳走を食べてるんだろう?と思いましたね。だって私の家の朝食ときたら御飯と味噌汁に卵焼きがでれば良いほうだったから。たいていは、フリカケと沢庵だった。それも、三食フリカケのうちのノリタマとタラコが無くなり、ゴマ塩だけになった時なんか、
「ああ、給食が待ち遠しい」
と心で泣いたものです。




 で、給食の話になりますが、私が通っていた小学校では、一週間分の給食メニューが前もって配られたんです。だからカレーやラーメンの日になると、ワクワクドキドキして落ち着かなかったですね。給食当番だった日には、わざと少なく盛って配り、おかわりを大量に残しておき、ものすごい勢いで食べててしまい、おかわりしにいきましたね。

 あ、給食当番で思い出したんですが、麺類をよそうとき、苦労しませんでした? 大きなオタマに麺を入れて小さな食器に入れるのに一苦労。あと、先割れスプーン。あれでスープをすくうのは難しかったし、麺類をひっかけるのも至難の業だったですね。

 皆さんは、先割れスプーンで焼きそばを食べるときは、どうやって食べました? フォークのように使いました? それともスプーンのように使いました? どっちで使うにしても、先割れスプーンは、中途半端なんですよね。私は、スプーンとして焼きそばをかっくらいましたが、女の子の中は、フォークとして使っている人がいて、焼きそばを1本1本食べているんです。
「変な食べ方してるな?」
と思っていると、案の定、いつまでたっても食べ終わらないのでした。





 ちなみに皆さんは、脱脂粉乳を飲んだ世代ですか?

 40歳代後半から、50歳代は、脱脂粉乳世代だと思いますが、脱脂粉乳については、評価が分かれますね。だいたい8割の人間は、不味かったと言います。しかし、私はけっこう好きだったりしました。理由は、冷たくなかったからです。私は雪国育ちだったので、冬に冷たい牛乳を飲むのは辛いのです。しかし脱脂粉乳は、暖めてあったので飲みやすかった。

 で、小学校3年生の頃に脱脂粉乳が廃止になって、三角パックの牛乳になりました。冷たくて飲みにくくなった。そして、この三角パックは、食後に悪ガキたちの遊び道具になりました。床に置いて、ジャンプして踏みつぶすと、パーンと破裂するので、おもしろがって、みんな破裂させました。すると、教室の床に微量の牛乳が飛び散ります。それが、放課後の掃除の時までに、臭いニオイを充満させるのですね。

 そのせいか、どうかは分かりませんが、三角パックの牛乳は、すぐに廃止になり、代わって瓶牛乳に変化しました。瓶牛乳になると、瓶の蓋を集める人がでてきて、それを飛ばして遊ぶようになりましたね。

 冬は、ストーブのお湯の中に牛乳瓶を入れて温める奴もでてきましたが、必ず瓶が割れて、お湯の中が牛乳だらけになっていました。そして、そのニオイが教室に充満したものです。

 あと、ミルメークという珈琲牛乳の素みたいなものもでてきました。最初は、わけがわからなくて、牛乳瓶の蓋を開けて、そのまま粉を入れてしまい、牛乳が溢れて、こぼれてしまい、そのニオイが教室に充満したものです。ちなみに私は牛乳大好き人間で、冬は、みんなから牛乳をもらい、最高7本くらい飲んだことがあります。


 あと給食といえば、鯨。鯨の竜田揚げに、鯨のノルウェー風味、鯨の大和煮。これが毎週メニューにあったのですが、どれも大好物でしたね。捕鯨禁止の今となっては、どれも高価な食べ物になってしまいましたが。





 それからコッペパンと食パン。どっちが好きでした? 不思議なことは、コッペパンの場合は、四角いマーガリンがついて、食パンの時は、袋に入ったマーガリンでした。そして時々、チョコレート風味のマーガリンなんかがあったりして、チョコレートだと思って食べてみたら、変形マーガリンなのでガッカリした覚えがあります。

 あとコッペパンがでると、それで戦艦なんかを造りませんでした?
 宇宙戦艦ヤマトなんかを作って、
 船首に波動砲を発射する穴を作ったりして。

 あとスパゲティ。ナポリタンとミートソースがありましたけれど、私の記憶に間違いなければ、あれはスパゲティではなく、マカロニだった気がする。で、コッペパンを2つに割って、パンにはさんで食べたような?

つづく。

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追伸
ネットサーフィンしてたら、こんな記事が。
事実なら、ちょっと酷いと思うのですがどうなんでしょうか?
以下、ブログ記事を貼っておきます。


驚愕の子供手当て

http://5959goc.iza.ne.jp/blog/entry/1475880/

2/24(水)、在日外国人に対する子供手当てについて厚生労働省に質問し、唖然とする回答を頂きました。以下に列記します。


1.在日外国人への子供手当ての支給は行われるのか?その際の基準はあるのか?
(回答)国内に住んで税金を納めていれば分け隔てなく支給されます。永住資格者だけではなく短期滞在者(一年でも)でも支給されます。特に審査要件はありません。


2.子供を母国に残している親にも支給されるのか?
(回答)申請すれば支給されます。



3.養子や婚外子でも支給されるのか
(回答)支給されます。



4.本人の子供であることをどうやって判断するのか?
(回答)申請書類と子供と定期的にメール等のやり取りがあれば良い事になっています。



5.母国に子供や養子が何人いようと申請するだけで支給されるのか?
(回答)特に人数の制限はありません。



6.例えば一夫多妻制の国民で母国に何十人の子供がいると主張するだけでその人数分支給されるのか?
(回答)はい、支給されます。




7.ちなみに海外で滞在している日本人家族、子供を日本に残して海外に駐在している家族には支給されるのか?
(回答)親が日本に住んでいませんので支給されません。




8.海外駐在の日本人には支給されず在日外国人には大盤振る舞いにふるまっているがその論拠は?
(回答)鳩山総理の友愛精神です。また日本が難民条約を締結している観点からです。



9.難民条約と在日外国人に子供手当を支給することとどう関連があるのか? 在日中国人らは難民か?
(回答)平成22年度4月以降はとにかく支給を優先します。問題が多ければ平成23年度に支給条件の検討を行います。(まともに答えず)




9.国交が無く、国連からも制裁を受けている北朝鮮出身の国民でも同様に支給されるのか?
(回答)同様です。


10.在日外国人に対する支給についてなぜホームページや書面で事前に公表しないのか?私たちの税金の使途を事前に公表して論議するのはあたりまえではないのか?
(回答)まだ骨子の段階で正式に決まれば公表します。ご意見は賜りました。


連絡先
厚生労働省 代表 03-5253-1111
「子供手当てについての問い合わせ」
と言えば担当者(児童手当管理室)が話してくれます。
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2010年03月05日

私の小学校時代を思い出した8

私の小学校時代を思い出した8

 つづきです。今回は、友だちと親についてです。


 小学校時代のイジメの大半は、嫉妬が原因です。友だちの奪い合いから生まれることが多いんです。ピンとこない人は、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を読んでみてください。ジョバンニ・カンパネルラ・ザネリの3人の三角関係の心理を理解できれば、どうしてイジメが生まれるか分かると思います。

 こんなことは、子供の頃、みんなが知っていたことなのですが、大人になると、どういう訳か忘れてしまいます。だから大人たちは、どうして子供たちイジメにあうか、いまひとつ理解できないんですね。まあ、そんな事、どうでも良いんですが、ここから先は、私の昔話です。


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 昭和47年にオイルショックがありました。
 当時、私は小学校5年生でした。

 オイルショック以前と、オイルショック以後。
 佐渡島は、全く変わってしまいました。

 オイルショック以前は、一般的に公務員やサラリーマンの家庭は、地味で普通の生活をしていました。ところが農家の方は、羽振りが良かったんです。父親が出稼ぎで、大儲けして帰ってきたからです。それが、当時の子供たちに、どのような影響を与えたかと言いますと、お年玉や、小遣いや、オモチャ、土産物で、ぐーんと差が出たんです。なにしろ出稼ぎは金になりました。毎月十七万くらい稼いだそうですから。

 財布に百円くらいしか入ってない子供と、五千円入っている子供で分かれていました。当時の公務員の初任給が三万円でしたから、小学生が五千円もっていることじたいが、どれほど異常なことであったかが分かるかと思います。当然のことながら、そういう子の回りには、子供たちがいっぱい集まります。


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 テープレコーダー(当時はオープンリールだった)を買ったと聞くと、みんな押しかけたり、カラーテレビを買ったと聞いては、みんな押しかけました。もちろん私も押しかけました。そしてテープレコーダーで、歌を吹き込んだり、ラジオドラマを作って遊んだりしました。カラーテレビの色を調整して真っ赤にしたり、真っ青にしたり、真空管を抜いたり入れたりして、遊んだものです。


 ところで友だちができると、友だちを家に連れてきましたよね。
 出稼ぎ農家の子供の友だちを自宅に連れてきて遊んだりする。
 すると私の両親が、いい顔をしないのです。
 逆に両親が公務員の友だちを連れてくると、大歓迎したりする。
 うちの親に友だちの家庭環境なんか、分かるわけがないのですが、
 どういう訳か、嗅覚で差別する。



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 こういう事は、私の家ばかりかと思ったら、そうではない。
 どこの家庭でも、大なり小なり友だち差別があった。
 どうやら、どこの親も、子供の友だちに対して好き嫌いがあった。
 二人いた私の弟たちも同じような疑問をもってました。

 ひょっとしたら親の方では、全く気がついてないかもしれない。
 無意識だったかもしれない。
 けれど、子供たちには、明確に差別がわかっていたんです。
 これは、私の家だけでなく、どこの家でも同じようなことがあった。

 そこで、大人になってから親に
「どうして友だち差別をしたのか?」
と聞いたのですが、親は自分が差別したと思ってないという。あきらかに差別しているし、弟たちも、同感であるにもかかわらず、親たちはシラを切るというか、覚えてない。


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 で、考えてみました。
 どうして、どの親も友だち差別をしたのに、
 本人に記憶がないのか?という点を。

 出稼ぎ農家の子供の友だちは、親から高価なオモチャをわんさか貰っていました。お年玉も私の二十倍くらいもらってました。ピカピカの自転車や、膨大な漫画や、最新の家電製品もあった。私は、とても羨ましがって、親にねだったかもしれない。すると、親は、いい顔をしなかったかもしれない。

 特に漫画には、いい顔をしなかった気がする。私の親だって漫画を買う小遣い銭くらいは、出そうと思えば出せたと思う。けれど、どんなに金があっても漫画だけは買わせなかったと思います。現に漫画をもっていると全部、焼かれてしまいましたから。そういう家庭環境のところに、出稼ぎ農家の子供の友だちが、大量の漫画を持って遊びに来ていたんですよね。

 親は、いい顔をしなかっただろうなあ。

 と言うことは、親たちは、子供の友だちを差別したのではなく、子供の友だちの文化を差別したことになる。人種差別ではなく、文化差別であった可能性が高い。

 しかし、それは、大人になったから、そういう冷静に分析できるのですが、子供の頃は、そこまで背後を考察できなかったので、親に対して理不尽な思いをもちましたね。それが溜まって反抗期の時に爆発したこともありました。

 しかし、その反抗期の爆発も、今となって思い出してみれば、実に底の浅い爆発でした。赤面ものです。しかし、底の浅い爆発であっても、油断していると大火傷しますから、世の親御さんは注意した方がいいですね。


 ここで、話が変わりますが、親が子供たちの友だちを差別し始めると、その空気が微妙に子供たちに伝わり、イジメに発展するのですよ。すると、今まで遊びの中心にいた、出稼ぎ農家の子供の友だちが、一転してイジメの対象になる。

 物と金を持っている子供というのは、子供たちの中心にもなりやすいですが、ふとしたことからイジメの対象にもなりやすいんです。そして、そのイジメは、親たちの何気ない行動や言動がきっかけとなるケースもあります。

 最初にも言いましたが、ピンとこない人は、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を読んでみてください。ジョバンニ・カンパネルラ・ザネリの3人の三角関係の心理を理解できれば、どうしてイジメが生まれるか分かると思います。


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 機会がありましたら、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を、このブログで解説してみましょう。冒頭で、どうして、小学校時代のイジメの大半は、嫉妬が原因であり、友だちの奪い合いから生まれることが多いと言ったかが分かると思います。

つづく。

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2010年03月06日

私の小学校時代を思い出した9

私の小学校時代を思い出した9

 つづきです。今回は、小学館と学研と月刊誌についてです。

 昔の小学生のあって、今は滅びてしまっている物は、小学館の小学○年生と、学研の科学と学習と、月刊誌の漫画。この3つです。小学館の小学○年生と、学研の科学と学習は、誰もが知っているかと思いますが、月刊誌の漫画を知っている人は、案外少ないかも知れません。


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 漫画と言えば、今は、少年ジャンプ・少年マガジン・少年サンデー・少年チャンピオンといった週間誌が主力なのですが、昔は違っていました。小学生が毎週、漫画雑誌を買えるわけがないからです。せいぜい月に一冊ぐらいしか買えなかった。そうなると、月刊誌の漫画雑誌を買うことになります。具体的に言うと、少年・少年ブック・冒険王・少年画報といった月刊誌です。

 これが週間誌の少年ジャンプあたりと、どこが違うかと言いますと、漫画だけでなかったところです。テレビの特撮物や、アニメとコラボも行っており松本霊士の宇宙戦艦ヤマトなんかが連載されており、ドキュメンタリーや小説なんかも掲載していたのです。しかも掲載漫画の大半が、テレビアニメやテレビ特撮ものになっていました。

 少年ブックだと、ビッグX・スカイヤーズ5・遊星仮面・怪奇大作戦・戦えマイティジャック・宇宙エース・マッハGO!GO!GO!・光速エスパー。冒険王だと、夕やけ番長・どろろ・サイボーグ009・宇宙猿人ゴリ・仮面ライダー・快傑ライオン丸。少年だと、鉄腕アトム・鉄人28号・忍者ハットリくん・怪人二十面相。少年画報だと黄金バット・赤胴鈴之助・怪物くん・マグマ大使・キックの鬼など。

 そのために大量の付録がついていたんですね。豪華10大付録付きなんて、普通に付いてて怪獣図鑑とか、組み立て付録がついていた。それが雑誌にはさまっていて、紐で分厚く梱包されていました。それをほどいて付録を組み立てるのが、当時の子供にとって、とても楽しみなことでした。


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 付録と言えば、小学館の小学○年生にも、付録がいっぱい付いていて、分厚く紐でしばってありました。そして、それらの付録は、全て紙製でした。紙でないと雑誌あつかいされないので、書店に安く配送できなかったのですね。

 それはともかくとして、当時の子供たちは、喜々として付録を組み立てたものです。私も毎回、付録が漫画より楽しみで、いろいろ組み立てたものです。印象的だったのは、怪物くんの貯金箱。紙で作った怪物くんの手に10円玉をのせると、その重みで怪物くんが、貯金箱に10円玉をいれてくれるという優れ物でした。

 しかし、今から考えてみると、紙でできた貯金箱という点で、貯金箱になってないような? だって誰でも簡単に壊せて盗めますからね。あと、東京タワーも作くりましたね。これは大変だった。ハサミとノリで少しづつ組み立てました。


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 最後に科学と学習。

 小学校の時に学校で買いました。本屋さんが毎月売りにきていて、廊下で買った覚えがあります。こっちの付録は紙ではなかったので、嬉しかった。

 私は、科学と学習の両方を買ってもらっていましたが、科学だけ、学習だけの子供たちも多く、科学派・学習派で2大派閥に別れて抗争していましたね。だいたい男の子は、科学派で、ゲルマニュウムラジオを造ったり、いろんな実験をして遊んでいました。

 学習派の人たちは、もっぱら勉強の付録が多くて、それを真面目にやっていました。一番感動した付録は、1年生の時についていた自動計算機。足し算と引き算しかできませんでしたが、電話のようにダイヤルを回すと、答えがでてくるのです。電卓が無かった時代だったので、本当に感動したものです。


 と、ここまで書いて気がつくのですが、昔の小学生は、付録で何かを作ることに熱中してたということです。そして、そういう雑誌が、全て廃刊になってしまったという事実。


 子供たちに、モノを作ることをメインにした付録を提供した雑誌が、全て廃刊になってしまっているのですが、それでいいんでしょうかね?



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つづく。

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2010年03月07日

私の小学校時代を思い出した10 遊び

私の小学校時代を思い出した10

 つづきです。今回は、遊びについてです。

 東京に上京して、驚いたことは、子供の遊びが全く違っていることです。具体的に言うと、「ジャンケンポン」という言葉が違っていました。私の田舎では「ジャンマイエス」と言いました。ちなみにドラえもんとバルタン星人どちらがジャンケンに強いか知ってますか?

「ドラえもん!」
「どうして?」
「ドラえもんはグーしか出せないし、バルタン星人はチョキしか出せないから」
「ブーッ。バルタン星人のハサミは、閉じたり開いたり出来る。つまり、チョキとグーが出せる」
「それを言うならドラえもんだって、あの手はグーではなくて、パーかもしれない」
「・・・・」


 それから佐渡島だけにあって、全国どこにもないゲームとして、十六文銭(十六文戦)というのがありました。十七個の石ころで行う囲碁みたいなゲームで、お金のかからないゲームとしては、佐渡島では、ポピュラーなものでした。

 夏休みにラジオ体操をしに小学校のグラウンドに行くと、みんなが小石を集めて地面に盤を書いて、対戦していました。あと、「いちだんせ」というゲーム。小石を使ってジャンプしつつゲームを行うのですが、他の地方ではないですね。





 あと雪合戦。男ルールと女ルールがありました。女ルールというのは、今で言うケイドロみたいなものです。雪玉が当たったら動けなくなる。しかしタッチされたら動けるのです。で、全員が動けなくなったら負けです。男ルールの雪合戦は、ルール無しの無法ルール。相手が降参するまで、ひたすら雪玉攻撃を行う野蛮なルールです。

 あと馬跳びという野蛮で攻撃的なゲームもありましたね。
 プロレスと一緒でしたね。あれも東京には無い遊びでした。

 ただし、全国と同じゲームもありました。
「だるまさんころんだ」です。
 これ、関西では「ぼんさんが屁をこいた」で、
 九州では「インド人のくろんぼ」で、
 神奈川では「乃木さんは偉い人」でしたね。





 あとゴム跳び。これだけは全国どこでもやってますね。くるぶしから始まって、膝、腰、へそ、胸、肩、頭と高さを上げて飛びましたよね。このゴム跳びの特徴は、棒高跳びと違って、足をゴムにひっかけてもいいところがミソでしたね。だから実際に、その高さを飛んでいるわけではなかった。

 で、ここで気がつくことがあるのですが、ここ十年、ゴム跳びも、だるまさんころんだも、全く見かけてないんですよね。これは嬬恋村だけの現象か? それとも全国的にゴム跳びも、だるまさんころんだも無くなってしまったのか?

 そういえば、「かごめかごめ」も見かけません。あれは、体力に関係ないので、男の子と女の子が一緒に遊べる数少ないゲームなんですが、ここ十年どころか、二十年くらい見かけてないですね。

 ああ、そうそう。缶蹴りも、明日天気になあれも見なくなりましたね。缶蹴りが滅びつつあるのは、空き缶がアルミになってしまったからかもしれませんね。

 あと、たくさんの笹船を作って大艦隊を池に浮かべて攻撃したり、シロツメクサの首輪を作ったり、それを大きくして鞭に改造してみたり、そうそう、そういえばアカツメクサの花には甘い蜜があるんですよね。あとオオバコ相撲。ナズナで楽器を作ったりもしましたね。

 私が子供の頃に無かったものとして、ガチャガチャが無かったですね。もちろんプレステやDSも無かった。代わりに、怪しいグッズが流行しました。その代表格が、ブーブークッションでした。



 このブーブークッションを先生のイスに仕掛けました。見事にひっかかって大成功。この手のオモチャを学校に持ってくると普通なら没収になるのですが、これだけは先生も黙認していました。それからバネのオモチャ。スーパーボール。ヨーヨー。ケンダマ。竹とんぼ。紙ヒコーキ。あやとり。メンコ。そして地球ゴマ。こういう怪しいゲームがはやりました。

 で、金持ちの子供たちは、野球盤ゲーム・サッカーゲーム・魚雷戦ゲームなんかを持っていました。中にはトランシーバーやレーシングカーセットを持っている奴もいました。私の家では、そういう高価なオモチャは買ってくれなかったのですが、かわりに顕微鏡セットを買ってくれたので、何でもかんでも顕微鏡で見ましたね。マツゲから鼻くそまで見ました。魚の鱗や、砂糖・塩・味の素・片栗粉なんかも見ましたよ。さらに、池の水を採集し、プランクトンを発見しました。これは夏休みの研究課題にしました。


つづく。

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2010年03月08日

私の小学校時代を思い出した11 あいさつ

私の小学校時代を思い出した11

 つづきです。今回は、あいさつについてです。

 嬬恋村に住んで10年。その間に一番驚いたことは、子供たちが大人たちに無差別に挨拶することです。知らない人にも挨拶をする。これだけは驚いた。そして一言、言わせてほしい!

 嬬恋村の子供たち、サイコー!
 こういう風習を考えた人、すばらしー!

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 で、私の子供の頃を思い出したわけです。
 そして愕然としたわけです。
 というのも、私は逆の教育を受けているからです。

「知らない人とは口をきいてはだめ」
「挨拶も?」
「挨拶も」

 これは親からも言われたし、先生からも言われました。そして小学校の全校集会で校長先生にも言われました。あと、知らない人とは口をきいたために誘拐されそうになった事例を年に3回くらい具体的に聞いています。

 今から考えれば、その事例は、かぎりなく怪しかった。誘拐なんて、そうそうおこるものではないからです。しかし、当時は、そうそう起こるはずのない誘拐におびえて、知らない大人との接触を禁じ、挨拶まで封印してしまった。そのせいか挨拶は、今でも私にとっては苦手です。

 例えば、こんなことがありました。

 小学校2年生の時、病院の場所をきいてきた大人(老婆)がいました。私が、連れて行ってあげゆうとすると、友だちが遮って、「あそこの本屋で聞いてください」と言いました。この友だちの行為は、本人が考えた行為ではなく、学校が子供たちに与えたマニュアルでした。だから友だちは正しいことをしていたのですが、子供の頃の私は何か釈然としなかった。これをきっかけに自分の中の心の叫びが、学校や大人や親たちを疑いはじめる一歩になりました。ただ、大部分の子供たちは学校の教えに疑いをもちませんね。

 挨拶は大切ですよ。知らない大人との接触を禁じるのは良いと思いますが、挨拶まで禁じることは無いと思うし、老人を病院に連れて行くくらいは良いと思う。


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 ここから先は、整体と児童館の主任を職業としている
 私の友人のお話です。

 私の友人に児童館で働いている奴がいるのですが、
 この人は、挨拶にこだわる人なんです。
 もちろん挨拶の仕方は千差万別。

「あけまして、おめでとう!」
「あけおめ! ことよろ!」
「うぃーっす!」

 その人は、上品な言葉でなくても、教育上は使わないほうがいい言葉であっても、雰囲気にあっていれば、よしとしています。その子と、いい時間を一緒につくるのが、あいさつの意味だというのです。

 ところが、子供たちの中には、「おめでとう!」と、あいさつしても、プイっと目をそらし、黙ったまま入館しようとする男の子もいるらしい。すると、私の友人は、事務所で仕事の打ち合わせ中であっても遠慮無く追いかけていって

「口がついてるんだから、あいさつぐらい返せ。あいさつしたって、なんの損もしないだろ!」

といいながら、飛び膝蹴りをするのです。
もちろん、挨拶しなかった男の子は逃げます。
そして、苦笑いしながら

「わかったよ、すればいいんだろ、おめでとうございます!」
「うん。オッケー。おめでとな」

 するとなにごともなかったように、私の友人は、事務室のドアを開けて席に戻り打ち合わせを続ける(笑)のです。

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 そこまでして、あいさつさせなくてもと思うでしょうが、
 そうではないと言います。

 児童館には、毎回100人以上の子どもたちが来る。
 その子たち全員と遊ぶのは難しい。
 だから、来た時と帰る時のあいさつだけでも声を交わしておけば、
 なにかあった時、子どもたちは大人に声をかけやすくなる
 と彼は言います。

「よくトラブルになったら子どもの話をよく聴いてなどと話す方がいるが、それも大切なことだとは思いつつ、本当に大切なのは、トラブルが生まれていない普段のふれあいだと思っているんですよ」
「ほう」
「喧嘩だってね。お互い怒って泣いて喧嘩してるのに理屈でいさめたって納まるわけがない」
「なるほど」
「むしろ理屈があっている分、ますます腹が立ったりするのが人間だろうしね」
「うんうん」
「だけどね、普段から話をしていて安心感のある人が中に入って、『よしわかった! 難しいことはおいといて、ここで、先生と解決に30分かけるのと、すぐにまた遊ぶのとどっちがいい?』と言ったら、たいていの子どもたちが『じゃあ遊ぶ!』って言って元気に遊びだすんですよ」
「アハハハハ」
「見方によっては、なにも解決してない」
「・・・・・」
「だけど一番大事な『その子の納得感』はあるわけです」
「なるほどねえ」
「なんでも問題にすることがいいわけじゃない。そんなの問題でもなんでもないよ!と一緒に笑い飛ばす人がいてくれれば、けっこう人生ってなんとかなると思うんですよね」
「真理だね、すごい真理だと思う」
「まあ、いろいろな理屈を言いましたけれど、なんで子どもにあいさつするかって言ったら、したいから。これだけです。そういう想いに理屈はいらないんじゃないかな。そういうことを、子どもに伝えられたら、ちょっと嬉しいかなって思っています」




 子供に挨拶をする。
 とても素敵なことです。

 嬬恋村の子供たちに栄光あれ!

つづく。

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2010年03月13日

私の小学校時代を思い出した12 ドモシジュウ

私の小学校時代を思い出した12

 つづきです。今回は、についてです。

 昔に比べれば、食事は贅沢になりましたよね。私が小学校時代は、夕食のおかずの品数は、1品+漬け物+味噌汁だけでした。そして、その1品は、たいてい魚でした。

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 魚は、いまでこそ贅沢な食べ物ですが、昔は、とても安かった。卵二個分の値段で買えました。逆に肉の値段は、35年前から変化ないですかね。しかし、その安い魚さえも自給自足。つまり父親の趣味である釣りで捕まえていました。だから私が育った家庭のエンゲル係数は、かなり低かったと思います。

 特に鯛・ハチメ(メバル)・キス・サヨリ・カレーなんかは、父親が大量に釣ってくることもあって、死ぬほど喰わされましたから、子供の頃は嫌いな魚でした。今にして思えば、贅沢な話なのですが、当時は嫌で嫌でたまらなかったです。

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 その父親の釣りの趣味も、冬になると不可能になりますから、鯛・ハチメ(メバル)・キス・サヨリなどから解放されるのですが、今度は、スケトウ・寒ブリ・鱈ばかり食べさせられるので、これも嫌いになりました。今にして思えば、なんと贅沢な話でしょうか。寒ブリなんて、今じゃ高価で食べようたって食べられません。1本1万円はしますよね。その高価な寒ブリが、昔の佐渡島じゃ安かったのです。信じられない話ですね。特に船が欠航する冬では、今日もブリ、明日もブリと、ブリがでるたびにがっくりしたものです。なんて贅沢な子供時代だったのだろう。

 その代わりに佐渡に少なかったのがサンマやアジ。
 特にサンマが珍しかったです。
 ですからサンマが御馳走でした。


 さて、今をさること15年前。
 友だちを20人くらいつれて佐渡に遊びに行きました。
 『風のたより』というグループで佐渡島に行ったのです。
 そのとき、佐渡のスーパーでホッケの格安品を発見しました。

「ホッケが、1匹で25円だ!」

 これを買い占めて家に帰ると父がやってきて、

「うえ〜っ、ドモシジュウを買ってきたのか? シジュウだったら美味しいんだがな、ドモシジュウじゃなあ〜」

 と笑います。
 慌ててパックを見ると、そこには『ホッケ』ではなく
 『ドモシジュウ』と書いてありました。
 え?
 ドモシジュウって何だ?
 どういう魚なんだ?
 と考え込んでいますと、父はこんなこと言ってきます。

「安かっただろう?」
「はい」
「まずいぞ、この魚は。お母さんに助けてもらった方がいいぞ。へたな料理じゃ、とても食べられないからな。ふっふっふっ」

 父は笑いながら消えて行きました。
 おかげで私たちは、大パニック!
 しかし、どうみてもホッケにそっくりです。

「やっぱ、ホッケじゃない?」
「いやいや佐藤さん。これはホッケじゃないですよ。ホッケにしては、色が赤いです」
「そうかなあ〜」
「ここに点々がある。これは、ホッケの模様じゃない」
「そうかなあ?」
「佐藤さん、きっとシジュウがホッケなんですよ。ドモシジュウは、ホッケに似たまずい魚なんだと思います。でなければ25円という値段は、おかしいですよ。東京なら10倍の250円はしますから」

 私は次第に追いつめられていきました。
 そこに母がやってきました。
 母は、話題の魚を見るやいなや、

「ありゃまあ〜、ドモシジュウを買ってきたの? シジュウなら美味しいんだけれど、ドモシジュウじゃなあ〜」

 これには全員大爆笑。
 しかも、とどめを刺すように、また一言。

「お前が子供の頃、よく父さんがドモシジュウを釣ってきたけれど、誰も食べないから、みんな捨てていたんだよね」

 これにも全員大爆笑。

「佐渡島じゃ、あんまりまずくて、誰も食べない魚なんだよね」

 そりゃもう、みんな大喜び!

 そうだったのか、
 この魚は、そんなにまずい魚だったのか。
 そうとは知らずに、大量に買ってしまった。

「やっぱ、まずいねえ」
「味に癖があるねえ」
「25円だもの、仕方がないよ」

 かわいそうなドモシジュウ。皆からボロクソに言われてしまっている。これがホッケだったら、これほどの扱いは受けなかったろうに。よし、お前の骨は、俺が拾ってやる。誰も箸をつけないお前を、私が食べてやろうじゃないか!

「あれ? このドモシジュウというやつ、ホッケに似た味がするなあ
「気のせいですよ」
「そうかなあ、ホッケのアジがするんだが」
「いや、ちがいますね。微妙に違います」
「でも不味くはないと思うんだが」
「いいや、ぜんぜん味が違います。ホッケはもっと高尚な味ですよ」

 その時です!
 台所から、息を切らして走ってくる女の子がいました。
 彼女の顔は青ざめていました。

「どうしたの?」
「佐藤さんの御母さんに聞いたんだけれどね、ドモシジュウってホッケのことなんだって!」
「・・・・」
「な、なんだと?」
「するっていと、シジュウの正体は?」
「シジュウはね、アイナメだって」
「・・・・」


502872128.jpg


 なるほどねえ。じゃあ、佐渡島民は、
 ホッケのことをまずい魚だと思っているわけか?
 なんて口の奢った民族なんだ!
 ぜ、贅沢すぎるぞ、佐渡島の人間は!
 よりによってホッケをまずい魚だなんて・・・・。
 いったい何を考えているんじゃ!

 考えてみれば、佐渡島ほど美味しい魚を食べられるところはないかもしれません。それにしても『風のたより』メンバーに言えることは、ホラふきの傾向があるなあ〜。と言うより知ったかぶりの人間が多いってことか。ドモシジュウに対して
「違いますよ、ホッケじゃないですよ」
と真面目に解説した奴(男)は、後日、富良野で民宿をやりましたが、こいつこそ正真正銘の『裸の王様』。


http://pucchi.net/hokkaido/foods/hokke.php




 しかし、そんなことに驚いているうちはまだよかった。メンバーの裸の王様攻撃は、私に休む時間を与えなかった。例えば、こんなことがありました。

「土井君、ジャガイモの皮をむいておいて」
「あいよ」

 ところが、いつまでたってもジャガイモの皮はむけません。よく見ると土井君は、むちゃくちゃ不器用です。もう見ちゃいられません。しかも、30分もたっても1時間たっても、たった1個のジャガイモの皮さえむけません。

「土井君、何やってるんだよ。1個もむけてないじゃないか!」
「そんなことないよ、ちゃんとむけてるよ」
「はあ?」

 よく見ると確かに2〜3個むけています。
 ただし、あまり長時間ジャガイモを手に持っていたために、
 体温で茶色に変色し、皮つきジャガイモと見分けがつかなくなっています。
 これには、みんな大爆笑!
 すると別の男が土井君にジャガイモ皮むきの講義を始めました。

「土井君、ジャガイモの皮のむきかたも知らないのかい? しかたがないな、私が教えてあげよう。ジャガイモは、こういうふうに皮をむくんだよ」

 彼は、さも知ったかぶりをして、土井君に包丁の使い方を説明していましたが、ところが、これが全部でたらめ。その人は、親指を使わずに包丁を使っているのです!

「コラコラ、おめ〜らホラばっかり吹いてるんじゃねえ!」

つづく。

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2010年03月16日

幼児の頃を思い出した ヨコミネ式保育園を知って

 初めてヨコミネ式がテレビで取り上げられたのは、2009年5月31日、フジテレビ「エチカの鏡」でした。放送直後から視聴者に大きな衝撃を与え、社会現象をも巻き起こしている横峯吉文による『ヨコミネ式』そんな『ヨコミネ式』とは、一体どういったものなのか?






3歳の夏までに全員が拾い読みが出来る
4歳でスラスラと本読みが出来る
5歳で小3〜4年生の本が読める
卒園までには全員が1500冊〜2000冊の本を読破


3歳で書き取り帳を始め
4歳では書写を行い、日記を書き始め
5歳では子供新聞の書写や作文を書く事が出来る
卒園までに国語ノート30冊ほど書きためていく


3歳の時から足し算を始めます
卒園までにはかけ算までこなす


最初は簡単な曲から鍵盤ハーモニカで1曲ずつ積み上げ
4歳では絶対音感を身に付けるレベルに達します
卒園までにレパートリーは60曲以上になります
ハーモニカだけでなく、キーボードやドラムといった楽器もこなします


逆立ち歩きや跳び箱10段は当たり前
50M走では小学2年生の全国平均を上回り
レスリングでも小学2年生に勝てる
スイミングではたったの20日間で15M泳げる
全員が側転・片手側転をこなします
中には前宙まで出来るようになる子もいる


 ヨコミネ式導入園で育った子どもは、まるでこれが『当たり前』であるかのように、子どもたち全員がこれらの天才的ともいえる事を軽々とこなす。ヨコミネ式導入園に入園すれば、誰でもこんなスーパー園児になるという。


 信じられないけれど本当の話です。


 特訓もスパルタもない。子供たち自らが勝手に出来るようになる。専門家はいらないので誰でも指導できる。ヨコミネ式教育法の良さは、子供たちに自学自習できる能力を育てることにありますから、子供にとってもその親にとっても価値のあるものです。子供は楽しみながら、知識や知恵を身につけることができるようになりますから、学ぶと言うことに苦痛を感じません。子供が自学自習できるわけですから、学習塾などの無駄な出費が無くなります。





 この教育は、昔の家族がたくさんいた頃の教育ですね。
 今の日本の「ゆとり教育」や「スパルタ教育」の逆ですね。
 しかも運動を中心とした教育。
 わんぱく教育。
 その結果、幼児が九九までできるようになり、
 絶対音感が身につき、
 1500冊の本を読破する。
 強制されずに、このようになる。


 これ、嘘じゃないと思う。
 私は、小学5−6年生の時に、
 似たような体験をしたことがあるから。
 機会があったら、その体験を述べましょう。


つづく。

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2010年03月19日

ヨコミネ式保育園を知って思い出したこと1

ヨコミネ式保育園を知って思い出したこと1

 実は、私は保育園を2度も転校しています。
 といっても最初は、保育園なしの漁村。
 老人にあづけられ、1日中、老人と過ごしました。

 私は、3歳まで、小学校教師の母と2人で僻地に住んでました。

 小学校教師の母は、いつも夜遅くまで学校で働いていましたから1日の大半は、村の老人と暮らしていたことになります。といっても老人たちは、私の子守に専念しているわけではありません。針仕事をしたり、食事を作ったり、漁師網の手入れをしたりで、その合間に私をみていただけです。

 で、不思議だったことには、近所の老人たちが、私と母が下宿しているところに毎日やってきて、世間話をしつつ、私の子守をしつつ、帰っていったことです。私一人に対して、じつに多くの老人達が相手をしてくれたわけですが、どういうわけか私と同世代の友だちはできませんでした。

GR142_L.jpg

 4歳になると、僻地漁村から、平野のちょっと賑やかな町に引っ越しました。今度は、自衛官の父と祖母と私の3人暮らしになりました。そして、生まれて初めて保育所というところに入りました。お寺の中にありましたから、寺が経営していた保育所かもしれません。

 保育所では、たくさんの友だちができました。いろんな友だちが遊びにきたし、自分からも遊びにいきました。また、知らない老人の家にも遊びにいきました。まだスレてなかったので、どんな呼びかけにも応じたし、見知らぬ人の招待もジャンジャン受けました。時々、帰り道が分からなくなって、途方にくれたこともありましたが、たいていは大人達が解決してくれました。

 5歳になると、引っ越しがありました。今度は、父と母と祖母と弟と私。家族全員が新築の家にすむことになりました。当然のことながら保育所もかわります。いわゆる転校生というやつです。私は、ここで苦い思いをします。5歳の子供にとって保育所が変わるということは、すごい大変化なのです。

 小学校も、中学校も、転校しても中身は大してかわりません。しかし、保育所が変わると何もかもが変わる。今までのやり方が全く通じないからです。前の保育所では、おなじコッペパンを配膳してもらい、それをみんなで『いただきます』と言って食べたのですが、今度の保育所では、ジャムパンやアンパンやクリームパンの中から各自が選ばなければならない。配膳も自分でやらなければならないので、マゴマゴしていると食べ損なってしまう。この変化に慣れるのに戸惑った。よーするに各保育所によって、システムがまるで違っているのですね。

GR184_L.jpg

 7月7日の七夕(たなばた)。保育所では、笹竹で七夕飾りを作りますね。先生が「明日は笹竹を持って来てください」と言うのですが、私は持ってくるのを忘れてしまった。笹竹を持ってくるのを忘れた罰として、当然のことながら、みんなが七夕飾りを作るのを一人でみていたんです。本人は、それで納得しているんです。

 ところが夕方、私の祖母が迎えにきてから事件がおきます。他の園児たちは、きれいな七夕飾りを持って帰っていく。私は笹竹を持ってこなかった罰で作れなかったので持ってない。それで祖母が烈火の如く怒り出した。で、保育所の先生達が、私を奥に引きつれて、ものの5分くらいで即席の七夕飾りを作り、私に渡して
「おばあちゃんに自分で作ったというんだよ」
と嘘をつくように私に命令したのです。

 当時の私は、素直だったので祖母に
「この七夕飾りは僕が作ったんだよ」
と何度も言うのですが、バレバレだったらしく、祖母は、他のお母さんたちにも事情徴収して、父と母に報告しました。で、父と母が真相を私に聞いてくるのですが最後まで「この七夕飾りは僕が作ったんだよ」とシラをきりましたね。バレバレだったと思いますが、両親は、それ以上、突っ込んできませんでした。

 なんで、こんな事を書いたかといいますと、転校する前の保育所。つまり4歳の時に通ってた保育所では、各自が笹竹を持ってくる必要がなかったんです。保育所が笹竹を用意しましたから。しかし、転校した保育所では、笹竹を各自で用意しなければならないし、それを忘れたら罰として七夕飾りを作らせてもらえなかった。でも、本人は納得なのです。当然だと思っている。でも大人たちは、そうは思ってなかった。これが子供心に辛くて、かなりのプレッシャーになったんですよ。このへんは大人たちには分かりにくいかもしれない。




つづく。

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2010年03月20日

ヨコミネ式保育園を知って思い出したこと2

ヨコミネ式保育園を知って思い出したこと2

ヨコミネ式保育園では、全ての子供たちがスーパーマンになってしまう。詳しくは、下の動画をみてほしいのですが、



 3歳の夏までに全員が拾い読みが出来、4歳でスラスラと本読みが出来、5歳で小3〜4年生の本が読めるようになり、卒園までには全員が1500冊〜2000冊の本を読破。

 3歳で書き取り帳を始め、4歳では書写を行い、日記を書き始め5歳では子供新聞の書写や作文を書く事が出来る。卒園までに国語ノート30冊ほど書きためていく。

 3歳の時から足し算を始め、卒園までにはかけ算までこなす。子供によっては九九までマスターする。

 最初は簡単な曲から鍵盤ハーモニカで1曲ずつ積み上げ、4歳では絶対音感を身に付けるレベルに達します。卒園までにレパートリーは60曲以上になります。ハーモニカだけでなく、キーボードやドラムといった楽器もこなします。

 逆立ち歩きや跳び箱10段は当たり前、50M走では小学2年生の全国平均を上回り、レスリングでも小学2年生に勝てる。スイミングではたったの20日間で15M泳げる。全員が側転・片手側転をこなします。中には前宙まで出来るようになる子もいる。

 入園者の全てを、こんな幼児にしてしまうヨコミネ式保育は、まさに驚異的ですが、そのヨコミネ式保育は、たった4つのスイッチをおしてあげるだけだと言います。子供をやるきにさせる4つのスイッチ押してあげる。それがヨコミネ式保育らしい。その4つのスイッチとは、

1.子供は競争したがる
2.子供は真似したがる
3.子供はちょっとだけ難しいことをしたがる
4.子供は認めたがられる


です。これだけです。これだけで、子供たちが例外なくスーパーマンになってしまうらしい。

 私は、この動画を見たときに、
「ありえるな」
と思いましたね。
 というのも私にも似たような経験があったからです。
 その経験については、後で述べます。

 実は、この4つのスイッチに共通していることがあります。動画で園長さんも言ってましたが、子供は成長したがっている生き物だということです。ここが大人と違うところです。しかし、大人は自分勝手な思い込みで、成長したがっている子供たちの本能を殺してばかりいる。その最たる例が「ゆとり教育」でしょう。そして「つめこみ教育」でしょう。私は「ゆとり教育」と「つめこみ教育」は、結局のところ同じスタイルだと思いますね。両方とも子供の成長を殺してしまう。

 で、ヨコミネ式保育園は、
 どういう教育をしているかというと、寺子屋教育。
 伝統的な寺子屋教育。

 各自バラバラに教えている。
 画一的な授業などしていません。
 やってることは、子供にやる気をおこさせているだけ。
 たった、これだけのことで、
 小学校低学年で学ぶことを5歳でマスターし、
 50メートルを平均10.4秒で走るようにしている。
 逆立ちで歩いたり側転もできたりする。

 不思議ですよね。大学で教員免許をとったプロの教師にでききないことを、地方の私立保育園で、難なく達成してしまう。落ちこぼれ無しで、しかも寺子屋方式で達成してしまう。というか、これは寺子屋方式でないと達成できないのかもしれません。いや、寺小屋方式だから達成できるのかもしれません。

 だいたい江戸時代の寺子屋は、かなり難しい勉強を教えていました。庭訓往来・千字文・小学・近視録・四書五経という順番で読破し、唐詩選・百人一首・徒然草を学び、算盤までやりましたから、現在のレベルからいうと大学生ぐらいのレベルの学問を小学校6年生くらいの年齢の子供たちがマスターしていましたから凄いの一言です。

 これは現在では絶対不可能です。
 寺子屋だからできたんですね。
 寺子屋は、画一的な授業などしません。
 子供にやる気をおこさせているだけ。
 たった、これだけのことで、
 江戸時代の子供たちは十八史略まで読んだりする。

 で、ここからが私の体験になります。
 4つのスイッチで思い出した私の体験です。
 私にも思い当たることがありました。

つづく。

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2010年03月22日

コミネ式保育園を知って思い出したこと3

コミネ式保育園を知って思い出したこと3

ヨコミネ式保育園では、全ての子供たちがスーパーマンになってしまう。詳しくは、下の動画をみてほしいのですが、



 入園者の全てを、こんな幼児にしてしまうヨコミネ式保育は、まさに驚異的ですが、
 そのヨコミネ式保育は、たった4つのスイッチをおしてあげるだけだと言います。
 子供をやるきにさせる4つのスイッチ押してあげる。
 それがヨコミネ式保育らしい。その4つのスイッチとは、

1.子供は競争したがる
2.子供は真似したがる
3.子供はちょっとだけ難しいことをしたがる
4.子供は認めたがられる


 私は、この動画を見たときに、
「ありえるな」
と思いましたね。というのも私にも似たような経験があったからです。

 実は、私の父は教育パパでした。子供部屋というか、勉強部屋をつくり、勉強を強制したのですが成績はあがらなかった。理由は、親の目を盗んではサボっていたからです。勉強が嫌いで嫌いでたまらなかった。習字の塾にも行かされたのですが嫌で嫌でたまらなかった。そういう訳ですから父親が単身赴任でいなくなると、勉強なんかするわけがない。これさいわいと宿題までしなくなる。子供部屋は、遊び部屋になってしまった。で、母親が私を注意したかというと、全く注意しなかったんですね。

 母親(小学校教師)は、私を子供部屋(勉強部屋)に追いやらず、逆に一緒に居間にいるように言った。最初は嫌だったが、母親と一緒にいると夜遅くに御菓子がでてくるので、その餌につられて寝るまで一緒にいるようになりました。もちろんテレビは消したままです。

 母は、どういうわけか父親のように勉強しろとは言いませんでした。
 何も言わない。
 ただ一緒にいるだけ。
 それだけなのです。
 それ以上は、なにも要求してこない。
 それだけで美味しい御菓子が食べられた。

 こんな美味しい話しは今までなかったですね。だから私は大喜びでした。母親と一緒に静かな居間ですごすだけで御褒美がもらえる。しかも、テレビを見ること以外、何をやってもいいのです。漫画を読んでも良いし、寝っ転がっててもいい。冬は、コタツで居眠りをしててもいい。だから最初のうちは、ボーッとしてしていました。

 で、母親は何をやっていたかと言いますと、仕事をしていました。小学校の教師をしていたので、テストの採点なんかをしていたんですね。暇をもてあましていた私は、その採点をボーッとみていました。何日も何日もボーッと見ていました。すると母親は、そんな私に
「お前も採点してみるか?」
と聞いてきます。
「うん、やる!」
と私は答え、採点のしたかを教えてもらい採点をさせてもらいました。これがとても面白い。そして、楽しいのです。マルバツの試験でないので面白い。考え方に間違いが無く、もう少しで回答があっているときなど、親子で相談して三角をつけるのが楽しいのです。で、こういうお手伝いをすると
「お手伝いありがとう、これはお駄賃」
と、いつもより余分に美味しい御菓子がでてくるのです。

(今から思えば、これはスイッチでしたね。大人の真似をしたがるスイッチです。そして、ちょっとだけ難しいことをしたがるスイッチが入り、認めたがられるスイッチも入った)

 採点の無い日は、母親は、授業の準備をしていました。絵の具で大きな「ひまわり」の絵をかいてたりする。これもボーッと見ていると、母親は「お前も書いてみるか?」と聞いてきました。そして「うん、やる!」と私は答え親子で絵をかきはじめました。当然の事ながら絵の描き方も教わりますし、自然と理科の勉強もするようになります。ヒマワリの花びらが、正式には何枚あるのか調べないと絵は描けませんから。もちろん絵が完成したら、お目当てのお駄賃がでてきます。

 それも無い日は、母親は、授業の準備で難しそうな本を読んでいました。さすがに読書を手伝うわけにはいきませんから私は漫画を読んでいました。

 しかし、漫画も読み飽きてくると、本棚に飾っていただけで一度も読んだことのない世界名作全集を読むようになりました。すると、読み終えると、漫画の時にはでなかった、お駄賃がわりの美味しい御菓子がでてくるのです。さらに感想を述べると、もっと出てきます。

 で、本棚に飾ってた世界名作全集を読み終え、2回目3回目と繰り返して読んでいますと、母親は、こんな本を買ってきました。秋田書店の写真で見る太平洋戦争シリーズです。

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 これは大人向けの本で、小学生には、かなり難しい本なのですが、全部ルビがふってありましたので問題ありませんでした。私は貪るように読み本が擦りきれるほど読みあさりました。そして図書館から本格的な戦記物を借りてきて読むようになりました。それが、歴史物に変化し、司馬遼太郎を読むようになったりします。さらに江戸川乱歩の少年探偵団を読むようになり、捕物帖まで読むようになってしまいます。

 こんな毎日が、1年くらい続くと、不思議なことに何も言われなくても勉強をはじめてしまうようになります。誰に命令されなくても宿題をはじめるようになるのです。で、学校の成績もあがってくる。そうなると、ますます親にほめられるし、先生にもほめられる。

 ここで4つのスイッチについて思い出してみましょう。

1.子供は競争したがる
2.子供は真似したがる
3.子供はちょっとだけ難しいことをしたがる
4.子供は認めたがられる


 これらの4つのスイッチの中で一番重要なのは、2番の「子供は真似したがる」ということではないでしょうか? 今にして思えば、小学校教師だった私の母親は、それを本能的に知っていたんだと思いますね。

 子供は、親の真似をしたがるのです。
 ほっておいたら親の真似をする。
 それが子供の本質なんだと思います。

 そういう生き物に勉強部屋を与えて「勉強しなさい」と言っても効果があるわけがない。ましてや、親がテレビをみていたら勉強なんかするわけがない。小学生にとって勉強部屋は、むしろ害毒の方が大きいような気がします。子供は真似したがる。そんな生き物を監獄のようなところに閉じ込めては、真似のしようがないですよ。

 思い返しても母が偉かったなあと思うことは、勉強しろとは言わなかったことですね。その代わりに静かに一緒にいることを強制した。勉強しろという代わりに、大人としての手本を見せ続けた。真似をさせ続けた。それが凄かったと思います。

 おまけに4番の「子供は認めたがられる」という性質を利用して、採点を手伝わせて、お駄賃を支給したり、3番の「子供はちょっとだけ難しいことをしたがる」という性質を利用して、難しいけれどルビが振ってあって子供にも読める本を次々と買ってくれたりした。ふり返って思い出せば、うまいこと教育されたなあと思ってしまう。

つづく。

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2010年06月02日

鯉のぼりも終わりの季節になりました。

鯉のぼりも終わりの季節になりました。

で、鯉のぼりで思い出したことがあります。
ある世代から鯉のぼりに対する
イメージが全く違っているということです。
これは、私と弟で、全く違ってきている。

 弟とは、4歳しか違わないのに、鯉のぼりに対するイメージが違う。もちろん、このブログを読んでいる皆さんも、私とは違った鯉のぼりのイメージをもってらっしゃる。ただし、年輩の方には、私と同じイメージをもっている人が何人かいるかもしれない。


yuzenkoi_sub.jpg


 私が何を言いたいかというと、昔は、鯉のぼりは紙製だったということです。もちろん和紙で作られていた。和紙で巨大な鯉のぼりをつくり、それに絵を描いたのです。布の鯉のぼりも無くはなかったですが、布の鯉のぼりにしても、手製なので各家々で鯉の顔つきが違っていました。

 でも、まあ、たいていの家では、紙製の鯉のぼりでしたね。
 これが弟の時代に、変化したのです。
 どの家でも工場で作られたナイロンの鯉のぼりに変化したのです。
 そして、どの家でも、同じ形の鯉のぼりになりました。

 で、どうなったかと言いますと、ほとんど風がなくても、鯉のぼりが泳ぐようになったのです。

 ハンドメイドで麺の布で作られた鯉のぼりや、紙製の鯉のぼりは、風がなければ泳がなかった。ところが、工場製品のナイロンの鯉のぼりは、少しのそよかぜで泳ぐのです。私は、子供心に親にせがみました。

『友だちの家にあるナイロンの鯉のぼりが欲しい

 今思えば、なんでナイロンの鯉のぼりを欲しがったのか? すごく後悔しているのですが、この軽薄なおねだりを私の親は、アッサリ聞き入れ、紙製の鯉のぼりは、捨てられてしまいました。こうしてナイロンの鯉のぼりが、自宅の庭に登ったわけですが、それまでの紙製の鯉のぼりと、あまりに違うので衝撃を覚えた記憶があります。


 では、どこが違ったでしょうか?


1.まず大きさです。

 紙製の鯉のぼりは、ナイロンの鯉のぼりの数倍の大きさでした。鯉は滝を登ると竜になるといわれていました。だから巨大な竜になるべく、巨大な鯉のぼりを紙で作ったのです。当然のことながら、幟(のぼり)のポールも巨大なものを使います。近所で大きさを競ったのです。

2.音。

 紙製の鯉のぼりのうるさいこと。およぐごとに、バタバタバタバタ! バタバタバタバタ! バタバタバタバタ! と、すごい騒音をだしていました。でも、それが凄くかっこよかったのも確かでした。もちろん、泳ぐうちに紙が破けてきますから、毎日のようにリペアします。和紙をはって、絵をかきなおすのです。これは、けっこう面倒なので、親は、アッサリとナイロンの鯉のぼりを買ってくれたのかもしれません。

3.形。

 紙製の鯉のぼりは、形がリアルでした。円筒形の鯉のぼりではなく、写実的な鯉のぼりだったのです。だから風が強くないと、なかなか泳がなかったのです。ただし、泳がなければ破損も少ないのでリペアの必要もありませんでした。


 さて、ナイロンの鯉のぼりが庭に登るようになってからです。鯉のぼりに神秘性を感じなくなったのです。紙製の鯉のぼりの時は、音が凄いために、鯉が空にあがっていくと、本当に龍になるのではないかと、真剣に空想したものですが、ナイロンの鯉のぼりでは、静かすぎて、そんな想像はわいてきようもありません。だから弟たちには、
「鯉が滝を登ると龍になるんだよ」
と話しても、
「そんな訳ないでしょ」
と相手にもしてくれませんでした。

 ちなみに、なぜ私の子供の頃に、紙製の鯉のぼりがあったかといいますと、祖父が絵かきだったのです。絵かきというと、横山大観の日本画なんかを思い出すかもしれませんが、じっさい祖父も、そういう絵をかいたのも確かなんですが、鯉のぼりや凧の絵も描いたのです。それが絵かきの仕事の一つだったのですね。

 で、祖父は、いろんな子供や孫のために龍に変身する鯉の絵を描いたわけです。昔の鯉のぼりに個性があったのは、そういう意味合いもあったのです。どんな龍になってほしいか、その願いをたくすように鯉のぼりを作ったのです。そういう鯉のぼりは、ナイロンの鯉のぼりとは、またひと味違っていました。

つづく。

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2011年10月28日

アニメ「ちはやふる」に思うこと。

アニメ「ちはやふる」に思うこと。
アニメ「ちはやふる」が、面白いですね。
どんなアニメかというと、百人一首のカルタ大会のアニメです。
かなりレベルの高いアニメです。





実は、私は、このアニメの登場人物(副主人公)と、同じような経験をしたことがあります。
今回は、それについて述べてみようと思います。

私のふるさとは、佐渡島の旧金井町というところです。
ここには、3つの小学校がありました。
いちばん大きな小学校が、金井小学校。
私の母校です。

で、泉小学校・吉井小学校という小さな小学校がありました。
金井小学校は、街の中心地にあります。
生徒数も多いし、都会意識がある。
ですから、泉小学校・吉井小学校を小馬鹿にしています。

 まあ、どちらも佐渡島の田舎なので、大差はないんですが、そもそも田舎者は、少しでも自分のところの方が都会だと思いたがります。笑止千万ですが、そういうものです。ですから、金井小学校の子供たちは、泉小学校・吉井小学校に対して根拠のない優越感をもっていました。その金井小学校と、僻地にある泉小学校が統合することになった。金井小学校が、泉小学校を吸収合併することになった。私が小学校5年生の時です。

 で、いろんな行事が組まれたんです。

 まず、私たち金井小学校の五年生が、泉小学校の運動会に招待された。
 で、ちっちゃな小学校だなあと思った。
 そのうえ、そこで見た運動会の応援歌がダサイと思った。
 金井小学校の子供たちは、みんな
「俺たちの応援歌の方が、かっこいい」
とヒソヒソ囁きました。
 まあ、今から思えば、何から何まで見下していたんだと思います。
 何の根拠もなく。

 しかし、その応援歌は、今から考えると素晴らしい応援歌だった。
 佐渡島にまつわる歌詞を歌った応援歌だった。
 故郷を歌った心に染みいる歌だった。

 じゃあ、金井小学校の応援歌は、どんな応援歌だったかというと
 今にして思えば最低の応援歌だった。
 「聞け万国の労働者(メーデー歌)」だった。



 こんなものを小学生に、運動会に歌わせた金井小学校の教師たちの神経を疑う。
 しかし、当時小学生だった私は、単純に、この歌をかっこいいと思いこんでいた。
 知らない間に左翼教師たちに洗脳されていたわけだ。


 金井小学校は、大きな小学校だった。
 佐渡島にしては、少しばかり都会の小学校だった。
 しかし、そこは日教組の支配する学校だった。
 授業で、自衛隊は憲法違反と学んだ。
 自宅へ帰って、それを親に言ったら殴られた。
 私の父親は、自衛隊だった。

 話をもどします。

 次のイベントして、妙見山という山で、金井小学校と泉小学校が合同キャンプすることになった。仲良くなるためのキャンプだったんでしょうが、おきまり喧嘩が勃発した。人数の多い金井小学校の圧勝だった。勝負にならなかった。ここでも、私たち金井小学校の根拠無き自尊心が満たされましたが、そもそも数が違うので、馬鹿だったとしか言いようがないです。その根拠無き自尊心が崩れる時が、数ヶ月後にやってきた。





 金井小学校の五年生が、泉小学校の運動会に招待されたことは述べました。お返しに、泉小学校全員を金井小学校の学芸会に招待しました。これに、私たち金井小学校の子供たちは、妙な優越感をもちました。泉小学校に招待されたのは、金井小学校の5年生だけでしたが、金井小学校に招待されたのは、泉小学校全員だった。なんか変な優越感をもって、みんな泉小学校を小馬鹿にしていた。

 人数の多い、金井小学校の出し物は、学級ごとに行われました。1年生◎◎組は演劇。1年生★★組は舞踊。2年生☆☆組はミュージカル・・・・といった具合に。5年生◆◆組の私は、音楽の出し物を行いました。曲は、音楽の教科書のものをつかいました。もともと、音楽の授業でやっていた曲ばかりだったので、できばえもよく、意気揚々とひきあげました。

 とりは、泉小学校の出し物で、演劇でした。で、それが凄かった。

 1年から6年まで全員参加の演劇で、佐渡島の有名な民話「音羽池」を演じたのですが、私たち金井小学校のレベルと全く違っていました。まるでプロのレベルだったのです。台本も凄かった。小学校で習ってないはずの古語・慣用語句・格言・ことわざなんかが、随所にでていて、小学五年生の私には理解できないところも多かった。たとえば、

「ここは清水の舞台から飛び降りるつもりで・・・」

という台詞の意味がわからなかった。こういう用語は、金井小学校の生徒たちは、教わってなかった。しかし、泉小学校の子供たちは、小学校1年生でも知っていた。

 これは、あとから知ったことなのですが、金井小学校の出し物は、教育指導要領にそった出し物しかだしてなかった。ですから私たちが演じた音楽の出し物は、音楽の教科書にあるものをやっていた。それに対して泉小学校は、教科書の枠をとびこえて、プロのレベルを目指していた。金井小学校の子供たちのもっていた根拠無き自信が、ここで崩れたのです。

 私は、自宅へ帰って、学芸会に見に来てくれていた母親に
「金井は駄目だ」
としょげかえった。母親は
「いや、よかったよ」
と慰めてくれましたが、私の母親は日教組の小学校教員だった。今から思うと、あれは慰めだったのではなく本気でそう思っていたのかもしれない。というのも金井小学校の教師たちが、泉小学校の教師たちを批判しているのを偶然聞いてしまったからだ。「泉小学校の出し物は、小学生らしくない」と。

「小学生らしくない」

 子供の頃に私は、この言葉に反発を覚えた。というのも、泉小学校の子供たちは、実に小学生らしかったからだ。みんなノビノビと役を演じていた。金井小学校の方が、型どうりの出し物をやっていた。教科書にそったものをロボットのように演じていた。

 ここのどこに小学生らしさがあるのだろう?
 金井小学校の教師たちは、自分の子供の頃を忘れてしまったのだろうか?
 と思った。

 そもそも子供という生き物は、新しいことをやりたがる。
 大人のまねをしたがる。
 教科書に載っている授業で練習済みの音楽を演奏するより、
「ここは清水の舞台から飛び降りるつもりで・・・」
という聞きかじった新しい言葉を大人たちの前でしゃべってみたい。
 それが小学生というものだ。
 教科書をはなれたい。
 新しいことをやりたい。
 未知の世界に飛び込みたい。
 それが小学生というものだ。

 いくら大人たちの理論で金井小学校の出し物の方が良いという結論であっても、子供たちの心は違う。そんな理屈では騙されない。子供たちの目から見たら、あきらかに泉小学校の方が良かった。小学生のレベルを超えた演劇の方が、まぶしく見えたことは確かなのだ。

 そして、私が小学生6年になった時、泉小学校は金井小学校に吸収合併された。
 泉小学校の子供たちは、金井小学校のクラスで一緒に勉強した。
 伝統ある泉小学校は、廃校になってしまった。
 みんな、すぐに仲良くなって、一緒に金井中学校に進学した。

 事件は、その直後におきた。
 また、衝撃の事件が、私たち金井小学校出身者のプライドをズタズタにした。
 旧泉小学校出身者の能力に驚嘆せざるをえない事件がおきたのだ。

 中学校に入ると、今まで見たこともない授業にでくわす。英語と古典だ。英語は、金井小学校・泉小学校の子供たちのどちらにとっても、初めて出会う教科だった。しかし、古典は違っていた。旧泉小学校出身者の方が圧倒的に強かったのだ。なにしろ小学校1年生に
「ここは清水の舞台から飛び降りるつもりで・・・」
という台詞を学芸会で言わせる学校だ。古典に強いはずである。民話にも強いし、郷土史にもつよい。





 中学校に入ると、百人一首大会というものがあった。「いろはカルタ」しか知らなかった私たち金井小学校出身者たちは、1枚もとれなかったが、泉小学校出身者の子供たちは、ばんばん取っていった。みんな上の句・下の句をすべて暗記していた。ひどいのになると、カルタを置いた場所まで記憶していた。聞いてみたら泉小学校では、1年生の時から百人一首大会で鍛えていたらしい。もちろん歌の意味まで知っている。





 今にして思えば、泉小学校は、まれに見る素晴らしい学校だったかもしれない。泉小学校の歴代校長・そして教師たちは、素晴らしい伝統を泉小学校に残していた。その泉小学校が無くなってしまったのは残念だった。密かに私は金井小学校が泉小学校を吸収するのではなく、泉小学校が金井小学校を吸収すればよかったと思っている。そうすれば、泉小学校の伝統は、今でも続いているはずだったから。





 さて、「ちはやふる」というアニメ。
 素晴らしいアニメです。
 百人一首大会をテーマにした青春ドラマです。
 機会があったらぜひ見てください。


つづく。

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2012年07月07日

さすがは七夕! 晴れました!

 今日は、七夕!
 さすがは七夕!
 雨がやみました。
 




 7月7日七夕の夜、天の川を隔てて輝く、わし座のアルタイル彦星と こと座のべガ織姫が 一年に一度だけデートすることを許された夜が、今日です。この日にちなんで、願い事を書いた短冊を笹の葉につるし、おりひめ星に技芸の上達を願います。子供の頃に笹の葉に、短冊を飾りましたね。
 
 ところが、7月7日に雨が降ると、天の川の水かさが増して2人は川を渡ることができなくなります。しかし、ご心配無用。どこからともなくカササギの群が飛んできて、天の川で翼と翼を広げて橋となり織女を牽牛のもとへ渡す手助けをしてくれます。
 
 今年もカササギの出番と思いきや、雨がやみました。よかったよかった!
 
 



 七夕で思い出すのが、私が幼稚園の頃。七夕飾りを作るために、保母さんに笹竹を持ってくるように言われたのですが、忘れてしまった。で、罰として、みんなが作っているのを一人ながめていたんですが、帰宅時間に私を迎えに来た祖母が、私だけ七夕かざりを持ってないのに怒りだした。

 で、幼稚園の先生が、大急ぎで裏山に行って笹竹を切ってきて、
 3分くらいで七夕飾りを作ってくれて私にもたせ、
「自分で作ったんだよと、おばあちゃんに言いなさい」
と命令されました。

 素直な私は、その命令を忠実に守ったのですが、バレバレだったらしく、祖母の怒りはしばらくおさまらなかった。それを聞いた私の父母も怒っていたのですが、5歳くらいの私は、なぜ怒っているか理解できない。だって、私は、何の手間もかけず、先生が3分で作ってくれたので、
「ラッキー」
と思っていたから。
 
 そして、祖母と父母の怒るポイントの違いにも不思議に思っていた。

 祖母は、一人だけ差別したことに怒っていたが、これは笹竹を忘れた私が悪いと思っていたので祖母の怒りが、今ひとつ分からなかった。

 両親は、一人だけ差別したことに怒っていなかった。それより私に嘘をつかせたことに激怒させていたが、どうして私が嘘をついていると分かったのだろうか? どうして先生が私に(祖母に対して)嘘をつかせたと知っていたのだろうか? 不思議である。こればかりは今でも謎だ。親は子供の嘘を見破る力をもっていたのだろうか?
 
 ちなみに私は最後まで先生との約束を守ってシラを切った。これに対しては、親は怒ってない。約束を守ることは大切だと日頃から言ってるから。しかし、今にして思うと、嘘と約束の両天秤を思うと、微妙ですね。ところで佐渡島の旧金井町保育園の先生。今頃になって、北軽井沢あたりで、こんなネタばらしされるとは、夢にも思ってないだろうなあw

つづく。

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posted by マネージャー at 10:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題を考えてみる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月27日

記憶の話

私は、あまり御客さんの前には出ない。
耳が悪いので、無愛想に見えてしまうからだ。
そして、実際、無愛想なことも確かである。

実は、昔、人間関係に苦労していた。
友人は多かったのだが、長続きしないのである。

耳が悪くて無愛想だというのも理由の一つであるが、
最も苦しんだことは記憶の一部を失うことだった。
5分前のことを全く覚えてないことが、時々あったのである。

この症状がでるとタイムスリップした感じというか、
時間と空間をワープしたような感じになる。
つまり5分間、自分が何をやったのかの記憶が無いのだ。

これには苦しめられた。
本当に苦労した。
時々、友人を怒らすことをしても、自分にその記憶が無いのである。
しかも、その症状に気が付いたのが、15歳を過ぎてからであった。
それまでは何が何だか分からなかった。
ただ、何がどうなったのか人を怒らせてしまうことが多かった。
そして原因が分からずにオロオロすることが多かった。

しかしその症状に気がついてからは、問題は無くなった。
他の人と距離を置くようになったからである。
すごく仲の良かった友達とも、できるだけ距離を置くようにした。
そうしないと、その友人に被害が及ぶからである。

良いこともあった。
友人を避けるようになると、自分の時間が出来上がる。
その時間は、読者に使った。
図書館が自分の行く居場所になった。
おかげで高校時代には信じられないくらいの大量の本を読むことができた。

高校卒業後は、旅に出た。もちろん一人旅である。誰かと旅行するなんて考えられなかった。歴史好きだった私は、全国の史跡を1人で歩き回った。楽しかった。博物館や郷土資料館は、 1人で回った方が圧倒的に面白い。どんなに仲の良い友人も実は邪魔だったりするのだ。ひとりで自分のペースで見て回りたいのである。

宿泊場所は、主に駅のホームとか、公園のベンチであったりしたが、
たまにユースホステルを利用した。
最初は寝泊まりだけに使ったが、そのうち食事をとるようになった。
おかわりが自由だったからである 。
私はご飯を何杯もおかわりをして、そしてお昼ご飯を抜いた。ユースホステルの朝食と夕食で、5杯飯を食べて満腹にしたものである。

最初は、相部屋の人とは会話も交わさなかったが、当時のホステラーさん達は、そんな私にもよく話しかけてくれたので、いつの間にか私もいろんな人とお話をするようになった。それまで私は他の人と距離を置いて生活をしていたのだが、ユースホステルでは、距離を縮めるようになっていた。信じがたいことにユースホステルでは、私の記憶障害が、何の問題も起こさなかった。

もともとユースホステルでのお付き合いは、一期一会のお付き合いである。
それも淡いお付き合いである。
だから、記憶がなくなっても何の問題もないのである。

そもそも当時のユースホステルでは、歌って踊ったり、ドンチャン騒ぎをしたり、トランプをして遊んだりしていたので、宿泊している人たち全員が、記憶を失っているようなものであったからである。つまりである、ユースホステルに泊まると言う事は、記憶失うということでもあるのだ。

もちろん、みんなは記憶を失ってないのかもしれない。
しかし、そこには、異空間が存在している。
別世界があるのである。
これは 、記憶を失っているのに等しいことなのだ。
そして、非日常の中で記憶を一時的に失うことによって、ストレスを解消し、
日常に戻ったときに活力が回復するのである。

私は、このような、非日常を愛した。
気が付いたらユースホステルが好きになっていた。


つづく。

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posted by マネージャー at 22:28| Comment(2) | TrackBack(0) | 教育問題を考えてみる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月28日

記憶の話2 世の中何が幸いするかわからない

子どもの頃の私には、数分前の記憶の一部を失うことがよくあった。
5分前のことを全く覚えてないことが、時々あったのである。
この症状がでるとタイムスリップした感じというか、
時間と空間をワープしたような感じになる。
つまり5分間、自分が何をやったのかの記憶が無いのだ。
これには苦しめられた。

 ところが、他の記憶は人よりよいのである。
 大昔の記憶は、むしろ他の人よりもよく覚えていることが多かった。

 まあそれはどうでも良いとして、5分前のことを覚えてないと言う事は、どういう事態を引き起こすかというと、これはちょっと具体的な例を話してみないとわかりにくいのかもしれない。

 子供の頃に親から自転車を買ってもらった。私は自転車に乗って遠くに遊びにいくのだが、その時に5分間の記憶を失ったとする。すると、なぜ自分がそこにいるのかがわからなくなるのだ。つまり、自宅にいたはずの私が、なぜか神社の境内で座っているのである。まるで瞬間移動しような錯覚に陥るが、そんな事は無い。私はそこまで自転車で向かっていることは確かなのだから。要するに自転車に乗って神社に行ったことが記憶にないだけなのである。

 びっくりした私は、自宅にとぼとぼと歩いて帰った。当然のことながら、自分の自転車は神社のところに置いてある。そして、父親と母親が、仕事から帰ってくると、私の自転車がないことに気がついて、自転車はどこに置いてあるのだと私に聞いてくる。ところが私にはその自転車のありかはわからない。何しろ記憶にないのだから。

 ここで、ちょっとした不幸な巡り合わせがあった。
 私の父親は自衛官であった。

 自衛官は、ものの紛失を非常に嫌う人たちである。例えば仕事の時、部品1個でも紛失してしまったら、何時間かかっても探し出す。そういうお仕事なのである。何しろ危険なお仕事なので、一つでも部品が紛失したら人命に関わってしまう。だから、モノは絶対紛失してはいけない。そのように教育されて何十年も生きてきているのが自衛官なのである。

 このような仕事をしている父親は、自転車が見つかるまで絶対に許さない。まあ自転車なら当然のことといえば当然のことなのだが、ドライバー1本から、鉛筆1本、定規や消しゴムに至るまで、ものを失うとひどく怒った。筆箱を何時間も探しても見つからなくて、暗真っ暗な小学校の机の中まで探しにいかされたこともある。
 例えば工具などは、ベニヤ板に黒いシルエットを書いて、全て整然と並べておく。一つでも無くなったら、一発でわかるようになっている。そし、もし何かなくなっていたら、たちまち私のせいにさせられ、何時間かかっても私に探させた。何故ならば、一番ものを無くすのが私たったから。もちろん弟が無くす場合もあったろうが、それでも私だけか疑われて、見つかるまで探させられたが、そもも記憶が無いのだから、なかなか見つからない。こんな状態だから私は一日の大半をものを探すことに明け暮れることもあった。

 話は元に戻るが、自転車は見つかった。そして取り上げられた。自転車は弟のものになったのである。子供に所有権というのはなかった。ものを大切にしなければ、親は平気で取り上げる。そういう時代であった。今とはちょっと違う世の中なのかもしれない。今よりも、物が大切に扱われていた時代であった。それだけに5分前の記憶がなくなるということは、子どもにとって生きていく上で非常に辛い時代でもあった。私は、弟が自転車て遊ぶのをうらめしそうに横目に見ながら、一人、歩いて山に登っていた。

 しかし、悪いことばかりではない。子供の頃の私は、単に自分の記憶力がないと思い込んでいたので、昔の事を思い出す訓練をしていた。そして、記憶力を鍛えて大昔のことを思い出す力に目ざめていった。おまけに記憶力もよくなっていった。 5分前の事は思い出せないのだが、 1年前のことはよく思い出せるようになっていた。 10年前のことならばさらに良く思い出せるようになっていた。

 また昔の事を調べるようになっていた。親に怒られないように、いろいろ昔の事を調べるような癖がついたのである。これが、私を、歴史というものに向かわせることになった。私の歴史好きは、こういうところに原点があった。

 その上、文章を書く癖がついた。文章書くことによって、忘れ物をしないようにするためである。それが、私を文章好きにさせて、それが結果として、北軽井沢ブルーベリーユースホステルのホームページやブログとなっていったのである。何事も悪いことばかりでは無い。いや、プラスマイナスで考えたら、プラスの方が圧倒的に多かったような気がする。というか、圧倒的にプラスだったと思う。世の中何が幸いするかわからないものだ。

 ちなみに北軽井沢ブルーベリーYGHには、なんでも複数ある。歯ブラシも複数あるし、工具箱も8個もある。本当なら1個で足りるはずであるが、いくつもある。全く無駄な数であるので、ラズベリーYHの曽原氏に何度か怒られているのだが、これは私の欠点を補うためにおいてある。もちろん、ほとんどは同じ倉庫にしまってあるのだが、私が持ち出して、記憶をなくして見つからなくなってしまうから、同じものが複数おいてあるのだ。もう、独立しているので父親に怒られなくてすむので、こういう工夫ができるので、ちょっと嬉しい。

つづく。

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posted by マネージャー at 11:29| Comment(2) | TrackBack(0) | 教育問題を考えてみる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月01日

記憶の話3

 子どもの頃の私には、数分前の記憶の一部を失うことがよくあった。
 5分前のことを全く覚えてないことが、時々あったのである。

 子供の頃に親から自転車を買ってもらった。私は自転車に乗って遠くに遊びにいくのだが、その時に5分間の記憶を失ったとする。すると、なぜ自分がそこにいるのかがわからなくなるのだ。つまり、自宅にいたはずの私が、なぜか神社の境内で座っているのである。まるで瞬間移動しような錯覚に陥るが、そんな事は無い。私はそこまで自転車で向かっていることは確かなのだから。要するに自転車に乗って神社に行ったことが記憶にないだけなのである。

 これはとても不便なことであった。
 何しろ、自分がいつの間にか知らない土地にいるのである。
 下手したら迷子になることもあったのだ。

 ところがである。この不便な体質によって、妙な土地勘が生まれたみたいなのだ。知らない街にある日突然放り出されても、自力で家まで帰る能力が、いつの間にか私に備わっていたみたいなのだ。だから私は、迷子になったことがない。けれど弟は、迷子になっている。

 ちなみに私はいちど歩いた土地は何十年たっても覚えている。車も運転をしていても、いちど走った路は忘れる事は無い。これはうちの家内には絶対真似のできない特技である。うちの家内は、100回通っても道を覚えない。北軽井沢に引っ越してきてから、もう11年になるが、未だに周辺の道を覚えていないのが現状だ。でも私は、北軽井沢に来てから、 1週間もたたないうちに草津町から佐久の町までほとんどの道を覚えてしまった。これは登山をしてても同じだった。不思議なことに山で道に迷っても直感で正しい登山道をさぐり当てる能力が私にあった。だからどんな過酷な探検をしていても、不思議と遭難をしたことがない。必ず帰り辿りつけるのである。それも直感で、簡単にさぐり当てられるのである。

 話は変わるが、私は耳も悪い。いわゆる難聴と言うやつである。しかもこれで、損をしたということもなかった。プラスマイナスで言えば、圧倒的にプラスのことが多かった。まあそれについては、ここでは詳しく述べないが、人間という生き物は、何かが不足すると何か別の能力が生まれるのである。そして、そうやって備わった別の能力は、その後の人生において大いなる威力を発揮するのである。

 さて、長い前置きになってしまったが、ここからが本題である。嫁さんが妊娠して、臨月を迎え、実家に里帰りしてしまった。というわけで、北軽井沢ブルーベリーユースホステルには、私一人しかいない。もちろん、 10年前には私一人で宿を回していたので、何の問題もないのだが、 1つだけ困ったことがあった。私はものをよくなくすのである。もちろん、いろんな対抗策は取ってある。家や車の鍵などは、たくさんコピーをとってあるし、いろんな道具も複数ある。しかし、唯一コピーできないものがある。財布である。もちろん現金などは、財布を3つ4つに分けて、分割して持っているのだが、問題はカードである。こればかりはコピーできない。

 10年前、 1人で宿を始めたときは、すべて現金で物を買っていた。だから何の問題もなかったのだが、今はすべてカードで買っている。だから絶対に財布は無くせないのだ。で、いろいろ考えたあげく、最高のアイデアを思いついた。海外旅行で使う秘密のパスポート入れを常に首からぶら下げて、腹巻きの中に入れてしまうのだ(もちろん腹巻きはしてないが)。これなら絶対にカードはなくさない。ちょっと田舎のおっさんぽいが、そもそも私自身、田舎のおっさんで間違いない。もう正真正銘の田舎者になっているのだから、堂々と田舎のおっさんぽく生きようと思っている。



つづく。

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posted by マネージャー at 05:56| Comment(4) | TrackBack(0) | 教育問題を考えてみる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月02日

育児本の話。その1

育児本の話。

 家内が妊娠してしばらくすると、友人たちからいろいろなプレゼントが届いた。使わなくなったほ乳瓶や、古い子供服などである。そして不思議なことに、必ず一緒に届けられたのが、育児本である。

 というわけで、我が家には育児本が何冊もおいてある。

 私は全く興味がなかったので、最初は何も読まなかったのだが、家内は違っていた。うちのかみさんは、貪るように育児本を読んで、その後図書館から何冊も借りてくるようになった。そして毎週のように図書館に行って、また新しい育児本を借り直すのである。そして図書館の育児本を全て読み終えると、また別の図書館から借りてくる始末である。あんまり熱心に育児本を読んでいるために、私も少し覗いてみた。

 実は私は育児本を昔大量に読んだことがある。というか、私の実家に大量においてあったのである。私の母親は小学校の教師であった。そのために育児本や大量の教育関係の雑誌のバックナンバーが何十年分もおいてあった。専門的な教育関係の著書も大量においてあった。そしてその大半が、本棚で埃をかぶっていた。

 もちろん子供の頃の私はそんなものには興味がない。
 しかし、私が小学校5年生の時に、弟が生まれた。

 私には3歳年下のもう1人の弟がいたが、 10歳も年下の弟となると、まるで違ってくる。 3歳年下だと、競争相手でありライバルである。喧嘩もよくする。しかし10歳年下にもなると、ライバルというより自分の子供のような気分になってくる。実際可愛い。十歳年下の弟が3歳になると、私は13歳である。つまり中学生である。中学生ともなると、 3歳位の子供が可愛くて可愛くてしょうがない。いろいろ面倒をみたりする。かわいがったりもする。そして、実家においてある大量の育児本や教育関係の本に興味を持ち出した。埃をかぶった大量の教育関係の雑誌のバックナンバーを片っ端から読み始めた。

 ここで話を元に戻す。

 うちの嫁さんが、一生懸命読んでいる育児本を私もチラリと読んでみた。
 そして驚いた。
 どの育児本にも致命的な欠陥があるのである。
 その致命的な欠陥とは何か?
 一言で言うと、時代背景を無視しているのである。
 これはどの本にもみられる欠陥である。

 私が中学生の時、大昔の教育関係の雑誌を大量に読んだことは前にも述べた。私の中学生の時のことであるから、昭和50年である。昭和50年といえば、今から40年も前の話である。そんな大昔に、もっと大昔に発行された教育関係の本を読んだのだから、ものすごい大昔の教育に関する考え方を書いた文章を読んだことになる。昭和30年代や昭和40年代の当時の考え方や、もっと大昔の考え方を読んだのだ。

 で、当時の私が不思議に思ったことがある。育児に関する考え方は、時代によって変化するということである。それも10年くらいで劇的に変化するのだ。変化する理由は、その時々の時代背景による。

 例えば戦前において、育児に対する考えは今のものとは全く違っている。戦前では、子供に余計な教育をしてはいけないと言う考え方があった。どうしてかというと、当時は子供が多かったのだ。 5人くらいは当たり前で、ひどいのになると10人ぐらいの子供のいる家もあった。そして、そのような時代背景では、子供に対する不平等が子供の心に深刻な影響を与えることが問題になっていた。

 具体的に言うと長男になるほど可愛がられ、末っ子になるほど子供が放置される家庭が多かったのだ。子供が多いと、親は平等なつもりでも、どうしても不平等な躾をしてしまうのである。それを題材に多くの児童文学が生まれたが、次郎物語やニンジンなどがその代表作である。このような作品は世界中で映画化されたり小説にされたりした。

 なので当時の教育雑誌等には、子供の教育は親の背中でしろという考え方があった。親の働く背中を見せることによって、子供たちは自然と大人になっていく。それで良いとされていた。当時は、サラリーマンなどは非常に少なく、ほとんどが農家や自営業だったので、そのような教育スタイルで、親孝行で立派な子供たちがたくさん育ったのである。

 この方法は、現代には通じにくいが、嬬恋村のような、農家やペンションオーナーが多いようなところでは、非常に参考になるであろう。実際、嬬恋村の知り合いの教師の話でも、農家の子供さんや、ペンションの子供さんたちは、平均して良い子たちが多いと証言している。これは、子供たちが親の背中を見て育っているからだと思われる。まさに戦前型の育児の結果である。

 さて、育児本の話である。
 話が長くなったので、続きは次回にするとしよう。


つづく。

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2013年03月04日

育児本の話。その2

育児本の話。その2

 うちの嫁さんが、一生懸命読んでいる育児本を私もチラリと読んでみた。
 そして驚いた。
 どの育児本にも致命的な欠陥があるのである。
 その致命的な欠陥とは何か?
 一言で言うと、時代背景を無視しているのである。

 前回は戦前についての話をした。戦前では、子供に余計な教育をしてはいけないと言う考え方があった事は既に述べた。では戦後ではどんな時代背景があって、育児に対してどんな考え方があっただろうか?

 例えば高度経済成長期という時代背景を考えてみる。この時代は、まさに私が生きた時代である。そして、私の家内が生まれると同時に終わってしまった時代でもある。昭和35年頃から昭和47年頃までの日本は、まさに高度経済成長時代であった。これが終わるのは、第一次オイルショックが起きた、昭和47年頃までである。それ以降は、ちょっと時代が変わってくる。

 ではどのように変わったのであろうか?

 これは非常にわかりにくいかもしれない。日本が豊かになっていく時代というものは、経験者にしか理解できないのである。私の家内には、どうしても、感覚的に理解できない。なので、具体的に話してみよう。

 私が小学校一年生になった時、お古であるが勉強机をもらった。引き出しが付いていて、そこに物が入れられるのに感動した。とてもワクワクした。

 それから3年後、弟が小学校一年生となった。弟も勉強机を買ってもらった。ただし、弟が小学校に入学した時は、日本経済はもっと成長していた。私の両親も、もっと豊かになっていた。そして、弟は豪華な学習机を買ってもらっていた。本棚、電気鉛筆削、時計が付いていて、カレンダーや時間割のホワイトボードが付いていて、いろんな備品が付いていた。私がもらった机とはだいぶ違う。これは子供心に、複雑な気分だった。

 机だけでは無い。筆箱にしても、カバンにしても、服にしても、何から何まで全て弟のものの方が良い物を使っているのである。しかし、親は決して差別しているわけでは無い。日本が高度経済成長の時代なので、後の時代になればなるほど豪華っぽいものが買えたのである。

 例えば私は冬になると、手編みの手袋を持たされた。毎年毛糸をほぐしては編んだ手袋である。毛糸はどんどん古びてくるし、指の大きさもバラバラであった。しかし弟の頃は、家も豊かになっていたので呉服屋で買ってきた革手袋を持たされていた。もちろん今の時代になれば、母親が編んだ手袋のほうが価値が高い事は、自明のことである。

しかし高度経済成長期時代では、手編みのものよりも革手袋の方が、みんなカッコ良いと思っていた。勉強机にしても同じである。私がもらった机は、父親のお下がりであったが、木で作られた味のあるものであったと思う。それに対して弟が、買ってもらった豪華な学習机は、スチール製だった。今となっては木の机の方が圧倒的に良い事は分かることなのだが、当時は、豪華なスチール製の机の方が羨ましかったのである。そういうのが良いとされたのが高度経済成長時代である。机に何でもついているのが良いとされた時代なのだ。ゾウががふんでも壊れない筆箱がよいとされたのが高度経済成長時代なのだ。

 何から何まで、このような状態だと、兄弟の間で自然と仲が悪くなってくるのである。別に親は兄弟差別したわけでは無い。兄が悪いわけでもない。弟が悪いわけでもない。しかし、微妙な空気が流れていくのである。

 こういう時代背景の中においては、ひとつ間違うと、
 兄弟の間で非常に険悪なものが生まれてしまうのである。
 そういう時代では、今よりもとても重視したことがある。

 それは、上下関係である。
 この上下関係が、きちんと機能してないと、
 兄弟間に不穏な空気が流れるのである。

 兄に兄としてのプライドさえ保たれていれば、
 不穏な空気は決して流れない。
 兄弟喧嘩も決して起こらない。

 だから、兄を無条件に尊敬させるということが、今より重要視されていた。
 そして兄のほうも弟の面倒を見なければいけなかった。
 この上下関係を親の側がきちんとさせてないと、兄弟喧嘩がひどくなっていくのである。

 ちなみに高度経済成長時代では、兄弟の数は今よりとても多かった。当然のことながら、長男と末っ子では何歳も違っている。という事は、長男と末っ子の間では生きた時代の豊かさにおいてはまるで違っている。しかし、昭和47年以降においては、平成の現在に至るまで豊かさにおいてはほとんど差がない。もちろん便利さにおいては大きく違っている。しかし、豊かさの差というものはあまりない。その上、兄弟の数も非常に減っている。一人っ子が多くなった。たとえ兄弟がいたとしても、 2人がせいぜいである。

 さて、長い前置きになってしまったが、私が何をいいたかったかというと、高度経済成長時代の日本では、今とは違った育児論が盛んであった。そしてその時代に盛んであった育児の理論は現代には通用しにくいであろう。時代背景が全く違うからである。ところが、世の中には例外もある。それは・・・・。


つづく。

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2013年03月06日

育児本の話。その3

 高度経済成長時代では、子供が沢山生まれました。兄弟も複数いました。しかも、核家族が多かった。その訳は、祖父の時代でも子供が多かったために、高度経済成長時代の父親も、兄弟が多く結果として核家族が多かったわけです。もちろん子供たちを面倒みる祖父や祖母は不足しています。おまけに幼稚園や保育所も今より不足していました。小学校等は、いくら急いで建設しても全く足りなくて、子供たちは教室の中にぎゅうぎゅう詰めで教師から勉強を教わっていました。

 こういう時代では、何事も効率が優先されます。子供の個性を伸ばすとか、子供を叱り付けないとか、そんなことをやっていては、教師たちの仕事が成り立たないのです。もちろん事情は親の方でも一緒で、今のように子供が遊べる公園もなければ、児童館もなければ、学童保育と言うものをさえなかった時代ですから、子供の悪さを見たらどんどん叱りつけました。それでも間に合わないので、親たちをサポートする意味でも、近所のおじさんや、風呂屋のバンダイのおじさん達が、悪さをする子供たちを容赦なく叱りつけました。それが結果として、子供の親たちを助ける行為になったのです。

 そうしないと、とてもではありませんが、どんどん生まれてくる子供たちを管理できなかったのです。小学校の先生にしても、 1クラスに45人から50人もいる小さな子供達をまとめるのに、容赦なくゲンコツを振るいましたが、これは仕方のないことだともいえます。そもそもしつけもろくにされてない50人の子供たちを、 1人の教師がまとめて面倒見られるわけがないのです。しかし、当時の先生たちは、それをいとも簡単にやってのけたのです。

 それは、子供たちが学校に行く前に、ある程度のしつけをされていたからです。まず親が、兄弟の上下関係をはっきりさせていました。兄は兄らしく弟は弟らしく、男の子は男の子らしく女の子は女の子らしく、父親は父親らしく子供は子供らしく、そのような上下関係を家庭で気づいていました。そうしないと家庭が戦争状態になってしまうからです。

 父親は無条件に偉いとされたし、兄も無条件に弟より偉いとされました。その代わり兄は弟より貧しいことを受け入れなければならなかったし、弟の面倒を見なければいけなかった。具体的に言うと、友達の所へ遊びに行くにしても、弟を連れて行かなければいけなかった。現代では信じがたいことですが、高度経済成長時代の子供たちにとっては、普通のことでした。弟や妹は兄や姉の後を金魚のフンのようについて歩いてきたのです。親のほうにしても、そうしてもらわないと困ったことも確かです。何しろ狭い家に、子供たちが大勢いるわけですから、今より秩序が必要なわけです。

 さて、このような高度経済成長時代の子育てを見ると、チャップリンの映画のモダンタイムス(modern times)を連想させます。画一的な教育システムによって、没個性的な子供たちがたくさん量産されそうな気がします。現に当時の教育雑誌には「画一的な日本の教育システム」とさんざん批判をあびていました。ところがそうではなかったのです。むしろ個性的な子どもたちが生まれていった。没個性的な子供たちが大量生産されるのは、皮肉にもそのあとの「個性を大切に」が叫ばれはじめた時からなのです。

 教室にすし詰めで勉強した子供たちは、むしろ伸び伸びと個性的に育っています。個性が殺され始めたのはその後です。皮肉なことに、教育雑誌に個性的な子供たちを育てようと言われ始めてから、個性が殺されていく時代になっていくのです。時代で言うと昭和47年頃から後です。

 この頃になると日本もかなり豊かになっていますから、家の建築にしても、子どもの個性を育てる建築の特集を組んでいたりしていましたが、どんな特集だったかといいますと、子供部屋を1人ずつ与える図面でした。すべての子どもに独立した部屋があれば、子供の個性は伸ばせると言う趣旨の記事が書いてありました。このように、当時の教育雑誌や、教育関係の図書には、盛んに子どもの個性を大切にしようという文章がいっぱい載っていました。しかし、皮肉なことに世の中は逆の方向に向かっていったのです。

 あともう一つ特徴的なことがあります。校内暴力です。盛んに個性を大切にしようという考えで育てられた子供達は、中学生になると盛んに校内暴力を行いました。不思議なことに、それから数年前の子供たちには、そういう問題は全くありませんでした。というか、考えることさえできなかったと思います。

 さて、どうしてこんなことが起きたのか?

 当時の教育の専門家や、大学の先生たちは、
 いろんな小理屈をこねていましたが、
 肝心なことを見失っていたと思います。
 問題は、もっとシンプルなんです。

 教室にすし詰めで勉強をしていた子供たちは、当時、工場のラインに並べられている製品のように言われていましたが、実はすし詰めの教室の中で社会というものを勉強していたわけです。貧しかった時代の子供たちは、子供部屋なんかありません。寝る時は親と川の字になって寝ました。これで子供の個性が育つかというと、育つのですね。

 さて、ここで私の体験をお話ししましょう。私もご多分にもれず、小学校に入ると子供部屋をもらいました。そこで父親に勉強しろと言われたのです。しかし、勉強などしたことがありません。小学生が、自ら進んで勉強するなんて有り得ません。だから私は父親によく殴られました。しかしどんなに殴られたとしても勉強はしませんでした。じゃあどんな時に勉強したかというと、母親と一緒にいた時です。
 実は私の母親は小学校の教師でした。
 けれど勉強しろとは言いません。
 一緒にコタツに入って一緒の時間を過ごすだけです。
 そうなるとどんなことが起きるかというと、暇を持て余した私は母親のやることを眺めます。母親はテストの採点かなんかをしています。それを面白そうに見ているうちに、採点の手伝いなんかをします。そのうちなんとなく自分も勉強してしまうのです。
 勉強ではなく本を読むこともあります。それが漫画だったりすることもありますが、母親は何も言いません。もちろんテレビはついていません。静かな部屋で何かを黙々としているだけです。そういう状況下だと、子供というものは自然と本を読んだり勉強をしたりする。子供は勉強しろと言われても勉強しませんが、親の後ろ姿を見てその真似はする。そういう意味では、子供は親の鏡とも言えます。だから子どもを子ども部屋に追いやって、自分はテレビのお笑い番組をみていても、子どもが勉強するわけがないのですよね。

 子供の個性は、親の後ろ姿や兄弟の後ろ姿を見ることによって少しずつ育っていきます。ところが、子供部屋があるとそういうチャンスは本当に少なくなります。社会化の勉強をする機会を失っているわけです。だから、むしろ貧しかった時代の子供たちの方が、親と川の字で寝なければならないので、逆に個性が豊かに育だったりするわけです。

 イジメにしても、教室にすし詰めになればなるほど、少なくなります。友達を選ぶ選択肢が増えるからです。例えば1クラス20人ならみんなで1人を仲間はずれにすることはたやすいですが、 1クラス50人になるととても難しいものです。あとそれだけ人数がいれば、多少おかしな行動をしても、あまり目立ちません。しかし1クラス20人なら、ちょっとでもへんなことをしたらアウトです。

 けれど世の中は、どんどんゆとりある教育を目指して、教育現場の環境を良くしていきました。そして子供たちは、 1人1人子供部屋を手に入れて、没個性的な子供たちになっていきました。どうして子供たちが没個性的になったのか? 親から個性を手に入れるチャンスを失ってしまったからです。

 しかし例外もあります。親から個性を受け継げられなくても、別のところから個性を手に入れる子供たちもいます。それは塾であったり、習い事であったり、スポーツクラブであったり、オタク趣味であったりします。こういう子供たちはどんな時代にもいます。また親が積極的に子供たちに習い事をさせて子供たちの個性を伸ばしていくケースもあります。昭和52年頃、上智大学の渡部昇一教授は、子ども部屋をつくるより、親の書斎をつくり、そこに子どもを入れて親子の会話をすべきと言っていましたが、これは名言でした。子どもの個性を伸ばすには、親の趣味を大切にするというのは、ひとつの卓見でしたが、これが世間に理解されるまで、何十年もかかっています。

 話を戻します。

 高度経済成長時代の父親たち母親たちは、
 子供の個性のこと何かを考えていたでしょうか?

 私は考えてなかったと思います。むしろその日を精一杯生きるので必死だったと思います。狭い部屋に川の字になって親子で寝た時代です。しかし、そんな父親たち母親たちのが、知らず知らずのうちに子供たちの個性を伸ばしてた。 3丁目の夕日の世界に生きた子供たちは、そういう意味で非常に幸せだったかもしれません。


 そういう時代背景をながめる視点から、
 数多くの育児本を読んでみると、
 けっこうおかしな事が書いてある育児本がある。
「それ、違うだろ!」
 と叫びたくなる。

つづく。

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posted by マネージャー at 18:54| Comment(6) | TrackBack(0) | 教育問題を考えてみる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月08日

育児本の話。その4

育児本の話。その4

 個性について話が出たのでちょっと脱線してみます。

 個性には先天的なものと後天的なものがあります。たとえば背が高いとか、知能指数が高いというのは、先天的な個性です。後天的な個性は、生まれた後に身に付けるものですね。その人が置かれた環境によって決定するのが後天的な個性。0歳から6歳までの間に身に付けるものが、決定的に多いことがわかっています。昔から三つ子の魂100までとよく言われていますね。

 生まれたばかりのアヒルは、初めて見るものを自分の母親と認識します。長靴を始めてみたら、長靴を母親と思うのですね。これが刷り込み現象です。 後天的に形成される個性は、刷り込み現象に似ています。下村個人の次郎物語などを読むと分かるのですが、次郎は生まれてすぐ里子に出されてしまいます。そして乳母に育てられるわけですが、彼の個性は乳母によって作られてしまいます。
 そのために、大きくなって母親の元に戻っても、本当の母親と少しも馴染めません。もちろん祖母にもなじめません。唯一の例外は、父親です。父親とはなじめるわけですが、これは父親が、次郎が育った環境をよく理解していたためです。次郎の個性は、自分たちの個性と別物だと理解していたからです。だから、次郎に対して非常に客観的に観察した上で、次郎を導くことができました。

 実は、この感覚は私にはよくわかります。私は生まれてから3歳ぐらいまで、父親の顔を知らずに育っています。母親が、小学校の教師として僻地に赴任していたために、私も一緒に僻地で育ちました。もちろん父親とは別々です。ですから、小さい頃に自分の父親の生き方とか、日常風景とか、癖とか、話し方とか、そういったものを3歳になるまで、まるで知らずに育っています。

 そして、私が3歳になると弟が生まれました。今度は私1人が父親に預けられ、母親は弟とともに僻地の小学校に赴任していきました。 3歳まで全く自分の父親を知らずに育った私は、今度は母親と別れて父親と暮らすようになります。もちろん、実の父親を父親と認識できていません。どこかよそよそしく、なじめないのです。

 私は3歳まで、僻地に住む老人や老婆によって育てられていたのです。母親は教師として仕事を持っていましたので、地元の私は老人たちに預けられていました。そして、僻地の老人たちから、知らず知らずのうちに私の個性がつくられていました。なので実の父親に会ったとき、非常に戸惑いました。次郎物語の次郎と同じような体験をしたわけです。そして家族に馴染めなかった。

 実は、このような実体験は、宿を経営していてみても、思い当たることが多いのです。例えば大人は、いろいろなところに行きたがります。毎年北軽井沢だけに来ると言う人達は多くありません。今年北軽井沢に来たら、来年は白馬に行くとか、見知らぬところに行きたがるのが大人たちです。例え、 2年続けて北軽井沢に行く場合があったとしても、宿を変えたりします。同じ宿に泊まろうとせずに、新しい宿に泊まろうとします。大人たちにはそういう傾向があるのですが、幼児にかぎっては逆です。

 小さなお子さんたちは、気に入った同じ宿を好むのです。あの青いおうちに行きたいと、親にせがむのです。これは、楽しかった思い出があるところに、行きたいと思う子供の心です。青いおうちが楽しかったという刷り込みが頭の中にあるのです。小さなお子さんの頭の中には、新しい宿よりも、楽しかった刷り込みの方が強いのです。

 これを逆手に取って、商売を始めるホテルもあります。例えば軽井沢プリンスホテルなどは、子供を全員無料にしています。もちろんその代わりに大人料金は逆に高いのですが、子供たちを手なづけることによってリピート率を高めようというのが、軽井沢プリンスホテルの戦略なわけです。

 話がそれました。
 個性の話です。

 私が言いたかった事は、個性というものは、刷り込みによって固まってきやすいということです。親と一緒にいる時間が長ければ、親からの刷り込みが大きくなる。だから育児本を読んでその知識を使って子供をどうこうしようとしても、ちょっと難しい。もちろん知識は無いよりはあった方がいいに決まってますが、そう簡単にはいかない。親の計算通りにはならない。他の要素もでてくるからです。

 刷り込みは、親以外に兄弟や祖母祖父や、幼なじみ、保育所幼稚園、地域の人たち、自然環境や動物たちなど、いろんなものから行われます。ですから、それら全てが重要になっています。

 例えば、私の親は3番目の息子に、パパ・ママと、呼ばせようとしました。しかし、私と2番目の弟が、それを嫌って絶対に呼ばせないようにしました。兄弟がいると、このようなこともおきます。まぁこんな事は、笑い話の1つですが、もっと切実な事件もありました。

 私には、 2人の弟がいましたが、 1人は3歳年下です。この弟とは、 1種のライバル関係もありましたので、よくケンカをしました。もう1人の弟は、 10歳年下です。このぐらい年下だと、ライバルと言うよりは、自分の息子のような気分になりますので可愛がりました。兄が10歳年下の弟を可愛がる。これ自体は、決して悪いことではありません。しかし、 2番目の弟の視点から見たらどうでしょう? 長男が弟を差別をしていると思うかもしれません。次男坊とはライバル関係なのに、三男坊は非常に可愛がる。このようなことが起きたら、次男坊にとっては決して面白い話ではありません。すると、次男坊は何をするかといいますと、三男坊をそそのかして、長男を攻撃したりするのです。

 長男は三男坊を可愛がりますから、三男坊は長男に対して従順かと言うと決してそういうわけではありません。むしろ、侮るようになるのです。その辺をうまく利用して、次男坊が三男坊をコントロールしたりします。こうやって三国志のような兄弟喧嘩が起きるわけですが、このような兄弟ケンカに対して親というものは無力に等しいです。怒鳴ったり怒ったりしても子供達は、なかなか言うことを聞きません。ただし、こういう経験があると、将来、自分が親になったときに多少は複眼で子ども達を見ることができるようになるかもしれません。そういう意味で、一人っ子だった人は、不利かもしれませんね。

 話は変わりますが、私の古い知り合いに、もうすぐ80歳になろうと言う人がいます。その息子さんが、私と同じ年なのですが、当時珍しく一人っ子でした。その方は、映画監督になって大出世しているのですが、お母さんの教育の仕方は、非常に素晴らしかったと、いろいろな方から絶賛されていました。どうやって一人っ子の息子を育てたかといいますと、兄弟がいない分、お母さんが兄弟の代わりをしたそうです。例えばケーキがあったとすると、本当は食べたくなくても、息子と半分こして食べたりしたそうです。ときにはじゃんけんをして食べたくもないお菓子を食べたりもしました。そうやって常に息子の競争相手になったそうです。

 また別の人の話になりますが、やはり一人っ子を育てるのに苦労したお母さんがいました。その方ももうすぐ80歳なのですが、どうやって一人息子を立派に育てたかと言いますと、ペットの犬を使ったそうです。一人っ子だと、どうしても駄々をこねることが多くなりますので、聞き分けのないときは、無視をして犬と遊んだそうです。息子さんは犬をライバルに持って一生懸命お母さんの機嫌を取ろうとしたそうです。その息子さんも、私と同じ51歳ですが、今ではちょっとした会社の社長になって大活躍しています。やはり、お母さんの教育の仕方がよかったんだと思います。(ちなみに、こういう躾け方法は、昔からよくあって、私の親も時々使っていました)

 まぁこんな話をしたらキリがありませんので、そろそろ終わりにします。


つづく。

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posted by マネージャー at 22:57| Comment(3) | TrackBack(0) | 教育問題を考えてみる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする