2009年12月03日

嬬恋村史と、真田一族4

嬬恋村史と、真田一族4
(長野原町役場見学ツアー2009/11/30)

やんばダムで有名になった長野原町の
役場見学ツアーに行ってきました。
これが役場です。

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意外かもしれませんが、
こんなに小さな建物です。
ペンションに毛の生えたくらいの小ささです。

しかも、木造です。

とてもダム利権に潤っている町の役場ではありません。
疑っている人たちは、一度、この役場を見に来るといいです。

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そして、役場の隣にお寺があります。
雲林寺です。

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 雲林寺は、弘長3年(1263年)、臨済宗妙心寺派に属する龍幡和尚が創建しています。約300年間、非常に栄えたといいますが、大火災で亡失してしまいました。そして永禄2年(1559)3月15日、海野幸光が開基となって現所在地に伽藍を再建しました。海野幸光は、西吾妻地方の吾妻川左岸に勢力を持つ有力土豪でしたが、天正9年(1581年)、真田幸村の父、真田昌幸に滅ぼされてしまいます。

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 もうお解りかと思いますが、
 海野氏が再建した寺ということは、
 つまり真田一族の本家筋が海野氏なんです。

 嬬恋村だけでなく、長野原町も、海野氏。
 つまり真田一族の末裔が支配する町なんです。

 具体的に言うと、桜井一族。
 人口5000人のうちの2500人が、
 桜井一族に関係していると言われています。
 吾妻酒造しかり、ホテル桜井しかり、
 歴代町長のほとんどが、桜井さんか、田村さん。
 つまり桜井一族系統なんです。

 それは、ともかく明治22年に村が統合されて長野原町ができた際、当時は役場庁舎が無かったので、この雲林寺を借用したそうです。初代の町長には桜井伝三郎氏が就任し、旧役場、学校建築等幾多の功績を残しました。建物をみてください。役場のような造りになっていますよね。

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 ここには、宝きょう印塔という、塔があります。これは、お経を写して塔に納めて供養すると極楽に生まれ変わる、と信じられていた塔で、平安時代に中国から伝わったものです。


つづく。

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2009年12月04日

嬬恋村史と、真田一族5

嬬恋村史と、真田一族5
(長野原城見学ツアー2009/11/30)


つづきです。

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 武器を捨てて修験道で開拓していった荘園領主の下屋氏一族と、地頭職にある鎌原氏の2大勢力が成立します。下屋氏一族は、武力ではなく、修験道という宗教の力をもって民を治めました。しかし、下屋氏一族は、武力をもってなかったために、同族の地頭職である鎌原氏に、領地を掠め取られます。実は、先日、その鎌原氏ゆかりの地、鎌原城に行ってきました。これが鎌原城の跡地です。

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 ここに鎌原氏の先祖代々の墓が1つだけあります。鎌原氏には、敵が多かったために、墓が暴かれるのを恐れて、長い間、墓を作れなかったのですね。で、ここに、やっと墓ができたのが、昭和45年、つまり1970年なのです。それまで墓を作れなかった。いったい、どうして、これほど嫌われていたのでしょうか?

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 その前に歴史のおさらいをしておきます。

1.真田氏とは何か?

 真田氏とは、海野氏の分家にあたります。
 具体的に言うと海野棟綱の息子が真田幸隆です。
 つまり、真田氏とは、海野氏のことです。
 有名な六文銭の旗印も、もともと海野氏の旗印。
 真田幸隆の息子が、真田昌幸。孫が真田幸村。
 図にすると、こうなります。

 海野棟綱−真田幸隆−真田昌幸(徳川軍を破る)−真田幸村



2.海野棟綱と真田幸隆とは?

 海野棟綱と真田幸隆は、親子です。もともとは、上田市のあたりで勢力をもっていましたが、1541年、武田信虎と戦って大敗し、嬬恋村に逃げてきました。
 嬬恋村には、親戚の下屋氏一族がいたからです。下屋氏一族も、もともと海野氏でした。その下屋氏一族の中の、羽尾幸世をたよって、海野棟綱と真田幸隆は逃げてきました。海野棟綱は49歳。真田幸隆は28歳の時です。



3.なぜ、海野棟綱と真田幸隆は、羽尾幸世をたよって逃げてきたのか?

 実は真田幸隆は、4年前の1537年に羽尾幸世の娘と結婚していたのです(『加沢記』による)。その縁で、羽尾幸世をたよって逃げてきたのです。ちなみに、羽尾家の旗印も六文銭です。真田幸隆にとって羽尾幸世は義理の父でしたが、羽尾幸世も真田幸隆を本当の息子のように可愛がったようです。



4.羽尾氏とは?

 羽尾氏は、もともと真田氏と同じく海野氏でしたが、この頃は、上杉謙信についていました。海野棟綱は、上杉謙信の力をもって旧領を取り戻そうとしますが、息子の真田幸隆は、逆に武田軍団につこうとします。そして、親子は別れ別れとなります。海野棟綱は、羽尾氏とともに上杉謙信の軍団に入り、真田幸隆は、羽尾家から出て行きます。そして、武田晴信(信玄)が父・信虎を国外追放して家督を継いだのを契機に武田家に仕官し、旧領を回復していくのです。



5.旧領を回復した真田幸隆のその後は?

 真田幸隆のその後は、武田軍団の先鋒として、嬬恋村に入ってきました。当時の嬬恋村の豪族たちは、上杉謙信についていました。しかし、真っ先に裏切って、真田幸隆の配下に入ったのが、鎌原氏でした。以後、鎌原氏は武田氏を後楯として、羽尾氏と戦います。真田軍団は、恩人でもあり、義理の父でもある羽尾氏を攻撃したのです。そのとき、戦場となったのが、この長野原城です。


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長野原城は、真田氏が造りました。
これは瑠璃光堂。
城の入り口にあります。

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城には、掘や土塁が残されています。
真田の砥石城の造りに似ています。
細長い稜線上に土塁が築かれています。

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これが本丸。建物はありません。

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 1563年5月、信玄は長野原城の守りを固めさせています。当時、長野原城は、真田幸隆の舎弟、常田新六郎隆永が守っていました。そこに上杉謙信の配下、岩櫃城主、斉藤憲広が長野原城攻略に動きました。

 羽根尾城の城主、海野幸光・輝幸兄弟に500騎を、甥の斉藤弥三郎には200騎を与え、また白井城主の白井長尾氏にも援軍を請い、真田勢を攻めました。そして真田幸隆は、敗退します。

 やはり上杉軍は強いのです。
 まともに戦えば武田軍団には、勝ち目がない。
 しかも上杉軍は、利でうごかない。
 義で動くので、始末に負えない。

 そこで、真田氏は、まともに戦わないことにしました。
 もともと同族であったので、血縁を利用して裏切りをさそいます。
 内部からの寝返りによって攻めようとします。
 これが大成功します。


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 こうして真田軍の戦法が確立し、忍者などの工作員を動員する独特な破壊工作を得意としていくようになります。馬鹿正直な上杉謙信の軍団たちは、これに翻弄され、真田軍団は群馬県を次々と侵略していきます。武田信玄が川中島で、上杉軍団に手こずっているにもかかわらず、真田軍団は上杉軍に勝利していくのです。

 恩人であり、義理の父さえ平気で攻撃するするのが真田軍団でした。しかも裏切りを得意としている。このへんの事は、大河ドラマには絶対に出てこないエピソードでしょう。実は、この真田軍団の慣習が、嬬恋村に微妙に残り、時代が下って幕末に日本史を変えるほどの大事件に発展していくのですが、それについては、後日のべることにしましょう。


 話は、変わりますが、日本ユースホステル協会を立ち上げた横山祐吉氏は、真田軍団の末裔です。そして、日本恐妻家協会を設立し、しかも群馬の婦人団体の抗議によって、あっけなく解散してしまったのも横山祐吉氏たちでした。そして、その真田のゆかりの地、嬬恋村で、私はユースホステルを経営しつつも、日本愛妻家協会聖地委員会の広報委員長をやっています。これも何かの縁かもしれません。

つづく。

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2010年04月20日

馬庭念流剣術発祥の地 マネージャーのミステリーツアー1

馬庭念流剣術発祥の地(長野原町応桑小宿)

http://homepage2.nifty.com/blue_berry/00-top-57.htm

 念阿弥慈恩(ねんあみ じおん)は、日本の南北朝時代から室町時代にかけての剣客であり、禅僧です。奥州相馬(福島県南相馬市)の生まれで、7歳のときに相州藤沢の遊行上人に弟子入りし、念阿弥と名付けられ、父の敵討ちをめざして剣の修行を積み、10歳で上京、鞍馬山での修行中、異怪の人に出会って妙術を授かったといわれています。さらに16歳のとき、鎌倉で寿福寺の神僧、栄祐から秘伝を授かり、1368年、筑紫・安楽寺での修行において剣の奥義を感得しました。

 念阿弥は還俗して相馬四郎 義元と名乗り、奥州に帰郷して首尾良く父の仇敵を討つと再び禅門に入り、名を慈恩と改め、諸国を巡って剣法を教え、1408年、信州波合村に長福寺を建立、念大和尚と称しました。

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 さて、木曽義仲(鎌倉倒幕武将)四天王に樋口次郎兼光がいます。兼光の母は木曽義仲の乳母、巴御前は兼光の妹、という姻戚で、信州伊那郡樋口村に住んだことから樋口姓を名乗っりました。木曽義仲討死後、樋口兼光は捕らえられて京で斬首されますが、一族は樋口村で生き延びました。

 兼光から11代の樋口太郎兼重は、伊那郡波合村に住み着いた念大和尚の高弟となり、念流の兵法を修めます。後に念流は家伝となり、兼光念流と称しています。兼重の子孫は念流を代々受け継いでいきますが、十三代高重が上野国吾妻郡小宿村(現長野原町応桑小宿)に住居を移します。これが、この地です。

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 つまり、ここ(長野原)は、真田とは別傾倒の武術が定着したわけで、長野原町は、嬬恋村の真田流古武道(あるいは忍術)とは、違うスタイルが定着しました。いわゆる馬庭念流の元祖の誕生です。ただし、真田軍団の進出によって、樋口氏は上州多胡郡馬庭村(現吉井町馬庭)に再転居。馬庭の念流なので馬庭年流といわれるようになりました。

 馬庭念流は専守防衛の剣術で、腰を思いきり引いて、重心を後ろの足に置くと言う他の流儀には見られない防御には極めて有利な構えを取り、相手の攻撃を外す事に専念し、攻める時には接近してひたすら面のみを狙うという特殊なものです。示現流の逆ですね。そして念流は無意味に殺生する他流試合を嫌います。だから、かなり腕前を持ちながら、代々の当主は馬庭を出ることがなかったようです。

 念流の門弟には武家の子弟もいたが、多くは農民、町民であり、念流は彼らの自衛の剣として民間に普及していったものでした。その剣技はあくまで庶民の自衛の剣であり、立身出世や殺傷の道具とすることを戒めるものでした。

 よーするに武士が戦場で戦うための剣ではないということです。自分から敵を求めるということもしません。あくまでも庶民が不意討ちされたときに身を守るための剣です。ただし、背水の陣で守るということではありません。相手を完璧に倒せるだけの力があってはじめて守りは可能になります。また、相手を平伏させ、相手を傷つけず自分も助かるということも可能になるわけです。

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 馬庭念流の特色は、武芸を仕官の為には使わず、爪を隠した鷹のような存在になったところです。しかし、著名な門人が多く、赤穂浪士中随一の剣客と言われた堀部安兵衛(中山安兵衛)などがいます。彼は高田の馬場で叔父の敵討ちで十八人切りをして、これを知った赤穂浅野家家臣堀部弥兵衛が安兵衛との養子縁組を望みました。はじめ安兵衛は、中山家を潰すわけにはいかないと断っていましたが、浅野内匠頭に「堀部の家名は無くなるが、それでも中山安兵衛を婿養子に迎えたい」旨を言上しました。これに感動した浅野内匠頭は、中山姓のままで養子縁組してもよいという異例の許可を出した。

 これを聞いてさすがの安兵衛もついに折れ、中山姓のままという条件で堀部家の婿養子に入ることを決める。7月7日(8月27日)、弥兵衛の娘ほりと結婚して、堀部弥兵衛の婿養子、また浅野家家臣に列した。元禄10年(1697年)に弥兵衛が隠居し、安兵衛が家督相続。このとき、安兵衛は先の約束に基づいて中山姓のままでもいいはずであったが、堀部姓に変えています。

 しかし安兵衛は浅野家中では新参(外様の家臣)に分類されました。堀部家は譜代の臣下であるはずなので「堀部家の養子」としてはおかしい分類。やはり異例の養子入りであるから安兵衛は弥兵衛の堀部家とは事実上別家扱いだったことがわかります。

 ただし赤穂藩での安兵衛は、200石の禄を受け、御使番、馬廻役(馬廻りは役職というより武士の階級。騎乗できる武士のこと。騎乗できない武士中小姓の上位。)となりました。

 そして元禄15年12月14日、大石内蔵助・堀部安兵衛ら赤穂浪士47士は本所松阪の吉良上野介の屋敷へ討ち入り。安兵衛は裏門から突入し、大太刀を持って奮戦。1時間あまりの戦いの末に赤穂浪士は吉良上野介を討ち取り、その本懐を遂げました。そして松平隠岐守屋敷にて同家家臣荒川十大夫の介錯により切腹した。

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あと滝沢馬琴や、新撰組の沼尻小文吾も馬庭念流の達人ですよ。


つづく。

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posted by マネージャー at 23:21| Comment(0) | 長野原町 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月27日

上泉信綱

群馬県民になって10年。
嬬恋村民になって10年。

その間、いろいろなことに驚かされてきました。
で、先日も、びっくりしたことが。
ひょんなことから生まれも育ちも群馬県民の人が、宮本武蔵ファンであることに気がついた。
もちろん私も、宮本武蔵は大好き!
というか、宮本武蔵こそは、私の心の師匠なのです!

「宮本武蔵が好きなんですよ」
「へー、そうですか、実は私も、宮本武蔵が大好きで、わざわざ岡山県までいって武蔵の故郷に行ったこともあるんです」
「それは、すごい!」
「だから、群馬県民として、いつか上泉信綱の史跡もまわりたいと思っているんです」
「え? 誰ですか?」
「上泉信綱ですよ」
「誰なの?」
「えええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ?」
「・・・・」
「上泉信綱を知らない?」
「ええ」

 あまりにも驚いたので、生まれも育ちも群馬県民の嫁さんに聞いてみました。

「上泉信綱って知ってる?」
「それ美味しいの?」
「いや、歴史的な剣豪なんだけれど、上毛カルタには、上泉信綱は出てこないの?」
「無いねえ」
「・・・・・」

 まあ、嫁さんは歴史音痴なので、
 歴史好きの生まれも育ちも群馬県民にも聞いてみました。
 
「上泉信綱って知ってるよね」
「名前だけは」
「有名な群馬県民だということも、知ってるよね」
「なんとなくね」
 
 駄目だ。まるで知っちゃいない。
 
「じゃ、宮本武蔵は?」
「知ってる。映画も見たし、小説も読んだ。すごい剣豪だよね」
「その宮本武蔵の何倍も強い伝説的な剣豪が居たとしたら信じますか?」
「まさか?」
 
 そうです。
 そのまさかが上泉信綱で、群馬県が剣豪なのです。
 
 上野国赤城山麓の上泉城主。陰流、神道流、念流などの諸流派を学び、新陰流を設立。
 竹刀の原型を開発したことでも有名です。

 長野業正に仕え、武田信玄・北条氏康の大軍を相手に奮戦し、長野の16人の槍と称えられ、上野国一本槍の感状を長野業盛からもらったという猛者でした。つまり実践に強かった。長野家滅亡時、武田信玄の仕官要請を断り、弟子と友に新陰流を普及させるため諸国流浪の旅に出ました。

 で、旅先で、大活躍。
 吉川英治の「宮本武蔵」にでてくる柳生石舟斎。
 槍の宝蔵院胤栄などを赤子のようにひねり潰します。
 その結果、柳生石舟斎は上泉信綱に弟子入りし、
 それが柳生新陰流となり、大いに発展し徳川家の指南役になります。
 (といっても柳生では、柳生新陰流と言っていない。
 あくまでも上泉信綱を開祖として新陰流を名乗っている)

 つまり、どう考えても上泉信綱は、宮本武蔵の数段上のレベルです。
 史上最強と言ってもいい。
 なのに、どうして上毛カルタに入ってないのか?
 田山花袋・船津傳次平・関孝和が入っていて、どうして上泉信綱が入ってない?
 不可解なこと、このうえなし。





「そんなこと言っても、上泉信綱って無名でしょ? 宮本武蔵にくらべたら地味でしょ?」
「いやいや、そんなことないです。7人の侍って知ってますか?」
「黒澤明の映画でしょ? 見たよ」
「なら、話が早い。あそこに登場する7人の侍のリーダーの島田勘兵衛(志村喬)のモデルが、上泉信綱だって知ってました?」
「ええええええええ?」
「上泉信綱には、こんなエピソードがある。強盗が村の子供を人質に取って立て篭もっていた。村人たちは子供を助けようとするものの、下手に動けば子供は興奮した賊に殺されかねず、手を出しかねていた。これを見た信綱は、居合わせた僧侶から袈裟を借り、自身の髪の毛を剃り、にぎりめしを手に持った僧の姿で賊の前に進み、「そなたも子供も腹がすいているだろう。どうかこのにぎりめしを食べてはくれぬか」と言い、にぎりめしを賊に向かって放り投げた。賊がにぎりめしに気を取られると、すかさず信綱は男に駆け寄りあっというまに取り押さえた」
「7人の侍そのものだ」
「でしょ?」
「うーーーーーん」





 長い前置きになりましたが、ここからが本題です。
 上泉信綱の新陰流の元祖は何であったのか?

 実は、馬庭念流であり、それが生まれたのは北軽井沢なのです。
 馬庭念流の馬庭は、地名です。
 つまり念流こそが本名。

 念流の創始者は、念阿弥慈恩(ねんあみ じおん)。
 禅僧でした。
 彼の子孫は念流を代々受け継いでいきますが、
 十三代高重が上野国吾妻郡小宿村(現長野原町応桑小宿)に住居を移します。
 これが、北軽井沢と嬬恋村の境界付近です。

http://kaze3.seesaa.net/category/7967579-1.html

 馬庭念流は専守防衛の剣術で、腰を思いきり引いて、重心を後ろの足に置くと言う他の流儀には見られない防御には極めて有利な構えを取り、相手の攻撃を外す事に専念し、攻める時には接近してひたすら面のみを狙うという特殊なものです。示現流の逆ですね。

 で、上泉信綱の新陰流も、ほぼ同じ思想なのです。
 さばきに重点を置いて、無刀取りを極意としている。
 まさに専守防衛。





 で、馬庭念流の本拠地は、群馬県の馬庭村(現吉井町馬庭)。
 上泉信綱の生地・前橋市とは、たいして離れていません。
 上泉信綱が、馬庭念流の影響を受けたのは当然とも言えます。
 そして最強の剣技をみにつけ、実践(戦争)で実証しますが、彼の得意は槍でした。
 そして相手の槍の封じ手も得意としており、
 負けない剣技を開発し、それが地上最強の剣聖を誕生させたのです。
 群馬県民は、もっと上泉信綱を誇りにしてもよいと思います。



つづく

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ラベル:上泉信綱
posted by マネージャー at 17:02| Comment(2) | TrackBack(0) | 長野原町 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月28日

上毛カルタについて

上毛カルタに上泉信綱が無いことに驚いた私は、上毛カルタについて、ちょっと調べてみました。

http://www.jomokaruta.org/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%AF%9B%E3%81%8B%E3%82%8B%E3%81%9F
http://www3.wind.ne.jp/asama/tama/karuta.htm

どんなカルタかというと、こんなカルタでした。

 あ:浅間のいたずら鬼の押し出し
 い:伊香保温泉日本の名湯
 う:碓氷峠の関所跡
 え:縁起だるまの少林山
 お:太田金山子育呑龍

 か:関東と信越つなぐ高崎市
 き:桐生は日本の機どころ
 く:草津よいとこ薬の温泉
 け:県都前橋生糸の市
 こ:心の灯台内村鑑三


 さ:三波石と共に名高い冬桜
 し:しのぶ毛の国二子塚
 す:裾野は長し赤城山
 せ:仙境尾瀬沼花の原
 そ:そろいの仕度で八木節音頭

 た:滝は吹き割り片品渓谷
 ち:力あわせる二百万
 つ:つる舞う形の群馬県
 て:天下の義人茂左衛門
 と:利根は坂東一の川


 な:中山道しのぶ安中杉並木
 に:日本で最初の富岡製糸
 ぬ:沼田城下の塩原太助
 ね:ねぎとこんにゃく下仁田名産
 の:登る榛名のキャンプ村

 は:花山公園つヽじの名所
 ひ:白衣観音慈悲の御手
 ふ:文福茶釜の茂林寺
 へ:平和の使徒新島襄
 ほ:誇る文豪田山花袋


 ま:繭と生糸は日本一
 み:水上、谷川スキーと登山
 む:昔を語る多胡の古碑
 め:銘仙織出す伊勢崎市
 も:紅葉に映える妙義山

 や:耶馬渓しのぐ吾妻峡
 ゆ:ゆかりは古し貫前神社
 よ:世のちり洗う四万温泉


 ら:雷と空風義理人情
 り:理想の電化に電源群馬
 る:ループで名高い清水トンネル
 れ:歴史に名高い新田義貞
 ろ:老農船津傳次平

 わ:和算の大家関孝和


上泉信綱を入れるなら 

>む:昔を語る多胡の古碑

を変更するしか無いですね。
まあ、そんなことは良いとして、

どこにも『野間清治』が無いじゃないか?
天下の野間清治が
上毛カルタに入ってないではないか!

どうして?
なぜ?


>き:桐生は日本の機どころ

じゃないでしょう!

き:桐生の偉人、野間清治!
き:桐生の剣士、森寅雄(野間寅雄)!

じゃないのかなあ?





まあ、桐生が日本の蚕糸業のトップを走っていたことは分かります。
星野長太郎・新井領一郎といった大物が一時期の日本経済を牛耳ってたことは認めます。
彼らに比べれば、野間清治の講談社なんて、ふけば飛ぶような存在です。

しかし、野間清治が日本の文化や精神に貢献した数々の業績は、
勲章を100個あげてもたりないくらいです。
野間清治こそ、群馬県が誇る巨星です。
その野間清治をどうして上毛カルタに入れない?



野間清治は「修養」を重視しました。
簡単に言うと、精神をみがき、人格を高めることです。
彼は
『自分の内の世界が一変すれば外の世界が一変する』
という信念で、ひたすら自分を研くために「修養」を重視しました。
そういう考えで講談社を設立し、多くの青少年を啓発していったのです。


ちなみに野間清治といえば、野間道場(剣道)です。
野間道場(剣道)からは、昭和を代表する剣豪の7割がでています。
その一人、野間清治の甥である森寅雄(野間寅雄)は、
アメリカに渡りフェクシングのチャンピオンになったうえに、
アメリカ剣道協会をそだてて、日本剣道界を震え上がらせたことでゆうめいです。
こういう人間が、群馬県に、いや野間道場にウジャウジャいた。





持田盛二も忘れてはいけません。
野間道場の古参であり、史上5人しかいない剣道十段のうちの一人。
昭和の剣聖であり、80歳になっても全国大会優勝レベルの若手に負けなかった。





なのに、どうして今の群馬県民は、こういう人たちに冷淡なのかなあ?
もっと、誇りをもっていいですよ。
野間清治・野間道場・戦前の講談社的気風に誇りをもっていい!





ちなみに私は新潟県出身ですが、
わが愛すべき群馬県は、
もっと気高くあって良いと思っています。
がんばれ群馬!





つづく

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追伸
http://www.nomadojo-hozonkai.com/noma_seiji.html より

野間清治とは 講談社の創設者です。

群馬県生まれで、父親の好雄が森要蔵という高名な武道家の内弟子で
あったことなどから、幼少の頃より剣道に親しんでおりました。

後に彼は
「剣は心の現れであると同時に、また、剣によって心を正すこともできる」
として、講談社の社員にも剣道を奨励しました。

東京帝国大学卒業後、中学校教諭を経て、東京帝国大学法科大学の
首席書記となりました。当時、日露戦争以降の日本では "弁論" が大変な
盛り上がりをみせていました。そこに着目した彼は東大弁論部を創設し、
1909年には講談社の前身、「大日本雄弁会」を創業しました。
そしてその翌年、雑誌『雄弁』を創刊します。『雄弁』とは、人の心を
動かすように、説得力をもって堂々と話すことを言います。

当時の雑誌は3千部売れれば成功とされましたが、『雄弁』の創刊号は
1万4千部発売されたそうです。

雑誌『雄弁』は彼が亡くなった後も発行されましたが、
1941年に休刊しました。おりしも大東亜戦争の2ヶ月前です。
雄弁が休刊になったのは世の中から雄弁が失われた時であったのです。
言論の自由にも通ずる、彼がこよなく愛した『雄弁』は平和の
礎(いしずえ)であるのかもしれません。

こうした経済活動のうちに、彼は成功への一番早い道、一番確かな道、
一番得な道は結局、「道徳的な道」であることを知るのです。

私たちは本活動を開始するにあたり、彼が遺した書籍に触れ、
期せずして現在の日本の閉塞感を打破する鍵を見出しました。
日本が抱えている教育や企業倫理などの諸問題に対する解決策を、
まるでこの現状を知るかのように鮮やかに述べているのです。

評論家・渡部昇一氏は「日本が世界に誇る思想家の一人である」と
野間清治を評しておりました。今一度、彼が発した言葉に耳を傾け、
彼の目指した世界は果たしてどのようなものであったのか、思いを
馳せることは大変有意義であると思えてなりません。

しかし、残念ながら現在、彼の書籍は古書店でなければ入手する
ことが困難ですので、このホームページにて、そのいくつかを
紹介させていただきます。

【参考文献】
 ・渡部昇一. 「仕事の達人」の哲学 野間清治に学ぶ運命好転の法則.
  致知出版社. 2003年,284p.

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2014年01月04日

今年の初日の出ツアー

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つづく。

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