2021年01月13日

半世紀前に存在した、とんでも授業【7】2年間に担任教師が五回も変わった事件

 息子が小学校に入学して最初に驚いたのは、補助教員の先生がいたことです。補助教員というのは、担任の先生の他にもう一人先生がいて、勉強ができない子供や、注意力散漫になってる子供をサポートする役目のようです。

 ・・・ようですと言ったのは、そういう風に見えたというわけで、実際にそういう役割なのかどうかはよく分かりません。ただ授業参観に出た限りは、担任の先生の手の届かないところをサポートをしてるように見えます。息子のクラスは全部で29人なのですが、その29人を二人の先生が、見ている勘定になります。私の子供の頃に比べれば、至れり尽くせりです。

 実は、嬬恋村の小学校には、転校生がいっぱいやってきます。理由は新型コロナウイルスのせいです。都会に働きに出て行ったお父さんお母さんが、新型コロナウイルスで仕事を失って、Uターンして戻ってくるために、それに付属して転校生がやってくるわけです。そういう転校生は、友人関係はもちろんのこと、勉強面でも運動面でも不安を抱えていますので、そういう転校生を陰ながらサポートできる補助教員の制度は、かなり良い制度のように思えます。これが昔だったら、そういうことができなかったですから。

 では、50年以上前の私の子供の頃はどうだったかと言うと、とんでもない状態でした。一クラスが40人から45人ぐらいいて、それを一人の担任の先生が面倒を見ていたと思います。もちろん補助教員なんか存在しません。存在しないどころか、担任の先生が病気になっても、代わりの先生がいませんでした。


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 どういうことかと言うと、私が小学校一年生の6月頃に、担任の先生が肺の病気で入院したんですが、非常勤(正教員ではない)の先生が、臨時に雇われ担任の先生となりました。現在からすると、臨時の非常勤の先生が、担任を受け持つことも常識外れですが、それが二年も続いて、二年間に五人も担任の先生が代わったことも常識外れです。昭和四十年代の教員の給料は、とても安くて先生のなり手がいなかった時代です。デモシカ先生といわれた時代でした。

 私が小学校一年から二年にかけて、二年間に五人も担任の先生が代わった。つまり代理の先生が臨時に就任するわけですが、臨時の担任教師が、四人もいたわけです。つまり、私が小学校入学後の二年間に五人も担任の先生が代わったことになります。平均して、一学期ごとに担任の先生が代わったわけですが、二年間に五回も担任の先生が変わるという体験をすると、先生が変わるとクラスが全く別物になることに気づきます。ある先生の時は乱暴な状態になるし、ある先生の時は静かなクラスになる。担任が替わるだけでクラスの雰囲気が全く違ってくる。

 ある先生は、「人間に成績をつけるが嫌いなのでテストに点数をつけません」と言って○×だけの答案用紙を返したりしました。当然のことながら通知表にもそれが現れますので、教育熱心な家庭の子供たちは自分の通知表に青ざめます。成績の良い子ほど両親に怒られていたと思います。みんな同じような平均値の成績をつけられていましたから。

 こういうことをしたら今なら大問題になるところでしょうが、昔は、こういう個性派教師がいても何の問題もなかったまでしょうか?ただし、この先生は、点数はつけなかったけれど、成績が良くなった子供に対しては、一人一人呼び出して、すごく褒めていました。点数はつけなかったけれど褒め上手。そして親にもわざわざ言っていた。ただし点数になってないので親の方は「?」と首をかしげていたと思います。

 別の先生は、運動バカと言ってもいいくらいのスポーツウーマンで、体操ばかりやらせていました。この先生も変わり者で、生徒が「・・・をしたい」と言うと、本当にさせてしまう恐ろしい先生でした。例えば、「学芸会の出し物で何をやりたいですか?」と聞いてきた時に、よせばいいのにクラスの女の子が「バレエ」をやりたいと言う。バレーボールではなく、バレリーナのバレエです。当時、少女漫画でバレエがはやっていた。そんなもの佐渡島の田舎の小学校二年生ができるわけがない。しかし、その先生は
「じゃあ、やろう」
と言ったから大変です。授業をつぶしてバレエの特訓です。基礎もできてない小学校二年生ができるわけがないのに、勉強そっちのけでバレエの特訓。そして、アホらしいことに何とか「くるみ割り人形」のバレエを上演してしまう。


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 というわけで、教師が替わるとガラリと教室の雰囲気が変わることを体験したことは、非常に貴重な体験でした。そのうえ、どういうわけか校長先生は、全校集会で毎週、二ヶ月で入院してしまった元担任の先生の病状報告を詳しく教えてくれました。ひょっとしたら元担任の先生は、元ではなくて、正式な担任の先生であって、現在の担任の先生は、仮の担任なのかな?と思わせるような口ぶりでした。この報告が無かったら、二ヶ月しか習ってない私たちは、とっくに忘れてしまっているのに、何度もしつこく報告するので、記憶が消えることは全くなかった。

 で、代わりに担任になった先生は、やはり仮だったのか、突然に辞めていきます。そして新しい担任の先生が就任する。そして忘れた頃にジャングルジムか何かが、辞めた担任の先生から寄贈されている。ジャングルジムは、当時も現在も決して安いものでは無いです。車が買えるくらいの値段です。それを寄付した安月給の元担任の先生は、隣村の小学校で正式な先生になったという。

 で、手紙が送られてきて、「みんなと出会って本当に良かった。これから隣町で正式な先生になって頑張ります・・・・」みたいなことが書いてある。今から思えば、私たちが踏み台になっていたような気もしますが、その先生は、別れ際に涙を流しながら去って行ったわけですし、私も別れ際でギュッと抱きしめられたので、本当に去りがたかったのかなあと思います。もちろん小学校の低学年ですから、勘違いの記憶であった可能性もあります。

 このように昔の小学校では、かなり大雑把な人事が行われていたようです。これは私が体験した佐渡島の小学校だけではなくて、他の小学校でも行われていたようです。それが証拠に昔に出版された本に書いてあったりします。


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 例えば朝日新聞記者だった秋吉茂氏が書いた『美女とネズミと神々の島々』では、トカラ列島の悪食島を取材するために、島で滞在させてもらう条件として小学校の補助教員を申し出て、それに採用されています。昭和36年の話ですが、新聞記者が一時的に小学校の教員をやっていたわけです。それが『美女とネズミと神々の島々』に書いてある。そしてこの本は、その当時大ベストセラーになっているけれど、その辺を突っ込んだ人は、当時、誰もいなかったことを考えてみても、昔は教員資格に対してかなりおおらかになっていたような気がします。



つづく。

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2021年01月12日

半世紀前に存在した、とんでも授業【6】班活動

 群馬県に引っ越してきて、そして息子が生まれて、その子が小学校に入るにあたって、驚いたことが何度かあります。一番驚いたのは『団活動』です。浅間団とか白根団とか赤城団とか榛名団とか、いろんな団があって、運動会のチームになったり、道路清掃ボランティアのチームになったりして活動するのが、群馬県独特の団活動です。群馬県民は、この団活動が、全国どこでも行われていると思っていますが、そんなことはない。群馬県にしかないのが団活動。これには非常に面食らいました。


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 運動会・浅間団・白根団・赤城団・榛名団


 前置きはこのくらいにして、今から50年ぐらい前の話です。私が小学生の頃に、盛んに行われていたのが班活動というものです。

 例えば授業中に6人ぐらいの班を作って共同で勉強する。先生が問題をだして、班の仲間で考えて答えを出す。また班で共同研究をする。共同で発表会を行う。 班ノートというものを作って、同じ班同士で順番で日記をつけたりする。このようにやたらと班活動によって何かをさせようとする。そういうことがかなり多かった気がします。特に授業参観で、そのような活動が多かった。

 で、息子の授業参観に出かけてみたら、そういうことは行われていませんでした。
 今の小学校では、 班活動というのは下火になっているのでしょうか?

  この班活動というものに、疑問を抱いたのは、高校生になってからです。高校生以上になると、班活動がガクッと減ってきます。専門学校や大学生になると、ほぼ皆無になります。どうしてだろうと不思議に思っていたのですが、20年前に宿業を始めて、日本ユースホステル協会と契約し、北軽井沢ブルーベリーYGHというユースホステルになってから、班活動の謎について、分かるようになり、長年の疑問が氷解しました。

 ユースホステル始めてから、 ユースホステルの歴史を調べてみたのですが、日本におけるユースホステルの歴史は、日本青年団と切っても切れない関係にありました。この日本青年団・日本青年館が、戦後の義務教育に大きな影響を及ぼしていたのです。

 終戦当時、日本青年館に横山祐吉(日本ユースホステル協会を創設した人です)という人間がいたのですが、彼には、終戦直後に日本青年団を立て直そうとします。というのも日本青年団は、戦争末期に軍部によって解散させられていたからです。

 で、横山がどうやって立て直そうとしたかと言うと、GHQ(占領軍)に、 アメリカへ日本の青年を派遣して、アメリカの教育システムを吸収したい。だから日本の青年を派遣したいと要請しました。そして、アメリカ式の教育を日本に導入しようとしたのです。

 最初は日本青年館が、どうして日本の教育について、でしゃばったことをするんだろうと思っていましたが、よくよく調べてみると、戦前には、義務教育の小学校高等小学校以外、青年学校というものがあったんです。青年学校というのは、働きながら勉強する学校だったりします。そして、 青年学校の教師と、小学校の教師は行ったり来たりしていたわけです。その青年学校は、戦後に廃止されるわけですが、その結果青年学校の教師が、失業したわけではなくて、新制中学校の教師に移動したと言われています。

 まあそんなことはどうでもいいとして、青年団の親玉である日本青年館は、青年学校の親玉でもありますから、勤労青年の社会教育問題を真剣に考えていたわけです。そして、日本が戦争に負けることによって、 戦前の教育システムが、アメリカの教育システムに劣っていたから戦争に負けたと言う風潮もあったので、アメリカから教育システムを学ぶ必要性があると考えたわけです。


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 日本青年館


 GHQ(占領軍)の方は、最初の頃は、横山祐吉が再建しようとしてる青年団を危険視したのですが、よくよく調べてみると、元々は、かなりリベラルな団体であると見られていたことがわかり、しかも、横山祐吉ひきいる日本青年館そのものが、アメリカから積極的に学ぼうという意欲があったことが分かって、これを利用しようとしました。

 その後押しをしたのが、ラッセル・L・ダーギンです。彼は、大正8年から昭和17年までYMCA主事として日本に滞在して青少年活動を指導した親日家でありながら、昭和20年にGHQ民間情報教育局青年部長となって再来日した人です。もちろん日本語がペラペラで、日本の事情を全て知ってます。日本青年館のことも、横山祐吉も知ってます。だから日本青年館の横山祐吉を後押しして、青年の社会教育のために動きました。このラッセル・L・ダーギンが横山祐吉を大いにバックアップした。

 で、横山祐吉が手がけたのが『共同学習の手引き』と『公民館』です。
 YMCAでも『グループワーク』というものを作りましたが、
 最初に狼煙をげたのは、横山祐吉の『共同学習の手引き』です。
 そして文部省は、これをもとに、共同学習と公民館行政をすすめていきます。
 GHQ(占領軍)も、大いにバックアップしていきます。
 そして国会の予算会議で公民館の予算を通すときに、
 横山祐吉を参考人として証言させています。

 GHQ(占領軍)は、神風特攻隊に代表される戦時中の行動を封建的な縦割り社会からきていると思ってました。この縦割り社会を撲滅して、日本人を骨抜きにして、民主主義を根付かせるためには、一方的に上から教えると言う教育を廃絶しなければいけないと考えたわけです。教師が一方的に生徒を教えるというのを嫌ったわけです。そこで推奨されたのが横山祐吉が制作した『共同学習の手引き』です。 勉強は先生から一方的に教わるのではなくて、仲間を誘って共同で勉強しなさいということを推奨しました。これを協同学習とか、グループワークと呼んだわけです。 そしてこの考え方を当時の文部省が推奨した。その具体的な方法として、学校教育における班活動だった。

 そして、もう一つが公民館です。青年学校が廃止され、公民館ができた。上から教える学校というものをGHQ(占領軍)は危険視した。そうではなくて、共同学習するための場所を用意する。これが公民館です。そして、公民館側は、利用者のやることには介入できないとした。そして、この公民館の思想は、青年団活動の過去の歴史(つまり若連中・若者宿・郷中宿)とも一致してて、都合良かったわけです。もともと日本の伝統からして、若者に老人が上から下に教えるという制度は無かったし、あっても武士の世界だけで、主流では無かった。日本の伝統では、若者は若者が教える。そこには大人が介入しないというスタイルだった。だから公民館も共同学習も、すんなり日本社会に受け入れられた。

 ところが、これか各県に一斉に伝わったかと言うと、どうもそういうわけではないらしいというのは、私が群馬県に引っ越してきてからわかったことです。

 群馬県と新潟県では隣同士ですが、新潟県ではかなり積極的に班活動が行われたのにかかわらず、群馬県の同世代の人に聞いても、そういう話はあまりに耳にしません。どちらかと言うと、群馬県では班活動よりも団活動に力が入っていたような気がします。 班活動と団活動では、ベクトルの向きが全く違うので、この辺はすごく驚いています。私の個人的な感想をいうと、群馬県の団活動には、感心しています。行きすぎた班活動より良いと思う。上級生の下級生の思いやりが、良く伝わってくるし、下級生は上級生を尊敬している。空手教室にいくと、1年から4年生まで一緒になって仲良く鬼ごっこしている。私が子供の頃(新潟県)は、学年が違うと、ほぼ他人だった。

 まあそんなことはどうでもいいとして、どうして群馬県で、これほどまでに団活動が活発なのか、ちょっと分かりませんでした。そして群馬県くらい GHQ の意向に反抗した県はないと思う。あるとすれば佐賀県ぐらいでしょうか。この GHQ に対する反抗心は、どこから来てるんだろうかというのが、ずっと分からなかったんですが、息子が小学校に入学して6ヶ月ぐらい経ったところに、なんとなくわかりかけてきた。 ヒントは、上毛かるたにありました。


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 ただ今回も、文章が長くなったので、ひとまずここで筆置きます。どうして上毛カルタによって、群馬県民が、GHQ(占領軍)の意向を退けるようになったのか? どうして群馬が保守王国なのか? それを書くと、話がとてつもなく長くなるので・・・・。機会があったら書きたいと思ってますが、私が書かなくても群馬県民は、皆知ってることなので、そこは野暮というものですよね。



つづく。

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2021年01月10日

半世紀前に存在した、とんでも授業【5】ここに泉あり

 全国のユースホステルのマネージャーならほとんど体験してると思いますが、ユースホステルを開業すると、人形劇団が泊まりに来ます。




 人形劇団というのは、全国の幼稚園や保育園を回って歩く劇団のことで、いくつもの団体があります。それらの団体の泊まる宿がユースホステルです。他の宿は値段が高くて泊まれない。最も最近は、ユースホステルより格安のゲストハウスに泊まっているようです。うちの宿にも、ここ数年間は泊まりに来ることはなくなりましたが、昔は、よく泊まりに来て
「よかったら公演を見学しませんか?」
と誘われて、一緒に見に行ったりしました。

 こういうドサ回り劇団が、宿泊費を節約するためにユースホステルに泊まりに来る。彼らは、全国の保育園児・幼稚園児に娯楽を提供している。それを知るにつけ、私の子供の頃を思い出しました。私も、保育園時代・小学校時代・中学校時代に、ありとあらゆる劇団の芝居・音楽・公演をみてきたからです。


 前置きはこのくらいにして本題に入ります。

 私は佐渡島という離島の小学校と中学校を卒業していますが、 どういうわけか小学校中学校に、いろんな劇団がやってきた。音楽家もやってきた。 それはもう不思議なくらい、いろんな人たちが学校にやってきた。

 その人たちは、決まって、母校出身だった。故郷に錦を飾るではありませんが、母校で公演を行うという形式だった。ある時はフルートの演奏だったり、ある時はオーケストラだったり、ある時は演劇だったり、ミュージカルだったり、古典芸能だったり、落語だったり、腹話術師だったり、それはもう様様です。共通しているのは、その小学校・中学校の卒業生ということです。故郷に錦を飾るというのでしょうか?


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 映画『ここに泉あり』より借用


 面白かったのは、五十人くらいの大きな劇団の人たちが来たことがあって『ビバ・ブラジル』というミュージカルを見たときです。劇団の中に、中学の先輩いて、その人が母校出身という触れ込みだったけれど、けっこう下っ端だった。下っ端だけど、ステージでスポットライトを浴びて挨拶した。

 スポットライトというか、舞台の照明は大量に装備されてて、アンペアが足りないのか、電源ドラムか、いくつもあって、それが遠くのコンセントに繋がれていたことを昨日のように思い出します。

 今考えてみたら、劇団やオーケストラの事務所の人達の営業があったのかもしれない。それを学校や教育委員会が受けたのかもしれない。そう考えるようになったのは『ここに泉あり』(昭和30年公開)という日本映画を見てからです。

 今井正監督の作品で、群馬県高崎の市民オーケストラが、群馬交響楽団へと成長する草創期の実話を舞台とした映画なんですが、市民オーケストラが生き残りのために、学校にさかんに営業をかけて、すごい僻地の学校に演奏に行くエピソードが、とても印象に残ったからです。すごい僻地の学校に演奏に行くわけですから、嬬恋村の吾妻鉱山にも行ってるし、小串鉱山にも行ってて、ロケ地になっている。浅間山が、デーンと写っている。


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 映画『ここに泉あり』より借用


 で、うちの息子が通っている小学校に、映画『ここに泉あり』のような団体がやってくるかというと、やってこない。卒業生が故郷に錦をかざるように、音楽家が学校で演奏したとか、劇団が公演したとか、そういう話は、全くない。で、うちの御客さんに尋ねてみたのですが、他の小学校でも無さそうな感じです。

 ということは、平成時代・令和時代に、小学校に、劇団やオーケストラがやってくることは無いということになります。

 しかし、私が子供の頃は、年に2〜3件くらい、演奏会や劇団の公演があった。それこそ『ここに泉あり』のような感じで、プロの音楽家による生演奏を聞かせてもらったし、すごい舞台装置の演劇をみさせてもらった。何十という照明の煌びやかに圧倒されもした。その光景を一言で言うと、サーカスですね。


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 映画『ここに泉あり』より借用


 新型コロナウイルスが蔓延する現在・未来、学校にサーカスがやってくることは無いでしょうね。



つづく。

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2021年01月09日

半世紀前に存在した、とんでも授業【4】映画鑑賞

 昔の小中学校にあったけれど今の小中学校にないものに映画鑑賞というのがあります。昔は、僻地の学校で、映画の上映会をよくやりました。私が子供の頃は、毎月学校の授業で映画を見ました。

 佐渡島には、映画館というものが、あまり無かった。なので学校で何度も映画が上映されました。と言っても、最新作ではありません。古い名作です。例えば『路傍の石』とか『風の又三郎』とか『次郎物語』とかです。みんな戦前の作品だった気がします。洋画もありました。『野バラ』とか『菩提樹』とかいうドイツ映画を見た記憶があります。『路傍の石』は、文部省推薦の第一号映画だと聞かされました。『次郎物語』も戦前の文部省推薦映画です。このチョイスからして、戦前の文部省は、かなりリベラルだったと思います。天皇の人間宣言は、戦後(マッカーサー)が初めてでは無く、戦前である昭和12年に、文部省通達で行われていますので、それをみても、当時の文部省の雰囲気が分かるというものです。




 それはともかくとして、どうして古い名作を学校で上映したかと言うと、図書館が16mmフィルムを購入するためです。

 私が生まれた佐渡島の金井町というところでは、たったの人口5000人の小さな町でしたが、かなり大きな図書館を持っていました。それこそ軽井沢の図書館よりも大きい図書館がありました。

 その図書館には、大量の16mmフィルムと16mmプロジェクター(映写機)を置いてあって、16mm映画がずらりと置いてあったのです。アニメもあったし、外国映画もあった。佐渡島のドキュメンタリー映画もたくさん置いてありました。16mmフィルムとして販売されているものなら大抵置いてありました。

 離島の上に、小さな小さな町村ですから、図書館に大した予算はありません。なので、その図書館は小学校の中にテナントとして入ってました。第一次ベビーブームが終わって、子供たちの人数が減ったことによって、教室が余ってしまったのを有効利用したわけです。

 貧乏で予算が無い町が、精一杯考えた図書館行政で、建物は借り物でしたが、蔵書は多かった。蔵書が多いだけでなく、16mmのプロジェクターが何台もあったし、16mm映画も大量にあり、その多くは貴重なものばかりでした。もちろん、そんなものを買う予算は、小さな町にはありません。

 予算がないから小学校や中学校で、一人何百円か支払って上映会を開いたわけです。その収益で新しい16mmフィルムをジャンジャン買ったわけです。これで格安で映画は見れるし、資金なしで16mmフィルムは増える。言うこと無しです。それに一度買った映画は、何度も無料で見られます。だから、無料で見られた映画と、有料だった映画の上映会がありました。なんだかんだと言って、毎月一回は学校で映画を見ていたと思います。だから親は、子供を映画に連れて行かなくてもすむ。学校が、かわりにやってくれているから言うこと無しの全員がハッピーになる展開です。

 今から考えてみたらすごいことだなと思うんですが、離島のために映画館が無かったことや、民法テレビ局も一つしかなかったこと、ビデオテープというものがなかった時代という3つの環境が、こういうシステムを作り出したんだと思います。

 また、離島ゆえに、身分不相応に巨大な図書館をかかえていたと思います。小学校の空き教室を使って、テナントみたいに存在していたので、予算がかからなかった。だから小学校に大人たちが入り放題だったし、当時の小学生たちも、学校の図書館に行かずに、町の図書館に行った。大人仕様の町の図書館なら、最高の暖房が入っていたし、そこにはマンガ日本史全集みたいなものもあった。学校の図書館にないものがあった。その結果、子供たちが集まる場所となって、みんな本好きになっていった。

 これが現代の嬬恋村の場合、図書館がなくても何の問題もない。本が読みたければ、中之条に行けば大きな図書館があるし、軽井沢にも大きな図書館がある。さすがに映画館はないですが、昔は、嬬恋村にも映画館があったと聞きます。無くても電車で簡単に映画館に行けたことでしょうが、日本海という障壁に囲まれた佐渡島では、そこで完結しなければならない。

 嬬恋村が、群馬県のチベットと言われるところであるのは事実にしても、なんだかんだ言って陸続きです。船に乗らないと本州に上陸できない佐渡島とは全く条件が違う。波が荒れて船が出航できないなんてことはないからです。だから大きな図書館を充実させたし、16mmフィルムの貸し出しも行って、子供会や、町内会で上映会が盛んだった。今ならスカイパーフェクトTVもあれば、BSテレビでいくらでも映画が見られる。わざわざ16mmプロジェクターを用意することもないし、16mmフィルムで映画の上映をすることだって必要ない。しかし、当時は、映画が娯楽の王様だった。

 なので学校でも盛んに映画の上映会を行った。もちろん授業の一環ですから、普通の映画館と違った上映になったこともあった。16mm映画というのは、大抵、前編・後編の2巻に別れているのですが、先生が間違えて後編を先に上映することが良くあった。それを見ていた小学生の私たちは、
「何か変だな?」
と思いつつ、感動のエンディングシーンを見て、中途半端に感動してしまったりする。そして、ラストシーンを見終わった後に先生が
「これから前編を上映します」
と言って、前編を上映し始めるのです。当然のことながら、子供たちからブイブイ文句が出ますが、間違えた先生は
「映画館で映画を見たと思えば、いいんだよ。映画館に入れば、これと同じことが起きるんだから」
と屁理屈を言っていました。

 要するに、映画が始まってる映画館に途中入場て、途中から映画をみたと思って、見ればいいんだよという屁理屈なんですが、そもそもみんな映画館に入ったことがないので、
「途中入場?何それ美味しいの?」
という状態で、意味がさっぱり分からなかった。金をとって上映会をひらいていたわけですから、今から考えると、とんでもないことなんですが、昭和時代の小学校では、よくある日常の一コマだった。要するに今より大らかだった。



ドイツ映画『野バラ』 後編をみてから前編を見させられたのは、良い思い出




つづく。

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2021年01月08日

半世紀前に存在した、とんでも授業【3】計算尺

  前回、息子が小学校に入学する時に、用意しなければいけない入学式セットに画板がなかったことを書きましたが、もう一つ、無かったものに十玉算盤があります。十玉算盤が、息子の入学セットに無かった。十玉算盤が無かったかわりに、算数セットというものが増えていた。


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 この算数セットというやつが、くせもので、ちいさなおはじきみたいなものが大量に入っていて、それに一々名前をつけなければならない。そんな面倒くさいことできるかと思っていたら、世の中には、それを商売のタネにしている業者もあって、算数セットのおはじきやコインなどにつける名前シールを販売する業者がいたので、名前シールを注文しました。


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 昔は、こういった算数セットはなくて、かわりに十玉算盤があった。
 というか、十玉算盤で全て事足りるのに、
 どうして算数セットまような面倒くさいものが必要なのか、わけがわからない。


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 実は、うちの息子は、最初、算数が苦手で計算ができなかった。足し算の原理も、なかなか理解できなかった。理解した後も、いつも指を数えていて、計算が遅かった。なので、ネットで買った十玉算盤を与えて渡したら
「すごい! 魔法の道具だ!」
と驚いて、どんどん計算が出来るようになった。

 息子にしてみたら電卓を手にした気分だったと思います。
 そして、どんどん算数ができるようになった。
 暗算ができるようになった。
 頭の中に十玉算盤がイメージできたんだと思います。

 そして、そのうちに2桁までの足し算を暗記するようになり、指を数える必要がなくなり、暗算で答えが出るようになった。その結果、学校の授業が苦痛になってしまった。暗算でできるのに、めんどくさい「さくらんぼ計算」をしないといけないので、それが苦痛でならなかった。

 さくらんぼ計算というのは繰り上がりのある足し算を10のまとまりを作って「10といくつ」で答えを求めていく計算方法です。説明するのも馬鹿馬鹿しいので詳しくは下記のサイトをみてください。

https://js-mama-onayamikaiketsu.com/1833.html

 これは、うちの息子だけでなく、幼児から算盤をやっている子供は、全員が「さくらんぼ計算」や算数セットを苦痛に思っていると思う。へんな道具より十玉算盤の方が、具体的で分かりやすいし、位(くらい)の考え方も、いっぺんで頭にはいってくる。そのうえ何桁の計算でも、一瞬のうちに理解できてしまう。

 極論すれば、十玉算盤さえあれば、2年間で習う算数を1ヶ月でマスターできる。自然と足し算を暗記するようになれる。掛け算の理論まで、簡単に理解できるようになる。

 それに対して算数セットでは、位の考え方を、あとで習うので、わかりにくいし、位取りのところで、落ちこぼれる子供も多いと思う。現に、うちの息子も十玉算盤に出会う前まで、位取りをなかなか理解できないでいました。なので「さくらんぼ計算」や算数セットより、十玉算盤の方が、圧倒的に優れた商品だと思うのですが、いかがでしょうか?

 関係ないですが、いまはやりのインド式計算方法というのがありますが、あれは計算が速いですね。めちゃくちゃ早い。一度、息子に教えたんですが、すごく計算が速くなった。足し算の筆算を前から(つまり位の大きい方から)計算する方法なんですが、これだと計算が速くなる。とんでもなく早くなる。しかし、途中で、これを息子に教えてはダメだと気がついた。この計算方法は、ある程度、知能が高いひとでないと、混乱する原因になるし、学校の授業で習う位取り計算方法と真逆なので、息子の頭が混乱してしまう。なので、これを教えてはダメだと思いました。やはり、十玉算盤が、日本の風土に一番あうように出来ている。

 これは余談になりますが、私が子供の頃には、機械式計算機というものがあって、それのオモチャバージョンがありました。それが学研の『科学』と『学習』という雑誌の付録についてきたことがあった。

 その機械式計算機は、ダイヤル式黒電話(といっても分からないでしょうけれど)のようなダイヤルを回して、数値をいれると、計算結果がでてくるものです。昔の黒電話をかける要領で、ダイヤルを回すと、答えが出てくる。もちろん十玉算盤の方が、圧倒的に便利なのですが、子供の頃に、機械式計算機のオモチャに出会った私は、すごい機械だと大興奮した。そこに父親が
「もっとスゴイものがある」
と見せてくれたのが計算尺です。


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 まあ、そんなことは、どうでもいいとして、大昔にあった授業で、今は存在しない授業に『計算尺』というものがあります。『計算尺』というのは、いわゆる物差しみたいなものを使って、かけ算・割り算・三角関数・対数・平方根・立方根などの計算をする道具ですが、電卓が無かった頃は、みんな、これで計算していました。

 リチャード・ギア主演映画「愛と青春の旅だち」に、ヘンミの計算尺が登場しているし、映画「アポロ13」でも軌道計算を検算する場面でヘンミの計算尺が登場している。映画の『風立ちぬ』でも航空機の設計の場面で登場しています。ちなみに世界の計算尺の8割は日本製(ヘンミの計算尺)で、竹でつくられていたために気温による膨張がなかったために、世界中の一流科学技術者が、日本製計算尺を使っていました。金属製の計算尺だと、夏に熱膨張で狂いが生じるからで、どうしても日本製(ヘンミの計算尺)でないといけなかった。

 当然のことながら私も学校で計算尺を習っています。
 習っていますが、私の世代だと、使い方を説明されて、
 さらっと流しただけで、電卓の授業がメインでした。

 で、電卓の授業で何をやったかというとメモリー計算です。
 電卓にある 「M+」「M-」「MRC」 のキーの使い方を勉強したわけです。


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 使い方としては、例えば、100円のチョコ2個、50円の飴玉を5つ買ったとします。
 さて、全部でいくらになるでしょうか?
 という問題の解答を出すときに使います。

100円のチョコを2個→ [100][×][2][M+]→200
50円の飴玉を5個→ [50][×][5][M+]→250
合計 →[MRC]を1回 →450

 という具合です。
 こういう授業をやったわけです。
 電卓で複雑な計算をやったわけです。

 だから私の世代だけは、「M+」「M-」「MRC」 のキーの使い方を義務教育で習っていて、この使い方を知っています。

 なので、これを嫁さんの前で披露したら、嫁さんの奴は、いたく驚いていた。ということは、昭和四十七年生まれの嫁さん世代は、義務教育で習ってなかったということになる。もっとも嫁さんは、算盤塾に通っていたので、電卓のメモリー計算など知らなくても何の問題もなかったと思いますが。



つづく。

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2021年01月07日

半世紀前に存在した、とんでも授業【2】画板

 息子が小学校に入学する時に、用意しなければいけない入学式セットに画板(がばん)がなかった。画板といっても今の人にはわからないかもしれませんが、写生大会の時に使う木のボードのことです。私が小学校に入学する時には、その画板を買わされて、学校に持って行ったものです。図工の時間や理科の時間に画板を持って校庭に出て写生を行ったことが何度もありました。授業中によく写生を行った。また、年に二回ぐらい写生大会というものがあった。

 今では考えられないことですが、勝手にどこかに行って写生を行っていた。昼食に給食が出たかどうか覚えてない。弁当だったような気もするし、給食を食べに帰ってきもする。勝手にどっかに行って、一日中、何かの写生して学校に帰ってきた気がする。

 もちろん小学校に入学して間もない頃。小学一年生が、散り散りバラバラになって絵を描いていたわけですが、それでよく事故が起こらなかったと感心します。今じゃ考えられない。というか、息子が通う小学校では写生大会というのは存在してない。少なくとも小学二年生までは、そういうイベントはなかった。おそらく今後もないかもしれない。学校の道具に画板がないからです。


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 そういえば、昔は習字の授業が盛んでした。年明けになるとコンクールがあって、表彰された作品が廊下や体育館に次々と貼られたものです。子供会でも表彰していましたし、地域の自治体でも表彰してました。と言うか佐渡島という辺鄙な田舎の小さな市町村に、何人ものの書道家がいて、みんなそこに習字を習いに行ってた。昔は塾といえば、習字の塾であり、そろばんの塾であって、くもんのような学習塾というものはなかった。

 息子が通ってる小学校では、習字そのものがない。ひょっとしたら三年生になったらあるのかもしれませんが、一年生二年生の間はなかった。その代わり書写という授業がありました。書き初めの文化は、少しずつなくなっているのかもしれません。

 私が中学生だったとき、習字の時間には、学校の先生ではなくて、地域の書道家の先生が教えに来ていました。離島の、人口五千人程度の町村に、何人もの書道家がいて、それぞれ多くの弟子を抱えていたわけですから、今にして思えば驚異的なことかもしれません。そして、生徒一人一人に、別々の課題を与えて教えていました。全員一斉に同じ文字を書くということはなく、別々の課題が与えられた。その先生は私に対して「温故知新」という文字を書くように言われ、散々書かされた挙句、
「この意味を知ってるか?」
と聞かれたので
「知りません」
と答えると、初めて意味を詳しく教えてくれる。習字と言うより、国語の授業みたいだった。

 こういう習字の授業があるにも関わらず、さらに国語の授業で習字をやらされた。国語の先生も天才的に習字が上手い人で、赤い墨汁で次々と手本を書いてくれる。その先生は
「何を書きたいんだ?」
と聞いてくれて
「・・・が書きたいです」
と言うと
「・・・」
という手本を書いてくれる。つまり各自で何を書いてもよかった。先生に「◇◇を書きたいので手本を書いてください」と言うと、ものの2秒くらいで美しい手本を書いてくれる。それをサッと飛ばすものだから、手本が床に落ちる。それを慌てて拾って、その手本をもとに練習をしていた。でどうなったかと言うと、男子生徒の大半が
「天地真理」
と書いていた。歌手の天地真里(あまちまり)が全盛の頃でした。中には「レットイットビー」とか「神田川」とか「なごり雪」とか書いてる人もいたけれど、圧倒的に「天地真理」が多かった。

 そしてその書き初めを教室の後ろにでかでかと貼るわけですが、それを見た他の先生方が「どうしてみんな天地真里(あまちまり)ばかり書いてるんだ?」と聞いてきて、生徒たちが反論します。

「天地真里(あまちまり)じゃありません、天地真理(てんちしんり)です」






 そういえば、私が中学校二年生の時、一年で廃止になった授業があります。電卓という授業です。以前は算盤の授業だったらしいのですが、私が中学二年生の時だけ、電卓という授業になり、1年で廃止になってしまった。昭和五十年頃に、電卓戦争というものがありました。今でこそ百円ショップで買える電卓ですが、当時は高価なもので、カシオとかシャープでした。

 恐ろしいのは、電卓の下請けに、今をときめくインテル社があったことです。インテル社は、日本の電卓会社の下請けだったことがあった。国内の半導体メーカーはこの電卓用 LSI の開発を引き受けてくれなかったので、日本が開発した電卓用 LSI をインテル社に生産してもらった。しかし開発したマイクロプロセッサは、電卓以外の用途にも広く使えることから、インテルは日本の電卓会社から独占販売権を放棄してもらって、世界のインテルになった。日本の電卓会社にもう少し先見の明があれば、世界のCPU市場を日本が独占したかもしれなかった。実に惜しいことをしました。





 まあそんなことはどうでもいいとして、電卓の授業は一年でなくなってしまい、代わりにそろばんの授業が復活したかと言うと、そうではなかったらしい。電卓が普及したためか、そろばんを学ぶ必要がないと思ったのか、学校でそろばんをやる話を今では聞いたことがない。だとすると、あの電卓の授業こそは、諸悪の根源だと思います。プログラミングの授業なんかやめて、そろばんの授業を復活させるべきだと思うんですがどうでしょうか?


つづく。

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2021年01月06日

半世紀前に存在した、とんでも授業【1】話し方授業

半世紀前に存在した、とんでも授業【1】

 早いもので、息子の冬休みも残すところあと一日になりました。あっという間に三学期です。その三学期が終われば、小学三年生です。そして小学校三年生になると、英語の授業とプログラミングの授業があるらしい。そういえば、だいぶ前にダンスが学校の授業で行われるようになったという話でした。

 私の弟に、中学校の先生と高校の先生がいます。二人ともプログラミングの授業に賛成のようでしたが、私は、疑問に思っています。小学校で大切なのは、日本語であって、漢字の読み書きと、算数、体育が一番大切だと思っています。プログラミングなんかやらせるぐらいだったらそろばんをやらせた方がいいと思ってます。余計な授業を増やしてほしくないんですが、それについては、ここでは触れません。

 今回は、昭和三十六年生まれの私が、昔あって今はもうなくなってしまった、とんでも授業を紹介したいと思います。

 これは私が体験したことではないんですが、昔の佐渡島の中学校では、バイクに乗る授業があったそうです。昔は、技術・家庭という授業があって、男は技術を学び、女子は家庭科を学んだのですが、男子が学ぶ「技術」と言う授業で、バイク運転の授業があったらしい。

 これは私が中学生の時に、技術の先生が面白おかしく話してくれたんですが、昔はバイクに年齢制限もなければ、免許証もなかったらしい。届ければ誰でもバイクに乗れたらしくて、そういう時代に中学校でバイクに乗る授業を行ったらしいのです。

 とはいうものの、当時バイクは貴重品でしたから、どの家にもあるというものではなくて、見るのも触るのも初めてと言う生徒が多かったらしくて、そのためにバイクに乗る授業は、事故寸前で散々だったらしい。まあそうですよね。そのせいか、この授業はすぐに廃止になったとのこと。

 どうしてそんな授業とかあったかと言うと、終戦間もない当時の日本では、航空機とか車を生産することが制限されていて、自転車かバイクを生産して東南アジアあたりに輸出するしかないという危機感が日本に充満していたらしい。嬬恋村で行われた浅間火山レース(バイクの公道レース)は、そういう時代背景の中で行われた可能性が高いですわけですが、そういう雰囲気の中で、こういうトンデモ授業があったそうです。戦後間もない頃の学習指導要領には、GHQの影響で上から教わるのではなく、自ら体験して学ばせることを重視すべしと書いてあったらしく、その延長上で、バイク運転体験があったのかもしれません。戦後まもない頃は、上から教わるのは悪で、自分で体験するのが善だった時代でした。

 この話を、中学校の先生に伺った時に、昔は免許証を発行するのが緩かったんですねと言ったら、その先生は
「ゆるいも何も、免許証をそのものがなかった時代が長い間続いていたのだよ」
と言いました。車検証があれば免許証がいらなかった。排気量750 cc以下であれば、二輪、三輪、四輪を問わず免許証はいらなく、十四歳以上なら運転しても違法ではなかったらしい。十五歳から軍隊に入れるので、軍隊に入ったら車の運転がありえるので、その年齢まで引き下げられたらしいのです。それを聞いた私たちは驚いたのなんの。

 ただし、この話は、昔の恩師から聞いた話なので、私の記憶違いがあるかもしれないので、都市伝説ぐらいに思っていただいて結構です。ここから先は私が経験した「とんでも授業」です。



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https://global.yamaha-motor.com/jp/design_technology/technology/daysgoneby/003/より借用



 私の子供の頃には「話し方授業」というものがありました。これはどういう授業かと言うと、みんなの前で立って話をするという授業です。これは毎日順番に全員に強制されました。毎日行われて、朝の学活で二名と、夕方の学活で二名。一日に二回、合計四名がクラス全員の前で、何か話さなければならない。しかも必ず十日以内に自分の順番がまわって来る。

 十日に一回は、四十人ぐらいいるみんなの前で必ず何か喋らなければいけない。今思えばすごい授業だったと思います。この授業は、私が中学校に上がる時になくなってしまいましたが、中学生時代に、恩師の先生たちが、
「昔は話し方の授業というのがあったんだよ」
と言っていましたから、話し方の授業というのは、小学校だけでなくて中学校でもあったようです。

 それで面白かったのは、廃止になってしまった話し方授業が、中学校の先生たちには、とても良い授業であったという感触があったらしくて、いろんな先生たちが、時々それを自分の授業で復活させました。教育指導要領では廃止になってたと思うんですが、話し方授業は必ず生徒のためになると思っていた先生がいたわけです。そして国語の授業や、社会の授業や、ホームルームの授業などで、多くの先生たちが、話し方授業の続編をやらせました。

 この話し方授業は、私の最も得意だった授業で、私には楽しみな授業だった。ほとんどの同級生が、話すことがなくて、歌を歌ったり、特技のケン玉なんかを見せていた中で、私だけがみんなの前で歴史講談なんかを語っていた。

 特に得意としてたのが、川中島の決戦・ゼロ戦の話・航空エンジンの構造といった話で、それを面白おかしく解説するので、そのつど国語の先生が喜んでいました。そのせいか、何かと国語の先生に目をつけられて、感想文をみんなの前で読まされたり、私の文章を先生が笑いをこらえながら読んだりもしました。そして、それでクラスは爆笑の渦になり、国語の先生に、お前は文章の才能があるからそっち方面に進んだ方が良いと言われたものです。



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 ただし、その国語の先生の目利きは外れたようで、読書感想文のコンクールなんかには一度だって入選したことがありません。私の書く文章は、どっちかと言うとギャグありきの講談調で書いてありましたから、読む人が読んだら不真面目な感想文だと思われたに違いありません。

 こんな私ですから、よく演劇なんかにスカウトさせられて劇に出演させられました。三年生を送別する演劇で、志村けんばりのコントを行いました。当時、こういう馬鹿な子供たちは私だけでなく、他にも多かったのは、「話し方授業」の成果だったかもしれません。ある世代の人間は、大勢の前で演説をする事を苦手に思わないのは、「話し方授業」のせいだと思います。長くなったので今日はここの辺で筆を置きます。退屈で無ければ明日、トンデモ授業の続編を書きます。



つづく。

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2021年01月05日

ストーブにヤカンを見直してみた!

 昨日から息子と嫁さんは、おばあちゃんの家に出かけています。私は一人で留守番なのですが、お客さんもいなくて退屈なので、ホームセンターに灯油を買いに行きました。それと似たようなペンション仲間がホームセンターにいました。聞いてみたら我が家と同じで、正月にはキャンセルが続出して暇だったそうです。

 Gotoトラベルが中止になって、みんなキャンセルになったらしいです。ただ例外があって、リピーターさん達はキャンセルがなかったようです。この辺もうちの宿と同じでした。

 Gotoトラベルとは、宿泊費の35%と地域クーポン券の15%。合計50%を国が負担してくれる制度なんですが、実はまだ支払ってもらっていません。

 Gotoトラベル自体は、去年の7月から始まっているんですが、うちの宿に関して言えば、まだ1円ももらってない。ここで愚痴を言えば、税金は待ったなしでとって行くのに、Gotoトラベルの費用は未だに振り込まれてないと言いたいところですが、実は、未だに振り込まれてないことが、結果として助かった可能性がある。

 いつ支払ってくれるのかは、まだ分かりませんが、日本政府のことですから、年度末までには支払ってくれるでしょう。つまり、私たちのような宿屋が、御客さんゼロが続いて、本当にヤバくなった頃に入金されてくるはずですから、逆の意味で良かったです。


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 話は変わりますが、新型コロナ騒動で、給付金やGotoトラベルの費用が、全国各地に振り込まれることになっているわけですが、これで大儲けしたのが銀行かもしれません。ものすごい振込手数料になるからです。それを考えたら、日本政府も直轄銀行を持つべきではないでしょうか? 100%政府直轄の銀行があって、マイナンバーカードと連動できていれば、全国の銀行に振込手数料を支払わずに振り込める。でも結局のところ、引き出すためには、どこかの金融機関のATMを使わなければいけないんですよね。それだったら同じことか・・・・。役場にATMつくるわけにもいかないだろうし。

 いっそのこと、日本国政府が電子マネーを作っちゃったらどうでしょうかね?
 振込手数料のかからないスイカみたいなものをつくっちゃう。
 マイナンバーカードを電子マネーにしちゃうとか。

 まあそんなことはどうでもいいとして、実は、去年の12月から今年の3月末頃までに、もう一度新型コロナのピークが来ることは、宿屋仲間では予想がついていました。インフルエンザが大流行する時期に、新型コロナウィルスが、大流行しないわけがないからです。ですから今回のことは、想定内と言えば想定内です。どのお宿さんも準備はできていました。うちも覚悟をもって臨んでいます。

 12月から3月にかけては、お客さんが、ゼロでも生きていかれるように頑張ってきましたし、それは、どのお宿さんでも一緒でしょう。でもGotoトラベルを考えた人たちは、そうは思ってなかったふしがあります。だから1月末までキャンペーンを続けたんでしょうね。こういうキャンペーンは、インフルエンザが流行する期間に行わない方がいいです。

 それと外国からの入国制限を安易に緩和するのもどうかと思います。11月に入国制限を緩和したとたんに感染爆発が起きたわけですから、明らかに因果関係があるはずです。統計で見る限りGotoトラベルで感染爆発してはいません。ちょっと古い統計になりますが昨年11月までに、Gotoトラベルで感染確認されたのは、約130人です。

 それを考えたら、今回の感染拡大と、入国制限の緩和と、インフルエンザの流行する時期と、何らかの因果関係があるような気がします。特にインフルエンザの流行する時期の特色として、冬の乾燥が考えられます。で思ったのですが、乾燥を防ぐための対策としてストーブを見直してもいいんではないかと思いました。

 今どこの宿でもストーブは使っていません。みんなファンヒーターを使っています。危険だし、暖房効果もいまいちだからです。いまいちだけれど、ストーブだったらやかんを置いて沸騰させることができる。そして湿度を上げることができるわけです。そうすれば喉にもいいし、ウィルスを撃退する効果もあるはずです。停電の時を考えて、物置の奥底にストーブが2台ほどあったこと思い出して、何年ぶりかで、それを取り出してみました。メーカーは、コロナ。コロナの対流型ストーブです。


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 息子が生まれてから、幼児には危険と思って奥にしまい込んだストーブ。今まで使ってなかったストーブとヤカンが、新型コロナウィルス騒動で活躍するようになるかもしれません。あれで冬場の乾燥を少しでも緩和できたらいいなあと。でも、幼児連れの御客さんが来たら、使うことはできない。その場合は、客室にある加湿器つきの空気清浄機に大活躍してもらうことにします。


つづく。

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posted by マネージャー at 23:08| Comment(0) | テーマ別雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月04日

碓氷峠・元祖力餅 しげの屋

 碓氷峠・元祖力餅 しげの屋は、創業350年の老舗で、中山道の碓氷峠の頂上にあります。我が家では、毎年、正月に、碓氷峠の神社にお参りした後とか、七五三の後などに必ず立ち寄っています。この店は、群馬県と長野県の県境にまたがっていて、写真のように県境が分かりやすく書かれています。


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 旧中山道の街道最大の難所と言われた標高約1,200mの旧碓氷峠は、長野県と群馬県との県境。 そのちょうど県境の上に店を構えるのが「元祖力餅 しげの屋」です。入口から店内まで分かりやすく県境の表示がされていて、もちろん店の住所は長野県と群馬県と2つあるという、非常に珍しいお店です。


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 テラス席。やはり床に赤いテープで県境が書かれてある。


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 県境をまたいでみた息子・ジョンレノンお気に入りの場所でもある。


  店内は座敷席、テーブル席にペットOKのテラス席など80席以上あります。テラス席の藤棚の下の席はジョンレノン一家のお気に入り席でした。そのテラス席の上は展望台になっており、桜に新緑に紅葉が楽しめます。


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 展望台


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 展望台


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 展望台の上
 やはり県境が・・・・。


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 展望台からの眺め。高崎がみえる。晴れてれば筑波山もみえる。


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 この店の最大の名物トイレへ行ってみる!


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 これは男子トイレの小便器。巨大なバケツに小便をする。とても素晴らしい音がする。
 小便をしたらヤカンを斜めにして水で流すシステム。つまり、ヤカンが水栓なのだ!


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 これは大便用。


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 なぜか金魚が・・・・?


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 男子トイレは、外から丸見えになっている。


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 これは手洗い場(シンク)。
 水栓が、ヤカンになっている。
 ヤカンを斜めにすると水が出るシステム。


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 創業当時からの名物「力餅」の名は、中山道を往来する旅人たちが力をつけるために食べさせたものです。ちなみに、しげの屋の主は、熊野皇大神社の神主さんです。ここで美味しいのは、創業当時からの、あんこ、辛味大根、クルミ。 あんこは甘過ぎない大人の味。それにアイスと一緒の「力餅ソフト」は絶品です。


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 私たちのチョイスです!
 美味しかった!



0267-42-2402
長野県北佐久郡軽井沢町大字峠町2

https://www.facebook.com/shigenoya.karuizawa/
http://kumanokoutai.urdr.weblife.me/shigenoya/index.html?fbclid=IwAR02PKfpRwAT0fMzL9NlEweri_UNmll2Uy6wtQZo5yLBJukJMfDFel_m1Ag



つづく。

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posted by マネージャー at 20:26| Comment(0) | 旧軽井沢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月03日

初詣は、碓氷峠の神社

 なんだかんだと言って、連日お客さん続きだったんですが、1月2日の朝に最後のお客様がチェックアウトされて、1月3日の今日は、ようやくのんびりできることになりました。せっかくなので、碓氷峠にある熊野神社に お参りに行ってきました。


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 この神社は 、息子の名前【たける】の言われたなった神社です。息子が生まれた年のクリスマスに、旧軽井沢にある小さな教会で行なってるコンサートに入ったことがあるんですが、そのコンサート会場で、息子さんの名前は何という名前なんですか?と聞かれ、たけるですと答えると、日本武尊ですね。と言われました。そして、教会にもかかわらず、ヤマトタケルとうちの息子に幸せが訪れるように、歌をプレゼントしてくれたのです。

 こうった反応は、その教会だけではなくて、軽井沢で息子の名前を紹介するたびに、ヤマトタケルですか?と言われ続けました。そして軽井沢の人たちに息子の名前を【タケル】ですと、いうと、必ずヤマトタケルからとったんですか?と言われました。もちろん碓氷峠にある熊野神社でも同じことを言われています。軽井沢の人にとってみたら、タケルといえば日本武尊になるみたいです。

 逆に嬬恋村で息子の名前がタケルというと、そういう反応はゼロで、俳優さんから名前をいただいたんですか?という答えばかりです。日本愛妻家協会の聖地として頑張っている嬬恋村なのですが、嬬恋村ではヤマトタケルの知名度はイマイチのようで、軽井沢とは反応が全く違っています。そういうこともあって、嬬恋村民としてはあるまじきことなんですが、毎年正月の初詣には、碓氷峠の熊野神社に行ってます。 ただしささやかな抵抗として、群馬側の神社にお参りをしています。というわけで息子が産まれてから、初詣は必ず碓氷峠の熊野神社で行うと決めています。

 で、到着してみると、神社は例年と違っていました。
 長野側の狛犬には、マスクがしてありました。
 ちなみに群馬側の狛犬は、ノーマスクでした!


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 狛犬にマスク(長野県側)・ 群馬側はノーマスク!


 ちなみに碓氷峠の神社は、長野県側と群馬県側に別れています。
 私たちがお参りするのは群馬県側の神社です。
 しかし写真を見てもわかるとおり、長野県側の神社の賽銭箱は大きくて新しい。
 かなり繁盛しているみたいです。
 それに対して群馬県側の神社は、賽銭箱が小さくて古いです。


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 長野県側は新品の巨大賽銭箱。群馬の賽銭箱は古くて小さい!


 ここにお参りに来る県民の大半が長野県民である為だと思われます。

 私たちは群馬側の神社に家族でお参りをしたわけですが、息子が一生懸命に願い事をかけているので、 何のお願いをしたのと聞いてみたら
「新型コロナウイルスが絶滅しますように」
とお参りしたと言います。我が息子ながら立派なもんだと思って、どうしてそんなお祈りをしたのと聞いてみたら、新型コロナウイルスが絶滅すれば、もっとたくさんの旅行ができるかもしれないからと言ってました。

 それなら旅行したいとお願いすればよかったのにと思ったんですが、結局、新型コロナウイルスが諸悪の根源なので、息子の行動はある意味正しかったかもしれません。そう思うと、ちょっとこいつにかけてみようと思って、おみくじを引かせたら「大吉」でした。これで息子の願いも叶うかもしれない。つまり新型コロナウイルス騒ぎが終わるかもしれないと、ちょっと嬉しくなりました。

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つづく。

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