2020年06月27日

先着30万人の「泊まって!応援キャンペーン」における群馬県全体の予約件数

 群馬県民の皆様にお知らせします。先着30万人の「泊まって!応援キャンペーン」参加宿における現在の予約件数が、13万人であることが先ほど判明しました。五千もキャッシュバックされるのであれば、6月終わりに30万人に達してしまうのではないかと予想していたんですが、意外に利用してないことがわかりました。

 現時点で、7月31日までの予約件数は、13万人。
 まだまだ余裕がありますね?
 あと2週間は余裕です。
 下手したら7月末でも大丈夫で、予算があまっちゃうかも?

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 もったいないですね。
 もったいないです、群馬県民の皆さん!
 5000円も返ってくるんですから、もっと利用しましょうよ!
 税込み6700円以上の宿泊費であれば、5000円返金される夢のようなキャンペーンですよ!
 こんな機会、これから先、絶対無いと思います。
 ぜひ計画をたててみてください。

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 と、煽ってしまって、30万人に達してしまったらごめんなさい。
 これからも「泊まって!応援キャンペーン」の予約件数がわかりしだい報告します。
 30万人に近づきそうになったら、このブログで緊急報告(アラート)をしますので、注意してください。


つづく。

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posted by マネージャー at 17:55| Comment(0) | 業界裏話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月26日

筋金入りの旅人

 新型コロナウイルスで、ずっと閑古鳥がないていたわけですが、「泊まって!応援キャンペーン」のおかげで、先週の週末も、今週の週末も群馬県民の御客様で、ほぼ満室ちかく埋まっています。群馬県知事のおかげです。感謝感謝です。そんななか、先週は一人だけユースホステルの会員さんがお泊まりになっていました。古くからのリピーターさんで、ファミリーの団体さんばかりしかいなくても、気にせずに泊まってくれる方なので、予約があればことわらずに受け入れています。

 普通、ユースホステルの会員さんは、団体客・ファミリー客を嫌います。なので両者がバッティングしないように宿主は気をつけます。ユースホステルの会員さんが多く入る時は、ファミリーや団体さんは断るし、その逆もあります。マラソン大会・バイクイベントの時も関係者が集中するようにします。その方が、顧客満足度が高くなるからです。

 しかし、この方は、業者だらけだろうが、ファミリーだらけだろうが、団体が9割いようが、そういうことを全く気にしない筋金入りの一人旅なので、こちらも気兼ねすることなく受け入れます。そういう珍しい御客様が、先週2泊にわたってお泊まりになりました。で、他には群馬県民のファミリー客ばかりのなかで、一人ぽつんと過ごされていたんですが、何を思ったのか2日目に、数千円もする(?)大きなホールケーキを二つも買ってきて、
「他の御客様に出してあげてください」
と差し入れてきました。

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 で、先週末は、突然の差し入れでケーキバイキングになってしまい、他の御客様は、大喜びだったわけですが、とでうも腑に落ちなかった。なぜ、突然、ケーキを差し入れてくれたのか?と・・・・。

 で、これは、あとで分かったことなんですが、その方は、その日が、記念すべきユースホステル二千泊目だった。
「なんだ、言ってくれれば良かったのに」
と、みずくさいなあ・・・と思ったのですが、
「新型コロナウイルスで、自粛中なので派手なことにしたくなかったので」
とのこと。

 うーむ。かっこいい。

 今まで、五百泊記念とか、千泊記念とか、いろんな御客様が、おられましたが、そのつど事前に連絡をうけとり、なにがしかのお祝いしたり、色紙を用意したり、記念品を渡したりしたものですが、今回は二千泊記念にもかかわらず、新型コロナウイルスのこともあって、何も言ってこなかったし、こちらも何もできなかった。せいぜい、ケーキのお礼に、土産品を渡すくらいしかできず、二千泊のことは、後で知ることになる。二つの大きなホールケーキは、2000の意味だったのかと、納得しました。1年に50泊としても2000泊に達するには、40年もかかることになる。すごい偉業です。

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 それにしても、ちよっとみずくさいなあ・・・と思ったけれど、
 お祝いは次に来られたときに渡そう。
 でも、二千泊の御客さん! ちょっとカッコよすぎますw


つづく。

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posted by マネージャー at 22:14| Comment(2) | 業界裏話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月25日

吾妻鉱山 最後に・・・

 最後に吾妻鉱山が閉山になった理由を述べて終わりたいと思います。私の知識では、石油から硫黄をとるようになったために廃坑になったという理由だったのですが、実は、そうではなかったことを吾妻鉱山の広報誌を読んでいくうちにわかってしまった。というか、吾妻鉱山の広報誌を読んでいるうちに、当時の人たちでも、いやでも近い将来に閉山になってしまうことが分かってしまいます。というのも吾妻鉱山が最盛期の頃でも、価格的にアメリカのものと対抗できなかったからです。

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 ではなぜ昭和30年代に硫黄鉱山が繁栄していたかと言うと、日本に外貨がなかったからです。いくらアメリカ産の硫黄が安くても買うことができなかった。つまり硫黄に関しては自由貿易が成立してなかった。

 しかし、日本の経済成長のためには硫黄が欠かせませんでした。自動車も家電も造船も製鉄もまだ赤ちゃんの頃で、必ずしも国際的に競争力があるとは限らなかった。昭和30年代における日本経済の牽引力は、繊維産業だった。なのでナイロンを作るための硫黄が必要不可欠だった。その結果、吾妻鉱山(嬬恋村)・小串鉱山(嬬恋村)・石津鉱山(嬬恋村)・万座鉱山(草津町)といった硫黄鉱山が空前の繁栄を迎えるわけです。

 そういうことを広報誌に書いてある。価格的にアメリカのものに対抗できないことも書いてある。自由化が始まったら吾妻鉱山が危機を迎える事も書いてある。直接的に書いてなくても暗黙の了解と言うか、そういうことですよという信号を広報誌で読者に送っている。そしてそれを吾妻鉱山で働いている人達は、しっかり読んでいる。読んでいる人にとっては複雑な心境だったでしょう。

 この硫黄鉱山の仕事によって日本の経済は発展していくけれど、日本経済が成長し、日本が外貨を溜め込んだとたん、自由化がすすみ硫黄鉱山は壊滅する。つまり硫黄鉱山は、期限付きの繁栄でしかないことを、吾妻鉱山の人たちは、みんな知っていた。その可能性がある。

 広報誌に詳しく書いてあるからです。直接的には書いてないけれど、そういうことだという間接的な文章はいくらでも見受けられる。察しの良い人なら、誰もがわかっていたと思うし、一人でもわかった人がいれば、情報は、全家庭に筒抜けとなり、すべてに共有されてしままう狭い社会なので、やはり吾妻鉱山の大人全員が分かっていたと思う。そういうふうに広報誌を読んでいくと、なんともやるせない気持ちになってしまう 。

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(広報『吾妻鉱山』より借用)

 しかしそれは大人たちの話であって、子供達がそこまで考えていたとは思えない。子供達にとっては、ある日突然、今まで住んでいたところが、廃墟になってしまい、みんなバラバラに全国に散っていってしまった・・・・という思いがあったと思います。そしてその子供たちが、40年〜50年経って、老人となって再び嬬恋村に訪れる。その瞬間に、私は宿屋の主人として立ち会えたわけです。

 吾妻鉱山の子供たちは優秀だったという。
 群馬県でもトップレベルだったという。
 それは広報誌に掲載されている作文や習字を見れば一目瞭然でわかってしまう。

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(広報『吾妻鉱山』より借用)

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(広報『吾妻鉱山』より借用)

 見ただけで優秀なのが一発でわかってしまう。でも、だからみんな大学に進学したのかというと、違っていて、卒業後には就職して手に職をつけて頑張っている。そして学校に近況を知らせる便りを送っている。ある人は、東京の寿司屋で働いている。もうじき魚の解体を教えてもらえると嬉しそうに手紙を学校に送っている。前にも書いたけれど、吾妻鉱山では生鮮食品は週に1回しか配給されない。他の6日は、缶詰ばかりなのだ。寿司どころか生の魚さえ週に1回も見られるかどうかの僻地なのである。そこに生まれ、そこで育ち、そこの中学を卒業して東京の寿司屋で働く少年。きっと親に寿司を食べさせたいと思って就職したに違いないのだ。

 吾妻鉱山は僻地だけれど、当時希少なテレビはあった。電波も届いていた。と言っても他の地域の人には分からないだろうけれど、北軽井沢にテレビの電波がくるようになったのは、ほんの数年前なのである。吾妻鉱山には昭和35年頃には、どの家庭にもテレビがあって電波が届いていたのだ。テレビドラマには寿司屋もあったことだろう。寿司屋になろうと思った少年がいても不思議は無い。そういう人たちが吾妻鉱山で生活をし、ある日、突然、鉱山を去って行く日がくるのである。

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(広報『吾妻鉱山』より借用)

 私は吾妻鉱山のことを何も知らなかった。今回、万座の企画展で、知ることができて大変良かったと思っています。これで彼らの心情を少しでも理解できることができた。しかし、以前は、知る機会が無かった。インターネットで検索しても何もひっかからなかった。だから、吾妻鉱山関係者が泊まりに来ても何も出来なかった。しかし、もう大丈夫。少しだけれど、当時のことをしることができた。で、この知識をインターネットに残しておきたいと思った。

 うちの宿に限らず、他のお宿さんでも、昔、吾妻鉱山に住んでいた人たちがやってくるかもしれません。その時のための準備として、吾妻鉱山のことを知ってもらいたいと思い、余計なお節介とは思いつつ、吾妻鉱山について少しばかり語ってしまいました。必要に迫られて、吾妻鉱山について検索をかけ、この文章にたどり着いた方がいらっしゃいましたら、これを書いた甲斐があったというものです。

つづく。

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posted by マネージャー at 20:56| Comment(5) | テーマ別雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月23日

吾妻鉱山の人たちが、佐渡鉱山(金山)を見学した結果・・・・

 今回は吾妻鉱山の人たちの娯楽を紹介したいと思います。

 吾妻鉱山で盛んに行われたのはスキーです。日頃から肉体労働をしているのにスキーをして遊ぶなんて信じられませんが、吾妻鉱山の中でスキー大会が行われていたぐらい、皆さんスキーをしていたようです。これは学校の先生も同じで、暇さえあればスキーをしていたようです。

 広報誌には、スキーのバッジテスト・指導員検定の傾向と対策なども掲載されていますから、吾妻鉱山の人たちのスキー熱は大したものです。ちなみに吾妻鉱山には、スキーリフトはありません。歩いて山に登って滑るだけです。つまり山スキーです。広報誌をみると白馬で山岳スキーを楽しんでいる猛者もいたようです。

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(広報『吾妻鉱山』より借用・吾妻鉱山のスキー大会)

 他の娯楽は登山と温泉ですね。
 万座温泉まで登山道を歩き、温泉に浸かって昼寝をしてビールを飲んで下山をする。
 考えてみたら贅沢な娯楽です。

 野球も熱心にしていたようです。
 実業団野球で非常に強かった。
 これはテレビの普及率と関係があるかもしれません。

 ところで吾妻鉱山では、早くからテレビが普及していました。昭和35年頃の広報誌の「家庭訪問」に出てくるご家族は、皆さんテレビを好意的に捉えています。チャンネル争いもなかったようです。最もチャンネルを選択できるほど、視聴できるテレビ局が多くはなかったのかもしれません。インタビューの人が、子供たちはテレビで勉強ができなくなるのではないかと質問していますが、そんなことはないと答えています。

  カメラも普及していたようで、広報誌に投稿写真がたくさん載っています。その当時プロの写真家が使っていたMamiya6で、撮影した写真が、 吾妻地区労働者美術展で入選していた写真も広報誌に掲載されていたりします。 ということは吾妻鉱山では、写真現像ができたということです。

 そういえば吾妻鉱山には映画館もありました。
 毎月、 何本かの最新映画を上映していたようです。

 登山部もあったようで、あちこち登山もしているようで、その記録が毎月のように広報誌に掲載されています。夏の北アルプスはもちろんのこと、全国各地の冬山登山も盛んに行われています。残雪のゴールデンウィークに燕岳から槍ヶ岳そして上高地とテントで一人縦走する猛者もいました。

 どの報告を読んでも、コースタイムが非常に早く、ほとんどがテント泊であることを考えたら、 彼らの体力は想像絶するものがあります。広報誌で山の天気予報と対策について解説を行っているくらいですから、プロの登山家なみの力量があったみたいです。

 例えば、浅間隠山に登った記録があるのですが、二度上峠の道路がなかった時代に、北軽井沢あたりから2時間30分で浅間隠山に到着しています。これでも十分すごいのですが、その後、 3時間かけて薬師温泉まで降りた後に、須賀尾峠を越えて、 丸岩を登り、川原湯温泉方面に抜けて、長野原駅まで歩くという超超超ハードスケジュール。地元民なら
「嘘だろう!」
と絶叫したくなるようなコース。土地勘のない人には何のことやらさっぱり分からないでしょうが、 1日に浅間山に2回登るレベルだといえば分かっていただけるでしょうか?

 吾妻鉱山の仲間と団体旅も盛んに行われていたようです。
 昭和35年には、須坂の上山田温泉に一泊二日の旅行を行っていました。
 登山道を歩いて万座温泉まで行き、そこから始発のバスで上山田温泉に行きます。

 どうして万座温泉かと言うと、当時は万座温泉から須坂に抜けるルートが、最も交通の便が良かったからです。途中に吾妻鉱山より巨大な小串鉱山がありますので、 バスの利用客も多かった。小串鉱山の人たちも、 吾妻鉱山の人たちも上山田温泉の上客(お得意さん)だったようです。 当時の上山田温泉には、ヘルスセンターなるものがあって、吾妻鉱山では勤続15年以上のものを 招待したようです。

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(広報『吾妻鉱山』より借用・佐渡尖閣湾の遊覧船)

 そういえば、 私が生まれた昭和36年の夏に、吾妻鉱山の人たちが、私が生まれ育った佐渡島に旅行に出かけています。早朝に出発して、 夕方に佐渡島に上陸。かなりの強行スケジュール。佐渡の玄関口である両津港というとところに宿泊しますが、暑くて寝られなかったらしい。それはそうでしょう。標高1500Mの涼しい高原に住んでいるわけですから、真夏に下界に降りる方が間違っている。 せっかく涼しい所にいるわけだから、何も暑いところに出かけなくても良さそうなものなのに、やっぱり出かけてしまっている 。

 そして翌日、尖閣湾・相川金山をまわって、 新潟に宿泊。なんと言っていいのやら。佐渡に生まれ育った私に言わせれば、無茶苦茶なハードスケジュール。これは若い佐渡島民には分からないでしょうけれど、昭和36年当時の佐渡島の道路事情を考えたら、考えられないほどのハードスケジュールになります。で、観光バスを使っているみたいですね。そして、出発したら、それに薄々感づいてしまっている吾妻鉱山のご一行様。

 対向車がきたらアウト!

 という道幅に大型バスが、荒波のギリギリ崖っぷちを走るわけですから、かなりスリルのある恐怖の観光バス旅行なはずなのですが、吾妻鉱山の御一行様は「運転がうまいなあ」と感心している。鈍感なのか? それとも、ひょっとして当時の草軽交通バスもにたようなものだったのか? 吾妻鉱山行きのバスも、たいして変わらない道幅を運転していたのか?

 そして相川金山の跡地を見学していると鉱山関係者だけに相川金山のことが気にかかってる様子。特に金山が、鉱山として寂れていき、観光に活路を見いだしている姿に感慨深そうである。10年後に閉山となる吾妻鉱山の人たちにとって、佐渡金山は、観光名所というより、自分たちの未来の姿を写しているような気がしていたかもしれない。

 昭和27年に縮小され廃墟となっている金山の工場跡地に感傷をうけていたようである。
 硫黄鉱山の坑道で働いている彼らが、佐渡金山の坑道で何を思っていたのか?
 私は静かに想像してみました。

 それから佐渡島の広大さに、さかんに感心していました。日頃、吾妻鉱山という狭い地域に密集しているためなのか、やたらと「佐渡は広い」と感動している。彼らは、佐渡島を吾妻鉱山くらいの面積だと思っていたのだろうか?

 ちなみに彼らは、米の美味しさに絶句しています。吾妻鉱山では、米が美味しくなかったのかなあ? 佐渡の魚についてはふれていませんね。吾妻鉱山では魚は食べられなかったのに。吾妻鉱山での食事は、もっぱら缶詰で、生鮮食品は週に1回の配給のみでした。けれど、どの旅行記をみても食事(グルメ)についてふれていてる記事が無いのはなぜなんだろうか?

 ヒントとしては、群馬県民は、どんな粗食も美味しく食べる県民性だからかもしれません。そういう風に躾けられているらしい。うちの嫁さんも、かなり不味いものを美味しく食べて文句一つ言わない。ハズレの定食屋で私が「不味い」なんて言おうものならテーブルの下で足で私を蹴っ飛ばしてくる(さすがカカア天下の国)。群馬県民は出された料理に文句を言う習慣がないらしい。

 新潟県民は逆に不味かったら「不味い」といくらでも言う。私の親も、さかんに「美味しい」とか「不味い」と言っていた。不味いものを「不味い」と言っても何の問題もなかった。群馬県民は食事で文句を言わない県民性なのだ。そのかわりに最新家電は、ジャンジャン買う。吾妻鉱山という僻地でのテレビ普及率は驚異的です。昭和35年にほとんどの家にテレビがあった。佐渡出身の私は昭和36年生まれだけれど、テレビなんて昭和40年頃までなかった。昭和44年の小学校2年生の時でもテレビの無い家があった。だからヤマダ電機・コジマ電気・ビックカメラといった家電の量販店は、すべてが群馬発祥です(ケーズ電気は、群馬県の御親戚の栃木県)。

 それはともかく話をもどします。

 翌日、吾妻鉱山のご一行様は、新潟県の弥彦辺りを回って帰るわけですが、くたくたになって吾妻鉱山に帰ってきた彼らの結論は、
「夏は涼しい吾妻鉱山が一番!」
ということでした。

 これは私も否定しません。
 夏は涼しい北軽井沢が一番だと思っています。



つづく。

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posted by マネージャー at 23:25| Comment(2) | テーマ別雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月22日

吾妻鉱山の医療事情

 吾妻鉱山は、明治41年に発見され、大正3年には群馬硫黄株式会社として採掘が始まり、大正6年「吾妻硫黄株式会社」が引き継ぎ、昭和2年には日本4位の硫黄鉱山に成長。昭和5年の世帯数55戸、人口は258名を数えました。しかし、日中戦争の影響を受け、事業は縮小化され経営は、東レの関連会社である帝国硫黄鉱業株式会社に移ります。

 買収後、東レ(帝国硫黄)から吾妻鉱山に出向してしてくる人がいました。村上さんと言う人で昭和14年12月21日の冬のことです。帝国硫黄は関西の会社。それも滋賀県草津町が本社ですから、村上さんも関西人です。関西から嬬恋村に来た村上さんは、その風景・言葉・風俗に面食らいました。

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(広報『吾妻鉱山』より借用)

 吾妻鉱山の広報は、昭和31年4月に創刊されますが、創刊号に吾妻鉱山が、東レの関連会社である帝国硫黄鉱業株式会社に買収された直後の事が、村上さんによって書かれてあります。

 村上さんは、従業員の寮・寄宿舎を「飯場(はんば)」と普通に言ってることにショックをうけます。「江戸時代者あるまいし・・・」と嬬恋村の旧弊に愕然とするわけですが、出向の身分であり、まだ完全に経営権が帝国硫黄に移ってないこともあって黙ってました。

 そしてタイムカードがないことに衝撃をうけ、7時の仕事開始時間になっても社員が揃ってないことに衝撃をうけ、誰も残業をしないことや、勝手に早退してしまう人に衝撃をうけます。しかし、書類をみたら生産性は悪くない。いったいどうなってるんだ?と不思議に思っていたら職人たちは請負で働いているという。なので終業時間前でも仕事が終わると勝手に帰って行く人が多かった。

 この話は、私も土地の古老から聞いたことがあります。小串鉱山の話になりますが、戦争中は、何人もの親方のグループがいて鉱山からの請負で働いていたと。なので働きのあるグループとそうでないグループでは給料が全く違っていたらしい。それを十年くらい前に聞き取り調査したことがありました。

「戦争中は、日本人の若者の大半が兵隊にとられたので、兵隊にとられてない朝鮮からきた若い労働者の方が威勢がよくて、仕事をこなしてバンバン稼いでた。請負だから、やればやるだけ金になる。日本人の倍は稼いでた。ちょっとした金持ちになっていた。それで札束きって牛を農家から買って生で食べるんだわ。あれは驚いたな。生で食べるんだよ。だから終戦間際には干又川に牛の骨が散乱してた」

と証言していました。あのご老人たちは、今でも元気にしているだろうか?

 それはともかく、昭和15年に村上さんが所長になった時から普通の会社になったわけですから、小串鉱山より近代的なスタイルになったといえます。逆に言うと労働力確保の点から小串鉱山も、近代的にしないといけないわけで、戦後は小串鉱山も、近代的になっていったと思います。ただし、土地の古老の話では、小串鉱山は終戦までは請負制度でやっていたようで、働くだけ大儲けできる小串鉱山に朝鮮人が集中したと思われます。干又の老人は、吾妻鉱山に朝鮮人が行ってた話をしていませんから。

 まあ、そんなことは、どうでもいいとして、経営権が帝国硫黄にうつるさいに村上さんは、請負制度をやめて月給制度にかえるように進言します。しかし、それは却下されます。かわりに四割の給料アップし、始業・終業時間の厳守をさせることになった。

 そして吾妻鉱山が帝国硫黄に引き継がれると村上さんは、吾妻鉱山の所長に就任し、住宅・学校・映画館・生協・無料浴場・水道・医療設備といったインフラの充実をさせていき、吾妻鉱山を一大都市に作り上げていきます。嬬恋村の旧弊を刷新し、近代的な鉱山に変えていったわけです。そして最後に月刊の広報誌まで発行し、学校の広報誌の援助までした。あまりに福祉をやり過ぎるので、帝国硫黄の社長が度々おとずれて
「エスペランチストの君は、理想的すぎるんじゃないか?」
と言われてしまう。

(エスペランチストとは、エスペラント語を話す人のこと。ポーランド人のルドヴィコ・ザメンホフ(1859-1917)が、故郷の町でポーランド語、ロシア語、ドイツ語、イディッシュ語を話す人たちが、お互いに理解し合わず、いがみ合って暮らしていたのを見て、異文化の相互理解と共存のために、中立的な世界共通言語を作った)

 で、所長と社長は、二人で万座温泉までの登山道を歩き、そして温泉につかり、ビールを飲んで昼寝し、また、ブラブラ吾妻鉱山に帰って行ったそうです。昭和15年のことでした。のんびりした時代です。まだ道路は無く、登山道で吾妻鉱山まで登り、登山道で万座温泉に行った時代でした。荷物は、索道というスキーリフトみたいなもので運んでいました。

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 そういう僻地なので、困るのは病気にかかったときです。
 なので村上さんは、立派な診療所を作って医師を募集しました。
 嬬恋村で最初にレントゲンを導入したのも吾妻鉱山です。
 (つまり小串鉱山・石津鉱山より先だった)
 設備は都会の病院に負けていません。
 歯科医の先生には、週末の出張診療のお願いしています。

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(広報『吾妻鉱山』より借用)

 この歯科医の先生が、時々、万座温泉に遊びに行くのですが、万座温泉日進館に泊まると、なじみの仲居さんが、
「先生、新潟からきた女中さんが、盲腸で苦しんでます」
と駆け込んできました。

 しかし、歯科医に盲腸は切れない。
 けれど万座に医者がいるわけがない。
 歯科医の先生は困った。

 しかたなく診てみると熱は平熱で、お腹を雪で冷やしながらウンウンと唸っている。足を触ってみると冷たい。これは盲腸ではなく過労かもしれないと思った歯科医の先生は、雪の代わりに湯たんぽを二つ用意させ、腹と足を温めさせ、鎮痛剤を飲ませたら、すやすやと眠ってしまった。交通手段のない僻地で恐いのは、今も昔も病気なんですよね。新型コロナウイルスによって、小笠原諸島が、いまだに観光客を呼べないでいるのは、そういうことなのでしょう。


つづく。

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posted by マネージャー at 18:37| Comment(0) | テーマ別雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月21日

吾妻鉱山 嬬恋村の『軍艦島』

 吾妻鉱山(嬬恋牧場付近)とは、どんなところだったのか?
 嬬恋村の軍艦島とも言える吾妻鉱山の実態を、当時の広報誌から読み解いてみます。

 面白いなあ・・・と思ったのは、F・Hさんという主婦の投稿記事です。新婚さんらしきF・Hさんは、御主人と分かれて暮らしていたようです。もちろん御主人は、吾妻鉱山で働いています。どうやら単身赴任で働いているらしい。

 で、吾妻鉱山に夫婦向けの社宅が完成して、そこに夫婦で入居できると大喜び。けれど、嬬恋村の人たちは、寒くて大変だとか、不便だとか、不安を煽るような話ばかりします。で、だんだん不安になってきた。そして、いざ引っ越しをしてみると、吾妻鉱山の住民たちにモグラの巣のような所(地下通路)に連れて行かれます。
「あれ? やばいぞ?」
と思ったF・Hさんですが、その地下通路は、雪に備えて各家に通じる地下通路でした。当時は、除雪機などという便利なものがなかったので、豪雪の時期は地下通路で行き来していたんですね。そして、すぐに吹雪がやってきて、この地下通路の威力を知ることになります。

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 実は、この地下通路の話、教職を退職された郷土史家の唐沢先生から、小串鉱山の地下通路のことを聞いていたんですが、現場を調査しても分からなかった。商工会の小林さんも探したけれど分からなかったという。
「唐沢先生はボケたのかなあ?」
と思っていたんですが、どうやらそうではなかった。吾妻鉱山にあったということは、小串鉱山にも絶対にあったはず。豪雪の小串鉱山では、もっと大規模な地下通路があってもおかしくない。唐沢先生の話では、峠を越えずに須坂方面に抜けられたというが、今はもう見つからない。

 では、豪雪の時、吾妻鉱山の小学校・中学校では、どうだったのでしょうか? 先生はもちろんのこと、生徒・児童が率先して、学校を雪から掘り起こしたと書いてあります。掘り起こさないと学校に入れなかった。学校の雪かきは子供たちの仕事みたいですが、掘り起こしたとは、すごい表現です。

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(広報『吾妻鉱山』より借用)

 昭和31年4月8日。嬬恋村に住む下屋徳次先生が、転任で吾妻鉱山に引っ越してきました。翌9日に下屋先生は、小学校に向かおうと玄関に出ると、家の庭で遊んでいた各家庭の子供たちが、みんな
「先生、いってらっしゃい!」
と声を揃えて見送ってくれたと広報に書いています。昨日、ひっこしてきたばかりで、まだ生徒の顔も名前も知らなかった下屋先生は驚いたと言います。

 しかし、吾妻鉱山の子供たちは、みんな下屋先生のことを知っていた。狭い地域生で、すべての情報が筒抜けだった。むこう3軒両隣と言いますが、吾妻鉱山では、情報が全て筒抜けだったようで、吾妻鉱山の情報は、みんなに共有されていたということが、なんともほほえましい。この設定で、『嬬恋村の軍艦島』というドラマや映画を作ったら大ヒットすると思いますけれど。どうですかね?

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(広報『吾妻鉱山』より借用)

 ちなみに吾妻鉱山の小中学校には、そのへんの都会よりも教材が充実していることに転勤してきた教師たちは驚かされます。当時めずらしかったテレビや放送設備。昭和31年ですよ。高額すぎてテレビを買える人なんかどこにもいなかった時代。放送設備だってそうです。テープレコーダーなんか誰も持ってない時代なのに。

 そのうえ食堂・映画館・水道というインフラに転任してきた先生たちは、ほんとうにびっくり。昭和31年の嬬恋村に。どれだけ水道が普及していたことか。これもバックに吾妻鉱山の資金があったためでしょう。吾妻鉱山やPTAたちは、惜しみなく学校に援助しています。

 グラウンド(校庭)は、後に14600平米(だいたい120メートル四方の広さ)に拡張され、どの角度からでも100メートル直線コースがとれる広さになっています。やりようによっては400メートルトラックさえ作れる広さ。もちろん野球のバックネットもあります。これは現在の嬬恋村の小中学校より広大で豪華なグラウンドが、吾妻鉱山にはあった。

 もちろん吾妻鉱山が学校に援助する理由もあります。学校の施設を鉱山関係者(PTA)が借りて使うためです。吾妻鉱山では、毎年、大運動会を開いてますが、学校のグランドで行っています。だから吾妻鉱山の野球部も大活躍している。実業団チームとして、神宮球場まで、あと一歩のところまでいってますが、なにしろ豪雪地帯なので練習期間が短すぎるようです。それでも村内では無敵で、小串鉱山・石津鉱山・草津鉱山・嬬恋高校あたりを蹴散らしています。群馬県の産業別野球大会でも自衛隊あたりを破って優勝しています。

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(現在のこっている体育館)

 ただ、吾妻鉱山だけでなく、子供たちも教育資金の金策にはげんでいたようです。豚を飼って、その資金で生徒会の費用を作っている。なんと逞しいことなのだろうか? 今では考えられないことですが、教育資金の調達を子供たちにやらせていた。これは教育面からみても素晴らしいことだと思うのですが、今なら確実に問題がおきるだろうなあ。つくづく昭和という時代は、よい時代だったと思います。



つづく。

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2020年06月20日

吾妻鉱山 修学旅行が、日本橋三越だった理由

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(広報『吾妻鉱山』より借用)

 この写真は、昭和33年5月10日に発行された広報『吾妻鉱山』に掲載された写真で、「我が家の自家用車」というタイトルです。よくみると「◆◆ダイナマイト」と印刷されています。つまりダイナマイトの木箱に滑車のようなものをつけた手作り自動車です。

 若い人には、わからないでしょうけれど、昔は段ボール箱というものがなく、なんでも木箱に入れて輸送していました。なので、どの家庭でも木箱のミカン箱のストックがあって、それを分解して風呂の燃料にしていました。そして大半の風呂は、ミカン箱などの木箱を分解して作った、まきで沸かしていました。しかし、吾妻鉱山には無料の公衆浴場(銭湯)がありましたから、ダイナマイトの木箱は子供の自動車となったわけです。すごい自動車ですよね。

 ちなみに、この頃の自動車は、サスペンションが悪いのか? それとも道が舗装されてなかったためか、振動が激しかったようで、かなり乗りこごちがわるく、車のネジ(部品)もよく外れたようです。走行中のブレーキのネジが外れて制御不能になると、男たちが車から飛び降りて、人力で車を押し止めたという話が記事に載っていました。すごい話ですね。そういえば、草軽鉄道も、よく脱線したらしく、脱線すると御客さんと一緒に持ち上げて線路に戻したと、当時の北軽井沢駅の元駅長さんから聞きました。のんびりした時代ですね。

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(広報『吾妻鉱山』より借用)

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(広報『吾妻鉱山』より借用)
 
 話は変わりますが、私と同世代の友人に、父親が捕鯨船で働いていた人がいますが、その人のうちには、黒色火薬と印刷された木箱が山のようにおいてあったそうです。鯨をしとめるための銛を発射させる火薬が黒色火薬だったらしい。で、鯨漁から帰ってくると、その木箱を大量にもらってきて、風呂を沸かす、まきに使ったり、紹介した写真のように、手作りの子供の車に改造されたみたいなんですが、その人の自宅は、吾妻鉱山ではなく東京の早稲田にあったために、警察がやってきたと言います。東京では、そうなりますよね。吾妻鉱山では、なんの問題もなかったようなので、実に、のんびりしていたようです。

 次の写真を見てください。

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(広報『吾妻鉱山』より借用)

 吾妻鉱山の様子ですが、周りに木が全くありません。これが現在の紅葉台付近だとは、誰が信じられますか? 現在はうっそうとした森になっているので、とても信じられませんが、当時は、嬬恋牧場一帯は、はげ山だらけでした。吾妻鉱山の事業所・社員住宅・その他の施設を建設するためか? それとも暖房に使われたのか? 当時の写真をみると、あたり一面はげ山だらけです。

 で、これでも足りなくなったらしく、もっと万座のほうの原生林の伐採許可がおりた話が、この吾妻鉱山の広報に載っています。よく当時の厚生省(環境庁)が許したものです。もっとも、その何十年後には、表万座スキー場ができているわけですから、そっちの工事の方が、自然へのダメージが大きかったでしょうけれど。

 さて、こうまでして、吾妻鉱山(硫黄鉱山)が開発されたのには訳があります。どうしても親会社が硫黄を欲しかったのです。親会社。つまり東レは、硫黄が欲しかった。硫黄がないとナイロンが生産できなかった。なので東レは、吾妻鉱山に投資し、吾妻鉱山の中学生の修学旅行は、親子同伴で出発できるようにし、東レの子会社であり、傘下の「日本橋三越」に修学旅行の親子を招待し、そこで買い物三昧させたわけです。それについては、また後日、面白いエピソードを紹介します。


つづく。

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2020年06月19日

万座温泉に行ってきた その4 吾妻鉱山の謎

 今回、万座に行ってきて、最大の収穫は、万座自然情報館でやっている企画展が、『吾妻鉱山特集』だったことです。
 吾妻鉱山について解説します。

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 (万座自然情報館の展示から借用)

 この企画展で、長年の『謎』が解けました。
 やっと吾妻鉱山の歴史にふれることができた。
 私としては、涙ものでした。

 なぜか?

 あれは15年くらい前でしょうか? 宿屋をはじめて5年くらいたったころ、中高年の団体さんが泊まりに来ました。私は、星空を案内し、嬬恋村の歴史や文化について解説しましたが、みんないたく感動してくれました。で、去り際に、こんなことを言ったのです。

「実は、私たち嬬恋村の出身者なんです」
「ええええええええええええええええええええええええええ?」

 こりゃ、やっちまった。
 嬬恋生まれの団体様に、嬬恋村を語ってしまった。
 ああ、なんてこったい・・・と赤面し、落ち込んでいると、

「嬬恋村の出身と言っても、嬬恋村を全く知らないんです」
「え?」
「閉山した吾妻鉱山の者なんです」
「吾妻鉱山?」

 吾妻鉱山というのは、万座ハイウエイの嬬恋牧場(愛妻の鐘)から紅葉台あたりにあった硫黄鉱山で、昭和35年の最盛期には、292戸人口1318名をこえる鉱山都市が栄えていました。昭和2年には国内第4位の硫黄鉱山となり、閉ざされた吾妻鉱山の中に吾妻小学校・吾妻中学校があり、昭和37年には小学生171名、中学生70名も就学していました。山奥の学校ということで、教員がなかなか集まらず、定数を満たさなかったこともあったという。にもかかわらず、子供たちの成績は、群馬県下でもナンバーワンだったらしい。

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(広報『吾妻鉱山』より借用)

 しかし、硫黄が石油から作れるようになると、硫黄鉱山からの硫黄は価格的に太刀打ちできず、昭和40年代中頃に全国的の硫黄鉱山は閉山の追い込まれた。吾妻鉱山も昭和46年5月31日閉山。そして廃墟となってしまった。

 吾妻鉱山の子供たちは、全国に散り散りとなってしまったわけですが、その子供たちが中高年となって、何十年ぶりに嬬恋村で同窓会を開く・・・。といっても、吾妻鉱山は廃墟となって泊まれない。仕方が無いので、リーズナブルな宿をさがしているうちに、うちの宿をみつけ
北軽井沢ブルーベリーYGHに泊まることになった。で、北軽井沢ブルーベリーYGHに泊まってみて
「嬬恋村って、こんなところだったんですね」
と感動したわけです。

 つまり彼らは、嬬恋村を知らない。
 普段は狭い鉱山地区から出ることが無かったから、
 そもそも嬬恋村をよく知らない。
 吾妻鉱山はそれだけ辺鄙なところだった。

 もちろん、昔から万座温泉はあったけれど、嬬恋村ではなく、長野県の須坂から万座温泉に通っていた。万座は嬬恋村よりも、須坂から行くところだった。現に昭和28年に(1953)須坂から万座間の定期バスが運行開始している。万座は長野県から行くところで、嬬恋村から行くところではなかった。

 なので、吾妻鉱山の子供たちは、嬬恋村をよく知らなかった。吾妻鉱山だけで完結している世界なので、吾妻鉱山が彼らの世界だった。だから修学旅行ともなると一大イベントで、親も一緒についていったし、見送りも盛大なものだったらしい。親が一緒に修学旅行にいく学校なんて、全国でも吾妻鉱山くらいしかないのではないか?


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 (万座自然情報館の展示から借用)


 で、そんな御客様を何組か受け入れているうちに、吾妻鉱山に興味をもち、自分なりに吾妻鉱山のことを調べたんですが、資料はほとんど残って無く調べようが無かったのですが、万座自然情報館が、吾妻鉱山の企画展を行ってくれて、長年の疑問点が解けました。そうだったのか!そういうことだったのか!と・・・・。

 これを最初から知っていれば、子供時代を吾妻鉱山で暮らした人たちに、もっと親身になって接客できたのになあ・・・と、残念に思えてなりません。宿屋として反省しきりです。

 嬬恋村の皆さん、吾妻鉱山に興味のある皆さん、今なら、万座自然情報館で吾妻鉱山のことを調べられます。こんなチャンスは、もうないかもしれない。ぜひ万座自然情報館に足を伸ばしてください! 嬬恋村にふらりと、訪れる元吾妻鉱山関係者と出会ったときに困らないためにもです。

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(万座自然情報館の展示から借用)
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(広報『吾妻鉱山』より借用)
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(広報『吾妻鉱山』より借用)
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(広報『吾妻鉱山』より借用)
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(広報『吾妻鉱山』より借用)

 それにしても、これらの写真をみると、胸が痛くなるのは、
 良くも悪くも昭和三十年代に生まれた者のサガなのかな。


つづく。

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posted by マネージャー at 00:53| Comment(0) | テーマ別雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月17日

万座温泉に行ってきた その3

 早朝散歩の後には朝食です。夕食もそうでしたが朝食も大変美味しく頂きました。 山芋御飯が美味しかったです。そういえば万座温泉聚楽でもそうでしたか、万座のどのホテル・旅館も味が薄めです。温泉ホテルのお客様が、ご高齢だったりするので、味が薄くなってるんだと思われますが、それが味をよくしているんでしょうね。

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 ちなみに朝食も夕食もバイキングです。

 新型コロナウイルスで、バイキングを敬遠される方も多いと思いますが 、その辺は完璧にガードされていました。全ての料理に蓋をしてありましたし、マスクの着用なしには食堂には入れません。 もちろん食堂に入る前に消毒をした上に、 使い捨て手袋の着用を義務付けられます。座席も空間が開いていますし、換気も十分になされています。

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 実は、日本ユースホステル協会でも、同じような指導が各地のユースホステルに出されています。 こんなに厳しいんでは、お客様から クレームが出るんではないかというぐらいに厳しい。果たしてここまでやる必要があるんだろうかと、私どもは思っていましたが、 群馬県が打ち出した、お客様に対して5000円のキャッシュバックを行う「泊まって!応援キャンペーン」に参加するには、日進館がやっているシステムと同じような感染対策をしなければ、「泊まって!応援キャンペーン」に参加できません。

 5000円のキャッシュバックを行う条件として、かなり厳しめの感染対策を行うことになっています。 私もかなり悩んだんですが、 「泊まって!応援キャンペーン」の感染対策と、日本ユースホステル協会が指導する感染対策が、ほぼ同じであることを考えると、もうこれがグローバルスタンダードみたいなもんだろうということで諦めました。 なので、うちの宿も先週から、かなり厳しめの感染対策を行っています。

 使い捨て手袋はもちろんのこと、おたまやしゃもじなんかも20個ぐらい用意して、1回でも使用した後は、 消毒にまわしてしまうとか、使い捨て手袋でないと、ご飯などをよそえないことにしています。客室も、ウイルス除去の空気清浄機はもちろんのこと 、オゾン発生器による室内殺菌も行なっています。壁紙も、9月以降には抗ウイルス壁紙に張り替えることを検討しています。食堂の換気扇の増設工事も予定しています。お金がかかるので憂鬱です。

 話がそれました。
 食後に、朝風呂。
 これがすごくいい。

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 万座温泉が、日本一の温泉ではないかと思い始めたのは、 癌にかかって余命間もない、とあるユースホステルのマネージャーさんが、万座温泉で回復したという話を聞いてからです。これは秘密なのだそうですが、そのマネージャーさんの本業は、某国立大学の医学部の先生だったらしい。その先生が、万座がいいらしいという話を、その業界から色々聞いていて、自分も試したとのこと。その話を、とある万座温泉の◆◆旅館で一緒に温泉に浸かっていた人に話したら、そのおじいちゃんも、
「実は私もステージ4なんだよ」
と言って、余命1年が、余命5年になってるんだよねと、ケラケラと笑っていたのです。万座温泉にいくたびに、そういう人たちにたくさん出会いました。 今は、 ふふはり亭というペンションのオーナーになっている私の友人も、 万座温泉に連れて行ったら、手首足首が痒くなった。彼はその時、農薬を撒いてる仕事をしていたので、その部分だけが痒くなった。そんな不思議な話が、万座温泉にはたくさんありました。

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 招待券が当たった瞬間! さすがに嬉しい! うちの宿でもやろうかな?
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 チェックイン後には、芳ヶ平湿原を散策するつもりで、 渋峠に向かいました。

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 けれど、ルート上に大量の残雪があったために断念です。
 仕方がないので、 山田峠・熊四郎岩・湯畑をハイキングしました。
 まず山田峠!

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 そして熊四郎岩へ!

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 素晴らしい天気に、素晴らしい景色。
 やはり万座はいいですね。
 でも、芳ヶ平湿原・破風岳に行けなかったのは残念!
 

つづく。

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posted by マネージャー at 23:37| Comment(0) | 嬬恋村 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月16日

万座温泉に行ってきた その2

 「泊まって!応援キャンペーン」を利用して万座温泉ホテル日進館に泊まってきたのですが、宿の人に万座温泉の裏話を色々聞かせてもらいました。 おかげで色々な謎が解けました。昔は、万座温泉の源泉・湯畑の近くに日進館の施設があって、そこで色々な温泉に入ることができたんですが、それがどういうわけか取り壊されてしまった 。反対運動なんかもあったんですが、結局壊されてしまった。どうしてあんな素晴らしい施設を壊されなければいけなかったかどうしても不思議だったんですが、その理由が、やっとわかりました。

 万座周辺は国立公園なので、色々な規制が厳しかった。ホテルを増設したくてもできなかったんです。増設するためには、古い建物を壊すしかなかった。なので、泣く泣く古い建物を壊して、新しいホテルを作った。そうしないと設備が老朽化して競争に勝ち残れなかった。ただ、湯畑の近くに一箇所だけ、温泉施設が残っていた。残っていたんですが、 それも数年前に土砂崩れで壊れてしまった。なので、これ幸いとまた 新しいホテルを増設することができたらしい。

 万座のような国立公園は、どうしても行政の規制が厳しいですから、 勝手に建物を建てることができない。 土砂崩れか何かで施設が破壊されないと、 新築の建物が建てられない。

「それは大変ですね」
「そうとも限りません」
「どうしてですか」
「バブルのときに銀行がやたらと金を貸したがったんですが、規制が厳しくて簡単に箱物を建築できなかったんです。だからバンクーバーとかの外国に支店でも出そうかとか、なんだかんだとぐずぐずしているうちに、バブルが崩壊してしまった」
「それはラッキーでしたね」
「助かりました」
「国立公園の規制のおかげで、助かったようなものです」

 正直言って、万座温泉の最大の財産は、温泉です。 ここの温泉は、日本一だと個人的には思っています。これは私が思っているだけではなくて、嬬恋村の人たちは大抵そう思ってる。草津温泉より、万座温泉の方が上だと思っている人が多い。だから、余計な施設なんかいらないです。そういう意味で、国立公園の規制が、この温泉を守ることができたことは喜ばしいことでしょう。

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 台風19号によって破風岳方面は通行止めが続いている。

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 ところで、この日進館では、早朝散歩というイベントがあります。もし泊まるのであれば、絶対に参加するべきでしょう。案内人は、万座について非常に詳しい人です。質問すれば、どんどん出てくる。万座温泉の歴史から、自然についてとか、環境省とのやりとりとか、 何でも出てくる。

「このルートは、最近できたルートです。以前は大変な笹藪で、通れたものではなかったんですが、予算がついたんでしょうね、笹藪を伐採してくれたようです」
「自分達で伐採することはできないんですか?」
「国立公園ですから、それはできないんです」
「でも国家公務員だから、2年ぐらいで交代するんじゃないですか? 人によってその辺、おおらかだったり厳しかったりするんですか?」
「そうなんです。人によって随分違います」
「そうなると・・・・」

 こんな話で、随分盛り上がりました。

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「この辺の植生の変化は、あるんですか?」
「ありますねえ。昔は、高山植物と言うか、この辺独自の植生が見られたんですけれど、最近は下界と同じような植生になりつつあります」
「温暖化のせいですかね」
「だと思います。万座も昔と違って、随分暑くなってきました」
「ということは・・・・」

 こんな話でも盛り上がりました。早朝散歩ツアーでは、質問すればするほど面白い答えが返ってきます。ガイドさんは時々、 ねまがり竹のたけのこをとって私たちに食べさせて・・・いや、食べたら美味しいですよと・・・・教えてくれます。

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「万座温泉には、いくつの源泉があるんですか?」
「正確には分かりませんが、いくつかあるんでしょうね」
「と言うと?」
「この辺は、3メートルも掘ると、どこからでも温泉が湧き出てくるんです」
「ええええええええええ? それじゃあ堀り放題ですか」
「いえいえ規制がありますから」
「あーなるほど・・・・。あれ? それじゃ水道は?」
「それがですね・・・」

 こんな話でも盛り上がりました。
 話がつきませんのでこの辺で終わります。

 うちの宿でもそうなんですが、宿屋の人とお話をする機会があるとしたら、絶対に話すべきですね。でも普通は、お話する機会がなかなか持てない。宿屋は忙しいですから。けれど「早朝散歩ツアー」とか「星空観察会」といったイベントがあったら絶対に参加するべきですね。そしていろんな質問をするべきです。お客さんの方から、何らかのアクションがあれば、 面白い話がいっぱい聞けるはずです。うちの宿にも「星空観察会」などをやっていますが、 そういうチャンスがあったら逃すべきではないと思います。面白い話がいっぱい聞けると思いますよ。

 

つづく。

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posted by マネージャー at 23:35| Comment(0) | 嬬恋村 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする