2018年03月25日

息子を連れて佐渡島へ 16 沢根団子・佐渡乳業・柿酒

 高千を出発後、沢根団子を買いに行きました。私は、子供の頃、沢根団子が大好きでした。沢根団子というのは、江戸時代の佐渡島の沢根という港町で、売られて大変好評になり、200年以上、佐渡島で人気が衰えなかった団子です。小さな団子を氷水の中に入れて食べるのが沢根団子。

http://shimaya-sawanedango.co.jp/

 2年前に佐渡のスーパーで買って食べた時は、私の知っている沢根団子ではなかったので、今回は、本家製造元に買い出しにきてみたら、しまやと池田屋の二店舗があって、どっちが本家か分からなくなってしまった。しまやは、元祖と書いてあるし、池田屋は本家と書いてある。いったい、どっちが本物なのか? 仕方が無いので、両方を買って食べたわけですが、両方とも冷凍物で、私の知ってる沢根団子ではありませんでした。

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 私が子供の頃に食べた沢根団子は、もっと小粒で薄皮でした。そして団子の中の餡子は、水ようかんみたいな感じでした。容器の底が薄い板状になっていて、それに団子が張り付いていて、上手にとらないと餡子が漏れてしまうしろものでした。団子の大きさも小さくて、今の沢根団子の半分も無かったと思います。それを楊枝でつついて食べるんですが、どうしても団子が薄板にひっついてとれなかった覚えがあります。それを何とか取り出して、氷水の中に浮かべて食べたものです。

 今の沢根団子は、大きくて皮が厚いですね。あと機械で作っているのか製品が均一です。容器もプラスチックになっているし。昔の木と紙の容器が懐かしいです。昔の小さな沢根団子は、もう食べられなくなったのですね。ああ・・・残念。

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 気をとりなおして、佐渡乳業のミルクスポットに行きました。実は、佐渡乳業に外海府ユースホステルの息子さんが働いているらしいです。もし佐渡乳業に矢部さんという人がいたら、おそらく外海府ユースホステルの息子さんです。

 この佐渡乳業は、私の実家から徒歩3分の所にあります。なので私の子供の頃の遊び場だったんですが、その頃は小さな会社でした。それが今や大きな会社に成長し、ここの製品である佐渡バターは、軽井沢の高級レストランで使われるほどの高級ブランドになっています。佐渡バターといえば、その世界では有名です。もちろん私も仕入れました。

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 あと『柿愛好(かきあいす)』も珍品です。『柿酒』も『柿ワイン』も美味しい。もちろんリキュールでは無く、どちらも柿を使った醸造酒です。特に柿酒は、佐渡特産の「おけさ柿」を熟成醸造した日本で初めての柿酒で、飲みやすいお酒です。

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 佐渡金井のAコープ・海府屋さんのコメコ焼(米粉を使ったお好み焼き)・米粉クレープも忘れてはならないし、佐渡金井のAコープの海鮮おつまみセットもリーズナブルでいい。こいつを買って、佐渡の地酒をひっかけたら最高ですよ。

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 佐渡猿八のポッポのパンも美味しいですね。
 もちろん中堀のタレカツ丼も忘れてはなりません。

中堀のタレカツ丼
https://tabelog.com/niigata/A1501/A150103/15001094/

佐渡猿八のポッポのパン
https://sado-biyori.com/spot/detail/sb0037/

 他にも紹介したいものがたくさんありますが、きりがないのでやめときます。



つづく。

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2018年03月22日

息子を連れて佐渡島へ 15 高千・不時着した英国大使館の飛行機

 外海府(岩谷口)から内海府(虫崎)とまわり、そして相川に引き返した私たちは、高千というところで御飯を食べることにしました。ドンテン山が荒廃している謎を解明したいのと、終戦直後に英国大使館の飛行機不時着して、その飛行機を高千村民が、人力で滑走路を作って帰してあげた場所を確認したかったからです。

 まず、高千村ですが、岩谷口の外海府ユースホステルと、尖閣湾の佐渡ベルメールユースホステルの中間地点にあります。ここは外海府でも人口の多いところで、すこしばかり開けています。あと大昔から牛を放し飼いし、それをドンテン山に放牧することで有名なところです。もちろん牛市場があります。下の写真がそうです。

 このあたりでは、その昔、どの家でも二・三頭の牛を飼っていました。外海府では、相川の貧しい家から労働力としての養子をもらって働かせたりしましたが、そういう子供たちにも子牛を与えました。牛は、冬の間は牛舎で飼いますが、春になると放し飼いにします。そうして大きくなると、それを市場で売り小銭を得ます。養子たちの牛が売れれば、その金は養子たちのものになりますから、養子たちは、決して奴隷のような待遇では無く、そこそこの現金を牛で稼いでおり、小遣が無くても少しも困らなかったといいます。これは、次男坊以下の厄介者でも、牛で小遣い稼ぎをしていたそうです。それが可能だった理由は、千年にわたってドンテン山などに放牧する文化があったからです。

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高千の牛市場
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 外海府の牛は、農耕に使われることもなく、牛乳を搾り取られることもなく、ただひたすらに放し飼いさせて大きくし、それを売り飛ばして儲けるだけの存在でした。その存在のために、ドンテン山の美しいシバ地が千年にわたって守られてきたのですが、それが今や崩壊しつつあります。

詳しくは下記サイトを参照
http://kaze3.seesaa.net/article/456611560.html

 いったい、どうしてなのか?
 どうして放牧をやめてしまったのか?

 高千村に知り合いの無い私は、どうやってヒアリングしようかと困っていたら、ちょうどJA佐渡農業協同組合高千出張所が、何かのイベントで豚汁の振る舞いをしていたので、地元民にまざって豚汁を頂くことにしました。そこで七十歳すぎの老婆と知り合い話を聞くと、牛を飼っているといいます。やはり放牧はしてないようです。

「どうして牛の放牧をやめたんですか?」
「ある場所が危険で、そこで牛が怪我したり死んでしまうんだよ」
「危険?」
「そこを行政がなんとかすれば、放牧してもいいんだけれど」

 こんな単純な理由で千年続いた放牧が無くなってしまったとは、本当なら馬鹿馬鹿しいにもほどがあります。行政が予算をつければいいことだからです。早くしないと、ドンテン山のシバ地は壊滅しますよ。はやいところ何とかしてください。もう時間がありませんから。もし、予算がつかないなら、行政の方で牛を飼って放牧したらどうですか? 売れれば利益が出るわけですから。

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 食後、高千村の海岸を散策しました。
 このあたりに英国空軍のダグラスDC−3が不時着したと思われます。
 なるほど、広く長い海岸沿いなので、DC−3なら不時着できそうな感じです。

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 終戦から五か月後の1946年1月14日。
 佐渡島の外海府・高千村の海岸に飛行機が不時着しました。

 不時着した英軍輸送機は、要人専用機で、
 上海の英国総領事が東京での連合国会議に出席するために乗っていました。

 全長二十メートル、
 両翼三十メートル、
 重さ六トンもあります。

 これが、よりによって冬の日本海。それも佐渡島の奥地である外海府に不時着します。僻地も僻地の外海府。荒波激しい冬の日本海にです。佐渡島でも人を寄せ付けない僻地にです。下の写真のような隧道を通らないと、たどり着けないような僻地にです。

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 しかも、その飛行機は上海総領事とその秘書を乗せて東京に向かう途中でした。

 緊急着陸したイギリス空軍のDC−3ですが、村人たちは、彼らが無事に帰れるように離陸に必要な滑走路建設をし、海岸を地ならしして石を敷き詰めました。真冬の外海府の海岸でです。真冬の日本海。しかも佐渡島・外海府の気候を知ってるものなら「正気か?」てなもんです。その季節に人力で滑走路を作ったのです。ありえない。絶対にありえない。

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 この実話は、映画化されていますが、残念ながら出来はいまいちです。というか佐渡島民を馬鹿にしてないか?という内容に私は思えました。下手なフィクションを入れず、ドキュメンタリーにした方が、よほど感動できるのになあというのが、私の個人的な感想です。

 嘘っぽいドラマなんか必要なかったのに。
 勧善懲悪の筋書きなんかいらないのに。
 予定調和の感動なんかいらないのに。
 真冬の外海府の海岸の作業だけでドラマになるのに。

 イギリス人は、高千村のが用意した旅館に土足であがってくつろぎ、それを黙々と這いつくばって床掃除する女子供の姿をどうして映画で見せなかったんだろう? どうして事実を淡々と見せずに、安っぽいドラマにしたんだろう?

 真冬の日本海ですよ? 分かりますよね、真冬の日本海の荒波がどういうものなのか? 真冬の日本海の海岸に、しかも佐渡島の外海府、つまり佐渡島でもかなり僻地である海岸で、老人たちが人力で滑走路を作っただけでは駄目だったんですかね? 

 そもそも1946年1月14日といえば、日本兵は帰還してません。
 島には老人と女子供しかいない。
 なのに真冬の日本海に、若者がいない中で
 たったの四十日で、6トンもある飛行機を飛ばす滑走路を
 老人・女性・子供たちが手作業で作ってしまった。
 英国空軍のダグラスDC-3を無事、帰してあげた。

 米軍基地から派遣されていたアメリカ人整備員たちが驚いたのなんの。整備員は、佐渡島民の親切にカルチャーショックを受けて、アメリカに帰国したあとも息子さんに何度も「佐渡で世話になった。ぜひ一度佐渡に行きたい」と言いながら亡くなったんです。

 しかし、アメリカ人整備員の息子さんが佐渡島にやってきて、この美談の礼を言ったんですね。これがきっかけで、この事件が明るみにでて、映画化されるわけですが、なんと佐渡島民は、米人整備員の息子さんが、やってくるまで、この事件を大っぴらにしてなかった。

 誰にもいわなかった。

 だから米人整備員の息子さんが、佐渡島に来なければ、
 詳しく歴史に残らなかったんです。
 結局、バレてしまって、映画化の話になり、
 嫌がる当事者にお願いして資料を集めて、
 かろうじて歴史に残ったんです。
 凄い話です。

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映画『飛べ!ダコタ』



つづく。

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2018年03月21日

息子を連れて佐渡島へ 14 登山家中村謙の虫崎から岩谷口までのコース

息子を連れて佐渡島へ 14 登山家中村謙の虫崎から岩谷口までのコース

 いまじゃ百名山の深田久弥・花の百名山の田中澄江を知らぬ登山家はいませんなが、昭和40年頃は、圧倒的に中村謙(加茂鹿之助)でした。彼こそは、全国津々浦々まで登山道を調査発表した開拓者です。登山ルートをひたすら調べまくって『山と渓谷』『岳人』『新ハイキング』『ハイカー』『山と高原』『榾木』『日本山岳会会報』などの登山冊子に昭和十年頃から発表しまくった人で、いわゆる日本の大衆登山を牽引し続けた人です。

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 中村謙氏

 彼は昭和九年に出した『東京付近の山』をはじめとして、毎年何冊も登山ガイドを出し続けます。途中、病気で右手が使えなくなるという事態になりますが、左手で渾身の力を振り絞って書いています。最終作ともいえる昭和四十四年の『ふるさとの山』四百二十二ページを出したときは、七十二歳でした。これ以降の著作がないのは、足を痛めて外出ができなくなったためです。また、ヤマケイの『登山地図帳』・昭文社の『エリアマップ』『山と高原地図シリーズ』などの登山マップなどの制作にもかかわっています。こちらも昭和四十四年まで作り続けています。

 さて、中村謙渾身の大作である『山小屋の旅(昭和四十一年)・ベスト200コース』には、佐渡島が5コースも大きく取り上げられています。

@金北山から金剛山
A虫崎から外海府
B沢崎めぐり
C岩首から水津
D妙宣寺から真野宮

このうち登山道は@だけで、ABCDは、海岸歩きです。今でこそ道路がありますが、昭和四十一年頃は、道路が無く、岩から岩を飛び乗るように海岸を歩くしかなかったと言います。そういう場所の地元民の交通手段は、船でした。もちろん海が荒れれば、船は使えませんから山道を使います。なので昔の佐渡は、山道(登山道)がよく整備されてて、それが佐渡の里山の特徴であったわけです。

 さらにいうと、A虫崎から外海府が、ものすごい人気のコースでした。で、このコース沿いに昭和40年10月に一軒のユースホステルがオープンしました。外海府ユースホステルです。もちろん若者たちが押し寄せました。その中の旅人に新潟市からやってきた一人の美しい女性がいました。それが今の外海府ユースホステルのマネージャーです。

 昭和40年頃までは、内海府・虫崎から、外海府・岩谷口のコースは、ろくに道路がなく、海岸を岩づたいに歩いたり、急な岸壁をよじ登ったりの、一泊二日のコースでした。佐渡一週道路が完成している現在なら車で2時間もあれば、回れるコースですが、当時は、北アルプスに登るような猛者たちが、
「大野亀の花畑を見たい」
「外海府の岸壁を見たい」
という一心で、このコースにチャレンジしていました。

 内海府の虫崎が、出発点だったのは、ここまでは路線バスがあったからです。その虫崎とは、どんな所かというと、こんな所です。
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https://camp-fire.jp/updates/view/30998 より借用

この写真は、いつのものかわかりませんが、私が保育所か何かの遠足で、この村を通った記憶があります。バスが、崖ギリギリの砂利道を走っていました。この写真は、その道路さえも写っていませんから、かなり前のものでしょうけれど、少なくとも昭和40年頃までは、こんな感じだったと思います。虫崎のある内海府地方は、波が静かなために家の下に船小屋があるつくりになっていたんです。そして村人は漁業で生計をたてていました。その当時は、子供たちも多くて村にも活気がありました。

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https://camp-fire.jp/updates/view/30998 より借用

 虫崎の隣村で、宮本常一は、こんな話を聞いています。

「北小浦の宿で大敷の話を聞いた。昭和33年には水あげが1億円もあったそうである。そこで利益の2割を組合員で分けたのだが、一人当たり25万円もあった。また金が使い切れないので関西旅行した。一晩に1万円も取られる宿に泊まったそうだと、大変景気の良い話である(私の日本地図・宮本常一より)」

 ちなみに昭和33年の大卒初任給は、1万3500円です。その時代に海府のある漁村では、一晩に1万円も取られる宿に泊まって豪遊したわけですから、どれだけ儲かったのか? 限界集落化しつつある今の海府地方を考えると、想像もできません。

 もちろん現在は、虫崎といえども限界集落になってしまっています。
 今では、住民が、たったの17人。
 そのうち14人が老人です。
 限界集落もいいところです。
 しかも観光地でさえ無く、ガイドブックにも載ってない集落です。

 そこに大学生の力を活かした集落活性化事業をはじめたのが、新潟大学の長尾ゼミの若者たちでした。彼らは、たったの17人の住民。そのうち14人が老人という限界集落に100人を集めた盆踊りを企画しました。

http://www.pref.niigata.lg.jp/HTML_Article/126/692/0922_4_mushizaki_sinndaikeizai,0.pdf

 もちろん金は無い。そこで最低限の資金を、クラウドファンディングという形で56万円の資金を集めました。それが

https://camp-fire.jp/updates/view/30998

のサイトになります。

クラウドファンディングは感動の連続だったようで、内海府小学校虫崎分校に勤めていた人もいたりで、そういう人たちが何十年ぶりに虫崎に訪れるなど、知人・縁者を虫崎につなぐことになりました。クラウドファンディングは、最終的に達成率112%という成功を収め、結果として虫崎を大きく宣伝することになりました。

 2017年(つまり昨年)の8月13日、盆踊り本番では、果たして来場者数は100名に達するのだろうかと心配しましたが、163名を集めて大盛況。受付にカウントしない幼児も含めると200名以上のが集ったといいます。

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https://camp-fire.jp/updates/view/30998 より借用

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https://camp-fire.jp/updates/view/30998 より借用

 この成功の中には、全国の限界集落を活性化させるヒントがある気がします。17人の住民中、14人が老人という小さな集落も、やり方によっては何とかなるかもしれない。外海府ユースホステルのある岩谷口も、似たような限界集落なのですが、そこだって、やりようによれば、何とかなるかもしれない。虫崎の事例のように、私たちは、もっと若者のパワーを信じてよいのではないかと感じました。

 これは、滅びつつあるユースホステル業界にも言えるし、
 過疎地になりつつある北軽井沢や嬬恋村にもいえることです。

 とにかく、虫崎の皆さん、新潟大学のみなさん、地域支援戦隊の皆さん、虫崎を愛する佐渡の皆さん、お疲れ様でした。今後の虫崎に期待しています。虫崎を紹介した昭和の登山家・中村謙氏が生きていたら、この虫崎の変わりようをどう思うでしょうか? 宮本常一なら、どう感じたでしょうか?


つづく。

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2018年03月20日

息子を連れて佐渡島へ 13 願・犀の川原・北軽井沢と佐渡島の共通点

 外海府ユースホステルのある岩谷口を出発した私たちは、真更川・北鵜島・願と向かいました。佐渡島の最北端にある『願(ねがい)』という名前の村へです。まず海府大橋を通ります。この大橋の下に、公式には佐渡最大の大滝(50メートルちかい)、大ザレの滝がありますが、それを観光客がみることはできません。この橋を降りることができないからです。

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 しかし、私は何回も降りています。降り方は、今は亡き外海府ユースホステルの矢部のおじいちゃんに聞きました。あえて、ここには公表しません。降りると、巨大な大滝があるのに加えて、おくに巨大洞窟がありますが、それも佐渡島のどの資料にも載っていません。

 次に向かったのが大野亀。

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 この大野亀。昔は登れたんですが、いまは禁止されています。頂上には、昔の灯台らしきものがあります。このへんは佐渡でも最も美しい場所で、北海道の礼文島に似ています。春にはカンゾウが咲き乱れ、人々でごったがえします。佐渡一週道路ができる前までは、秘境として、全国の登山家が訪れたルートでもあります。登山家・中村謙の登山ガイド『山小屋の旅』にも詳しく紹介されており、そのコースの魅力を絶賛しています。願村は、ここからすぐそばです。

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 これが願村です。
 松浦武四郎によれば、ここにも砲台があったようです。

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 願と書いて『ねがい』と読みます。全国から、いろんなねがいをもった人々が、この村の石動神社に訪れて願い事をしました。

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 この村に何を願う人々が多かったのでしょうか?
 その願をこれから訪ねてみます。

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 下の写真は、賽の河原です。
 ここに人々の願いがあります。

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 松浦武四郎の佐渡日誌によれば、「岩が多く並んでいる浜に、小石がたくさん積まれている。土地の人によれば、夕方にそれを崩しておいても次の朝に必ず元通りになっている。そばに洞窟があり、地蔵が安置されている」とあります。写真のとおり、無数の地蔵が安置されています。

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 内田康夫の浅見光彦を主人公とした推理小説の最高傑作『佐渡伝説殺人事件』は、ここを舞台としていますが、内田康夫は軽井沢の住人なんです。実は、この願村は、軽井沢&北軽井沢と佐渡島をつなげる重要な場所でもあります。

 一つは内田康夫の浅見光彦シリーズ。
 もう一つは、満州引き揚げ者の開拓地としての共通点です。

 軽井沢も北軽井沢も嬬恋村も、満州から多くの引き揚げ者を受け入れていますが、佐渡島の願村も同じでした。願村には、山の方に二重平という大地があるのですが、そこに満州からの引き揚げ者の入植者が、かなりの数入りました。入植者たちは非常に苦労して開墾を行ないましたが、このあたりは佐渡島でも指折りの自然が厳しいところだったので、餓えと寒さと山ヒルなどの天敵に苦しみました。もちろん子供たちも大勢居て餓えながら開墾を手伝いました。

 あまりに酷い状況に願村の人たちは同情して魚などを分け与え、外海府村も掘っ立て小屋を建てて、海府小学校・中学校の分校を作りました。しかし開墾生活で食べてはいけず、次々と出稼ぎにでるようになり、高度経済成長時代となると、食料があまりはじめ、国は離農する人に、離農資金を出すようになり、次々と離農者がでて、最終的には一軒の家も無くなってしまいました。

 私は、25年前に、大佐渡山脈縦走のついでに、この二重平の跡地を探検したことがあったのですが、かっての開拓地は森の中に沈んでしまい、道路も無くなっており、人の気配さえありませんでした。北軽井沢・軽井沢の入植地とは大違いです。ただし、二重平の開拓者たちは、その後、東京などに上京し、それぞれ立派に成功したと聞いています。

 犀の川原からさらに進むと、二つ亀です。
 このあたりは、縄文遺跡がたくさん出土しています。
 二重平にもです。
 二重平の開拓で、縄文土器が出土したのです。

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 二つ亀は、干潮ならわたれるのですが、満潮のためにわたれませんでした。どのガイドブックにも、郷土資料にも、インターネットにも載っていませんか、二つ亀の反対側には、非常に面白いものがあるのに、それを画面で紹介できないのが残念です。現在の佐渡島の情報は、観光ガイドにしても、インターネットにしても、非常に浅いものばかりです。北軽井沢に住んでる私にしてみれば、
「何をやってるんだ?」
という感じで歯がゆいばかりですが、外海府ユースホステルの矢部のおじいちゃんのように、わざと情報を隠しているケースもあるので、やはり訳があるんでしょうね。ディープな情報を知りたい人は、島民に信頼されないと、教えてくれないかもしれません。しかし、情報を隠し持つあまり、その人が他界してしまったら、どうするんだろう?と私などは、思ってしまいますが、そのへんは大丈夫なんでしょうか?


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2018年03月19日

息子を連れて佐渡島へ 12 岩谷山洞・海鳴山・竜眼の池の伝説

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 翌朝も、外海府ユースホステルのマネージャーさんのお話を伺いました。ユースホステルの会員減についてや、ユースホステルの未来についてや、御客様の変化などです。やはり会員さんは減っていて、大半が一般客だそうです。といっても御客様が減ってるわけではなく、一般の御客様が増えただけのようです。源兵衛さんが店じまいしてからは、そちらのリピーターさんも外海府ユースホステルに合流したようです。やはりリピーターさんが多く、佐渡の外海府にしかこないという御客様が多いようです。

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 まあ、そうでしょう。立地と言い、施設レベル・食事レベルと言い、秘境さといい、ハマる人には、ハマります。鮭みたいなイワナが釣れるところなんて、この岩谷口ぐらいでしょうし、光明寺・山居池までの旧参拝道や、笠取峠の旧道歩きも魅力だし、観光ガイドに載ってない(つまりネットや本や郷土資料にも掲載されてない)滝や洞窟や石仏がワンサカありますからね。佐渡島民も知らない、佐渡博士も知らないところがワンサカある。それを源兵衛の御主人や、今は亡き外海府ユースホステルのお爺ちゃんに私は教わったわけですが、それだって私が全部知ってるわけではない。私の知ってるところなんて、1000分の1くらいでしょうけれど、それでも、その1000分の1だって、ネットにも、本にも、郷土資料にもないんですから。

 ただ残念なことは、それを知ってる生き証人たちが、次々と他界している現実です。これだけは残念でならない。今回は、四歳の幼児連れなので仕方ないけれど、息子が大きくなったら近いうちにもう一度、外海府ユースホステルに来たいと思いました。

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 その後、外海府ユースホステルのマネージャーに御挨拶して、岩谷山洞・岩谷観音・岩谷山洞窟に向かいました。といっても外海府ユースホステルのすぐそばで、ユースホステルから百メートルのところです。なにしろ掃除などかかさずに管理しているのが、外海府ユースホステルのマネージャーさんですから。もちろんマネージャーさんの御先祖様のお墓もそこにあります。墓も大小ありますが、昔の大きい立派な墓は、その頃、相川金山に物資を運んで大儲けした御先祖様だとか。

 民俗学者の宮本常一によると、佐渡・外海府の墓の特徴として火葬にしていることらしい。墓も海に突き出た岬に集中して固まっているだそうです。岩谷口も例外でなく、岩谷観音付近に墓が集中しています。昭和34年に宮本常一が岩谷口に訪れたとき、岩谷山洞には古くからの焼き場があったらしく「ここで多くの人が焼かれたことであろう」と言っています。

 一般的に言って土葬の地方は墓が集中することはありません。死体が腐って墓石が倒れてくるからです。しかし外海府地方は、薪炭に困らない地域なので墓を集中させるためにも火葬の方が都合がかったのでしょう。

 ちなみに岩谷山洞窟の天井には「南無阿弥陀仏」が書かれており、弘法大師が筆を投げ上げてスラスラ書いたと言う伝説があります。しかし、さすがにこれは眉唾で、佐渡島の歴史に詳しい田中圭一氏によれば

「その文字と、文字の下に彫られた花押はいずれも弾誓上人の筆跡である。しかし、弾誓上人は石を刻むことはしなかったらしいから、・・・これは、天保期、この地にとどまって多くの石造品を残した木食浄厳の製作にかかるものであろう」

と述べています。

 ちなみに弾誓上人とは、密教や修験道を極めた人で、山中の洞窟に籠って持戒・念仏・木食の修行をされた人です。彼は、いわゆる肉類や、人間が栽培した米野菜も食べない人で、木の実や草だけで修行した僧です。木の実や草しかたべないことを木食(もくじき)と言いましたから、木食弾誓上人とも言います。こうした苦行をすることで神仏の力を持つと言われ、佐渡には修験者が多くいたようです。

 また洞窟の奥には、竜眼の池があり、

「昔、母竜が、我が子の眼球をこの池で洗っていた。ある日、人の気配を察して逃げる際に、誤って眼球を池の中に落としてしまった。この眼球を拾った老人がこれを岩谷薬師に差し出すと、薬師は大変に哀れんで、眼球をきれいに洗った後に、池に戻してやった。だが、母竜が再び人間界に姿を現すことはなく、置き去られた眼球は、今でも夜中になると母竜を探して青白い光を発しながら池の中を泳ぐ」

という伝説を伝えています。また岩谷口観音の後ろにも洞窟があり、南佐渡・小木の岩屋山洞窟にまで繋がっているという伝説もあります。

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 松浦武四郎の佐渡日誌には、

「高さ100メートルほどある崖の下に洞窟がある。そこから200メートルほど離れた海岸から叫んでみると、その洞窟が何か答えてくれるような気がする。私も初めは気がつかず、海の波音が洞窟にこだましているのかと思ったが、 12回声を出して叫んでみると、そのこだまが帰ってきた。そこで家に腰をかけて色々叫んでみたら、伊勢の国度会郡度会村一ノ瀬にある鸚鵡岩よりもいっそうよくだまして聞こえた。すぐそばに岩谷明神神社があって、松が二から三株。いずれの上を纏ってあるのだろうか、村人もこの洞窟を崇拝しているらしく、しめ縄を張ってある」

とあります。これは、いわゆる『海鳴山』なのでしょう。詳しくは下記サイトを御覧ください。

(海鳴岩を解説したサイト)
http://henro.gozaru.jp/travel/sado/06-densetu/06-densetu.html
http://www.sado-kouryu.jp/sadonpo/area/iwayaguchi2016/

参考
https://blog.goo.ne.jp/i-epman/e/a8da8fe101ae506a4fa99c3409f20208
(度会郡度会町南中村の「鸚鵡石」)

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 この岩谷観音からしばらく歩くと滝があります。

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 この滝の横から笠取峠にいたる旧道があります。とんでもない難所で、写真の滝の近くにある登山道を上って山を越え、暗い松林を抜けて大ザレ川が流れる谷におります。そこからまた急な登りで笠取峠に到着。そして、そこを下ると真更川に到着します。半日のコースです。昔は、隣の部落に行くのに半日もかかっていました。いまは、海府大橋と佐渡一週道路ができたおかげで、30分もかかりません。

 しかし、昭和44年までは、陸路だと隣の村まで半日もかかるために、船で行き来していました。昭和45年の観光マップにもその航路が掲載されていますし、小学生だった私も見て知っていました。このへんが分からないと、外海府・内海府がどんなに不便なところだったか、若い佐渡島民にも分からないでしょう。宮本常一も松浦武四郎も、この不便な道を通って岩谷口から真更川まで歩いています。

 その真更川ですが、松浦武四郎の佐渡日誌には、

「海岸より300メートルほど沖に離岩という岩礁がある(略)。皆岩石ばかりで岸深く蚫(アワビ)が多い。弁天社あり、鳥居を建てたり(略)。またこれに並んで、前に鴨島という島がある(略)。諸国の廻船、大島と村の間に風町をするという。台場あり 50匁(五円玉50枚分の重さの砲弾の)大砲一門 3匁5分小筒2丁あり」

とありますから、この北の辺鄙なところに諸国の廻船が通過・または風待ちで避難していたことがわかります。廻船といえば、小木をイメージしている佐渡島民が多いですが、そのイメージは、そろそろ捨てた方が良いかもしれません。

 また、注目すべきは、ここにも台場(砲台)があったことです。この他にも松浦武四郎の佐渡日誌では、あちこちに砲台があったことを記録してますが、松浦武四郎がこれを記録したのは、ペリーが来航する五年前ですから、幕府は早くから、海防に対して対策をとっていたことがわかります。

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つづく。

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2018年03月16日

息子を連れて佐渡島へ 11 外海府ユースホステルのマネージャーさんたち

息子を連れて佐渡島へ 11 外海府ユースホステルのマネージャーさん

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 いまから25年くらい前、私は五年間にわたって佐渡島の自然調査をしたことがあります。その時に、地元の旧家の方たちから、いろいろ情報をいただいたりしたのですが、外海府・岩谷口の旧家の方々にも、たいへんお世話になりました。一つは、源兵衛(屋号の名前です)さん。もう一つ源四郎(これも屋号の名前です)さんです。

 そして源兵衛さんは、民宿「源兵衛」を営業していて、源四郎さんは、外海府ユースホステルです。この二つの旧家に大量の古文書が残されていることから、民俗学者の宮本常一氏も両家に訪れているようです。

 実は、この岩谷口。土船衆と岩屋衆に分かれています。北半分が、岩屋衆で、外海府ユースホステルの矢部源四郎が草分け衆の一人です。古くから農地を開墾し、多くの山林を所有して、薪炭を相川金山に送って大もうけした人たちです。

 南半分が、船登源兵衛を中心とする土船衆です。民宿「源兵衛」の御先祖様である船登源兵衛が、土船衆の草分け衆です。土船衆は、日本海から瀬戸内海にかけて回船問屋として大活躍したと言われています。

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 二十五年前のことになりますが、私は、この民宿「源兵衛」さんのところにお邪魔して、岩谷口の文化・歴史・そして民俗について詳しく教えていただきました。そして、廃道となっていた岩谷口から光明仏寺までの参拝ルートの発掘調査などを行なったりしました。

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 また、外海府ユースホステルに行って、源四郎当主の矢部さんから、岩谷口や外海府の地理を教えてもらい、巨大な七段の滝・大ザレの滝・各種の洞窟・各旧道・壇徳山・大佐渡山脈の縦走路などを調査しました。当主の矢部さんは、御高齢であったにもかかわらず、国勢調査などで山道をガンガン歩いておられ、佐渡の山を隅々まで知っておられました。

 また、聞くところによれば、息子さんは、新潟大学の農学部をご卒業され、その縁で、大佐渡山脈にある新潟大学の演習林の管理をまかされており、佐渡の山や自然林についてもかなり詳しいと聞きました。ようするに外海府ユースホステルの矢部さん親子は、佐渡における山のスペシャリストだったんですね。
「大佐渡山脈のことなら外海府ユースホステルの矢部さん親子に聞け」
という感じで、民宿「源兵衛」さんと、外海府ユースホステルの矢部さん親子は、佐渡岩谷口の人間国宝なのです。「彼らからヒアリングしないで、誰から聞くんだ?」てなもんです。

 で、外海府ユースホステルに泊まってみたら、矢部のお爺ちゃんは亡くなっており、その息子さんも三年前に亡くなって、今は奥さんのみだという。奥さんといっても、七十歳をとおにこえているんですけれどね。

 生前の矢部のおじいちゃんは、本当にいい人で、いろいろ親切に教えてくれたうえに、泊まり客でもないのに、私が率いた調査登山隊二十名近くに越乃寒梅をさんざん振舞った上に、土産に越乃寒梅の一升瓶まで持たせてくれたひとです。その息子さんも(と言っても、私より二十歳も年上だが)、本当にいい人で、若者に親切でした。

 宿には、全国からやってきたユースホステルの会員が、楽しそうにマネージャーさんたちを囲んで集まっており、こんな辺鄙なところに外国人も少なからずいました。そして賑やかで温かいユースホステルに見えました。二十五年前の当時は、日本で最もアットホームなユースホステルだったと思います。

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 しかし、時間の流れは残酷でした。
 おじいちゃんも、御主人も亡くなってしまっていたとは。
 ああ、困った。
 外海府の生き字引が、もう居ないなんて。

「源兵衛さんは、どうしてるんですか?」
「もうお年なので、宿を辞めてしまいました」
「もう一人の生き字引、源兵衛さんも引退か」

 源兵衛さんところに泊まることもできないなんて。
 時間は待ってはくれない。

「御主人の死因は、なんだったんでしょうか? まだまだ若かったと思いますけれど」
「心労がたたったようです」

 奥さんが言いました。
 佐渡島の田舎のことです。
 いろいろな文化風習があります。 
 心の病むこともあるでしょう。

 しかし、よくもまあ宿をまわしているものです。御主人に先立たれ、外海府ユースホステルという大きな建物を、一人残された70歳すぎの奥さん一人でまわすことができるのか? 息子さんたちは、都会に就職してしまっています。

「よく一人で宿をまわせますね?」
「でも楽しいの」
「楽しい・・・って」
「最近、田んぼも始めたのよ」
「えええええええええええええええええええええええええええええええ?」

 外海府ユースホステルは、山も持っているし、山で椎茸もやっていたし、田畑ももっています。宿をやっている70すぎの奥さんのに、田んぼはきつい。田んぼといっても、棚田です。大きな田んぼではないから苦労はひとしおです。そもそも、ここの奥さんは佐渡出身ではありません。新潟県一の都会である新潟市からお嫁に来た元ホステラー(旅人)さんです。外海府ユースホステルが気に入って入り浸るうちに、旦那さんに見初められて嫁さんなった人です。農家のことなど分かるはずもありません。

 そもそも奥さんが外海府に嫁さんに来た頃は、佐渡の岩谷口は、秘境も秘境。知床や西表島と何ら変わることのなかった場所です。本州に比べれば、十年は遅れていた地域に嫁にやってきたわけですから、ずいぶん苦労しただろうし、宿の仕事で手一杯だったと思います。文明の地・新潟市からやってきたんですから。

「田んぼなんかはじめて、宿の方は大丈夫なんですか?」
「裏がすぐ棚田でしょ? もし田んぼをやめたらモグラに土手をやられて危ないのよ」
「なるほど、田んぼは水害などに対して安全保障も兼ねているんですね」
「そうです」
「じゃあ、このお米は、自家製ですか。どうりで美味しいと思った」

 実際、佐渡米の中でも海府地方の米は、美味しいので有名です。しかし、七十歳すぎて農業をはじめるとは、普通の感覚ではありません。

「でも、大変じゃないですか?」
「それが楽しいのよ」
「え?」
「この歳ではじめて言うのもなんだけれど、作る楽しみに味をしめちゃって・・・。お客さんも手伝ってくれるし」
「へえ」

 やはりそうでしたか。この宿も、よい御客様に恵まれている。きっとマネージャーの人格に感銘した御客様でいっぱいなんでしょう。でなければ、農業やりながら宿をまわせるわけがありません。ようするにユースホステルというより農家民宿なんでしょうね。とはいうものの、奥さんの料理は、かなりモダンです。佐渡地域観光交流ネットワークのホームページに、こんなメニューが載っていました。

http://www.sado-kouryu.jp/sadonpo/area/iwayaguchi2016/(佐渡地域観光交流ネットワーク)

「つけどめおにぎり・漬物」 300円
佐渡で昔から食べられていたサンマやイカの保存食。取り出す時は匂いが強烈で勇気が必要?!知る人ぞ知る人気メニュー。〈提供:外海府ユースホステル〉
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「夏野菜のごはんピザ」 700円
生地は、お米をおやき風に焼いたもの。具材は夏野菜、シソ、魚介類の入った南蛮味噌。〈提供:外海府ユースホステル〉
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 ちなみに松浦武四郎の佐渡日誌によると、岩谷口について、こう記録しています。

「岩谷口村には25軒の民家があり、碇のかかりのよい浜である。そして村には観音堂・薬師堂があり、村を流れる川には土船大明神というものがあると。土地の人に聞いた話では、ここに住む団三郎狸が色々の悪さをして農民を苦しめた時に、ここにいたウサギが土の船を作ってその団三郎狸を乗せて大いにタヌキを苦しめたと言う話である。それからは狸も農民に悪事を働くことはなく、これよりこのウサギを土船大明神として崇拝し、秋と春に2回の祭りをしているそうである」

とあります。

 ようするに民話『カチカチ山』のことです。『カチカチ山』は、佐渡・岩谷口の民話なのです。岩谷口には、岩屋衆と土船衆がいると、前に書きましたが、この土船衆の守護神が、ウサギなんですよ。そして、それを祭ったのが土船神社。しかし、土船神社は、明治時代に他の神社と合併して、両宮神社となっていました。

両宮神社・Googleマップより借用
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 ここだけではありません。岩谷口以外にも、民話『カチカチ山』に関する地名があります。佐渡・佐和田にある土船林という山があったりします。

つづく。

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posted by マネージャー at 20:24| Comment(0) | グンマーで嫁が出産と育児 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月15日

息子を連れて佐渡島へ 10 岩谷口・外海府ユースホステル

息子を連れて佐渡島へ 10 岩谷口・外海府ユースホステル

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 私たちは、佐渡島の北の果てにある岩谷口に向かいました。

 岩谷口はバスの終点です。そこから先も道があることはありますが、その道も昭和44年まで完成しませんでした。それまでは岩谷口から鷲崎まで一日二便の船が交通手段であり、そこから両津までも船が出ていました。つまり佐渡島で一番の僻地が岩谷口だったのです。

 しかし、この岩谷口には、江戸時代から200年以上もつづいた旅館がありました。これが後の外海府ユースホステルとなる外海府旅館です。こんな辺鄙なところに、200年も前から、何故?大きな旅館があったのか? という疑問が、佐渡島民なら思うことでしょう。しかし、あって当然なのです。

 今でこそ寂れている岩谷口も、江戸時代初期から中期にかけて大量の船が出入りする一大貿易拠点だったからです。取引先は、津軽・秋田・新潟・敦賀・下関・瀬戸内・大阪と広範囲に及び、岩谷口は大商業地帯になっていた時期があったのです。もちろん相川金山へ、資材・農産物・日用品などを送るためです。外海府ユースホステルの御先祖様も、大量の薪炭を相川金山に供給するために大もうけした口で、自宅を旅籠にして、おとずれる商人たちを宿泊させたりしています。それが外海府旅館です。

 登山家・中村謙も、渾身の力作『山小屋の旅(昭和41年発行)』で彼は、内海府の虫崎から外海府の岩谷口までの海岸歩きコースを、

「怒濤が岩をかんで作り出した大自然の芸術は、まさに壮美というほかはない」

と手放しで絶賛して、ハイキングコースとして多くのページを割いて紹介しています。そして外海府旅館を紹介しています。それによると昭和41年当時で700円とあります。

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 ところで、この外海府ユースホステル。このユースホステルこそ日本で一番素晴らしいユースホステルかもしれません。部屋にしても料理にしてもいろいろなところが素晴らしいのですが、このユースホステルの魅力は、まだ観光化されてない秘密の穴場を大量にかかえているからです。もちろん、ここには書きません。心ない人たちに外海府の穴場を荒らしてほしくないからです。

 建物は、2000年に建築された比較的新しい建物ですが、古民家風で宿全体がバリアフリーになっています。もともとこのユースホステルは、築200年以上の佐渡島でも最も古い古民家でした。しかし、2000年に火災で燃えてしまい、再建されたのが、今の外海府ユースホステルになります。

 設計士は、稲田信之さんといって、この宿のリピーターさんだったか、元ヘルパーさんだったかの人で、外海府とユースホステルを知り抜いている方だったようです。で、御客様が使いよいような設計をしたようです。

http://atelier-baku.com/index.html

 廊下は広いですが、これは200年前の古い建物だったときから、こういう建築でした。囲炉裏があったり、ピアノがあったりします。このピアノで、海外の有名なピアニストが、コンサートを開くこともあるそうです。当然のことながら、この宿を愛してやまない外国の方も大勢いらっしゃるようです。トイレも、お風呂もすばらしく、佐渡の郷土史なんかも充実しています。なにより徒歩一分で砂浜の海岸にでられます。

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 圧巻だったのは、その食事でした。

「いや、これじゃ赤字だろ!」

と叫びたくなる内容です。まずカニの大きさにびっくり。マネージャーさんは「安物です」と言ってましたが、東京の料亭でこれを食べたら、それだけで外海府ユースホステルの宿泊代を越えてしまいます。おまけにサザエ御飯の美味しいこと美味しいこと。なんと贅沢な食事なんだろうと思ってしまいました。もちろん息子も大喜び。

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このブリが美味しいこと。
佐渡のブリは、ひと味違う。
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カニは、季節ものなので、漁の時期でないと食べられない。
佐渡でカニを食べるなら秋が良いかもしれない。

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そして食後、私はマネージャーさんにお話をうかがいました。
で、驚愕の真実を知ることになります。


つづく。

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