2018年03月14日

息子を連れて佐渡島へ 9 外海府をドライブ・鹿野浦・安寿と厨子王

息子を連れて佐渡島へ 9 外海府をドライブ

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 相川奉行所を出発した私たちは、外海府ユースホステルのある外海府に向かいました。外海府とは、佐渡島の北側で、最果ての地です。今でこそ佐渡島1周道路があり、簡単に行けるところなのですが、昭和40年頃(つまり私が4歳くらいの頃)までは、まさにサイハテの地で、知床半島と何ら変わるところのなかった場所です。

 村から村に向かう交通手段は、登山道使うか、船を使うしかなかったのです。それでも、私が生まれた57年前は、多少は便利になっていて、外海府ユースホステルまでは、路線バスが繋がるようにはなっていました。

 とはいうものの、道路は舗装されてなく、マイクロバスのようなボンネットバスが、やっと1台通れるくらいの道路で、対向車がやってこようものなら、どちらかがバックして道を譲るしかなかったような道路でした。その当時のことを思い出す外海府の佐渡島民は、

「新潟交通のバスの運転手は天才だったよね」
「あんな細い道を擦らずに抜けたんだものね」
「あと30センチで海に落っこちるような道を、よく運転したものだわ」
「しかも反対側は、崖だったよね」

と語っていました。私も激しく同意です。

 しかし、今の佐渡島は、海側を埋め立て、巨大な橋をつくり、大規模なトンネルを掘削し、道路を整備したために、小一時間で相川奉行所から外海府に到着できます。しかし、昔は、バスで半日がかりでした。道が悪く、くねくね曲がってて、対向車のたびにバックしたからです。

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 年齢の若い佐渡島人には、想像がつかないかもしれませんが、昔の佐渡島には、トンネルが1つしかなかったんです。昔は、佐渡島でトンネルといえば、中山トンネル一つで、他のものは、隧道と言っていました。

 隧道と言うくらいですから、戦前に掘られたらしく手彫りで崖を掘削したようなトンネルで、途中で海側に穴が空いていたりします。海からの海蝕洞窟とぶつかって、隧道と交差していたんです。時化のときは、バスの窓を開けていると、隧道の中にある海蝕洞窟の窓から、霧状の塩水が浸入してきたものです。しかし、そういう悪路も今は廃道となって、佐渡も便利な道路が走っています。

 ここで脱線します。皮肉なことに佐渡島は、便利になると同時に、一部のマニアから注目をあびるようになってきました。立派な道が出来ると、旧道は廃道になります。そのために佐渡島は、廃道・廃線・廃隧道マニアのかっこうの餌食となってしまっています。

http://yamaiga.com/tunnel/tochu/main.html
http://hazami.jugem.jp/?eid=580
http://blog.livedoor.jp/mt_kinpoku1172/archives/51924960.html
http://sado2008.jugem.jp/?cid=34
http://yamaiga.com/koneta/koneta_186.html

 上記のホームページを見てもわかるとおり、佐渡島の廃道・廃隧道は、とても怪しく、とても魅力的です。私には土地勘があるので、時間があれば、探検したかったのですが、時間が無いのと4歳の息子を連れて行ける場所ではないので、今回は新しく出来た道路から廃道・廃隧道を眺めるだけにしました。

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戸中隧道 http://yamaiga.com/tunnel/tochu/main2.htmlより借用

 ちなみに松浦武四郎の佐渡日誌の記録を読んでみると、相川を出発し、下相川・小川村・達者村・姫津村(佐渡ベルメールユースホステルのある場所)・北狄村(尖閣湾のある場所)・戸地村・戸中村・平根岬・鹿の浦・南片辺村・南片辺村・石花村と歩いて、石花村に一泊しています。

 注目すべきは、戸地村から戸中村の途中にあった二つの洞窟の記述です。深さ75メートルもある、この洞窟は、明治43年に開通した戸中隧道と交差します。私が幼児の頃に、戸中隧道の中で浴びた霧の塩水は、松浦武四郎が記録した深さ75メートルもあった海蝕洞窟が原因だったようです。

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戸中隧道 http://yamaiga.com/tunnel/tochu/main2.htmlより借用

 また、松浦武四郎は、戸地村の海に温泉が湧き出ていることも記録しています。
 おそらく黒島あたりにわき出ているはずなんですが、
 現在、それを利用している形跡はありません。

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 さらに松浦武四郎は、鹿の浦で、山椒大夫の伝説にもふれています。

 この「鹿野浦」には昔、農地がありました。しかし、どういうわけか民家が無いんですよ。民家が無い理由は、安寿と厨子王の呪いのせいだと言われています。安寿と厨子王の話は、誰もが知っていると思います。映画にもアニメにもなっていますからね。映画やアニメでは、立身出世した厨子王が、佐渡でめくらになった母親と涙の再会をして、めでたし、めでたしでおわるのですが、「鹿野浦」につたわる安寿と厨子王の話は、悲劇的です。

 安寿姫と厨子王丸は、越後の直江津で人買船に売られた。母は佐渡の島の鹿野浦に連れて来られ、虐待のはて盲目になってしまった。

 安寿恋しや ほうやらほう
 厨子王恋しや ほうやらほう

 と、毎日唄いながら鳥追いをしていた。安寿と厨子王は出世して母を迎えるため佐渡へ渡って来た。そして鹿野浦にいる母を探し出した。しかし盲目の母は、いつも村の悪童どもに、おれは厨子王だ、安寿姫だと、だまされていたので、実際の安寿があらわれても嘘だと言って信じず、持っている杖で殺してしまった。それから鹿の浦の川は、安寿の涙のために毒が流れるようになった。その後、この鹿野浦は、その祟りで一軒も住む者もなくなり、村人は全部片辺村の北に移住してしまった。これが、現在の北片辺村であるという。

現在の鹿野浦
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安寿塚
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 ここで、民俗学者である宮本常一を紹介したいと思います。宮本常一は、明治40生まれの民俗学者で、私の祖母と同年代です。そして1981年1月30日に73歳で亡くなりました。

 その時、私は二十歳でした。
 私は、四十回も佐渡に調査に来ている宮本常一氏が
 死んだという何かのニュースで知りました。

「宮本常一? 誰だ?」

と思った私は、国会図書館で彼の著作(もちろん佐渡に関する著作)を読んでみました。すると、これが非常に衝撃的で、元佐渡島民であった私の常識をひっくり返す内容だったのです。その一部を紹介しますと

「実は相川の町などは、外海府の人たちに支えられていると言ってよかった。相川は長い間全く労働者の街であり、商人の町であった。はなやかに生きている者の間に貧しく暮らしているものは多かった。そして貧乏人には子供が多かった。その子をもらって育てたのは海府の人たちである(宮本常一・離島の旅より)」

 つまり外海府は、相川なんかより裕福であったというのです。
 三歳まで外海府に住んでいたことがある私には「そんな馬鹿な?」という記述です。

 昔の外海府といえば、車の走れる道路は無く、今の知床半島と大差ない辺鄙なところであり、テレビの電波もろくに届かない未開地と言ってよかったので、この記述は間違っていると思いました。しかし、よくよく考えてみると、確かに養子をもらう家は多かったし、四歳以降に住んだ私の実家の家なんかより、三歳まで下宿していた外海府の家の方が大きくて立派だったことを思い出しました。毎日の食事にしても今思えば御馳走だった気がする。

 あれは誕生日だったか、クリスマスだったか、あるいは両方だったか、記憶ははっきりしてませんが、当時三歳だった私は、下宿のおばさんに二十センチ以上ある巨大なホールケーキを食べさせてもらっていました。昭和三十年代にそういうものを食べることができた家は、全国でも珍しかったと思います。

 もちろん私の実家でも食べたことはないし、そもそも親に誕生日を祝ったことは無い。せいぜい母親と一緒にパン屋のショーウインドに飾ってあったケーキを眺めたことしかない。いや、それ以前に昭和三十年代当時の外海府にケーキ屋なんかなかったし、せいぜい、よろず屋ていどの店が、寒村に一軒あるかないかですから、どうやって大きなホールケーキを手に入れたか疑問だらけです。

 宮本常一は、言います。
 
「海府の人たちは磯でアワビ・ワカメを取り、沖でイカを釣り、また田畑を耕して暮らしを立てていた。冬には雪で閉じ込められてしまうので、夏場の稼ぎだけで1年間の食生活費を稼がなくてはならぬので、村人たちはことのほか、激しく働かねばならず、そのため人出はいくらあっても足りなかった。そこで海府の人たちは相川の貧家から子供をもらい、もらって来ては育てたのである。(宮本常一・離島の旅より)」

 さて安寿と厨子王の話です。

http://artkuusatu.blog.fc2.com/img/20140216204942396.jpg/

 人買船に売られた安寿と厨子王の母が、佐渡の外海府(鹿野浦)に連れて来られてきたと言う話と、宮本常一の「海府の人たちは相川の貧家から子供をもらい、もらって来ては育てたのである」という話は、微妙にリンクします。海府は、昔から人手を必要とする地域だった。宮本常一が指摘しているように、海府地方では、人出はいくらあっても足りなかった。

「海府は米どころであった。(略)それらの米は相川に供給せられたのである。また山の雑木は切られて町として船で相川に送られた。一方から言えばこれらの村々は相川があったからこそ西北の海に面しつつもたくましく生き継いできたといえるのだが、それだけにまた自然におしひしがれそうな人生がそこに長く続いてきたのであったある(宮本常一・離島の旅より)」

 これは外海府ユースホステルのマネージャーも、同じ事を言っていました。外海府ユースホステルの御先祖の墓の中には、大きなものがあり、その大きな墓の時代は、山の雑木を相川に売って大もうけした時代であったということでした。外海府の古くて大きな屋敷の大半は、そういう家系だったということです。

「北小浦の宿で大敷の話を聞いた。昭和33年には水あげが1億円もあったそうである。そこで利益の2割を組合員で分けたのだが、一人当たり25万円もあった。また金が使い切れないので関西旅行した。一晩に1万円も取られる宿に泊まったそうだと、大変景気の良い話である(私の日本地図・宮本常一より)」

http://artkuusatu.blog.fc2.com/img/201312161606001ec.jpg/

 北小浦といえば、海府地方の中でも、限界集落もいいところですが、昭和33年頃は違っていたようです。ちなみに昭和33年の大卒初任給は、1万3500円です。その時代に海府のある漁村では、一晩に1万円も取られる宿に泊まって豪遊したわけですから、どれだけ儲かったのか? どうりで相川から人買いのように養子をもらいにくるわけです。限界集落化しつつある今の海府地方を考えると、想像もできません。

 残念ながら宮本常一氏は、この記録を残した昭和34年以降、海府地方を訪れてないので、その後、海府地方が、どう寂れていったか分からなくなっていますが、現在、限界集落であっても昔は違っていたということは確かなようです。

 再び鹿野浦の話にもどします。

「そのような村にも相川から養子をもらう風習があった。相川にはまずしい町家がたくさんあり、そういう家の子をもらってきた。相川や国中の方では子供が泣くと『海府へ牛のケツたたきにやるぞ』と言えば泣きやんだものであるという(私の日本地図・宮本常一より)」


「たいていの家に2、3人いたという。その子たちを土間の隅に藁を敷き、莚(むしろ)をしいてねかせた。・・・そして25歳になるまで家におき、その春一人前になった祝をしてやってフクギモノという晴着をつくってやる。それからさきは働いて得たものはすべて自分のものになる。そして婿にいくものも多かった。中には相川へかえっていくものも少なくない。妻をもらって分家したものもある(私の日本地図・宮本常一より)」


 この話を裏付けるように、昔の海府の戸籍には、「同居人二人」などと書いてあったらしい。安寿の母親は、こういう地域に売られていったのです。そして鹿野浦で鳥追いをしていた。そこに悲劇がおき、鹿野浦に毒水が流れ、そこに住めなくなった住民たちは、そこから隣村の北片辺に移住していったらしい。この北片辺に私は、〇歳から三歳まで住んでいました。そしてこの北片辺で有名な民話が夕鶴で有名な『鶴女房』です。

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つづく。

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2018年03月10日

息子を連れて佐渡島へ 8 相川奉行所・川路聖謨・根岸鎮衛の耳袋

息子を連れて佐渡島へ 8 相川奉行所

 松浦武四郎の佐渡日誌の話です。佐渡の両津に到着した松浦武四郎は、役人の取り調べを受けています。そして、相川奉行所に上陸の許可を貰うために飛脚を出しています。そして相川奉行所から許可証をもらって初めて上陸し、加茂・三瀬川・吉井・新保・中奥・泉村・佐渡最大の名刹であった真光寺により、河原田・沢根・二つ岩神社をへて相川に到着。
 奉行所へは、翌日の早朝に奉行所に出頭しています。三十日の滞在願を出しています。その費用は、格安だったようですが、朝早く奉行所に行ったにもかかわらず、夕方三時まで待たされた上に白州に呼び出されて吟味をうけています。

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 この時、松浦武四郎の身元引受人は、宿泊している旅籠(旅館)の主(讃岐屋武右衛門)にお願いしていますが、当時の旅籠は、こういうこともしていたようです。おそらく旅籠の主は、宿泊しているうちに松浦武四郎の人物を確かめて、身元引受人となり、一緒に相川奉行所に付き添ったのでしょう。

 と言うわけで、今回は、相川奉行所跡地の見学を行ないました。

 昔、相川奉行所には相川中学校があって、古ぼけた看板に『相川奉行所跡地』とあっただけでしたが、国指定の史跡となって7億円もかけて相川奉行所が復元されたようです。少なくとも私が佐渡にいた四十年前には無かった施設です。

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 実は、相川奉行所は、幕府からも重要視されていた所で、長崎奉行所とならんで最も重要な施設でした。なので佐渡奉行には、幕府でも最高級のエリートが送られています。、ロシア使節プチャーチンと交渉した川路聖謨なども佐渡奉行を務めています。『佐渡日記』を著した久須美祐明も佐渡奉行です。アメリカ総領事ハリスと交渉をした中村時万も佐渡奉行を務めています。

 しかし、なんといっても一番有名な佐渡奉行は、『耳袋』を書いた根岸鎮衛(やすもり)でしょう。耳袋とは、彼が三十年間に書き続けた随筆集で、歴史の素人が読んでも圧倒的に面白い本です。岩波文庫で注釈つきで読めますが、古文はちょっと・・・と言う人は、平岩弓枝の「はやぶさ新八御用帳」・宮部みゆきの「霊験お初捕物控」・風野真知雄の「耳袋秘帖」を読むとよいと思います。

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 ちなみに桜吹雪といえば、遠山の金さんですが、あれは嘘で、本当は、耳袋の根岸鎮衛の方だったという説もあります。根岸鎮衛は富裕な町家か豪農出身で、根岸家の御家人株を買収して根岸家の家督を継いでいるからです。

 そう言う人が佐渡奉行になり、江戸町奉行になって、『耳袋』を書いたわけですが、本物の武士ならば朱子学でコチコチなのでオカルトは絶対に口にしません。しかし耳袋にはオカルトが満載されているので、根岸鎮衛は豪商の出自ではないか?といわれているんですよね。しかも入れ墨疑惑もある。

 その根岸鎮衛が、耳袋を書くきっかけとなったのは、佐渡奉行になって佐渡に着任し、佐渡の異文化にふれて驚愕したためです。まず彼は、佐渡に狐がいないことに驚き、ムジナ(タヌキ)の多さに驚き、ムジナに騙されたとか、ムジナによって繁盛したとか、ムジナの神社がたくさんあるとか、そういうことに驚いたり、佐渡の文化風習の違いに驚いたことが、耳袋を書きはじめたきっかけです。

 同じ佐渡奉行でも、川路聖謨は、佐渡の異文化を軽蔑しまくっていますから、根岸鎮衛の思想は相対的で、科学者のようでもあります。また、文章にヒューマニズムがあふれていて、他の佐渡奉行たちと全く違っていますから、彼こそは『本物の遠山の金さん』だったはずです。逆にいうと佐渡を貶しまくっている川路聖謨を佐渡島民は嫌っています。誰も川路聖謨の「島根のすさみ」を読もうとしません。

 さて、復元された相川奉行所ですが、よくできています。復元ですから写真はとりほうだい。幼児をつれて入っても何の問題もありません。嬉しいのは、学芸員さんがマンツーマンで解説してくれるところです。

学芸員さんの解説
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釘隠し
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復元なので、どの部屋にも自由に出入りできる
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精錬に使われた鉛の解説
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 ところで相川奉行所の面白いところは、奉行所内に金山関係の工場があったことです。その施設についても復元されていて解説を聞かせてもらえますし、それらを手で触る事もできます。息子は、いろいろな体験をさせてもらいました。

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 ちなみに松浦武四郎の佐渡日誌よると、相川町は人家五千軒で神社仏閣が多く、みな土地相応以上に豪華であると書かれています。江戸時代において相川は、江戸・大坂・京都・名古屋・金沢についでの大都市であったことがわかります。松浦武四郎は、金鉱石から金を取り出すセリ場や金の精錬を見学しています。相川の町並みの美しさにもふれていますが、川路聖謨は逆に「見苦し」と言っていますから、それぞれの立場から正反対のことを述べています。

 とにかく川路聖謨は、何かと佐渡をこき下ろしていますが、これは川路聖謨が佐渡奉行に赴任するきっかけとなった天保の佐渡一揆と無関係ではないでしょう。

 天保の佐渡一揆によって、川路聖謨の同僚である鳥居正房は失脚するわけですが、かっての同僚が、一揆のために病気になっているさまをみて、川路聖謨の涙が止まらなかったと言います。もちろん鳥居正房も涙しています。だから川路聖謨は、佐渡を憎んだとしても仕方なかったのかもしれません。そもそも天保の佐渡一揆の原因は、鳥居正房と関係なかった。

 鳥居正房は、一揆の首謀者である善兵衛を召喚して事情をただそうとしたけれど、善兵衛が応じないので逮捕して相川まで連れてきて取り調べたが黙秘しているのでやむなく投獄しています。しかも一揆側を恐れて善兵衛を釈放しています。

 にもかかわらず一揆側は、各地で暴動をおこしていますから、奉行の鳥居正房は泣きっ面に蜂で、その同僚だった川路聖謨にしてみたら、佐渡島民は憎き天敵のようなものだったかもしれません。鳥居正房は、年貢米を蔵からだして飢える島民に支給するなど善政を行なっていたので、川路聖謨にしてみれば、なおさら島民が憎かったでしょう。

 そもそも江戸時代を通して佐渡のような天領(幕府直轄地)では年貢が低く、そのうえ代官や奉行たちも善政を行なうことが多かったのですが、それが領民にわかっていたかどうか? そのために江戸幕府は慢性の赤字に悩むくらいですから。

 ただし、善兵衛が奉行所で黙秘した理由もわかります。
 今回、相川奉行所を見学してわかったことなのですが、
 相川奉行所では、お白州が2つあって、
 1つは奉行が直々に取り調べる場所で、
 もうひとつは小役人が取り調べる場所になっています。
 このへんは、高山陣屋などの代官所と違っていて、お白州が二つなんです。

奉行が使ったお白州
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奉行が使ったお白州
(ほとんど使われることは無かったらしい)
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小役人が使ったお白州
(ほとんど、こちらが使われていた)
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 そうなると善兵衛を取り調べたのは、小役人のお白州であったに違いなく、そうなると小役人の不正を訴える善兵衛としては黙秘せざるをえません。だからもし、鳥居正房が直々に取り調べをしていたら、結果は違ったものとなっていたと思いますが、残念ながら佐渡相川奉行所は、規模が大きく(100メートル四方)仕事量も多かったために、そうはいかなかったと思います。ここに悲劇があったのかもしれません。

 逆にいうと佐渡島民は、あまり島外のことに興味がありませんから、お白州が二つあることに疑問をもってないかもしれません。で、善兵衛を英雄視するあまり、鳥居正房や川路聖謨について冷淡で、奉行所のことや内情に詳しく調べることをしてなかったかもしれません。このあたりは、後世の冷静な研究者に期待したいところです。

参考1
高山陣屋
http://kmimu.html.xdomain.jp/castle/tokai/takajin_madori.html

参考2
相川奉行所
http://kaze3.seesaa.net/upload/detail/image/ttygv-thumbnail2.jpg.html
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つづく。


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二つ岩神社
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2018年03月09日

息子を連れて佐渡島へ 7 二つ岩神社と松浦武四郎の佐渡日誌

息子を連れて佐渡島へ 7

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 妙見山を下山して、次に向かったのが佐渡の旧道(笠取峠)です。昔は、佐渡島の妙見山から金山のある相川に続くメインの道路として、笠取経由の道路と金山経由の2つ道路がありました。今回、佐渡に帰省するに当たってグーグルマップで調べてみたら、金山経由の道路は、はっきりしているのに笠取峠の道路が出てきません。

「へんだな?」

と思いつつ車で現地にいってみたら、笠取峠の道路は途中から廃道寸前になっていました。軽自動車に雑木の枝で傷つけながら前進していると、二つ岩神社に到着。四十年ぶりに訪れた二つ岩神社は、崩壊寸前でした。

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 私が高校生の頃、この神社は、伏見稲荷のようなところで、鳥居がズラーリと並んでいたものでしたが、その鳥居たちの大半が腐ってくずれており、参道に横に朽ちた鳥居の残骸が捨てられていて、かろうじて立っている鳥居さえも、指先で押したら倒れかねない状態です。社殿も崩壊寸前。見る影も無いようになっています。写真をみても分かるとおり、目も当てられない状態でした。

 佐渡の皆さん、これでいいんですかね?
 これ、放置していいんですか?

 二つ岩神社といえば、佐渡の伏見稲荷ですよね。佐渡ムジナ(タヌキ)の大親分じゃないですか。ジブリの『平成狸合戦ぽんぽこ』でも紹介された日本最強のタヌキを祭る神社じゃないですか。

 ここで解説します。
 二つ岩神社とは何か?
 看板には

『古い昔山中に団三郎という老狸が住んでいたといいます。昔の有名な作家 滝沢馬琴の『燕石雑志』にも病気をして町の医者を呼びに行ったり困った人にお金を貸せた(今から400年前)話も出ている。佐渡狸の頭領と言われて島内に百以上の部下(諸神)を持っていたという。関の寒戸(さぶと)や赤泊の禅達などと昔は山伏の祈祷所だったらしく安産家内安全消除諸災のご利益があると、参詣者が多い。毎月12日が縁日である。春、4月12日大祭を行う。』

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とあります。参詣者が多いと看板にはありますが、この荒れようは、とてもじゃないけれど参詣者がいるとは思えません。私が高校生の30年前には、もっと荘厳でしたけれど。

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 ちなみに、二つ岩神社は、江戸時代には相川奉行所に向かう交通の要路で、途中、何軒もの茶店があって、いきかう旅人の咽を潤したと言います。幕末に佐渡を訪れた探検家松浦武四郎も、この二つ岩神社でお参りしており、佐渡日誌に記録があります。

 松浦武四郎というのは、幕末の志士であり、海防家であり、日本を代表する探検家であり、北海道の名付け親です。彼は、ペリーが来航する以前の1847年9月3日に佐渡に渡っています。この時、新潟港には船が50ー60艘も入ってくれば一斉に出港したそうです。松浦武四郎は、佐渡にスルメを買い付けに行く船に乗って佐渡にわたっていますが、その時の費用は、現代のお金にして2,500円位でした。平成時代のカーフェリーの代金とほぼ同じです。

 佐渡に到着した松浦武四郎は、宿屋で山盛りのご飯、焼き魚、イカの汁、焼き鮭、鮑の酢の物などのごちそうを食べています。そしてその宿代は、たったの158文(860円)という値段に驚愕しています。当時の佐渡島の物価は相当安かったようです。ちなみに、松浦武四郎が佐渡に上陸すると役人がやってきて取り調べを受けています。そして、相川奉行所に上陸の許可を貰うために飛脚を出しています。料金は往復700文(3500円)。許可が下りるまでは常に寝泊まりしていました。

 松浦武四郎によると、ベリーが来航する5年前にもかかわらず、両津港に砲台があり大砲があったといいます。実は、江戸幕府は海外の情勢に非常に詳しく、ペリーが来航する何年も前から日本各地の海岸に砲台を築きた大砲を設置していました。松浦武四郎の佐渡日誌によれば、佐渡島の例に漏れず、あちこちに大砲があったようです。

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 相川奉行所から飛脚が許可証をもらって両津港に到着すると、松浦武四郎は、加茂・歌代・三瀬川・吉井・新保・中奥と進んで、本間西蓮寺(私の小学校の担任の先生が下宿していたところでした)に寄っています。そして泉村(私が生まれたところです)に到着。旧知である根岸与右衛門のところで昼食を食べています。松浦武四郎は、佐渡島に多くの知り合いがいたようで、あちこちに寄り道をしています。つまり、佐渡島にも幕末の志士たちが大勢だということになります。

 その後は、佐渡最大の名刹であった真光寺によっていますが、この寺は、明治元年(1868)の神仏分離令により廃寺となっています。明治政府も馬鹿なことをしたものです。松浦武四郎は、この真光寺で、佐渡で最も有名な乙羽池伝説について聞き取っています。

 乙羽池伝説については、こちらを参照
 http://kaze3.seesaa.net/article/428880928.html

 そして河原田・沢根・二つ岩神社をへて相川に到着。

 二つ岩神社について『佐渡には獣がいなかったが、富山からタヌキをもってきて、それを増やして、その毛皮を金の精錬の鞴につかった』と書いています。ようするにタヌキを繁殖させて儲けた人がいて、その男が団三郎だったわけですが、それがいつの間にか、タヌキの皇帝の名前に変っていたわけです。

 佐渡では、二つ岩の団三郎がタヌキの大将。その配下に四天王(関の寒戸・禅達・才喜坊・重屋の源助)がいて、その配下に何百何千というタヌキがいたといわれています。その総元締めが二つ岩の団三郎。ちなみに昔の島民は、タヌキのことをムジナあるいはトンチボーと言っていました。で、ムジナといえば、タヌキをイメージし、トンチボーというと、もっと怖いドロドロしたイメージです。

 松浦武四郎の佐渡日誌の話です。松浦武四郎は。二つ岩神社を通って相川の旅籠に宿泊。その日では無く、翌日の早朝に奉行所に出頭しています。三十日の滞在願を出しています。その費用は、格安だったようですが、朝早く奉行所に行ったにもかかわらず、夕方三時まで待たされた上に白州に呼び出されて吟味をうけています。

 この時、松浦武四郎の身元引受人は、宿泊している旅籠の主(讃岐屋武右衛門)にお願いしていますが、当時の旅籠は、こういうこともしていたようです。おそらく旅籠の主は、宿泊しているうちに松浦武四郎のようすを伺っていたのでしょう。



つづく。

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2018年03月01日

息子を連れて佐渡島へ 6 佐渡と登山・日本のシルマン中村謙

息子を連れて佐渡島へ 6佐渡と登山・日本のシルマン中村謙

 翌日、息子と嫁さんと三人で妙見山に登りに来ました。まず白雲台まで車で行きます。この白雲台には、その昔、白雲荘という国民宿舎があったのですが、今は壊されてしまってもうありません。私は子供の頃、親に連れられて白雲荘の展望デッキから、佐渡全体を眺めました。望遠鏡で自宅を見たりしました。

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 ただ子供の頃は、白雲荘という国民宿舎にいったい誰が泊まるんだろう?と不思議に思っていたものですが、今ならわかります。眺めはいいし、高山植物は豊富にあるし、大佐渡山脈縦走の出発点として絶好の場所だったからです。現に、昔は白雲荘という国民宿舎があって、多くの登山家が縦走のためのベース基地として重宝していました。

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http://sadokoi.com/blog/?p=1568 より借用

 昭和三十年代から四十年代の登山ガイドブックにも、人気コースとして詳細に説明文が載っています。と、こう書くと佐渡島の住人は驚かれるかもしれません。しかし知らぬは佐渡島民ばかりで、戦前から昭和三十年代にかけては、大佐渡山脈の縦走路は、多くの登山家たちで賑わっていたんです。

 これは元島民の私も全然知らなかったし、佐渡の地元民も知らないと思います。しかし、昭和三十年代の登山家たちにとっては、有名なコースで、白雲荘という国民宿舎からドンテン山の大佐渡ロッジまでのコースを多くの人たちが歩いていました。昭和四十年頃の白雲荘行きの終バスは、金沢発十六時五十五分で、朝、東京から電車で出発しても白雲荘宿泊に間に合うようになっていました。

 この白雲荘からドンテン山の大佐渡ロッジまでは、七時間三十分のコースで紹介されていますが、私も三回ほど縦走していますが、そんなものです。ちなみに昭和四十一年における白雲荘の宿泊料金は、二食付き千円です。消費者物価指数でみると、昭和四十年の一万円は平成二十八年の約四万円に相当する計算になりますから、現在の物価でいうと二食付き四千円。ずいぶん安かったようです。

https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/history/j12.htm/

 当時の登山家に愛された理由もわかります。
 では、このルートを誰が全国に紹介したかというと、
 中村謙(加茂鹿之助)という偉大な登山家でした。

 中村謙は、私が最も尊敬する登山家であり
 忘れ去られつつある登山家です。

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 百名山ブームのおかげで、百名山の深田久弥・花の百名山の田中澄江を知らぬ登山家はモグリと言われる時代になってしまいましたが、いったいどれだけの人が、中村謙(加茂鹿之助)を知っているでしょうか? 彼こそは、全国津々浦々まで登山道を調査発表した開拓者なのです。

 彼を一言で言うと、日本のリヒャルト・シルマンです。昭和の松浦武四郎と言ってもいい。登山ルートをひたすら調べまくって『山と渓谷』『岳人』『新ハイキング』『ハイカー』『山と高原』『榾木』『日本山岳会会報』などの登山冊子に、昭和十年頃から発表しまくったひとで、いわゆる日本の大衆登山を牽引し続けた人です。しかし忘れ去られて誰にも知られてない。ネットで検索しても全く出てこない。せいぜいペンネームの加茂鹿之助の名前がでてくるだけです。昔なら中村謙の名を知らないのは「もぐり」というほど有名だった人なのに、今ではネットにもでてこない。もちろん私も知らなかった。

 私が、この人を知ったのは偶然です。

 知床探検の準備作業で、松浦武四郎に興味をもった私は、三重県の松浦武四郎記念館の学芸員だった武馬さんという人に知り合い、その人の紹介で、見知らぬ人から大昔の登山本をいただいたことから大昔(戦前から昭和四十年頃)の登山本を三百冊ほど読む機会があり、そこで中村謙という人を知りました。

 彼は、明治三十年に新潟県高田市に生まれ、東京外国語大学英文科を卒業し、伊藤忠に勤めた後、群馬県桐生中学校に勤めた後、東京府立第一商業学校で教員を続けつつ、同校山岳部の顧問をやりつつ、日本中の山という山を登りまくって、調査した登山道を昭和五年頃から発表しまくっています。

 そのうえ都立興亜商業学校・日本橋女子商業学校の校長にも就任しており、戦後は極東空軍資材司令部で働き、その後は警察予備隊米国顧問団特殊翻訳官として働いています。その後には京北学園高等学校教員として活躍しながら、多くの著作本を出しています。

 また、東京中等学校山岳連盟会長・全日本徒歩連盟理事・日本山岳会会報編集委員・東京都キャンプ協会顧問といった登山関係に関する無数の役職にもついており、各地の観光協会の理事や顧問にもついており、山に関することに一生を捧げた人でもあります。

 彼は昭和九年に出した『東京付近の山』をはじめとして、毎年何冊も登山ガイドを出し続けます。途中、病気で右手が使えなくなるという事態になりますが、左手で渾身の力を振り絞って書いています。最終作ともいえる昭和四十四年の『ふるさとの山』四百二十二ページを出したときは、七十二歳でした。これ以降の著作がないのは、足を痛めて外出ができなくなったためです。また、ヤマケイの『登山地図帳』・昭文社の『エリアマップ』『山と高原地図シリーズ』などの登山マップなどの制作にもかかわっています。こちらも昭和四十四年まで作り続けています。

 さて、中村謙渾身の大作である『山小屋の旅(昭和四十一年)・ベスト200コース』には、佐渡島が5コースも大きく取り上げられています。

@金北山から金剛山
A虫崎から外海府
B沢崎めぐり
C岩首から水津
D妙宣寺から真野宮

このうち登山道は@だけで、ABCDは、海岸歩きです。今でこそ道路がありますが、昭和四十一年頃は、道路が無く、岩から岩を飛び乗るように海岸を歩くしかなかったと言います。そういう場所の地元民の交通手段は、船でした。もちろん海が荒れれば、船は使えませんから山道を使います。なので昔の佐渡は、山道(登山道)がよく整備されてて、それが佐渡の里山の特徴であったわけです。

 さらにいうと、A虫崎から外海府も人気のコースでした。で、このコース沿いに昭和40年10月に一軒のユースホステルがオープンしました。外海府ユースホステルです。もちろん若者たちが押し寄せました。その中の旅人に新潟市からやってきた一人の美しい女性がいました。それが今の外海府ユースホステルのマネージャーです。これについては、また後日書きます。

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 私たちは、妙見山に登りました。この山には、息子が2歳の頃にも登っているのですが、二歳児の頃はヨチヨチ歩きでした。しかとし4歳ともなると、親より速く歩きます。というか息子の奴は、先頭で無いと機嫌が悪くなる。親より速く歩こうとする。そして徒競走になるのですが、こっちは息子の写真を正面から撮りたいから負けられないのですが、そうすると機嫌が悪くなるので困ったものです。

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 それにしても妙見山は、何度来ても素晴らしいところです。これで自衛隊の基地が無かったらもっといいんですけれど、北朝鮮からミサイルが飛んでくるわけですかすら仕方ないですね。佐渡に来たら絶対に訪れたい絶景ポイントです。つつじが多いので、花の季節は美しいこと間違いないでしょう。

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つづく。

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2018年02月25日

息子を連れて佐渡島へ 5 佐渡に行ったら入りたい店

 東京から嬬恋村に引っ越してきて20年近くなります。子供も生まれて毎日のように保育園(子供園)に息子を送迎しているのですが、自分で送迎してみて嫌でも気づくことは、送迎する人たちの9割が祖父母なんです。嬬恋村には祖父母・曾祖父母が多くて、どの子供たちも、おじいちゃん・お祖母ちゃんと一緒に帰っていくんですよ。そんな村のなかで、みじかに祖父母がいない、うちの息子のケースは珍しいんです。

 嬬恋村の保育園(子供園)では、父兄会の他に祖父母会というものがあり、祖父母のために、わざわざ運動会を二回やります。これに出ないと息子が寂しい思いをするので、父兄会には嫁さんがでで、祖父母会には私がでるようにしています。

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 このように祖父母に囲まれて暮らしている子供が圧倒的に多い村というのは珍しいみたいです。それが原因で嬬恋村の子供たちには、深刻な問題があります。幼児の肥満・糖尿病予備軍・低身長が、全国のトップクラスなんです。その原因は、御菓子のたべさせすぎと、必要量のカルシウムの不足と言われています。ようするに『孫を可愛がりすぎる祖父母に原因がある?』と勘ぐっているわけです。なぜなら親を対象に、そういう事を言わないからです。祖父母に対してだけ言ってくるんです。祖父母会では、くどいくらい言ってくるけれど、父兄会では、そういう話題は出てこない。

 これには理由もあります。

 2歳までの嬬恋村の幼児は、全国平均と変わりない。しかし母親の手から離れて、祖父母に預けられる3歳からは、身長の伸びが遅くなって肥満率が高くなって全国のトップクラスになる。急に虫歯も増える。祖父母に原因があると言われても仕方が無いような統計数値がある。

 なので、これに慌てた嬬恋村や子供園では、わざわざ祖父母のみを対象としたて運動会を開いて人を集め、講演会をひらいて祖父母に対して啓蒙活動をするわけです。栄養学をたたき込み、祖父母が孫に御菓子を食べさせすぎないように指導します。

 以上、前置きを終わります。
 これからが本題です。

 このように祖父母の多い嬬恋村の保育園児なのですが、身近に祖父母がいないうちの息子は日々寂しい思いをしていたようです。

 時々、
「おりこうにしていたら、おばあちゃんの所に行ける?」
と私に聞いてくるからです。

 なので月に一度は、嫁さんの実家に帰らせて、母方の祖母の所に行かせて甘えさせてやっています。そして甘えまくって甘いものをいっぱいいただいてくる。うちでは子供園の指導とは真逆なことをしているわけです。本当は良くないことなんですが、

「早く、おばあちゃんの所に行きたいなあ」

とか、庭先でドングリやヤマボウシの実みを拾ってなんかを拾って「これをおばあちゃんに持っていこうかな」なんて言って、と楽しみにしている息子を見ていると、月に1回くらいは、そういう事があってもいいんじゃないかと思ってしまう。

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 もちろん嬬恋村に帰ってきたら毎日のように小浅間山や浅間牧場に散歩に行ってダイエットです。げんに昨日も一昨日も雪山の小浅間山に一緒に登ってきました。これで良いと思っていたら、そうはいかなかった。

「タケルには、おじいちゃんは居ないの?」

と言ってくる。嬬恋村の幼児は、おじいちゃんにも恵まれている。しかし、息子の母方の祖父は、この世にはいません。若い頃に脳腫瘍で亡くなっています。しかし、私の父ならまだ生きています。

「タケルには、おじいちゃんは居ないの?」
「いるよ」
「どこにいるの?」
「おばあちゃんだって、もう一人いるんだよ。タケちゃんには、おばあちゃんが二人いるんだ」
「ちがうよ、おばあちゃんは一人だけ」
「いやいや、二人いるんだ」
「えええええええええええええ、違う違う」

どうも息子には、おばあちゃんが二人いると言うことが理解できなかったらしく、これは私の実家に連れて行って対面させるしか無いなあと思った次第です。考えてみたら私の親は85歳くらい。いつ死んでもおかしくない年齢なので、生きている今のうちに会わせないとと思って、実家の佐渡に連れてきたわけです。

 で、実家に帰って、私の両親と対面させたわけですが、ほとんど会ったことがなかったために息子の奴は緊張しまくっていました。

「この人が、おじいちゃんだよ」

と言っても実感がわかなかったようでした。しかし、佐渡で一番美味しい寿司屋「まるいし本店」で一緒に寿司を食べると少しずつ慣れてきたようでした。そして、息子の奴は、ガンガン寿司を食べ始めました。ワサビもショウガも大好きなので、どんどん食べます。

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 ちなみに寿司屋「まるいし本店」は、回転寿司で安いのに凄く美味しい店です。ネタがすごくいい。水産会社直営の店だけあって回転寿司と思えない味。しかも安い。といっても一皿120円から360円なんだけれど、ネタの良さを考えたら安い。高級魚のどぐろが360円。地方の回転寿司は、クオリティーが高いところが多いわけですが、この「まるいし本店」もその一つ。佐渡島に来たら、是非おとずれて食べにいきたい店の一つです。

https://www.visitsado.com/spot/detail0301/
新潟県佐渡市泉1031-1
0259-63-3066
口コミサイト
https://www.tripadvisor.jp/Restaurant_Review-g1021355-d5037286-Reviews-Sushiya_Maruishi-Sado_Niigata_Prefecture_Chubu.html#REVIEWS

 あと、佐渡に行ったら是非食べておきたい店を紹介すると『中堀』のカツ丼です。東京で言うところのタレカツ丼。 ひみつの県民ショーというテレビで、新潟のタレカツ丼が紹介されて有名になりましたが、正直言って、あれは美味しくはない。佐渡の『中堀』のカツ丼の方が美味しいですから騙されたと思って食べてほしいですね。


つづく。

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2018年02月23日

息子を連れて佐渡島へ 4 幻の朱鷺の話

幻の朱鷺の話

 二月二日のことです。息子がこども園から帰ってくると、「お父さんちょっと」と私の腕を引っ張ります。何事かと思っていると、こども園で作ってきた鬼のお面を取り出しました。ああ、節分か。と理解した私は、息子に豆を持たせて、私は息子が作った鬼の面を被って「ガオー」と叫んだのですが、息子はキョトンとしています。何をしていいかわからないのです。仕方がないので、鬼の役はやめて、一緒に豆まきだけをすることにしました。しかし、息子のやつは、どうやって豆まきをしていいのかわからない様子です。なので、手本を見せるわけですが、これで初めて豆まきができるようになりました。

 うちの息子は一事が万事、すべてがこういう調子です。手本を示すと、その通りやるのですが、手本がないとなかなか動こうとしません。どうやっていいか分からないんだと思います。そのかわり、親の真似はよくします。私がベットメイクや部屋掃除をすると、一生懸命手伝おうとします。私が外で雪かきをすると、自分も雪かきをし出します。除雪機を動かして息を飛ばしていると、さすがにそれだけは真似ができないので、小さなスコップを持ち出して、小さな四歳の体で一生懸命雪かきをします。別に強制されているわけでもないのに、自発的に動くんです。子供は親の鏡とはよく言ったものです。

 トイレに行く時は、それがよく現れます。私はトイレから出るときにスリッパを揃えないという悪い癖があるのですが、息子もそれを真似します。息子のトイレのスリッパが乱雑に放り投げられてしまうのです。これはまずいなーと思った私は、反省して、トイレのスリッパをそろえるようになるのですが、それを一週間ぐらい続けると、今度は息子も、トイレから出てくるときに、トイレのスリッパをきれいにそろえるようになります。こどもは、実に親の姿をよく見ているし、よく真似をします。

 しかし、親というものは、案外見られていることに気がつかないものです。しかし子供の性格の大半は、親が作っているのも事実です。私は宿屋をやっていますが、もし別の職業に就いていたら、今の息子の性格は、絶対違うものになっていたはずです。息子は、宿屋として接客業をしている姿を見ているわけですから、それが今の息子の性格に影響しないわけがありません。もし私がサラリーマンだったとしたら、そして会社の愚痴を家庭でこぼしていたとしたら、息子は別の性格になっていたと思います。しかし、その別の性格になった原因が、自分にあるとは夢にも思ってないでしょう。なぜならば、普通の会社員であれば、息子をじっくり観察する機会に恵まれなかったからです。

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 実は私は、四歳から五歳位の時に歴史オタクになっています。原因は親の影響です。私の親や祖母は、好んでNHKの歴史大河ドラマと、を見ていました。親が見るテレビ番組をただ何となく漠然と見ていたわけですが、太閤記・源義経という子供の絵本に出てくる素材であったこともあって、土曜日の昼間に祖母と一緒に大河ドラマの再放送を見ては、絵本の『豊臣秀吉』『牛若丸』を読んでもらっていました。祖母は、文盲で文字が読めない人だったんですが、絵本を上手に解説していました。もちろん、書いてあることと、祖母の解説は、全く違いますので、どうして違うんだろうと、自分で調べるようになり、その時に何でも自分で調べる癖がついています。これは親と言うより祖母の影響です。

 小学校に入ると、私は動物オタクになっています。これも両親が、マーリン・パーキンスの『野生の王国』と言う動物ドキュメンタリー番組を好んで見ていたからです。最初は、全く動物に興味がありませんでしたが、何度か番組を見ているうちに、自然と頭の中に入ってきます。そして、小学校の図書館に入り込んでは、動物図鑑を眺めながら、名前や生態を片っ端から暗記しました。もちろん恐竜やウルトラマンの怪獣も含めてですが、図鑑にある動物は全部暗記していましたから、かなりの動物博士になっていました。だから私にとってディズニーといえば、ミッキーマウスで無く、動物ドキュメンタリー映画のことでした。ディズニーは、数々の傑作ドキュメンタリーを製作していたのです。もちろん当時から難しい本も読んでいます。

 あと、子供の頃に『野生のエルザ』と言う映画を観て感動したと言うこともあります。映画『野生のエルザ』は、実話を元にしたドラマです。主人公たちは、親を失った三匹のライオンの子供を見つけるわけですが、そのうちの二匹を動物園に手渡し、一匹だけを自分でペットとして飼うわけですが、これがエルザです。エルザは、元気に大人になっていくんですが、発情期になり、それを持て余して苦しんでいる。そこで飼い主は、エルザを野生に戻すようにがんばり、ついに野生に帰っていくというハッピーエンドの物語でした。この映画に感動した私は、将来は動物園の飼育員になるか、犬の訓練士になりたいと思ったくらいです。

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 そして三十年後、私は宿屋を始めて自然ガイドなどをしていました。もちろん動物についての知識も格段にアップしています。で、なんとなく気になったので、野生のエルザのビデオを購入して、三十年ぶりに見てみたわけです。で、愕然としてしまいました。これはやばい映画だ。エルザは、あの後すぐ死んでいるはずだと容易に想像できるからです。

 で、原作本を読んでみたら、案の定、すぐに死んでいました。詳しい解説は、やめときますが、主人公たちは、致命的なミスを犯していたからです。しかし、これは動物学が進歩した現代の視点から言えることであって、1956年当時の知識水準からしたら、しょうがない事だったとも言えます。それほど現代の動物学は進歩しています。

 あと、昔の佐渡島には、見世物小屋やってきました。大蛇や象なんかがやってきたのです。もちろん親とで見に行きます。そのつど食い入るように見たものです。親が、鶏・猫・ウサギ・鳩・犬・金魚などを飼っていたということもあって、身近に動物がいたというのも私が動物好きになった原因の一つです。

 また実家の近所に豚・牛の飼育小屋があって、子牛や子豚とふれあえたんですよね。みかんの皮やリンゴの皮・芯などの食べ残しなんかを持って行くと、豚は喜んで食べていました。牛には藁をもっていって食べさせました。牛たちは、角を切られており、縄でつながれていました。現代では、口蹄疫のこともあって勝手に入れませんが、四十五年も前だと簡単に動物とふれあえるいい時代だったんです。

 前置きはこのくらいにして本題に入ります。

 動物オタクだった子供の頃の私の悲願は、朱鷺を見ることです。しかし、昭和四十年代の佐渡島では、島民といえども朱鷺を見ることは先ず不可能でした。見たことがあるという人も希でした。たまに、食べたことがあるという老人の話を聞きましたが、肉が赤すぎて気味が悪いので、暗い夜にしか食べられなかったという話しでした。今でこそ、大量の朱鷺が放鳥されていますが、昔は、本当に幻の鳥でした。

 ドンテン山から下山した私たちは、佐渡にある『トキの森公園』に向かいました。息子と嫁さんに朱鷺を見せてあげるためです。もちろん私も初めて見ます。

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 私は、できるだけ息子に動物との距離を縮めさせたいと思っています。だから犬も飼っているし、動物園にも牧場にも連れて行ってます。登山中には野鳥の観察もしていますし、庭木には鳥小屋もあるし、鳥の餌もおいてあります。

 嫁さんは、何度も息子を猫カフェに連れて行ってます。それもすごく厳しいルールのある猫カフェです。猫の権利が強くて、これでもサービス業なの? サービス業としてはまずいんじゃ無いの? 詐欺じゃないの? というくらいに厳しいルールのある猫カフェなんですが、あえて連れて行っています。動物をおもちゃのように扱わない子供に育てると言う意味では、効果のあることだからです。佐渡にある『トキの森公園』も、きっと厳しいルールのもとに見学が許される場所ではないかと期待して、出かけてみました。

 トキの森公園は、昔、新穂村といわれた地区にあります。私が子供の頃には、佐渡島は十の市町村に分かれていました。その中の一つである新穂村といえば朱鷺のイメージでした。朱鷺は、新穂村に住んでいたのです。

 いまでこそ絶滅が危惧されている朱鷺ですが、かっては日本全土で普通に見られる鳥で、害鳥のナンバー三と言われた時期もありました。鳥追い歌に、

 一番にくい鳥はスズメ。
 二番目がサギ。
 三番目がドウ(朱鷺)。

とあるとおり、昔は田んぼに大量の朱鷺がいたんですよね。田んぼに住んでるドジョウなんかを食べていたんです。しかし、明治維新後の政策によって輸出用の羽毛(ダウン)の需要が急増し、朱鷺が乱獲されます。朱鷺の羽毛布団は柔らかく生産が間に合わないほどで、ヨーロッパで流行した婦人帽の飾りとして輸出されました。

 そのために明治末期には絶滅の危機となり、大正末期には新潟県でも絶滅したと報告されています。そこで新潟県は、懸賞金をつけて絶滅したといわれる朱鷺をさがしたわけですが、昭和五年に佐渡で目撃したという報告がありました。そして、大々的に調査が行われた結果、60〜100羽ほど朱鷺が生息していたことがわかりました。

 世紀の大発見でした。

 すぐさま朱鷺は、国の天然記念物に指定されるわけですが、朱鷺は年々数が少なくなっていきました。原因は、第二次世界大戦で薪炭用に大量の木が山から切り出され、山が丸坊主になったため冬に餌場になる沢が雪で埋まって、餌が取れなくなったためです。雪国の人ならわかるかと思いますが、森の中の雪は早く溶けますが、丸坊主では溶けません。朱鷺たちの冬の餌場が無くなってしまいます。見かねた地元民は、サワガニやカエルを集めて水田に放しました。そのおかげで、朱鷺は細々と生きながらえました。

 それが再び絶滅しかかったのは、農薬汚染のせいです。ドジョウやカエルなどが農薬汚染され、それを食べた朱鷺も農薬汚染となり、生殖しなくなってしまったのです。朱鷺は、里山の樹に巣をつくり、田んぼの中のドジョウなどを食べていたので、農薬汚染によって生殖能力を失ってしまったのです。

 で、1952年「特別天然記念物」に1960年「国際保護鳥」に指定されるんですが、農薬の使用などで、田んぼにいたドジョウなんかが死滅すると激減し、佐渡と能登半島にしかいなくなるんです。私が、小学生の頃には、そういう状態でした。そして17〜18羽の群れがいた能登半島の朱鷺がろくに保護されないまま壊滅するわけですが、壊滅の理由が能登半島のゴルフ場ではないか? 能登半島では朱鷺よりもゴルフ場をとって朱鷺が壊滅したらしい・・・とは、当時から良く言われていました(なので私はゴルフが嫌いでやったことがありません)。

 幸か不幸か佐渡にはゴルフ場が無かった。
 おまけに天敵も少なかった。
 佐渡にはキツネはいなく、テン・イタチくらいしかない。

 しかし、佐渡の朱鷺は、何度も孵化に失敗し、1981年には野生のトキを捕まえて人工飼育をしたけれど失敗を続け2003年まで続けられたが成功せず日本産トキは絶滅してしまったんです。ところが1999年中国から贈呈されたトキの人工繁殖が成功。成功した理由は、無農薬の水で育ったドジョウを餌にあげたことらしい。やはり農薬と環境破壊が朱鷺絶滅の理由だったわけです。

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 以上、ここまでは佐渡島民なら誰でも知っている常識です。私は子供の頃、朱鷺の書籍を読んで朱鷺に詳しいわけですが、これは私だけではなく佐渡島民ならみんな知っていたと思います。なぜならばどの家庭にも朱鷺の本が置いてあったからです。それほど佐渡島民は、朱鷺に愛着あったということをここに記録しておきます。

 小学校の授業の脱線などで朱鷺の話を良く聞きました。昭和何年にどこそこで見たことがあると。それは美しかったと。そういう話を学校の先生なんかがするわけです。それを羨ましく聞くわけですが、佐渡島民であっても朱鷺を見ることなど99.9パーセント不可能な話なんです。保護されているために、朱鷺を見るチャンスはほぼないわけです。昔見たことがあると言う人の話を聞いて、想像するしかないんですね。

 ところが、現在では朱鷺を簡単に見ることができます。皮肉なものですが、佐渡島の朱鷺が絶滅することが決定したことによって、島民は初めて朱鷺を見ることができるようになったんです。で、佐渡の朱鷺は、2003年のキンの死亡によって絶滅します。

 現在佐渡島にいる朱鷺は、1998年に中国から貸してもらった朱鷺の子孫たちです。貸してもらった朱鷺ですから、子孫の半数は中国に返しています(そういう約束で借りている)。現在は、環境省によって朱鷺の野生化プロジェクトをすすめています。

 このプロジェクトは、トキが生息できるのために、自然環境・社会環境を変えていくプロジェクトで、水田や湿地に、ドジョウ・雨蛙・バッタが大量にいるような地域にする。そして、それらの近くにアカマツ・コナラなどの営巣に適した高木を保全するといった、人とトキが共生できる社会づくりです。

 朱鷺の場合は、生息環境だけ整えても成功しにくいんですよね。というのも朱鷺は里山の鳥だからです。人との関わりの中で生息しているからです。と言うわけで、『トキの森公園』は、朱鷺のことを地元民に知ってもらうための啓蒙施設でもあります。もちろん観光施設でもありますが、どちらかというと環境教育施設なんですよ。佐渡に行ったらぜひ訪れてほしい施設なんです。

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住所〒952-0101 新潟県佐渡市新穂長畝383-2
電話番号0259-22-4123
開館時間午前八時三十分〜午後五時(入館締切 午後四時三十分)
休館日毎週月曜日(三月〜十一月までは無休)、年末年始
大人:一人四百円
小人:一人百円
http://tokinotayori.com/

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望遠鏡で朱鷺をのぞける

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本当は、このくらいの距離

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ケージに飼われている朱鷺は、エネルギーを消耗しないためか1日に一回くらい。ドジョウを一匹くらいしか食べないらしい。下手したら2日間餌を食べないこともあるらしいので、餌を食べている姿を見られたらラッキーなことらしい。

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ちなみに職員さんは、とても親切に朱鷺について解説してくれます。

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つづく。

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2018年02月02日

息子を連れて佐渡島へ 3 ドンテン高原が壊滅の危機に!

息子を連れて佐渡島へ 3 

ドンテン高原が壊滅の危機的に!

 で、私がどうしてドンテン山で宿をやりたかったかというと、この山から眺める夜景が、函館の夜景にそっくりなんですよね。おまけに植生がすごい。高山植物の宝庫で、シラネアオイなんかがワンサカ咲いている。シラネアオイといっても、ピンとこない人が多いかもしれませんが、北軽井沢でシラネアオイを買うと一鉢一万円です。それほど希少な高山植物です。

 五月の登山道はカタクリでいっぱい。花を踏まないで歩くことは不可能でした。今は、どうか知りませんけれど、二〇年前。つまり二〇世紀のドンテン山付近の山々は、花の島・礼文島なんかより、よほど花が咲いていたのです。それに目をつけた私は、佐渡に山小屋があったら凄いことになると思ったのです。

 では、なぜドンテン山付近に花が多かったのか?
 それには理由があります。
 牛の放牧に原因があります。

 実は佐渡の放牧の歴史は古いんです。最も古い記録は大同年間(806−810)。そしてこの頃に山師が、さかんに佐渡島内に寺社を勧進しています。つまり、たたら製鉄を行なったする山の民たちが見え隠れしたころに、すでに放牧がはじまっています。しかし、なにぶん古い時代であるために、詳しい記録が残っていません。

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 比較的記録が残っている江戸時代だと、佐渡島内における牛馬の飼育数は600〜7000頭で、その中で放牧頭数は2000頭くらいと言われています。ちなみに1990年頃には、400頭までに減少しています。つまり九世紀から二十一世紀までの1200年間にわたる長期間、放牧を行なわれていたということになります。これが大佐渡山脈における高山植物の植生に大きな影響を与え、日本一花の多い山に変えてしまっています。

 この事実を知ったのは、今から三〇年前のことです。旅の仲間と大佐渡山脈の縦走を企画して、大佐渡山脈について調べるために国会図書館に通い詰めたことがありました。そのときに見つけたのが『源四郎文書』『佐渡の植物シリーズ(6巻)』などです。その他にも、いろいろ面白い資料がたくさんあったのですが、この二つは私に縁がありました。

 まず『源四郎文書』を所蔵している外海府の矢部家に行ってみると、そこは外海府ユースホステルでした。私は、そこの当主・矢部さんにいろいろ教えを請うことになり、貴重な資料についてや、民族風習や、地理と古道についてヒアリング(聞き取り調査)して、それにもとづいて調査しています。

 そして『佐渡の植物シリーズ』(非売品)ですが、手書きで書かれて自費出版された同人誌のような本ですが、900ページ以上もあって、それが6冊です。中身は濃くて、どう考えても一流の学者。いや佐渡最大の植物学者。いや日本を代表する植物学者といっても言いすぎではないと思いました。読んだ私は、ただただ驚愕して言葉も出ませんでした。

 この著者は、超有名な植物学者にちがいない。
 いったい誰なんだ?
 どこの大学教授なのか?と
 著者を調べてみたら伊藤邦男とある。
 はて?
 どこかで聞いた名前だな?

 と思いつつ奥付にある著者の住所を調べてみたら私の実家の三軒隣だった。

「えええええええええええええええええええええええええええええええええ」

と腰をぬかさんばかり驚きました。
私のよく知っている人だったからです。

 私の父親は、長男の私だけに厳格な人で、母親に口答えしようものなら風呂の中や池などに放り投げられたり、コンセントでムチのように叩かれたり、家から追い出されるのも日常茶飯事でした。追い出されて家に入れずにウロウロしていると、三軒隣の家から必ずおじさんが自転車で出てくる。そしてニコニコしながら私の周りを通り過ぎます。

 一時間に三回ほど通ります。

 家の周りにいても仕方ないので、どこかにフラリと出かけると、母親や祖母が名前を叫びながら探しに来るわけで、それが日常茶飯事だったので、それが近所に伝わらないわけがなく、超有名になっていたようです。しかし、他人のうちの家庭にお節介する人などはいません。けれど三軒となりのおじさんは、20分おきにニコニコしながら必ず私の前を自転車で通り過ぎる。

 なのでよく覚えていたのです。

 で、母親が弟を妊娠したり盲腸なんかで入院すると、父親との間をとりなす人がなくなるので、放浪の旅にでかけるわけですが、そういうときに三軒となりのおじさんは、自転車で遠くからついてくるんです。しかし、声をかけたりはしない。しばらくついてきて何もしない。祖母が私を呼ぶ声がしたら、ササーッといなくなる。しかしいつまでも祖母の声が止まないと、またサササーッと現れる。しかし、決して何もしない。

 そのくせ私は、このおじさんと一度も口をきいたことが無い。息子さんとは、近所だったこともあって、小さい頃に遊んだことはあったし、集団登校で一緒に学校に通った仲だったのですが、おじさんとは、ほぼ他人でした。この人が『佐渡の植物シリーズ6集』を書いた伊藤邦男先生でした。

 国会図書館で佐渡島の植生について調べていたら、感心する論文の大半が伊藤邦男という名前。この人は、凄い人だ。世間はもっと注目していい凄い人なのに、どうして無名なんだろう?思っていたら、私の実家の三軒隣のおっちゃんだった。
「えええええええええええええ?」
ですよ。そのおっちゃんも、すでに亡くなっています。ちなみに、このおっちゃんと、外海府ユースホステルの御当主は、同じ大学の同じ学部の同窓です。おそらく知り合いのはずです。著作をみると外海府ユースホステルの所有している土地の調査もしていますから。

◆伊藤邦男
昭和3年新潟県佐渡に生まれる
昭和22年新潟大学農学部卒業
以後、佐渡島内で高校教員として活躍

◆著述
植物とくらし : 佐渡草木ノ−ト 1976
金井町の名木・巨木・美林 金井町教育委員会 1988
佐渡 原書房 1988
佐渡植物民俗誌 1987
佐渡植物誌 1987
佐渡植物歳時記 1990
佐渡植物風土記 1990
佐渡の植物シリーズ全6集
南佐渡小木の花・名木・美林 1990
佐渡山菜風土記 1991
佐渡花の風土記 : 花・薬草・巨木・美林 1992
佐渡薬草風土記 1992
佐渡の花 春 1995
佐渡の花 秋 1995
佐渡の花 夏 1995
佐渡巨木と美林の島 1998
佐渡花の民俗 2000
佐渡山野植物ノ−ト 2001
佐渡 自然と草木と人間と 2003

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 話をもどします。
 なぜドンテン山付近に花が多かったのか?
 伊藤邦男先生によれば、牛の放牧に原因があったという。

 佐渡の放牧の歴史は古く、大同年間(806−810)から始まり江戸時代には2000頭も放牧されたと言います。1200年間にわたる長期間、放牧を行なわれていたということになります。つまり牛馬による一千年以上の喫食の歴史で、それが花畑ほこるドンテン山の植生を変えてしまっています。嬬恋村の天然記念物・湯の丸高原のレンゲツツジのようにです。

 もちろんドンテン山も、レンゲツツジ・ホツツジなどの有毒のツツジ科が多いです。牛たちは、毒をもっているツツジ科の植物を食べません。他の植物が食べられても、ツツジ科だけが残るようになるからです。

 1980年代に私の実家のすぐそばにある農業技術センターでは、ドンテン山のシバ草原の一角をフェンスで囲んで牛たちが食べられないようにした実験を行ないました。6ケ月後には、さまざまな植物を交えたススキ原となり、2年後はススキ原に芽生えたハナヒリノキ、レンゲツツジ、ヤマモミジなどが繁茂し、ススキ草原は低木林に遷移しています。つまりドンテン山のシバ草原は、牛に支えられているわけです

 で、ドンテン山の花は、放牧牛の糞とかかわっているという。伊藤邦男氏は、『糞跡(ふんあと)群落』と言っています。牛の糞跡に生育するシバは、濃い緑でよく繁殖しているのですが、糞の成分が残っているかぎり牛は食べようとしない。糞の成分も少なくなるとシバの繁殖力は弱くなり、シロツメクサ・ツリガネニンジン・ウツボ草・ノコンギク・オトギリソウなどが生育し花を咲かせますが、糞の成分が残っている限り、これらの植物は牛に食われずに数年間、花をさかせるのです。糞成分とともに出没し、糞成分の消失とともに消えていくのです。

 今から二〇年前に『風のたより』という団体で、これらの糞跡群落を調査しながら大佐渡山脈を縦走したことがあります。そのときは花畑に参加者はみなうっとりしたものでした。

 驚くべきはハマナスです。海岸植物のハマナスが、ドンテン山付近の高原にみられる。私たちは、ありえないことに驚いていると、野鳥を得意とする地元山岳会と出会って彼らの解説を聞きました。

「海岸で野鳥がハマナスを食べて、その種を野鳥がドンテン山に落としたんだよ」
「へえー」

 その時は、なるほどなあと思ったものです。しかし、伊藤邦男先生の説は違います。

「海岸でハマナスの実を食べた牛が、ドンデンに放牧される。動物の腸管をとおったハマナスの種子は発芽率が高まる。ハマナスの実は目然条件下ではほとんど発芽しない。鳥や牛の腸管をとおり、糞の中で発酵すると発芽する。牛伝播によるハマナス群落が、ドンデンのハマナスである」

 野鳥説。牛伝播説。どちらが正解かわかりませんが、野鳥説をとなえる地元山岳会と仲良くなった私たちは、ドンテン山荘に泊まり、一緒に酒を酌み交わしました。

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 で、地元山岳会の中に佐渡金井町図書館館長がいました。佐渡金井町図書館は子供の頃からよく利用していたので、それを伝えると、私の名前を聞いてくる。で、私が名乗ると
「あなたとは何度か会ってる」
という。しかし、こっちには見覚えが無い。で、よく聞いてみると
「福祉課にいた頃に、あなたの祖母に、支援事業を行なっていた」
という。そのときに会っているというのです。

 そう言えば、そんなことがあった事を思い出しました。祖母は、働き者で、毎日せっせと竹細工を作っては役場におさめていたことを。私は、学校から帰ってから、それを何時間も眺めていたし、一緒に納めに行ったこともありました。

 昭和40年代前半の佐渡は、まだ豊かとは言えず、内職しながら子育てしている母子家庭もおおく、そういう同級生も何人かいたものです。彼らの家に遊びに行くと、たった四畳半の町営の母子寮に親子で住んでいました。しかし、彼らが貧乏には見えなかった。小学生の持ち物に大差なかった。差があったのは親の方で、子供たち貧富は無かった。金持ちの子供がいたとしても、子供には贅沢させてなかったからです。ただし、これが四歳下の弟の世代になると、そうでもなくなってきます。高度経済成長時代は、急激に世の風習を変えていきます。

 おっと回りくどい話をしてしまいました。
 これから本題に入ります。

 私たち親子は、ドンテン山荘からドンテン高原に向かいました。タダラ峰・尻立山・芝尻山・論天山の四つを合わせてドンテン高原というのですが、それら一面がシバ草原で、面積800ヘクタールもあります。北軽井沢にある広大な浅間牧場と同じ面積といえば、どれだけ広いかわかるかと思います。

 実は、大佐渡山脈には、このような広大なシバ草原が19ケ所余もあり、総面積は8200ヘクタール。浅間牧場の10倍。釧路湿原と同じ面積にもなります。その草原のシバは牛馬の喫食に強く、地下茎は地下5ミリほどもあり、成長点も地表すれすれのところにあります。牛馬に食べられてもすぐ新芽をだして伸びます。1200年にわたる放牧によって喫食に弱い植物は消え、喫食に強いシバの純度が高まっていったわけで、きわめて珍しい植生となっていきました。

 かって私は、佐渡金山から北端の鷲崎岬まで縦走したことが何度かあるのですが、苦戦を予想しながらも、これらのシバ地のおかげで楽に縦走できています。知床山脈から知床岬までの縦走に比べたら何と楽な縦走であったことか。そして、花の多さにどれほど驚愕したことか。

 私が佐渡島に住んでいるときには、それに気がついて無かったです。島を出て上京し、ほぼ全国の山々を登り切ったあとで、佐渡島の山に入って、その事実に愕然としたのです。花が多いなんてものではなくて、花がありすぎて何処を踏んで良いのかわからなかったからです。

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 しかし、11月のドンテン高原に花があるわけが無く、枯れたススキの草原をひたすら歩きました。で、気がつきました。

「あれ? ススキだなあ?」
「・・・・」
「あれ? あれあれ?」

 息子と嫁さんが怪訝そうに聞いてきます。

「どうしたの?」
「あれれれれれれれれれれれ?」
「・・・・」
「ススキだ。ススキの草原になっている。シバ地がススキに変っている」

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 写真をみてもわかるとおり、
 シバ地がススキの植生に変異しています。
 私は青ざめてしまった。

 農業技術センターの実験を思い出してしまった。シバ草原の一角をフェンスで囲んだ実験です。牛の喫食をたたれると、ススキ草原となり、ブッシュ(低木林)に遷移したという実験を。で、足下をみてみたら牛のウンチが無い。どこにもない。


 いったい、どうなってるんだ?
 ドンテン高原に、
 大佐渡山脈に、
 いったい何が起きているのか?

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 あとで調べてみたら、今は佐渡島で放牧が行なわれなくなったらしい。20年前に縦走したときは、どこを見渡しても牛だらけだったのに、今は放牧がされなくなっているらしい。そのために1200年かけてできたドンテン高原のシバ地が壊滅的な状況になっているようなのです。

 ヤバいですよ。
 佐渡の皆さん、本当にヤバいですよ。
 いますぐ手をうたないと、とんでもないことになりますよ。
 特に行政の方、わかってますよね?


 登山家の皆さんも、
 観光関係者の皆さんも、
 いつまでもドンテン高原に花があると思ったら
 大間違いですよ。
 このままだと佐渡の山は死にますよ!
 1200年かけて育てた景観は無くなりますよ!


 農業技術センターの実験では、2年後にススキ原。その後、低木林に遷移していますからね

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 とにかく明日は外海府ユースホステルに行こう。外海府ユースホステルの御主人は、佐渡の山林地主だし、新潟大学演習林の管理者なので、詳しい状況を教えてくれるかもしれないからです。矢部文書についても聞きたいし・・・・。




つづく。

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posted by マネージャー at 09:19| Comment(0) | グンマーで嫁が出産と育児 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする