2025年03月27日

スポーツ教室について語ってみる その4 ワンデルン・シューレ( 移動教室)

 映画「男はつらいよ」 のシリーズを見た人はいるだろうか?  いわゆる 寅さん映画ですけれど、48 作もあります。このシリーズの最高傑作は 第2作目だと思っています。第2作目がシリーズ 最高傑作だと思っています。2作目のストーリーは簡単で、高校時代の恩師である坪内散歩先生の娘さんに惚れて最後に振られるという ワンパターンな物語展開 なんですが、 これが最高に面白い。





 それはともかくも、 今回は私の職業を紹介したいと思います。 私は、ユースホステルという特殊な宿屋をやっています。ユースホステルというのは、 ドイツの小学校の教師が始めた運動で、教室から野外に出て勉強を教えることから始まっています。 これを ワンデルン・シューレ( 移動教室)と言うんですが、 その補助のために全国の小学校を格安の宿にして、子供たちを宿泊させるたのがユースホステルの始まりです。

  もっと簡単に言うと、ハイキングしながら勉強しようという運動です。 リヒャルト シルマン先生は、教室で勉強するよりも ハイキングしながら勉強した方が子供たちの勉強がはかどることを発見しました。 これを ドイツの教師たちに訴えると、あっという間に 全国から賛同者が集まり、わずか数年でドイツ 全土にユースホステルが出来上がり、 そのネットワークが全世界に広がったわけです。

  実はヨーロッパでは、ギリシャ時代からハイキングすると、学問がはかどることが分かっていました。 机と椅子に腰掛けて勉強するよりも、散歩しながら 学問をした方がはかどるということを彼らは ギリシャ時代から知っていたわけです。特にアリストテレスは、散歩することによって学問がはかどることを実感していて、彼らの授業は散歩とともにありました。 人々はそんな彼らを「 逍遥(散歩)学派」 と言ったぐらいです。

  西洋演劇で有名な、坪内逍遥は、アリストテレスを元祖とする逍遥(散歩)学派から、名前を頂いています。

 ここで思い出してほしいのが、映画「男はつらいよ」シリーズの最高傑作とも言える第2作「続・男はつらいよ」です。年から年中 散歩 ばかりしているくせに、おバカな寅さんが、 恩師のところに遊びに行くわけですが、その恩師の名前が「 坪内散歩先生」ですから、山田洋次監督も皮肉が効いています。


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(寅さんと坪内散歩先生)


 皆さんも試して欲しいんですけれど、散歩しながら勉強すると非常に具合がよい。クリエイターならなおさらです。想像力が倍増する。それに人間は1時間机に座っていることが辛いものですが、1時間の散歩は全く辛くない。だから散歩しながら考え事をすると何でもわいてくる。それを ドイツの小学校の先生であるシルマン先生は、体験的によくわかっていたので、 ユースホステル 運動を提唱したわけです。

 しかも、それがたったの数年で、全ドイツに伝わって、全ての教師が賛同し、全国にユースホステルが誕生したわけですから、 当時の ドイツ人は、散歩の効用をそれぞれ実感していたわけです。でなければ あっという間に全ドイツに何百軒もユースホステルが誕生するわけがない。全ヨーロッパに広がるわけがない。イギリスでも、フランスでも、先進諸国ならどの国でも、短期間に広がっていった。唯一の例外は日本だけです。日本では、なかなか広がらなかった。なので、ワンデルン・シューレ( 移動教室)も最後まで日本には定着しなかった。

  ワンデルン・シューレ( 移動教室)とは、なにかというと映画「サウンドオブミュージック」を イメージしてもらえば良いかもしれません。 あのイメージを日本に定着させようとして、私はユースホステル運動に身を捧げてきました。なので25年前に 北軽井沢にユースホステルをオープンしてから、15年間、毎日のようにネイチャー体験ツアーをやっていました。参加費は保険と実費のみなので、かなり格安だったと思います。

 これをやめたのは息子が生まれてからです。

 子育てで、それどころではなくなった。息子のために、毎日のように浅間牧場あたりに出かけて、ワンデルン・シューレ( 移動教室)を実行してきました。道中に看板があると、その文字を 2歳か3歳の息子に教えました。だから息子は3歳くらいから、看板にある、ひらがなと漢字が読めるようにはなっていた。なので幼稚園に入れる 気など全くなかった。で、保育園に入れてみたら、そこは「こども園」という名前の幼稚園だった。





 なんだか 詐欺にあったような気分でしたが、ガンガン休ませて、今まで通りワンデルン・シューレ( 移動教室)を行うと思ったらそうはいかなかった。幼稚園の先生に休みすぎていると怒られてしまったからです。仕方がないので午前中だけ幼稚園に行かせて、 給食が終わった頃に迎えに行って、午後からハイキングに出かけるという スタイルを取っていたのですが、 それも先生にはご不満だったようで、
「 成長が遅れているので 発達心理学の先生に見てもらいなさい」
と言われてしまう。

  確かに息子の成長は遅れていた。でも、それは個性の一部だと思って放置していたのですが、 担任の先生にしてみたら 心配の種だった。で、専門の先生に見てもらうわけですが、専門家は問題ないという。しかし幼稚園の先生は納得してない。毎年、しつこく「成長が遅れているので休まないで」と言われた上に、怪我をしたり、 たんこぶをつくって帰ったり、かまれたあとがあったりして、いじめられているらしいこともわかってきた。おまけに運動能力も低くて、 みんなとかけっこをしたがらない。

 こうなると さすがの私も考えざるを得なくなった。
 それまでの私は、勉強ができなくても良い。
 運動ができなくても良い。
 のびのびと育って幸せな人生を 送ってほしい。

  そう考えていたのですが、のびのびと育って幸せな人生を送るためには、運動も勉強も多少はできなければ、だめなんですよね。でないといじめられてしまいます。最初は成長が遅れていても、個性 なんだからほっといてくれと思っていたんですけれど、そういうわけにはいかなかった。

 仕方がないので、勉強と運動をさせることにしたのですけれど、 まず勉強の方は、 脳科学の先生が監修している「ポピー」を2部づつ買ってきて、あえて同じ問題を繰り返してやらせたわけですが、この繰り返しが効果をあげています。また脳科学者の「脳力道場」というアプリケーションソフトを毎日やらせました。このソフトは ワーキングメモリを増やすのに効果のあるソフトで、ワーキングメモリを増やすことによって、 あらゆる知能が発達することがわかっています。その結果、5歳のときに受けた知能検査(ウイスク)では、100から140の数値がでています。特に知的推理が140と最高レベルで高かった。次に高かったのが言語理解の120。逆に低かったのが処理速度で97。





 で、いわゆるギフテット(天才)と言われましたが、これは信じてなかった。どうしてかと言うと、本物のギフテットを見たことがあるからです。甥がギフテットなのですが、本物はレベルが違っている。甥っ子は小学生のうちに高校レベルだった。 自由にプログラミングをくんで遊んでいたし、小学生のうちからメルカリを使って商売をしていたり、株を買っていたりした。こういうのが本物のギフテッドだと思う。

 また、嫁さんの姪にも本物のギフテットがいた。中学校の百人一首の大会では、国語の先生数人を相手に戦って簡単になぎ倒したと聞いています。その子は塾もいかずに学校の授業だけで京都大学に現役で入って卒業している。こういうのが本物のギフテットです。

 それからしてみたら、うちの息子はハリボテのようなもので、全く才能を感じない。むしろ遅れているように見える。ようするに息子の知能は、努力を重ねた結果の数値でしかない。逆に言うと知能指数というものは後天的な努力でなんとかなるということになる。ただしハリボテなので、努力をやめた途端に消えてしまう。バブルの泡のようなものなのだと思う。

  実際うちの息子は、近所の子供たちと比較しても、会話能力が非常に劣って見えてるし、1歳年下の子供達と遊んでいても息子の方が弟分になっているくらいに、ぼーっとしている。だから 小学校に入ったら真っ先に「言葉の教室」にはいっていた。会話能力が低くて、幼いというかバカぽく見えていたと思う。

  なので 小学校の3年生ぐらいまでは、知的推理よりも言語理解を中心に勉強させるようにしました。テストの点数などは無視した。授業の点数よりも、その先を目指して、教養番組や、E テレの高校生講座の中で面白そうなやつを選んで見せていた。夏休みの宿題に読書があると知って、1日5冊くらい読ませたし、読み聞かせもした。漫画も読ませました。歴史漫画・科学漫画・伝記漫画なんでも読ませた。

 その結果 10歳の時に行った IQ テストでは、言語理解が140と上がって、大人と変わらないというお墨付きをもらいました。逆に知的推理が120に下がっていた。つまり後天的な努力によって言語理解の IQ が高くなっていたということになる。で、ワーキングメモリをアップさせる作業はやらせてなかったので知的推理が下がっていた。ようするに息子はギフテットではない。ないけれど努力でギフテット並みの知能を獲得できたことが、これで証明されてしまったわけです。そして、努力をやめると、 IQ が低下してしまうことも証明されてしまった。






 と言うわけで、勉強の方は比較的簡単に解決がついたわけですが問題は運動の方です。こればかりは苦戦した。嬬恋村には、子供達が自由に運動ができる体育館というものはなかったし、スポーツ教室も無かった。インターネットで探しても出てこなかった。 仕方がないので軽井沢の風越公園に出かけて、お金を払って 総合体育館を利用し、サッカーや ドッジボールやバスケットボールをしました。短距離走もやった。


 もちろん理論もやった。E テレの「体育ノ介」とか、「すイエんサー」とか、「奇跡のレッスン」なんかを片っ端から見せました。 これらの DVDソフトは、息子の妊娠がわかった時から、 NHK や E テレや 衛星放送されたものを片っ端から録画しておいたので、ネタが切れるということはありませんでした。





  しかしなかなか 成果が出なかった。成果が出ないので小遣いをあげることにした。 縄跳び なら10回飛んだら100円。20回 飛んだら200円という感じです。これがいけなかった。

  息子は 極度の悔しがりなんです。なにかに失敗してしまうと悔しくて泣いてしまう。上毛かるたでも、負けそうになると わんわん泣いてしまう。テストの点が悪くても泣いてしまう。 友達とゲームをやってても負けそうになると泣いてしまう。

 ある時です。風越公園の総合体育館で縄跳びの練習をしていた時、何度も 縄跳びに失敗して、どうしても10回以上とぶことができなかった。 そして わんわん泣きながら縄跳びをしていたら、事情をしらないアメリカ人がやってきて「 児童虐待だ」と言ってきた。そして通報されてしまった。

  通報されると何が起きるかというと、嬬恋村の福祉保健課の人が、学校に子供が通学してるかどうかを確認します。その上で事情収集に来ますが、その時は、村の福祉保健課がある体育館に私は息子と一緒に空手教室に出ていました。 村の福祉保健課のすぐそばで息子の運動をみていた。で事情聴取を受けて誤解が解けるわけですが、その時に、保健福祉課の理学療法士・ 作業療法士のかたに、縄跳びが飛べるように手伝ってもらうことになった。

  で、1年ぐらい保健福祉課に通って、 縄跳びの練習をすることによって、どんどん上達していきました。で、思ったことは、プロの教え方は、さすがプロだなと。私が教えてもなかなか飛べなかった 縄跳びが、保健福祉課の理学療法士・ 作業療法士の人が教えると 劇的に上達していく。1年後には小学校の縄跳び大会で、学年で2番目に長く連続縄跳びができるようになってしまった。劇的変化もいいところです。

 特徴的だったのは、教え方が定型通りでないことです。
 相手に合わせて教え方が少しずつ変化していく。
 最初に教えたことと、上手になってから教えることが全く違っている。
 ある教え方が通用しないとわかると、別の教え方になる。

 例えば、うまく飛べないとわかると縄を持たずにジャンプすることから始めたりする。その後に縄を手でぐるぐる回しながらジャンプ練習をしたりする。多少縄跳びができるようになると別の飛び方を教えたりする。相手をよく観察した上で、色々な手法を息子に提案している。

 昭和時代なら何事も根性で頑張れというところなんだろうけれど、 令和時代のプロは、そういう指導はしない。もっと科学的な手法を取るし、何々をしろという強制がない。強制の代わりに提案をし、場合によっては選択肢を与える。「どっちがやりやすい?」と聞いてくる。人間を一つの型にはめない。正解をつくらない指導をしている。理学療法士・ 作業療法士だから、そのような指導法を行うのか? それとも今のスポーツ教室界隈は、全てこんな感じなのか?

 とにかくプロの教え方というのは、素人の教え方とは全く違っている。なので本格的なスポーツ教室に息子を入れようと決心しました。プロの教え方なら私よりもうまいだろうし、スポーツ教室なら外国人に通報されることもないでしょうから。


つづく

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2025年03月26日

スポーツ教室について語ってみる その3 息子の卒業式

 先日、息子の卒業式がありました。その後に謝恩会があったわけですが、私が子供の頃の謝恩会とだいぶ違っていたので驚いた次第です。どういう点が違ってたかと言うと、私が小学生の頃は、PTAは謝恩会に全く関わってなかった。謝恩会を企画したのは小学校の先生。小学校の先生の指導のもとに謝恩会をやったわけです。

 当然のことながら、卒業式の何日か前に行っています。家庭科の先生に家庭科室に来るように言われて、そこで教わりながらサンドイッチを作って、その後にみんなで会場作りをして、改めて担任の先生を呼んで謝恩会をしたわけです。そして小学校の先生にこう言われました。

「中学校卒業する時は、先生たちは教えてくれないから、君たち自身で謝恩会を企画して自分たちだけで謝恩会をやるんだよ」

と。で、中学校の時に謝恩会をやったかと言うと、やった覚えがない。全くその記憶がない。小学校の時は謝恩会をやった記憶があるから、中学校の謝恩会を忘れているということはありえない。だからやってなかったんだと思う。当時はPTAが謝恩会を企画するということもなかったと思うので、生徒にその意思がなければ謝恩会は開かれなかったんだと思う。

 じゃあ何をやったかというと、卒業式の直前に中学校の先生一人一人に挨拶に行った記憶はある。高等学校の合格が決まった時に、学校の全ての先生に1人ずつ挨拶に行った。「先生のおかげで合格しました。ありがとうございました。3年間お世話になりました」と全ての先生に挨拶に行った。これは覚えています。

 当時の先生にしてみたら、一人一人次から次へとやってくる生徒たちの挨拶が、めんどくさかったと思うんですが、誰もめんどくさがらずに、全ての先生が一人一人に貴重なお言葉をかけてくれたのは覚えています。思えばこういうことをめんどくさがらなかった先生たちだったなあと懐かしく思いました。考えても見てください。百五十人の生徒たちが、いちいち挨拶に来るんですよ。そして一人一人にそれぞれの言葉をかけるわけですから、さぞかし大変だったろうと思います。おまけに先生のうちに遊びに行ったりもした。それを断らなかったわけですから、先生も親切だったと思うし、当時の中学生も、めんどくさい生徒たちだったと思います。

 それを考えると謝恩会というシステムは素晴らしいシステムかもしれませんね。謝恩会の拘束時間が長いとは言っても、生徒たちが一人一人先生のところに挨拶に行かれては、先生たちの時間を超長いこと拘束することに比べたら、比較にならないぐらい合理的なんだと思ってしまいました。そういう意味で謝恩会を企画実行してくれた役員の皆様には非常に感謝しています。

 感謝といえばもう一つ、面白い感謝がありました。
 それは謝恩会で初めて担任の先生の本音が聞けたことです。


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 実は息子のクラスは、かなり問題の多いクラスでした。学級崩壊も起こしたし、壮絶なイジメ問題も起こしている。これは幼稚園の頃からそうで、幼稚園の年老いた担任の先生が、こんなにキレやすい子供たちが集まったクラスは初めてだと言ってたぐらいで、いわゆる暴力教室で、すごく問題が多かった。

 小学校に入学して1年生になった時は、担任のN先生に「大丈夫ですかね」とかなり心配されました。何しろうちの息子は無口で、暴力の被害にあってたりしてて、かばってくれる女の子のところに逃げていたりしたので、ずいぶん心配されました。

 とにかく無口で会話能力に乏しく自己主張ができなかったので、それを見かねた担任のN先生が校長先生に進言してくれて、特別な計らいで入学と同時に言葉の教室に入れてもらい、徐々に会話能力が身についていったことで息子の社会性が鍛えられました。


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 2年生になった時は、新しく担任になったS先生が、よく面倒を見てくれました。私の携帯電話にS先生からよく連絡がはいりました。他の父兄の方々は、ご存知なかったかと思いますが、S先生くらい弱者に寄り添う先生はなかったと思います。だから他の御両親のヒソヒソ話しから漏れ聞こえる
「S先生は怒ると怖い」
は、誤解されてると思ったものです。S先生くらい優しくて弱い者イジメが嫌いな先生はいないし、子供をよく観察している先生はいないと思っていました。問題だらけの子供たちをよくまとめたと思っています。

 この頃の私は、息子の運動能力を高めるために毎日1時間かけて嬬恋村の小学校から軽井沢の風越公園に通ってました。そして、料金を払って総合体育館でバスケットやドッジボール、短距離走の練習をしていました。だから毎日、下校時刻になると学校の校門前で、息子が出てくるのを待っていたわけですが、何かの理由で息子が遅れて出てくると、必ずS先生から私の携帯に電話がかかってきた。S先生くらい頻繁に私の携帯に電話をかけてきた先生はいなかった。息子に対して真剣に関わっていたことは、ひしひしと感じていた。


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 3年生になった時、若いO先生が担任になったわけですが、O先生こそ最大の犠牲者だったかもしれません。この時に学級崩壊と壮絶なイジメ問題がおきたわけですが、要するに先生と児童との相性が悪かった。息子のクラスは、性善説で対処できるようなクラスでは無く、
「S先生は怒ると怖い」
という雰囲気がないと、とても対処できるクラスではないのです。

 昭和教師の雰囲気がないと対処できない。
 本宮ひろしの漫画ぽくないと対処できない。

 そういうクラスが息子のクラスなのですが、O先生は良くも悪くも令和の教師でした。赴任して最初の1週間は、授業をやらずに「自己紹介」をやっていたと息子から聞いた時
「あちゃー」
と頭をかかえて「大丈夫かな」と不安に思いましたが、その悪い予感は後で当たることになります。

 それはともかくとして、O先生の授業は、音読を中心にそえた授業形態で、脳科学的に効果的なことをやっていたので、私としては助かりました。おかげで息子の語学能力が、この先生の時に大きく発達したのです。O先生のやろうとしたことは、非常に革新的というか、令和的というか、脳科学的なのでテストの点はともかくとして、言語の成長と人格形成に非常に効果があることは、すぐに理解できました。

 現にこの1年後に行った知能検査で息子の言語能力は、140を記録し、発達心理学の先生にいわせると「これ以上は測定不能で、大人と同じ言語知能をもっています」と言われてます。五歳の時に受けた検査では、言語知能は120でしたから、あきらかに効果がでてます。O先生の授業の組み立てが、脳科学的に有効であったことが原因でしょう。

 O先生は、音読専用の教科書を自ら作ってきた。それは教科書に準拠して無く、古典にちかい名作の美文を集めてテキストをつくり、それを宿題にした。それらの古典を徹底的に音読させるわけですから、効果が出ないわけが無い。

 少なくともうちの息子は、かなり効果が出ていた。私は、息子に何度も音読させたうえに原典の解説をし、原書の読み聞かせもやったし、Eテレで解説している番組も見せた。そして暗記させるくらいに音読をさせた。もちろん私も一緒に車の中で一緒に復唱した。

 ただし教科書と全く関係ない古典文学の一節を音読するわけですから、それをしたからと言ってテストの点が良くなるわけではありませんし、通知表か良くなるわけでもない。だから意図を理解しなかった子供たちなら誰も見向きもしなかっただろうし、はなから馬鹿にしていたかもしれません。しかし、この意図さえ理解して、学習させれば絶大な効果がでるはずです。もちろんテスト勉強の点数には反映されない。そういう目的の勉強ではないからです。ゴールは、もっと先にある。

 だからO先生の時は、テスト勉強はしなくてもいいから音読だけは徹底的にするようにしました。放課後になると毎日、小学校から軽井沢の風越公園まで1時間かけて移動していたので、音読する時間はたっぷりありました。何度も何度も、先生が作ってきた音読教科書を音読させることによって、息子の会話能力がどんどん発達していたことは確かです。

 ただし、それをすることによってテストの点があがるかというと、そんなことはない。音読の効果が理解できてない子供たちににしてみれば、何やってるんだ?ことになるから、そこから学級崩壊に繋がっても不思議は無い。勉強を短期的な効果としてしか考えてなけれすば、つまんない授業・・・ということになる。つまり、先生と児童の相性が悪かったとしか言いようがない。

 だけど、この先生の意図を理解して、親が積極的に利用してあげれば、子供の人生において、すごく効果のあるものになったかもしれない。テストの点とは関係の無いことをやることになり、通知表の評価が下がったとしても、1年間、音読を続けることによって。言語知能はかなり発達するはずだし、うちの息子らは絶大な効果となってあらわれている。


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 そして4年生。さすがに学校側も、学級崩壊を問題として認識してきたのか、O先生とは真逆の昭和系の厳しい先生が担任となりました。昭和系の先生ですから、とりあえず学級崩壊は防げたようです。O先生とは真逆の授業形式に懐かしさを覚えたものです。

 ここでちょっと困ったことが起きました。息子の学習態度です。私は、今まで好奇心中心の勉強させていたので、昭和スタイルの授業方針とぶつかってしまったのです。私は今まで息子に対してやってきた好奇心中心の勉強スタイルのために、息子には苦労して覚えると言う経験がありません。

 それまでの息子は楽しみながらゲームしてる感覚で勉強していた。具体的に言うとタブレットのアプリでクイズ感覚でゲームをさせてみたり、Eテレの高校生講座の面白そうなところを見せたりしていたわけで、学校から出た宿題に対しては、コツを教えることによって10分ぐらいで全部終わらせてしまい、その後は楽しそうなことばかりやっていた。つまり教科書に沿って勉強するというスタイルを今までやってきてなかったために、大量の宿題を出してくる昭和先生の授業スタイルとぶつかってしまって非常に困ってしまった。

 そこでどうしようかなと考えたのですが、社会に出れば、理不尽なことがいくらでも出てくるだろうし、昭和スタイルの上司だっていっぱいいるだろうから、これに合わせることも非常に大切なのではないかと思い直し、あえて合わせてみることにしました。何かの罰則で、ノート三十ページの書き取りの宿題がでれば、必ずやらせたし、どんなに無駄だと思ってもしっかりやらせました。

 むしろ合わせにいった。冬休みの宿題で最低1日1ページの書き取りを言われれば、逆に1日3ページ書かせました。それが学力につながるとは到底思えなかったのですが、昭和時代の小学生は、みんなそれを乗り越えてやってきたのですから、そういう体験も必要かなと思った次第です。

 ちなみに脳科学の立場から言うと、この方式は現代では否定されています。ではなぜ昭和時代にこの学習スタイルが主流だったかと言うと、昭和36年生まれの私の世代ならその理由を小学校の先生から聞かされています。私が子供の頃に
「先生何でこんなにいっぱい漢字を書かなきゃいけないの?」
と子供たちが質問すると先生はこう答えていました。

「社会に出たら誰もが絶対にやらなければいけないことがあるんだよ。それは文字を書くこと。お願いをしたり、手紙を書いたり、営業の挨拶を書いたり、請求書を書いたり、どんな職業に着いたとしても文字は必ず書かなければならない。その時に綺麗な字を書けてないと相手はどう思うと思う?どんなに文章が素晴らしくても文字が汚かったら読んでさえもれもらえないんだよ。綺麗な文字を書くということはとても大切なことなんだ」

 当時はワープロもなければパソコンもなかった。もちろんプリンターなんかあるわけないしコピー機だってない。お知らせのプリントは、ガリ版という手書きの印刷機で印刷するしかなかった。テストだって、ガリ版で作っていた。だから1回しか使えない。今のようにコピーして何度も使い回すことなんかできなかった。毎回手書きで書くしかなかったのだ。





 当時は、文字といえば手書きしかなかった。
 だから昔は必要以上に文字を書く練習をした。
 インクの滲むガリ版すりでは、文字が美しくないと読めなかったのだ。

 書道も今より重要視されていた。
 廊下や体育館などには毎月のように書道の作品が貼られて金賞 銀賞と言った賞をつけて飾られていたものです。昔は筆を使うことが多かった。年賀状や、お歳暮なんかで筆を使って書くことが多かった。

 今となっては考えられないことですが、昔は文字が綺麗だというだけで就職に有利だった。昔の就職試験には文字の綺麗さも考慮に入っていた。だから私が子供の頃は、あらゆる子供向け雑誌に「日ペンの美子ちゃん」の広告が載っていた。




 まあそんなことはどうでもいいとして、義務教育を終えた後に就職をする人たちが多かった昔は、テストの点で100点を取るのと同じくらいに、綺麗な字をかけるということが重要視されていたということは覚えておいて良いかもしれません。そういう時代には漢字の書き取りというのは非常に重要視されていたのですが、脳科学が発達した現代では、もっと簡単に漢字を覚える方式が広まっています。いわゆる小テストです。それも寝る直前の小テスト。


 それを積極的に行ったのは、5年生6年生の担任となる小野先生の時でした。小野先生は、よく漢字の小テストを行った。「あーこの先生は脳科学を知っている。記憶の法則を使ってるな」と思いました。だから、どんどん利用させてもらった。だから通知表の成績だけはよくなった。毎回百点のテストを持って帰るようになってきた。

 それはともかくとして小野先生も令和の先生でした。だから1歩間違えれば、学級崩壊になってもおかしくなかった。息子のクラスは令和の先生には、荷が重かった。その先生が、謝恩会で最後の演説をしたわけですが、こういっちゃ悪いですけれど、すごく面白かった。

 短い言葉で終わるはずの挨拶が、とても長い演説となって、子供たちとの邂逅を、過去の不思議な体験として話をしていた。

「僕は怒ったことがないんです。自慢じゃないけれど怒ったことがない。酔っ払った友達にゲロを浴びせられても怒ったりしてなかった。そういう人間なんですが、このクラスの担任となってからは、さすがに怒った・・・」

 この言葉を聞いた時に、その風景が目に浮かび笑ってしまった。
 あー、ありそうだなあと。
 何しろ とんでもないクラスですから。
 怒ったことのない人、穏やかな人間を激怒させるのが息子がいたクラスです。
 当然と言えば当然。
 そこまではいい。
 小野先生が不思議に思ったことは、怒られた子供たちが、シュンとすることもなく、ケロリとして
「先生、先生、と馴れ馴れしくしてくる」
ことに驚いたという。

 ただそれだけの内容のないことを、延々と大演説していた。文章にすればたったこれだけのことを、長々と長々と話していた。最後の別れの言葉のはずなのに、本当ならここで何か人生のためになるような話をするところなんだろうけれど、そういう言葉は一つも発せずに、2年間に体験した不思議な出来事を思い返していました。

 この演説が、息子のいたクラスの日常風景を見事に描いて見せている。要するに息子がいたクラスは、無邪気すぎた。幼すぎた。アホっぽいというか、天然すぎるというか、大人の常識が通じなさすぎた。だから歴代の担任の先生たちが苦労した。どの先生たちも1歩間違えれば、学級崩壊しかねなかった。

 それをギリギリ留めたのが、小野先生の趣味が「お笑い」だったことかもしれない。だから子供たちの悪行を「ボケ」と認識して、「ツッコミ」としての激怒した。しかし、天然のボケである子供たちは、シュンとせずに、ボケたおしてくる。それらの日常を、不思議そうに回想していた感じだった。それが、とりとめもなく長い話となっていた。そのとりとめのない演説が、私には非常に面白おかしかった。

 現代的な令和系の小野先生にしてみたら、人生がひっくりかえる思いだったのかもしれない。令和時代は、静かで大人しく真面目に授業をきく子供たちが多いと思う。そういう一般的な小学生と比較してみたら息子たちのクラスは、昭和も昭和。ひょっとしたら原始人に近かったかもしれない。先生にしてみたら、嬬恋村に赴任したら、いきなり暴力的な不思議ちゃんばかりいるクラスの担任にされてしまって、さぞ困惑したことと思います。貧乏くじも、いいところだったでしょう。

 とにかく、いろんな意味で息子のいたクラスは常識を外れたところがありました。例えば学級委員の選出なんかだと、立候補者が続出してみんなで選挙して勝たなければならなかった。そんなこと考えられます? 学級委員に争って大勢が立候補するクラスがあるなんて信じられますか?

 普通なら誰もが嫌がる学級委員にみんななりたがった。だから1学期2学期3学期と学級委員が変化したりもした。何か面白そうだなと思ったら、みんなそれに食いつくし、そうでなければ誰もがそっぽを向く。興味があれば先生にどんどん質問するし、興味がなければ学級崩壊が起こる。静かに授業をしようという選択肢はない。

 よくもまあこんなクラスを、現場の先生方が相手したものだと感心します。

 長くなりすぎたので、今日はここまで。
 
つづく

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2025年03月23日

スポーツ教室について語ってみる その2

スポーツ教室について語ってみる その2

 子供が生まれた時に真っ先に考えたことは、勉強ができなくても良い。運動ができなくても良い。のびのびと育って、たくさんの友人に囲まれて幸せな人生を送ってほしい。 だから自由奔放に生きていけるように子育てをしようと考えていました。

  なので晴れてる日は毎日、浅間牧場で愛犬ころと 散歩して遊んでいました。 幼稚園に入る年齢になると、教育委員会から幼稚園に入る手続きはしないのかという電話が来ましたが、「うちは 保育所に入れるので大丈夫です」と断ったくらいです。文部省の管轄でもあり、学校の延長である幼稚園に入れるつもりはありませんでした。仕事が忙しい時だけに限定して、保育所か託児所に入れるつもりだったのです。 そうでない時は親子で1日中 公園で遊ぶつもりでした。 現に息子が3歳になるまで毎日のように 各地の公園に出かけていました。





 ところが私が住んでいる嬬恋村では幼稚園と保育所が合併しており『こども園』 というものになっていました。保育所に預けるつもりで入園手続きをすると、そこは幼稚園だったのです。 保育所の子供も幼稚園でみんなと一緒にお勉強するようになっており、 夏休みや 冬休みで 幼稚園が休みの時だけ、保育所になっているというシステムでした。

  なんだか 詐欺にかかったような気にもなりましたか、まあ 仕方ないかと思い、息子を『こども園』という名の保育所と幼稚園が合体した施設に預けたわけですが、私が危惧した通り『こども園』は、幼稚園そのものでした。 幼稚園を休ませて 親子でハイキングに行くと先生に怒られるのです。

 私は学校という型枠に息子をはめ込みたくなかったので、あえて保育所を選んだつもりだったのですが、無理やり強制的に幼稚園 スタイルの教育施設に入れられてしまった。私の子育ては映画の『サウンドオブ ミュージック』のような自然の中でのびのびと育てることが目標だったから非常にがっかりしました。幼稚園の先生は非常に熱心に 息子のことを面倒を見てくれたと思います。 しかしそれは私の望むところではなかったわけです。

 ところがです。

 息子を幼稚園に通わせると、先生が成長が遅れてると言ってくる。確かに遅れていた。 近所に 息子より1歳年下の男の子がいましたけれど、その子と比べて明らかに劣っていた。会話能力と言うか言語能力が劣って見えた。2歳くらい下の子のレベルにみえた。息子は3月26日生まれですが、 それを考えても圧倒的に遅れてるように見えてしまう。なので幼稚園の先生が、
「発達心理学の先生に見てもらってください」
と言ってくる。要するに『学習障害』を 疑ってる感じなのでしょうが、 専門家でもない人間が『学習障害』の可能性を言ってはいけない 規則になってるので、ひたすら「先生に見てもらってください」 と言ってくる。仕方がないので何度も発達心理学の先生のところに連れて行くわけですが、 私自身が、
「何の心配も無い」
という気分でいるので、発達心理学の先生も、
「じゃあ 大丈夫なんじゃないですか」
という雰囲気になって、世間話をしてそれが盛り上がって終わっていました。
「幼稚園の先生は大げさなんだよ」
くらいに思っていてのんびりどっしり構えていました。


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 しかしそうも言ってられなくなったことが起きたのです。 息子と一緒に風呂に入ると変なところに傷がある。よくよく聞いてみると友達にやられたと言っている。どうやら いじめを受けているようなのだ。幼稚園の先生も「いじめ」という言葉は使わないけれど、明らかに体に傷がついた 状態の場合、個別のトラブルを 報告してきます。おまけに、いじめっ子たちは、4月・5月・6月生まれでした。息子は3月26日生まれで大きなハンデがある上に、成長が遅いと来ている。

 そうなってくると
「何の心配も無い」
と言えなくなってくるのです。

 子供が生まれた時に真っ先に考えた「勉強ができなくても良い。運動ができなくても良い。のびのびと育って、たくさんの友人に囲まれて幸せな人生を 送ってほしい」という考えは甘かったということになる。年配の幼稚園の先生は、

「嬬恋村では子供の数が少なくてクラス替えがないから、自分で強くなければだめ」

と言ってきたのですが、このアドバイスに納得した私は、息子に空手を習わせることにしました。で、スポーツ教室を探したわけですが、車で40分の距離にある『軽井沢風越公園』に空手のスポーツ教室があることを発見しました。そして『軽井沢風越公園』の主催事業である『空手と礼儀教室』に申し込みました。そして週1回の空手教室に通い出したのです。

「勉強ができなくても良い。運動ができなくても良い。のびのびと育って欲しい」と考える親御さんは多いと思います。 しかし現実問題として、のびのびと育つためには、ある程度運動ができて勉強ができないといけない。そうしないと、 みんなからいじめられるから、のびのびと育てるという目標を達成できないのです。 勉強はある程度できないとダメだし、 運動もある程度できないと話にならない。 残酷のようなことだけれど、 それが厳しい現実というものでした。

  息子とその友達と体育館で一緒に遊んだりするんですけれど、 私が「 みんなで かけっこ やろうか」と 子供たちに提案すると、みんな喜んで賛成するのだけれど、うちの息子だけが嫌がって参加しない。 なぜならば 一番足が遅いからです。それがわかってるから息子のやつは絶対に競争に参加しない。ひねくれて、ぼっちになってしまう。そんな状態で「のびのびと育つ」とは到底思えない。 ある程度運動ができて勉強ができないと、「のびのびと育つ」ことは無理なのだ。

 一緒に風呂に入ってると、3歳になったばかりの息子は 涙ながらに「早く走れるようになる薬はないの?」と聞いてくる。幼稚園で肩身の狭い思いをしていることが これだけでよくわかる。私はもう一つ決意しました。 空手が強くなるだけでは問題は解決しない。 運動能力と 学習能力を高めないと 「のびのびと育つ」という目標に達成しないという冷酷な現実があった。



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 さいわい『軽井沢風越公園』には、プール・フットサル場・体育館もありましたから、そこに毎日のように通ってバケット・サッカー・水泳を教えました。毎日。往復2時間をかけて軽井沢に通ったわけです。送迎中 車内では、スポーツに関する映像作品を見せました。昔と違って今は、スポーツを上達するための素晴らしい映像作品がありますので、それをdvdに焼いて見せました。

  うちの息子は、 非常識なくらい好奇心の強い子供だったので、 それらのビデオを熱心に見ていました。例えば E テレに、すイエんサーという科学番組があるのですが、その番組ではどうすればドッジボールで勝つことができるかということを 科学的に実験実証して見せたりします。明らかに運動能力に劣る子供達が、どうやったら 強敵に勝てるようになるかという番組。相手がボールを投げてきた時、 右によけた方が 生存確率が高いか、 左に避けた方が 生存確率が高いか、 そういうことを科学的に検証する番組(すイエんサー)があるわけで、そういう番組を積極的に見せたわけです。

 しかしそこまでしても、運動能力は上達しないものです。 いや 上達はしてたのですが、3月生まれというハンデのために相手に追いつけない。息子をいじってくる人たちは、出席番号の最初の人たち。 つまり 4月生まれとか5月生まれなので、相手は1年近く年上。ちょっとやそっとの運動では追いつけない。特に4歳児は5歳児ぐらいの場合は圧倒的な体力差となっていて壁となっている。その壁がいじってくるわけですから始末に悪い。

 これでよく登校拒否にならなかったものだなあと感心するわけですが、 息子は非常に好奇心が強いために、 幼稚園や小学校を嫌がることはありませんでした。ありがたいことに息子をかばってくれる女の子や、男の子がいたことも確かで、4歳とか5歳であるにも関わらず、ダメなことはダメと悪いことを注意する素晴らしい お子さんもたくさんいたようで、それに救われたということもあります。

 とにかく息子の運動能力が平均値を超えるまで5年ぐらいはかかりました。一部の競技でトップを取るまでは、 それから何年かかかりました。 幼稚園の時は1回も飛べなかった 縄跳びも 小学2年生になる頃は、学年で2番目に長時間 飛べるようになっていましたし、小学3年生の頃にはマラソン大会で2位をとる までになりました。スキーやスケートでもたくさんのメダルを確保しましたし、 スカイランと言う登山マラソンでも毎年上位に入るようになりました。こうなると息子のやつもスポーツが楽しくなるらしく、何かスポーツの大会があると必ず参加したものです。

  ちなみに 息子のやつは、 嬬恋村の空手教室・ キックボクシング教室にも通っています。つまり 2つの空手教室に通っていたわけですが、空手には色々な 流派があって 指導の仕方が全く違うわけです。 軽井沢の空手教室は、空手を教えるというよりも 運動させることがメインでした。 とにかく子供に遊びをさせることによって走り回させるのです。 空手を教えるというよりも遊びながら体を鍛える というスタイルです。だから 空手をやってる時間よりも室内サッカーをやってる時間の方が長かった。

  嬬恋村の空手教室は、それとは全く違っていわゆる武道を教えてました。礼儀作法とか、精神に重点を置いた 教え方で、空手の方も基本をじっくり教える感じです。いわゆる正統派な教え方でした。これは軽井沢の教え方とは全く違っていました。

  不思議なことに、 これはスケートでも同じことが言えて、軽井沢のスケートのスポーツ教室では、 スケートを教えるというよりも 遊びながら 運動させることがメインだったのに対して、 嬬恋村の小学校のスケート部では、スケートを基礎からきっちり 教えるということを実践していました。

  嬬恋村の小学校のスケート部では、5つのクラスに分かれていて、 各自のレベルに合わせて教わる内容が違っていたのに対して、 軽井沢のスポーツ教室の場合は、小学生から中学生まで、ほとんど クラス分けがなくて みんなで一緒に滑ってるという感じです。

  個人的な感想を言うと、軽井沢と嬬恋村ではゴールが違っている気がする。軽井沢のスポーツ教室では遠くを目指してる。スケートとか空手にこだわってない。子供たちの体力とやる気をあげることに 中心を置いている感じがします。それに対して嬬恋村では、 空手の上達・ スケートの上達を目指してる。 どっちがいいとか悪いとかいうことではなくて、ゴールが違ってるんだ と思います。

 話がそれました。
 一旦、話を戻します。

 私が何を言いたかったかというと、子供に
「のびのびと育って欲しい」
と願う場合、ある程度運動ができて勉強ができないといけない。そうしないと、いじめられる可能性がある。そして、ある程度運動ができるようになる方法があるということであり、あるていど勉強ができる方法もある。決して不可能では無いということです。



つづく

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posted by マネージャー at 05:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐渡島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年03月21日

スポーツ教室について語ってみる その1

 今日小学生である 息子の最後の授業が終わりました。あとは 卒業式だけです。というわけで、もう遠慮もいらないと思いますので、なんやかんだで今まで言えなかったことをブログで書くことにします。

  小学生時代を通じて 一度 息子は非常に運が良かったと思います。 まず第一に時代に恵まれたこと。それによって色々な体験ができたことです。 今回はその中の一つであるスポーツ教室について少しばかり話しておこうと思います。

  うちのお客さんは90%以上が 小さなお子さん連れのお父さんお母さんです。私のブログを読まれる方も そういう方々が大半だと思いますので、 子供がスポーツ教室に通う意義というか、 スポーツ教室とは何であったかということを 私なりの視点から 解説してみたいと思います。というのも、近いうちに全国の小中学校から部活動が消えてしまうからです。

 もちろん中学校の全国大会も無くなってしまう。つまり「エースをねらえ」みたいなアニメがもう作られなくなってしまう。「ウォーターボーイ」や「スイングガール」みたいな映画が作られなくなってしまうわけです。全国の小中学校から部活動が消えてしまうわけです。そうなると残るは民間がやってるスポーツクラブしか無い。では、民間のスポーツクラブ・スポーツ教室とは、いったいどういうものだろうか?ということになります。


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  あれは今から25年前の話です。

  25年前に私は北軽井沢で宿屋を始めたわけですが、その時に不思議な現象が起きていました。 夏になると巨大なカメラバッグを持った、 どう見ても プロのカメラマンにしか見えない人たちがうちの宿に泊まりに来るのです。

 最初は風景か何かを撮影しに来たのかな と思ったんですが、 どうもそうではないらしい。私もカメラ関係の仕事をしたことがあるので覚えがあるのですが、風景写真家というのは、ものすごい早朝に出かけたり、 雨が降ると一日中 部屋にじっとしていたりするんですが、彼らは規則正しい時間に出かけて 規則正しい時間に帰ってきた。 雨が降っても 台風になっても出発して、定時に帰ってくる。 何か変だなあと思っていたら、 スポーツ教室の専属カメラマンでした。

 そうなんです。 スポーツ教室には専属カメラマンがいたりする。ここが小中学校の部活動と全く違うところです。 お子さんを幼稚園 または小学校に入学させると、学校側はカメラに関して非常に ナーバスになります。

  うちの息子が幼稚園に入園した時、桜の花があまりにも綺麗だったのでその写真を撮っていたら、園長先生が真っ赤になって走ってきて怒鳴られたことがありました。勝手に子供たちの写真を撮るなというのです。私は桜の花を取っていたと言い返したら謝るどころか「紛らわしいことはするな」と怒鳴られて去って行きました。その時はずいぶん非常識な人たちだなぁと思ったんですが、幼稚園の先生にはそういう人たちが多少なりともいて、とにかく写真に対して神経質だったのです。

  これが小学校になると、そこまで神経質ではありませんが、 やはり 似たようなところはあります。

 例えば 修学旅行ではカメラの持ち込みが禁止されています。学校から供与されるカメラでしか撮影できません。撮影する場合は全員の集合写真しか許されていません。もちろんスマホの持ち込みも禁止されています。要するに 幼稚園も小学校も写真撮影に対して かなり神経質になっているということだけは知っておいて良いかと思います。

 ここまで書くと 私が何を言いたいか分かりますよね。 そうです。子供たちの写真をとても重視しているスポーツ教室のことです。全てのスポーツ教室に専属カメラマンがいるわけではありませんが、 スポーツ教室に入ると子供たちが熱心に スポーツしている姿や、 遊んでいる姿の記録写真が大量に残ります。コーチが息子を撮影してラインで送ってくれたりするのです。

  話は変わりますが、 うちの宿の近所にゴミを捨てに行くと、ゴミ捨て場のそばに大きなキャンプ場がありました。キャンプ場と言っても、テントの設営をする キャンプ場ではなくて、ほぼ豪華別荘に近いロッジが何軒も立ち並んでいる豪華なキャンプ場です。安っぽい キャンプ場ではありません。農園付きの豪華なキャンプ場です。なのに不思議なことに、お客さんが入ってる様子がないのです。 もちろん 夏には子供たちの団体さんがいっぱい入っていますが、 それだけです。 ファミリーも入ってなければ ライダーさんが入ってる様子もない。子供たちの団体さんしか入ってない キャンプ場が、 森の中の一等地にドカンとあるわけです。

「こんなんで儲かってるのかな?」
「どう考えても赤字だよな?」

と常々思っていたのですが、私の勘違いでした。 そのキャンプ場は、某少年スポーツクラブの子供たちの夏期合宿に使われる 施設だったのです。つまり私の宿に泊まってみた カメラマンというのは、このキャンプ場に泊まりに来る スポーツクラブの写真を撮りに来たカメラマンだったわけです。

 最初は、高いお金を払って夏の合宿に専属カメラマンを雇って子供たちの写真をバシバシ取るなんて、一体どんな金持ち対象のスポーツクラブなんだろうと思ったわけですが、そうではなかった。そのスポーツクラブは金持ちの子供が対象ではなかった。

「 一体これはどういうことなんだろう?」

と当時の私は不思議がっていましたが、今なら分かります。 子供達が元気に遊んでる姿や、自然体験をしてる姿や、 飯ごうすいさんをしている姿の写真が大量に手に入るわけですから、親としては スポーツクラブ ほど ありがたいものはありません。 学校に通わせてるだけでは そういった写真は手に入らないのです。 しかも プロのカメラマンの撮る写真ですから、 その映像の素晴らしいこと 素晴らしいこと。

 実はうちの宿に泊る プロのカメラマンさんにこっそり写真を見せてもらったのですが、 やはり プロが取るだけあって素晴らしい写真ばかりでした。 みんな いきいきとしてる。 しかも デジタルデータ なので、何枚でも取れちゃう。 初日に A 君の写真がちょっと足りないなぁと思ったら、2日目に A 君の写真をちょっと多めに撮ったりもできる。 b 君はなかなかな 笑わないなと思ったら B 君の笑顔なんとか見つけ出して写真に撮ったりする。繁盛しているスポーツ教室というのは、プロのカメラマンを雇って、そういうことをするわけです。だからスポーツクラブはFacebook や Instagram に子供たちの画像や動画が じゃんじゃんアップされています。 ここが商売を目的としていない幼稚園や小学校と大きく違うところです。


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  あと スポーツ教室に通う子供たちの 親御さんの多くが サービス業 だったりする。大金持ちの親が子供をスポーツクラブに入れているわけでは無い。むしろ逆で、貧乏ひまなしで子供にかまってやれない親御さんが、子供をスポーツクラブに入れている。

 例えば 宿屋の息子だったり、スーパーやデパートに勤める人の娘だったり、親が床屋さんだったり、 飲食業だったりする。彼らは決して裕福ではないのですが、その裕福でない親御さんたちが子供たちを スポーツ教室に通わせたりする。 どうしてかというと 日曜 祝祭日に仕事を休めない。夏休みに休んで家族旅行に出かけられない人たちだからです。

「 家族でディズニーランドに行ってきた」
とか
「家族で海外旅行に行ってきた」
という体験を子供たちにしてあげられない人たちなんですね。

 そういう親御さんにとっては、林間学校に連れて行ってくれたり夏の合宿に連れて行ってくれるスポーツ教室が、神様みたいに見えます。これって、サービス業をやっている人間にとっては、とてもありがたいものなのです。親の代わりに旅行に連れて行ってくれる。こんなにありがたいことは無い。それに、いくらスポーツ教室の月謝が高いと言っても、家族でディズニーランドに行くより滅茶苦茶安い。子供の成長と健康によいし、新しい友達ができる。世界が広がるのです。

(うちの息子は軽井沢スケートクラブで毎年1週間の夏期合宿をしたり、わざわざ新潟まで出かけて砂浜特訓をしたりしまた。ゴミ拾いや林業体験。長野テレビにでたり、マラソン大会、登山なんかを楽しみました。しかも中学3年生から小学1年生という幅広い子供たちとともにです)



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 もちろん、うちの息子もスポーツ教室に通っていました。 最初は小学校のスケート部に入ってたのですが、 途中からスポーツ教室に変えました。 変えたはいいのですが、 そのスポーツ教室は 隣県にあったので隣県の大会参加基準を満たしてなかったりしていたので、小学校の スケート部を完全にやめることはできませんでした。それについても後で語ってみようと思います。

 ではスポーツ教室というのはどういう存在なのでしょうか?
 うちの息子は、合計5つのスポーツ教室を体験しました。
 それについて述べてみたいと思いますが、文章が長くなったので 続きは明日にします。


つづく

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2025年01月14日

土井健次が亡くなって1年

土井健次が亡くなって1年。
彼を思い出す度に涙が出ます。
今後は、彼の遺族を支援しつつ、彼の遺稿を世に出したいと考えています。

合掌


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つづく

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2025年01月06日

さきほど父(91歳)が亡くなりました。今後は年賀状を、やめます。

 さきほど父が亡くなりました。
 91歳の大往生でした。

 誤嚥性肺炎(食べ物が気管に入って感染する肺炎)とパーキンソン症状をともなう認知症が原因で、半年前から何度も倒れるなどの症状がありましたが、内科の医師(インターン)に診断を御願いしても大したことがないと言われてしまい入院を断られ症状が悪化してしました。仕方が無いので脳神経外科の先生(大ベテラン)に連れて行ってはじめて精密検査をしていただくことになり、病気を認定してしまったしだいです。まあ、いろいろありましたが、ほぼ老衰が原因ということのようです。1年前に母が亡くなったことでパーキンソン症状をともなう認知症が発病したのではかいかと推測しています。

 なにしろ頑固でしっかり者の昭和一ケタの人間ですから、超やせ我慢の男で、しかも私生活がきっちりしており、介護認定を受けようとしても、元気すぎるとして中々認定されない状態だった。ヘルパーさんの前や、客人の前では、やせ我慢をしてシャキッとしていたので、なかなか病状が伝わりにくかったようです。一人で失神していたことが何度もあったことを入院の時に白状しています。

 父(佐藤正)は、15歳にして父(私の祖父)を癌で失い、遺産争いで負けて学校を退学し、祖母とともに3人の兄弟姉妹の生活の面倒を見る生活をおくりました。15歳で3人の弟妹の保護者となったわけです。といっても就職先はないため、同情してくれた人から小舟を借りて釣をし、それをさばいて干物にし、祖母が行商に出かけて生計をたてていたようです。

 こうして弟妹を自立させ後は、佐渡金沢村の正法寺に養子として入り、磯西を名乗り、母と見合い結婚し、警察予備隊の第1期生として入隊しました。それが航空自衛隊に発展するわけですが、佐渡金北に設置したレーダー基地で働いていました。当初の上官は米軍だったようで、昔の写真にはアメリカ軍の軍人たちと仲良く写っています。

 このレーダー基地は、第二次大戦中に米軍が使っていたもので、信じられないことですが戦後30年たった昭和50年まで現役でした。昭和50年頃になると戦前設計のレーダーの部品も入手困難となり、最新式の3次元レーダーに変更されました。つまり、その頃まで自衛隊は真空管と格闘していたわけで、修理やメンテに忙しかったようです。真空管はすぐに切れますから。

 そのせいか私の父は、電子関係にかなり詳しかったものです。書斎には「ラジオ技術」なとの専門誌がズラリとならんでいました。なので隣近所で故障したテレビ・ラジオ・扇風機・冷蔵庫などの電化製品の修理をジャンジャンやってました。電気工事もたいていのことはやってました。家を改築するときは、業者が行った雑な電気配線を自分で治したりしていました。父の階級は、私が小学校に入学する前にすでに下士官最高位の一曹でした。恐ろしいほど速い出世をしていますが、よほど修理のスキルが高かったと思われます。

 しかし家電製品にLSIが入り込むと、それらの修理を一切やらなくなり、かわりにパソコンに熱中するようになります。定年退職後は、LSI工場に17年間勤め惜しまれつつも70歳で退社。その後は、佐渡女子高校で守衛として高校が廃校になるまで働きました。その後は。畑を借りて家庭菜園に精を出します。いわゆる働きムシというやつで、働いてないと死んじゃうタイプの人で、とにかく我慢強く自立心のたかい人でした。

 部屋は整理整頓してないと気が済まないタイプで、母が散らかした部屋を常に整理してまわった人間で、教員だった母のもちこみ残業(テストの採点)を常に手伝っていたのは良い想い出です。とにかく動いてないと気が済まないタイプで、夏の間だけ別館のペンションを手伝ってもらったことがあったのですが、その時が、人生で1番いきいきしていたような気がします。自衛隊やLSI工場なんかより、一国一城の自営業の方が向いていた気がしました。


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(私が生まれた佐渡・正法寺・保育所が隣接されている)


 ちなみに磯西から佐藤に名前を変更して、正法寺から脱出した理由は、異母兄のところで厄介になっている祖母を引き取るためでした。そのために正法寺の養子を解消し、磯西から佐藤にもどしたのです。

 兄弟姉妹を一人前にしたあとに残された父の課題は、異母兄のところで肩身を小さくしている実母をひきとることでしたが、それを自分の妻(つまり私の母)に黙って行ったために、祖母と母と父の間には、微妙な空気が流れていました。しかし、母には反対はできませんでした。黙って従うしかなかった。弟が生まれたからです。

 祖母がいなければ、母は教師をやめて家庭に入るしかなかった。母の勤め先は、佐渡島でも僻地で有名な外海府であり、そこには託児所も幼稚園も無かったからです。おまけに当時は、出産後2ヶ月で職業に復帰しなければならなかった。

 さらに新潟大地震があった。ショックで母の母乳はとまり、生後1ヶ月の弟は、ミルク缶のお世話にならざるえなくなりますが、そのミルク缶の入手が地震で困難になりました。地震で一番不足するのはミルク缶ですが、それはショックで母乳が出なくなるからです。そこで祖母の活躍がはじまります。私は、祖母と父と暮らすことになり、母は生後2ヶ月の弟を連れて佐渡島の僻地に単身赴任しました。

 母は、単身赴任先で下宿していました。そこで私は3歳9ヶ月になるまで育っていました。下宿先には男はいませんでした。未亡人と耳の聞こえない娘さんの二人きりでした。そこに近所の婆さまたちが、たむろしていて、いわゆる女ばかりの環境の中で生活していました。そこには男がいなかった。

 つまり幼少の頃の私は、父親という存在が、この世に存在することが、わかってなかった。3歳9ヶ月まで父親という存在を知らなかった。そもそも日常生活の中に男がいなかった。そんな世界から、厳格な父親と、口うるさい祖母のいる世界にぽつりと置き去りにされてしまった。


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 父の躾は厳しかった。
 いきなり児童虐待の世界に放り込まれてしまった。

 箸の身持ち方が悪いと、物差しで叩かれた。それでもなおらないと天井裏に閉じ込められた。これが条件反射として15歳くらいまで体にしみつきました。誰かが手をあげるたびに『びくっ』とクビをすくめるようになった。背後に誰かが迫ると恐怖のあまり激怒した。しかし昭和時代には、そういう家庭が少なくなかった。

 そんな環境下で私はSF小説に熱中した。当時は、NHK少年ドラマシリーズが流行していて『時をかける少女』が大ブームだった。タイムリープ(時間旅行)の話である。で、私には、タイムリープ(時間旅行)の体験があった。だから本気でタイムリープ(時間旅行)の能力が私にあると信じ込んでいた。

 しかし、その体験は、単なる記憶の欠落であったことに18歳の頃に指摘されて気がつき、専門医の診察をうけました。3日くらい隔離入院されましたが、短期記憶に多少の問題があるが、生活するにあたっては問題なしということになりました。今で言う学習障害みたいなもので、ひとさまよりもものわすれが酷いので頻繁にメモをとるか日記をつけるよう言われました。

 日記をつけると、書いた覚えのない日記が存在することがわかり、タイムリープ(時間旅行)の体験は、単なる記憶の欠落であったことがわかり、その現実に落ち込みました。ちなみにこの障害は、息子にも遺伝しているらしく、やはり忘れ物がおおく、発達心理の先生から学習障害を疑われています。息子の学力は、昔で言うところのオール5にあたるし、知能検査をしても140の数値(これ以上は測定不能)を出しているのですが、専門家にいわせれば、あきらかに学習障害の可能性が高いらしい。

 それはともかくとして、この障害のおかげで良いこともありました。医師から物忘れが酷いので頻繁にメモをとるか日記をつけるよう言われ、それを実行すると文章力がアップして、人々から文章を賞賛されるようになりました。そこでいろんなコンクールに応募し、いろんな賞をいただくようになったのです。それを良いことにコンクールあらしをして賞金稼ぎでウハウハできるようになったりした。つまり障害も使いどころによっては、武器になるという典型例が私です。

 まあ。そんなことは、どうでも良いとして、父は厳格できびしかった。実は、母もかなり躾に厳しかったのですが、厳しさの方向性が全く違っていたのは興味ふかいところです。母は、やたらとぎょうぎょうしい挨拶にこだわっていた。そのかわりに箸の持ち方などは、きにしてなかった。父は箸の持ちかたとか、食事の仕方、勉強とかに細かくこだわった。人間を一つの型にはめるスタイルで、軍隊式というか、すごいスパルタ教育を父は行った。母が拘ったのは、礼儀と挨拶を大げさに徹底させるだけ。あとは自然にまかせるスタイルだった。寝る前に正座して三つ指をついて
「◇◇さん、◆◆さん、おやすみなさいませ」
と無茶な挨拶を2歳児3歳児にさせるけれど、その他の細かいことは、比較的自由だった。父と母では、あきらかに教育スタイルがちがっていた。

 私は、唯一、しっかりと母に厳しく教育されていたために田舎の老婆たちに可愛がられた。昭和の田舎では、礼儀正しさのある幼児は非常に可愛がられました。ところが父には、そういう礼儀正しさに関する教育の発想がなかった。それよりも食事マナーや、勉強や、整理整頓や、こまごまなことに激怒して何度も殴られた。泣くことも許されなかった。倒れて泣いたら怒鳴られたし、何度も殴られた。あれは人間を一つの型枠にはめようとする軍隊式の教育だった気がします。

 そのためか母は、自分なりの教育をやめてしまった。父があまりに厳しいスパルタだったために自分の拘りを放棄してしまった。だから2人の弟たちは、母は優しい人だと勘違いしていますが、本来は違っています。両方とも厳しいひとなのですが、父のキャラが強すぎるから、自分本来のキャラを消してしまったのです。つまり父と母とで役割分担していたのだと思う。なんだかんだと言って良い夫婦だったのかもしれません。

 その良い夫婦が、別れ別れになったのが、1年9ヶ月前です。
 母が死んだ。
 父は、母の形見を全部捨てろと言ってきた。
 弟は、それを拒否したが、私は苦笑して聞いていた。

 あれは、3番目の弟が生まれる前の話です。父と母は、よく喧嘩していました。喧嘩の理由は、母が散らかすということから始まっていました。それに対して父は激怒しながら掃除して整理整頓していきました。父はよく
「いらんものが多すぎる」
「整理整頓できないならモノを買うな」
と怒鳴りながら掃除していました。母は、華麗にスルーしつつ散らかしました。しかし、母にも言い分はありました。仕事をしていたからです。採点をしたり、がり版をつくったり、カット(挿絵)を書く練習をしていた。コピーもパソコンもない当時の教師の仕事はたいへんだったのです。

 しかし、父親の言い分もよくわかる。私の母は、いらんものをよく買った。そしてモノが増えていった。そしてモノが増えるごとに家が狭くなり、父のイライラは増した。父は整理整頓ができてないと許せない性分だったのです。結局、家を増築することによって、この問題は解決することになりますが、あれから50年。実家はどんどん増築されてゆき、ものはドンドン増えていきました。母が死んだときは、家の一部がゴミ屋敷になっていました。ものであふれかえっていたのです。

 父は、母の形見を全部捨てろと言ってきた。
 弟は、それを拒否したが、私は苦笑して聞いていた。
 結局、大半の形見を捨てることになった。

 捨てる時に母の愚痴を思い出した。
 父の無駄使いのことである。

 父は庭に150万の松の木を植えたのだが、
「あんなものに150万払うなんて馬鹿みたいだ」
と母は怒っていました。父が何十万もするボート(船)を買ったときも母は
「馬鹿みたいだ」
と怒っていましたが、
「博打もやらないし、酒にも飲まれないし、まあ、いいんじゃない」
と言ったことがある。

 この時、夫婦の趣味が違うと、うまくいかないなあと思ったものです。
 なので私は、趣味を同じくした人と結婚しています。


つづく

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2024年12月23日

今年は親戚以外は年賀状を控えさせていただきます

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1月14日の土井健次氏の死去にともない、
今年は親戚以外は年賀状を控えさせていただきます。
すいません。

みなさん、よいお年を。




つづく

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2024年12月22日

土井健次との邂逅

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 土井健二という男を語る前にバブル時代というものを説明したい。日本という国が狂ったように経済成長をしていって、それこそ世界を制服しかねないような勢いだった。日本が一人勝ちしていた時代であり、日本企業には日の出の勢いがあった。

 当時の会社は卒業予定の学生を確保するために懸命だった。人材がいれば、いくらでも会社が伸びる時代でもあった。就職内定者をハワイとかロサンゼルスに連れて行ってよそに取られないように隔離するという時代でもあった。就職説明会には、数万円もするコース料理がでたりした。

 男たちは恋人のためにクリスマスイブに1泊何十万もするホテルを予約していた。そこら中に金が有り余っていた。

 今から考えると信じられないことなのだが卒業旅行に大学生たちが海外に出かける時代でもあった。3月にフランスのパリなんかを旅すると日本人の学生たちがうじゃうじゃといた。石を投げると日本人に当たるどころか、投げようとした瞬間に手が日本人学生に当たるレベルだった。ヨーロッパのめぼしい観光地は日本人学生に占拠されていた。彼らの旅行資金は、どこから湧いて出たのだろうか?今考えても不思議でならない。

 そんな時代に私は、事業(映画製作)に失敗し、家一軒買えるほどの借金を抱えてしまった。まだ27歳だった。しかし、そんな失敗も簡単に取り返せるのがバブル時代だった。あっという間に借金を返済したうえに、そこそこの貯金を得た。その金で世界放浪の旅にでるのだが、それについては後述する。

 人手不足だった当時は、働く現場に若い人たちが不足していた。日本中の企業が人材確保のために何百万も何千万も使っていたことはすでに述べた。就職説明会に来た学生たちに何万円もする弁当を出したり、高級寿司店に連れて行ったり、研修と称して海外旅行に連れて行ったりしていた。たかだか就職説明会に、そんなことをした時代があったのだ。なぜ私が、それを知ってるかというと、当時、新卒学生の就職に関連する仕事(人材確保に関する映像の仕事)をしていたからである。

 まあ、そんなことは、どうでもいいとして、そういう時代であるからこそ、若者たちは、中小企業や、肉体労働と言った職業に就きたがらなかった。

 そこで困ったのが、どうしても見てくれのよい若者たちを必要とするサービス業だった。特に困ったのが警備員だった。何故ならば昭和天皇の寿命が尽きかけていたからだ。世界中の各国要人たちが昭和天皇の葬儀のために日本に集る必用があったのだ。しかし昭和天皇はしぶとかった。なかなか死ななかった。死ぬのは確実だったのだが、医療チームは懸命に延命治療をしていた。

 しかし死はいつかやってくる。世界中の政府機関は、世界最大の葬儀となる皇室の葬儀のために準備で大わらわとなった。なにしろ当時の日本は世界第二位の経済力と、世界第四位の軍事力をもっていた。ジャパンアズナンバーワンと言われ、世界最古の皇室を誇った皇族の大葬儀が目の前に迫っていたのだ。その準備のために世界中の政府が、都内の一流ホテルを、かたっぱしから貸切った。そしてホテルやボディーガードの警備員の需要が爆増した。しかし昭和天皇は中々死ななかった。都内のホテル業界は、1年近く人材難に苦しんだ。

 当時だって警備員の人材はいた。しかし、VIPが宿泊する予定の高級ホテルとしては、見てくれの良い若い人が必要だった。豪華なホテルには道路工事で日焼けしたオッサン警備員はNGだったのだ。しかし、若い人は一流企業が確保していたので警備会社に若い見てくれの良い人材は集まらなかった。

 で、私のところに話がまわってきていた。で、幸か不幸か私には、そういう人材のアテがあった。役者を目指している見栄えの良い若者(友人)を沢山かかえていたのだ。私は彼らをかき集めて各ホテルに派遣した。当時のホテルなどは、見てくれの良い若者に信じがたい高給を払った。私は、その時にひと山あてた。その金で長期間の海外旅行に出た。あての無いブラリ一人旅だった。

 インターネットの無かった時代の海外旅行は、今より逆に便利だった。列車が駅に着くと、ホームに宿屋の客引きがいたので宿に困ることはなかった。それに駅にはツーリストインフォメーションというものがあって、それが今でいうインターネットの機能をしていた。困ったときはツーリストインフォメーションに行けばなんとかなったのだ。当時は移民問題が無かったために、治安が良かったし、みんな親切だった。だから誰でも簡単に旅ができたし言語の壁も今より低かった。

 ただし、運が良いのか悪いのか、私が海外旅行にでた頃は、世界中でとんでもないことがおきていた。ベルリンの壁が崩れ、東ヨーロッパは内乱状態になっていた。朝ホテルで目覚めると革命がおきていたということも普通に何度も体験したし、あちこちでcnnの車をみかけた。

 もちろん人種差別も嫌というほど体験した。死にそうな目にもあったし、強盗にあったうえに強盗さんと仲良くなったこともあった。旅行中に戦争がおきたこともあった。もちろん戦争になれば外務省によって渡航制限がかかる。つまりパリなんかに卒業旅行にきていたバブル時代の日本人学生たちが根こそぎいなくなる。

 当時、かなり長期化した戦争が発生した。湾岸戦争である。イラクがクウェートを占領し、それを多国籍軍が何ヶ月もかけて包囲した。その結果、ヨーロッパ方面への飛行機が飛ばなくなった。今と違って昔はロシア領内を飛べなかったために中東諸国を通過しないとヨーロッパに行けなかったのだ。

 バブル時代の親たちは、子供たちに気前よく小遣いをわたしていた。けれど戦争中に海外に行かせなかった。困った当時の大学生らは、卒業旅行に北海道を選んだ。当時、倉本聰のテレビ番組『北の国から』がブームで北海道は人気観光地だった。映画も『私をスキーに連れてって』が大当たりして、雪質の良い北海道のスキー場が満杯になっていた。当時の大学生たちは猫も杓子もスキーに行ってた。信じられないことだが当時のスキー場はナンパ場でもあった。



 あれは、1991年の3月頃だったと思う。湾岸戦争によって海外旅行を断念した私は、北海道の美瑛・美馬牛の雪景色を見に旅立った。列車の中にはスキー板をかついだ卒業旅行の学生たちがいっぱいいた。
「こんな遠くまでスキー板を持ってくる奴の気が知れない」
と半ば呆れるように私は眺めていたが、そういう学生たちの一人に土井健次もいた。

 彼らは集団でワイワイ楽しそうにしゃべっていた。列車は私の目的地である美馬牛に到着すると、その学生集団たちも私と一緒に降りて、美馬牛リバティーユースホステルという宿に入っていった。
「ちっ、今日の宿は学生団体さんと一緒かよ」
とガッカリしながら宿でチェックインの手続きをしてた。しかし学生団体と思っていた一団はみんな一人旅だった。前日か前々日に、どこかの宿(ユースホステル)で、たまたま一緒だったために顔見知りだっただけだった。

 私は彼らに声をかけられた。
「どちらの大学ですか?」
 これには戸惑った。

 当時の私は年齢よりも十歳若く見られたので、誰もが私の事を学生と信じて疑わなかった。困った私は、彼らにユースホステルの会員証を見せた。そこには、28歳と書いてあった。ええ?と驚かれ、それ以降は無視された。

 当時、ユースホステルをよく利用する大学生の多くは、高学歴であり、それも国立大学出身や医学部出身が多かった。ふだん生活してて、東大生に出会う確率など、そうめったにあるものではないが、ユースホステルに泊まると必ず一人か二人ぐらい出会ったものだった。定員20名から30名の宿で出会うことを考えたら、ユースホステルがいかに高学歴の学生が泊まる宿で会ったか、わかるというものである。

 そういう連中の会話ときたらテレビや流行歌の話題など全くなくて、三日三晩寝ずにやった実験を失敗した話とかで、一般人が入れる話題では無かった。そこでの私は、異端もいいところだった。なので、すみの方で小さくなっているしかなかった。
「どちらの大学ですか?」
という問いかけもマウントをとられている気がして良い気分にはならなかった。なので彼らとの交流はできるだけ避けた。

 無視された私は、これ幸いと、チェックイン後は、せっせと絵はがきを書きまくっていた。当時は、インターネットもSNSも無かったので、絵はがきと年賀状と宿(ユースホステル)がインターネットの代わりだった。さんざん海外旅行していた私は、旅先で知り合っていた人に、旅の宿で絵葉書を書いていた。

 当時、旅人に出すたよりは、旅先から出すという風習があった。自宅から出さなかった。旅先で大量に出すのが普通だった。長期の外国旅行で知り合っていた人が多かった私は、大量に絵葉書の返事を書かなければならなかった。

 もちろん旅人の住所録なんか持ってない。そんなものは作らない。面倒くさいことはしない。絵葉書をもらった人にしか返事を書かないからだ。旅は一期一会。旅先で出会った人に再び再会する機会などあるわけないと思っていた。

 しかし、異国で出会った日本の旅人たちは、例外なく旅先から絵葉書を送ってきた。私はセッセと返事を返した。礼儀として、こちらも旅先から絵葉書を返す。そのために貰った絵葉書に書いてある相手の住所を書き写して出すのだ。つまり住所録のかわりに、自宅に届いた大量の絵葉書を持って旅していたのだ。

 美馬牛リバティーユースホステルで私は孤立していた。私だけ学生では無かった。会話の内容についていけない。だからセッセと絵葉書を書いていた。当時のユースホステル利用者は、学生が9割だった。なので社会人だった私は、どのユースホステルでも孤立した。だから、どの宿でもセッセと絵葉書を書いていた。だから今までユースホステルで泊まり合った学生たちとは、交流をもってなかった。しかし湾岸戦争があった1991年の3月だけは、ちょっと違った様相になる。

「あれ?」

と大声をあげたのは、当時大学4年生だった土井健次であった。

 彼は、私がもらった絵葉書をみつけてしまった。その絵葉書は、ドイツ・オーストラリア・チェコ・ポーランド・ユーゴ・エジプト・ネパール・インド・タイ・マレーシアといった国々から届いた絵葉書の束だった。そして私が日本から出そうとしている絵葉書の宛先も、それらの国々へのものだった。

 すると今まで無視されていた私は、学生たちに「わっ」と取り囲まれた。彼らは、湾岸戦争で泣く泣く海外卒業旅行をあきらめた人たちだった。湾岸戦争以前なら、必ず無視されていた私だったが、湾岸戦争以降となると全く状況が変わってきていた。急に大学生たちに取り囲まれ質問され、話題の中心となって戸惑った。土井健次のせいで、突然、みんなの人気者になってしまったのだ。

 気が付いたら私は、みんなと一緒にクロカンスキーを楽しむことになっていた。土井健次は、みんなからオーロラ君とよばれていた。知床でレーザー光線で人工的に作られたオーロラショーばかり見ていたから「オーロラ君」とよばれていたらしい。

 彼だけで無く、他の大学生たちも、みんなニックネームをもっていた。北海道を旅する人たちの多くは、こういった「旅人」ネームをもっていた。旅人ネームは、各ユースホステルの主から付けられていたケースが多かったようだ。土井健次は私に聞いてきた。

「佐藤さんの旅人ネームは、何ですか?」
「・・・」

 私には、そんなものは無かった。
 答えようが無かった。
 私は北海道では新参者だった。
 ついでに言うとユースホステル利用者としてもライトユーザーだった。
 さらに土井健次は、私が書いていた外国に出す絵葉書を見ながら聞いてくる。

「いったい佐藤さんは何者なんですか?」
「・・・」
「どんなお仕事をしてるんですか?」

 この時、私は少々ムシの居所が悪かったかもしれない。
 ムッとしながら答えた。

「風(かぜ)です」
「風(かぜ)?」
「バックパッカー(旅人)の世界では、仕事をやめて世界を放浪する人のことを風(かぜ)というんです」
「?」
「関東地方では、風(プー)とも言いますけれどね」

 すると皆が爆笑した。
 土井健次も大笑いした。
 笑いながら出身大学を聞いてきた。
 これだけ旅するからには、どこの外国語大学の人なのか?と聞いてきた。
 私は「キター!」と思いつつにこやかに答えた。

「由緒正しい中卒です」

 またもや爆笑の渦となった。この瞬間から私は、土井健次に追いかけ回されることとなる。彼だけでは無い。他にも私のようなフーテンに纏わり付いてくる人がいた。そして、もう一度東京で再会し同窓会(飲み会)を開きたいと言ってきた。

 一番年齢の高かった私に対して兄貴のように慕って付きまとって、私にオフ会を開くよう言ってくる。仕方が無いので私から皆に声をかけて何度もオフ会を開くようになっていた。その結果、知らず知らずのうちに私のアパートは、彼らのたまり場になり不特定多数の人間が出入りすることになるが、それについては、きりがないので、ここに書かない。

 それより困ったことは、彼らと付き合っていくうちに、私の正体が徐々にバレてくることである。風(プー)でもなければ、中卒でもないことがバレてくると、彼らはますますべっとりとしてきた。そうなると彼らと付き合うことが、ちょっと息苦しくなってきた。旅先で大量の絵葉書を書くのも苦痛になってきた。彼らのために開く飲み会も面倒くさくなってくる。その結果、人間関係を精算したいと思うようになる。

 大学を卒業した彼らは、社会人になったとたん、人間関係が狭まってくる。
 つまり私を通じて、広い人間関係を欲する需要が急に出てくる。
 そこで旅人どうしのオフ会の需要がでてくるのだ。
 当時は、インターネットもsnsも無かった。
 社会人になりたての青年たちは、人恋しがって旅人の世界に集まって来たがった。

 しかも時代は、バブルであった。
 バブルは人材を求めていた。
 各企業は新卒学生の青田刈りに励んでいた。

 旅人の飲み会を開く度に、社会人になったばかりの人たちが、学生たちの飯代飲み代を負担していた。その経費は会社から出ており、会社からは新人をスカウトするよう命令されていた。
 それほどバブル時代は、新卒の学生を確保するのに必死だった。だから会社の説明会の出席するという条件つきで、学生たちの飯代飲み代を負担していた。学生たちも、なんの遠慮もなく飯代飲み代を奢ってもらっていた。それを当然と思っているのがバブル時代の学生たちの風潮だった。
 つまりバブルという時代的要請によって、旅人の集まり(つまり飲み会)をバックアップする社会的な背景ができあがっていたのだ。

「佐藤さん、次の飲み会はいつですか?」

と皆、私をせっついてくる。それは社会人もそうだし、学生側もそうだった。そうなってくると、だんだんこちらもシラケてくる。苦痛になってくる。




 そんな中で、そういう事に全く縁の無い男がいた。
 土井健次である。

 彼は、ある意味で純粋な男であった。純粋に自分が面白いと考えることにしか興味が無かった。だから私が飲み会をしなくなると多くの人たちが消えていったが、土井健次だけは私に纏わり付いた。彼とは飲み会以外のことで盛り上がった。

 私が登山に誘うとホイホイついてきた。普通の登山では面白くないので、海抜ゼロから富士山に登ってみたり、山で浴衣を着てみたり、流しそう麵を流したり、タキシードで正装して清掃登山してみたり、北アルプスの頂上で簡易居酒屋をひらいてみたり、富士山に酒樽(60s)を担いで登って皆に酒をふるまったりした。他にも東海道500qの駅伝をやってみたり、東海道を何回往復走ればママチャリが壊れるかの実験もやってみた。知床山脈を含む数々の秘境も探検した。一緒に韓国旅行にも行ってきたし、飛行機のコックピットにも入れて貰い、機長のサインまでいただいた。思えば、いい時代だった。

 そんな彼が天才であることは、彼と付き合ってすぐ気がついた。

 当時のユースホステルには、東大生などの高学歴者がわんさかいたのだが、そんな東大生たちよりも土井健次の方が、よほどIQが高いことに気がついた。確認のために本人に聞いてみたら140だと白状した。140という数値は一般的なIQ検査で測れる最高値である。それ以上は別の検査が必要になる。私の肌感覚から言わせてもらうと彼のIQは200ぐらいあったと思う。

 彼は四桁のかけ算を暗算でやっていた。算盤をやっていたの?と質問したが、算盤はできないという。小さい頃から公文をやっていたのでそのせいではないかと本人は言っていたが、そんなわけはない。公文では四桁のかけ算を暗算することはできない。そのうえ彼は難しい仕事を次々とこなしていった。専門分野でも無いのにIT関係の作業を次々とこなしていき、大手のIT会社の代理人にもなっていた。本気でやれば事業として大成功していた可能性もあった。

 いつだったか「知床の自然」という何百ページもある学術書のOCR化を頼んでみたことがあったのだが、彼の作業には、1文字の誤字もなかった。何をやらせても完璧だった。そのうえ、どんな無茶な頼みも必ず納期を守った。仕事のできる男であった。

 本人は落ちこぼれと自虐していたが、人間は天才すぎると落ちこぼれる事がある。子供の頃は大して勉強しなくても良い点が取れるために、苦労して覚える経験が少ないからだ。だから超一流の地位からは落ちこぼれるが、超一流から一流に落ちこぼれるというだけで、本当の意味では落ちこぼれてない。ようするに好奇心のまま生きたいたら出世に興味がないだけなのだ。

 私はそんな彼をいろいろ観察してきた。
 実はその観察が自分の子育てに生きている。

 土井健次の仕事術・勉強方法は非常に参考になる。彼は絶対に徹夜をしない。教科書に線を引いたりもしない。メモもとらない。一番うすっぺらい問題集を一冊。それを3回から4回解くだけである。しかも2回目から4回目までは間違えたところしかやらない。つまり間違えたところを探すだけなのだ。だから4回解くと言っても勉強する時間は恐ろしく短い。

 彼は、この方法で、アマチュア無線の免許や、旅行主任資格をとってしまった。専門学校生が2年かけて必死になって勉強してようやくとれる資格を、一番うすっぺらい問題集を数時間だけパラパラとめくって解いてみるだけで合格していた。

 彼は、基本的に小テストしかやらない。それも間違えたところしか勉強せず、あとはひたすら寝るだけなのだ、これは彼に限らず私がユースホステルで知り合った数多くの天才たちは、みんなこんな感じだった。天才たちがガリ勉しているところなど見たことがない。

 登山仲間数十人が、登山仲間全員でアマチュア無線の免許をとろうとしたとき、天才たちは薄っぺらい問題集を3回くらいしかやってないのに全員合格した。それに対して受験勉強と無縁な人生をおくってきた人たちは、分厚い参考書を読んで、必死になって基礎的な物理を理解しようとして頑張ったが全員落第した。

 落第した人が頭が悪かったかというと違う。確かに彼らの勉強の成果はでていた。概念は理解していたし、合格できるスキルはもっていた。なのに落第した。逆に土井健次は、基本的な概念を理解してなかった。理解はできてなかったが合格してた。想定問題集を3回やるだけの最短時間で合格して見せた。

 ようするに土井健次は、必用な回答能力にしぼって学習していた。合格に必用なことを瞬時で見破り、それを最短時間で達成する方法を一瞬で発見する男だった。だから努力も最低限しかしていない。空いた時間で他の仕事をこなすのである。これを天才と言わず何と言おうか?

 それは余談になるが、この方法は、うちの息子の勉強にも使わせてもらっている。効果は絶大で主要科目に限定すれば、昔で言うオール5をとっている。だからうちの息子はガリ勉をしてない。1日10分の小テストと、好奇心を満たせるためのEテレの視聴させているだけである。それも5問以下の小テストだけでいい。それを回数やるだけで驚くほど効果があがるが、それらの手法は、土井健次の学習法を手本にしている。


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 土井健次は、好奇心が強かった。あまりにも好奇心が強いために自分が面白いと思ったことには全力をそそぐ。そのために、お金や出世に興味がないし、それらを捨てていく潔さがあった。そのくせ必用とあらば最短時間で、各種の資格をとっていった。趣味で出版社も立ち上げ事業化もしたし、大手IT会社の代理店もやっていた。『風のたより』という同人誌も総計200号ちかく発行しているし、1000以上の山にも登っている。文章も多く書いていて某出版社からライターのスカウトも受けていた。おまけにピアノが弾けてトロンボーンもやっていた。もちろん絶対音感もある。体力も精神力もすごくて、マラソンと水泳にいたってはプロ並みだった。
 それほどの能力がありながらそれらの力を出世のために使ったことは無かった。「へたに能力を見せると使われてしまうから」と笑って語っていた。

 そんな土井健次ではあるが当然のことながら欠点もあった。それは、私にも、私の息子にも共通する欠点で、彼には学習障害の臭いがあった。と言っても正真正銘の学習障害ではなく、そのような臭いがあったということである。

 天才・土井健次の能力は、バランスを欠いていた。確かに、ある部分では天才ではあったが、別の一部分が、それに追いついてなかった。そのせいで時々、人を怒らせた。だから私は、何度も何度もハラハラした。うちの宿の御客様を怒らせることが多かったからだ。

 誤解の無いように言っておくが、彼は人徳者である。彼を慕う人は多いし、女にもモテる。性格は優しさの塊であるし、子煩悩で愛妻家でもある。困った人もほってはおけない。そのうえ天才なのだが、思い込みが激しく一途な上に頑固者だった。一般的に長所は欠点であると言うが、それもドがすぎると人を怒らせることがある。

 例えば健康に関して例をあげる。かれは思い込みが激しく、絶対にコロナワクチンを打とうとしなかった。一度、反ワクチン派の言説に影響されると、絶対にワクチンを打たず、私のように何度もワクチンを打とうとする人に、データーを示して危険性を訴えるが、余計なお世話であろう。
 しかし彼にしてみれば、親切のつもりである。その余計な親切が、時と場合によっては迷惑になるのだが、普通の人なら、そういう迷惑をしないように心がけるはずなのだが、土井健次には、そのへんの気転がきかないのだ。そして頑固だったりする。

 頑固と言えば、彼が酔っ払って失敗したことがあった。その結果、彼は禁酒を宣言した。そして本当に酒を飲まなくなった。あの酒好きな土井健次が、1年間にわたって一滴も飲まなかったのだ。死ぬ直前には、アル中ではないかという疑惑さえあった、あの大ウワバミの土井健次が、一滴の酒も飲まなかった。若かった頃の私たちは、何かある度に飲み会を開いたものだったが、土井健次は旅先でも居酒屋でも一滴も飲まなかった。それがあまりにも厳格だったために
「どうして飲まないんだ?」
みんなが心配するようになり、しまいにはほとんどの者がキレだすようになったが、彼は頑固にも飲まなかった。結局、最後には禁酒を終了させるわけだが、その切っ掛けについては、ここには書かない。

 そういう頑固さは、勉強や仕事の面で大いに役だったと思う。一旦彼が何かをやり遂げようとした時、彼は頑固さを持って必ずやり遂げた。
 仕事や勉強だけではない。
 例えば ダイエットを決意すると目標体重になるまで極限まで努力した。そして3ヶ月という期限を決めていれば必ず3ヶ月以内にダイエットを完成させた。三日坊主になるとか、決意だけで終わるということは絶対なかった。そういう姿を常日頃から見ていた私は彼に対して

「お前はどうしてそんなキャラクターなんだ?」

と聞いたことがある。彼はじっと考えて答えなかった。そして私が質問をしたことを忘れてしまった3日後ぐらいになって、突然答えてくれた。

「あの時の質問だけれど、多分、家庭環境の影響があるかもしれない」
「どういうこと?」
「土井家では口だけで行動しないことを馬鹿にする風習があるんだよね」
「それで土井君はやると決めたら、とことんやっちまうキャラクターになっちゃったのか?」
「そうかもしれない」

 彼はそう答えたけれど私はその回答を信じてなかった。私は、土井君に対して学習障害の疑いを持っていたからだ。もちろん彼が学習障害だったかどうかは今となっては知るよしもない。単なる性格の問題だったのかもしれない。もしそうだとしたら、かなり頑固な人間だったとも言える。その頑固さについてもう1つ例を挙げてみよう。

 彼は大学を卒業すると東急車両という会社に入社した。それを聞いた私は驚いた。東急車両といえば、海軍航空技術廠を引き継いだ会社でミリタリーオタクにとって聖地ともいえる有名なところだった。ちなみに彼は旧海軍士官学校であった海城高校の出身でもあった。海城高校といえば偏差値70近い超進学校であるが、単なる進学校ではなく海軍の伝統を受けついだ学校で、ガンガンつめこみ学習させたうえに、運動もスパルタ式という、いわゆる海軍式教育で有名なところだった。お世辞にも天才型の土井健次にあう学校では無かった。

 だから土井健次は、この学校で落ちこぼれたと言って笑っていたが、それは納得できる。土井健次のような天才には、麻布高校のような自由な校風が合っている。彼には自由が必用だった。なのに彼は海軍航空技術廠を引き継いだ東急車輌に入ってしまった。
「だいじょうぶだろうか?」
と心配したものだったが、その心配は当たってしまった。と言っても会社で問題を起こしたわけでは無い。会社の寮で問題をおこしてしまった。

 1992年当時、東急車輌は、旧海軍航空技術廠にあった。戦艦三笠が陳列してある横須賀にあったのだ。浦和にあった実家から遠かったために彼は、会社の寮に入った。そして寮の食堂が値段にあってないと思ったらしく、クレームを入れた。そのクレームを寮の食堂側が拒否した。すると土井健次は、寮費のうちの食費の支払いを拒否して自炊をはじめた。ボイコットである。

 といっても寮に自炊設備は無い。当時は食堂もコンビニも近くに無かったので外食もできなかった。それがわかっていて寮側も強気だったのだろうが、そんなことでへこたれる土井健次ではない。登山用ストーブを使って朝晩自室で米を炊きはじめた。
「そんなめんどくさいこと止めたら?」
と私は何度も忠告したが、彼は頑固にやめなかった。せめて炊飯器を買ってはどうか?とアドバイスもしたが、それさえも拒否して、
「登山用ストーブを使って究極に美味い飯を炊く方法を研究するんだ」
と数年間その作業を嬉々と続けた。嬉々として自室の部屋でアウトドアでの米の炊き方を追求していった。

 そのせいで登山する時は、かならず土井健次が御飯を炊いた。いつも美味しい御飯が我々に提供された。あれは全部、土井健次が作っていたのだ。どんな秘境の中でも、どんな嵐の中でも、どんなに疲れたときでも土井健次は美味しい御飯をたいた。みんな倒れていても一人コツコツと御飯を炊き、全員にそれを配り、食後の片付けも一人コツコツと行った。土井健次の頑固さによって、常に私たちは、美味しい御飯を食べられたのだが、その頑固さゆえに土井健次は会社の寮から追い出されてしまっていた。

 頑固といっても、彼を知る人は信じないかもしれない。彼は、ひとあたりがよく優しく親切で気が付く人だからだ。いわゆる人格者と言ってもいい。彼に憧れる人は多かったし、本人は気が付いてなかったが女性にもモテた。味方にしたら、これほど頼もしい人間はないというくらいに親身になってくれた。しかし、いったん敵認定したらこれほど恐ろしい人間もなかった。手が付けられなかった。新型コロナワクチンを敵認定したら、それを徹底的に拒否するのだ。

 彼の韓国嫌いは有名だが、最初から嫌いだったわけでは無く、最初は彼ほどの韓国好きは日本にはいないのではないかというくらいに彼は韓国が好きだった。学生時代から何度も韓国に旅行に行ってて、韓国の友人も多く、韓国にホームステイまでしていた。私と一緒に韓国旅行もした。

 ただし天才だった土井健次は、短期間で韓国語を習得した。だから韓国語も話せるし、ハングルの読み書きもできる。すると嫌でも韓国の反日情報が入ってくる。言語ができるということは、不快な一次情報も目に入ってくるということでもある。最初から興味が無ければ、そんな情報は見向きもしないのだが、天才土井健次は、現地の一次情報を見る能力をみにつけてしまった。なので、どうしても嫌なところが目にはいってしまう。で、嫌韓になっていく。そこまではいい。問題は、いったん嫌韓になると何もかも全て拒否するようになることだ。あれほど大好きだったキムチもマッコリも二度と口にしなくなった。その嫌い方は、非常に徹底していた。

 昔は、よく浅草のユースホステルに泊まったものだったが、そこには多くの韓国人が泊まりに来ていた。国家のトラブルともかく、日本に泊まりに来る韓国人は、非常に親日的でフレンドリーでチャーミングだった。あきらかに、こちらに近づきたいオーラをだしてきて、アッというまに仲良くなれるのだ。ようするに壁が無い。逆に言うと若い女の子でも、男のふところにグイグイ入ってくる。しかし、いったん嫌われると口もきかないし、怒りが激しい。そしてしつこく恨み続ける。それを私は何度も体験したが、これは土井健次のキャラに似ているなあと思っていた。


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 もう一つ頑固のエピソードを語るとしたら、キーボードだろう。彼は、音楽を愛した。そしてピアノとトロンボーンをやっていた。あの不器用な土井健次が、指先をつかうピアノの名人だった。
 ただ、ピアノは持ち運べないので1メートル以上の長さのある巨大なキーボードをもって旅をした。そして、いろんなところでキーボードを弾いた。そして皆で歌った。年末年始になると全国のユースホステルを使って旅をしたものだったが、そのたびに巨大なキーボードを持ってでかけた。
 正直言って邪魔だった。
 みんなの迷惑だった。なので
「重いだろう」
「邪魔だろう」
と言って持ってこさせるのを止めさそうとしたが、無駄だった。彼は宿で、列車で、飛行機で、バスの中で、巨大なキーボードをかかえていた。邪魔だった。おまけに分厚い歌集まで何十冊も持参した。ユースホステルや旅先で出会った人と一緒に歌うためである。
「そんな馬鹿な?」
と思ったが、そんな馬鹿なことが次々と起こり始めた。

 あれは正月に九州旅行していた時だった。私は熊本駅前で何となくラジオ体操をはじめていた。グルメ旅行で運動不足だったので何となくラジオ体操の真似事をしたのだった。すると土井健次は、サッとキーボードを取り出してラジオ体操の音楽をかなでてしまった。
「土井の奴、なにやってるんだろう?」
と不思議がっていると、まわりを歩いていた通勤途中の熊本のサラリーマンたちが、ぴたりと立ち止まって、私と一緒にラジオ体操をしだした。さっきまで駅前の雑踏を通過していたスーツ姿の見ず知らずのオッサンたちがピタリと立ち止まって、ラジオ体操に加わったのである。そして体操が終わると、熊本のサラリーマンたちは、サッと駅中に去って行った。

 翌日、天草の観光地に行ったが、そこでも土井健次は、キーボードでラジオ体操の音楽をかなでた。しかたなく私がラジオ体操をすると、まわりにいた観光客もゲラゲラ笑いながらラジオ体操をはじめた。当時の熊本の人たちはノリがよかった。みんなでラジオ体操をやって楽しんだ。こうして九州のあちこちの観光地でラジオ体操大会が行われた。

 柳川では川舟で観光した。相席に鹿児島からきた若い女子学生がいた。私は
「鹿児島の人は、今でも◇◇でごわすって言うんですか?」
と質問したら
「そんなわけ無いですよ」
とムッと反論した。船内に冷たい空気が流れた。
(あちゃー、やっちまったか?)
と私が反省していると土井健次がキーボードを弾き始めた。武田鉄矢の『思えば遠くにきたもんだ』であった。そのメロディに私が、歌い出すと、ムッとしていた女の子たちも歌い出した。歌は、河をいきかう対向船まで届き、他の船人たちも一緒に歌い出した。船頭さんも歌い始めた。

 宿では知り合った人たちとも一緒に歌を歌った。分厚い歌集を人数分くばってみんなで歌った。旅先で、なにかの募金活動や保護犬に関する活動している団体がいると、そっと彼らのバックでキーボードを弾いてBGMを流してもりあげてあげてたが、時々、それらの団体に怒られもした。

 船旅でも、よく歌った。三月に、伊豆七島に旅したときは、船が島に到着する度に「贈る言葉」とか「切手の亡い贈り物」を歌った。三月の伊豆諸島には、東京に転勤(?)する学校の先生と、それを見送る島の生徒たちが桟橋で溢れていることが多い。その光景を見つけると土井健次は、さっそうとキーボードをとりだすのだ。そしてBGMを流して感動場面をもりあげたりするのだ。

 キーボードは、山の中にも持って行った。私たちのやっていた登山は、山の頂上でおでんを作ったり鍋をつくって食べるスタイルである。もちろん米ももっていくし、二キロの巨大なハムとかも肉のかわりに持って行く。それだけでも重いのに二十リットルの水も持っていく。鍋やおでんに水は欠かせない。さらに日本酒ももっていく。それも紙パックではない、本物の一升瓶である。

 登山家という人種は、少しでも荷物を軽くすることに命をかける。そのために何万もする高価なチタンの小型鍋を買ったりするのだが、若かった私たちには、そういうものには一切ふりむかず、重い厨房寸胴鍋を百リットルザックに入れた。日本酒も水筒に入れては情緒がないということで、純米吟醸「越乃寒梅」のラベルのついた一升瓶を持って登山した。このラベルのついた一升瓶で酒を飲むのが至高の喜びであると土井健次は言っていた。サプライズで大きなスイカを出してくる奴もいた。
「おまえはドラえもんのポケットをもっているのか?」
突っ込んだものだった。

 当然のことながら重量が重くなる。しかも登山が初めてという若い女性を何十人も連れて行ったので、彼女たちの荷物や飲料水も持つ必用があったので、さらに重量が重くなった。私も、他の男たちも、何十キロの荷物を担ぐはめになった。

 ここまではいい。
 問題はこの後である。

 これだけ荷物が重いにもかかわらず、土井健次はキーボードをもってくるのだ。しかも何十冊もの重い歌集とともに。わけがわからない。百歩譲って一升瓶は許したとしても、歌集もキーボードも何の役にたつのだろうか? しかも標高三千メートルの山で歌なんか大合唱したら、空気の薄さで高度障害か高山病になってしまう。そんな心配をよそに、土井健次たちはキャッキャと山に登る。そして標高三千メートルの山頂で歌いはじめ、踊り始めるのだ。そんな空気の薄いところで激しく歌って踊れば、当然のことながら息が切れて
「酸素をくれー」
と倒れる奴が続出する。すると密かに小型酸素ボンベを持ってきた奴がいて、空中にシューとまき散らした。
「馬鹿、それは口に入れるんだよ! 空中にまき散らすやつがあるか!」
みんな腹をかかえて爆笑し、その爆笑のために、ますます酸欠となってバタバタと倒れていった。

 これも富士山とか槍ヶ岳ならわかる。そのレベルならキーボードを持っていくのも理解はできないが、不可能ではないとも思う。しかし剣が岳に持って行くという話を聞いたときは、さすがに引き留めた。
「おまえ死ぬ気か?」
と。しかし、頑固な彼はキーボードを背負って日本百名山で一番の難易度として知られる剣ヶ岳に登った。しかし、ジャンダルムと西穂高縦走のときにキーボードを持っていこうとしたときは、土下座して断った。知床山脈縦走の時も土下座して断った。


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 頑固といえば、彼が私の宿(北軽井沢ブルーベリーYGH)手伝っていた時のことを話したい。私は、彼に受付を御願いしたものだったが、時々、キレていた。御客様が駐車場のとめかたが気に入らなくて常に怒っていた。彼に言わせれば、マナーがなっていないということなのだが、そんなこと御客様にしてみたら知ったことでは無い。空いている場所があれば、そこに駐車するのが自然な行為である。しかし、乱雑に駐車されると、後から来る御客様が駐車するスペースが無くなってしまう。それで土井健次はキレてしまうのだ。

 宿主としては、駐車場のことよりも別の事を優先する場合が多い。いかに御客様に快適に過ごして貰うかが一番の優先事項である。しかし、土井健次にとっては、目の前の駐車場問題が一番の問題になってしまう。たかが駐車場ごときのことでキレてしまうのだが、それでは宿主としては、たまったものではない。仕方が無いので、隣地を購入して駐車場を倍にした。土井健次に俯瞰で全体を見ることを要求しても無駄であることは、長い付き合いでわかっていたので、そういう部分はとっくに諦めていた。

 天才の彼に、そんな些細な事を要求したくは無い。彼には、凡人にない才能があるからだ。彼に何かを御願いすると、アッという間に、その道のプロになってしまうのが土井健次である。ITでも、出版でも、どんな自然科学でも、何でも短期間にマスターして、それを完璧にこなしてしまう。だから野鳥・植物・樹木・天文・宇宙・地質・火山・・・・・何でも短期間にマスターして素晴らしいガイドとして大活躍した。

 しかも老人から小さな子供まで、よく面倒をみた。接客やガイド術に関しても、プロが書いた著書を読み込んで自分なりにマスターした。そのせいか彼のガイドに参加した人たちは、彼の人柄とガイドの素晴らしさに感動した。そして沢山の礼状が届いた。それは彼の人柄もあっただろうが、彼なりの努力というか、その道を究める姿勢があったからこそだと思う。

 そうなのだ。彼は、道を究める『求道者』でもあったのだ。俯瞰でものことを見ることは苦手でも、それぞれの道を究める『宮本武蔵』のような人間だったのだ。ただ、宮本武蔵と違うところは、剣一筋では無く、天才ゆえか何にでも手を出していたことである。

 彼は、あらゆるビジネス書を読破し、大手IT会社と代理店契約し、いろいろなアプリの開発をし、マーケッティングから、経理・簿記までマスターし、個人事業主として税務署に登録し、各種の事業にものりだしていた。それは全て定年退職後に本格的にスタートさせる予定だった。しかし、定年まで10年という期間を残して彼は急死してしまった。

 そんな彼に対して私は急に冷淡になったことがある。というか冷淡な態度を示すようになった。彼に二人の子供が生まれたからだ。私は
「もう宿には来るな」
「娘の面倒をみろ」
と突き放した。戸惑った彼は、うちの嫁さんと話しながら私の顔色をうかがった。しかし、私はあくまでも冷淡に接した。何か一つのことに夢中になりやすい彼のことだから、それが昂じて二人の娘を放置する可能性があったのだ。

 実は私にも息子が生まれていた。私は子育てが大変なのを実感していた。なので土井健次をできるだけ家族のもとにやらないと、とんでもないことがおきる。そう思った。なので本人にしてみたら不服だったかもしれないが、ここはあえて青鬼になるべきと思った。彼には冷淡に接して、できるだけ家族のもとにいるよう仕向けた。

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 最初は、とまどっていたが、すぐに子煩悩な二人の娘の父親に変化した。

 何十万もする最高級の国産ノートパソコンしか買わなかった彼は、中古パソコンしか買わなくなった。そのかわりに家族旅行ばかりするようになった。今まで持っていた、こだわりは全て捨てて、娘たちのために動くようになっていた。そして娘たちに大甘だった。きっと娘の結婚式では大泣きするんだろうなあ・・・・と思えるほど、娘たちを可愛がっていた。

 そんな彼が急死した。
 高血圧だった。

 死ぬ直前の彼は、現代医療にかなりネガティブになっていた。新型コロナワクチンも打ってなかったし、できるだけ薬を使わずに健康でいようとしていた。それに対して私は何度も注意したが、もともと人の注意をきくような奴ではない。

 天才・土井健次にとって、私のような凡才の言う健康論など、ちゃんちゃらおかしかったに違いない。私は政府の言うとおりにワクチンもうつし、村の健康診断も必ず受ける。医者の御高説もありがたく聴く平凡な人間である。だからまだ生きている。土井健次は、なまじ天才であるからこそ、いろいろな情報を得て研究し自分なりの結論を出したに違いない。

 それが彼の寿命を縮めた可能性があるが、それはそれで良かったのだろう。彼が納得して行動した結果なのだから。というのも、キーボードを担いだまま山で死んでいた可能性だってあったのだ。たまたま運が良くて無事に下山していただけで、彼は常に生死ぎりぎりのところで生きていたのだ。偶然にも山では死ななかった。そして偶然にも高血圧で死んでしまった。ただそれだけのことなのだ。

 思えば、彼の人生は、太く短いものであった。
 今後の私は、御遺族を見守っていきたいと考えている。

合掌。



つづく

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posted by マネージャー at 20:18| Comment(1) | TrackBack(0) | 旅と思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年06月20日

修学旅行の定番、枕投げは滅びてしまった?

 息子が 修学旅行から帰ってきた。車で迎えに行ったら巨大な袋にたくさんのお土産を買ってやってきた。 お小遣いの上限が 7000円だったためか、ずっと雨に降られたためか、 お金を使う時間がなかったために、旅行の最後にドタバタとお金を使うハメになったらしい。 そのために最後の最後に大量のお土産を買うしかなかったようだ。

  7000円の小遣い というのは、ちょっと多いように感じるが、実はそうでもない。この 7000円の中には、2回の昼食代と、神社仏閣の拝観料、移動のための電車賃。そして、その他もろもろの費用を含んでいるからだ。鎌倉は暑いだろうから水分補給のための料金も必要だろうし、 チャンスがあれば、けんちん汁や 抹茶をごちそうになったり、 お賽銭や 朱印帳の 費用を考えたら 7000円では足りないのではないかと 思っていた。

  ちなみに息子の修学旅行は、班別の自由行動になっている。 5・6人の班で子供達だけで移動することになっている。先生がついてくるわけではない。しかも、GPS付きのキッズ携帯や、デジカメの持ち込みは禁止されている。おやつも持ち込んではいけないし、友達との交換も禁止されている。私の子供の頃とは、かなり違ったルールなのに驚いた。

 なかでも面白かったのは、カメラのルールである。自分のカメラの持ち込みは禁止されていた。カメラは、学校から渡され、それしか使用してはいけない。そのうえ集合写真しか撮ってはいけないことになっている。風景写真も、誰か一人を撮影するのも禁止だ。

 私の子供の頃は、カメラは高級品でそんなもの持っている子供はいなかった。だから先生が子供たちの写真をバチバチ撮っていた。それを現像したものを廊下にはりだして、各自が写真を注文し、それを先生が、焼き増しをして各自に配った。

 先生は、子供たちのアップ写真を大量に撮影した。で、写真にやたらと写る子と、そうでない子がいた。カメラを向けると、だだーっと駆け寄ってくる子供もいれば、カメラから逃げる子供もいるからだ。私は逃げるほうだった。だから私の写真は、一枚もなかったはずだった。

 ところが、そんな私を先生は、遠くから望遠レンズで狙って撮影した。それが偶然にも最高の画像となって焼き上がった。その結果、みんなが私が写った写真を競って注文するというハプニングまでおきた。私は、自分の写真に興味が無かったので買ってない。私が買ったのは風景写真だけである。それを先生と友達は不思議そうにしていた。





 そんなことは、どうでもいいとして、息子のやつは修学旅行から帰ってすぐに寝た。旅行中、2時間しか寝てなかったらしい。二人部屋なのに寝られなかったそうだ。私が子供の頃は、100人の大部屋だった。枕投げもやったし、布団の引っぺがしもやったし、プロレスもした。ドリフターズの8時だよ全員集合を真似てコントもやった。先生には何度も怒鳴られたものだった。でも、ぐっすり寝れた。

 それに対して息子は、プリンスホテルの豪華な二人部屋。にもかかわらず寝られなかった。友達と一晩中、しずかにお喋りしていたらしい。枕投げも無いし、布団の引っぺがしも無いし、プロレスも無い。コントもやってない。先生にも怒鳴られてない。女子風呂をのぞきに行って怒られることもない。なのに寝れなかったとは、それで良いのか?と思ったが、まあ、これが令和時代の修学旅行なのだろうなあ。


つづく

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posted by マネージャー at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐渡島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年06月19日

群馬県には水族館が無い?

 今日は息子のやつは、 修学旅行 水族館に行ってるはずだ。信じられないことに 群馬県には 水族館がない。そのせいか私の嫁さんも含めて みんな 水族館が大好きだ。特にイルカのショーが好きらしくて、 これには目をキラキラさせて 眺める人が多い。

 私は佐渡島 出身なのでイルカは特に珍しくはない。 佐渡島から新潟市につながる航路を 佐渡汽船で何回か乗ると、時々 イルカの大群に出会うことがある。 最初は一匹で出現する。それを見た瞬間、
「あれ?気のせいかな?」
「目の錯覚かな?」
と思うのだが、そのうち二匹くらいが海面から顔を出す。すると誰かが
「イルカだ!」
と叫び出す。その頃になると、イルカたちは、大群で現れて佐渡汽船をぐるりと囲んでいたりする。

 佐渡汽船の速度は速い。その速い船を追い越すようにイルカたちは泳いでいくのだ。その泳ぎ方は魚の泳ぎとは違っている。魚雷のような感じで進んでいく。そしてピタッと止まって佐渡汽船を見上げたりする。





 こういう光景は、佐渡汽船では、決して珍しくは無い情景である。それを何度か体験している私にとってイルカショーは、あまり興味のもてるものではないが、群馬県民にとっては、すごく楽しいショーになるのだと思う。

 しかし誤解してはいけないが、日本海のイルカたちは、イルカショーのように跳んだりはねたりしない。イルカショーのようなイルカの姿は見たことがない。私の知ってる天然イルカのイメージは、魚雷のように進む姿と、100匹以上の大群で佐渡汽船を取り囲むイルカの群れたちである。

 跳ぶというならトビウオだろう。
 トビウオなら本当に跳ぶ。
 佐渡汽船の甲板から何度も見たが、本当に跳ぶ。
 いや、飛んでいる。
 10メートルといったみみっちい距離では無い。
 100メートルくらい飛ぶ。
 へたしたら200メートルくらい飛んでしまうかもしれない。
 しかもカモメなんかよりも滅茶苦茶はやい。
 そのうえ佐渡汽船の舷側のそばをスーっと追い越して飛んでいく。
 ものすごい速度で飛んでいくのだ。




 まあ、そんなことは、どうでもいい。佐渡島民にとって、そういう光景は少しも珍しくないので、島民たちは船の甲板にあがらない。船が出航したら100円で借りてきた毛布にくるまって睡眠をとる人が大半だ。

 しかし、私が小学校に入る前。つまり昭和40年頃の佐渡汽船では、そういうワケにはいかなかった。当時はカーフェリーではなかった。コンテナ船だった。そして船そのものが小さかったために、佐渡汽船に乗る乗客たちは、船室からあふれて甲板で縮こまって乗っていた。もちろん甲板に備え付け椅子にも座れない。だから持参した
ゴザを甲板に敷いて我慢した。

 船室は、船室で地獄だった。あちこちにゲロを吐くためのアルマイトの桶が置いてあって、みんなゲーゲー吐いていた。その臭いが室内に充満して、つられてゲロを吐く人たちが続出した。それを嫌う人たちは甲板にゴザを敷いて我慢するのだが、甲板でも吐く人が続出する。吐く時は海に吐いた。そのせいか船の舷側には魚たちがけっこういたし、トビウオも飛んでいた。イルカたちも見かけたが、なんの感想もわかなかったことを覚えている。

 当時の佐渡汽船は小さい船(コンテナ船)が多く、よく揺れた。

 当時の庶民は、二等の切符を買い、二等船室に入るのだが、これがくせもので、当時の船のディーゼルエンジンの振動が凄くて、床がマッサージ機のように揺れていた。それを避けようと船の先頭にいくと、波の衝撃に震度4くらいの地震が続く客室だった。だから、御客さんは、みんなゲーゲー吐いたのだ。そして密閉された客室に、あの香りが充満する。だったら多少の海水を浴びても甲板でよい・・・ということになる。

 そんな佐渡−新潟間を、幼少の頃の私は、母に連れられて何度も往復した。新潟には、母の親戚が大勢いたからだ。だからトビウオも、イルカも、カモメも、ブリ・マグロの大群も少しも珍しくなかった。


 ちなみに昭和40年代の佐渡島の北側では、船のことを『トントン』と言った。焼き玉エンジンで動く漁師船ばかりで、トントントン・・・と動いたからだ。しかし昭和40年頃の佐渡汽船ときたら全く違っていた。だから佐渡汽船の船のことを島民は、『トントン』とは言わず、佐渡汽船とよんでいた。佐渡汽船と『トントン』は別物であったのだ。

 ちなみに佐渡の南では、船のことを『トントン』とは言わなかった。『たらい船』といっていた。しかし、現在の佐渡では『たらい船』を『ハンギリ』というらしい。昔から『たらい船』のことを『ハンギリ』と言っていたと観光協会が強弁しているが、これはかぎりなく怪しい。そんな話は聞いたことが無い。私は、眉唾だと思っている。

 『たらい船』こそは、佐渡小木地方独特の船だと思う。あれこそは、佐渡のオリジナルだろう。で、よくYouTubeなんかに『たらい船』の動画がアップされているが、あれは観光用の姿であって、実際に使われている『たらい船』は、ちょっと違ったりする。



 本物のの『たらい船』には大きな竹竿を5本くらい尻尾に付けて船を安定させてある。で、小型のエンジンがついていたりするのだ。と言っても漁をする時は、エンジンは使わない。あくまでも手こぎで移動する。自宅から漁場に移動する長距離移動の時だけ、エンジンを使うのである。で、どうして『たらい』なのかというと、岩に潜んでいるサザエ・アワビ・タコを大量に捕るには、タライこそが最適だからだ。特にタコは金になるので、昔はタコ捕りの名人がいたら、求婚が殺到したという。


 最後に誤解のないように言っておくが、現在の佐渡汽船の船は、カーフェリーであるために豪華客船のように静かで揺れない。だから快適な船旅ができることだけは言っておく。

つづく

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posted by マネージャー at 17:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐渡島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする