2026年07月05日

キャベツマラソン暫定2位、みどりマラソン2位、中学校マラソン大会学年2位、スカイランは順位不明

 雨の中、世界で最も過酷だと言われているキャベツマラソンが行われました。成績をダウンメードしてみたら息子の成績は中学生の部門で暫定2位。大人を含めると暫定5位という成績。なぜ暫定かというと計測器の状態が悪かったらしくて表彰は中止。息子は残念がっていましたが、これは仕方がない。





  ちなみに 毎年4月29日に行われている「 みどりマラソン」でも、中学生高校生の部で2位。中学校で行われている全校マラソン大会でも学年2位(全校で6位)。 今年はどの大会でも2位ばかり。1位の壁は厚かったわけですが、中学校のマラソン大会に限って言えば、1位との差はたったの10秒。1年前は1分近い差があったので、1位も射程圏内に入ってきたとも言える。

  息子は、3月26日 生まれなので、小さい頃はそれが大きな壁(ハンデ)となっていた。けれど中学2年生ともなるとハンデも、ほぼ なくなりつつあるのかもしれません。息子が幼稚園の頃は足が遅かった。 そのためにイジメにあっていた。対策として 軽井沢の空手教室。嬬恋村の空手教室。キックボクシング教室に通わせたのですが、あまり効果はなかった。

  私は息子が生まれた時に、勉強ができなくてもいい。運動ができなくてもいい。 ただ健康であってくれればいい。 そして のびのびと育ってほしいと思って「健(タケル)」という名前をつけたのですが、 実際に幼稚園や小学校に通わせてみると、それは空論だった。

 子供がのびのびと学校生活をエンジョイ するためには、ある程度の運動と、ある程度の勉強ができないとダメなのだ。心ない人たちに小馬鹿にされたり、イジメられたりするからだ。いくら 親が「のびのびと育ってほしい」と思っても、「学校生活をエンジョイしてほしい」と思っても、 運動ができなくて勉強ができないと、周りがそれを許してくれない 。勉強もできないといけないし、人にバカにされない程度の運動もできないといけない。

 息子を 空手教室に連れて行ったら、初日に先生からダメ出しを食らってしまった。運動が全くできなかった。特にかけっこが絶望的だった。仕方がないので 空手教室の子供たちを集めて かけっこをさせてみるのだが、 みんな喜んで参加するのに息子だけ一緒に走るのを嫌がってしまう。最初から負けるのが分かっているからだ。

  息子は2歳の頃から登山を始めて3歳で八ヶ岳の頂上まで登っている。4歳で槍ヶ岳にも登っている。 かけっこの才能はないけれど、 登山に関してはエリート教育をしてきたし、自然ガイドの勉強もさせてきている。 小学校に入る前から高山植物の名前や 地質に関する知識を得ていた。将来、宿を継ぐわけだから、学校の勉強が遅れたって全く気にしてなかったし、かけっこでビリだとしても親としては全く気にしてなかった。 けれど一緒にお風呂に入っている時に、息子のやつは 泣きそうな顔をして
「お父さん、足が速くなる薬はないの?」
と言ってきた。 よくよく見ると体のあちこちにあざがあったりする。 どうやら イジメられてるらしい ということを、幼稚園の先生に聞いてしまった。先生は、「強くならないとダメ」と言ってきた。で、2つの空手教室と1つのキックボクシングジムにいれたけれど根本的な解決にならなかった。

 そのうち新型コロナが発生して学校が休校するようになると、あらゆる運動サークルが活動休止となってしまった。仕方が無いので親子でマラソンをしたり空手の練習をしたりしたのだが、新型コロナが発生中も活動をやめなかったサークルがあった。これが軽井沢のスケートクラブだったのだが、そこに通わせてみると、息子の足はドンドン速くなっていった。






 そして運動会で必ずビリの常連だった息子が、キャベツマラソン2位、みどりマラソン2位、校内マラソン学年2位というところまでやってきた。勉強もそこそこできるようになってきた。英検も次々と合格しているし、漢字検定も頑張っている。あとは、学校生活をエンジョイしてくれればいい。彼女とデートするくらいになってほしいけれど、どうなってるのだろうか?


つづく

↓ブログ更新を読みたい方は投票を

人気blogランキング



posted by マネージャー at 22:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐渡島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年06月15日

テレビを見ない令和の中学生・・・・その弊害について

 早いものでうちの息子も中学2年生となってしまった。おまけにもうすぐ期末テストである。仕方がないので勉強を教えることになったのだが、歴史の勉強を教えているうちにとんでもないことに気がついてしまった。昭和の子供なら誰も知っていた歴史の常識を全く知らないのである。原因は単純でテレビを見ないからだ。

 うちの息子は全くと言ってテレビを見ない。
 そもそもテレビ自体が部屋にない。
 息子はテレビではなくタブレットを使っている。
 YouTubeばかり見ているのだ。
 その結果昭和の子供と全く違う知識を身につけてしまっている。
 昭和の子供なら絶対知らない知識を知っていたりする。
 その逆に昭和の子供なら誰もが知っている知識が欠落していたりする。

 例えば、うちの息子は小学校4年生ぐらいの時に重曹とクエン酸を使ってソーダ水を作り、それをカルピスに混ぜてカルピスソーダを作って飲んでいたりするが、昭和の子供だったら誰も思いつかなかったと思う。インターネットが発達した現代だからこそ、発想できる思い付きだと思う。小学校2年生の時は自動販売機を段ボール箱で作っていたりしたが、これだって昭和の子供なら絶対に不可能だったと思う。インターネットという武器があるからこそできた芸当である。小学3年では、10円玉に醤油をかけて還元の実験もしていたし、クリップモーターカーを造って遊んでいた。

 こう考えると令和の子供たちは昭和の子供たちよりも、ずっと頭がいいのではないかと思うかもしれない。実際自分もそう思っていた。うちの息子はひょっとしたら天才などではないかと考えた時期もあったくらいだ。

 しかしそんなことはない。
 断じてない。
 令和の子供と昭和の子供、
 インプットする情報源が違っているだけであり、
 昭和も令和も子供の頭脳には大差がないのである。


 これは息子に歴史のテスト勉強を教えてる時に気がついてしまった。令和育ちの息子には歴史の知識が全くないのである。昭和時代の子供たちなら誰でも知っている歴史知識が全くないのだ。例えば水戸黄門を知らない。そのために5代将軍徳川綱吉のことを教えようと思ってもその前提の水戸黄門を知らなければ話にならない。

 群馬県館林藩主から5代将軍になった徳川綱吉は生類憐れみの令で悪名が高い。それを諌めたのが水戸黄門であるが、大河ドラマでも時代劇でもそのシーンは物語のクライマックスとして昭和の子供なら誰でも知っている。けれどうちの息子は水戸黄門そのものを知らない。そもそもテレビを見ないのだから、水戸黄門どころか大河ドラマだって見たことがない。もちろん時代劇だって知らないし、銭形平次も、宮本武蔵も、鬼平犯科帳も、暴れん坊将軍も知らない。

 時代劇を知らない子供たちが、歴史という学問に接触するとどうなるか?
 これがものすごく困ることになるのだ。

 歴史に詳しくなくても大河ドラマを親子で見た世代であれば、戦国時代の女性がみんなストレートなロングヘアであることは誰もが知っている。もちろん江戸時代の初期もだいたいストレートなロングヘアである。これが文化文政時代になると女性たちはみんな髪結いをする。つまりテレビ時代劇に出てくる髪型である。だから元禄時代の美人画で有名な菱川師宣の絵を答えよという問題が出れば、ストレートなロングヘアの美人画がそれであることは容易に想像がつくのだが、大河ドラマを見たことのない子供にしてみたらちんぷんかんぷんだろう。歌麿だったら髪結いの美人画。昭和の中学生なら絵を見たら一発でわかるのだが、テレビ時代劇も大河ドラマもみない息子には分からない。分かりようがないのだ。





 うちの息子は、どの時代も女性は似たような髪型をしてると漠然と思っていたらしいが、昭和の子供たちにしてみたらそんなことはない。宮本武蔵のお通さんはストレートのロングヘアである。けれど捕物帳に出てくる女性は髪結いをしている。だから歌麿の絵はどれか?という問題が出たらテレビを見ていた昭和世代なら、髪結いか、ストレートなロングヘアかを見るだけですぐわかるのだ。

(江戸初期−菱川師宣の「見返り美人」・・・ロングヘア/宮本武蔵のお通さんなど)
(江戸後期−歌麿・・・髪結い/時代劇に出てくる髪型)

 そもそも昭和時代の子供たちなら菱川師宣の「見返り美人」を知らない人がいるわけがない。昭和の子供たちの大半は切手を集めていたから、誰もが日本切手の最高峰である菱川師宣の「見返り美人」に憧れていたからだ。

 考えてみたら平成時代になって誰一人として切手を集める人はいなくなってしまった。昭和の子供たちなら誰もが通った切手集めの趣味は、インターネットによって滅びてしまっているのだ。だから菱川師宣の「見返り美人」を知っている子供は令和時代には存在しない。もちろん尾形光琳を知ってる人もいないだろう。

 令和の子供たちは尾形光琳という名前を歴史の授業で初めて知ってたまげるかもしれないが、昭和の子供たちにとってはなじみのある人であった。この人の描いた絵は、郵政省が発行した国宝シリーズなどの切手で何度も取り上げられている。おまけにこの国宝シリーズは高価格帯で取り引きされていた。大阪万博の記念切手も尾形光琳だったし、花シリーズ切手にも尾形光琳があった。今は滅びてしまった昭和時代の切手マニアにとっては尾形光琳はいわゆる「神的」な存在だったのだ。だから歴史の授業や美術の授業で尾形光琳や菱川師宣の絵が出てくるとみんなワクテカしたものだった。





 昭和時代の中学生にとっては、アニメはまだ小学生とか幼児たちが見るものだったし、かと言って気軽に音楽が聞ける環境にもなかった。パソコンもなかったしインターネットもなかったので、理系の人間はラジオを自分たちで作っていたりしたし、世界中の短波放送を聞いてベリカードを集めていたりした。

 文系の人間は切手を収集してそれを眺めてはその切手の背景を調べていたりした。切手なら安いので当時の中学生のお小遣いで買えたし、値上がりも期待できた。そうでなければテレビを見ていた。親と一緒に時代劇や大河ドラマを見ていたのだ。

 昭和時代の中学生で宮本武蔵や、水戸黄門を知らない人などいないと断言できる。しかしうちの息子は知らない。水戸黄門どころか、大岡越前も知らなければ、マツケンサンバの暴れん坊将軍も知らない。鬼平犯科帳の長谷川平蔵も知らない。遠山の金さんも知らない。






 これがどういうことに影響するかというと、水戸黄門を知らなければ、5代将軍徳川綱吉の時代を理解することが非常に難しくなってくる。大岡越前を知らなければ、6代将軍徳川吉宗が、どうして裁判の慣例体系を編纂することを命じたかも分かりにくいかもしれない。時代劇の大岡越前のクライマックスである天一坊事件を知ってるかどうかで6代将軍徳川吉宗の享保の改革に対する理解度が大きく違ってくるのは間違いない。

 マツケンサンバで有名な「暴れん坊将軍」だってそうである。主人公である徳川吉宗が扮する新さんが、どうして町火消の人たちと仲がいいのか?昭和時代の子供たちはみんな不思議に思っていた。ところが歴史の授業で享保の改革を学んだ途端にみんな「そうだったのか」と納得したものだ。享保の改革で町火消の制度ができたからだ。





 鬼平犯科帳の長谷川平蔵だってそうだ。長谷川平蔵と寛政の改革をやった松平定信とは、切っても切れない関係であることは鬼平犯科帳を見ていた昭和の子供たちの常識である。昭和の子供にとっては、寛政の改革はかなり身近なお話なのだ。長谷川平蔵が、人足寄場建設し、刑期を終えた罪人に職業訓練をさせて人を更生をはかったのは、あまりにも有名な話だからだ。

 遠山の金さんもだってそうだ。遠山の金さんのライバルは、南町奉行である鳥居耀蔵。こいつが水野忠邦が行った天保の改革の推進者であり悪役である。こいつが「株仲間の廃止」実施し、おとり捜査で人を陥れては江戸市中から忌み嫌われ、天保の改革に批判的な遠山の金さん奉行をやめさせたのは、あまりにも有名な話。つまり遠山の金さんを見ていた昭和の子供たちは、歴史の授業で天保の改革のところに来ると目を輝かせて歴史の授業聞いていたものである。





 そもそも昭和の歴史の先生は面白かった。授業中に時代劇の話に脱線することがよくあったのだが、当時の子供たちは、その脱線が大好物であったので、先生に対して脱線するように巧みに誘導したものだ。そして無駄知識を蓄えていった。

 それから昭和の子供たちは学校の先生と仲が良かった。
 これを息子に話すとなかなか信じてもらえない。
 令和時代は学校の先生と生徒の間に明らかに壁が存在する。
 しかし昭和時代はそうでもなかったのだ。
 それが証拠に先生のうちによく遊びに行った。
 うちの母親が小学校の教師だったので、その教え子もよく遊びに来た。

 その話を10歳年下の嫁さんにしてみると
「私の時代はそうではなかった」
という。

 同じ昭和時代を生きていても昭和47年生まれの嫁さんの時代は、生徒と教師の間に壁があった。と言うか生徒と教師の間に壁を作ったのか嫁さん達の時代であった。当時校内暴力が全国的にブームで、中学生が教師を殴って怪我させるということが普通にあったのが、第二次ベビーブーム世代の特徴である。それ以降教師と子供たちの間に壁ができたのではないかと私は思っている。

 実は似たような話を10歳年上の先輩から聞いたことがある。第一次ベビーブーム世代は、中学校で校内暴力を行う代わりに、大学で大学紛争を行っていた。大学紛争が行われる前までは、教授と学生の間に壁は少なくて、学生たちが教授の自宅に遊びに行ったりしたらしい。これが大学紛争によって両者に大きな壁ができたことは、先輩方からよく聞いていた。

 話を戻す。
 昭和の子供たちは学校の先生と仲が良かった。

 これを息子に話すとなかなか信じてもらえないので、今は滅びてしまった昔の学園ドラマを息子に見せたことがある。「青春ど真ん中」と「夕日ヶ丘の総理大臣」である。息子はケラケラ笑いながら楽しそうに見ていたが、やはりというか案の定というか、これらの学園ドラマをフィクションとして認識していた。





 今の子供たちにしてみたら信じがたいことかもしれない。現に10歳年下の嫁さんの時代には、そういう時代風景は消えてなくなっているのであるから、信じがたいのも仕方ないのかもしれない。

 しかし私の母親が小学校の教師だった。その教え子たちが毎週のように遊びに来ていた。うちの母親はそれを本当に嫌がっていたのだが、表面上は快く迎えるように演技していた。つまり嫌なものを嫌と言えない雰囲気が当時の時代背景にあったのだと思う。子供達が遊びに来たら本心は別にして温かく迎える態度は示していた。そして私に一緒に遊ぶように命令して、ちゃっかり自分はどこかに消えていった。

 そんな母親が妊娠して入院したことがあった。盲腸で入院したこともあった。すると小学生の教え子たちが、遠い僻地からバスに乗って次々とお見舞いにやってきた。お見舞いの下は缶詰だった。当時はコンビニもなければ冷凍食品もなかったので、誰かが入院すると缶詰を持ってお見舞いにやってくるのである。そのせいで私は毎日のように缶詰を食べたのは良い思い出である。今と違って当時は、缶詰は高級品で決して安いものではなかった。

 まあそんな話はどうでもいいとして何が言いたいかというと、昔は教師と子供たちの間にあまり壁がなかったために、ずる賢い子供たちが、たくみに教師を誘導し授業をコントロールすることができた。つまり先生に授業の脱線をさせて子供自ら授業を面白くさせる事が可能だったのだ。思えばいい時代だったのかもしれない。

 インターネットがなかった頃の昭和の子供たちの情報源は、非常に限られていたので、それが可能だった。みんな同じ時代劇を見ていたから、ある程度共通の情報に接していたから、歴史の授業で脱線することによって勉強を面白くさせることが可能だった。それを考えると今の子供たちは、ちょっとかわいそうである。インターネットのせいで情報が多すぎて共通の知識がなさすぎる。そのために昭和の子供たちなら得られた情報を得られなくなっている。そのために歴史の勉強が昔より難しくなっている。つまりガリ勉しないと歴史の授業に追いつかないという不幸な時代が来ている気がする。

 もちろんインターネットのおかげで歴史オタクは昔より多いかもしれない。詳しい人はとことん詳しくなるし、そうでない人は歴史がどんどん苦痛になって嫌いになっていく。それが令和時代の子供たちが受ける試練と言える。ある意味、かわいそうに思ってしまう。



つづく

↓ブログ更新を読みたい方は投票を

人気blogランキング



posted by マネージャー at 11:58| Comment(1) | TrackBack(0) | 佐渡島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年12月29日

喪中につき新年のご挨拶は控えさせていただきます。

旧年中は格別のお力添えを賜り、
誠にありがとうございました。
喪中につき新年のご挨拶は控えさせていただきます。



今年の1月にわたとの父である佐藤正が逝去いたしました。4年連続で喪中ということになります。父母・親戚・親友の不幸が続き、来年もおそらく喪中になる可能性もないとも言えない状態です。勝手ながら年賀葉書による年賀状のやりとりは、終了したいと思っています。

G_0002.JPG


つづく

↓ブログ更新を読みたい方は投票を

人気blogランキング



posted by マネージャー at 02:44| Comment(1) | TrackBack(0) | 佐渡島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年07月28日

息子の期末試験(1)

 今日は、息子が私の誕生日祝いをしてくれた。ネットで調べて一生懸命、べっこう飴を作っていたが、失敗したらしく、2キロ先のコンビニに行ってケーキを買いにいってきて、小さなロールケーキで祝ってくれました。





 それにしても時間が流れるのが早いこと。
 あっという間に1年たってしまった。
 息子も中学1年生になっている。

 それにしても、ついこの間 息子が中学校に入学したかと思ったら、もう夏休みである。全く時間が経つのは早いものだ。期末試験もあって、その結果表も見せて貰った。驚いたことに主要科目の成績は、学年3位だった。男子に限って言えば1位だった。つまり学年1位と2位は女子ということになる。

 それはともかくとして、 息子の中学校生活を見ていて驚いたことがある。昔と全く違うのだ。まず 学生カバンというものがない。代わりに巨大なランドセルを背負っている。どうしてかと言うと 教科書が圧倒的に分厚いからである。 そうなのだ、昔に比べて今は圧倒的に難しくなっている。覚える量がめちゃくちゃ多い。だから教科書も分厚いし、副テキスト、学習のための資料も非常に分厚い。おまけに分厚い問題集 までついてきている。学生カバンに入りきらない量なのだ。

 だから巨大なランドセルを背負って学校に登校している。というか、あれは ランドセルではなくてリュックサックだ。 登山でいう60 L ザックを背負って学校に通っている。もちろん重い。とてつもなく重い。だから 保健体育 や技術といった副教科にあたる教科書 なんかは学校の机に置きっぱなしになっている。これはどういうことかというと、それだけ覚える量が増えているということなのだ。

 もう一つ言うと息子の通っている中学校には中間テストというものがなかった。期末テストしかないのだ。週休2日制になっているためなのか、それとも 覚える量が多いためなのか、中間テストを廃止して代わりに通常の授業を行っていた。おまけにテスト期間中もしっかり 6時間授業をやっていた。

 恥ずかしながら私は、こういう状況 を直前まで分かっていなくて、のんきに構えていた。
「あーもう期末テストなのか大変なんだなあ」
と、他人事のように構えていた。

 漢字の練習と英単語の暗記だけは毎日やらせていましたけれど、他のことは放置していました。それでいいと思っていた。小学校の頃は、授業を真面目に聞くだけで100点を取ってきたのだから、中学校も 似たようなもんだと勝手に思っていたのだが、これが大間違いであったことが後でわかることになる。

  で、テスト直前に、テスト範囲と教科書の中身を読んで愕然としてしまった。
 あーこれはまずいと。
 絶対に赤点を取ってしまうと確信してしまった。
 授業を 真面目に受けた程度では、絶対に100点は取れない内容だった。

 例えば 理科。小学校時代の息子は 授業さえ 真面目に受けていれば100点を取れた。息子は幼稚園の頃からE テレやBS プライムの番組をよく見ていたので、基本的な科学知識を持っていたので ちょっと勉強すれば100点を取れた。ところが 中学校ではそうはいかない。顕微鏡の種類や操作の仕方や、顕微鏡の部品の名称を暗記しないと点が取れないようになっていた。 そういったものは E テレ番組や、NHKのBS プライムの番組で学習する機会はないから分かりようが無い。

 こいつはまずいと思った私は、学校が使っていた問題集を3部ずつコピーして、間違えたところだけを何回かやらせて赤点を回避する作戦をとった。 この方法は、昭和時代の東大生といった天才たちがよく使っていた勉強方法で、最短時間で資格試験に合格する方法です。天才たちは最も薄いぺらい過去問を3回解くだけで資格試験に合格します。しかも2回目以降は間違えたところしかやりませんから、最短時間で勉強が終了します。

 幸か不幸か、それらの学校が使っていた問題集は、すでに宿題でやっていたので、間違えたところが分かっている。つまり息子が覚えるべきところが事前に分かっていた。そのへん運がよかったというか、先生の指導がグッジョブで助かりました。もし学校側が問題集を用意して宿題させて無くて、単なる板書しかさせない受業だったら、息子の奴は確実に赤点をとっていた。覚えるべき量が莫大になっていて、どこから手を付けるべきか途方にくれていたからだ。

 これは間違いない。自信をもっていえる。

 そう考えると令和時代の学校教育はも非常に進化していると言える。昭和時代の天才たち(東大生たち)がやっていた学習方法が、学校で普通に採用されていたからだ。羨ましいかぎりである。

 私が中学生の頃は、ひたすら板書させられるという非常に効率の悪い勉強をさせられていた。おまけに参考書なんか買ってきて、そこに赤線をひくといった非常に無駄な努力をしたものだった。今から考えたら非常頭の悪いことばかりして時間を無駄にしていた。信じがたいくらいに能率が悪い勉強を強制されていた。それからしたら息子たちの時代は、非常恵まれている。最短時間で学習成果が得られるよう工夫されているからだ。


つづく

↓ブログ更新を読みたい方は投票を

人気blogランキング



posted by マネージャー at 00:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐渡島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年03月27日

スポーツ教室について語ってみる その4 ワンデルン・シューレ( 移動教室)

 映画「男はつらいよ」 のシリーズを見た人はいるだろうか?  いわゆる 寅さん映画ですけれど、48 作もあります。このシリーズの最高傑作は 第2作目だと思っています。第2作目がシリーズ 最高傑作だと思っています。2作目のストーリーは簡単で、高校時代の恩師である坪内散歩先生の娘さんに惚れて最後に振られるという ワンパターンな物語展開 なんですが、 これが最高に面白い。





 それはともかくも、 今回は私の職業を紹介したいと思います。 私は、ユースホステルという特殊な宿屋をやっています。ユースホステルというのは、 ドイツの小学校の教師が始めた運動で、教室から野外に出て勉強を教えることから始まっています。 これを ワンデルン・シューレ( 移動教室)と言うんですが、 その補助のために全国の小学校を格安の宿にして、子供たちを宿泊させるたのがユースホステルの始まりです。

  もっと簡単に言うと、ハイキングしながら勉強しようという運動です。 リヒャルト シルマン先生は、教室で勉強するよりも ハイキングしながら勉強した方が子供たちの勉強がはかどることを発見しました。 これを ドイツの教師たちに訴えると、あっという間に 全国から賛同者が集まり、わずか数年でドイツ 全土にユースホステルが出来上がり、 そのネットワークが全世界に広がったわけです。

  実はヨーロッパでは、ギリシャ時代からハイキングすると、学問がはかどることが分かっていました。 机と椅子に腰掛けて勉強するよりも、散歩しながら 学問をした方がはかどるということを彼らは ギリシャ時代から知っていたわけです。特にアリストテレスは、散歩することによって学問がはかどることを実感していて、彼らの授業は散歩とともにありました。 人々はそんな彼らを「 逍遥(散歩)学派」 と言ったぐらいです。

  西洋演劇で有名な、坪内逍遥は、アリストテレスを元祖とする逍遥(散歩)学派から、名前を頂いています。

 ここで思い出してほしいのが、映画「男はつらいよ」シリーズの最高傑作とも言える第2作「続・男はつらいよ」です。年から年中 散歩 ばかりしているくせに、おバカな寅さんが、 恩師のところに遊びに行くわけですが、その恩師の名前が「 坪内散歩先生」ですから、山田洋次監督も皮肉が効いています。


sanposensei-580x249.jpg
(寅さんと坪内散歩先生)


 皆さんも試して欲しいんですけれど、散歩しながら勉強すると非常に具合がよい。クリエイターならなおさらです。想像力が倍増する。それに人間は1時間机に座っていることが辛いものですが、1時間の散歩は全く辛くない。だから散歩しながら考え事をすると何でもわいてくる。それを ドイツの小学校の先生であるシルマン先生は、体験的によくわかっていたので、 ユースホステル 運動を提唱したわけです。

 しかも、それがたったの数年で、全ドイツに伝わって、全ての教師が賛同し、全国にユースホステルが誕生したわけですから、 当時の ドイツ人は、散歩の効用をそれぞれ実感していたわけです。でなければ あっという間に全ドイツに何百軒もユースホステルが誕生するわけがない。全ヨーロッパに広がるわけがない。イギリスでも、フランスでも、先進諸国ならどの国でも、短期間に広がっていった。唯一の例外は日本だけです。日本では、なかなか広がらなかった。なので、ワンデルン・シューレ( 移動教室)も最後まで日本には定着しなかった。

  ワンデルン・シューレ( 移動教室)とは、なにかというと映画「サウンドオブミュージック」を イメージしてもらえば良いかもしれません。 あのイメージを日本に定着させようとして、私はユースホステル運動に身を捧げてきました。なので25年前に 北軽井沢にユースホステルをオープンしてから、15年間、毎日のようにネイチャー体験ツアーをやっていました。参加費は保険と実費のみなので、かなり格安だったと思います。

 これをやめたのは息子が生まれてからです。

 子育てで、それどころではなくなった。息子のために、毎日のように浅間牧場あたりに出かけて、ワンデルン・シューレ( 移動教室)を実行してきました。道中に看板があると、その文字を 2歳か3歳の息子に教えました。だから息子は3歳くらいから、看板にある、ひらがなと漢字が読めるようにはなっていた。なので幼稚園に入れる 気など全くなかった。で、保育園に入れてみたら、そこは「こども園」という名前の幼稚園だった。





 なんだか 詐欺にあったような気分でしたが、ガンガン休ませて、今まで通りワンデルン・シューレ( 移動教室)を行うと思ったらそうはいかなかった。幼稚園の先生に休みすぎていると怒られてしまったからです。仕方がないので午前中だけ幼稚園に行かせて、 給食が終わった頃に迎えに行って、午後からハイキングに出かけるという スタイルを取っていたのですが、 それも先生にはご不満だったようで、
「 成長が遅れているので 発達心理学の先生に見てもらいなさい」
と言われてしまう。

  確かに息子の成長は遅れていた。でも、それは個性の一部だと思って放置していたのですが、 担任の先生にしてみたら 心配の種だった。で、専門の先生に見てもらうわけですが、専門家は問題ないという。しかし幼稚園の先生は納得してない。毎年、しつこく「成長が遅れているので休まないで」と言われた上に、怪我をしたり、 たんこぶをつくって帰ったり、かまれたあとがあったりして、いじめられているらしいこともわかってきた。おまけに運動能力も低くて、 みんなとかけっこをしたがらない。

 こうなると さすがの私も考えざるを得なくなった。
 それまでの私は、勉強ができなくても良い。
 運動ができなくても良い。
 のびのびと育って幸せな人生を 送ってほしい。

  そう考えていたのですが、のびのびと育って幸せな人生を送るためには、運動も勉強も多少はできなければ、だめなんですよね。でないといじめられてしまいます。最初は成長が遅れていても、個性 なんだからほっといてくれと思っていたんですけれど、そういうわけにはいかなかった。

 仕方がないので、勉強と運動をさせることにしたのですけれど、 まず勉強の方は、 脳科学の先生が監修している「ポピー」を2部づつ買ってきて、あえて同じ問題を繰り返してやらせたわけですが、この繰り返しが効果をあげています。また脳科学者の「脳力道場」というアプリケーションソフトを毎日やらせました。このソフトは ワーキングメモリを増やすのに効果のあるソフトで、ワーキングメモリを増やすことによって、 あらゆる知能が発達することがわかっています。その結果、5歳のときに受けた知能検査(ウイスク)では、100から140の数値がでています。特に知的推理が140と最高レベルで高かった。次に高かったのが言語理解の120。逆に低かったのが処理速度で97。





 で、いわゆるギフテット(天才)と言われましたが、これは信じてなかった。どうしてかと言うと、本物のギフテットを見たことがあるからです。甥がギフテットなのですが、本物はレベルが違っている。甥っ子は小学生のうちに高校レベルだった。 自由にプログラミングをくんで遊んでいたし、小学生のうちからメルカリを使って商売をしていたり、株を買っていたりした。こういうのが本物のギフテッドだと思う。

 また、嫁さんの姪にも本物のギフテットがいた。中学校の百人一首の大会では、国語の先生数人を相手に戦って簡単になぎ倒したと聞いています。その子は塾もいかずに学校の授業だけで京都大学に現役で入って卒業している。こういうのが本物のギフテットです。

 それからしてみたら、うちの息子はハリボテのようなもので、全く才能を感じない。むしろ遅れているように見える。ようするに息子の知能は、努力を重ねた結果の数値でしかない。逆に言うと知能指数というものは後天的な努力でなんとかなるということになる。ただしハリボテなので、努力をやめた途端に消えてしまう。バブルの泡のようなものなのだと思う。

  実際うちの息子は、近所の子供たちと比較しても、会話能力が非常に劣って見えてるし、1歳年下の子供達と遊んでいても息子の方が弟分になっているくらいに、ぼーっとしている。だから 小学校に入ったら真っ先に「言葉の教室」にはいっていた。会話能力が低くて、幼いというかバカぽく見えていたと思う。

  なので 小学校の3年生ぐらいまでは、知的推理よりも言語理解を中心に勉強させるようにしました。テストの点数などは無視した。授業の点数よりも、その先を目指して、教養番組や、E テレの高校生講座の中で面白そうなやつを選んで見せていた。夏休みの宿題に読書があると知って、1日5冊くらい読ませたし、読み聞かせもした。漫画も読ませました。歴史漫画・科学漫画・伝記漫画なんでも読ませた。

 その結果 10歳の時に行った IQ テストでは、言語理解が140と上がって、大人と変わらないというお墨付きをもらいました。逆に知的推理が120に下がっていた。つまり後天的な努力によって言語理解の IQ が高くなっていたということになる。で、ワーキングメモリをアップさせる作業はやらせてなかったので知的推理が下がっていた。ようするに息子はギフテットではない。ないけれど努力でギフテット並みの知能を獲得できたことが、これで証明されてしまったわけです。そして、努力をやめると、 IQ が低下してしまうことも証明されてしまった。






 と言うわけで、勉強の方は比較的簡単に解決がついたわけですが問題は運動の方です。こればかりは苦戦した。嬬恋村には、子供達が自由に運動ができる体育館というものはなかったし、スポーツ教室も無かった。インターネットで探しても出てこなかった。 仕方がないので軽井沢の風越公園に出かけて、お金を払って 総合体育館を利用し、サッカーや ドッジボールやバスケットボールをしました。短距離走もやった。


 もちろん理論もやった。E テレの「体育ノ介」とか、「すイエんサー」とか、「奇跡のレッスン」なんかを片っ端から見せました。 これらの DVDソフトは、息子の妊娠がわかった時から、 NHK や E テレや 衛星放送されたものを片っ端から録画しておいたので、ネタが切れるということはありませんでした。





  しかしなかなか 成果が出なかった。成果が出ないので小遣いをあげることにした。 縄跳び なら10回飛んだら100円。20回 飛んだら200円という感じです。これがいけなかった。

  息子は 極度の悔しがりなんです。なにかに失敗してしまうと悔しくて泣いてしまう。上毛かるたでも、負けそうになると わんわん泣いてしまう。テストの点が悪くても泣いてしまう。 友達とゲームをやってても負けそうになると泣いてしまう。

 ある時です。風越公園の総合体育館で縄跳びの練習をしていた時、何度も 縄跳びに失敗して、どうしても10回以上とぶことができなかった。 そして わんわん泣きながら縄跳びをしていたら、事情をしらないアメリカ人がやってきて「 児童虐待だ」と言ってきた。そして通報されてしまった。

  通報されると何が起きるかというと、嬬恋村の福祉保健課の人が、学校に子供が通学してるかどうかを確認します。その上で事情収集に来ますが、その時は、村の福祉保健課がある体育館に私は息子と一緒に空手教室に出ていました。 村の福祉保健課のすぐそばで息子の運動をみていた。で事情聴取を受けて誤解が解けるわけですが、その時に、保健福祉課の理学療法士・ 作業療法士のかたに、縄跳びが飛べるように手伝ってもらうことになった。

  で、1年ぐらい保健福祉課に通って、 縄跳びの練習をすることによって、どんどん上達していきました。で、思ったことは、プロの教え方は、さすがプロだなと。私が教えてもなかなか飛べなかった 縄跳びが、保健福祉課の理学療法士・ 作業療法士の人が教えると 劇的に上達していく。1年後には小学校の縄跳び大会で、学年で2番目に長く連続縄跳びができるようになってしまった。劇的変化もいいところです。

 特徴的だったのは、教え方が定型通りでないことです。
 相手に合わせて教え方が少しずつ変化していく。
 最初に教えたことと、上手になってから教えることが全く違っている。
 ある教え方が通用しないとわかると、別の教え方になる。

 例えば、うまく飛べないとわかると縄を持たずにジャンプすることから始めたりする。その後に縄を手でぐるぐる回しながらジャンプ練習をしたりする。多少縄跳びができるようになると別の飛び方を教えたりする。相手をよく観察した上で、色々な手法を息子に提案している。

 昭和時代なら何事も根性で頑張れというところなんだろうけれど、 令和時代のプロは、そういう指導はしない。もっと科学的な手法を取るし、何々をしろという強制がない。強制の代わりに提案をし、場合によっては選択肢を与える。「どっちがやりやすい?」と聞いてくる。人間を一つの型にはめない。正解をつくらない指導をしている。理学療法士・ 作業療法士だから、そのような指導法を行うのか? それとも今のスポーツ教室界隈は、全てこんな感じなのか?

 とにかくプロの教え方というのは、素人の教え方とは全く違っている。なので本格的なスポーツ教室に息子を入れようと決心しました。プロの教え方なら私よりもうまいだろうし、スポーツ教室なら外国人に通報されることもないでしょうから。


つづく

↓ブログ更新を読みたい方は投票を

人気blogランキング



posted by マネージャー at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐渡島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年03月26日

スポーツ教室について語ってみる その3 息子の卒業式

 先日、息子の卒業式がありました。その後に謝恩会があったわけですが、私が子供の頃の謝恩会とだいぶ違っていたので驚いた次第です。どういう点が違ってたかと言うと、私が小学生の頃は、PTAは謝恩会に全く関わってなかった。謝恩会を企画したのは小学校の先生。小学校の先生の指導のもとに謝恩会をやったわけです。

 当然のことながら、卒業式の何日か前に行っています。家庭科の先生に家庭科室に来るように言われて、そこで教わりながらサンドイッチを作って、その後にみんなで会場作りをして、改めて担任の先生を呼んで謝恩会をしたわけです。そして小学校の先生にこう言われました。

「中学校卒業する時は、先生たちは教えてくれないから、君たち自身で謝恩会を企画して自分たちだけで謝恩会をやるんだよ」

と。で、中学校の時に謝恩会をやったかと言うと、やった覚えがない。全くその記憶がない。小学校の時は謝恩会をやった記憶があるから、中学校の謝恩会を忘れているということはありえない。だからやってなかったんだと思う。当時はPTAが謝恩会を企画するということもなかったと思うので、生徒にその意思がなければ謝恩会は開かれなかったんだと思う。

 じゃあ何をやったかというと、卒業式の直前に中学校の先生一人一人に挨拶に行った記憶はある。高等学校の合格が決まった時に、学校の全ての先生に1人ずつ挨拶に行った。「先生のおかげで合格しました。ありがとうございました。3年間お世話になりました」と全ての先生に挨拶に行った。これは覚えています。

 当時の先生にしてみたら、一人一人次から次へとやってくる生徒たちの挨拶が、めんどくさかったと思うんですが、誰もめんどくさがらずに、全ての先生が一人一人に貴重なお言葉をかけてくれたのは覚えています。思えばこういうことをめんどくさがらなかった先生たちだったなあと懐かしく思いました。考えても見てください。百五十人の生徒たちが、いちいち挨拶に来るんですよ。そして一人一人にそれぞれの言葉をかけるわけですから、さぞかし大変だったろうと思います。おまけに先生のうちに遊びに行ったりもした。それを断らなかったわけですから、先生も親切だったと思うし、当時の中学生も、めんどくさい生徒たちだったと思います。

 それを考えると謝恩会というシステムは素晴らしいシステムかもしれませんね。謝恩会の拘束時間が長いとは言っても、生徒たちが一人一人先生のところに挨拶に行かれては、先生たちの時間を超長いこと拘束することに比べたら、比較にならないぐらい合理的なんだと思ってしまいました。そういう意味で謝恩会を企画実行してくれた役員の皆様には非常に感謝しています。

 感謝といえばもう一つ、面白い感謝がありました。
 それは謝恩会で初めて担任の先生の本音が聞けたことです。


21-10-24-10.JPG


 実は息子のクラスは、かなり問題の多いクラスでした。学級崩壊も起こしたし、壮絶なイジメ問題も起こしている。これは幼稚園の頃からそうで、幼稚園の年老いた担任の先生が、こんなにキレやすい子供たちが集まったクラスは初めてだと言ってたぐらいで、いわゆる暴力教室で、すごく問題が多かった。

 小学校に入学して1年生になった時は、担任のN先生に「大丈夫ですかね」とかなり心配されました。何しろうちの息子は無口で、暴力の被害にあってたりしてて、かばってくれる女の子のところに逃げていたりしたので、ずいぶん心配されました。

 とにかく無口で会話能力に乏しく自己主張ができなかったので、それを見かねた担任のN先生が校長先生に進言してくれて、特別な計らいで入学と同時に言葉の教室に入れてもらい、徐々に会話能力が身についていったことで息子の社会性が鍛えられました。


IMG_1458.JPG


 2年生になった時は、新しく担任になったS先生が、よく面倒を見てくれました。私の携帯電話にS先生からよく連絡がはいりました。他の父兄の方々は、ご存知なかったかと思いますが、S先生くらい弱者に寄り添う先生はなかったと思います。だから他の御両親のヒソヒソ話しから漏れ聞こえる
「S先生は怒ると怖い」
は、誤解されてると思ったものです。S先生くらい優しくて弱い者イジメが嫌いな先生はいないし、子供をよく観察している先生はいないと思っていました。問題だらけの子供たちをよくまとめたと思っています。

 この頃の私は、息子の運動能力を高めるために毎日1時間かけて嬬恋村の小学校から軽井沢の風越公園に通ってました。そして、料金を払って総合体育館でバスケットやドッジボール、短距離走の練習をしていました。だから毎日、下校時刻になると学校の校門前で、息子が出てくるのを待っていたわけですが、何かの理由で息子が遅れて出てくると、必ずS先生から私の携帯に電話がかかってきた。S先生くらい頻繁に私の携帯に電話をかけてきた先生はいなかった。息子に対して真剣に関わっていたことは、ひしひしと感じていた。


IMG_8867.JPG


 3年生になった時、若いO先生が担任になったわけですが、O先生こそ最大の犠牲者だったかもしれません。この時に学級崩壊と壮絶なイジメ問題がおきたわけですが、要するに先生と児童との相性が悪かった。息子のクラスは、性善説で対処できるようなクラスでは無く、
「S先生は怒ると怖い」
という雰囲気がないと、とても対処できるクラスではないのです。

 昭和教師の雰囲気がないと対処できない。
 本宮ひろしの漫画ぽくないと対処できない。

 そういうクラスが息子のクラスなのですが、O先生は良くも悪くも令和の教師でした。赴任して最初の1週間は、授業をやらずに「自己紹介」をやっていたと息子から聞いた時
「あちゃー」
と頭をかかえて「大丈夫かな」と不安に思いましたが、その悪い予感は後で当たることになります。

 それはともかくとして、O先生の授業は、音読を中心にそえた授業形態で、脳科学的に効果的なことをやっていたので、私としては助かりました。おかげで息子の語学能力が、この先生の時に大きく発達したのです。O先生のやろうとしたことは、非常に革新的というか、令和的というか、脳科学的なのでテストの点はともかくとして、言語の成長と人格形成に非常に効果があることは、すぐに理解できました。

 現にこの1年後に行った知能検査で息子の言語能力は、140を記録し、発達心理学の先生にいわせると「これ以上は測定不能で、大人と同じ言語知能をもっています」と言われてます。五歳の時に受けた検査では、言語知能は120でしたから、あきらかに効果がでてます。O先生の授業の組み立てが、脳科学的に有効であったことが原因でしょう。

 O先生は、音読専用の教科書を自ら作ってきた。それは教科書に準拠して無く、古典にちかい名作の美文を集めてテキストをつくり、それを宿題にした。それらの古典を徹底的に音読させるわけですから、効果が出ないわけが無い。

 少なくともうちの息子は、かなり効果が出ていた。私は、息子に何度も音読させたうえに原典の解説をし、原書の読み聞かせもやったし、Eテレで解説している番組も見せた。そして暗記させるくらいに音読をさせた。もちろん私も一緒に車の中で一緒に復唱した。

 ただし教科書と全く関係ない古典文学の一節を音読するわけですから、それをしたからと言ってテストの点が良くなるわけではありませんし、通知表か良くなるわけでもない。だから意図を理解しなかった子供たちなら誰も見向きもしなかっただろうし、はなから馬鹿にしていたかもしれません。しかし、この意図さえ理解して、学習させれば絶大な効果がでるはずです。もちろんテスト勉強の点数には反映されない。そういう目的の勉強ではないからです。ゴールは、もっと先にある。

 だからO先生の時は、テスト勉強はしなくてもいいから音読だけは徹底的にするようにしました。放課後になると毎日、小学校から軽井沢の風越公園まで1時間かけて移動していたので、音読する時間はたっぷりありました。何度も何度も、先生が作ってきた音読教科書を音読させることによって、息子の会話能力がどんどん発達していたことは確かです。

 ただし、それをすることによってテストの点があがるかというと、そんなことはない。音読の効果が理解できてない子供たちににしてみれば、何やってるんだ?ことになるから、そこから学級崩壊に繋がっても不思議は無い。勉強を短期的な効果としてしか考えてなけれすば、つまんない授業・・・ということになる。つまり、先生と児童の相性が悪かったとしか言いようがない。

 だけど、この先生の意図を理解して、親が積極的に利用してあげれば、子供の人生において、すごく効果のあるものになったかもしれない。テストの点とは関係の無いことをやることになり、通知表の評価が下がったとしても、1年間、音読を続けることによって。言語知能はかなり発達するはずだし、うちの息子らは絶大な効果となってあらわれている。


211017_04.JPG


 そして4年生。さすがに学校側も、学級崩壊を問題として認識してきたのか、O先生とは真逆の昭和系の厳しい先生が担任となりました。昭和系の先生ですから、とりあえず学級崩壊は防げたようです。O先生とは真逆の授業形式に懐かしさを覚えたものです。

 ここでちょっと困ったことが起きました。息子の学習態度です。私は、今まで好奇心中心の勉強させていたので、昭和スタイルの授業方針とぶつかってしまったのです。私は今まで息子に対してやってきた好奇心中心の勉強スタイルのために、息子には苦労して覚えると言う経験がありません。

 それまでの息子は楽しみながらゲームしてる感覚で勉強していた。具体的に言うとタブレットのアプリでクイズ感覚でゲームをさせてみたり、Eテレの高校生講座の面白そうなところを見せたりしていたわけで、学校から出た宿題に対しては、コツを教えることによって10分ぐらいで全部終わらせてしまい、その後は楽しそうなことばかりやっていた。つまり教科書に沿って勉強するというスタイルを今までやってきてなかったために、大量の宿題を出してくる昭和先生の授業スタイルとぶつかってしまって非常に困ってしまった。

 そこでどうしようかなと考えたのですが、社会に出れば、理不尽なことがいくらでも出てくるだろうし、昭和スタイルの上司だっていっぱいいるだろうから、これに合わせることも非常に大切なのではないかと思い直し、あえて合わせてみることにしました。何かの罰則で、ノート三十ページの書き取りの宿題がでれば、必ずやらせたし、どんなに無駄だと思ってもしっかりやらせました。

 むしろ合わせにいった。冬休みの宿題で最低1日1ページの書き取りを言われれば、逆に1日3ページ書かせました。それが学力につながるとは到底思えなかったのですが、昭和時代の小学生は、みんなそれを乗り越えてやってきたのですから、そういう体験も必要かなと思った次第です。

 ちなみに脳科学の立場から言うと、この方式は現代では否定されています。ではなぜ昭和時代にこの学習スタイルが主流だったかと言うと、昭和36年生まれの私の世代ならその理由を小学校の先生から聞かされています。私が子供の頃に
「先生何でこんなにいっぱい漢字を書かなきゃいけないの?」
と子供たちが質問すると先生はこう答えていました。

「社会に出たら誰もが絶対にやらなければいけないことがあるんだよ。それは文字を書くこと。お願いをしたり、手紙を書いたり、営業の挨拶を書いたり、請求書を書いたり、どんな職業に着いたとしても文字は必ず書かなければならない。その時に綺麗な字を書けてないと相手はどう思うと思う?どんなに文章が素晴らしくても文字が汚かったら読んでさえもれもらえないんだよ。綺麗な文字を書くということはとても大切なことなんだ」

 当時はワープロもなければパソコンもなかった。もちろんプリンターなんかあるわけないしコピー機だってない。お知らせのプリントは、ガリ版という手書きの印刷機で印刷するしかなかった。テストだって、ガリ版で作っていた。だから1回しか使えない。今のようにコピーして何度も使い回すことなんかできなかった。毎回手書きで書くしかなかったのだ。





 当時は、文字といえば手書きしかなかった。
 だから昔は必要以上に文字を書く練習をした。
 インクの滲むガリ版すりでは、文字が美しくないと読めなかったのだ。

 書道も今より重要視されていた。
 廊下や体育館などには毎月のように書道の作品が貼られて金賞 銀賞と言った賞をつけて飾られていたものです。昔は筆を使うことが多かった。年賀状や、お歳暮なんかで筆を使って書くことが多かった。

 今となっては考えられないことですが、昔は文字が綺麗だというだけで就職に有利だった。昔の就職試験には文字の綺麗さも考慮に入っていた。だから私が子供の頃は、あらゆる子供向け雑誌に「日ペンの美子ちゃん」の広告が載っていた。




 まあそんなことはどうでもいいとして、義務教育を終えた後に就職をする人たちが多かった昔は、テストの点で100点を取るのと同じくらいに、綺麗な字をかけるということが重要視されていたということは覚えておいて良いかもしれません。そういう時代には漢字の書き取りというのは非常に重要視されていたのですが、脳科学が発達した現代では、もっと簡単に漢字を覚える方式が広まっています。いわゆる小テストです。それも寝る直前の小テスト。


 それを積極的に行ったのは、5年生6年生の担任となる小野先生の時でした。小野先生は、よく漢字の小テストを行った。「あーこの先生は脳科学を知っている。記憶の法則を使ってるな」と思いました。だから、どんどん利用させてもらった。だから通知表の成績だけはよくなった。毎回百点のテストを持って帰るようになってきた。

 それはともかくとして小野先生も令和の先生でした。だから1歩間違えれば、学級崩壊になってもおかしくなかった。息子のクラスは令和の先生には、荷が重かった。その先生が、謝恩会で最後の演説をしたわけですが、こういっちゃ悪いですけれど、すごく面白かった。

 短い言葉で終わるはずの挨拶が、とても長い演説となって、子供たちとの邂逅を、過去の不思議な体験として話をしていた。

「僕は怒ったことがないんです。自慢じゃないけれど怒ったことがない。酔っ払った友達にゲロを浴びせられても怒ったりしてなかった。そういう人間なんですが、このクラスの担任となってからは、さすがに怒った・・・」

 この言葉を聞いた時に、その風景が目に浮かび笑ってしまった。
 あー、ありそうだなあと。
 何しろ とんでもないクラスですから。
 怒ったことのない人、穏やかな人間を激怒させるのが息子がいたクラスです。
 当然と言えば当然。
 そこまではいい。
 小野先生が不思議に思ったことは、怒られた子供たちが、シュンとすることもなく、ケロリとして
「先生、先生、と馴れ馴れしくしてくる」
ことに驚いたという。

 ただそれだけの内容のないことを、延々と大演説していた。文章にすればたったこれだけのことを、長々と長々と話していた。最後の別れの言葉のはずなのに、本当ならここで何か人生のためになるような話をするところなんだろうけれど、そういう言葉は一つも発せずに、2年間に体験した不思議な出来事を思い返していました。

 この演説が、息子のいたクラスの日常風景を見事に描いて見せている。要するに息子がいたクラスは、無邪気すぎた。幼すぎた。アホっぽいというか、天然すぎるというか、大人の常識が通じなさすぎた。だから歴代の担任の先生たちが苦労した。どの先生たちも1歩間違えれば、学級崩壊しかねなかった。

 それをギリギリ留めたのが、小野先生の趣味が「お笑い」だったことかもしれない。だから子供たちの悪行を「ボケ」と認識して、「ツッコミ」としての激怒した。しかし、天然のボケである子供たちは、シュンとせずに、ボケたおしてくる。それらの日常を、不思議そうに回想していた感じだった。それが、とりとめもなく長い話となっていた。そのとりとめのない演説が、私には非常に面白おかしかった。

 現代的な令和系の小野先生にしてみたら、人生がひっくりかえる思いだったのかもしれない。令和時代は、静かで大人しく真面目に授業をきく子供たちが多いと思う。そういう一般的な小学生と比較してみたら息子たちのクラスは、昭和も昭和。ひょっとしたら原始人に近かったかもしれない。先生にしてみたら、嬬恋村に赴任したら、いきなり暴力的な不思議ちゃんばかりいるクラスの担任にされてしまって、さぞ困惑したことと思います。貧乏くじも、いいところだったでしょう。

 とにかく、いろんな意味で息子のいたクラスは常識を外れたところがありました。例えば学級委員の選出なんかだと、立候補者が続出してみんなで選挙して勝たなければならなかった。そんなこと考えられます? 学級委員に争って大勢が立候補するクラスがあるなんて信じられますか?

 普通なら誰もが嫌がる学級委員にみんななりたがった。だから1学期2学期3学期と学級委員が変化したりもした。何か面白そうだなと思ったら、みんなそれに食いつくし、そうでなければ誰もがそっぽを向く。興味があれば先生にどんどん質問するし、興味がなければ学級崩壊が起こる。静かに授業をしようという選択肢はない。

 よくもまあこんなクラスを、現場の先生方が相手したものだと感心します。

 長くなりすぎたので、今日はここまで。
 
つづく

↓ブログ更新を読みたい方は投票を

人気blogランキング



posted by マネージャー at 02:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐渡島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年03月23日

スポーツ教室について語ってみる その2

スポーツ教室について語ってみる その2

 子供が生まれた時に真っ先に考えたことは、勉強ができなくても良い。運動ができなくても良い。のびのびと育って、たくさんの友人に囲まれて幸せな人生を送ってほしい。 だから自由奔放に生きていけるように子育てをしようと考えていました。

  なので晴れてる日は毎日、浅間牧場で愛犬ころと 散歩して遊んでいました。 幼稚園に入る年齢になると、教育委員会から幼稚園に入る手続きはしないのかという電話が来ましたが、「うちは 保育所に入れるので大丈夫です」と断ったくらいです。文部省の管轄でもあり、学校の延長である幼稚園に入れるつもりはありませんでした。仕事が忙しい時だけに限定して、保育所か託児所に入れるつもりだったのです。 そうでない時は親子で1日中 公園で遊ぶつもりでした。 現に息子が3歳になるまで毎日のように 各地の公園に出かけていました。





 ところが私が住んでいる嬬恋村では幼稚園と保育所が合併しており『こども園』 というものになっていました。保育所に預けるつもりで入園手続きをすると、そこは幼稚園だったのです。 保育所の子供も幼稚園でみんなと一緒にお勉強するようになっており、 夏休みや 冬休みで 幼稚園が休みの時だけ、保育所になっているというシステムでした。

  なんだか 詐欺にかかったような気にもなりましたか、まあ 仕方ないかと思い、息子を『こども園』という名の保育所と幼稚園が合体した施設に預けたわけですが、私が危惧した通り『こども園』は、幼稚園そのものでした。 幼稚園を休ませて 親子でハイキングに行くと先生に怒られるのです。

 私は学校という型枠に息子をはめ込みたくなかったので、あえて保育所を選んだつもりだったのですが、無理やり強制的に幼稚園 スタイルの教育施設に入れられてしまった。私の子育ては映画の『サウンドオブ ミュージック』のような自然の中でのびのびと育てることが目標だったから非常にがっかりしました。幼稚園の先生は非常に熱心に 息子のことを面倒を見てくれたと思います。 しかしそれは私の望むところではなかったわけです。

 ところがです。

 息子を幼稚園に通わせると、先生が成長が遅れてると言ってくる。確かに遅れていた。 近所に 息子より1歳年下の男の子がいましたけれど、その子と比べて明らかに劣っていた。会話能力と言うか言語能力が劣って見えた。2歳くらい下の子のレベルにみえた。息子は3月26日生まれですが、 それを考えても圧倒的に遅れてるように見えてしまう。なので幼稚園の先生が、
「発達心理学の先生に見てもらってください」
と言ってくる。要するに『学習障害』を 疑ってる感じなのでしょうが、 専門家でもない人間が『学習障害』の可能性を言ってはいけない 規則になってるので、ひたすら「先生に見てもらってください」 と言ってくる。仕方がないので何度も発達心理学の先生のところに連れて行くわけですが、 私自身が、
「何の心配も無い」
という気分でいるので、発達心理学の先生も、
「じゃあ 大丈夫なんじゃないですか」
という雰囲気になって、世間話をしてそれが盛り上がって終わっていました。
「幼稚園の先生は大げさなんだよ」
くらいに思っていてのんびりどっしり構えていました。


18-6-4-34.JPG


 しかしそうも言ってられなくなったことが起きたのです。 息子と一緒に風呂に入ると変なところに傷がある。よくよく聞いてみると友達にやられたと言っている。どうやら いじめを受けているようなのだ。幼稚園の先生も「いじめ」という言葉は使わないけれど、明らかに体に傷がついた 状態の場合、個別のトラブルを 報告してきます。おまけに、いじめっ子たちは、4月・5月・6月生まれでした。息子は3月26日生まれで大きなハンデがある上に、成長が遅いと来ている。

 そうなってくると
「何の心配も無い」
と言えなくなってくるのです。

 子供が生まれた時に真っ先に考えた「勉強ができなくても良い。運動ができなくても良い。のびのびと育って、たくさんの友人に囲まれて幸せな人生を 送ってほしい」という考えは甘かったということになる。年配の幼稚園の先生は、

「嬬恋村では子供の数が少なくてクラス替えがないから、自分で強くなければだめ」

と言ってきたのですが、このアドバイスに納得した私は、息子に空手を習わせることにしました。で、スポーツ教室を探したわけですが、車で40分の距離にある『軽井沢風越公園』に空手のスポーツ教室があることを発見しました。そして『軽井沢風越公園』の主催事業である『空手と礼儀教室』に申し込みました。そして週1回の空手教室に通い出したのです。

「勉強ができなくても良い。運動ができなくても良い。のびのびと育って欲しい」と考える親御さんは多いと思います。 しかし現実問題として、のびのびと育つためには、ある程度運動ができて勉強ができないといけない。そうしないと、 みんなからいじめられるから、のびのびと育てるという目標を達成できないのです。 勉強はある程度できないとダメだし、 運動もある程度できないと話にならない。 残酷のようなことだけれど、 それが厳しい現実というものでした。

  息子とその友達と体育館で一緒に遊んだりするんですけれど、 私が「 みんなで かけっこ やろうか」と 子供たちに提案すると、みんな喜んで賛成するのだけれど、うちの息子だけが嫌がって参加しない。 なぜならば 一番足が遅いからです。それがわかってるから息子のやつは絶対に競争に参加しない。ひねくれて、ぼっちになってしまう。そんな状態で「のびのびと育つ」とは到底思えない。 ある程度運動ができて勉強ができないと、「のびのびと育つ」ことは無理なのだ。

 一緒に風呂に入ってると、3歳になったばかりの息子は 涙ながらに「早く走れるようになる薬はないの?」と聞いてくる。幼稚園で肩身の狭い思いをしていることが これだけでよくわかる。私はもう一つ決意しました。 空手が強くなるだけでは問題は解決しない。 運動能力と 学習能力を高めないと 「のびのびと育つ」という目標に達成しないという冷酷な現実があった。



17-9-10_09.JPG


 さいわい『軽井沢風越公園』には、プール・フットサル場・体育館もありましたから、そこに毎日のように通ってバケット・サッカー・水泳を教えました。毎日。往復2時間をかけて軽井沢に通ったわけです。送迎中 車内では、スポーツに関する映像作品を見せました。昔と違って今は、スポーツを上達するための素晴らしい映像作品がありますので、それをdvdに焼いて見せました。

  うちの息子は、 非常識なくらい好奇心の強い子供だったので、 それらのビデオを熱心に見ていました。例えば E テレに、すイエんサーという科学番組があるのですが、その番組ではどうすればドッジボールで勝つことができるかということを 科学的に実験実証して見せたりします。明らかに運動能力に劣る子供達が、どうやったら 強敵に勝てるようになるかという番組。相手がボールを投げてきた時、 右によけた方が 生存確率が高いか、 左に避けた方が 生存確率が高いか、 そういうことを科学的に検証する番組(すイエんサー)があるわけで、そういう番組を積極的に見せたわけです。

 しかしそこまでしても、運動能力は上達しないものです。 いや 上達はしてたのですが、3月生まれというハンデのために相手に追いつけない。息子をいじってくる人たちは、出席番号の最初の人たち。 つまり 4月生まれとか5月生まれなので、相手は1年近く年上。ちょっとやそっとの運動では追いつけない。特に4歳児は5歳児ぐらいの場合は圧倒的な体力差となっていて壁となっている。その壁がいじってくるわけですから始末に悪い。

 これでよく登校拒否にならなかったものだなあと感心するわけですが、 息子は非常に好奇心が強いために、 幼稚園や小学校を嫌がることはありませんでした。ありがたいことに息子をかばってくれる女の子や、男の子がいたことも確かで、4歳とか5歳であるにも関わらず、ダメなことはダメと悪いことを注意する素晴らしい お子さんもたくさんいたようで、それに救われたということもあります。

 とにかく息子の運動能力が平均値を超えるまで5年ぐらいはかかりました。一部の競技でトップを取るまでは、 それから何年かかかりました。 幼稚園の時は1回も飛べなかった 縄跳びも 小学2年生になる頃は、学年で2番目に長時間 飛べるようになっていましたし、小学3年生の頃にはマラソン大会で2位をとる までになりました。スキーやスケートでもたくさんのメダルを確保しましたし、 スカイランと言う登山マラソンでも毎年上位に入るようになりました。こうなると息子のやつもスポーツが楽しくなるらしく、何かスポーツの大会があると必ず参加したものです。

  ちなみに 息子のやつは、 嬬恋村の空手教室・ キックボクシング教室にも通っています。つまり 2つの空手教室に通っていたわけですが、空手には色々な 流派があって 指導の仕方が全く違うわけです。 軽井沢の空手教室は、空手を教えるというよりも 運動させることがメインでした。 とにかく子供に遊びをさせることによって走り回させるのです。 空手を教えるというよりも遊びながら体を鍛える というスタイルです。だから 空手をやってる時間よりも室内サッカーをやってる時間の方が長かった。

  嬬恋村の空手教室は、それとは全く違っていわゆる武道を教えてました。礼儀作法とか、精神に重点を置いた 教え方で、空手の方も基本をじっくり教える感じです。いわゆる正統派な教え方でした。これは軽井沢の教え方とは全く違っていました。

  不思議なことに、 これはスケートでも同じことが言えて、軽井沢のスケートのスポーツ教室では、 スケートを教えるというよりも 遊びながら 運動させることがメインだったのに対して、 嬬恋村の小学校のスケート部では、スケートを基礎からきっちり 教えるということを実践していました。

  嬬恋村の小学校のスケート部では、5つのクラスに分かれていて、 各自のレベルに合わせて教わる内容が違っていたのに対して、 軽井沢のスポーツ教室の場合は、小学生から中学生まで、ほとんど クラス分けがなくて みんなで一緒に滑ってるという感じです。

  個人的な感想を言うと、軽井沢と嬬恋村ではゴールが違っている気がする。軽井沢のスポーツ教室では遠くを目指してる。スケートとか空手にこだわってない。子供たちの体力とやる気をあげることに 中心を置いている感じがします。それに対して嬬恋村では、 空手の上達・ スケートの上達を目指してる。 どっちがいいとか悪いとかいうことではなくて、ゴールが違ってるんだ と思います。

 話がそれました。
 一旦、話を戻します。

 私が何を言いたかったかというと、子供に
「のびのびと育って欲しい」
と願う場合、ある程度運動ができて勉強ができないといけない。そうしないと、いじめられる可能性がある。そして、ある程度運動ができるようになる方法があるということであり、あるていど勉強ができる方法もある。決して不可能では無いということです。



つづく

↓ブログ更新を読みたい方は投票を

人気blogランキング




posted by マネージャー at 05:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐渡島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年03月21日

スポーツ教室について語ってみる その1

 今日小学生である 息子の最後の授業が終わりました。あとは 卒業式だけです。というわけで、もう遠慮もいらないと思いますので、なんやかんだで今まで言えなかったことをブログで書くことにします。

  小学生時代を通じて 一度 息子は非常に運が良かったと思います。 まず第一に時代に恵まれたこと。それによって色々な体験ができたことです。 今回はその中の一つであるスポーツ教室について少しばかり話しておこうと思います。

  うちのお客さんは90%以上が 小さなお子さん連れのお父さんお母さんです。私のブログを読まれる方も そういう方々が大半だと思いますので、 子供がスポーツ教室に通う意義というか、 スポーツ教室とは何であったかということを 私なりの視点から 解説してみたいと思います。というのも、近いうちに全国の小中学校から部活動が消えてしまうからです。

 もちろん中学校の全国大会も無くなってしまう。つまり「エースをねらえ」みたいなアニメがもう作られなくなってしまう。「ウォーターボーイ」や「スイングガール」みたいな映画が作られなくなってしまうわけです。全国の小中学校から部活動が消えてしまうわけです。そうなると残るは民間がやってるスポーツクラブしか無い。では、民間のスポーツクラブ・スポーツ教室とは、いったいどういうものだろうか?ということになります。


IMG_1481.JPG


  あれは今から25年前の話です。

  25年前に私は北軽井沢で宿屋を始めたわけですが、その時に不思議な現象が起きていました。 夏になると巨大なカメラバッグを持った、 どう見ても プロのカメラマンにしか見えない人たちがうちの宿に泊まりに来るのです。

 最初は風景か何かを撮影しに来たのかな と思ったんですが、 どうもそうではないらしい。私もカメラ関係の仕事をしたことがあるので覚えがあるのですが、風景写真家というのは、ものすごい早朝に出かけたり、 雨が降ると一日中 部屋にじっとしていたりするんですが、彼らは規則正しい時間に出かけて 規則正しい時間に帰ってきた。 雨が降っても 台風になっても出発して、定時に帰ってくる。 何か変だなあと思っていたら、 スポーツ教室の専属カメラマンでした。

 そうなんです。 スポーツ教室には専属カメラマンがいたりする。ここが小中学校の部活動と全く違うところです。 お子さんを幼稚園 または小学校に入学させると、学校側はカメラに関して非常に ナーバスになります。

  うちの息子が幼稚園に入園した時、桜の花があまりにも綺麗だったのでその写真を撮っていたら、園長先生が真っ赤になって走ってきて怒鳴られたことがありました。勝手に子供たちの写真を撮るなというのです。私は桜の花を取っていたと言い返したら謝るどころか「紛らわしいことはするな」と怒鳴られて去って行きました。その時はずいぶん非常識な人たちだなぁと思ったんですが、幼稚園の先生にはそういう人たちが多少なりともいて、とにかく写真に対して神経質だったのです。

  これが小学校になると、そこまで神経質ではありませんが、 やはり 似たようなところはあります。

 例えば 修学旅行ではカメラの持ち込みが禁止されています。学校から供与されるカメラでしか撮影できません。撮影する場合は全員の集合写真しか許されていません。もちろんスマホの持ち込みも禁止されています。要するに 幼稚園も小学校も写真撮影に対して かなり神経質になっているということだけは知っておいて良いかと思います。

 ここまで書くと 私が何を言いたいか分かりますよね。 そうです。子供たちの写真をとても重視しているスポーツ教室のことです。全てのスポーツ教室に専属カメラマンがいるわけではありませんが、 スポーツ教室に入ると子供たちが熱心に スポーツしている姿や、 遊んでいる姿の記録写真が大量に残ります。コーチが息子を撮影してラインで送ってくれたりするのです。

  話は変わりますが、 うちの宿の近所にゴミを捨てに行くと、ゴミ捨て場のそばに大きなキャンプ場がありました。キャンプ場と言っても、テントの設営をする キャンプ場ではなくて、ほぼ豪華別荘に近いロッジが何軒も立ち並んでいる豪華なキャンプ場です。安っぽい キャンプ場ではありません。農園付きの豪華なキャンプ場です。なのに不思議なことに、お客さんが入ってる様子がないのです。 もちろん 夏には子供たちの団体さんがいっぱい入っていますが、 それだけです。 ファミリーも入ってなければ ライダーさんが入ってる様子もない。子供たちの団体さんしか入ってない キャンプ場が、 森の中の一等地にドカンとあるわけです。

「こんなんで儲かってるのかな?」
「どう考えても赤字だよな?」

と常々思っていたのですが、私の勘違いでした。 そのキャンプ場は、某少年スポーツクラブの子供たちの夏期合宿に使われる 施設だったのです。つまり私の宿に泊まってみた カメラマンというのは、このキャンプ場に泊まりに来る スポーツクラブの写真を撮りに来たカメラマンだったわけです。

 最初は、高いお金を払って夏の合宿に専属カメラマンを雇って子供たちの写真をバシバシ取るなんて、一体どんな金持ち対象のスポーツクラブなんだろうと思ったわけですが、そうではなかった。そのスポーツクラブは金持ちの子供が対象ではなかった。

「 一体これはどういうことなんだろう?」

と当時の私は不思議がっていましたが、今なら分かります。 子供達が元気に遊んでる姿や、自然体験をしてる姿や、 飯ごうすいさんをしている姿の写真が大量に手に入るわけですから、親としては スポーツクラブ ほど ありがたいものはありません。 学校に通わせてるだけでは そういった写真は手に入らないのです。 しかも プロのカメラマンの撮る写真ですから、 その映像の素晴らしいこと 素晴らしいこと。

 実はうちの宿に泊る プロのカメラマンさんにこっそり写真を見せてもらったのですが、 やはり プロが取るだけあって素晴らしい写真ばかりでした。 みんな いきいきとしてる。 しかも デジタルデータ なので、何枚でも取れちゃう。 初日に A 君の写真がちょっと足りないなぁと思ったら、2日目に A 君の写真をちょっと多めに撮ったりもできる。 b 君はなかなかな 笑わないなと思ったら B 君の笑顔なんとか見つけ出して写真に撮ったりする。繁盛しているスポーツ教室というのは、プロのカメラマンを雇って、そういうことをするわけです。だからスポーツクラブはFacebook や Instagram に子供たちの画像や動画が じゃんじゃんアップされています。 ここが商売を目的としていない幼稚園や小学校と大きく違うところです。


b514-09.JPG


  あと スポーツ教室に通う子供たちの 親御さんの多くが サービス業 だったりする。大金持ちの親が子供をスポーツクラブに入れているわけでは無い。むしろ逆で、貧乏ひまなしで子供にかまってやれない親御さんが、子供をスポーツクラブに入れている。

 例えば 宿屋の息子だったり、スーパーやデパートに勤める人の娘だったり、親が床屋さんだったり、 飲食業だったりする。彼らは決して裕福ではないのですが、その裕福でない親御さんたちが子供たちを スポーツ教室に通わせたりする。 どうしてかというと 日曜 祝祭日に仕事を休めない。夏休みに休んで家族旅行に出かけられない人たちだからです。

「 家族でディズニーランドに行ってきた」
とか
「家族で海外旅行に行ってきた」
という体験を子供たちにしてあげられない人たちなんですね。

 そういう親御さんにとっては、林間学校に連れて行ってくれたり夏の合宿に連れて行ってくれるスポーツ教室が、神様みたいに見えます。これって、サービス業をやっている人間にとっては、とてもありがたいものなのです。親の代わりに旅行に連れて行ってくれる。こんなにありがたいことは無い。それに、いくらスポーツ教室の月謝が高いと言っても、家族でディズニーランドに行くより滅茶苦茶安い。子供の成長と健康によいし、新しい友達ができる。世界が広がるのです。

(うちの息子は軽井沢スケートクラブで毎年1週間の夏期合宿をしたり、わざわざ新潟まで出かけて砂浜特訓をしたりしまた。ゴミ拾いや林業体験。長野テレビにでたり、マラソン大会、登山なんかを楽しみました。しかも中学3年生から小学1年生という幅広い子供たちとともにです)



G_0004.JPG


 もちろん、うちの息子もスポーツ教室に通っていました。 最初は小学校のスケート部に入ってたのですが、 途中からスポーツ教室に変えました。 変えたはいいのですが、 そのスポーツ教室は 隣県にあったので隣県の大会参加基準を満たしてなかったりしていたので、小学校の スケート部を完全にやめることはできませんでした。それについても後で語ってみようと思います。

 ではスポーツ教室というのはどういう存在なのでしょうか?
 うちの息子は、合計5つのスポーツ教室を体験しました。
 それについて述べてみたいと思いますが、文章が長くなったので 続きは明日にします。


つづく

↓ブログ更新を読みたい方は投票を

人気blogランキング






posted by マネージャー at 22:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐渡島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年01月14日

土井健次が亡くなって1年

土井健次が亡くなって1年。
彼を思い出す度に涙が出ます。
今後は、彼の遺族を支援しつつ、彼の遺稿を世に出したいと考えています。

合掌


CIMG-02.jpg


つづく

↓ブログ更新を読みたい方は投票を

人気blogランキング





 
posted by マネージャー at 15:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐渡島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年01月06日

さきほど父(91歳)が亡くなりました。今後は年賀状を、やめます。

 さきほど父が亡くなりました。
 91歳の大往生でした。

 誤嚥性肺炎(食べ物が気管に入って感染する肺炎)とパーキンソン症状をともなう認知症が原因で、半年前から何度も倒れるなどの症状がありましたが、内科の医師(インターン)に診断を御願いしても大したことがないと言われてしまい入院を断られ症状が悪化してしました。仕方が無いので脳神経外科の先生(大ベテラン)に連れて行ってはじめて精密検査をしていただくことになり、病気を認定してしまったしだいです。まあ、いろいろありましたが、ほぼ老衰が原因ということのようです。1年前に母が亡くなったことでパーキンソン症状をともなう認知症が発病したのではかいかと推測しています。

 なにしろ頑固でしっかり者の昭和一ケタの人間ですから、超やせ我慢の男で、しかも私生活がきっちりしており、介護認定を受けようとしても、元気すぎるとして中々認定されない状態だった。ヘルパーさんの前や、客人の前では、やせ我慢をしてシャキッとしていたので、なかなか病状が伝わりにくかったようです。一人で失神していたことが何度もあったことを入院の時に白状しています。

 父(佐藤正)は、15歳にして父(私の祖父)を癌で失い、遺産争いで負けて学校を退学し、祖母とともに3人の兄弟姉妹の生活の面倒を見る生活をおくりました。15歳で3人の弟妹の保護者となったわけです。といっても就職先はないため、同情してくれた人から小舟を借りて釣をし、それをさばいて干物にし、祖母が行商に出かけて生計をたてていたようです。

 こうして弟妹を自立させ後は、佐渡金沢村の正法寺に養子として入り、磯西を名乗り、母と見合い結婚し、警察予備隊の第1期生として入隊しました。それが航空自衛隊に発展するわけですが、佐渡金北に設置したレーダー基地で働いていました。当初の上官は米軍だったようで、昔の写真にはアメリカ軍の軍人たちと仲良く写っています。

 このレーダー基地は、第二次大戦中に米軍が使っていたもので、信じられないことですが戦後30年たった昭和50年まで現役でした。昭和50年頃になると戦前設計のレーダーの部品も入手困難となり、最新式の3次元レーダーに変更されました。つまり、その頃まで自衛隊は真空管と格闘していたわけで、修理やメンテに忙しかったようです。真空管はすぐに切れますから。

 そのせいか私の父は、電子関係にかなり詳しかったものです。書斎には「ラジオ技術」なとの専門誌がズラリとならんでいました。なので隣近所で故障したテレビ・ラジオ・扇風機・冷蔵庫などの電化製品の修理をジャンジャンやってました。電気工事もたいていのことはやってました。家を改築するときは、業者が行った雑な電気配線を自分で治したりしていました。父の階級は、私が小学校に入学する前にすでに下士官最高位の一曹でした。恐ろしいほど速い出世をしていますが、よほど修理のスキルが高かったと思われます。

 しかし家電製品にLSIが入り込むと、それらの修理を一切やらなくなり、かわりにパソコンに熱中するようになります。定年退職後は、LSI工場に17年間勤め惜しまれつつも70歳で退社。その後は、佐渡女子高校で守衛として高校が廃校になるまで働きました。その後は。畑を借りて家庭菜園に精を出します。いわゆる働きムシというやつで、働いてないと死んじゃうタイプの人で、とにかく我慢強く自立心のたかい人でした。

 部屋は整理整頓してないと気が済まないタイプで、母が散らかした部屋を常に整理してまわった人間で、教員だった母のもちこみ残業(テストの採点)を常に手伝っていたのは良い想い出です。とにかく動いてないと気が済まないタイプで、夏の間だけ別館のペンションを手伝ってもらったことがあったのですが、その時が、人生で1番いきいきしていたような気がします。自衛隊やLSI工場なんかより、一国一城の自営業の方が向いていた気がしました。


18735 (1).jfif
(私が生まれた佐渡・正法寺・保育所が隣接されている)


 ちなみに磯西から佐藤に名前を変更して、正法寺から脱出した理由は、異母兄のところで厄介になっている祖母を引き取るためでした。そのために正法寺の養子を解消し、磯西から佐藤にもどしたのです。

 兄弟姉妹を一人前にしたあとに残された父の課題は、異母兄のところで肩身を小さくしている実母をひきとることでしたが、それを自分の妻(つまり私の母)に黙って行ったために、祖母と母と父の間には、微妙な空気が流れていました。しかし、母には反対はできませんでした。黙って従うしかなかった。弟が生まれたからです。

 祖母がいなければ、母は教師をやめて家庭に入るしかなかった。母の勤め先は、佐渡島でも僻地で有名な外海府であり、そこには託児所も幼稚園も無かったからです。おまけに当時は、出産後2ヶ月で職業に復帰しなければならなかった。

 さらに新潟大地震があった。ショックで母の母乳はとまり、生後1ヶ月の弟は、ミルク缶のお世話にならざるえなくなりますが、そのミルク缶の入手が地震で困難になりました。地震で一番不足するのはミルク缶ですが、それはショックで母乳が出なくなるからです。そこで祖母の活躍がはじまります。私は、祖母と父と暮らすことになり、母は生後2ヶ月の弟を連れて佐渡島の僻地に単身赴任しました。

 母は、単身赴任先で下宿していました。そこで私は3歳9ヶ月になるまで育っていました。下宿先には男はいませんでした。未亡人と耳の聞こえない娘さんの二人きりでした。そこに近所の婆さまたちが、たむろしていて、いわゆる女ばかりの環境の中で生活していました。そこには男がいなかった。

 つまり幼少の頃の私は、父親という存在が、この世に存在することが、わかってなかった。3歳9ヶ月まで父親という存在を知らなかった。そもそも日常生活の中に男がいなかった。そんな世界から、厳格な父親と、口うるさい祖母のいる世界にぽつりと置き去りにされてしまった。


sado-17.jpg


 父の躾は厳しかった。
 いきなり児童虐待の世界に放り込まれてしまった。

 箸の身持ち方が悪いと、物差しで叩かれた。それでもなおらないと天井裏に閉じ込められた。これが条件反射として15歳くらいまで体にしみつきました。誰かが手をあげるたびに『びくっ』とクビをすくめるようになった。背後に誰かが迫ると恐怖のあまり激怒した。しかし昭和時代には、そういう家庭が少なくなかった。

 そんな環境下で私はSF小説に熱中した。当時は、NHK少年ドラマシリーズが流行していて『時をかける少女』が大ブームだった。タイムリープ(時間旅行)の話である。で、私には、タイムリープ(時間旅行)の体験があった。だから本気でタイムリープ(時間旅行)の能力が私にあると信じ込んでいた。

 しかし、その体験は、単なる記憶の欠落であったことに18歳の頃に指摘されて気がつき、専門医の診察をうけました。3日くらい隔離入院されましたが、短期記憶に多少の問題があるが、生活するにあたっては問題なしということになりました。今で言う学習障害みたいなもので、ひとさまよりもものわすれが酷いので頻繁にメモをとるか日記をつけるよう言われました。

 日記をつけると、書いた覚えのない日記が存在することがわかり、タイムリープ(時間旅行)の体験は、単なる記憶の欠落であったことがわかり、その現実に落ち込みました。ちなみにこの障害は、息子にも遺伝しているらしく、やはり忘れ物がおおく、発達心理の先生から学習障害を疑われています。息子の学力は、昔で言うところのオール5にあたるし、知能検査をしても140の数値(これ以上は測定不能)を出しているのですが、専門家にいわせれば、あきらかに学習障害の可能性が高いらしい。

 それはともかくとして、この障害のおかげで良いこともありました。医師から物忘れが酷いので頻繁にメモをとるか日記をつけるよう言われ、それを実行すると文章力がアップして、人々から文章を賞賛されるようになりました。そこでいろんなコンクールに応募し、いろんな賞をいただくようになったのです。それを良いことにコンクールあらしをして賞金稼ぎでウハウハできるようになったりした。つまり障害も使いどころによっては、武器になるという典型例が私です。

 まあ。そんなことは、どうでも良いとして、父は厳格できびしかった。実は、母もかなり躾に厳しかったのですが、厳しさの方向性が全く違っていたのは興味ふかいところです。母は、やたらとぎょうぎょうしい挨拶にこだわっていた。そのかわりに箸の持ち方などは、きにしてなかった。父は箸の持ちかたとか、食事の仕方、勉強とかに細かくこだわった。人間を一つの型にはめるスタイルで、軍隊式というか、すごいスパルタ教育を父は行った。母が拘ったのは、礼儀と挨拶を大げさに徹底させるだけ。あとは自然にまかせるスタイルだった。寝る前に正座して三つ指をついて
「◇◇さん、◆◆さん、おやすみなさいませ」
と無茶な挨拶を2歳児3歳児にさせるけれど、その他の細かいことは、比較的自由だった。父と母では、あきらかに教育スタイルがちがっていた。

 私は、唯一、しっかりと母に厳しく教育されていたために田舎の老婆たちに可愛がられた。昭和の田舎では、礼儀正しさのある幼児は非常に可愛がられました。ところが父には、そういう礼儀正しさに関する教育の発想がなかった。それよりも食事マナーや、勉強や、整理整頓や、こまごまなことに激怒して何度も殴られた。泣くことも許されなかった。倒れて泣いたら怒鳴られたし、何度も殴られた。あれは人間を一つの型枠にはめようとする軍隊式の教育だった気がします。

 そのためか母は、自分なりの教育をやめてしまった。父があまりに厳しいスパルタだったために自分の拘りを放棄してしまった。だから2人の弟たちは、母は優しい人だと勘違いしていますが、本来は違っています。両方とも厳しいひとなのですが、父のキャラが強すぎるから、自分本来のキャラを消してしまったのです。つまり父と母とで役割分担していたのだと思う。なんだかんだと言って良い夫婦だったのかもしれません。

 その良い夫婦が、別れ別れになったのが、1年9ヶ月前です。
 母が死んだ。
 父は、母の形見を全部捨てろと言ってきた。
 弟は、それを拒否したが、私は苦笑して聞いていた。

 あれは、3番目の弟が生まれる前の話です。父と母は、よく喧嘩していました。喧嘩の理由は、母が散らかすということから始まっていました。それに対して父は激怒しながら掃除して整理整頓していきました。父はよく
「いらんものが多すぎる」
「整理整頓できないならモノを買うな」
と怒鳴りながら掃除していました。母は、華麗にスルーしつつ散らかしました。しかし、母にも言い分はありました。仕事をしていたからです。採点をしたり、がり版をつくったり、カット(挿絵)を書く練習をしていた。コピーもパソコンもない当時の教師の仕事はたいへんだったのです。

 しかし、父親の言い分もよくわかる。私の母は、いらんものをよく買った。そしてモノが増えていった。そしてモノが増えるごとに家が狭くなり、父のイライラは増した。父は整理整頓ができてないと許せない性分だったのです。結局、家を増築することによって、この問題は解決することになりますが、あれから50年。実家はどんどん増築されてゆき、ものはドンドン増えていきました。母が死んだときは、家の一部がゴミ屋敷になっていました。ものであふれかえっていたのです。

 父は、母の形見を全部捨てろと言ってきた。
 弟は、それを拒否したが、私は苦笑して聞いていた。
 結局、大半の形見を捨てることになった。

 捨てる時に母の愚痴を思い出した。
 父の無駄使いのことである。

 父は庭に150万の松の木を植えたのだが、
「あんなものに150万払うなんて馬鹿みたいだ」
と母は怒っていました。父が何十万もするボート(船)を買ったときも母は
「馬鹿みたいだ」
と怒っていましたが、
「博打もやらないし、酒にも飲まれないし、まあ、いいんじゃない」
と言ったことがある。

 この時、夫婦の趣味が違うと、うまくいかないなあと思ったものです。
 なので私は、趣味を同じくした人と結婚しています。


つづく

↓ブログ更新を読みたい方は投票を

人気blogランキング





 



posted by マネージャー at 15:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐渡島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする