2025年01月14日

土井健次が亡くなって1年

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2025年01月06日

さきほど父(91歳)が亡くなりました。今後は年賀状を、やめます。

 さきほど父が亡くなりました。
 91歳の大往生でした。

 誤嚥性肺炎(食べ物が気管に入って感染する肺炎)とパーキンソン症状をともなう認知症が原因で、半年前から何度も倒れるなどの症状がありましたが、内科の医師(インターン)に診断を御願いしても大したことがないと言われてしまい入院を断られ症状が悪化してしました。仕方が無いので脳神経外科の先生(大ベテラン)に連れて行ってはじめて精密検査をしていただくことになり、病気を認定してしまったしだいです。まあ、いろいろありましたが、ほぼ老衰が原因ということのようです。1年前に母が亡くなったことでパーキンソン症状をともなう認知症が発病したのではかいかと推測しています。

 なにしろ頑固でしっかり者の昭和一ケタの人間ですから、超やせ我慢の男で、しかも私生活がきっちりしており、介護認定を受けようとしても、元気すぎるとして中々認定されない状態だった。ヘルパーさんの前や、客人の前では、やせ我慢をしてシャキッとしていたので、なかなか病状が伝わりにくかったようです。一人で失神していたことが何度もあったことを入院の時に白状しています。

 父(佐藤正)は、15歳にして父(私の祖父)を癌で失い、遺産争いで負けて学校を退学し、祖母とともに3人の兄弟姉妹の生活の面倒を見る生活をおくりました。15歳で3人の弟妹の保護者となったわけです。といっても就職先はないため、同情してくれた人から小舟を借りて釣をし、それをさばいて干物にし、祖母が行商に出かけて生計をたてていたようです。

 こうして弟妹を自立させ後は、佐渡金沢村の正法寺に養子として入り、磯西を名乗り、母と見合い結婚し、警察予備隊の第1期生として入隊しました。それが航空自衛隊に発展するわけですが、佐渡金北に設置したレーダー基地で働いていました。当初の上官は米軍だったようで、昔の写真にはアメリカ軍の軍人たちと仲良く写っています。

 このレーダー基地は、第二次大戦中に米軍が使っていたもので、信じられないことですが戦後30年たった昭和50年まで現役でした。昭和50年頃になると戦前設計のレーダーの部品も入手困難となり、最新式の3次元レーダーに変更されました。つまり、その頃まで自衛隊は真空管と格闘していたわけで、修理やメンテに忙しかったようです。真空管はすぐに切れますから。

 そのせいか私の父は、電子関係にかなり詳しかったものです。書斎には「ラジオ技術」なとの専門誌がズラリとならんでいました。なので隣近所で故障したテレビ・ラジオ・扇風機・冷蔵庫などの電化製品の修理をジャンジャンやってました。電気工事もたいていのことはやってました。家を改築するときは、業者が行った雑な電気配線を自分で治したりしていました。父の階級は、私が小学校に入学する前にすでに下士官最高位の一曹でした。恐ろしいほど速い出世をしていますが、よほど修理のスキルが高かったと思われます。

 しかし家電製品にLSIが入り込むと、それらの修理を一切やらなくなり、かわりにパソコンに熱中するようになります。定年退職後は、LSI工場に17年間勤め惜しまれつつも70歳で退社。その後は、佐渡女子高校で守衛として高校が廃校になるまで働きました。その後は。畑を借りて家庭菜園に精を出します。いわゆる働きムシというやつで、働いてないと死んじゃうタイプの人で、とにかく我慢強く自立心のたかい人でした。

 部屋は整理整頓してないと気が済まないタイプで、母が散らかした部屋を常に整理してまわった人間で、教員だった母のもちこみ残業(テストの採点)を常に手伝っていたのは良い想い出です。とにかく動いてないと気が済まないタイプで、夏の間だけ別館のペンションを手伝ってもらったことがあったのですが、その時が、人生で1番いきいきしていたような気がします。自衛隊やLSI工場なんかより、一国一城の自営業の方が向いていた気がしました。


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(私が生まれた佐渡・正法寺・保育所が隣接されている)


 ちなみに磯西から佐藤に名前を変更して、正法寺から脱出した理由は、異母兄のところで厄介になっている祖母を引き取るためでした。そのために正法寺の養子を解消し、磯西から佐藤にもどしたのです。

 兄弟姉妹を一人前にしたあとに残された父の課題は、異母兄のところで肩身を小さくしている実母をひきとることでしたが、それを自分の妻(つまり私の母)に黙って行ったために、祖母と母と父の間には、微妙な空気が流れていました。しかし、母には反対はできませんでした。黙って従うしかなかった。弟が生まれたからです。

 祖母がいなければ、母は教師をやめて家庭に入るしかなかった。母の勤め先は、佐渡島でも僻地で有名な外海府であり、そこには託児所も幼稚園も無かったからです。おまけに当時は、出産後2ヶ月で職業に復帰しなければならなかった。

 さらに新潟大地震があった。ショックで母の母乳はとまり、生後1ヶ月の弟は、ミルク缶のお世話にならざるえなくなりますが、そのミルク缶の入手が地震で困難になりました。地震で一番不足するのはミルク缶ですが、それはショックで母乳が出なくなるからです。そこで祖母の活躍がはじまります。私は、祖母と父と暮らすことになり、母は生後2ヶ月の弟を連れて佐渡島の僻地に単身赴任しました。

 母は、単身赴任先で下宿していました。そこで私は3歳9ヶ月になるまで育っていました。下宿先には男はいませんでした。未亡人と耳の聞こえない娘さんの二人きりでした。そこに近所の婆さまたちが、たむろしていて、いわゆる女ばかりの環境の中で生活していました。そこには男がいなかった。

 つまり幼少の頃の私は、父親という存在が、この世に存在することが、わかってなかった。3歳9ヶ月まで父親という存在を知らなかった。そもそも日常生活の中に男がいなかった。そんな世界から、厳格な父親と、口うるさい祖母のいる世界にぽつりと置き去りにされてしまった。


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 父の躾は厳しかった。
 いきなり児童虐待の世界に放り込まれてしまった。

 箸の身持ち方が悪いと、物差しで叩かれた。それでもなおらないと天井裏に閉じ込められた。これが条件反射として15歳くらいまで体にしみつきました。誰かが手をあげるたびに『びくっ』とクビをすくめるようになった。背後に誰かが迫ると恐怖のあまり激怒した。しかし昭和時代には、そういう家庭が少なくなかった。

 そんな環境下で私はSF小説に熱中した。当時は、NHK少年ドラマシリーズが流行していて『時をかける少女』が大ブームだった。タイムリープ(時間旅行)の話である。で、私には、タイムリープ(時間旅行)の体験があった。だから本気でタイムリープ(時間旅行)の能力が私にあると信じ込んでいた。

 しかし、その体験は、単なる記憶の欠落であったことに18歳の頃に指摘されて気がつき、専門医の診察をうけました。3日くらい隔離入院されましたが、短期記憶に多少の問題があるが、生活するにあたっては問題なしということになりました。今で言う学習障害みたいなもので、ひとさまよりもものわすれが酷いので頻繁にメモをとるか日記をつけるよう言われました。

 日記をつけると、書いた覚えのない日記が存在することがわかり、タイムリープ(時間旅行)の体験は、単なる記憶の欠落であったことがわかり、その現実に落ち込みました。ちなみにこの障害は、息子にも遺伝しているらしく、やはり忘れ物がおおく、発達心理の先生から学習障害を疑われています。息子の学力は、昔で言うところのオール5にあたるし、知能検査をしても140の数値(これ以上は測定不能)を出しているのですが、専門家にいわせれば、あきらかに学習障害の可能性が高いらしい。

 それはともかくとして、この障害のおかげで良いこともありました。医師から物忘れが酷いので頻繁にメモをとるか日記をつけるよう言われ、それを実行すると文章力がアップして、人々から文章を賞賛されるようになりました。そこでいろんなコンクールに応募し、いろんな賞をいただくようになったのです。それを良いことにコンクールあらしをして賞金稼ぎでウハウハできるようになったりした。つまり障害も使いどころによっては、武器になるという典型例が私です。

 まあ。そんなことは、どうでも良いとして、父は厳格できびしかった。実は、母もかなり躾に厳しかったのですが、厳しさの方向性が全く違っていたのは興味ふかいところです。母は、やたらとぎょうぎょうしい挨拶にこだわっていた。そのかわりに箸の持ち方などは、きにしてなかった。父は箸の持ちかたとか、食事の仕方、勉強とかに細かくこだわった。人間を一つの型にはめるスタイルで、軍隊式というか、すごいスパルタ教育を父は行った。母が拘ったのは、礼儀と挨拶を大げさに徹底させるだけ。あとは自然にまかせるスタイルだった。寝る前に正座して三つ指をついて
「◇◇さん、◆◆さん、おやすみなさいませ」
と無茶な挨拶を2歳児3歳児にさせるけれど、その他の細かいことは、比較的自由だった。父と母では、あきらかに教育スタイルがちがっていた。

 私は、唯一、しっかりと母に厳しく教育されていたために田舎の老婆たちに可愛がられた。昭和の田舎では、礼儀正しさのある幼児は非常に可愛がられました。ところが父には、そういう礼儀正しさに関する教育の発想がなかった。それよりも食事マナーや、勉強や、整理整頓や、こまごまなことに激怒して何度も殴られた。泣くことも許されなかった。倒れて泣いたら怒鳴られたし、何度も殴られた。あれは人間を一つの型枠にはめようとする軍隊式の教育だった気がします。

 そのためか母は、自分なりの教育をやめてしまった。父があまりに厳しいスパルタだったために自分の拘りを放棄してしまった。だから2人の弟たちは、母は優しい人だと勘違いしていますが、本来は違っています。両方とも厳しいひとなのですが、父のキャラが強すぎるから、自分本来のキャラを消してしまったのです。つまり父と母とで役割分担していたのだと思う。なんだかんだと言って良い夫婦だったのかもしれません。

 その良い夫婦が、別れ別れになったのが、1年9ヶ月前です。
 母が死んだ。
 父は、母の形見を全部捨てろと言ってきた。
 弟は、それを拒否したが、私は苦笑して聞いていた。

 あれは、3番目の弟が生まれる前の話です。父と母は、よく喧嘩していました。喧嘩の理由は、母が散らかすということから始まっていました。それに対して父は激怒しながら掃除して整理整頓していきました。父はよく
「いらんものが多すぎる」
「整理整頓できないならモノを買うな」
と怒鳴りながら掃除していました。母は、華麗にスルーしつつ散らかしました。しかし、母にも言い分はありました。仕事をしていたからです。採点をしたり、がり版をつくったり、カット(挿絵)を書く練習をしていた。コピーもパソコンもない当時の教師の仕事はたいへんだったのです。

 しかし、父親の言い分もよくわかる。私の母は、いらんものをよく買った。そしてモノが増えていった。そしてモノが増えるごとに家が狭くなり、父のイライラは増した。父は整理整頓ができてないと許せない性分だったのです。結局、家を増築することによって、この問題は解決することになりますが、あれから50年。実家はどんどん増築されてゆき、ものはドンドン増えていきました。母が死んだときは、家の一部がゴミ屋敷になっていました。ものであふれかえっていたのです。

 父は、母の形見を全部捨てろと言ってきた。
 弟は、それを拒否したが、私は苦笑して聞いていた。
 結局、大半の形見を捨てることになった。

 捨てる時に母の愚痴を思い出した。
 父の無駄使いのことである。

 父は庭に150万の松の木を植えたのだが、
「あんなものに150万払うなんて馬鹿みたいだ」
と母は怒っていました。父が何十万もするボート(船)を買ったときも母は
「馬鹿みたいだ」
と怒っていましたが、
「博打もやらないし、酒にも飲まれないし、まあ、いいんじゃない」
と言ったことがある。

 この時、夫婦の趣味が違うと、うまくいかないなあと思ったものです。
 なので私は、趣味を同じくした人と結婚しています。


つづく

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2024年12月23日

今年は親戚以外は年賀状を控えさせていただきます

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1月14日の土井健次氏の死去にともない、
今年は親戚以外は年賀状を控えさせていただきます。
すいません。

みなさん、よいお年を。




つづく

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2024年12月22日

土井健次との邂逅

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 土井健二という男を語る前にバブル時代というものを説明したい。日本という国が狂ったように経済成長をしていって、それこそ世界を制服しかねないような勢いだった。日本が一人勝ちしていた時代であり、日本企業には日の出の勢いがあった。

 当時の会社は卒業予定の学生を確保するために懸命だった。人材がいれば、いくらでも会社が伸びる時代でもあった。就職内定者をハワイとかロサンゼルスに連れて行ってよそに取られないように隔離するという時代でもあった。就職説明会には、数万円もするコース料理がでたりした。

 男たちは恋人のためにクリスマスイブに1泊何十万もするホテルを予約していた。そこら中に金が有り余っていた。

 今から考えると信じられないことなのだが卒業旅行に大学生たちが海外に出かける時代でもあった。3月にフランスのパリなんかを旅すると日本人の学生たちがうじゃうじゃといた。石を投げると日本人に当たるどころか、投げようとした瞬間に手が日本人学生に当たるレベルだった。ヨーロッパのめぼしい観光地は日本人学生に占拠されていた。彼らの旅行資金は、どこから湧いて出たのだろうか?今考えても不思議でならない。

 そんな時代に私は、事業(映画製作)に失敗し、家一軒買えるほどの借金を抱えてしまった。まだ27歳だった。しかし、そんな失敗も簡単に取り返せるのがバブル時代だった。あっという間に借金を返済したうえに、そこそこの貯金を得た。その金で世界放浪の旅にでるのだが、それについては後述する。

 人手不足だった当時は、働く現場に若い人たちが不足していた。日本中の企業が人材確保のために何百万も何千万も使っていたことはすでに述べた。就職説明会に来た学生たちに何万円もする弁当を出したり、高級寿司店に連れて行ったり、研修と称して海外旅行に連れて行ったりしていた。たかだか就職説明会に、そんなことをした時代があったのだ。なぜ私が、それを知ってるかというと、当時、新卒学生の就職に関連する仕事(人材確保に関する映像の仕事)をしていたからである。

 まあ、そんなことは、どうでもいいとして、そういう時代であるからこそ、若者たちは、中小企業や、肉体労働と言った職業に就きたがらなかった。

 そこで困ったのが、どうしても見てくれのよい若者たちを必要とするサービス業だった。特に困ったのが警備員だった。何故ならば昭和天皇の寿命が尽きかけていたからだ。世界中の各国要人たちが昭和天皇の葬儀のために日本に集る必用があったのだ。しかし昭和天皇はしぶとかった。なかなか死ななかった。死ぬのは確実だったのだが、医療チームは懸命に延命治療をしていた。

 しかし死はいつかやってくる。世界中の政府機関は、世界最大の葬儀となる皇室の葬儀のために準備で大わらわとなった。なにしろ当時の日本は世界第二位の経済力と、世界第四位の軍事力をもっていた。ジャパンアズナンバーワンと言われ、世界最古の皇室を誇った皇族の大葬儀が目の前に迫っていたのだ。その準備のために世界中の政府が、都内の一流ホテルを、かたっぱしから貸切った。そしてホテルやボディーガードの警備員の需要が爆増した。しかし昭和天皇は中々死ななかった。都内のホテル業界は、1年近く人材難に苦しんだ。

 当時だって警備員の人材はいた。しかし、VIPが宿泊する予定の高級ホテルとしては、見てくれの良い若い人が必要だった。豪華なホテルには道路工事で日焼けしたオッサン警備員はNGだったのだ。しかし、若い人は一流企業が確保していたので警備会社に若い見てくれの良い人材は集まらなかった。

 で、私のところに話がまわってきていた。で、幸か不幸か私には、そういう人材のアテがあった。役者を目指している見栄えの良い若者(友人)を沢山かかえていたのだ。私は彼らをかき集めて各ホテルに派遣した。当時のホテルなどは、見てくれの良い若者に信じがたい高給を払った。私は、その時にひと山あてた。その金で長期間の海外旅行に出た。あての無いブラリ一人旅だった。

 インターネットの無かった時代の海外旅行は、今より逆に便利だった。列車が駅に着くと、ホームに宿屋の客引きがいたので宿に困ることはなかった。それに駅にはツーリストインフォメーションというものがあって、それが今でいうインターネットの機能をしていた。困ったときはツーリストインフォメーションに行けばなんとかなったのだ。当時は移民問題が無かったために、治安が良かったし、みんな親切だった。だから誰でも簡単に旅ができたし言語の壁も今より低かった。

 ただし、運が良いのか悪いのか、私が海外旅行にでた頃は、世界中でとんでもないことがおきていた。ベルリンの壁が崩れ、東ヨーロッパは内乱状態になっていた。朝ホテルで目覚めると革命がおきていたということも普通に何度も体験したし、あちこちでcnnの車をみかけた。

 もちろん人種差別も嫌というほど体験した。死にそうな目にもあったし、強盗にあったうえに強盗さんと仲良くなったこともあった。旅行中に戦争がおきたこともあった。もちろん戦争になれば外務省によって渡航制限がかかる。つまりパリなんかに卒業旅行にきていたバブル時代の日本人学生たちが根こそぎいなくなる。

 当時、かなり長期化した戦争が発生した。湾岸戦争である。イラクがクウェートを占領し、それを多国籍軍が何ヶ月もかけて包囲した。その結果、ヨーロッパ方面への飛行機が飛ばなくなった。今と違って昔はロシア領内を飛べなかったために中東諸国を通過しないとヨーロッパに行けなかったのだ。

 バブル時代の親たちは、子供たちに気前よく小遣いをわたしていた。けれど戦争中に海外に行かせなかった。困った当時の大学生らは、卒業旅行に北海道を選んだ。当時、倉本聰のテレビ番組『北の国から』がブームで北海道は人気観光地だった。映画も『私をスキーに連れてって』が大当たりして、雪質の良い北海道のスキー場が満杯になっていた。当時の大学生たちは猫も杓子もスキーに行ってた。信じられないことだが当時のスキー場はナンパ場でもあった。



 あれは、1991年の3月頃だったと思う。湾岸戦争によって海外旅行を断念した私は、北海道の美瑛・美馬牛の雪景色を見に旅立った。列車の中にはスキー板をかついだ卒業旅行の学生たちがいっぱいいた。
「こんな遠くまでスキー板を持ってくる奴の気が知れない」
と半ば呆れるように私は眺めていたが、そういう学生たちの一人に土井健次もいた。

 彼らは集団でワイワイ楽しそうにしゃべっていた。列車は私の目的地である美馬牛に到着すると、その学生集団たちも私と一緒に降りて、美馬牛リバティーユースホステルという宿に入っていった。
「ちっ、今日の宿は学生団体さんと一緒かよ」
とガッカリしながら宿でチェックインの手続きをしてた。しかし学生団体と思っていた一団はみんな一人旅だった。前日か前々日に、どこかの宿(ユースホステル)で、たまたま一緒だったために顔見知りだっただけだった。

 私は彼らに声をかけられた。
「どちらの大学ですか?」
 これには戸惑った。

 当時の私は年齢よりも十歳若く見られたので、誰もが私の事を学生と信じて疑わなかった。困った私は、彼らにユースホステルの会員証を見せた。そこには、28歳と書いてあった。ええ?と驚かれ、それ以降は無視された。

 当時、ユースホステルをよく利用する大学生の多くは、高学歴であり、それも国立大学出身や医学部出身が多かった。ふだん生活してて、東大生に出会う確率など、そうめったにあるものではないが、ユースホステルに泊まると必ず一人か二人ぐらい出会ったものだった。定員20名から30名の宿で出会うことを考えたら、ユースホステルがいかに高学歴の学生が泊まる宿で会ったか、わかるというものである。

 そういう連中の会話ときたらテレビや流行歌の話題など全くなくて、三日三晩寝ずにやった実験を失敗した話とかで、一般人が入れる話題では無かった。そこでの私は、異端もいいところだった。なので、すみの方で小さくなっているしかなかった。
「どちらの大学ですか?」
という問いかけもマウントをとられている気がして良い気分にはならなかった。なので彼らとの交流はできるだけ避けた。

 無視された私は、これ幸いと、チェックイン後は、せっせと絵はがきを書きまくっていた。当時は、インターネットもSNSも無かったので、絵はがきと年賀状と宿(ユースホステル)がインターネットの代わりだった。さんざん海外旅行していた私は、旅先で知り合っていた人に、旅の宿で絵葉書を書いていた。

 当時、旅人に出すたよりは、旅先から出すという風習があった。自宅から出さなかった。旅先で大量に出すのが普通だった。長期の外国旅行で知り合っていた人が多かった私は、大量に絵葉書の返事を書かなければならなかった。

 もちろん旅人の住所録なんか持ってない。そんなものは作らない。面倒くさいことはしない。絵葉書をもらった人にしか返事を書かないからだ。旅は一期一会。旅先で出会った人に再び再会する機会などあるわけないと思っていた。

 しかし、異国で出会った日本の旅人たちは、例外なく旅先から絵葉書を送ってきた。私はセッセと返事を返した。礼儀として、こちらも旅先から絵葉書を返す。そのために貰った絵葉書に書いてある相手の住所を書き写して出すのだ。つまり住所録のかわりに、自宅に届いた大量の絵葉書を持って旅していたのだ。

 美馬牛リバティーユースホステルで私は孤立していた。私だけ学生では無かった。会話の内容についていけない。だからセッセと絵葉書を書いていた。当時のユースホステル利用者は、学生が9割だった。なので社会人だった私は、どのユースホステルでも孤立した。だから、どの宿でもセッセと絵葉書を書いていた。だから今までユースホステルで泊まり合った学生たちとは、交流をもってなかった。しかし湾岸戦争があった1991年の3月だけは、ちょっと違った様相になる。

「あれ?」

と大声をあげたのは、当時大学4年生だった土井健次であった。

 彼は、私がもらった絵葉書をみつけてしまった。その絵葉書は、ドイツ・オーストラリア・チェコ・ポーランド・ユーゴ・エジプト・ネパール・インド・タイ・マレーシアといった国々から届いた絵葉書の束だった。そして私が日本から出そうとしている絵葉書の宛先も、それらの国々へのものだった。

 すると今まで無視されていた私は、学生たちに「わっ」と取り囲まれた。彼らは、湾岸戦争で泣く泣く海外卒業旅行をあきらめた人たちだった。湾岸戦争以前なら、必ず無視されていた私だったが、湾岸戦争以降となると全く状況が変わってきていた。急に大学生たちに取り囲まれ質問され、話題の中心となって戸惑った。土井健次のせいで、突然、みんなの人気者になってしまったのだ。

 気が付いたら私は、みんなと一緒にクロカンスキーを楽しむことになっていた。土井健次は、みんなからオーロラ君とよばれていた。知床でレーザー光線で人工的に作られたオーロラショーばかり見ていたから「オーロラ君」とよばれていたらしい。

 彼だけで無く、他の大学生たちも、みんなニックネームをもっていた。北海道を旅する人たちの多くは、こういった「旅人」ネームをもっていた。旅人ネームは、各ユースホステルの主から付けられていたケースが多かったようだ。土井健次は私に聞いてきた。

「佐藤さんの旅人ネームは、何ですか?」
「・・・」

 私には、そんなものは無かった。
 答えようが無かった。
 私は北海道では新参者だった。
 ついでに言うとユースホステル利用者としてもライトユーザーだった。
 さらに土井健次は、私が書いていた外国に出す絵葉書を見ながら聞いてくる。

「いったい佐藤さんは何者なんですか?」
「・・・」
「どんなお仕事をしてるんですか?」

 この時、私は少々ムシの居所が悪かったかもしれない。
 ムッとしながら答えた。

「風(かぜ)です」
「風(かぜ)?」
「バックパッカー(旅人)の世界では、仕事をやめて世界を放浪する人のことを風(かぜ)というんです」
「?」
「関東地方では、風(プー)とも言いますけれどね」

 すると皆が爆笑した。
 土井健次も大笑いした。
 笑いながら出身大学を聞いてきた。
 これだけ旅するからには、どこの外国語大学の人なのか?と聞いてきた。
 私は「キター!」と思いつつにこやかに答えた。

「由緒正しい中卒です」

 またもや爆笑の渦となった。この瞬間から私は、土井健次に追いかけ回されることとなる。彼だけでは無い。他にも私のようなフーテンに纏わり付いてくる人がいた。そして、もう一度東京で再会し同窓会(飲み会)を開きたいと言ってきた。

 一番年齢の高かった私に対して兄貴のように慕って付きまとって、私にオフ会を開くよう言ってくる。仕方が無いので私から皆に声をかけて何度もオフ会を開くようになっていた。その結果、知らず知らずのうちに私のアパートは、彼らのたまり場になり不特定多数の人間が出入りすることになるが、それについては、きりがないので、ここに書かない。

 それより困ったことは、彼らと付き合っていくうちに、私の正体が徐々にバレてくることである。風(プー)でもなければ、中卒でもないことがバレてくると、彼らはますますべっとりとしてきた。そうなると彼らと付き合うことが、ちょっと息苦しくなってきた。旅先で大量の絵葉書を書くのも苦痛になってきた。彼らのために開く飲み会も面倒くさくなってくる。その結果、人間関係を精算したいと思うようになる。

 大学を卒業した彼らは、社会人になったとたん、人間関係が狭まってくる。
 つまり私を通じて、広い人間関係を欲する需要が急に出てくる。
 そこで旅人どうしのオフ会の需要がでてくるのだ。
 当時は、インターネットもsnsも無かった。
 社会人になりたての青年たちは、人恋しがって旅人の世界に集まって来たがった。

 しかも時代は、バブルであった。
 バブルは人材を求めていた。
 各企業は新卒学生の青田刈りに励んでいた。

 旅人の飲み会を開く度に、社会人になったばかりの人たちが、学生たちの飯代飲み代を負担していた。その経費は会社から出ており、会社からは新人をスカウトするよう命令されていた。
 それほどバブル時代は、新卒の学生を確保するのに必死だった。だから会社の説明会の出席するという条件つきで、学生たちの飯代飲み代を負担していた。学生たちも、なんの遠慮もなく飯代飲み代を奢ってもらっていた。それを当然と思っているのがバブル時代の学生たちの風潮だった。
 つまりバブルという時代的要請によって、旅人の集まり(つまり飲み会)をバックアップする社会的な背景ができあがっていたのだ。

「佐藤さん、次の飲み会はいつですか?」

と皆、私をせっついてくる。それは社会人もそうだし、学生側もそうだった。そうなってくると、だんだんこちらもシラケてくる。苦痛になってくる。




 そんな中で、そういう事に全く縁の無い男がいた。
 土井健次である。

 彼は、ある意味で純粋な男であった。純粋に自分が面白いと考えることにしか興味が無かった。だから私が飲み会をしなくなると多くの人たちが消えていったが、土井健次だけは私に纏わり付いた。彼とは飲み会以外のことで盛り上がった。

 私が登山に誘うとホイホイついてきた。普通の登山では面白くないので、海抜ゼロから富士山に登ってみたり、山で浴衣を着てみたり、流しそう麵を流したり、タキシードで正装して清掃登山してみたり、北アルプスの頂上で簡易居酒屋をひらいてみたり、富士山に酒樽(60s)を担いで登って皆に酒をふるまったりした。他にも東海道500qの駅伝をやってみたり、東海道を何回往復走ればママチャリが壊れるかの実験もやってみた。知床山脈を含む数々の秘境も探検した。一緒に韓国旅行にも行ってきたし、飛行機のコックピットにも入れて貰い、機長のサインまでいただいた。思えば、いい時代だった。

 そんな彼が天才であることは、彼と付き合ってすぐ気がついた。

 当時のユースホステルには、東大生などの高学歴者がわんさかいたのだが、そんな東大生たちよりも土井健次の方が、よほどIQが高いことに気がついた。確認のために本人に聞いてみたら140だと白状した。140という数値は一般的なIQ検査で測れる最高値である。それ以上は別の検査が必要になる。私の肌感覚から言わせてもらうと彼のIQは200ぐらいあったと思う。

 彼は四桁のかけ算を暗算でやっていた。算盤をやっていたの?と質問したが、算盤はできないという。小さい頃から公文をやっていたのでそのせいではないかと本人は言っていたが、そんなわけはない。公文では四桁のかけ算を暗算することはできない。そのうえ彼は難しい仕事を次々とこなしていった。専門分野でも無いのにIT関係の作業を次々とこなしていき、大手のIT会社の代理人にもなっていた。本気でやれば事業として大成功していた可能性もあった。

 いつだったか「知床の自然」という何百ページもある学術書のOCR化を頼んでみたことがあったのだが、彼の作業には、1文字の誤字もなかった。何をやらせても完璧だった。そのうえ、どんな無茶な頼みも必ず納期を守った。仕事のできる男であった。

 本人は落ちこぼれと自虐していたが、人間は天才すぎると落ちこぼれる事がある。子供の頃は大して勉強しなくても良い点が取れるために、苦労して覚える経験が少ないからだ。だから超一流の地位からは落ちこぼれるが、超一流から一流に落ちこぼれるというだけで、本当の意味では落ちこぼれてない。ようするに好奇心のまま生きたいたら出世に興味がないだけなのだ。

 私はそんな彼をいろいろ観察してきた。
 実はその観察が自分の子育てに生きている。

 土井健次の仕事術・勉強方法は非常に参考になる。彼は絶対に徹夜をしない。教科書に線を引いたりもしない。メモもとらない。一番うすっぺらい問題集を一冊。それを3回から4回解くだけである。しかも2回目から4回目までは間違えたところしかやらない。つまり間違えたところを探すだけなのだ。だから4回解くと言っても勉強する時間は恐ろしく短い。

 彼は、この方法で、アマチュア無線の免許や、旅行主任資格をとってしまった。専門学校生が2年かけて必死になって勉強してようやくとれる資格を、一番うすっぺらい問題集を数時間だけパラパラとめくって解いてみるだけで合格していた。

 彼は、基本的に小テストしかやらない。それも間違えたところしか勉強せず、あとはひたすら寝るだけなのだ、これは彼に限らず私がユースホステルで知り合った数多くの天才たちは、みんなこんな感じだった。天才たちがガリ勉しているところなど見たことがない。

 登山仲間数十人が、登山仲間全員でアマチュア無線の免許をとろうとしたとき、天才たちは薄っぺらい問題集を3回くらいしかやってないのに全員合格した。それに対して受験勉強と無縁な人生をおくってきた人たちは、分厚い参考書を読んで、必死になって基礎的な物理を理解しようとして頑張ったが全員落第した。

 落第した人が頭が悪かったかというと違う。確かに彼らの勉強の成果はでていた。概念は理解していたし、合格できるスキルはもっていた。なのに落第した。逆に土井健次は、基本的な概念を理解してなかった。理解はできてなかったが合格してた。想定問題集を3回やるだけの最短時間で合格して見せた。

 ようするに土井健次は、必用な回答能力にしぼって学習していた。合格に必用なことを瞬時で見破り、それを最短時間で達成する方法を一瞬で発見する男だった。だから努力も最低限しかしていない。空いた時間で他の仕事をこなすのである。これを天才と言わず何と言おうか?

 それは余談になるが、この方法は、うちの息子の勉強にも使わせてもらっている。効果は絶大で主要科目に限定すれば、昔で言うオール5をとっている。だからうちの息子はガリ勉をしてない。1日10分の小テストと、好奇心を満たせるためのEテレの視聴させているだけである。それも5問以下の小テストだけでいい。それを回数やるだけで驚くほど効果があがるが、それらの手法は、土井健次の学習法を手本にしている。


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 土井健次は、好奇心が強かった。あまりにも好奇心が強いために自分が面白いと思ったことには全力をそそぐ。そのために、お金や出世に興味がないし、それらを捨てていく潔さがあった。そのくせ必用とあらば最短時間で、各種の資格をとっていった。趣味で出版社も立ち上げ事業化もしたし、大手IT会社の代理店もやっていた。『風のたより』という同人誌も総計200号ちかく発行しているし、1000以上の山にも登っている。文章も多く書いていて某出版社からライターのスカウトも受けていた。おまけにピアノが弾けてトロンボーンもやっていた。もちろん絶対音感もある。体力も精神力もすごくて、マラソンと水泳にいたってはプロ並みだった。
 それほどの能力がありながらそれらの力を出世のために使ったことは無かった。「へたに能力を見せると使われてしまうから」と笑って語っていた。

 そんな土井健次ではあるが当然のことながら欠点もあった。それは、私にも、私の息子にも共通する欠点で、彼には学習障害の臭いがあった。と言っても正真正銘の学習障害ではなく、そのような臭いがあったということである。

 天才・土井健次の能力は、バランスを欠いていた。確かに、ある部分では天才ではあったが、別の一部分が、それに追いついてなかった。そのせいで時々、人を怒らせた。だから私は、何度も何度もハラハラした。うちの宿の御客様を怒らせることが多かったからだ。

 誤解の無いように言っておくが、彼は人徳者である。彼を慕う人は多いし、女にもモテる。性格は優しさの塊であるし、子煩悩で愛妻家でもある。困った人もほってはおけない。そのうえ天才なのだが、思い込みが激しく一途な上に頑固者だった。一般的に長所は欠点であると言うが、それもドがすぎると人を怒らせることがある。

 例えば健康に関して例をあげる。かれは思い込みが激しく、絶対にコロナワクチンを打とうとしなかった。一度、反ワクチン派の言説に影響されると、絶対にワクチンを打たず、私のように何度もワクチンを打とうとする人に、データーを示して危険性を訴えるが、余計なお世話であろう。
 しかし彼にしてみれば、親切のつもりである。その余計な親切が、時と場合によっては迷惑になるのだが、普通の人なら、そういう迷惑をしないように心がけるはずなのだが、土井健次には、そのへんの気転がきかないのだ。そして頑固だったりする。

 頑固と言えば、彼が酔っ払って失敗したことがあった。その結果、彼は禁酒を宣言した。そして本当に酒を飲まなくなった。あの酒好きな土井健次が、1年間にわたって一滴も飲まなかったのだ。死ぬ直前には、アル中ではないかという疑惑さえあった、あの大ウワバミの土井健次が、一滴の酒も飲まなかった。若かった頃の私たちは、何かある度に飲み会を開いたものだったが、土井健次は旅先でも居酒屋でも一滴も飲まなかった。それがあまりにも厳格だったために
「どうして飲まないんだ?」
みんなが心配するようになり、しまいにはほとんどの者がキレだすようになったが、彼は頑固にも飲まなかった。結局、最後には禁酒を終了させるわけだが、その切っ掛けについては、ここには書かない。

 そういう頑固さは、勉強や仕事の面で大いに役だったと思う。一旦彼が何かをやり遂げようとした時、彼は頑固さを持って必ずやり遂げた。
 仕事や勉強だけではない。
 例えば ダイエットを決意すると目標体重になるまで極限まで努力した。そして3ヶ月という期限を決めていれば必ず3ヶ月以内にダイエットを完成させた。三日坊主になるとか、決意だけで終わるということは絶対なかった。そういう姿を常日頃から見ていた私は彼に対して

「お前はどうしてそんなキャラクターなんだ?」

と聞いたことがある。彼はじっと考えて答えなかった。そして私が質問をしたことを忘れてしまった3日後ぐらいになって、突然答えてくれた。

「あの時の質問だけれど、多分、家庭環境の影響があるかもしれない」
「どういうこと?」
「土井家では口だけで行動しないことを馬鹿にする風習があるんだよね」
「それで土井君はやると決めたら、とことんやっちまうキャラクターになっちゃったのか?」
「そうかもしれない」

 彼はそう答えたけれど私はその回答を信じてなかった。私は、土井君に対して学習障害の疑いを持っていたからだ。もちろん彼が学習障害だったかどうかは今となっては知るよしもない。単なる性格の問題だったのかもしれない。もしそうだとしたら、かなり頑固な人間だったとも言える。その頑固さについてもう1つ例を挙げてみよう。

 彼は大学を卒業すると東急車両という会社に入社した。それを聞いた私は驚いた。東急車両といえば、海軍航空技術廠を引き継いだ会社でミリタリーオタクにとって聖地ともいえる有名なところだった。ちなみに彼は旧海軍士官学校であった海城高校の出身でもあった。海城高校といえば偏差値70近い超進学校であるが、単なる進学校ではなく海軍の伝統を受けついだ学校で、ガンガンつめこみ学習させたうえに、運動もスパルタ式という、いわゆる海軍式教育で有名なところだった。お世辞にも天才型の土井健次にあう学校では無かった。

 だから土井健次は、この学校で落ちこぼれたと言って笑っていたが、それは納得できる。土井健次のような天才には、麻布高校のような自由な校風が合っている。彼には自由が必用だった。なのに彼は海軍航空技術廠を引き継いだ東急車輌に入ってしまった。
「だいじょうぶだろうか?」
と心配したものだったが、その心配は当たってしまった。と言っても会社で問題を起こしたわけでは無い。会社の寮で問題をおこしてしまった。

 1992年当時、東急車輌は、旧海軍航空技術廠にあった。戦艦三笠が陳列してある横須賀にあったのだ。浦和にあった実家から遠かったために彼は、会社の寮に入った。そして寮の食堂が値段にあってないと思ったらしく、クレームを入れた。そのクレームを寮の食堂側が拒否した。すると土井健次は、寮費のうちの食費の支払いを拒否して自炊をはじめた。ボイコットである。

 といっても寮に自炊設備は無い。当時は食堂もコンビニも近くに無かったので外食もできなかった。それがわかっていて寮側も強気だったのだろうが、そんなことでへこたれる土井健次ではない。登山用ストーブを使って朝晩自室で米を炊きはじめた。
「そんなめんどくさいこと止めたら?」
と私は何度も忠告したが、彼は頑固にやめなかった。せめて炊飯器を買ってはどうか?とアドバイスもしたが、それさえも拒否して、
「登山用ストーブを使って究極に美味い飯を炊く方法を研究するんだ」
と数年間その作業を嬉々と続けた。嬉々として自室の部屋でアウトドアでの米の炊き方を追求していった。

 そのせいで登山する時は、かならず土井健次が御飯を炊いた。いつも美味しい御飯が我々に提供された。あれは全部、土井健次が作っていたのだ。どんな秘境の中でも、どんな嵐の中でも、どんなに疲れたときでも土井健次は美味しい御飯をたいた。みんな倒れていても一人コツコツと御飯を炊き、全員にそれを配り、食後の片付けも一人コツコツと行った。土井健次の頑固さによって、常に私たちは、美味しい御飯を食べられたのだが、その頑固さゆえに土井健次は会社の寮から追い出されてしまっていた。

 頑固といっても、彼を知る人は信じないかもしれない。彼は、ひとあたりがよく優しく親切で気が付く人だからだ。いわゆる人格者と言ってもいい。彼に憧れる人は多かったし、本人は気が付いてなかったが女性にもモテた。味方にしたら、これほど頼もしい人間はないというくらいに親身になってくれた。しかし、いったん敵認定したらこれほど恐ろしい人間もなかった。手が付けられなかった。新型コロナワクチンを敵認定したら、それを徹底的に拒否するのだ。

 彼の韓国嫌いは有名だが、最初から嫌いだったわけでは無く、最初は彼ほどの韓国好きは日本にはいないのではないかというくらいに彼は韓国が好きだった。学生時代から何度も韓国に旅行に行ってて、韓国の友人も多く、韓国にホームステイまでしていた。私と一緒に韓国旅行もした。

 ただし天才だった土井健次は、短期間で韓国語を習得した。だから韓国語も話せるし、ハングルの読み書きもできる。すると嫌でも韓国の反日情報が入ってくる。言語ができるということは、不快な一次情報も目に入ってくるということでもある。最初から興味が無ければ、そんな情報は見向きもしないのだが、天才土井健次は、現地の一次情報を見る能力をみにつけてしまった。なので、どうしても嫌なところが目にはいってしまう。で、嫌韓になっていく。そこまではいい。問題は、いったん嫌韓になると何もかも全て拒否するようになることだ。あれほど大好きだったキムチもマッコリも二度と口にしなくなった。その嫌い方は、非常に徹底していた。

 昔は、よく浅草のユースホステルに泊まったものだったが、そこには多くの韓国人が泊まりに来ていた。国家のトラブルともかく、日本に泊まりに来る韓国人は、非常に親日的でフレンドリーでチャーミングだった。あきらかに、こちらに近づきたいオーラをだしてきて、アッというまに仲良くなれるのだ。ようするに壁が無い。逆に言うと若い女の子でも、男のふところにグイグイ入ってくる。しかし、いったん嫌われると口もきかないし、怒りが激しい。そしてしつこく恨み続ける。それを私は何度も体験したが、これは土井健次のキャラに似ているなあと思っていた。


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 もう一つ頑固のエピソードを語るとしたら、キーボードだろう。彼は、音楽を愛した。そしてピアノとトロンボーンをやっていた。あの不器用な土井健次が、指先をつかうピアノの名人だった。
 ただ、ピアノは持ち運べないので1メートル以上の長さのある巨大なキーボードをもって旅をした。そして、いろんなところでキーボードを弾いた。そして皆で歌った。年末年始になると全国のユースホステルを使って旅をしたものだったが、そのたびに巨大なキーボードを持ってでかけた。
 正直言って邪魔だった。
 みんなの迷惑だった。なので
「重いだろう」
「邪魔だろう」
と言って持ってこさせるのを止めさそうとしたが、無駄だった。彼は宿で、列車で、飛行機で、バスの中で、巨大なキーボードをかかえていた。邪魔だった。おまけに分厚い歌集まで何十冊も持参した。ユースホステルや旅先で出会った人と一緒に歌うためである。
「そんな馬鹿な?」
と思ったが、そんな馬鹿なことが次々と起こり始めた。

 あれは正月に九州旅行していた時だった。私は熊本駅前で何となくラジオ体操をはじめていた。グルメ旅行で運動不足だったので何となくラジオ体操の真似事をしたのだった。すると土井健次は、サッとキーボードを取り出してラジオ体操の音楽をかなでてしまった。
「土井の奴、なにやってるんだろう?」
と不思議がっていると、まわりを歩いていた通勤途中の熊本のサラリーマンたちが、ぴたりと立ち止まって、私と一緒にラジオ体操をしだした。さっきまで駅前の雑踏を通過していたスーツ姿の見ず知らずのオッサンたちがピタリと立ち止まって、ラジオ体操に加わったのである。そして体操が終わると、熊本のサラリーマンたちは、サッと駅中に去って行った。

 翌日、天草の観光地に行ったが、そこでも土井健次は、キーボードでラジオ体操の音楽をかなでた。しかたなく私がラジオ体操をすると、まわりにいた観光客もゲラゲラ笑いながらラジオ体操をはじめた。当時の熊本の人たちはノリがよかった。みんなでラジオ体操をやって楽しんだ。こうして九州のあちこちの観光地でラジオ体操大会が行われた。

 柳川では川舟で観光した。相席に鹿児島からきた若い女子学生がいた。私は
「鹿児島の人は、今でも◇◇でごわすって言うんですか?」
と質問したら
「そんなわけ無いですよ」
とムッと反論した。船内に冷たい空気が流れた。
(あちゃー、やっちまったか?)
と私が反省していると土井健次がキーボードを弾き始めた。武田鉄矢の『思えば遠くにきたもんだ』であった。そのメロディに私が、歌い出すと、ムッとしていた女の子たちも歌い出した。歌は、河をいきかう対向船まで届き、他の船人たちも一緒に歌い出した。船頭さんも歌い始めた。

 宿では知り合った人たちとも一緒に歌を歌った。分厚い歌集を人数分くばってみんなで歌った。旅先で、なにかの募金活動や保護犬に関する活動している団体がいると、そっと彼らのバックでキーボードを弾いてBGMを流してもりあげてあげてたが、時々、それらの団体に怒られもした。

 船旅でも、よく歌った。三月に、伊豆七島に旅したときは、船が島に到着する度に「贈る言葉」とか「切手の亡い贈り物」を歌った。三月の伊豆諸島には、東京に転勤(?)する学校の先生と、それを見送る島の生徒たちが桟橋で溢れていることが多い。その光景を見つけると土井健次は、さっそうとキーボードをとりだすのだ。そしてBGMを流して感動場面をもりあげたりするのだ。

 キーボードは、山の中にも持って行った。私たちのやっていた登山は、山の頂上でおでんを作ったり鍋をつくって食べるスタイルである。もちろん米ももっていくし、二キロの巨大なハムとかも肉のかわりに持って行く。それだけでも重いのに二十リットルの水も持っていく。鍋やおでんに水は欠かせない。さらに日本酒ももっていく。それも紙パックではない、本物の一升瓶である。

 登山家という人種は、少しでも荷物を軽くすることに命をかける。そのために何万もする高価なチタンの小型鍋を買ったりするのだが、若かった私たちには、そういうものには一切ふりむかず、重い厨房寸胴鍋を百リットルザックに入れた。日本酒も水筒に入れては情緒がないということで、純米吟醸「越乃寒梅」のラベルのついた一升瓶を持って登山した。このラベルのついた一升瓶で酒を飲むのが至高の喜びであると土井健次は言っていた。サプライズで大きなスイカを出してくる奴もいた。
「おまえはドラえもんのポケットをもっているのか?」
突っ込んだものだった。

 当然のことながら重量が重くなる。しかも登山が初めてという若い女性を何十人も連れて行ったので、彼女たちの荷物や飲料水も持つ必用があったので、さらに重量が重くなった。私も、他の男たちも、何十キロの荷物を担ぐはめになった。

 ここまではいい。
 問題はこの後である。

 これだけ荷物が重いにもかかわらず、土井健次はキーボードをもってくるのだ。しかも何十冊もの重い歌集とともに。わけがわからない。百歩譲って一升瓶は許したとしても、歌集もキーボードも何の役にたつのだろうか? しかも標高三千メートルの山で歌なんか大合唱したら、空気の薄さで高度障害か高山病になってしまう。そんな心配をよそに、土井健次たちはキャッキャと山に登る。そして標高三千メートルの山頂で歌いはじめ、踊り始めるのだ。そんな空気の薄いところで激しく歌って踊れば、当然のことながら息が切れて
「酸素をくれー」
と倒れる奴が続出する。すると密かに小型酸素ボンベを持ってきた奴がいて、空中にシューとまき散らした。
「馬鹿、それは口に入れるんだよ! 空中にまき散らすやつがあるか!」
みんな腹をかかえて爆笑し、その爆笑のために、ますます酸欠となってバタバタと倒れていった。

 これも富士山とか槍ヶ岳ならわかる。そのレベルならキーボードを持っていくのも理解はできないが、不可能ではないとも思う。しかし剣が岳に持って行くという話を聞いたときは、さすがに引き留めた。
「おまえ死ぬ気か?」
と。しかし、頑固な彼はキーボードを背負って日本百名山で一番の難易度として知られる剣ヶ岳に登った。しかし、ジャンダルムと西穂高縦走のときにキーボードを持っていこうとしたときは、土下座して断った。知床山脈縦走の時も土下座して断った。


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 頑固といえば、彼が私の宿(北軽井沢ブルーベリーYGH)手伝っていた時のことを話したい。私は、彼に受付を御願いしたものだったが、時々、キレていた。御客様が駐車場のとめかたが気に入らなくて常に怒っていた。彼に言わせれば、マナーがなっていないということなのだが、そんなこと御客様にしてみたら知ったことでは無い。空いている場所があれば、そこに駐車するのが自然な行為である。しかし、乱雑に駐車されると、後から来る御客様が駐車するスペースが無くなってしまう。それで土井健次はキレてしまうのだ。

 宿主としては、駐車場のことよりも別の事を優先する場合が多い。いかに御客様に快適に過ごして貰うかが一番の優先事項である。しかし、土井健次にとっては、目の前の駐車場問題が一番の問題になってしまう。たかが駐車場ごときのことでキレてしまうのだが、それでは宿主としては、たまったものではない。仕方が無いので、隣地を購入して駐車場を倍にした。土井健次に俯瞰で全体を見ることを要求しても無駄であることは、長い付き合いでわかっていたので、そういう部分はとっくに諦めていた。

 天才の彼に、そんな些細な事を要求したくは無い。彼には、凡人にない才能があるからだ。彼に何かを御願いすると、アッという間に、その道のプロになってしまうのが土井健次である。ITでも、出版でも、どんな自然科学でも、何でも短期間にマスターして、それを完璧にこなしてしまう。だから野鳥・植物・樹木・天文・宇宙・地質・火山・・・・・何でも短期間にマスターして素晴らしいガイドとして大活躍した。

 しかも老人から小さな子供まで、よく面倒をみた。接客やガイド術に関しても、プロが書いた著書を読み込んで自分なりにマスターした。そのせいか彼のガイドに参加した人たちは、彼の人柄とガイドの素晴らしさに感動した。そして沢山の礼状が届いた。それは彼の人柄もあっただろうが、彼なりの努力というか、その道を究める姿勢があったからこそだと思う。

 そうなのだ。彼は、道を究める『求道者』でもあったのだ。俯瞰でものことを見ることは苦手でも、それぞれの道を究める『宮本武蔵』のような人間だったのだ。ただ、宮本武蔵と違うところは、剣一筋では無く、天才ゆえか何にでも手を出していたことである。

 彼は、あらゆるビジネス書を読破し、大手IT会社と代理店契約し、いろいろなアプリの開発をし、マーケッティングから、経理・簿記までマスターし、個人事業主として税務署に登録し、各種の事業にものりだしていた。それは全て定年退職後に本格的にスタートさせる予定だった。しかし、定年まで10年という期間を残して彼は急死してしまった。

 そんな彼に対して私は急に冷淡になったことがある。というか冷淡な態度を示すようになった。彼に二人の子供が生まれたからだ。私は
「もう宿には来るな」
「娘の面倒をみろ」
と突き放した。戸惑った彼は、うちの嫁さんと話しながら私の顔色をうかがった。しかし、私はあくまでも冷淡に接した。何か一つのことに夢中になりやすい彼のことだから、それが昂じて二人の娘を放置する可能性があったのだ。

 実は私にも息子が生まれていた。私は子育てが大変なのを実感していた。なので土井健次をできるだけ家族のもとにやらないと、とんでもないことがおきる。そう思った。なので本人にしてみたら不服だったかもしれないが、ここはあえて青鬼になるべきと思った。彼には冷淡に接して、できるだけ家族のもとにいるよう仕向けた。

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 最初は、とまどっていたが、すぐに子煩悩な二人の娘の父親に変化した。

 何十万もする最高級の国産ノートパソコンしか買わなかった彼は、中古パソコンしか買わなくなった。そのかわりに家族旅行ばかりするようになった。今まで持っていた、こだわりは全て捨てて、娘たちのために動くようになっていた。そして娘たちに大甘だった。きっと娘の結婚式では大泣きするんだろうなあ・・・・と思えるほど、娘たちを可愛がっていた。

 そんな彼が急死した。
 高血圧だった。

 死ぬ直前の彼は、現代医療にかなりネガティブになっていた。新型コロナワクチンも打ってなかったし、できるだけ薬を使わずに健康でいようとしていた。それに対して私は何度も注意したが、もともと人の注意をきくような奴ではない。

 天才・土井健次にとって、私のような凡才の言う健康論など、ちゃんちゃらおかしかったに違いない。私は政府の言うとおりにワクチンもうつし、村の健康診断も必ず受ける。医者の御高説もありがたく聴く平凡な人間である。だからまだ生きている。土井健次は、なまじ天才であるからこそ、いろいろな情報を得て研究し自分なりの結論を出したに違いない。

 それが彼の寿命を縮めた可能性があるが、それはそれで良かったのだろう。彼が納得して行動した結果なのだから。というのも、キーボードを担いだまま山で死んでいた可能性だってあったのだ。たまたま運が良くて無事に下山していただけで、彼は常に生死ぎりぎりのところで生きていたのだ。偶然にも山では死ななかった。そして偶然にも高血圧で死んでしまった。ただそれだけのことなのだ。

 思えば、彼の人生は、太く短いものであった。
 今後の私は、御遺族を見守っていきたいと考えている。

合掌。



つづく

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posted by マネージャー at 20:18| Comment(1) | TrackBack(0) | 旅と思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年06月20日

修学旅行の定番、枕投げは滅びてしまった?

 息子が 修学旅行から帰ってきた。車で迎えに行ったら巨大な袋にたくさんのお土産を買ってやってきた。 お小遣いの上限が 7000円だったためか、ずっと雨に降られたためか、 お金を使う時間がなかったために、旅行の最後にドタバタとお金を使うハメになったらしい。 そのために最後の最後に大量のお土産を買うしかなかったようだ。

  7000円の小遣い というのは、ちょっと多いように感じるが、実はそうでもない。この 7000円の中には、2回の昼食代と、神社仏閣の拝観料、移動のための電車賃。そして、その他もろもろの費用を含んでいるからだ。鎌倉は暑いだろうから水分補給のための料金も必要だろうし、 チャンスがあれば、けんちん汁や 抹茶をごちそうになったり、 お賽銭や 朱印帳の 費用を考えたら 7000円では足りないのではないかと 思っていた。

  ちなみに息子の修学旅行は、班別の自由行動になっている。 5・6人の班で子供達だけで移動することになっている。先生がついてくるわけではない。しかも、GPS付きのキッズ携帯や、デジカメの持ち込みは禁止されている。おやつも持ち込んではいけないし、友達との交換も禁止されている。私の子供の頃とは、かなり違ったルールなのに驚いた。

 なかでも面白かったのは、カメラのルールである。自分のカメラの持ち込みは禁止されていた。カメラは、学校から渡され、それしか使用してはいけない。そのうえ集合写真しか撮ってはいけないことになっている。風景写真も、誰か一人を撮影するのも禁止だ。

 私の子供の頃は、カメラは高級品でそんなもの持っている子供はいなかった。だから先生が子供たちの写真をバチバチ撮っていた。それを現像したものを廊下にはりだして、各自が写真を注文し、それを先生が、焼き増しをして各自に配った。

 先生は、子供たちのアップ写真を大量に撮影した。で、写真にやたらと写る子と、そうでない子がいた。カメラを向けると、だだーっと駆け寄ってくる子供もいれば、カメラから逃げる子供もいるからだ。私は逃げるほうだった。だから私の写真は、一枚もなかったはずだった。

 ところが、そんな私を先生は、遠くから望遠レンズで狙って撮影した。それが偶然にも最高の画像となって焼き上がった。その結果、みんなが私が写った写真を競って注文するというハプニングまでおきた。私は、自分の写真に興味が無かったので買ってない。私が買ったのは風景写真だけである。それを先生と友達は不思議そうにしていた。





 そんなことは、どうでもいいとして、息子のやつは修学旅行から帰ってすぐに寝た。旅行中、2時間しか寝てなかったらしい。二人部屋なのに寝られなかったそうだ。私が子供の頃は、100人の大部屋だった。枕投げもやったし、布団の引っぺがしもやったし、プロレスもした。ドリフターズの8時だよ全員集合を真似てコントもやった。先生には何度も怒鳴られたものだった。でも、ぐっすり寝れた。

 それに対して息子は、プリンスホテルの豪華な二人部屋。にもかかわらず寝られなかった。友達と一晩中、しずかにお喋りしていたらしい。枕投げも無いし、布団の引っぺがしも無いし、プロレスも無い。コントもやってない。先生にも怒鳴られてない。女子風呂をのぞきに行って怒られることもない。なのに寝れなかったとは、それで良いのか?と思ったが、まあ、これが令和時代の修学旅行なのだろうなあ。


つづく

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posted by マネージャー at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐渡島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年06月19日

群馬県には水族館が無い?

 今日は息子のやつは、 修学旅行 水族館に行ってるはずだ。信じられないことに 群馬県には 水族館がない。そのせいか私の嫁さんも含めて みんな 水族館が大好きだ。特にイルカのショーが好きらしくて、 これには目をキラキラさせて 眺める人が多い。

 私は佐渡島 出身なのでイルカは特に珍しくはない。 佐渡島から新潟市につながる航路を 佐渡汽船で何回か乗ると、時々 イルカの大群に出会うことがある。 最初は一匹で出現する。それを見た瞬間、
「あれ?気のせいかな?」
「目の錯覚かな?」
と思うのだが、そのうち二匹くらいが海面から顔を出す。すると誰かが
「イルカだ!」
と叫び出す。その頃になると、イルカたちは、大群で現れて佐渡汽船をぐるりと囲んでいたりする。

 佐渡汽船の速度は速い。その速い船を追い越すようにイルカたちは泳いでいくのだ。その泳ぎ方は魚の泳ぎとは違っている。魚雷のような感じで進んでいく。そしてピタッと止まって佐渡汽船を見上げたりする。





 こういう光景は、佐渡汽船では、決して珍しくは無い情景である。それを何度か体験している私にとってイルカショーは、あまり興味のもてるものではないが、群馬県民にとっては、すごく楽しいショーになるのだと思う。

 しかし誤解してはいけないが、日本海のイルカたちは、イルカショーのように跳んだりはねたりしない。イルカショーのようなイルカの姿は見たことがない。私の知ってる天然イルカのイメージは、魚雷のように進む姿と、100匹以上の大群で佐渡汽船を取り囲むイルカの群れたちである。

 跳ぶというならトビウオだろう。
 トビウオなら本当に跳ぶ。
 佐渡汽船の甲板から何度も見たが、本当に跳ぶ。
 いや、飛んでいる。
 10メートルといったみみっちい距離では無い。
 100メートルくらい飛ぶ。
 へたしたら200メートルくらい飛んでしまうかもしれない。
 しかもカモメなんかよりも滅茶苦茶はやい。
 そのうえ佐渡汽船の舷側のそばをスーっと追い越して飛んでいく。
 ものすごい速度で飛んでいくのだ。




 まあ、そんなことは、どうでもいい。佐渡島民にとって、そういう光景は少しも珍しくないので、島民たちは船の甲板にあがらない。船が出航したら100円で借りてきた毛布にくるまって睡眠をとる人が大半だ。

 しかし、私が小学校に入る前。つまり昭和40年頃の佐渡汽船では、そういうワケにはいかなかった。当時はカーフェリーではなかった。コンテナ船だった。そして船そのものが小さかったために、佐渡汽船に乗る乗客たちは、船室からあふれて甲板で縮こまって乗っていた。もちろん甲板に備え付け椅子にも座れない。だから持参した
ゴザを甲板に敷いて我慢した。

 船室は、船室で地獄だった。あちこちにゲロを吐くためのアルマイトの桶が置いてあって、みんなゲーゲー吐いていた。その臭いが室内に充満して、つられてゲロを吐く人たちが続出した。それを嫌う人たちは甲板にゴザを敷いて我慢するのだが、甲板でも吐く人が続出する。吐く時は海に吐いた。そのせいか船の舷側には魚たちがけっこういたし、トビウオも飛んでいた。イルカたちも見かけたが、なんの感想もわかなかったことを覚えている。

 当時の佐渡汽船は小さい船(コンテナ船)が多く、よく揺れた。

 当時の庶民は、二等の切符を買い、二等船室に入るのだが、これがくせもので、当時の船のディーゼルエンジンの振動が凄くて、床がマッサージ機のように揺れていた。それを避けようと船の先頭にいくと、波の衝撃に震度4くらいの地震が続く客室だった。だから、御客さんは、みんなゲーゲー吐いたのだ。そして密閉された客室に、あの香りが充満する。だったら多少の海水を浴びても甲板でよい・・・ということになる。

 そんな佐渡−新潟間を、幼少の頃の私は、母に連れられて何度も往復した。新潟には、母の親戚が大勢いたからだ。だからトビウオも、イルカも、カモメも、ブリ・マグロの大群も少しも珍しくなかった。


 ちなみに昭和40年代の佐渡島の北側では、船のことを『トントン』と言った。焼き玉エンジンで動く漁師船ばかりで、トントントン・・・と動いたからだ。しかし昭和40年頃の佐渡汽船ときたら全く違っていた。だから佐渡汽船の船のことを島民は、『トントン』とは言わず、佐渡汽船とよんでいた。佐渡汽船と『トントン』は別物であったのだ。

 ちなみに佐渡の南では、船のことを『トントン』とは言わなかった。『たらい船』といっていた。しかし、現在の佐渡では『たらい船』を『ハンギリ』というらしい。昔から『たらい船』のことを『ハンギリ』と言っていたと観光協会が強弁しているが、これはかぎりなく怪しい。そんな話は聞いたことが無い。私は、眉唾だと思っている。

 『たらい船』こそは、佐渡小木地方独特の船だと思う。あれこそは、佐渡のオリジナルだろう。で、よくYouTubeなんかに『たらい船』の動画がアップされているが、あれは観光用の姿であって、実際に使われている『たらい船』は、ちょっと違ったりする。



 本物のの『たらい船』には大きな竹竿を5本くらい尻尾に付けて船を安定させてある。で、小型のエンジンがついていたりするのだ。と言っても漁をする時は、エンジンは使わない。あくまでも手こぎで移動する。自宅から漁場に移動する長距離移動の時だけ、エンジンを使うのである。で、どうして『たらい』なのかというと、岩に潜んでいるサザエ・アワビ・タコを大量に捕るには、タライこそが最適だからだ。特にタコは金になるので、昔はタコ捕りの名人がいたら、求婚が殺到したという。


 最後に誤解のないように言っておくが、現在の佐渡汽船の船は、カーフェリーであるために豪華客船のように静かで揺れない。だから快適な船旅ができることだけは言っておく。

つづく

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posted by マネージャー at 17:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐渡島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

息子の修学旅行

 今日は、 小学6年生となった息子が 修学旅行に出かけている。
 場所は 鎌倉。 建長寺と鶴岡八幡宮と 源頼朝の墓と大仏を 自由行動で見学をすることになっている。
 まあ 無難なチョイスかもしれない。
 そこで事前に息子に 見学先のことを詳しく説明しておいた。

 まず建長寺の説明をした。
 建長寺というのは 禅宗のお寺である。
 鎌倉には禅宗のお寺がいっぱいあるけれど、その理由を説明しておいた。





 鎌倉時代の武士たちはある悩みを持っていた。 それは自分たち武士が戦いによって殺生することによって極楽に行けないのではないかという悩みである。 その悩みに対して明確な回答を示したのが、 禅であった。禅をすることによって仏になれるという理論は、武士たちにとって強烈な救いになったのだ。 なにしろ人を殺しても仏になれるというのだ。武士にとって、これほどありがたい宗派はない。しかも、ここから剣禅一如という言葉さえ生まれるくらいである。

 これを説明すると 息子は多いに唸った。武士たちが戦争という戦いに受ける 殺生に悩んでいたということに衝撃を受けたようだった。 なぜ 衝撃を受けたか、その理由はわかる。薄っぺらな歴史の教科書には、武士たちの悩みなど書いてないからだ。 しかし今も昔も人々は普通に悩むのである。 だから 大きな 宗教施設が世界中に存在するのだ。

  ちなみに 建長寺が、けんちん汁の本場だということも教えて、せっかく建長寺に行くのだから、みんなで、けんちん汁を食べたらどうだろうと提案したが、 息子は悲しそうに首を振った。 おそらく 小遣いが限られているためにそういう贅沢はできないのだろうと察した。

  建長寺には、 抹茶やお菓子も食べられるコーナーがあったと記憶している。 確か 500円だったと思うのだが、 これも息子の 少ない小遣いでは、 体験することは不可能だろう。 第一、 単独行動が許されないわけだから、一人 抹茶を飲むという体験も難しいかもしれない。

 本当なら、本場のけんちん汁を食べてもらいたいし、抹茶を作法によって体験してもらいたい。それは修学旅行では無理だろうというのは理解している。


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 と、ここまで書いて、 私の小学校時代(昭和48年)の修学旅行を思い出した。 私は佐渡島に生まれて そこで育ったのだが、 小学校の修学旅行は新潟市だった。当時も自由行動の時間はあったが、それはデパート内に限られていた。 そして 当時の小学生の小遣いは、上限が1000円と決められていた。当然のことながら1000円では大したものは買えない。観光地の土産物の温泉饅頭の価格は、当時でも500円していた。つまり物価は今と大差が無いのである。

  そういうわけで デパートの中をウロウロしながら、何一つ買えるものがない私たち子供たちは、恨めしそうにデパートの商品を眺めて歩いていた。1000円という上限を決めておいてデパートでウロウロさせる当時の教師の非常識な計画の犠牲者となった子供たちは、何も買えずにショーケースのまえを眺めるしかなかった。私も恨めしそうに 定価 1000円の組み立て式ラジオを見つめていると、 どこかの小学校の修学旅行生が、 定価 1000円の組み立て式ラジオをガンガン買っていた。

 彼らは3000円の小遣いをもらっていた。
 よくよく聞いてみたら、私と同じ 佐渡島の小学校の修学旅行生だった。
 同じ佐渡島民であるにもかかわらず、私の小学校は小遣いの上限が1000円で、彼らの小学校は3000円だった。

 この差は天地ほどにも大きかった。
 彼らは何でも買えるが、1000円しかもってない私たちは何も買えない。

 どうしてそんなに差があったかというと、 3000円の小遣いをもらっていた子供達の学校が超田舎の小学校だった 。彼らは滅多に佐渡島の外に出る機会がないので、 PTA の 強い圧力で小遣いの上限が大幅にアップされていたのである。どうしてそんなことを知ってるかと言うと、私の母親がその小学校の教師だったからである。

 で、 偶然にも 私の目の前に私の母親が登場した。
 何という偶然だろうか。

 そして私が定価 1000円の組み立て式ラジオを買おうかどうか悩んでいることを知った母親は、なんと そのラジオを 買ってくれたのであった。

  昭和48年頃の家電製品は、総じて高額であった。 ラジオなんかも1万円以上していた。ただし 例外があって、 組み立てラジオだけは安かったのだ。理由は、物品税がかからなかったからである。昔は消費税というものはなくてその代わりに 物品税 というのがあった。家電製品には30%ぐらいの税金がかかっていたので、 安く手に入れるためには 組み立て式を買うしかなかったのである。 組み立て式 ならば、部品しか入ってないので 物品税がかかってなかったのだ。

 そして修学旅行で手に入れた小さなラジオは、私の宝物となった。組み立て式というのがよかった。実家にはラジオ工具がそろっていたので、組み立ては簡単にできた。そして組み立てに熱中した私は、通信販売であらゆる部品を買いあさって、テスターや照度計なんかを作ってはよろこんでいた。当時はネットバンキングなんかなかったので、代金は切手を郵送して支払った。切手だと5パーセント高かったが、小学生の私には、それしか支払う方法が無かった。





 話がそれた。
 息子の修学旅行のことである。

  息子は 建長寺の次は 源頼朝の墓に行くと言った。その後に 鶴岡八幡宮に行くらしい。 そこで 見学のポイントを教えることにした。 源頼朝の墓を見るポイントは墓の大きさである。鎌倉幕府を開いたほどの大物であるのに関わらず、お墓がやたらと小さいのだ。

 逆に鶴岡八幡宮はかなり巨大である。 八幡宮といえば 応神天皇を祀っている神社である。 まあ、 応神天皇の、お墓みたいなものだ。もちろん応神天皇陵という巨大な古墳も 大阪方面にある。日本で2番目に大きい古墳である。 エジプトのピラミッドよりもはるかにでかい。 それに比べて 源頼朝の墓 は 何と小さいことか。 ここが 見学のポイントである。

 どうしてそんなに小さいのか?  江戸幕府を作った徳川家康の墓に至っては、もっと 巨大なのにも関わらず頼朝の墓は やたらと小さい。 その理由は平家物語を読むとわかる。「源氏と平家」という言葉を理解すればよくわかるのだ。

 平家というのは、平の清盛の一族のことを言う。
 平氏とは イコールではないのだ。
 平氏の中のごく一部の一族を平家というのだ。

 では源家という言葉はあるだろうか?
 実はないのだ。
 源氏はあっても源家という言葉はない。
 源頼朝の一族一派というものは存在しないのである。
 つまり頼朝の直接の家来というのは、ほぼいないにも等しい。

 鎌倉武士団というのは、源氏もいれば平氏もいる。そもそも北条政子からして平氏である。つまり頼朝とは、鎌倉武士団とって単なる神輿みたいなものであって、強力な権力があったわけではなかった。だからお墓が小さいのだ。だから頼朝は、義経を殺さざるを得なかった。そうしないと鎌倉武士団を制御できなかった。頼朝は、ぎりぎりのところの神輿にのっかっていたのである。

 この辺を息子は上手にお友達に 解説できたであろうか?

 この後に 鶴岡八幡宮に行ってるはずなのだが、この八幡宮 というのは 戦いの神様としてもてはやされていた。何しろ 応神天皇のおじいさんが、ヤマトタケルなのだ。うちの息子はヤマトタケルから、名前を頂いている。結果として佐藤タケルになってしまったが、別に某俳優とは 何ら関係がない。そもそも息子が生まれる頃まで、我が家にはテレビの電波が届かなかった。そんな名前の俳優が、世の中に存在すること自体、 私も嫁さんも全く知らなかったのだ。

 まあ、そんなことはどうでも良い。

 その後は鎌倉の大仏にいっているらしい。鎌倉の大仏は奈良の大仏と比較するとよくわかる。奈良の大仏が阿弥陀如来像なのに対して、鎌倉の大仏はしっかり座禅を組んでいる。極楽浄土に救いを求めるための奈良の大仏と違って、しっかり座禅をしている姿が、いかにも 鎌倉っぽくて清々しいのが特徴である。まあこの辺は、奈良を旅して両者を比較しないとよくわからないかもしれないが。

 息子のやつは今頃、 ホテルでグースか寝てるのだろうか?
 明日は、 水族館をみるらしい。
 海無し県の群馬では、修学旅行での水族館は欠かせないものらしい。
 嫁さんが羨ましがっていた。

 
つづく

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posted by マネージャー at 00:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐渡島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年01月16日

盟友 土井健次氏の葬式について

14日の午前2時17分に北軽井沢ブルーベリーYGHのスタッフでもあり、30年来の親友であった土井健次君が、お亡くなりました。


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お通夜は、1月19日金曜日の18時から行います。
告別式.葬儀は、1月20日土曜日の10時45分から12時になります。
家族葬なので定員も限られており、席も殆どありません。
なので、奥さんと相談の上、簡単な御焼香だけ参加させていただくことになりました。

友人関係の香典は、新生活香典(3000円前後)スタイルとし、精進落としも、香典反しも無しということにさせていただきました。
ただし、『風のたより』と佐藤家だけは、長年の付き合いもありましたので、それなりの金額をつつむ予定です。

ちなみに佐藤家(私)が、参加できるのは、1月19日金曜日の18時から行うお通夜だけです。残念ながら土曜日の告別式・葬式の時は、宿の方に御客様がいるために、参加できません。なのでお通夜に参加した後は、日帰りで帰ります。無念です。

ちなみに、お通夜の手順は、約30分ほど僧侶による読経が行われ、途中で参列者によるお焼香が始まります。お焼香は「喪主→遺族→親族→弔問客」と故人と関係が深い順に行います。この時に御親族の邪魔にならぬように、御焼香が始まるまで外で待機しているのがマナーかなと私は思っていますが、いかがでしょうか?

これは1月20日土曜日の10時45分から12時に行われる葬式・告別式も一緒かなあと思います。家族葬なので、御家族の邪魔にならぬように、外で待機し、御焼香の時に参列させていただく形が無難だと思います。


場所は、与野駅 セレモニー与野ホール
https://www.sougi.info/saitama/saitama-shi/yonohall
〒338-0002 埼玉県さいたま市中央区下落合1064
JR与野駅西口 駅前(与野本町駅より 通夜・無料送迎車運行)
※運行状況はお問い合わせください。運行していない場合もございます。
駐車場 約30台
電話番号 0120-27-8825


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あと、これは私の個人的な希望なのですが、土井君の思い出を綴った文集・写真集を『風のたより』で出版するつもりでいます。みなさんの思いでなどがありましたら、佐藤まで届けてくれるとありがたいです。あと、過去に土井君が執筆した文章も採録する予定です。写真や動画も希望者に配布するつもりです。時間はかかるかと思いますが、皆様、御協力のほど宜しくお願いいたします。なお、残された遺族に関しては、今後とも全力で支援してゆきたいと思っています。



つづく

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posted by マネージャー at 20:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐渡島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年01月15日

母の思い出 その6

 私が三歳九ヶ月になった時、母が妊娠して弟が生まれたことは、すでに述べた。母は生まれたばかりの弟をつれて佐渡島外海府の漁村に向かい、私は祖母と父と生活することになったことも、すでに述べた。


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 父親は厳格なために些細なことで物置に閉じ込められ、箸の持ち方一つで良く殴られた。優しい子守に囲まれた生活とは真逆な生活だった。祖母も酷く口うるさい人だったので、三歳までの子守時代とは全く違う環境で毎日不安なまま暮らしていた。子守時代とは天地ほど違う環境だった。

 それ以前は、子守に可愛がられた。子守と言っても腰の曲がって杖で歩く老婆なので、二歳から三歳くらいの男の子の方が速く走れる。逃げようと思えば逃げられるが、そういう気持ちは全くなく、むしろ老婆の後を追いかけることの方が多かった。いわゆる後追いとい現象である。

 母親に対する後追いとは少しばかり違って、農作業や干芋造りなんかを、じーっと見つめては、時々手伝ったりした。そして御褒美に干し芋をいただいて、うまの美味しさに驚いたりした。

 子守といっても、四六時中子供の面倒をみているわけではなく、いろんな作業をしながら合間に世話をするのが子守のパターンである。片手間に仕事をしていた方が、子守をしやすかったのかもしれないし、元来、子守とは、そういうものだったのかもしれない。

 幼少期から体が大きく、ジャイアント馬場的な存在で、その巨体うえに、おんぶしながら作業ができなかったということもあっただろう。だから私は、子守におんぶされたことがなかった。いつも子守とともに地べたを歩いて移動した。そして子守たちの片手間の作業をじーっと見て育っていた。そして、作業を手伝いたがった。

 母の下宿先では、農作業の合間に洋服の仕立てをしていた。当時は、電気アイロンなどはなく、鉄のアイロンを炭に熱して、指で温度調節しながらアイロンがけをしていた。私はじーっと、それを観察した上で自分でやってみようと思い、自分の顔にアイロンをあてて大火傷したこともあった。

 とにかく、周りを観察して、それをやってみようと思って一緒に作業していた。それが、かなりの労働だったようで、昼寝になると私はアッという間に寝てしまった。寝ることによって、ますます身長が伸びたことは言うまでもない。

 こうして私は。三歳九ヶ月まで子守たちに可愛がられた。僻地なのに、店が何も無いのに、昭和三十年代に、いったいどこから手配したのか、どういうわけかクリスマスケーキがでてきた。当時としては貴重なホールケーキに対して、私は恐る恐る「どれ食べて良いの?」と聞いたものだった。私の母親は、そこまで甘やかさなかった。

 子守たちと分かれてからも、子守の老婆たちは、遠くから私を訪ねてやってきた。何度も遊びにきては、帰り際に泣いてお別れしました。別れ際には必ず
「お父さんの言うことを聞いて、お利口にするんだよ」
と泣きながら帰って行った。子守されていた時には、絶対に言わなかった台詞を言った。それほど可愛がられ。そういう環境から、厳格な父親と口うるさい祖母の元に預けられた。

 環境が一変すると、私は放置子ぽくなる。近所の老婆のところに勝手に遊びに行くようになる。知らず知らず以前の環境を求めてのことだったかもしれない。ご近所の人も、さぞかし驚いたことだろうが、不思議なことに私は、近所の見知らぬ老婆たちに可愛がられた。誘拐犯がいたら、いとも簡単に誘拐されたと思っている。

 ただ、実家のあった佐渡島の都会(?)には、佐渡の僻地と違うところがあった。保育園があったのである。そして生まれて初めて保育園に入ることになる。

 それまでは、別に何か教育されるわけでもなく、プログラムに沿って進行されるわけでもなかった。親と違って子守には強く怒られないので、子守たちの生活習慣が、すんなりと私の中に入ってきた。そして作業を手伝ったりした。干芋を並べたり、仏壇に一緒にお供えしたりした。

 ところが厳格な父と暮らすようになると、多くのダメ出しを食らうために、何に対しても拒絶反応が出てきた。いたずら書きをして強く怒られれば、書くことに拒絶反応が起きる。これが絵を画いたり、字を書くことに対しても、拒絶する心理状態になってくる。

 これは人間に限らず、どんな生物にもそのような反応がある。そういう反応がなければ、アッという間に天敵に殺されてしまうからである。親が子供に必要以上に強く怒れば、子供は自らの生命保存のために学習して、拒絶の心理が働いてしまう。

 幼児が危険な階段を上がろうとしたところを見つけて、それを必要以上に強く怒ってしまうと、それがトラウマとなって高所恐怖症になったりする。それをみこして武家社会では、子供に対して強く叱らない躾をしていたと言われている。もちろん武士なので躾に厳しかったことは確かなのだが、強くは怒らない。

 むしろ子供に対してもっぱら暴力的に躾たのは農民階級の方だったといわれている。農民は臆病でも問題ないし、むしろその方が、自己保存のために良い場合もあったのかもしれない。

 まあ、そんなことはどうでもいいとして、これだけ環境が変わって、戸惑うと脳に非常に悪い影響が出てもおかしくないのだが、歯止めになったのが、保育園だったかもしれない。保育園が環境の変化を和らげるクッションのような役割があったような気がする。

 現在では、どうなっているか分からないが、昔の保育園では、あまり教育的なことはしてなくて、のんびりしていた。運動会・遠足といった行事も無く、それが私にとっては良かった。そのせいかその保育園でおきたことは記憶に残ってる。記憶の法則によると嫌なことは忘れる傾向があるのに対し楽しいことは忘れないという。

 この法則は私だけに当てはまったのではなかった。一年後、私は引っ越して、別の保育園に入り、最初の保育園の友達と別れた。それから十二年後に、小学校の合併で彼らと再会するわけですが、お互いに年少組の頃のことを覚えていた。

 ところが幼稚園出身だった嫁さんに
「幼稚園時代のことを覚えてる?」
と聞いても全く覚えてないという。

 嫁さんは、保育所でも託児所てもなく、幼稚園(二年制)出身だった。幼稚園だから授業もあったかもしれない。そのうえ午前中で帰宅なので友達との縁も薄かったかもしれない。

 そのうえ嫁さんの家庭環境が良かった。近所に親戚がいっぱいして、従姉妹どうしで仲良く遊んぶという感じだったらしい。その思い出話は、よく聞かされる。家内にとって楽しいのは、幼稚園では無く家族と大勢の親戚たちだった。

 それはともかくとして、母・子守たちと離れて、父・祖母と生活することによって、私にとっては地獄のような毎日が始まるのだが、そんな時に、佐渡島外海府の漁村から私の子守だった老婆や下宿のおばさんたちが、遠方からわざわざ私の顔を見にやってきた。

 そして何泊か滞在したあとに、何かを察して、帰り際にボロボロ涙を流しながら
「いいかい、お父さんの言うことを聞いて、おりこうにしているんだよ。お父さんのことを良く聞くんだよ」
と帰って行った。当時の私は、子守の老婆に対して一歳に満たない弟の子守はしなくてよかったのだろうか?と不思議な気持ちで、その言葉を聞いていたものだった。

 で、子守の婆さまも、下宿のおばさんも、何度も何度もやってきた。当時は、バスを使って一日がかりでやってきては、私に会いに来て、一泊して帰っていった。

 帰った先には、母と小さな弟がいる。生まれたばかりの弟の方が、よほど可愛がいだろうに、何度も私に会いに来た理由は、乳幼児の頃にしつけられた、あの大げさな礼法と無関係でなかったと思う。


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 そして一年後。

 母の単身赴任は終わり、家族そろって一緒に生活するようになると別の問題がおきた。私に対する教育方法をめぐって夫婦喧嘩が絶えなくなった。あと、嫁・姑の問題も出てくるが、それについては後述する。父・母・祖母の三人が、それぞれ全く違う教育をする上に、その愚痴を公言するものだから、子供の頃の私は大変だった。

 おまけに私は、厳格な父に何度も家を追い出された。追い出された後は、あちこちを放浪し、それを母と祖母が大声で探し求めるものだから、私の家は、近所でも有名な家になった。

 三軒隣に、NHKテレビによく出演していた有名な植物学者がいたが、私が夜中に放浪していると、自転車で追いかけてきた。とは言うものの、私とは距離をとって関わろうとしなかった。遠くから。そっと見守るだけで、私が探しにきた母に見つかるまで見守っていた。私が母や祖母に探し出されると、そっと自転車で去っていった。思えば、変な時代だったように思う。

 こうして何年かたつわけだが、その間にも、下宿のおばさんや、子守の老婆は、相変わらず私に会いに来た。そして帰り気際に必ず
「お父さんの言うことを聞いて、おりこうにしているんだよ。お父さんのことを良く聞くんだよ」
と涙ながらに帰って行くのだった。

 やがて何年かたって、母の教え子だった小学生が青年になり、自動車免許をとるようになると、軽トラでやってくるようになった。幼児の頃の私の頭をナデナデしてくれた小学生が、たくましくなって颯爽とやってきた。
 そして人さらいのように
「外海府に遊びにこないか?」
と誘ってくるのだ。

 両親の許可をとって大喜びで私は出かけた。弟は、一緒ではなかった。私だけだった。そして外海府の漁村に到着すると、みんなが出迎えてくれた。それは幸せな瞬間だったが、そこで何日が生活していると、突如として私の中に不安がやってくる。

 外海府の下宿のおばさんや、子守の婆さまたちが、
「うちの子供にならないか?」
とささやいてくるのだ。すると私の心の底から無性に。不安や寂しさが込み上げてきて、なんともいえない悲しい気持ちになり、実家に帰りたくなった。


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 宮本常一という有名な民俗学者は、このように言っている。

「海府の人たちは、冬には雪で閉じ込められてしまうので、夏場の稼ぎだけで一年間の食生活費を稼がなくてはならぬので、村人たちはことのほか、激しく働かねばならず、そのため人出はいくらあっても足りなかった。そこで海府の人たちは相川の貧家から子供をもらい、もらって来ては育てたのである」
(宮本常一・離島の旅より)」

 人買船に売られた安寿と厨子王の母が、佐渡の外海府(鹿野浦)に連れて来られてきたと言う話と、宮本常一の「海府の人たちは相川の貧家から子供をもらい、もらって来ては育てたのである」という話は、微妙にリンクしている。海府は、昔から人手を必要とする地域だった。宮本常一が指摘しているように、海府地方では、人出はいくらあっても足りなかった。

「そのような村にも相川から養子をもらう風習があった。相川にはまずしい町家がたくさんあり、そういう家の子をもらってきた。相川や国中の方では子供が泣くと『海府へ牛のケツたたきにやるぞ』と言えば泣きやんだものであるという」
(私の日本地図・宮本常一より)」

 この話を裏付けるように、昔の海府の戸籍には、「同居人二人」などと書いてあった。安寿と厨子王の母親は、こういう地域に売られていったのだ。私は、その地域、つまり北片辺で、生後三ヶ月から三歳九ヶ月まで住んでいたのだった。


つづく

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posted by マネージャー at 23:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐渡島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年01月14日

盟友 土井健次を悼む

今日、午前1時に北軽井沢ブルーベリーYGHのスタッフでもあり、30年来の親友であった土井健次君が、お亡くなりました。

昨日の朝、脳出血で倒れ、緊急入院をしましたが手遅れでした。
葬儀などについては、追って連絡いたします。
とりあえず、しばらくの間は奥さんへの、御連絡を控えてください。
(忙しいので)

どうしても詳しく情報を聞きたい場合は、
佐藤0279-84-3338
まで連絡してください。


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なお、残された遺族に関しては、今後とも全力で支援してゆきたいと思っています。


つづく

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posted by マネージャー at 21:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅と思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする