土井健二という男を語る前にバブル時代というものを説明したい。日本という国が狂ったように経済成長をしていって、それこそ世界を制服しかねないような勢いだった。日本が一人勝ちしていた時代であり、日本企業には日の出の勢いがあった。
当時の会社は卒業予定の学生を確保するために懸命だった。人材がいれば、いくらでも会社が伸びる時代でもあった。就職内定者をハワイとかロサンゼルスに連れて行ってよそに取られないように隔離するという時代でもあった。就職説明会には、数万円もするコース料理がでたりした。
男たちは恋人のためにクリスマスイブに1泊何十万もするホテルを予約していた。そこら中に金が有り余っていた。
今から考えると信じられないことなのだが卒業旅行に大学生たちが海外に出かける時代でもあった。3月にフランスのパリなんかを旅すると日本人の学生たちがうじゃうじゃといた。石を投げると日本人に当たるどころか、投げようとした瞬間に手が日本人学生に当たるレベルだった。ヨーロッパのめぼしい観光地は日本人学生に占拠されていた。彼らの旅行資金は、どこから湧いて出たのだろうか?今考えても不思議でならない。
そんな時代に私は、事業(映画製作)に失敗し、家一軒買えるほどの借金を抱えてしまった。まだ27歳だった。しかし、そんな失敗も簡単に取り返せるのがバブル時代だった。あっという間に借金を返済したうえに、そこそこの貯金を得た。その金で世界放浪の旅にでるのだが、それについては後述する。
人手不足だった当時は、働く現場に若い人たちが不足していた。日本中の企業が人材確保のために何百万も何千万も使っていたことはすでに述べた。就職説明会に来た学生たちに何万円もする弁当を出したり、高級寿司店に連れて行ったり、研修と称して海外旅行に連れて行ったりしていた。たかだか就職説明会に、そんなことをした時代があったのだ。なぜ私が、それを知ってるかというと、当時、新卒学生の就職に関連する仕事(人材確保に関する映像の仕事)をしていたからである。
まあ、そんなことは、どうでもいいとして、そういう時代であるからこそ、若者たちは、中小企業や、肉体労働と言った職業に就きたがらなかった。
そこで困ったのが、どうしても見てくれのよい若者たちを必要とするサービス業だった。特に困ったのが警備員だった。何故ならば昭和天皇の寿命が尽きかけていたからだ。世界中の各国要人たちが昭和天皇の葬儀のために日本に集る必用があったのだ。しかし昭和天皇はしぶとかった。なかなか死ななかった。死ぬのは確実だったのだが、医療チームは懸命に延命治療をしていた。
しかし死はいつかやってくる。世界中の政府機関は、世界最大の葬儀となる皇室の葬儀のために準備で大わらわとなった。なにしろ当時の日本は世界第二位の経済力と、世界第四位の軍事力をもっていた。ジャパンアズナンバーワンと言われ、世界最古の皇室を誇った皇族の大葬儀が目の前に迫っていたのだ。その準備のために世界中の政府が、都内の一流ホテルを、かたっぱしから貸切った。そしてホテルやボディーガードの警備員の需要が爆増した。しかし昭和天皇は中々死ななかった。都内のホテル業界は、1年近く人材難に苦しんだ。
当時だって警備員の人材はいた。しかし、VIPが宿泊する予定の高級ホテルとしては、見てくれの良い若い人が必要だった。豪華なホテルには道路工事で日焼けしたオッサン警備員はNGだったのだ。しかし、若い人は一流企業が確保していたので警備会社に若い見てくれの良い人材は集まらなかった。
で、私のところに話がまわってきていた。で、幸か不幸か私には、そういう人材のアテがあった。役者を目指している見栄えの良い若者(友人)を沢山かかえていたのだ。私は彼らをかき集めて各ホテルに派遣した。当時のホテルなどは、見てくれの良い若者に信じがたい高給を払った。私は、その時にひと山あてた。その金で長期間の海外旅行に出た。あての無いブラリ一人旅だった。
インターネットの無かった時代の海外旅行は、今より逆に便利だった。列車が駅に着くと、ホームに宿屋の客引きがいたので宿に困ることはなかった。それに駅にはツーリストインフォメーションというものがあって、それが今でいうインターネットの機能をしていた。困ったときはツーリストインフォメーションに行けばなんとかなったのだ。当時は移民問題が無かったために、治安が良かったし、みんな親切だった。だから誰でも簡単に旅ができたし言語の壁も今より低かった。
ただし、運が良いのか悪いのか、私が海外旅行にでた頃は、世界中でとんでもないことがおきていた。ベルリンの壁が崩れ、東ヨーロッパは内乱状態になっていた。朝ホテルで目覚めると革命がおきていたということも普通に何度も体験したし、あちこちでcnnの車をみかけた。
もちろん人種差別も嫌というほど体験した。死にそうな目にもあったし、強盗にあったうえに強盗さんと仲良くなったこともあった。旅行中に戦争がおきたこともあった。もちろん戦争になれば外務省によって渡航制限がかかる。つまりパリなんかに卒業旅行にきていたバブル時代の日本人学生たちが根こそぎいなくなる。
当時、かなり長期化した戦争が発生した。湾岸戦争である。イラクがクウェートを占領し、それを多国籍軍が何ヶ月もかけて包囲した。その結果、ヨーロッパ方面への飛行機が飛ばなくなった。今と違って昔はロシア領内を飛べなかったために中東諸国を通過しないとヨーロッパに行けなかったのだ。
バブル時代の親たちは、子供たちに気前よく小遣いをわたしていた。けれど戦争中に海外に行かせなかった。困った当時の大学生らは、卒業旅行に北海道を選んだ。当時、倉本聰のテレビ番組『北の国から』がブームで北海道は人気観光地だった。映画も『私をスキーに連れてって』が大当たりして、雪質の良い北海道のスキー場が満杯になっていた。当時の大学生たちは猫も杓子もスキーに行ってた。信じられないことだが当時のスキー場はナンパ場でもあった。
あれは、1991年の3月頃だったと思う。湾岸戦争によって海外旅行を断念した私は、北海道の美瑛・美馬牛の雪景色を見に旅立った。列車の中にはスキー板をかついだ卒業旅行の学生たちがいっぱいいた。
「こんな遠くまでスキー板を持ってくる奴の気が知れない」
と半ば呆れるように私は眺めていたが、そういう学生たちの一人に土井健次もいた。
彼らは集団でワイワイ楽しそうにしゃべっていた。列車は私の目的地である美馬牛に到着すると、その学生集団たちも私と一緒に降りて、美馬牛リバティーユースホステルという宿に入っていった。
「ちっ、今日の宿は学生団体さんと一緒かよ」
とガッカリしながら宿でチェックインの手続きをしてた。しかし学生団体と思っていた一団はみんな一人旅だった。前日か前々日に、どこかの宿(ユースホステル)で、たまたま一緒だったために顔見知りだっただけだった。
私は彼らに声をかけられた。
「どちらの大学ですか?」
これには戸惑った。
当時の私は年齢よりも十歳若く見られたので、誰もが私の事を学生と信じて疑わなかった。困った私は、彼らにユースホステルの会員証を見せた。そこには、28歳と書いてあった。ええ?と驚かれ、それ以降は無視された。
当時、ユースホステルをよく利用する大学生の多くは、高学歴であり、それも国立大学出身や医学部出身が多かった。ふだん生活してて、東大生に出会う確率など、そうめったにあるものではないが、ユースホステルに泊まると必ず一人か二人ぐらい出会ったものだった。定員20名から30名の宿で出会うことを考えたら、ユースホステルがいかに高学歴の学生が泊まる宿で会ったか、わかるというものである。
そういう連中の会話ときたらテレビや流行歌の話題など全くなくて、三日三晩寝ずにやった実験を失敗した話とかで、一般人が入れる話題では無かった。そこでの私は、異端もいいところだった。なので、すみの方で小さくなっているしかなかった。
「どちらの大学ですか?」
という問いかけもマウントをとられている気がして良い気分にはならなかった。なので彼らとの交流はできるだけ避けた。
無視された私は、これ幸いと、チェックイン後は、せっせと絵はがきを書きまくっていた。当時は、インターネットもSNSも無かったので、絵はがきと年賀状と宿(ユースホステル)がインターネットの代わりだった。さんざん海外旅行していた私は、旅先で知り合っていた人に、旅の宿で絵葉書を書いていた。
当時、旅人に出すたよりは、旅先から出すという風習があった。自宅から出さなかった。旅先で大量に出すのが普通だった。長期の外国旅行で知り合っていた人が多かった私は、大量に絵葉書の返事を書かなければならなかった。
もちろん旅人の住所録なんか持ってない。そんなものは作らない。面倒くさいことはしない。絵葉書をもらった人にしか返事を書かないからだ。旅は一期一会。旅先で出会った人に再び再会する機会などあるわけないと思っていた。
しかし、異国で出会った日本の旅人たちは、例外なく旅先から絵葉書を送ってきた。私はセッセと返事を返した。礼儀として、こちらも旅先から絵葉書を返す。そのために貰った絵葉書に書いてある相手の住所を書き写して出すのだ。つまり住所録のかわりに、自宅に届いた大量の絵葉書を持って旅していたのだ。
美馬牛リバティーユースホステルで私は孤立していた。私だけ学生では無かった。会話の内容についていけない。だからセッセと絵葉書を書いていた。当時のユースホステル利用者は、学生が9割だった。なので社会人だった私は、どのユースホステルでも孤立した。だから、どの宿でもセッセと絵葉書を書いていた。だから今までユースホステルで泊まり合った学生たちとは、交流をもってなかった。しかし湾岸戦争があった1991年の3月だけは、ちょっと違った様相になる。
「あれ?」
と大声をあげたのは、当時大学4年生だった土井健次であった。
彼は、私がもらった絵葉書をみつけてしまった。その絵葉書は、ドイツ・オーストラリア・チェコ・ポーランド・ユーゴ・エジプト・ネパール・インド・タイ・マレーシアといった国々から届いた絵葉書の束だった。そして私が日本から出そうとしている絵葉書の宛先も、それらの国々へのものだった。
すると今まで無視されていた私は、学生たちに「わっ」と取り囲まれた。彼らは、湾岸戦争で泣く泣く海外卒業旅行をあきらめた人たちだった。湾岸戦争以前なら、必ず無視されていた私だったが、湾岸戦争以降となると全く状況が変わってきていた。急に大学生たちに取り囲まれ質問され、話題の中心となって戸惑った。土井健次のせいで、突然、みんなの人気者になってしまったのだ。
気が付いたら私は、みんなと一緒にクロカンスキーを楽しむことになっていた。土井健次は、みんなからオーロラ君とよばれていた。知床でレーザー光線で人工的に作られたオーロラショーばかり見ていたから「オーロラ君」とよばれていたらしい。
彼だけで無く、他の大学生たちも、みんなニックネームをもっていた。北海道を旅する人たちの多くは、こういった「旅人」ネームをもっていた。旅人ネームは、各ユースホステルの主から付けられていたケースが多かったようだ。土井健次は私に聞いてきた。
「佐藤さんの旅人ネームは、何ですか?」
「・・・」
私には、そんなものは無かった。
答えようが無かった。
私は北海道では新参者だった。
ついでに言うとユースホステル利用者としてもライトユーザーだった。
さらに土井健次は、私が書いていた外国に出す絵葉書を見ながら聞いてくる。
「いったい佐藤さんは何者なんですか?」
「・・・」
「どんなお仕事をしてるんですか?」
この時、私は少々ムシの居所が悪かったかもしれない。
ムッとしながら答えた。
「風(かぜ)です」
「風(かぜ)?」
「バックパッカー(旅人)の世界では、仕事をやめて世界を放浪する人のことを風(かぜ)というんです」
「?」
「関東地方では、風(プー)とも言いますけれどね」
すると皆が爆笑した。
土井健次も大笑いした。
笑いながら出身大学を聞いてきた。
これだけ旅するからには、どこの外国語大学の人なのか?と聞いてきた。
私は「キター!」と思いつつにこやかに答えた。
「由緒正しい中卒です」
またもや爆笑の渦となった。この瞬間から私は、土井健次に追いかけ回されることとなる。彼だけでは無い。他にも私のようなフーテンに纏わり付いてくる人がいた。そして、もう一度東京で再会し同窓会(飲み会)を開きたいと言ってきた。
一番年齢の高かった私に対して兄貴のように慕って付きまとって、私にオフ会を開くよう言ってくる。仕方が無いので私から皆に声をかけて何度もオフ会を開くようになっていた。その結果、知らず知らずのうちに私のアパートは、彼らのたまり場になり不特定多数の人間が出入りすることになるが、それについては、きりがないので、ここに書かない。
それより困ったことは、彼らと付き合っていくうちに、私の正体が徐々にバレてくることである。風(プー)でもなければ、中卒でもないことがバレてくると、彼らはますますべっとりとしてきた。そうなると彼らと付き合うことが、ちょっと息苦しくなってきた。旅先で大量の絵葉書を書くのも苦痛になってきた。彼らのために開く飲み会も面倒くさくなってくる。その結果、人間関係を精算したいと思うようになる。
大学を卒業した彼らは、社会人になったとたん、人間関係が狭まってくる。
つまり私を通じて、広い人間関係を欲する需要が急に出てくる。
そこで旅人どうしのオフ会の需要がでてくるのだ。
当時は、インターネットもsnsも無かった。
社会人になりたての青年たちは、人恋しがって旅人の世界に集まって来たがった。
しかも時代は、バブルであった。
バブルは人材を求めていた。
各企業は新卒学生の青田刈りに励んでいた。
旅人の飲み会を開く度に、社会人になったばかりの人たちが、学生たちの飯代飲み代を負担していた。その経費は会社から出ており、会社からは新人をスカウトするよう命令されていた。
それほどバブル時代は、新卒の学生を確保するのに必死だった。だから会社の説明会の出席するという条件つきで、学生たちの飯代飲み代を負担していた。学生たちも、なんの遠慮もなく飯代飲み代を奢ってもらっていた。それを当然と思っているのがバブル時代の学生たちの風潮だった。
つまりバブルという時代的要請によって、旅人の集まり(つまり飲み会)をバックアップする社会的な背景ができあがっていたのだ。
「佐藤さん、次の飲み会はいつですか?」
と皆、私をせっついてくる。それは社会人もそうだし、学生側もそうだった。そうなってくると、だんだんこちらもシラケてくる。苦痛になってくる。
そんな中で、そういう事に全く縁の無い男がいた。
土井健次である。
彼は、ある意味で純粋な男であった。純粋に自分が面白いと考えることにしか興味が無かった。だから私が飲み会をしなくなると多くの人たちが消えていったが、土井健次だけは私に纏わり付いた。彼とは飲み会以外のことで盛り上がった。
私が登山に誘うとホイホイついてきた。普通の登山では面白くないので、海抜ゼロから富士山に登ってみたり、山で浴衣を着てみたり、流しそう麵を流したり、タキシードで正装して清掃登山してみたり、北アルプスの頂上で簡易居酒屋をひらいてみたり、富士山に酒樽(60s)を担いで登って皆に酒をふるまったりした。他にも東海道500qの駅伝をやってみたり、東海道を何回往復走ればママチャリが壊れるかの実験もやってみた。知床山脈を含む数々の秘境も探検した。一緒に韓国旅行にも行ってきたし、飛行機のコックピットにも入れて貰い、機長のサインまでいただいた。思えば、いい時代だった。
そんな彼が天才であることは、彼と付き合ってすぐ気がついた。
当時のユースホステルには、東大生などの高学歴者がわんさかいたのだが、そんな東大生たちよりも土井健次の方が、よほどIQが高いことに気がついた。確認のために本人に聞いてみたら140だと白状した。140という数値は一般的なIQ検査で測れる最高値である。それ以上は別の検査が必要になる。私の肌感覚から言わせてもらうと彼のIQは200ぐらいあったと思う。
彼は四桁のかけ算を暗算でやっていた。算盤をやっていたの?と質問したが、算盤はできないという。小さい頃から公文をやっていたのでそのせいではないかと本人は言っていたが、そんなわけはない。公文では四桁のかけ算を暗算することはできない。そのうえ彼は難しい仕事を次々とこなしていった。専門分野でも無いのにIT関係の作業を次々とこなしていき、大手のIT会社の代理人にもなっていた。本気でやれば事業として大成功していた可能性もあった。
いつだったか「知床の自然」という何百ページもある学術書のOCR化を頼んでみたことがあったのだが、彼の作業には、1文字の誤字もなかった。何をやらせても完璧だった。そのうえ、どんな無茶な頼みも必ず納期を守った。仕事のできる男であった。
本人は落ちこぼれと自虐していたが、人間は天才すぎると落ちこぼれる事がある。子供の頃は大して勉強しなくても良い点が取れるために、苦労して覚える経験が少ないからだ。だから超一流の地位からは落ちこぼれるが、超一流から一流に落ちこぼれるというだけで、本当の意味では落ちこぼれてない。ようするに好奇心のまま生きたいたら出世に興味がないだけなのだ。
私はそんな彼をいろいろ観察してきた。
実はその観察が自分の子育てに生きている。
土井健次の仕事術・勉強方法は非常に参考になる。彼は絶対に徹夜をしない。教科書に線を引いたりもしない。メモもとらない。一番うすっぺらい問題集を一冊。それを3回から4回解くだけである。しかも2回目から4回目までは間違えたところしかやらない。つまり間違えたところを探すだけなのだ。だから4回解くと言っても勉強する時間は恐ろしく短い。
彼は、この方法で、アマチュア無線の免許や、旅行主任資格をとってしまった。専門学校生が2年かけて必死になって勉強してようやくとれる資格を、一番うすっぺらい問題集を数時間だけパラパラとめくって解いてみるだけで合格していた。
彼は、基本的に小テストしかやらない。それも間違えたところしか勉強せず、あとはひたすら寝るだけなのだ、これは彼に限らず私がユースホステルで知り合った数多くの天才たちは、みんなこんな感じだった。天才たちがガリ勉しているところなど見たことがない。
登山仲間数十人が、登山仲間全員でアマチュア無線の免許をとろうとしたとき、天才たちは薄っぺらい問題集を3回くらいしかやってないのに全員合格した。それに対して受験勉強と無縁な人生をおくってきた人たちは、分厚い参考書を読んで、必死になって基礎的な物理を理解しようとして頑張ったが全員落第した。
落第した人が頭が悪かったかというと違う。確かに彼らの勉強の成果はでていた。概念は理解していたし、合格できるスキルはもっていた。なのに落第した。逆に土井健次は、基本的な概念を理解してなかった。理解はできてなかったが合格してた。想定問題集を3回やるだけの最短時間で合格して見せた。
ようするに土井健次は、必用な回答能力にしぼって学習していた。合格に必用なことを瞬時で見破り、それを最短時間で達成する方法を一瞬で発見する男だった。だから努力も最低限しかしていない。空いた時間で他の仕事をこなすのである。これを天才と言わず何と言おうか?
それは余談になるが、この方法は、うちの息子の勉強にも使わせてもらっている。効果は絶大で主要科目に限定すれば、昔で言うオール5をとっている。だからうちの息子はガリ勉をしてない。1日10分の小テストと、好奇心を満たせるためのEテレの視聴させているだけである。それも5問以下の小テストだけでいい。それを回数やるだけで驚くほど効果があがるが、それらの手法は、土井健次の学習法を手本にしている。
土井健次は、好奇心が強かった。あまりにも好奇心が強いために自分が面白いと思ったことには全力をそそぐ。そのために、お金や出世に興味がないし、それらを捨てていく潔さがあった。そのくせ必用とあらば最短時間で、各種の資格をとっていった。趣味で出版社も立ち上げ事業化もしたし、大手IT会社の代理店もやっていた。『風のたより』という同人誌も総計200号ちかく発行しているし、1000以上の山にも登っている。文章も多く書いていて某出版社からライターのスカウトも受けていた。おまけにピアノが弾けてトロンボーンもやっていた。もちろん絶対音感もある。体力も精神力もすごくて、マラソンと水泳にいたってはプロ並みだった。
それほどの能力がありながらそれらの力を出世のために使ったことは無かった。「へたに能力を見せると使われてしまうから」と笑って語っていた。
そんな土井健次ではあるが当然のことながら欠点もあった。それは、私にも、私の息子にも共通する欠点で、彼には学習障害の臭いがあった。と言っても正真正銘の学習障害ではなく、そのような臭いがあったということである。
天才・土井健次の能力は、バランスを欠いていた。確かに、ある部分では天才ではあったが、別の一部分が、それに追いついてなかった。そのせいで時々、人を怒らせた。だから私は、何度も何度もハラハラした。うちの宿の御客様を怒らせることが多かったからだ。
誤解の無いように言っておくが、彼は人徳者である。彼を慕う人は多いし、女にもモテる。性格は優しさの塊であるし、子煩悩で愛妻家でもある。困った人もほってはおけない。そのうえ天才なのだが、思い込みが激しく一途な上に頑固者だった。一般的に長所は欠点であると言うが、それもドがすぎると人を怒らせることがある。
例えば健康に関して例をあげる。かれは思い込みが激しく、絶対にコロナワクチンを打とうとしなかった。一度、反ワクチン派の言説に影響されると、絶対にワクチンを打たず、私のように何度もワクチンを打とうとする人に、データーを示して危険性を訴えるが、余計なお世話であろう。
しかし彼にしてみれば、親切のつもりである。その余計な親切が、時と場合によっては迷惑になるのだが、普通の人なら、そういう迷惑をしないように心がけるはずなのだが、土井健次には、そのへんの気転がきかないのだ。そして頑固だったりする。
頑固と言えば、彼が酔っ払って失敗したことがあった。その結果、彼は禁酒を宣言した。そして本当に酒を飲まなくなった。あの酒好きな土井健次が、1年間にわたって一滴も飲まなかったのだ。死ぬ直前には、アル中ではないかという疑惑さえあった、あの大ウワバミの土井健次が、一滴の酒も飲まなかった。若かった頃の私たちは、何かある度に飲み会を開いたものだったが、土井健次は旅先でも居酒屋でも一滴も飲まなかった。それがあまりにも厳格だったために
「どうして飲まないんだ?」
みんなが心配するようになり、しまいにはほとんどの者がキレだすようになったが、彼は頑固にも飲まなかった。結局、最後には禁酒を終了させるわけだが、その切っ掛けについては、ここには書かない。
そういう頑固さは、勉強や仕事の面で大いに役だったと思う。一旦彼が何かをやり遂げようとした時、彼は頑固さを持って必ずやり遂げた。
仕事や勉強だけではない。
例えば ダイエットを決意すると目標体重になるまで極限まで努力した。そして3ヶ月という期限を決めていれば必ず3ヶ月以内にダイエットを完成させた。三日坊主になるとか、決意だけで終わるということは絶対なかった。そういう姿を常日頃から見ていた私は彼に対して
「お前はどうしてそんなキャラクターなんだ?」
と聞いたことがある。彼はじっと考えて答えなかった。そして私が質問をしたことを忘れてしまった3日後ぐらいになって、突然答えてくれた。
「あの時の質問だけれど、多分、家庭環境の影響があるかもしれない」
「どういうこと?」
「土井家では口だけで行動しないことを馬鹿にする風習があるんだよね」
「それで土井君はやると決めたら、とことんやっちまうキャラクターになっちゃったのか?」
「そうかもしれない」
彼はそう答えたけれど私はその回答を信じてなかった。私は、土井君に対して学習障害の疑いを持っていたからだ。もちろん彼が学習障害だったかどうかは今となっては知るよしもない。単なる性格の問題だったのかもしれない。もしそうだとしたら、かなり頑固な人間だったとも言える。その頑固さについてもう1つ例を挙げてみよう。
彼は大学を卒業すると東急車両という会社に入社した。それを聞いた私は驚いた。東急車両といえば、海軍航空技術廠を引き継いだ会社でミリタリーオタクにとって聖地ともいえる有名なところだった。ちなみに彼は旧海軍士官学校であった海城高校の出身でもあった。海城高校といえば偏差値70近い超進学校であるが、単なる進学校ではなく海軍の伝統を受けついだ学校で、ガンガンつめこみ学習させたうえに、運動もスパルタ式という、いわゆる海軍式教育で有名なところだった。お世辞にも天才型の土井健次にあう学校では無かった。
だから土井健次は、この学校で落ちこぼれたと言って笑っていたが、それは納得できる。土井健次のような天才には、麻布高校のような自由な校風が合っている。彼には自由が必用だった。なのに彼は海軍航空技術廠を引き継いだ東急車輌に入ってしまった。
「だいじょうぶだろうか?」
と心配したものだったが、その心配は当たってしまった。と言っても会社で問題を起こしたわけでは無い。会社の寮で問題をおこしてしまった。
1992年当時、東急車輌は、旧海軍航空技術廠にあった。戦艦三笠が陳列してある横須賀にあったのだ。浦和にあった実家から遠かったために彼は、会社の寮に入った。そして寮の食堂が値段にあってないと思ったらしく、クレームを入れた。そのクレームを寮の食堂側が拒否した。すると土井健次は、寮費のうちの食費の支払いを拒否して自炊をはじめた。ボイコットである。
といっても寮に自炊設備は無い。当時は食堂もコンビニも近くに無かったので外食もできなかった。それがわかっていて寮側も強気だったのだろうが、そんなことでへこたれる土井健次ではない。登山用ストーブを使って朝晩自室で米を炊きはじめた。
「そんなめんどくさいこと止めたら?」
と私は何度も忠告したが、彼は頑固にやめなかった。せめて炊飯器を買ってはどうか?とアドバイスもしたが、それさえも拒否して、
「登山用ストーブを使って究極に美味い飯を炊く方法を研究するんだ」
と数年間その作業を嬉々と続けた。嬉々として自室の部屋でアウトドアでの米の炊き方を追求していった。
そのせいで登山する時は、かならず土井健次が御飯を炊いた。いつも美味しい御飯が我々に提供された。あれは全部、土井健次が作っていたのだ。どんな秘境の中でも、どんな嵐の中でも、どんなに疲れたときでも土井健次は美味しい御飯をたいた。みんな倒れていても一人コツコツと御飯を炊き、全員にそれを配り、食後の片付けも一人コツコツと行った。土井健次の頑固さによって、常に私たちは、美味しい御飯を食べられたのだが、その頑固さゆえに土井健次は会社の寮から追い出されてしまっていた。
頑固といっても、彼を知る人は信じないかもしれない。彼は、ひとあたりがよく優しく親切で気が付く人だからだ。いわゆる人格者と言ってもいい。彼に憧れる人は多かったし、本人は気が付いてなかったが女性にもモテた。味方にしたら、これほど頼もしい人間はないというくらいに親身になってくれた。しかし、いったん敵認定したらこれほど恐ろしい人間もなかった。手が付けられなかった。新型コロナワクチンを敵認定したら、それを徹底的に拒否するのだ。
彼の韓国嫌いは有名だが、最初から嫌いだったわけでは無く、最初は彼ほどの韓国好きは日本にはいないのではないかというくらいに彼は韓国が好きだった。学生時代から何度も韓国に旅行に行ってて、韓国の友人も多く、韓国にホームステイまでしていた。私と一緒に韓国旅行もした。
ただし天才だった土井健次は、短期間で韓国語を習得した。だから韓国語も話せるし、ハングルの読み書きもできる。すると嫌でも韓国の反日情報が入ってくる。言語ができるということは、不快な一次情報も目に入ってくるということでもある。最初から興味が無ければ、そんな情報は見向きもしないのだが、天才土井健次は、現地の一次情報を見る能力をみにつけてしまった。なので、どうしても嫌なところが目にはいってしまう。で、嫌韓になっていく。そこまではいい。問題は、いったん嫌韓になると何もかも全て拒否するようになることだ。あれほど大好きだったキムチもマッコリも二度と口にしなくなった。その嫌い方は、非常に徹底していた。
昔は、よく浅草のユースホステルに泊まったものだったが、そこには多くの韓国人が泊まりに来ていた。国家のトラブルともかく、日本に泊まりに来る韓国人は、非常に親日的でフレンドリーでチャーミングだった。あきらかに、こちらに近づきたいオーラをだしてきて、アッというまに仲良くなれるのだ。ようするに壁が無い。逆に言うと若い女の子でも、男のふところにグイグイ入ってくる。しかし、いったん嫌われると口もきかないし、怒りが激しい。そしてしつこく恨み続ける。それを私は何度も体験したが、これは土井健次のキャラに似ているなあと思っていた。
もう一つ頑固のエピソードを語るとしたら、キーボードだろう。彼は、音楽を愛した。そしてピアノとトロンボーンをやっていた。あの不器用な土井健次が、指先をつかうピアノの名人だった。
ただ、ピアノは持ち運べないので1メートル以上の長さのある巨大なキーボードをもって旅をした。そして、いろんなところでキーボードを弾いた。そして皆で歌った。年末年始になると全国のユースホステルを使って旅をしたものだったが、そのたびに巨大なキーボードを持ってでかけた。
正直言って邪魔だった。
みんなの迷惑だった。なので
「重いだろう」
「邪魔だろう」
と言って持ってこさせるのを止めさそうとしたが、無駄だった。彼は宿で、列車で、飛行機で、バスの中で、巨大なキーボードをかかえていた。邪魔だった。おまけに分厚い歌集まで何十冊も持参した。ユースホステルや旅先で出会った人と一緒に歌うためである。
「そんな馬鹿な?」
と思ったが、そんな馬鹿なことが次々と起こり始めた。
あれは正月に九州旅行していた時だった。私は熊本駅前で何となくラジオ体操をはじめていた。グルメ旅行で運動不足だったので何となくラジオ体操の真似事をしたのだった。すると土井健次は、サッとキーボードを取り出してラジオ体操の音楽をかなでてしまった。
「土井の奴、なにやってるんだろう?」
と不思議がっていると、まわりを歩いていた通勤途中の熊本のサラリーマンたちが、ぴたりと立ち止まって、私と一緒にラジオ体操をしだした。さっきまで駅前の雑踏を通過していたスーツ姿の見ず知らずのオッサンたちがピタリと立ち止まって、ラジオ体操に加わったのである。そして体操が終わると、熊本のサラリーマンたちは、サッと駅中に去って行った。
翌日、天草の観光地に行ったが、そこでも土井健次は、キーボードでラジオ体操の音楽をかなでた。しかたなく私がラジオ体操をすると、まわりにいた観光客もゲラゲラ笑いながらラジオ体操をはじめた。当時の熊本の人たちはノリがよかった。みんなでラジオ体操をやって楽しんだ。こうして九州のあちこちの観光地でラジオ体操大会が行われた。
柳川では川舟で観光した。相席に鹿児島からきた若い女子学生がいた。私は
「鹿児島の人は、今でも◇◇でごわすって言うんですか?」
と質問したら
「そんなわけ無いですよ」
とムッと反論した。船内に冷たい空気が流れた。
(あちゃー、やっちまったか?)
と私が反省していると土井健次がキーボードを弾き始めた。武田鉄矢の『思えば遠くにきたもんだ』であった。そのメロディに私が、歌い出すと、ムッとしていた女の子たちも歌い出した。歌は、河をいきかう対向船まで届き、他の船人たちも一緒に歌い出した。船頭さんも歌い始めた。
宿では知り合った人たちとも一緒に歌を歌った。分厚い歌集を人数分くばってみんなで歌った。旅先で、なにかの募金活動や保護犬に関する活動している団体がいると、そっと彼らのバックでキーボードを弾いてBGMを流してもりあげてあげてたが、時々、それらの団体に怒られもした。
船旅でも、よく歌った。三月に、伊豆七島に旅したときは、船が島に到着する度に「贈る言葉」とか「切手の亡い贈り物」を歌った。三月の伊豆諸島には、東京に転勤(?)する学校の先生と、それを見送る島の生徒たちが桟橋で溢れていることが多い。その光景を見つけると土井健次は、さっそうとキーボードをとりだすのだ。そしてBGMを流して感動場面をもりあげたりするのだ。
キーボードは、山の中にも持って行った。私たちのやっていた登山は、山の頂上でおでんを作ったり鍋をつくって食べるスタイルである。もちろん米ももっていくし、二キロの巨大なハムとかも肉のかわりに持って行く。それだけでも重いのに二十リットルの水も持っていく。鍋やおでんに水は欠かせない。さらに日本酒ももっていく。それも紙パックではない、本物の一升瓶である。
登山家という人種は、少しでも荷物を軽くすることに命をかける。そのために何万もする高価なチタンの小型鍋を買ったりするのだが、若かった私たちには、そういうものには一切ふりむかず、重い厨房寸胴鍋を百リットルザックに入れた。日本酒も水筒に入れては情緒がないということで、純米吟醸「越乃寒梅」のラベルのついた一升瓶を持って登山した。このラベルのついた一升瓶で酒を飲むのが至高の喜びであると土井健次は言っていた。サプライズで大きなスイカを出してくる奴もいた。
「おまえはドラえもんのポケットをもっているのか?」
突っ込んだものだった。
当然のことながら重量が重くなる。しかも登山が初めてという若い女性を何十人も連れて行ったので、彼女たちの荷物や飲料水も持つ必用があったので、さらに重量が重くなった。私も、他の男たちも、何十キロの荷物を担ぐはめになった。
ここまではいい。
問題はこの後である。
これだけ荷物が重いにもかかわらず、土井健次はキーボードをもってくるのだ。しかも何十冊もの重い歌集とともに。わけがわからない。百歩譲って一升瓶は許したとしても、歌集もキーボードも何の役にたつのだろうか? しかも標高三千メートルの山で歌なんか大合唱したら、空気の薄さで高度障害か高山病になってしまう。そんな心配をよそに、土井健次たちはキャッキャと山に登る。そして標高三千メートルの山頂で歌いはじめ、踊り始めるのだ。そんな空気の薄いところで激しく歌って踊れば、当然のことながら息が切れて
「酸素をくれー」
と倒れる奴が続出する。すると密かに小型酸素ボンベを持ってきた奴がいて、空中にシューとまき散らした。
「馬鹿、それは口に入れるんだよ! 空中にまき散らすやつがあるか!」
みんな腹をかかえて爆笑し、その爆笑のために、ますます酸欠となってバタバタと倒れていった。
これも富士山とか槍ヶ岳ならわかる。そのレベルならキーボードを持っていくのも理解はできないが、不可能ではないとも思う。しかし剣が岳に持って行くという話を聞いたときは、さすがに引き留めた。
「おまえ死ぬ気か?」
と。しかし、頑固な彼はキーボードを背負って日本百名山で一番の難易度として知られる剣ヶ岳に登った。しかし、ジャンダルムと西穂高縦走のときにキーボードを持っていこうとしたときは、土下座して断った。知床山脈縦走の時も土下座して断った。
頑固といえば、彼が私の宿(北軽井沢ブルーベリーYGH)手伝っていた時のことを話したい。私は、彼に受付を御願いしたものだったが、時々、キレていた。御客様が駐車場のとめかたが気に入らなくて常に怒っていた。彼に言わせれば、マナーがなっていないということなのだが、そんなこと御客様にしてみたら知ったことでは無い。空いている場所があれば、そこに駐車するのが自然な行為である。しかし、乱雑に駐車されると、後から来る御客様が駐車するスペースが無くなってしまう。それで土井健次はキレてしまうのだ。
宿主としては、駐車場のことよりも別の事を優先する場合が多い。いかに御客様に快適に過ごして貰うかが一番の優先事項である。しかし、土井健次にとっては、目の前の駐車場問題が一番の問題になってしまう。たかが駐車場ごときのことでキレてしまうのだが、それでは宿主としては、たまったものではない。仕方が無いので、隣地を購入して駐車場を倍にした。土井健次に俯瞰で全体を見ることを要求しても無駄であることは、長い付き合いでわかっていたので、そういう部分はとっくに諦めていた。
天才の彼に、そんな些細な事を要求したくは無い。彼には、凡人にない才能があるからだ。彼に何かを御願いすると、アッという間に、その道のプロになってしまうのが土井健次である。ITでも、出版でも、どんな自然科学でも、何でも短期間にマスターして、それを完璧にこなしてしまう。だから野鳥・植物・樹木・天文・宇宙・地質・火山・・・・・何でも短期間にマスターして素晴らしいガイドとして大活躍した。
しかも老人から小さな子供まで、よく面倒をみた。接客やガイド術に関しても、プロが書いた著書を読み込んで自分なりにマスターした。そのせいか彼のガイドに参加した人たちは、彼の人柄とガイドの素晴らしさに感動した。そして沢山の礼状が届いた。それは彼の人柄もあっただろうが、彼なりの努力というか、その道を究める姿勢があったからこそだと思う。
そうなのだ。彼は、道を究める『求道者』でもあったのだ。俯瞰でものことを見ることは苦手でも、それぞれの道を究める『宮本武蔵』のような人間だったのだ。ただ、宮本武蔵と違うところは、剣一筋では無く、天才ゆえか何にでも手を出していたことである。
彼は、あらゆるビジネス書を読破し、大手IT会社と代理店契約し、いろいろなアプリの開発をし、マーケッティングから、経理・簿記までマスターし、個人事業主として税務署に登録し、各種の事業にものりだしていた。それは全て定年退職後に本格的にスタートさせる予定だった。しかし、定年まで10年という期間を残して彼は急死してしまった。
そんな彼に対して私は急に冷淡になったことがある。というか冷淡な態度を示すようになった。彼に二人の子供が生まれたからだ。私は
「もう宿には来るな」
「娘の面倒をみろ」
と突き放した。戸惑った彼は、うちの嫁さんと話しながら私の顔色をうかがった。しかし、私はあくまでも冷淡に接した。何か一つのことに夢中になりやすい彼のことだから、それが昂じて二人の娘を放置する可能性があったのだ。
実は私にも息子が生まれていた。私は子育てが大変なのを実感していた。なので土井健次をできるだけ家族のもとにやらないと、とんでもないことがおきる。そう思った。なので本人にしてみたら不服だったかもしれないが、ここはあえて青鬼になるべきと思った。彼には冷淡に接して、できるだけ家族のもとにいるよう仕向けた。
最初は、とまどっていたが、すぐに子煩悩な二人の娘の父親に変化した。
何十万もする最高級の国産ノートパソコンしか買わなかった彼は、中古パソコンしか買わなくなった。そのかわりに家族旅行ばかりするようになった。今まで持っていた、こだわりは全て捨てて、娘たちのために動くようになっていた。そして娘たちに大甘だった。きっと娘の結婚式では大泣きするんだろうなあ・・・・と思えるほど、娘たちを可愛がっていた。
そんな彼が急死した。
高血圧だった。
死ぬ直前の彼は、現代医療にかなりネガティブになっていた。新型コロナワクチンも打ってなかったし、できるだけ薬を使わずに健康でいようとしていた。それに対して私は何度も注意したが、もともと人の注意をきくような奴ではない。
天才・土井健次にとって、私のような凡才の言う健康論など、ちゃんちゃらおかしかったに違いない。私は政府の言うとおりにワクチンもうつし、村の健康診断も必ず受ける。医者の御高説もありがたく聴く平凡な人間である。だからまだ生きている。土井健次は、なまじ天才であるからこそ、いろいろな情報を得て研究し自分なりの結論を出したに違いない。
それが彼の寿命を縮めた可能性があるが、それはそれで良かったのだろう。彼が納得して行動した結果なのだから。というのも、キーボードを担いだまま山で死んでいた可能性だってあったのだ。たまたま運が良くて無事に下山していただけで、彼は常に生死ぎりぎりのところで生きていたのだ。偶然にも山では死ななかった。そして偶然にも高血圧で死んでしまった。ただそれだけのことなのだ。
思えば、彼の人生は、太く短いものであった。
今後の私は、御遺族を見守っていきたいと考えている。
合掌。
つづく
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