2005年10月07日

ショーハウス

ショーハウス(ショー礼拝堂)

 江戸時代の軽井沢一帯は、寒冷地帯であるため農作物には恵まれず、旅人が落とす路銀が唯一の収入源でした。しかし明治に入ると中仙道を歩く人はいなくなり、軽井沢は急にさびれていきます。寒冷地の軽井沢。高原野菜はまだ日本にはありませんでしたから、ろくに食べるものもない寒村でした。

そのうえ1884年(明治17年)、碓氷新道の開通により、宿場への人の流れは完全に絶たれてしまいました。しかし、この寂れた軽井沢が、イギリス人宣教師、アレキサンダー・クロフト・ショーの来訪によって盛り返すことになります。

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 明治19年、偶然、さびれた軽井沢へ通りかかったのが、カナダ生まれで英国国教会の宣教師、アレキサンダー・クロフト・ショーと友人の英語教師ジェームズ・ディクソンでした。彼らは、軽井沢の涼しい自然に祖国スコットランドの風景を思い出しました。彼は、この地を

「屋根のない病院」

と感動し、彼らは休業状態の旅籠『亀屋』を訪れて「一夏の間、借りたい」と申し出たのです。亀屋の主人・佐藤万平はこれを好機と捕らえ、外国人の生活習慣や彼らをもてなす技術を学ぶことにしました。そして明治27年(1894)に一部を洋風に改装して亀屋ホテルと名乗り、翌年、万平ホテルと改めます。

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 ところでアレキサンダー・クロフト・ショーは、よほど軽井沢を気に入ったらしく、明治21年に旧軽井沢の大塚山(だいづかやま)に小さな別荘を建てました。そして、友人の宣教師や日本の知識人たちにも勉強にもってこいの絶好の保養地であると紹介しました。その結果、外国人、財界人、文人、芸術家たちの別荘が増え、いくつかの教会も建ちました。

 当時の欧米人は、夏休みがあっても故郷への船旅は何ヶ月もかかってしまうので帰れなかったため、東京のうだるような暑さに耐え切れない欧米人にとって軽井沢は格好の避暑地となったわけです。1893年(明治26年)、碓氷新鉄道の開通で町はさらに発展、西洋文化の香り漂う高級別荘地へと生まれ変わりました。

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 また、欧米人が多く滞在するため、やがて、海外経験のある政財界人や貴族・皇族が避暑に来るようになり、そして作家・芸術家も別荘を持つようになり、「避暑地・軽井沢」のステータスが築かれていきました。例えば軽井沢のジャムやハムやソーセージ。または、ブランジェ浅野屋に代表される軽井沢のパン屋さん。これらは外国人が伝えた軽井沢の食文化のひとつでもあります。

(中山農園が一番古いジャム屋さんで、宣教師から教わった作り方で作った色々なジャムがあります。おすすめは「ペアジンジャージャム」。洋梨とショウガのジャムです)

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posted by マネージャー at 11:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 旧軽井沢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする