ごめんなさい!
今日、シルマン伝を発送しようと思ったのですが、
連休中ということもあって、あまりにも忙しいので
発送は明日(10月10日)にします。すいません。
早い人は、明後日に届くかと思いますし、
遅い人でも、13日頃には届くんじゃないかな?
ちなみに1冊の人は、冊子小包。
2冊の人は、エクスパック。
3冊以上の人は、冊子小包で送ります。
(本の重量は350グラムでした。けっこう分厚い)
2006年10月09日
2006年10月08日
シルマン伝事務局に届きました!
ただいま、シルマン伝事務局に届きました!
ご注文の方、お待たせしました。
明日にでも発送します!
ただ、特典付録が、まだ完成してないので、
特典付録は、間に合えば同封しますが、
間に合わなければ、後日、郵送させていただきます!
とりあえず、本体は、明日郵送しますので、読んでみてください。
歴史好きな方には、面白く読めると思います。
ご注文の方、お待たせしました。
明日にでも発送します!
ただ、特典付録が、まだ完成してないので、
特典付録は、間に合えば同封しますが、
間に合わなければ、後日、郵送させていただきます!
とりあえず、本体は、明日郵送しますので、読んでみてください。
歴史好きな方には、面白く読めると思います。
2006年10月06日
シルマン伝までの経緯5 完成
シルマン伝までの経緯5 完成
シルマンデーに間に合わない。何のために御客様を減らしてまで夏の忙しい合間に努力してきたのか? と一瞬落ち込んだ私ですが、シルマンデーが無理なら、日本ユースホステル協会の55周年記念を発売日にしようと思い直し、どうせなら千部くらい印刷し、300〜500冊くらいを全国の書店に配本できないものかと考えました。
とはいうももの、いくら金を積んでも300冊も配本してくれるものではありません。取り次ぎ業者が、本の内容を審査して、オーケーがでないかぎり無理なのだそうです。だから大金を支払って500冊を御願いしても、100冊しか配本されなかったということもよくあるそうです。
また、100冊配本されたとしても、店頭に100冊並ぶかどうかは、微妙なところです。
ダンボール箱から取り出されないまま返品されることも多いのだそうで、これは、本の委託販売制度と関係あります。
本の問屋さんは、売れる本と売れない本をセットで委託配本するわけですが、小売りである書店は、売れない本を箱から出さないまま返品してしまうのだそうです。
そう考えると、仮に『リヒャルト・シルマン伝』を全国の書店に配本してみたところで、あまり意味は無いのかなと思い、最初の計画では、配本予定は無かったのです。
しかし、委託配本は、初版の第1回きりです。これを逃すと二度と配本のチャンスが無いのです。
それを考えると、せっかく、リヒャルト・シルマンの名前を全国に知らしめるチャンスがあるにも関わらず、それを使わないというのは、みすみす広報のチャンスを失うようなものだと思いなおしました。
はたして、この配本が、どれだけユースホステルと、リヒャルト・シルマンの知名度をあげるかわかりませんが、これで少しでも、ユースホステルについて社会へのアピールになればと思いました。
ここで本音を言ってしまえば、書店で買われるより、事務局から直接買ってもらった方が、少しでも私たちの資金の回収につながります。しかし、それでは、シルマンを広報する意味が無いんですよね。やはり、本は書店に並んでほしいし、普通の人に買ってもらって読んで欲しいのです。たとえ、どんなに赤字になったとしてもです。
ちなみに日本ユースホステル運動55周年記念のイベントは、10月16日です。本は、15日までに全国の書店に配本され、早ければ15日、遅くとも16日に並ぶ手はずになっていますが、本当に並ぶかどうかは、そもそも著者が無名であり、リヒャルト・シルマンという人間も、日本では全く無名なので、全く期待できません。
それで、もし『リヒャルト・シルマン伝』に興味がある人がおられましたら、どうか書店の人に聞いてみてください。リヒャルト・シルマン伝があるかどうか質問してみてください。質問するだけなら、お金はかかりません。
もし、配本されていれば、箱から取り出して見せてくれるはずです。そして、パラパラっと立ち読みをして、興味がわきましたら買っていただけると嬉しいです。
最初から買うつもりのある方は、書店に注文してもよし、web書店で検索されて買うもよし、事務局への購入予約フォーマットから注文してもよし。どういった買い方でもよいと思います。
発売前に、手に入れたい方は、事務局に注文した方が、何日か早く手に入ると思います。事務局に本が届くのは、10月10日頃だと思いますので、その数日後には届くと思います。
最後に感想です。
本を書き、自分で出版してみて、世の中に、こんな大変なことはないと思いました。
私は、本を出している人をとても無条件に尊敬します。費用と手間を考えたら本を出すことは、絶対にわりにあいません。
特に学術書を出している人、
小松政夫じゃないが、
あんたは、偉い!
たとえ大学教授であろうと、
仕事でだしている人であっても、
趣味ででしている人でも、常人のなせる技ではないと思いました。
かくいう私も、シルマン伝を出すまでに百冊以上の参考文献を手に入れ、国会図書館でコピー(1ページ30円)しまくりましたが、資料代だけで50万はかかっています。肝心なドイツ語の資料は皆無なのにです。あったところで私にはドイツ語は読めないので、意味は無いのですが、本格的なシルマン伝を書こうと思ったら、ドイツ語を勉強した上に、あと100万円の資料代がかかったはずです。
これを学術書の印税で回収することは、絶対に不可能なはずですから、手間と労力を考えたら、どんな有名教授のネームバリューを使っても大赤字になったはずです。
ちなみに印税は、1割が相場で、良く売れている本でさえ、三千部をこえることはありません。計算すれば分かると思いますが、本を出すということは、金をドブに捨てる行為に等しいものです。それを自分で行ってみて今更ながら本を書き上げ、そして出版することの難しさを感じました。
シルマンデーに間に合わない。何のために御客様を減らしてまで夏の忙しい合間に努力してきたのか? と一瞬落ち込んだ私ですが、シルマンデーが無理なら、日本ユースホステル協会の55周年記念を発売日にしようと思い直し、どうせなら千部くらい印刷し、300〜500冊くらいを全国の書店に配本できないものかと考えました。
とはいうももの、いくら金を積んでも300冊も配本してくれるものではありません。取り次ぎ業者が、本の内容を審査して、オーケーがでないかぎり無理なのだそうです。だから大金を支払って500冊を御願いしても、100冊しか配本されなかったということもよくあるそうです。
また、100冊配本されたとしても、店頭に100冊並ぶかどうかは、微妙なところです。
ダンボール箱から取り出されないまま返品されることも多いのだそうで、これは、本の委託販売制度と関係あります。
本の問屋さんは、売れる本と売れない本をセットで委託配本するわけですが、小売りである書店は、売れない本を箱から出さないまま返品してしまうのだそうです。
そう考えると、仮に『リヒャルト・シルマン伝』を全国の書店に配本してみたところで、あまり意味は無いのかなと思い、最初の計画では、配本予定は無かったのです。
しかし、委託配本は、初版の第1回きりです。これを逃すと二度と配本のチャンスが無いのです。
それを考えると、せっかく、リヒャルト・シルマンの名前を全国に知らしめるチャンスがあるにも関わらず、それを使わないというのは、みすみす広報のチャンスを失うようなものだと思いなおしました。
はたして、この配本が、どれだけユースホステルと、リヒャルト・シルマンの知名度をあげるかわかりませんが、これで少しでも、ユースホステルについて社会へのアピールになればと思いました。
ここで本音を言ってしまえば、書店で買われるより、事務局から直接買ってもらった方が、少しでも私たちの資金の回収につながります。しかし、それでは、シルマンを広報する意味が無いんですよね。やはり、本は書店に並んでほしいし、普通の人に買ってもらって読んで欲しいのです。たとえ、どんなに赤字になったとしてもです。
ちなみに日本ユースホステル運動55周年記念のイベントは、10月16日です。本は、15日までに全国の書店に配本され、早ければ15日、遅くとも16日に並ぶ手はずになっていますが、本当に並ぶかどうかは、そもそも著者が無名であり、リヒャルト・シルマンという人間も、日本では全く無名なので、全く期待できません。
それで、もし『リヒャルト・シルマン伝』に興味がある人がおられましたら、どうか書店の人に聞いてみてください。リヒャルト・シルマン伝があるかどうか質問してみてください。質問するだけなら、お金はかかりません。
もし、配本されていれば、箱から取り出して見せてくれるはずです。そして、パラパラっと立ち読みをして、興味がわきましたら買っていただけると嬉しいです。
最初から買うつもりのある方は、書店に注文してもよし、web書店で検索されて買うもよし、事務局への購入予約フォーマットから注文してもよし。どういった買い方でもよいと思います。
発売前に、手に入れたい方は、事務局に注文した方が、何日か早く手に入ると思います。事務局に本が届くのは、10月10日頃だと思いますので、その数日後には届くと思います。
最後に感想です。
本を書き、自分で出版してみて、世の中に、こんな大変なことはないと思いました。
私は、本を出している人をとても無条件に尊敬します。費用と手間を考えたら本を出すことは、絶対にわりにあいません。
特に学術書を出している人、
小松政夫じゃないが、
あんたは、偉い!
たとえ大学教授であろうと、
仕事でだしている人であっても、
趣味ででしている人でも、常人のなせる技ではないと思いました。
かくいう私も、シルマン伝を出すまでに百冊以上の参考文献を手に入れ、国会図書館でコピー(1ページ30円)しまくりましたが、資料代だけで50万はかかっています。肝心なドイツ語の資料は皆無なのにです。あったところで私にはドイツ語は読めないので、意味は無いのですが、本格的なシルマン伝を書こうと思ったら、ドイツ語を勉強した上に、あと100万円の資料代がかかったはずです。
これを学術書の印税で回収することは、絶対に不可能なはずですから、手間と労力を考えたら、どんな有名教授のネームバリューを使っても大赤字になったはずです。
ちなみに印税は、1割が相場で、良く売れている本でさえ、三千部をこえることはありません。計算すれば分かると思いますが、本を出すということは、金をドブに捨てる行為に等しいものです。それを自分で行ってみて今更ながら本を書き上げ、そして出版することの難しさを感じました。
2006年10月05日
リヒャルト・シルマン
ドイツの名もない一人の小学校教師が、ユースホステルを提唱し、世界中にそのネットワークを広げる基礎を作りあげたことは、あまり知られていません。
リヒャルト・シルマン先生。
一九〇九年にユースホステル運動を提唱してから、一代にして世界中に、この運動を広げた人ですが、彼の生きた時代は、激動そのものでした。
まず、第一次大戦。
ユースホステル運動は中断し、多くの人々の命が奪われました。
そして敗戦。狂乱インフレ。全ての財産が一夜にして消滅。
その後の国家社会主義者(ナチス)による追放。
そして、第二次大戦と敗戦。
爆撃と戦闘でドイツは焦土となり世界から孤立。
ドイツユースホステル協会の国際ユースホステル連盟への復帰は却下され続けました。
しかし、そういう絶望的な状況下からもリヒャルト・シルマンは、何度も何度も不死鳥のようによみがえり、再起し、コツコツと世界中にユースホステルのネットワークを作りあげていきました。
リヒャルト・シルマン。
彼は、英雄でもなければ、天才でもありません。学校を中退したために学歴もなく、これといった才能もない平凡な小学校教師でした。それもドイツ語しか話せない田舎の貧乏教師でした。
その平凡な教師が、世界中にユースホステル運動を広めたと言ったら、あなたは信じますか? 外国語を話せなかった人間が、世界にまたがるユースホステル運動を、たった一代で展開していった人がいると言ったら、あなたは信じますか?
そんなリヒャルト・シルマン先生のホームーページ、
そして本が出版されます。
詳しくは、下記のサイトをどうぞ。
http://shiruman.net/
実は、リヒャルト・シルマン先生の伝記は、何十年も市販されていませんでした。ユースホステル全盛の時代でさえも、シルマン先生の伝記は、絶版となった国際ユースホステル協会のものだけでした。そのために、ユースホステル協会関係者でさえも、リヒャルト・シルマン先生のことを良く知らないままでした。
これではいけないと思った私は、リヒャルト・シルマン先生の業績を多くに伝えたいと思って仲間数人と一緒に自腹を切って自費出版を行いました。
予算は140万。百冊も売れれば良い方でしょうから、おそらく大赤字。いや、印刷した本全部売れても赤字です。ははははは。嘘だと思うなら出版社(印刷会社ではないよ出版社だよ)に見積もりとってみてください。きっと衝撃をうけるでしょう。
リヒャルト・シルマン先生。
一九〇九年にユースホステル運動を提唱してから、一代にして世界中に、この運動を広げた人ですが、彼の生きた時代は、激動そのものでした。
まず、第一次大戦。
ユースホステル運動は中断し、多くの人々の命が奪われました。
そして敗戦。狂乱インフレ。全ての財産が一夜にして消滅。
その後の国家社会主義者(ナチス)による追放。
そして、第二次大戦と敗戦。
爆撃と戦闘でドイツは焦土となり世界から孤立。
ドイツユースホステル協会の国際ユースホステル連盟への復帰は却下され続けました。
しかし、そういう絶望的な状況下からもリヒャルト・シルマンは、何度も何度も不死鳥のようによみがえり、再起し、コツコツと世界中にユースホステルのネットワークを作りあげていきました。
リヒャルト・シルマン。
彼は、英雄でもなければ、天才でもありません。学校を中退したために学歴もなく、これといった才能もない平凡な小学校教師でした。それもドイツ語しか話せない田舎の貧乏教師でした。
その平凡な教師が、世界中にユースホステル運動を広めたと言ったら、あなたは信じますか? 外国語を話せなかった人間が、世界にまたがるユースホステル運動を、たった一代で展開していった人がいると言ったら、あなたは信じますか?
そんなリヒャルト・シルマン先生のホームーページ、
そして本が出版されます。
詳しくは、下記のサイトをどうぞ。
http://shiruman.net/
実は、リヒャルト・シルマン先生の伝記は、何十年も市販されていませんでした。ユースホステル全盛の時代でさえも、シルマン先生の伝記は、絶版となった国際ユースホステル協会のものだけでした。そのために、ユースホステル協会関係者でさえも、リヒャルト・シルマン先生のことを良く知らないままでした。
これではいけないと思った私は、リヒャルト・シルマン先生の業績を多くに伝えたいと思って仲間数人と一緒に自腹を切って自費出版を行いました。
予算は140万。百冊も売れれば良い方でしょうから、おそらく大赤字。いや、印刷した本全部売れても赤字です。ははははは。嘘だと思うなら出版社(印刷会社ではないよ出版社だよ)に見積もりとってみてください。きっと衝撃をうけるでしょう。
2006年10月04日
シルマン伝までの経緯4 プロジェクトX
シルマン伝までの経緯4 プロジェクトX
自費出版にあたって二十社くらいの出版社に見積もりをとりました。2006年6月のことです。
時間があれば、持ち込み原稿として費用をかけずに出版社に出版してもらいたかったのですが、時間がありませんでした。どうしても、2006年8月26日のシルマンデーに間に合わせたかったからです。
2006年6月に決意したばかりで原稿はできてませんから、原稿を書くのに2週間かかったとして、原稿が完成するのが、6月末。それから出版社を回ったとして、うまくいって半年後、下手したら1年後になります。2006年8月26日のシルマンデーに間に合うわけがありません。これに間に合わせるには、自費出版でないと無理なのですね。
そこで二十社くらいの出版社に見積もりをとりましたが、分かったことは、自費出版であっても、必ず審査があるということです。つまり、いくら金を積んでも基準値に達してないものは、出版できないということでした。
それから費用の面でも多くの資金がいることがわかりました。私の原稿は、最初、350ページに達するものでしたから、見積もりをとると平均して200万〜300万という高額なものになりました。そのうえ大手出版社の場合、制作期間を三ヶ月以上要するところばかりでしたから、どこを選んでも8月26日のシルマンデーに間に合いませんでした。
そこで、最後の手段として古い友人の集まりである『風のたより』の仲間に声をかけ、彼らのノウハウを利用して8月26日のシルマンデーまでに本を作ることにしました。私をのぞく幸い4人が参加協力を申し出てくれました。
まず、350ページの原稿の内容を削ることから始めました。不要と思える箇所をどんどん削り、中身をどんどん薄くしました。文章も簡潔にし、要点を絞りました。
それでも、300ページ近く残っていたので、行組みを多くしました。一般的に本は、一行40文字×16行が基準となります。これを一行45文字×19行にしてページ数を減らし、読みにくくならないように、たくみに句読点や改行を工夫しました。空欄スペースも、どれが適切か、五十回近く印刷しては検討しなしました。
原稿は、文章の完成度より、読みやすさを優先しました。読者を高校生に想定し、難しい表現を避け、わかりやすい易しい言葉を使いました。「だ、である」調ではなく、「です、ます」調で文章を書き、なおかつ1ページでも減らすように簡潔にまとめました。ページが増えると、予算も増えるからです。そして、なんとか232ページまで減らすことに成功したのが、7月中旬。
シルマンデーまで、1ヶ月のタイムリミットが迫っていました。
その間、宿のことは全て家内にまかせっぱなし。私は、原稿書きに忙殺されホームーページの更新も、ツアーにも出かけず、北軽井沢ブルーベリーYGHの御客様をジャンジャン逃がしていました。開業以来最悪の営業数字を記録する中、もっと最悪なことに、夏のヘルパー(ボランティアスタッフ)が全くいなかったのでした。
いや、正確にいうと陳さんという台湾のヘルパー希望者が一人だけいましたが、外国の人を採用したことが無かったために私の不安は募りました。結局、この陳さんが、日本人以上に勤勉だったために、こちらは大助かりだったのですが、北軽井沢ブルーベリーYGHは、毎年4人以上のヘルパーさんが、必死になって働いて、ようやくまわるのに、これでは、どうにもなりません。私は、御客様を減らす決意をしました。
そして日本ユースホステル協会にメールでシルマン伝出版許可のメールをしたのが7月28日。タイムリミットまで、あと28日を切っていました。
日本には、言論の自由があります。誰がどんな本を出そうが自由なことは確かなはずですが、いくら個人の自由と言っても、リヒャルト・シルマンのことを書く以上は、日本ユースホステル協会のチェックが必要なのかなと思いなおしました。
そこで、日本ユースホステル協会にメールしたのですが、運悪く、担当の小俣事務局長が海外出張されていました。また、日本ユースホステル協会側も寝耳に水状態で、突然のことに驚かしてしまい、日本ユースホステル協会の皆様には、たいへん御迷惑をおかけいたしました。
しかし、この時点では、本を出版するといっても、四百冊くらいしか予定してなく、うち三百冊は寄付を目的にしており、こちら側は、それほど大げさなこととは考えていませんでした。とにかくリヒャルト・シルマン伝が市販されてないという最悪の状況を是正することが第一目標でしたから、
「百冊程度の流通在庫があればいいや」
「どうせ十冊くらいしか売れんだろう」
と安易に考えていました。
しかし、日本ユースホステル協会に出版の打診してみて、思ったより大事(おおごと)なのかもしれないと考え直し、そっそく原稿のゲラ刷りを郵送しましたら、多くの著名な方々から、もったいない御言葉をいただき、たいへん恐縮してしまいました。調子にのりやすい私は、よし、もっと、この本を良いものにして、この機会に、シルマンの偉業を世間にアピールしてやれと思い、仲間と相談しました。
こうして、コピー印刷(オンデマンド印刷)による限定四百冊発行の予定を中止し、オフセット印刷にわる本格的な出版を行うことを決意しました。こうして四十万の予算は、ふくれあがって百四十万の予算となってしまいました。
三十万かけて出版用専門フォントや出版デザインソフも購入するはめになりました。資金回収は、とっくにあきらめていましたが、集客減のうえに、増える出費には頭を悩ませられました。
しかし、ここで問題がおきました。日本ユースホステル協会とのやりとりが長引いてしまって2006年8月26日のシルマンデーに間に合わなくなってしまったのです。
自費出版にあたって二十社くらいの出版社に見積もりをとりました。2006年6月のことです。
時間があれば、持ち込み原稿として費用をかけずに出版社に出版してもらいたかったのですが、時間がありませんでした。どうしても、2006年8月26日のシルマンデーに間に合わせたかったからです。
2006年6月に決意したばかりで原稿はできてませんから、原稿を書くのに2週間かかったとして、原稿が完成するのが、6月末。それから出版社を回ったとして、うまくいって半年後、下手したら1年後になります。2006年8月26日のシルマンデーに間に合うわけがありません。これに間に合わせるには、自費出版でないと無理なのですね。
そこで二十社くらいの出版社に見積もりをとりましたが、分かったことは、自費出版であっても、必ず審査があるということです。つまり、いくら金を積んでも基準値に達してないものは、出版できないということでした。
それから費用の面でも多くの資金がいることがわかりました。私の原稿は、最初、350ページに達するものでしたから、見積もりをとると平均して200万〜300万という高額なものになりました。そのうえ大手出版社の場合、制作期間を三ヶ月以上要するところばかりでしたから、どこを選んでも8月26日のシルマンデーに間に合いませんでした。
そこで、最後の手段として古い友人の集まりである『風のたより』の仲間に声をかけ、彼らのノウハウを利用して8月26日のシルマンデーまでに本を作ることにしました。私をのぞく幸い4人が参加協力を申し出てくれました。
まず、350ページの原稿の内容を削ることから始めました。不要と思える箇所をどんどん削り、中身をどんどん薄くしました。文章も簡潔にし、要点を絞りました。
それでも、300ページ近く残っていたので、行組みを多くしました。一般的に本は、一行40文字×16行が基準となります。これを一行45文字×19行にしてページ数を減らし、読みにくくならないように、たくみに句読点や改行を工夫しました。空欄スペースも、どれが適切か、五十回近く印刷しては検討しなしました。
原稿は、文章の完成度より、読みやすさを優先しました。読者を高校生に想定し、難しい表現を避け、わかりやすい易しい言葉を使いました。「だ、である」調ではなく、「です、ます」調で文章を書き、なおかつ1ページでも減らすように簡潔にまとめました。ページが増えると、予算も増えるからです。そして、なんとか232ページまで減らすことに成功したのが、7月中旬。
シルマンデーまで、1ヶ月のタイムリミットが迫っていました。
その間、宿のことは全て家内にまかせっぱなし。私は、原稿書きに忙殺されホームーページの更新も、ツアーにも出かけず、北軽井沢ブルーベリーYGHの御客様をジャンジャン逃がしていました。開業以来最悪の営業数字を記録する中、もっと最悪なことに、夏のヘルパー(ボランティアスタッフ)が全くいなかったのでした。
いや、正確にいうと陳さんという台湾のヘルパー希望者が一人だけいましたが、外国の人を採用したことが無かったために私の不安は募りました。結局、この陳さんが、日本人以上に勤勉だったために、こちらは大助かりだったのですが、北軽井沢ブルーベリーYGHは、毎年4人以上のヘルパーさんが、必死になって働いて、ようやくまわるのに、これでは、どうにもなりません。私は、御客様を減らす決意をしました。
そして日本ユースホステル協会にメールでシルマン伝出版許可のメールをしたのが7月28日。タイムリミットまで、あと28日を切っていました。
日本には、言論の自由があります。誰がどんな本を出そうが自由なことは確かなはずですが、いくら個人の自由と言っても、リヒャルト・シルマンのことを書く以上は、日本ユースホステル協会のチェックが必要なのかなと思いなおしました。
そこで、日本ユースホステル協会にメールしたのですが、運悪く、担当の小俣事務局長が海外出張されていました。また、日本ユースホステル協会側も寝耳に水状態で、突然のことに驚かしてしまい、日本ユースホステル協会の皆様には、たいへん御迷惑をおかけいたしました。
しかし、この時点では、本を出版するといっても、四百冊くらいしか予定してなく、うち三百冊は寄付を目的にしており、こちら側は、それほど大げさなこととは考えていませんでした。とにかくリヒャルト・シルマン伝が市販されてないという最悪の状況を是正することが第一目標でしたから、
「百冊程度の流通在庫があればいいや」
「どうせ十冊くらいしか売れんだろう」
と安易に考えていました。
しかし、日本ユースホステル協会に出版の打診してみて、思ったより大事(おおごと)なのかもしれないと考え直し、そっそく原稿のゲラ刷りを郵送しましたら、多くの著名な方々から、もったいない御言葉をいただき、たいへん恐縮してしまいました。調子にのりやすい私は、よし、もっと、この本を良いものにして、この機会に、シルマンの偉業を世間にアピールしてやれと思い、仲間と相談しました。
こうして、コピー印刷(オンデマンド印刷)による限定四百冊発行の予定を中止し、オフセット印刷にわる本格的な出版を行うことを決意しました。こうして四十万の予算は、ふくれあがって百四十万の予算となってしまいました。
三十万かけて出版用専門フォントや出版デザインソフも購入するはめになりました。資金回収は、とっくにあきらめていましたが、集客減のうえに、増える出費には頭を悩ませられました。
しかし、ここで問題がおきました。日本ユースホステル協会とのやりとりが長引いてしまって2006年8月26日のシルマンデーに間に合わなくなってしまったのです。
2006年10月03日
シルマン伝までの経緯3 失敗した連載
シルマン伝までの経緯3 失敗した連載
リヒャルト・シルマンについての調査結果は、季刊 『風のたより』という同人誌に連載しました。連載初期は、簡単な伝記物語を数回ほどで終わる予定でした。
ところが連載がすすみ、シルマンを調査していきますと、『風のたより』に連載したシルマン伝は、致命的な欠陥を持っていることに気がつきました。それは、私自身がドイツのことをよく知らなかったために多くの勘違いをしてしまったことに原因があります。
『風のたより』に連載されたシルマン伝は、国際ユースホステル協会が一九六三年に出版した『ユースホステルの祖父リヒャルト・シルマン』を基礎資料とし、ドイツ史を調べたことを味付けした連載でしたが、掘り下げて調べていくうちに、どうしても分からなくなってしまったのです。
例えば、ヒトラーの登場。何か突然あらわれた感じがするのです。どうして登場したのか、どんなに調べても、さっぱり分かりません。しかし、古本屋で見つけた
『シャハト伝(フランツ・ロイテル著/千倉書房/昭和十三年発行)』
を読むことによって、目から鱗が落ちました。
シャハト博士は、ナチス政権において、経済成長を推進したことで有名な人ですが、彼の業績よりも、ドイツの通貨問題・賠償金問題・外債問題を通じてヨーロッパがどのような歴史に進んだかということの方に目がいきました。そして
「ああ、こうやってヒトラーが現れたのか」
と分かりかけてきました。そして、いろいろな手がかりが掴めてきました。ヒトラーを支持する者は、どこから現れてきたとか、反抗したのは何者だったのかとかです。
例えば、最もヒトラーを支持し、ユダヤを迫害したのは、ライン地方の人々であり、逆に最もヒトラーに反抗したのもライン地方の人々でした。では、シルマンの生まれたプロイセンではどうであったか?と言いますと、その全く逆です。迎合もしなかったし反逆もしなかった。ユダヤへの迫害も少なかった。それは統計を見ると一発でわかります。焼き討ちされたユダヤ寺院の数を地域別に調べると一目瞭然なのです。
こうなると
「シルマンの生まれ育ったプロイセンとは、どんなところか?」
という疑問がわいてきます。
私は今まで漠然と「プロイセンは軍国主義の国=プロイセン性悪説」をイメージしていましたが、ナチスに焼き討ちされたユダヤ寺院の数を地域別に調べてみると、そんな単純なものではないことに気づき、もう一度プロイセンを一から洗い直してみると、今まで持っていたプロイセンのイメージがガラガラと崩れてしまいました。
しかし、これは無理のないことだったと思います。プロイセン性悪説は、司馬遼太郎をはじめとする日本の歴史小説の通説でしたし、あの西ドイツでさえ、戦後まもなくの間、第二次大戦の原因をプロイセンになすりつけていたからです。しかし、プロイセンに関する専門書をよく読むと、それは冤罪であることに気がつきます。
その結果、『風のたより』のシルマン伝の構成を大幅に変更せざるをえなくなりました。そして連載にドイツ史を大幅に導入しました。第一次大戦についても大きくふれてみました。
しかし、すでに書いてしまった連載部分をどうするかが問題でした。どのように継ぎ接ぎすれば良いのだろうかと真剣に悩みましたが、前提が変わった以上、いろいろ工夫してみたのですが、どうしても書き換えは不可能でした。シルマン伝の連載した時のテーマと、違うテーマになってしまっているからです。
私は、『風のたより』に連載を始めたときに、漠然とドイツ統一からワンダーフォーゲル運動が生まれ、そこからユースホステル運動が生まれたと思っていました。ところが詳しく調べていきますと、ワンダーフォーゲル運動とユースホステル運動は、それぞれ別のコンセプトから生まれていました。
また、ユースホステル運動には、シルマンの個性が大きく影響しており、その前提としてプロイセン地方の文化風習が欠かせないこともわかりました。その結果『風のたより』のシルマン伝を全て書き直さない限り、解決がつかないという結論に達しました。
「よし連載を停止し、シルマン伝を自費出版しよう」
私は、シルマン伝を一から全部書き直して自費出版する決意をしました。2006年は、日本におけるユースホステル運動55周年。リヒャルト・シルマン御逝去から45周年。この記念すべき時を前にして、リヒャルト・シルマン伝を自費出版することになりました。
本の内容は、『風のたより』に連載されたものと全く別物になっています。違う視点で書き直してあります。そのさいに参考として
『若き教養市民層とナチズム(田村英子)』
『ドイツ青年運動(ウォルター・ラカー)』
『ワンダーフォーゲル入門(大島鎌吉)』
などの資料を特に重視してあります。テーマも内容も大幅に変えました。ユースホステル運動は、ワンダーフォーゲル運動の延長ではなく、一種の国民運動と捉えなおしました。
しかも、その国民運動はナチスに強奪され利用された悲劇が、新しいシルマン伝を書く上でのテーマになると思いました。
逆に言うと、ナチスが何故、あれほどドイツ国民に熱狂的に支持されたかも、今の私には、おぼろげながらに理解できます。ナチスは、シルマンの考えたユースホステル運動のノウハウをたくみに盗み取って、自分たちの政権維持のために利用し、シルマンを追い払ったからです。
リヒャルト・シルマンについての調査結果は、季刊 『風のたより』という同人誌に連載しました。連載初期は、簡単な伝記物語を数回ほどで終わる予定でした。
ところが連載がすすみ、シルマンを調査していきますと、『風のたより』に連載したシルマン伝は、致命的な欠陥を持っていることに気がつきました。それは、私自身がドイツのことをよく知らなかったために多くの勘違いをしてしまったことに原因があります。
『風のたより』に連載されたシルマン伝は、国際ユースホステル協会が一九六三年に出版した『ユースホステルの祖父リヒャルト・シルマン』を基礎資料とし、ドイツ史を調べたことを味付けした連載でしたが、掘り下げて調べていくうちに、どうしても分からなくなってしまったのです。
例えば、ヒトラーの登場。何か突然あらわれた感じがするのです。どうして登場したのか、どんなに調べても、さっぱり分かりません。しかし、古本屋で見つけた
『シャハト伝(フランツ・ロイテル著/千倉書房/昭和十三年発行)』
を読むことによって、目から鱗が落ちました。
シャハト博士は、ナチス政権において、経済成長を推進したことで有名な人ですが、彼の業績よりも、ドイツの通貨問題・賠償金問題・外債問題を通じてヨーロッパがどのような歴史に進んだかということの方に目がいきました。そして
「ああ、こうやってヒトラーが現れたのか」
と分かりかけてきました。そして、いろいろな手がかりが掴めてきました。ヒトラーを支持する者は、どこから現れてきたとか、反抗したのは何者だったのかとかです。
例えば、最もヒトラーを支持し、ユダヤを迫害したのは、ライン地方の人々であり、逆に最もヒトラーに反抗したのもライン地方の人々でした。では、シルマンの生まれたプロイセンではどうであったか?と言いますと、その全く逆です。迎合もしなかったし反逆もしなかった。ユダヤへの迫害も少なかった。それは統計を見ると一発でわかります。焼き討ちされたユダヤ寺院の数を地域別に調べると一目瞭然なのです。
こうなると
「シルマンの生まれ育ったプロイセンとは、どんなところか?」
という疑問がわいてきます。
私は今まで漠然と「プロイセンは軍国主義の国=プロイセン性悪説」をイメージしていましたが、ナチスに焼き討ちされたユダヤ寺院の数を地域別に調べてみると、そんな単純なものではないことに気づき、もう一度プロイセンを一から洗い直してみると、今まで持っていたプロイセンのイメージがガラガラと崩れてしまいました。
しかし、これは無理のないことだったと思います。プロイセン性悪説は、司馬遼太郎をはじめとする日本の歴史小説の通説でしたし、あの西ドイツでさえ、戦後まもなくの間、第二次大戦の原因をプロイセンになすりつけていたからです。しかし、プロイセンに関する専門書をよく読むと、それは冤罪であることに気がつきます。
その結果、『風のたより』のシルマン伝の構成を大幅に変更せざるをえなくなりました。そして連載にドイツ史を大幅に導入しました。第一次大戦についても大きくふれてみました。
しかし、すでに書いてしまった連載部分をどうするかが問題でした。どのように継ぎ接ぎすれば良いのだろうかと真剣に悩みましたが、前提が変わった以上、いろいろ工夫してみたのですが、どうしても書き換えは不可能でした。シルマン伝の連載した時のテーマと、違うテーマになってしまっているからです。
私は、『風のたより』に連載を始めたときに、漠然とドイツ統一からワンダーフォーゲル運動が生まれ、そこからユースホステル運動が生まれたと思っていました。ところが詳しく調べていきますと、ワンダーフォーゲル運動とユースホステル運動は、それぞれ別のコンセプトから生まれていました。
また、ユースホステル運動には、シルマンの個性が大きく影響しており、その前提としてプロイセン地方の文化風習が欠かせないこともわかりました。その結果『風のたより』のシルマン伝を全て書き直さない限り、解決がつかないという結論に達しました。
「よし連載を停止し、シルマン伝を自費出版しよう」
私は、シルマン伝を一から全部書き直して自費出版する決意をしました。2006年は、日本におけるユースホステル運動55周年。リヒャルト・シルマン御逝去から45周年。この記念すべき時を前にして、リヒャルト・シルマン伝を自費出版することになりました。
本の内容は、『風のたより』に連載されたものと全く別物になっています。違う視点で書き直してあります。そのさいに参考として
『若き教養市民層とナチズム(田村英子)』
『ドイツ青年運動(ウォルター・ラカー)』
『ワンダーフォーゲル入門(大島鎌吉)』
などの資料を特に重視してあります。テーマも内容も大幅に変えました。ユースホステル運動は、ワンダーフォーゲル運動の延長ではなく、一種の国民運動と捉えなおしました。
しかも、その国民運動はナチスに強奪され利用された悲劇が、新しいシルマン伝を書く上でのテーマになると思いました。
逆に言うと、ナチスが何故、あれほどドイツ国民に熱狂的に支持されたかも、今の私には、おぼろげながらに理解できます。ナチスは、シルマンの考えたユースホステル運動のノウハウをたくみに盗み取って、自分たちの政権維持のために利用し、シルマンを追い払ったからです。
2006年10月02日
シルマン伝までの経緯2 難航する調査
シルマン伝までの経緯2 難航する調査
私は、日本ユースホステル協会の事務所に飛び込み、日本ユースホステル協会にある資料をかたっぱしから借りてコピーしました。また買えるものは全部買いました。
『日本ユースホステル運動五十年史』
を編纂した磯野氏にも、お話を伺いました。
また、日本ユースホステル協会の事務局の小俣さんに一九六三年に協会が出版した『ユースホステルの祖父 リヒャルト・シルマン』をホームーページなどに公開して良いかと打診したところ、営利活動でなければかまわないと、好意的な御返事をいただきました。この方もシルマン伝の必要性を感じているのかと思いました。
さっそく自宅に帰って『ユースホステルの祖父 リヒャルト・シルマン』テキスト文字に変換し、ホームーページに公開しようと思ってみたら、ヨーロッパの歴史的な知識が不足している日本人には、理解しにくい部分があることに気がつき、その作業を中止しました。
この本を日本で出版しても良いのだろうか?
という素朴な疑問が湧いてきたのです。
この本の著者は、リヒャルト・シルマンについて、ある種の距離を置いているなという雰囲気を漂わせていました。それからドイツ史に対するある種の偏見があるというか、イギリス的な見方があるというか、シルマンの業績について、ドイツ史的な視点立って書かれていないのが、ものすごく気になりました。
つまり、イギリス人のフィルターがかかっているのです。
それは、ドイツ史に無知な私にも充分に察知できました。
それから、この本には、日付などの間違いがあったり、著者または訳者の勘違いと思われるところもありました。
例えば、昭和19年5月にシルマンたちがアルテナ城に結集したのが、ノルマンディー上陸1ヶ月後と書いてありましたが、1ヶ月前の間違い(または誤訳)であることは、多少戦史を知っている者なら誰にでもわかることですが、これを復刻出版したばあい、間違いを直して復刻すべきか、それとも、そのまま出版して、注釈に間違いであることを正すのか、迷いました。
前者なら資料の改ざんになるし、
後者の場合、読者のポテンシャルに水を差します。
他にもモンロー・スミスとシルマンが出会った年月を数年も間違えていたり、ドイツの歴史的事情を無視して評価を書いたり、クリスマス休暇事件の背景を無視していたり、プロイセンについてふれてなかったり、ドイツの教育システムについて、最低限のことを抑えてないことに不満がありました。
そこで、復刻出版を中止し、シルマンについて、もう一度、自分で調べ直すことにしました。しかし、これが、ものすごく難航しました。というのもシルマンに関して日本語に翻訳された資料が極端に少なかったからであり、私自身が、ドイツ語も英語もできなかったからです。
例えば、シルマンの生まれたハイリゲンバイル郡のグルネンフェルトと言っても、さっぱり分かりません。地図をあたってみても場所が特定できないのです。というのも、その土地は、東プロイセンからポーランド領になっており、現在はポーランド名である Gronowko に変更されているからです。
こんなことも語学ができないために調べ上げるのに何日もかかりました。ようやく位置を確認し、やっとシルマンの生まれた土地が、内陸なのか、海のそばなのか、平均気温は何度なのかということが分かりました。
それからシルマンが生きた時代のプロイセンの文化や民俗、そして教育制度も、ある程度理解するまで時間がかかりました。
とにかく資料がありませんでした。最初は、あたりをつけてインターネット書店で購入しましたが、これでは駄目だと観念して、北軽井沢から東京に上京し、財布と相談しながらかたっぱしから買い集めました。絶版になった本は古本屋にたのむか、国会図書館に日参してコピーをとり続けました。
インターネットによる調査も難航しました。ドイツの人名・地名は、マイナーすぎて検索に出てきません。時間がとれたら私が、ドイツ関連の資料を整理してホームーページに公開したいと思ったくらいです。幸いなことに私は昔、ドイツを旅したことがありましたので、その時の記憶だけがたよりでした。
私は、日本ユースホステル協会の事務所に飛び込み、日本ユースホステル協会にある資料をかたっぱしから借りてコピーしました。また買えるものは全部買いました。
『日本ユースホステル運動五十年史』
を編纂した磯野氏にも、お話を伺いました。
また、日本ユースホステル協会の事務局の小俣さんに一九六三年に協会が出版した『ユースホステルの祖父 リヒャルト・シルマン』をホームーページなどに公開して良いかと打診したところ、営利活動でなければかまわないと、好意的な御返事をいただきました。この方もシルマン伝の必要性を感じているのかと思いました。
さっそく自宅に帰って『ユースホステルの祖父 リヒャルト・シルマン』テキスト文字に変換し、ホームーページに公開しようと思ってみたら、ヨーロッパの歴史的な知識が不足している日本人には、理解しにくい部分があることに気がつき、その作業を中止しました。
この本を日本で出版しても良いのだろうか?
という素朴な疑問が湧いてきたのです。
この本の著者は、リヒャルト・シルマンについて、ある種の距離を置いているなという雰囲気を漂わせていました。それからドイツ史に対するある種の偏見があるというか、イギリス的な見方があるというか、シルマンの業績について、ドイツ史的な視点立って書かれていないのが、ものすごく気になりました。
つまり、イギリス人のフィルターがかかっているのです。
それは、ドイツ史に無知な私にも充分に察知できました。
それから、この本には、日付などの間違いがあったり、著者または訳者の勘違いと思われるところもありました。
例えば、昭和19年5月にシルマンたちがアルテナ城に結集したのが、ノルマンディー上陸1ヶ月後と書いてありましたが、1ヶ月前の間違い(または誤訳)であることは、多少戦史を知っている者なら誰にでもわかることですが、これを復刻出版したばあい、間違いを直して復刻すべきか、それとも、そのまま出版して、注釈に間違いであることを正すのか、迷いました。
前者なら資料の改ざんになるし、
後者の場合、読者のポテンシャルに水を差します。
他にもモンロー・スミスとシルマンが出会った年月を数年も間違えていたり、ドイツの歴史的事情を無視して評価を書いたり、クリスマス休暇事件の背景を無視していたり、プロイセンについてふれてなかったり、ドイツの教育システムについて、最低限のことを抑えてないことに不満がありました。
そこで、復刻出版を中止し、シルマンについて、もう一度、自分で調べ直すことにしました。しかし、これが、ものすごく難航しました。というのもシルマンに関して日本語に翻訳された資料が極端に少なかったからであり、私自身が、ドイツ語も英語もできなかったからです。
例えば、シルマンの生まれたハイリゲンバイル郡のグルネンフェルトと言っても、さっぱり分かりません。地図をあたってみても場所が特定できないのです。というのも、その土地は、東プロイセンからポーランド領になっており、現在はポーランド名である Gronowko に変更されているからです。
こんなことも語学ができないために調べ上げるのに何日もかかりました。ようやく位置を確認し、やっとシルマンの生まれた土地が、内陸なのか、海のそばなのか、平均気温は何度なのかということが分かりました。
それからシルマンが生きた時代のプロイセンの文化や民俗、そして教育制度も、ある程度理解するまで時間がかかりました。
とにかく資料がありませんでした。最初は、あたりをつけてインターネット書店で購入しましたが、これでは駄目だと観念して、北軽井沢から東京に上京し、財布と相談しながらかたっぱしから買い集めました。絶版になった本は古本屋にたのむか、国会図書館に日参してコピーをとり続けました。
インターネットによる調査も難航しました。ドイツの人名・地名は、マイナーすぎて検索に出てきません。時間がとれたら私が、ドイツ関連の資料を整理してホームーページに公開したいと思ったくらいです。幸いなことに私は昔、ドイツを旅したことがありましたので、その時の記憶だけがたよりでした。
2006年10月01日
シルマン伝までの経緯1 伝記が無い?
シルマン伝までの経緯1 伝記が無い?
出版までの経緯を述べるのは、簡単ではありません。しかし、一部のユースホステル関係者、およびユースホステルマネージャーには、5年前からの周知のことであったと思います。
そうです。
あれは5年前のことです。
私が北軽井沢ブルーベリーYGHを開業した年は、日本ユースホステル協会五十周年記念の年でした。そして、東京の国立オリンピック記念青少年総合センターでラリーが開催されていました。
ユースホステルの経営者は、ラリーへの参加義務がありました。私は、ユースホステル運動の研究部会に参加しました。その部会は、上田まほろばユースホステルのマネージャーである斉藤さんと五十年史編集委員の磯野さんが中心になってやっておられました。
そこには、今回、シルマン出版を応援してくれている、遠野ユースホステルのマネージャーや、トイピルカ北帯広ユースホステルのマネージャーさんも一緒に議論されておりました。お二方は、覚えておられるでしょうか?
議長は、今回のシルマン伝の出版において大変御世話になりました、日本ユースホステル協会の五十年史編集委員の磯野さんでした。ところが、その部会で磯野さんが、
「日本にはユースホステル運動を提唱したリヒャルト・シルマンの伝記が売られていません」
とおっしゃいました。正確に言えば、一九六三年に日本ユースホステル協会が出版した『ユースホステルの祖父 リヒャルト・シルマン』だけで、それも日本ユースホステル協会に数冊残っているだけだと聞きました。正直申しますと、その時の私は、
『リヒャルト・シルマンって、いったい誰よ?』
とシルマンについて全くもって無知だったのですが、それはともかく、
『仮にも世界の80ヶ国に約5500ヶ所の施設がある世界最大の宿泊ネットワークを作ったユースホステル運動の創始者の伝記が無い』
という状態が、本当に、ありえるんだろうかと思いました。落ちぶれつつあるとはいえ、2001年当時国内に13万の会員があり、国内に300以上の施設があるのです。その創業者の伝記がないと聞いて驚くなという方が無理です。
ショックを受けた私は、磯野さんに、自腹を切って一九六三年に日本ユースホステル協会が出版した『ユースホステルの祖父 リヒャルト・シルマン』を復刻出版したい。それをユースホステル協会に寄付したいと申し出ました。
すると磯野さんは、あとで事務所にいらっしゃいとおっしゃいました。
出版までの経緯を述べるのは、簡単ではありません。しかし、一部のユースホステル関係者、およびユースホステルマネージャーには、5年前からの周知のことであったと思います。
そうです。
あれは5年前のことです。
私が北軽井沢ブルーベリーYGHを開業した年は、日本ユースホステル協会五十周年記念の年でした。そして、東京の国立オリンピック記念青少年総合センターでラリーが開催されていました。
ユースホステルの経営者は、ラリーへの参加義務がありました。私は、ユースホステル運動の研究部会に参加しました。その部会は、上田まほろばユースホステルのマネージャーである斉藤さんと五十年史編集委員の磯野さんが中心になってやっておられました。
そこには、今回、シルマン出版を応援してくれている、遠野ユースホステルのマネージャーや、トイピルカ北帯広ユースホステルのマネージャーさんも一緒に議論されておりました。お二方は、覚えておられるでしょうか?
議長は、今回のシルマン伝の出版において大変御世話になりました、日本ユースホステル協会の五十年史編集委員の磯野さんでした。ところが、その部会で磯野さんが、
「日本にはユースホステル運動を提唱したリヒャルト・シルマンの伝記が売られていません」
とおっしゃいました。正確に言えば、一九六三年に日本ユースホステル協会が出版した『ユースホステルの祖父 リヒャルト・シルマン』だけで、それも日本ユースホステル協会に数冊残っているだけだと聞きました。正直申しますと、その時の私は、
『リヒャルト・シルマンって、いったい誰よ?』
とシルマンについて全くもって無知だったのですが、それはともかく、
『仮にも世界の80ヶ国に約5500ヶ所の施設がある世界最大の宿泊ネットワークを作ったユースホステル運動の創始者の伝記が無い』
という状態が、本当に、ありえるんだろうかと思いました。落ちぶれつつあるとはいえ、2001年当時国内に13万の会員があり、国内に300以上の施設があるのです。その創業者の伝記がないと聞いて驚くなという方が無理です。
ショックを受けた私は、磯野さんに、自腹を切って一九六三年に日本ユースホステル協会が出版した『ユースホステルの祖父 リヒャルト・シルマン』を復刻出版したい。それをユースホステル協会に寄付したいと申し出ました。
すると磯野さんは、あとで事務所にいらっしゃいとおっしゃいました。