自費出版にあたって二十社くらいの出版社に見積もりをとりました。2006年6月のことです。
時間があれば、持ち込み原稿として費用をかけずに出版社に出版してもらいたかったのですが、時間がありませんでした。どうしても、2006年8月26日のシルマンデーに間に合わせたかったからです。
2006年6月に決意したばかりで原稿はできてませんから、原稿を書くのに2週間かかったとして、原稿が完成するのが、6月末。それから出版社を回ったとして、うまくいって半年後、下手したら1年後になります。2006年8月26日のシルマンデーに間に合うわけがありません。これに間に合わせるには、自費出版でないと無理なのですね。
そこで二十社くらいの出版社に見積もりをとりましたが、分かったことは、自費出版であっても、必ず審査があるということです。つまり、いくら金を積んでも基準値に達してないものは、出版できないということでした。
それから費用の面でも多くの資金がいることがわかりました。私の原稿は、最初、350ページに達するものでしたから、見積もりをとると平均して200万〜300万という高額なものになりました。そのうえ大手出版社の場合、制作期間を三ヶ月以上要するところばかりでしたから、どこを選んでも8月26日のシルマンデーに間に合いませんでした。
そこで、最後の手段として古い友人の集まりである『風のたより』の仲間に声をかけ、彼らのノウハウを利用して8月26日のシルマンデーまでに本を作ることにしました。私をのぞく幸い4人が参加協力を申し出てくれました。
まず、350ページの原稿の内容を削ることから始めました。不要と思える箇所をどんどん削り、中身をどんどん薄くしました。文章も簡潔にし、要点を絞りました。
それでも、300ページ近く残っていたので、行組みを多くしました。一般的に本は、一行40文字×16行が基準となります。これを一行45文字×19行にしてページ数を減らし、読みにくくならないように、たくみに句読点や改行を工夫しました。空欄スペースも、どれが適切か、五十回近く印刷しては検討しなしました。
原稿は、文章の完成度より、読みやすさを優先しました。読者を高校生に想定し、難しい表現を避け、わかりやすい易しい言葉を使いました。「だ、である」調ではなく、「です、ます」調で文章を書き、なおかつ1ページでも減らすように簡潔にまとめました。ページが増えると、予算も増えるからです。そして、なんとか232ページまで減らすことに成功したのが、7月中旬。
シルマンデーまで、1ヶ月のタイムリミットが迫っていました。
その間、宿のことは全て家内にまかせっぱなし。私は、原稿書きに忙殺されホームーページの更新も、ツアーにも出かけず、北軽井沢ブルーベリーYGHの御客様をジャンジャン逃がしていました。開業以来最悪の営業数字を記録する中、もっと最悪なことに、夏のヘルパー(ボランティアスタッフ)が全くいなかったのでした。
いや、正確にいうと陳さんという台湾のヘルパー希望者が一人だけいましたが、外国の人を採用したことが無かったために私の不安は募りました。結局、この陳さんが、日本人以上に勤勉だったために、こちらは大助かりだったのですが、北軽井沢ブルーベリーYGHは、毎年4人以上のヘルパーさんが、必死になって働いて、ようやくまわるのに、これでは、どうにもなりません。私は、御客様を減らす決意をしました。
そして日本ユースホステル協会にメールでシルマン伝出版許可のメールをしたのが7月28日。タイムリミットまで、あと28日を切っていました。
日本には、言論の自由があります。誰がどんな本を出そうが自由なことは確かなはずですが、いくら個人の自由と言っても、リヒャルト・シルマンのことを書く以上は、日本ユースホステル協会のチェックが必要なのかなと思いなおしました。
そこで、日本ユースホステル協会にメールしたのですが、運悪く、担当の小俣事務局長が海外出張されていました。また、日本ユースホステル協会側も寝耳に水状態で、突然のことに驚かしてしまい、日本ユースホステル協会の皆様には、たいへん御迷惑をおかけいたしました。
しかし、この時点では、本を出版するといっても、四百冊くらいしか予定してなく、うち三百冊は寄付を目的にしており、こちら側は、それほど大げさなこととは考えていませんでした。とにかくリヒャルト・シルマン伝が市販されてないという最悪の状況を是正することが第一目標でしたから、
「百冊程度の流通在庫があればいいや」
「どうせ十冊くらいしか売れんだろう」
と安易に考えていました。
しかし、日本ユースホステル協会に出版の打診してみて、思ったより大事(おおごと)なのかもしれないと考え直し、そっそく原稿のゲラ刷りを郵送しましたら、多くの著名な方々から、もったいない御言葉をいただき、たいへん恐縮してしまいました。調子にのりやすい私は、よし、もっと、この本を良いものにして、この機会に、シルマンの偉業を世間にアピールしてやれと思い、仲間と相談しました。
こうして、コピー印刷(オンデマンド印刷)による限定四百冊発行の予定を中止し、オフセット印刷にわる本格的な出版を行うことを決意しました。こうして四十万の予算は、ふくれあがって百四十万の予算となってしまいました。
三十万かけて出版用専門フォントや出版デザインソフも購入するはめになりました。資金回収は、とっくにあきらめていましたが、集客減のうえに、増える出費には頭を悩ませられました。
しかし、ここで問題がおきました。日本ユースホステル協会とのやりとりが長引いてしまって2006年8月26日のシルマンデーに間に合わなくなってしまったのです。