三丁目の夕日的な貧乏生活8
コメントをチェックしてたら、かなり前に『貧乏ひとすじ三十年』さんから、つづきの要望があるではないですか。あまり人気のないコーナーかと思って連載打ち切りにしたつもりでしたが、もう1回続編を書きます。
築地市場(魚河岸)で3ヶ月もすると、友だちに
「お前、魚屋のにおいがするな」
と言われるようになりました。
そうです。河岸で働くと体が魚臭くなるらしいのです。しかし、こんなことでめげる私ではありません。なにせ1980年に時給1500円ですからね。
さて、ここで大きく話がずれてしまいますが、障害者には、2通りのタイプがあります。
外見から全く想像のつかない障害者。
そして見た目ですぐに分かる障害者です。
一般的に言って、前者が軽度の障害者、後者が重度である場合が多いのですが、あくまでも一般論です。でも見た目は超人のようにみえていても、かなりのハンデを背負っている例がありますから油断なりません。こんな抽象的な話をしたところで、ピンとこないという人があるかもしれませんから、私の話を少しだけしましょう。
「私は子供の頃、ほとんど耳が聞えなかった」
と言うと、半分は嘘で半分が本当です。右耳は聞えないのは本当です。しかし、左耳は少しは聞えていた。けれど、それは耳鳴りがしなかった場合の話で、病院で聴覚検査をすると、決って耳鳴がしたために、重度の難聴に認定されました。
ちなみに私が育った町は、離島の上に人口五千人という小さな町であるにもかかわらず、福祉施設が充実していました。そのせいか、私が小学校に入学すると学校に視聴覚教室という立派な設備を持った教室ができました。養護教室もありました。まだまだ日本が貧しかった昭和30〜40年代の話ですから、一つの美談に聞えるかもしれませんが、問題はそんなに簡単ではなかった。
どんなに施設が完備され、立派な先生が配属されていても、世間にハートが無かったら何にもならない。特別教室に入ることで、仲間からひやかされ、馬鹿あつかいにされたら、やってられない。だから私は普通教室に入れてもらった。特別教室には、いろんな人たちがいて、みんな辛い思いをして・・・・ああ、これ以上は書く気にはなれない。
そういう訳で、私は一般教室で6年間の小学生生活をおくったのですが、それが良かったのか悪かったのか? そこで私は一般人と何ら変わらぬ生活をする術(すべ)を身につけていました。そして、中学・高校と全く普通の人間として成長しました。
転機がおとずれたのは、バイトをはじめてからです。
何をやっても駄目、
怒鳴られて蹴られて、
すぐにクビになってしまう。
「お前は、確かによく働く。しかし、人の話をきかない」
「・・・・」
「生返事ばかりで、ぜんぜん人の話を聞いてない。☆☆を持ってこいと言っても、ろくに確かめもせずに◇◇を持ってくる。こんなことで世の中通ると思ってるのか?」
口答えしたくとも答えられないジレンマ。耳が悪いと言った瞬間にクビになってしまうかもしれない。いや、そういう説明自体が通用しない。なぜ通用しないかの説明は、めんどうなので省きます。
何をやっても、苦しくて切ない毎日。そんな日々か続きました。何度か会社をクビになり、健康診断などで不採用が続き、このままではろくなところで雇ってもらえないと知った私が、やっとありつけた仕事は、世界最大の魚河岸である築地市場。その店のバイト料は、1980年の物価で時給1500円。かなりの高給だったのですが、明治生れの社長(旦那)が、とんでもない暴力男で、店員を容赦なく殴る蹴るクビにする。そういう恐い社長(旦那)のいる店でした。
(注・築地では社長のことを旦那と言います)
旦那は、入社してすぐに私の正体を見破りました。
「佐藤、お前、つんぼか?」
「・・・・」
「つんぼだって人並に飯を食いたいだろう? 俺はつんぼだから飯を半分、というわけにいかんだろう。ましてや体がでけえんだ、人よりよけいに食いたいはずだ」
「・・・・」
「食えばいい」
「・・・・」
「だが、食うためには、もっと堂々とせい。オドオドするな。はきはき返事しろ! 分からんことは分からんと言え。つんぼは、つんぼらしくしてみろ。俺はつんぼだって言ってみろ!」
「・・・・」
つづくちと、長くなったので、続きは明日、アップします
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posted by マネージャー at 09:27|
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