外国人との付き合いが増えて、自分には何かが足りないと感じてはいましたが、それが何であるかが分からなかったのも確かでした。しかし、何かが足りないことは、本能的にはわかるのです。
例えば、こんなことがありました。
ドイツでの国際交流イベントで、
ドイツ語の歌を歌ったことがあるのですが、
「発音がおかしい」
と指摘されて驚いたことがありました。
もし、日本で、ドイツ人が、変な発音の日本の歌を歌ったとしても、日本人は大喜びして拍手喝采するでしょうが、ヨーロッパでは、そういうことは無いのですね。ヨーロッパでは発音はかなり重要なのです。
ところが、東洋では、違います。
たとえば科挙。
中国のエリートになるための試験に、発音は関係ありません。
読めればよいことになっているし、
広東人は広東語で試験をうけるし、
北京人は北京語で試験をうけることになっている。
その影響か、中国をChinaと書いても、シナと書いても発音の問題なので、問題ありません。しかし、支那と書いたら問題が出てくるのです。このあたりのセンスは、ヨーロッパ人には理解できないことであり、これだけ国際交流がすすんでいても、肝心なところでの国際理解は絶望的だなと思わざるをえないのです。
ただし、私たちには、ヨーロッパを理解するヒントとして
「マイ・フェア・レディ」
という映画を知っています。この映画は、ホームレスの女性に貴族の発音を勉強させるだけで、社交界全体を煙に巻くというブラックユーモア的な映画なのですが、この映画からヨーロッパの姿の一部を垣間見れます。
では、なぜ、こうも発音に執着する文化がヨーロッパに生まれたのでしょうか? 実は、そのへんのことが今まで分からなかったのですが、最近、ある本を読むことによって、
「ああ、なるほど」
と分かったことがあります。そして、今まで自分に足りなかったものが分かってきたのです。その本とは・・・・。
つづく
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posted by マネージャー at 14:43|
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日記 2009以前
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