実は、北軽井沢という地名は、大正時代からあるのです。
大昔から、北軽井沢は、北軽井沢という地名なのです。
沓掛が中軽井沢、
塩沢が南軽井沢、
発地を軽井沢発地、
軽井沢駅を新軽井沢と、
観光ブームのために街の名前を変えてしまったのとは、わけが違います。北軽井沢は、
大正8年の昔から北軽井沢なんですよ!
じゃあ、大正時代以前は、どういう地名だったかと言いますと、地名は無かったのですね。よーするに無人の原野だったわけです。名前もついてない土地だったんです。
しかし、大正時代に草軽鉄道が開設され、無人の野に駅ができます。その駅名が、北軽井沢だったわけで、北軽井沢駅を中心に、日本中の富豪たちが、土地を買いあさったわけです。で、北軽井沢という地名ができたんですよ。そして、その土地の売却益で草軽鉄道の設置費用を出したのです。
ですから、この広大な北軽井沢の土地は、最初は、すべて草軽鉄道の所有地だった。これは、私自身が、法務局に行って調べてきたので間違いないです。草軽鉄道という会社は、人間も住んでなく、何も価値のない土地に、草軽鉄道を設置し、土地を分譲したのです。
ちなみに北軽井沢より前の駅には、栗平・二度上・国境平・長日向・小瀬温泉という駅名になっています。これらの土地には、人が住んでましたから、すでに地名があったわけですが、北軽井沢には、地名らしきものが無かった。そこで、そばを流れている地蔵川から名前をとって、大正7年6月に地蔵川駅として開業しましたが、翌年には北軽井沢駅と変更しています。
そして、この北軽井沢駅の開設とともに、どんどん移住者がやってくるのですが、法政大学の学長、松室致先生が法政大学村を作り、教授たちに土地を分譲しはじめますと、岩波書店の岩波茂雄、安倍能成、宮本和吉、田辺元、三木清、津田左右吉、谷川徹三、岸田国士、市河三喜先生等が家を建てはじめました。そして、北軽井沢に山荘文化が生まれていくのですが、彼らが
「北軽井沢」
という土地をジャンジャン宣伝していくのです。
やがて北軽井沢に北軽井沢小学校が生まれます。
北軽井沢観光協会が誕生し、
北軽井沢消防団、
北軽井沢水道組合なども誕生します。
しかし、長野原町は、この北軽井沢の土地の方を向いてなかった。そのために北軽井沢の住民たちは、何から何まで自分たちでやるしかなかったのです。開拓民たちや、別荘族たちは、自助の精神をもって、町から見捨てられた地を開拓していきます。そのために、住民の意識は、長野原町民というより、
北軽井沢の人間
という意識が濃厚にあるのです。
さらに複雑なことに、隣村の嬬恋村にも
捨てられた住民たちがいた。
北軽井沢に近いところに住んでいる
嬬恋村の住民たちだった。
こっちの方は、もっと複雑だった。
つづく
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