2009年07月12日

業界裏話11 嬬恋村の北軽井沢

業界裏話11 嬬恋村の北軽井沢

 北軽井沢とは、どのあたりまでをさすのでしょうか? 北軽井沢と呼ばれる地域なのかというと明確な規定はありません。昔は、群馬県長野原町の南部地域から、嬬恋村の一部を含む地域をさしていました。ですが、歴史的にみると草軽鉄道の元所有地が北軽井沢にあたるようです。つまり、浅間山の北側にひろがる浅間高原の東側半分ぐらい、もっと言うと鬼押出し園より東側を北軽井沢と言ったようです。ただし、自治体が、そういう名称を登録したのではなく、草軽鉄道と住民が、そうよんでいたのですね。

 しかし、ややっこしい事がおこります。

 昭和61年に長野原町は南部地域の地名を、
 正式に北軽井沢に変更したのです。 
              
(それまでは、大桑の一部とされていた)
            
 困ったのは、嬬恋村にいる北軽井沢付近の住民たちでした。
 昔は、嬬恋村の一部も、北軽井沢だったからです。



 話は変わりますが、嬬恋村の北軽井沢地区の住民たちも
 嬬恋村から無視され続けられました。

 具体的に言いますと、小学校が無かった
 水道も、電気も、電話も無かった。
 ゴミ捨て場の場所をとっても、極端に少なかった。

 子供たちが学校に通うためには、
 10キロ先の分校に行く必要があった。

 村は、分校を造ることも、
 スクールバスを作ることもしなかった。
 驚くべきことに、つい最近まで、してなかった。

 なので長野原町の北軽井沢に助けを求めた。


 だから、30歳以上の人間は、
 北軽井沢小学校に通っていました。


 北軽井沢の人たちは、
 捨てられた嬬恋村の住人たちを温かく迎えてくれました。
 消防から何から何まで北軽井沢の御世話になりました。

 嬬恋村の北軽井沢地区のペンションは、北軽井沢でもないのに、北軽井沢を名乗っていますが、それには、それなりの理由があります。このあたりに住む住民たちは、北軽井沢に、とても親近感をもっているのです。

 昔、北軽井沢に御世話になった過去があります。
 そして、嬬恋村には足蹴にされた過去があります。

 で、嬬恋村から分離して、
 長野原町(北軽井沢)と合併しようという
 住民運動までおこりました。


 住民たちの怒りは本物でした。土地が値上がりし、固定資産税を貪るくせに、住民サービスを全くしないために、住民たちの堪忍袋の緒が切れました。で、事態の容易ならざることを知った嬬恋村は、青ざめました。

 村長がすっ飛んできて、あたまを下げてまわった。

 そういう過去がありますから、
 今でも嬬恋村より、
 北軽井沢の方に親近感があるのです。

 で、時代は下って少子化の時代が始まりました。
 小学生の数が少なくなってきました。

 嬬恋村は、嬬恋村の小学校に通う子供たちの数を増やすために、北軽井沢小学校(長野原町立)に通っている子供たちを、嬬恋村の小学校に入学させろと言ってきました。長いこと嬬恋村に捨てられていた北軽井沢地区の嬬恋村の住人たちは激怒しました。

「今まで分校も造らず、スクールバスも用意してなかった嬬恋村が、少子化の時代になったとたんに嬬恋村の小学校に入学させろとは、何事か」と。

 しかし、嬬恋村が永久に無料でスクールバスを用意するという確約することによって、住民たちの怒りは収まりました。そして、ただ、長年にわたって御世話になった北軽井沢に申し訳ないという気分だけは残ってしまった。

つづく

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posted by マネージャー at 01:03| Comment(8) | TrackBack(0) | 業界裏話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする