2009年10月07日

安中藩ウオーク3 武家屋敷・郡奉行役宅

安中藩ウオーク3 武家屋敷・郡奉行役宅

武家屋敷・郡奉行役宅
と言っても、ただの郡奉行役宅の役宅ではありません。
山田三川の役宅です。

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山田三川と言って、ピンとくる人は、日本史やってた人です。
山田三が何者か知らなくても、
『三川雑記』
を読んでない人はいないからです。
江戸・幕末をかじったことのある人で、
『三川雑記』を知らない人は、モグリとさえ言われていますから。

しかし、北海道史をやっている人間にしてみれば、
山田三川の名前は、もっと特別な名前になります。
それを話すと長くなるので、今回は山田三川の
役宅をよくみてみましょう。


まず、郡奉行の役宅について。郡奉行とは、県知事みたいなもので、民政官みたいなものです。ですから、門構えも立派です。なにしろ役所ですから。下の写真が門です。

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門の隣に役人の詰め所があります。そして門の屋根をみると分かりますが、茅葺きです。近くに吾妻川が流れているために、茅が無尽蔵にあったので、それを利用したのでしょう。そして土壁。白壁ではありません。郡奉行の役宅にしては、質素な作りですが、これは、安中城にしても一緒で、大名のお屋敷さえも、茅葺きでした。もちろん天守閣なんてものはありません。唯一、瓦を使った建物は、防火のための蔵だけです。


これは玄関。
というより、おしらすですね。

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館内は、土間があって、そこから板の間になります。
郡奉行の職員たちは、ここで仕事をしたようです。
記帳などの書類整理と、裁判、警察、土木事業、年貢の取り立てなどが、主な仕事です。イメージとしては、『どら平太』や『たそがれ精兵』に出てくる役所風景に似ています。広さは、16畳の北軽井沢ブルーベリーYGHの4人部屋くらいになります。

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これは奉行の部屋。
たったの8畳。
ここだけ、良い畳です。
客間を兼ねるからです。
他の部屋の畳は、最低のものを使っています。

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これは中間(下男)の部屋。
わずか一畳です。

中間とは、農民や一般町民が雇われており、自宅から通っていました。だから、こんなに部屋が狭いのです。仕事は、武士が出かける時の荷物持ちなど、雑務をこなしていた。参勤交代の時には大勢の中間が必要となるため、このときだけ臨時で雇われるということも多かったものです。ただ、脇差1つを挿すことを許されており、時には戦いにも参加しています。渡り中間に代表されるように、世襲はされず、一時限りの奉公の場合が多いですね。

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家の大きさは、役所を兼ねていることを考えると、かならずしも大きくはありません。北軽井沢ブルーベリーの半分以下の大きさです。台所も小さく、湯殿にも風呂桶はありません。今で言うところのシャワーのみです。そして屋根は全て茅葺きです。

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さて、以上の説明の後に、
思い出してほしいのが、
雷電爲右エ門の生家です。


http://kaze3.seesaa.net/article/129286220.html

さて、ここで
農家の屋敷と、郡奉行の役宅を比較してみましょう。
貧富の差は、歴然です。
まず、雷電爲右エ門の生家。

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凄い富豪ですね。豪華な家で、郡奉行の役宅の倍はあります。
それに比べて郡奉行の役宅。

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だいぶ、みすぼらしいですね。
ついでに、新島襄(武士)の生家。

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ついでに、江戸時代の商屋。
http://kaze3.seesaa.net/article/127007387.html

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以上、すべて同時代の建物です。

比較すると安中藩の武士の家が、
いかに質素で貧しかったかわかります。
ちなみに、江戸時代の農民たちの米穀の消費量が年間180キロ。
(一石が、150キロになります)
私たちの一人当たりの米の消費量が年間62キロ。
そして、戦後間もない米不足の頃で、
一人当たりの米の消費量が年間80キロでした。

肉を食べるようになり、
肉体労働が減り、
私たちの食生活は、大きくかわってきています。

つづく。

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posted by マネージャー at 19:35| Comment(0) | 横川・妙義山 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする