2009年11月30日

榛名温泉吾妻荘

榛名温泉吾妻荘

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この温泉の目玉は、最上階にある展望風呂。
榛名湖や榛名富士が一望できます。

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時間によって榛名が見せる表情の変化を楽しむには絶好の場所です。湖面に映る榛名富士と陽の光が、何ともいえない風情をかもし出しています。

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しかも美人の湯。

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つづく。

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posted by マネージャー at 23:58| Comment(0) | 榛名・伊香保 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月29日

竹久夢二の歌碑

榛名湖畔に竹久夢二の歌碑があります。


さだめなく 鳥やゆくらむ 青山の
       青のさびしさ かぎりなければ


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数多くの美人画を残しており、大正浪漫を代表する画家でした。また、多くの書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けの一人でもありました。

 その独特な美人画の多くは、後世になってから評価されたもので、当時は、大衆人気というかたちで脚光を浴びました。一時は中央画壇への憧れもあったようですが受け入れられず、終生、野にあって新しい美術のあり方を模索しました。都市における大衆文化の開花による消費生活の拡大を背景とした、新しい応用美術としてのデザインというものの黎明の時代でした。

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 夢二は、明治17年9月16日、岡山県の酒屋に生まれました。早稲田実業在学中、雑誌『中学世界』にコマ絵「筒井筒」が一等入選し、初めて世に名をあらわしました。夢二はまた日本各地を旅行し、晩年には欧米も訪れました。しかし帰国後、肺結核となり昭和9年、51歳(数え年)でこの世を去っています。

  はじめて伊香保を知ったのは加藤ミドリさん(旧姓松沢)からのファンレターでした。大正8年に伊香保を訪れて以来、伊香保の気候、風土、人情が夢二の心を捉え、晩年には「榛名山美術研究所」建設という大きな構想を立てていました。

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つづく。

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posted by マネージャー at 08:33| Comment(3) | 榛名・伊香保 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

榛名神社の門前蕎麦

榛名神社の門前町の蕎麦

榛名神社の鳥居前には数件の蕎麦屋があります。蕎麦が名物なんですよね江戸時代に榛名神社を崇拝する「榛名講」の人たちが参詣に訪れた際に、蕎麦をもてなし料理の一つとして振る舞っていたことから名物になったようです。

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榛名神社の門前町では、名物のそばとお酒が味わえます。地元農家が大切に育てたそばを味わえる店が軒を並べています。かつては宿坊としても栄えた場所です。これはむキノコ蕎麦。

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かけうどん。

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とろろ蕎麦。

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山菜蕎麦。

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てんぷら蕎麦。

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つづく。

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posted by マネージャー at 08:21| Comment(4) | 榛名・伊香保 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月28日

榛名神社散策2

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榛名神社散策2

つづきです!
榛名神社は、全国でも珍しい
三重の塔がある神社です。

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どうして神社なのに
三重の塔があるのか?

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実は、ここは、元々は霊場であり、修験道のような自然信仰の場所でした。万葉集にあるとうり、太古の日本人は、死ぬと山に帰ると思っていましたから、榛名山で巨岩を対象とした自然崇拝が行われていたのです。

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それが仏教の流入し、神仏習合が定着し、
明治に入るまで、
仏教的には「厳殿寺(げんでんじ)」
神道的には「満行宮(まんぎょうぐう)」
と言っていたのです。

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そして明治元年の神仏分離令により、その仏教は消滅してしまいますが、随神門(かつての仁王門)や神宝殿(かつての三重塔)などの残った建造物から仏教的名残りをみることができます。

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榛名神社参道には、かつて榛名講の参拝者が泊まった宿坊が90軒近くあったのですが、今では15軒ほどに減っています。現在では食堂や土産物店に姿を変えています。

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つづく。

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ラベル:榛名神社散策
posted by マネージャー at 00:26| Comment(0) | 榛名・伊香保 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

嬬恋村史と、真田一族2

嬬恋村史と、真田一族2

 平安時代末期、1108年の天仁の噴火で壊滅して間もない嬬恋村に修験者となって、流れてきた海野一族がいました。下屋将監です。彼は、映画「阿弥陀堂だより」の阿弥陀堂あたりに、修験道の神社を造りました。そして、甲冑鎧などの武器を埋めて、『捨城庵』を建てました。城を捨てて粗末な家を建てたという意味です。

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 下屋氏一族は、さかんに嬬恋村を開拓します。そして、真田から嫁をもらって人口を増やします。この風習は、現在でも残っていて、嬬恋村と旧真田町は、親戚どうしみたいになっています。そのために、嬬恋村は真田と隣接している西部の政治力が強く、東部の北軽井沢側は、風に飛ばされてしまいそうに弱体です。村長も、議員も、真田側からワンサカでてきますが、北軽井沢側は政治的に沈黙したままです。

(そのへんの事情は、詳しくは、以下のページを御覧ください)
 http://kaze3.seesaa.net/article/123305890.html

 脱線しました。
 下屋氏一族のことです。

 下屋氏一族は、武器を捨て、宗教(修験道)の力をもって開墾を続けました。武器の力ではなく、信心の力で開墾を行い、天仁の噴火で壊滅した嬬恋村を見事に再生させます。そして、広大な領土をもつに至りますが、下屋氏一族には、領土的野心はこれっぽっちもなく、分村し、暖簾分けし、村々を次々と分家たちに譲り渡してしまいます。

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 暖簾分けされた中に、鎌原氏という存在があります。下屋氏一族の開祖、下屋将監の孫にあたります。この鎌原氏が、勢力を伸ばし、嬬恋村の地頭職に出世します。しかし、下屋将監直系の本家は、武力を持たず、ひたすら修験道に励んで荘園領主として平和国家を作っていました。

 しかし、平和国家なるものは、自分の都合だけでは成立しません。武器無き民を攻め掠めようとする侵略者たちは、かならず現れます。それに対抗したのが鎌原氏でした。

 北軽井沢ブルーベリーYGHの住所は、嬬恋村鎌原1506-12ですが、これは鎌原氏の領土範囲だったことを示します。鎌原観音堂も、鎌原氏ゆかりの寺であったはずです。そして鎌原氏が、武力で他国の侵略を防ぐわけですが、そういう役割を人間を鎌倉時代では、「地頭」と言ったわけです。

 こうして、荘園領主の下屋氏一族と、地頭職にある鎌原氏の2大勢力が成立します。では、下屋氏一族と鎌原氏は、その後、どのような運命になっていったのでしょうか?

つづく。

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posted by マネージャー at 00:04| Comment(0) | 真田丸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月27日

榛名神社散策1

榛名神社散策1

素晴らしい天気

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今回のメンバー

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ここが榛名神社

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ユニークなトマトの碑

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ブラシの碑

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つづく。

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ラベル:榛名神社
posted by マネージャー at 00:39| Comment(4) | 榛名・伊香保 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月26日

嬬恋村史と、真田一族。

嬬恋村史と、真田一族。

 嬬恋村は、非常に特殊な歴史をもっています。
 修験者たちが開拓した歴史です。

 平安時代末期、一人の修験者が、嬬恋村に流れてきました。
 信州に大帝国を拡げていた、海野一族の跡取りの一人でした。
 名は、海野幸房と言います。
 兄は、海野幸家。真田一族の家祖にあたります。

 彼は、戦争に嫌気がさし、修験者となって、
 人も住んでない嬬恋村にやってきました。

 当時の嬬恋村は、1108年の天仁の噴火で壊滅して間もない頃でしたから、ほとんど人は住んでなかったようです。そこに、修験者となって、流れてきた海野一族の一人は、粗末な庵をつくり、『捨城庵』と名付けました。城を捨てて、造った粗末な小屋という意味です。刀を捨てて、修験者となって、修行を行いつつ、嬬恋村の開拓をはじめました。場所は、嬬恋村の万座鹿沢口駅のあたりです。

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 海野幸房は、名前を、下屋将監幸房と改名します。そして、子孫たちに嬬恋村を開拓させていき、広大な領地をもつにいたりますが、下屋氏は、勢力が大きくなると、次々と分村していき、譲り状を渡し、小国に分割していきます。

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 わざと巨大な帝国を造らずに、逆に小さくしていったのです。今風にいえば、地方分権に徹したわけですね。そのために、下屋本家は、戦国時代の下克上からも逃れることができました。そして、今なお嬬恋村に存在しています。嬬恋村には、千年の歴史をもつ名家が、いまでもいるのです。

 その逆をやったのが、真田氏でしたが、
 真田氏については、後日、述べましょう。

 下屋本家を造った下屋将監は、映画「阿弥陀堂だより」の阿弥陀堂あたりに、修験道の神社を造りました。そして、甲冑鎧などの武器を埋めて、『捨城庵』を建てました。そして、神社は大いに栄えるのですが、山津波で壊滅します。壊滅した後に「阿弥陀堂」が建ちます。まあ、それはいいとして、そのあたりに住む人たちは、宮崎の姓を名乗るひとが多いのですが、ご先祖様が、神社に使えていたためです。

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つづく。

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posted by マネージャー at 23:10| Comment(2) | 真田丸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月25日

上田砥石城散策2

上田砥石城散策2

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ここ、砥石城は、アニメサマーウォーズの舞台になったところです。

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http://sankei.jp.msn.com/entertainments/game/090803/gam0908030828000-n1.htm

 長野県上田市の城下町がそのまま舞台となって描かれたアニメ映画「サマーウォーズ」が全国公開中だ。過去、地方都市の観光課が撮影協力した“ご当地もの”の実写映画は珍しくないが、アニメでは初の試み。細田守監督は「日本の原風景、城下町の歴史を肌で感じ、そのまま描きたくなった」と語る。市を挙げて全面協力した上田市観光課では「公開に合わせホームページやロケ地マップを製作中。市の魅力が広く伝われば」と期待を込める。(戸津井康之)


 ≪東京の高校生、健二は夏休みに先輩、夏希の故郷、上田市にやって来る。大家族が暮らす陣内家は室町から続く戦国武将の末裔。ある日、健二が不審な携帯メールを受け取ったことから、ネット世界が混乱し、現実でも交通システムなどに影響が出始める。上田市も巻きまれるが、陣内家の家族らが事件解決に立ち上がり…≫

 陣内家のモデルとなったのは上田城主の真田一族。真田家は戦国時代、絶大な勢力を誇った徳川家と2回戦い、勝利したことで知られる。「少勢力の真田家が城下の民衆と組み、強大な徳川家と戦った歴史は今も上田市民の誇り。市民は幼いころから学校などで習います」と上田市観光課の宮下義徳さんは説明する。

 陣内家の正門は、今も残る上田城のやぐら門がモデル。丸窓が特長の上田電鉄別所線の個性的な車両や、車窓から広がる上田市の田園風景などがアニメでそのまま再現され、伝統の夏祭り「上田わっしょい」や上田高校野球部も実名で登場する。

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ここは本丸。
眼下に上田の町が。

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この城は、山の稜線を利用して造られています。

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この作り方は、嬬恋村の城も同様です。

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なぜならば、嬬恋村も真田の家系だからです。

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明日は、それについて、少し語ってみましょう。
真田とは、何であるのか?
真田は、どうして最強だったのか?

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つづく。

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posted by マネージャー at 23:42| Comment(0) | 上田市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月24日

アメリカ空軍が、PS3を2200台発注

アメリカ空軍が軍用のスーパーコンピューターを作るためにPS3を2200台発注することが明らかになったらしい。 プレステ3を連結してスーパーコンピューターにするらしいのです。

http://www.informationweek.com/news/software/linux/showArticle.jhtml?articleID=221900487

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アメリカ空軍の調達状況
https://www.fbo.gov/index?s=opportunity&mode=form&id=bac60f8808fa1e221597573901a7cd6b&tab=core&_cview=1&cck=1&au=&ck=


これが本当なら、プレステ3は、どんだけのすごい性能なんだろう?

(クリスマスプレゼント用じゃないだろうな?)

でも、これは笑える軍事転用ですね。
ちなみに20年前に、私が海外放浪していた時、
思わぬ日本製品が軍事転用されていて、大笑いしたことがあります。

まず軽トラ。日本にしかないはずの軽トラ。
どんな悪路も前進でき、戦車よりも性能が良いらしい。

それから使い捨てカイロ。
通信機を暖めていました。

日本製ペットボトルの容器。
軽量な水筒として使われていました。

改造されたマグネットミニ将棋。
作戦の指示に使うと言ってました。

つづく。

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ラベル:PS3 アメリカ空軍
posted by マネージャー at 22:46| Comment(2) | ニュース・時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

上田砥石城散策

上田砥石城散策

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今回のメンバーです。

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行き先は上田砥石城。

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上田砥石城は、2つの事で有名です。一つは、村上・武田.真田・徳川らの争いの場になったこと。もう一つは、アニメ・サマーウォーズの舞台&ロケ場所となったこと。

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砥石城跡は、上田盆地の北東にあります。東は神川沿いの切りたった崖、西は急坂続きの斜面で、麓に展開する旧神科村畑山・伊勢山・金剛寺の三集落にまたがるスケールの大きい山城群です。

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城は、4つに構成されています。

1.本城
2.桝形城
3.砥石城
4.米山城

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つづく。

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ラベル:上田砥石城
posted by マネージャー at 21:38| Comment(3) | 上田市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月22日

自分に課すること

ウォーキング、いや散歩を始めて1ヶ月たちました。
目的は、190という血圧を下げるためです。

 ちなみに日本人の死因のナンバーワンが、高血圧に関連があります。脳血管疾患と心臓病の2つを合わせると31%で、28.5%のがんを抜いてトップになるのですね。で、ウォーキングを始めたのですが、実は高血圧の90%以上は、明確な原因が不明といわれています。

 つまり散歩で血圧が下がるという理屈は、残念ながらないんですね。しかし、私は体験的に下がることを知っていました。友人が、現に190から140まで下げているからです。私も散歩をはじめてから血圧が下がってきています。

 しかし、雪が降って、2日くらい休むと、血圧が上がるのですよ。
 休むとダメなんですねえ。

 仕方ないので、雪や雨でも散歩できるように、道具を買いそろえました。まず、雨具に防寒着と耳当て。そしてヘッドランプ。そして小型ザックです。そして超小型手首式デジタル自動血圧計です。

 なぜ手首式小型血圧計かと言いますと、これだと数時間ごとに簡単にはかれるからで、計ったときに150を越えたら、雨が降ろうが、槍が降ろうが散歩に出かけることを自分に課することができるからです。

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おかげで、いまのところ三日ぼうずに終わらずにすんでいます。
散歩も楽しくなってきました。
ゆとりがある日は、ゴミ拾いもできるようになりました。
ただ、ここの所、日に日に寒くなってきていますから、
ちょっと辛いですね。

で、今日は、ちょっとした発見の報告。
ある農地の小屋に大きなスズメバチの巣を発見しました。
スズメバチは、恐ろしく危険な昆虫ですから
私は、そばで農作業していた人に、

「スズメバチを駆除しないのですか?」

と聞いたのです。すると

「うちは、減農薬の野菜を作っているから」
「・・・・?」
「スズメバチは、害虫を食べてくれるんだよね。私らにしてみれば、大切な蜂なんだよ」

なるほど、スズメバチには、そういう効果があったのか。



つづく。

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posted by マネージャー at 03:19| Comment(2) | 日記 2009以前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月21日

りんでんば〜む軽井沢店

りんでんば〜む軽井沢店

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今日も、安めで、ちょっとオシャレな店を紹介。
りんでんば〜む軽井沢店です。
ここは、安心して食べられる南欧料理のチェーン店。
接客も内装も雰囲気も合格点。
値段も決して高くありません。

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場所は、軽井沢の18号バイパス沿いにあります。
店内は、こんな感じです。

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さっそくランチを注文。
すると、こんなサラダがでてきます。

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軽井沢だけあってパンも美味しい。

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これが白身魚のベーコンソース。
カブとブロッコリーが美味しい。

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で、これが牛ロースの青じそソース。
柔らかい牛肉に、青じそソースがからまっています。
不思議な取り合わせなのですが、これがけっこういけます。

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最後に、紅茶と珈琲。器も美しく、たっぷり飲める量がでてきます。総評を言えば、値段とのバランスがとれており、雰囲気の良い店だと思います。軽井沢の立地を考えると、値段も決して高くありません。

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長野県北佐久郡軽井沢町南ヶ丘641-109
0267-42-1035
営業時間 am11:00〜pm9:30
定休日 月曜日(7月20日〜8月末日まで無休)
座席数 26
駐車場 20

つづく。

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posted by マネージャー at 23:31| Comment(0) | 南軽井沢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月20日

カスターニエ

カスターニエの紹介。

今日は、カップルで行くとお得な店を紹介。
新軽井沢にあります。
アトリエドフロマージュ軽井沢店の向かいにあります。

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 その名もカスターニエ。ドイツ語で「トチの木」という意味です。1982年に当店がオープンしました時に近所に住むドイツ人宣教師のステッカさんが名付けたらしい。

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 実は、ドイツでは街路樹に栃ノ木が多いんです。飾りにもトチの実を使います。テーブルコーディネートにトチがよく使われるのです。私とドイツ旅行で何度も目撃しています。それが軽井沢の緑をイメージさせるからカスターニエと名付けたらしい。

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 さて、この店を紹介した理由は、カップルで食べると、かなりリーズナブルな値段になるからです。例えば、カップルコースAの場合、2人で3980円でコース料理が食べられます。それも、かなりお腹いっぱいになります。

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 しかし、おすすめはカップルコースB。こちらは、2人で5250円ですが、これだと、かなり豪華なメニューがでてきます。一人当たり3000円以下で、かなり豪華な食事になるのです。ただし、メインによって値段が上下しますが。

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今日は、カップルコースBを紹介します。
まず、出てきたのが、高原サラダ。
かなりの量です。これだけで、お腹いっぱいになりそう。
サラダは、高原野菜のサラダ or シーザーサラダから選べます。

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かなりの量ですが、カップルだと便利。
男が大量に食べて、女性が少し食べればいい。
カップルには、そういう便利なところがあります。
もちろん、取り皿も毎回かえてくれます。

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これは前菜。
こいつもでかい!
スモークサーモンのカルパッチョ。バルサミコ酢風味。
単品なら1000円以上するでしょう。
前菜も3種類から選べます。
サーモンのカルパッチョ、カプレーゼ、タコのガリシア風など。
私たちは、サーモンのカルパッチョを選びました。美味しかったので、味を盗んで北軽井沢ブルーベリーYGHのメニューに加えています。

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次にピザがでてきます。ピザは、下記から選びます。
 マルゲリータ
 アンチョビ&ガーリック
 ベジタブルピザ
 ソーセージとオリーブ
 テリヤキチキンのピザ
 エビとベーコン

私たちは、アンチョビ&ガーリックを選びましたが、これが大当たりでした。大きさは、ラージサイズです。嫁さんが、2切れ食べ、あとは私が平らげましたが、このピザが一番美味しかったかもしれません。この店は、ピザのレベルが高いですね。

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そして溶岩焼きグリル。溶岩を真っ赤に熱し、その輻射熱でふっくらジューシーに香ばしく焼き上げたメイン料理です。脂が落ちるのでとってもヘルシー。メインは、4種類ありますが、どれを撰ぶかで値段が変わってきます。

ハーブ鶏のグリル ¥5250
ブラックタイガー海老のグリル ¥5420
榛名豚のグリル ¥5600
リブロースステーキ ¥6200

私たちは、一番安い、ハーブ鶏のグリルを撰びました。
で、出てきたのがこれです。

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これを見てボーゼンとなりました。
200グラムのハーブ鶏が、2枚。
30センチ皿にのっかっているではないですか。合計400グラム。
味は、さっぱり薄味。


で、最後にデザート。

りんごのタルト
チョコレートのタルト
マンゴーラッシー
濃厚ソフトクリーム
パンナコッタ
ガトーショコラ
アフォガート

から撰べます。
嫁さんは、軽井沢らしく、りんごのタルトをチョイス。
リンゴの風味がきいていました。
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私はパンナコッタ。
こいつは絶品でした。

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料金は、手頃だし、グリルの腕は確かだし、店の雰囲気は最高です。この値段で、このレベルなら文句ないでしょう。一品料理でたのむこともできますが、コースにした方が、値段がお得なのは確かです。


〒389-0104 長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢東23-2
tel 0267-42-3081
http://www.kastanie.co.jp

つづく。

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posted by マネージャー at 21:34| Comment(3) | 新軽井沢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

大江戸実々奇談 35話 非人に落ちし者物藷りの事

大江戸実々奇談の紹介・最終回

これで最終回としておきます。他にも面白い話がいっぱいあるのですが、きりがないので、このあたりで切り上げようかと思います。今回は、裁判の話、弁護士の話、詐欺の話、障害者の話、武士の話、どれにしようか迷ったのですが、非人の話にしました。江戸時代のリアルな非人の話も、知っておいて損はないと思いますので。読むと、非人についての意外な側面に驚かされると思います。これが事実なら、今までのイメージを一変させなければなりません。大江戸実々奇談には、そういう話がいっぱい詰まっています。


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第三十五話 非人に落ちし者物藷りの事

 文化七年の事です。
 芝浜姶町一丁目に、大工の親分と、弟子三人がいました。弟子の中でも喜八は、とにかく怠け者で、博奕の毎日で、終いには夜逃げしてしまいました。親方と弟子たちは、親許を始め、仲間うちなど心当りを探しましたが行方知れず。あきらめて、四、五年がすぎました。

 ある日、大工たちは、川崎大師へ参詣するために鈴ヶ森を通りかかると、喜八そっくりな男が、菰を纏って乞食の姿をしているのを見つけました。

「もし、そなたは喜八にてはあらざるや」
「・・・」
「不思議な巡り合わせなれど、その姿は、どうしたことか?」
「面目なき次第なれど、お懐かしゅうございます。親方の意見も用いず遊び暮し、かかる姿となりましたが、いまさら、後悔しても・・・」
「それにても、これまで、どうやって暮らしてきたのだ?」
「・・・」
「今まで何してたんだ?」
「面目ない、それだけは御勘弁を」
「言いたくないのか?」
「御勘弁を」
「じゃ、どこに住んでるかだけでも教えてくれ」
「・・・」
「それくらいは、いいだろう」
「へい」
「住まいは、どこだ」
「品川の松右衛門の長屋に住んでいます。これだけで、勘弁してください」
「わかった」
「・・・」
「では、さらば、いずれお会い致さん」

 こうして親方と弟子たちは別れたのですが、喜八の変わり果てた、哀れな姿にみんなに同情の心がでてきました。

「あわれだなあ、あんな乞食姿になってしまって」
「身からでた錆びとはいえ不欄ですね」
「このまま見捨てて置くわけにはいかないなあ」
「奴には、他にも友が大勢いることだし、みんなで金を出し合って、せめて綿入れの服一つもこしらえて渡すか」
「そうですね、そうしましょう」

 彼らは、川崎大師へ参詣致し、日暮頃に浜松町へ戻り、さっそく、この事を、親方や、知り合いへ話し、少々ずつ銭を集め、三分余り集めました。一両は四分ですから、0.75両ほど集まったことになります。文に換算すると3000文。けっこう大金が集まりました。江戸時代の庶民たちは、けっこう人情があったようです。この三分で新しく木綿の布をあつらえ、綿入れの服を完成させ、みんなで品川の松方衛門の家を尋ねていきました。哀れな喜八の喜ぶ顔をみるために。

 しかし、行ってみて仰天しました。
 喜八の住む地域は、スラムではなく新築の立派な造りの家ばかりだったのです。
 その長屋の入口の小屋蕃に
「喜八と申す者の住まいはどちらでしょうか?」
と訊ねると、小屋のもの訝り顔に両人を見つつ
「四、五軒先に高張提灯の出している宅がある。そこだ」
と指さすので、行ってみると、また仰天することになりました。

 入口には、玄関がありました。戸や障子なども新しく、部屋の中は新しい備後表の畳を敷き、奥に六畳敷外一間もあり、これは間違いかと惑いつつも、
「御免ください」
と、ご挨拶をすれば、女房らしき女性が、切立ての結城木綿の綿入れを着て現れました。帯は、綾織の高価な美しい帯を締めていました。

「どちらさまでしょうか?」
「芝辺より尋ねてきました。。昔の友だちです。喜八どのに会いたいのですが」
「わぎわざ有難とうございます。唯今、少々用事がありまして、近所へ参りしが、ほどなく帰るはずです。まずは、お上り下されかし」

 部屋にあがると、また仰天しました。
 座敷の様子は、ちょっとした富豪の家にもひけ劣らなかったからです。
 喜八の女房は、火打箱を持って来て
「タバコでも一服召し上り下さい」
と言ってきました。

「よろしければ、煙草盆を御願いできますか?」
「友様ならば御免下さるべし」

 江戸時代では、非人の煙草から煙草の火をもらうのを嫌がっていました。
 だから、喜八の女房は、火打箱を持って来てきたのですが、
 喜八の仲間たちは、あえて
「よろしければ、煙草盆を御願いできますか?」
 と言ったわけです。

 俺たちは、非人かどうかは、関係ない。
 喜八の友達であり、
 その喜八の奥さんなのだから、
 奥さんの煙草から、
 煙草の火を移してもらいたいと主張したわけです。

 この事実は、江戸時代であっても、
 非人差別を断固拒否する人たちがいたということを意味します。


 暫くして、喜八が帰りました。
 ここで、また仰天させられます。
 喜八の姿は、新しい木綿入れを着ており、
 羽織を着て、髪型もビシッとなっていたのです。
 ボーゼンとなっている旧友の前に喜八は座り、
 丁寧に挨拶致しました。

「よくぞお尋ね下され、手前、誠に嬉しき限りです。先日お目にかかりしところは、往来のこととてろくろくお話も出来かね、たいへん失礼致しました。むかしの馴染とて心におかけ下され、返す返すも有難とうございます」

 旧友たちは、持参してきた綿入れの服を出しそこねてしまいました。
 そして、世間話をしつつ、この謎について質問しました。

「前にあったときは、乞食の身なり。しかし、こんなに結構な身分いるのは、どういうことか?」
「実は、非人に落ちてより半年も過ぎぬ間に、少々小口もききける故、この小屋の小頭に取り立てられました。そして、このように贅沢をさせてもらっていますが、然りながら、仲間の規定にて、時々は先項の姿で物乞いに出ることになっています。これも、この世界のルールというものです」
「・・・」
「もし、あのまま大工をやっていても、せいぜい裏店にて食うや食わずに等しき暮だったでしょう。こんな贅沢な暮らしは、一生かかってもできなかったでしょう。けっこうな身分に見えるかもしれません」
「・・・」
「しかし、非人に落ちると、氏神様へのお供えができません。これは、悲しいです。今はあきらめていますが」
「・・・」

 これには旧友たちも、慰さめる言菜もなく、
 しばらく雑談などを交わし暇を告げ、
 心尽くしの綿入れを秘かに持ち帰りました。


(大江戸実々奇談 35話 文章は現代語に、私流に意訳してあります)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 この物語で一番悲しいことは、
 心尽くしの綿入れを、
 渡せなかった
 貰えなかった
 ことかもしれませんね。


 そういう意味で、物質よりも
 心の温かさの大切を著者は訴えたかったのかもしれません。

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つづく。

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posted by マネージャー at 02:04| Comment(2) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

科学技術予算を削って良いのか?

行政刷新会議「事業仕分け」
第1ラウンド終了 概算要求の削減額、4,380億円余りに

http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00166788.html

尾立参院議員は
「いったん廃止をさせていただくという結論に、落ち着かせていただきたいと思います」
と述べた。
説明者が
「今のちょっと、結果についてご質問させていただきますか」
と話すと、進行役は
「結果についての質問は受けつけません!」
と、質問を遮る場面もあった。
(11/18 06:50)


事業仕分けについて


 行政刷新会議の、仕分け人の中に民間人がたくさん含まれている。
 予算は法に基づいて作られるもので、
 法的資格のない民間人がこれを削れと言う根拠はどこにあるのか?
 それをそのまま認めるとしたら法治国家の意味がなくなります。

 しかも、仕分け人の民間人がいる。
 外資系の米国人もいる。
 外資系も含めて民間人は普通は利害関係がある。

 たとえば、この予算を削って、
 日本のこの部分が成長できなくなったら、
 喜ぶ国もあるかもしれない。


 その民間人が今、仕分けている予算について
 利害関係を持ってないことが必要だが、
 持ってないという証明は可能なのか?


 あと科学技術予算ですが、科学技術というのは、すぐ結果が出ません。しかし試行錯誤を繰り返し、数々の失敗の上にあるのが科学技術。それなのに今、結果が出ないからといって切るというのは、むしろこの日本の力を貶めて、日本は科学技術立国しかないのに、その未来を断ち切るんじゃないかと、心配するのは私だけでないでしょう。

 民間はすぐに利益を出さなきゃいけない。だから、科学技術のような時間がかかるもを国家がやるのであって、私たちは、そのために税金を払っている。それが国家の役割であり、戦後の高度成長は、官民一体になって、それを行ったから今の日本があるのだと思います。


つづく。

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ラベル:行政刷新会議
posted by マネージャー at 00:39| Comment(0) | ニュース・時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月19日

大江戸実々奇談 22話 離婚について

大江戸実々奇談 22話
「実々奇談」の紹介の続きです。


現代は離婚ブームです。世の中離婚だらけ。昭和時代は、離婚は悪いイメージがあり、人口当りの離婚率は1%以下でした。最近は徐々に増え、2000年代は2%ほどで推移しています。

では、江戸時代ではどうだったのでしょうか?
実は、今より高かったのです。


江戸時代〜明治前期の離婚率は、統計によると現在の2倍の4%前後だったそうです。農業が中心だったため、女性も働き手としての地位があり、再就職先に困らなかったためと考えられています。

武士階級にいたってはなんと離婚率は10%
にも達していたと言われています。
ちなみに女性の再婚率は50%以上です。


 昭和11年制作の映画「丹下左膳」では、子供の教育方針で、左膳と内縁の妻が夫婦ゲンカになり、左膳が負けるシーンがあります。昭和11年ですから、70代以上の人は江戸時代生まれです。つまり、江戸時代を知っている人には、これがリアリティーな夫婦の姿であったようです。以上の背景は、大江戸実々奇談の中にも、よく出てきます。第二十二話の「仇を思にて報ぜし人の事」を読むと、よく分かります。

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第二十二話 仇を思にて報ぜし人の事

 栃木県宇都宮に百姓孫七という者がいました。夫婦の間に一人娘も十八歳となり、跡継ぎの息子もないので養子を貰わんと探し、隣村に小百姓の倅、次男の清助という24歳を婿養子に取り、娘と結婚させ夫婦としました。しかし、この清助は、百姓の仕事に疎く日を経るにしたがい養家の心に叶わず、両親に訴えました。

「夫の清助は、百姓仕事に馴染まず、うわの空です。かかる亭主を持ちては、行く行く百姓の生業さえ難しいでしょう。離婚したいと思います」
「もっともだ。私らも同じように思っていた。あの婿は百姓に向いてない」
「そうなんです」
「この際、離縁して他の婿をとろう。もっとよく働く婿をさがそう」

 こういう事は、この時代では珍しいことではありませんでした。
 農家もやはり一種の能力主義社会だったのです。
 で、離縁にも間に立つのが仲人です。
 仲人を通じ清助方へも離縁を申しつけ親元へ帰しました。
 清助には拒否権はありません。さっぱりと諦め
「もう百姓になるのはやめました。江戸に出でて商人になります」
と両親と語り、若千の金子をもらい故郷をたちさりました。

 そして江戸に到着。馬喰町三丁目に小店を開き、『下野屋』と暖簾を掛け、木綿もの、手拭などを仕入れて商売を始めました。
 幸い売れゆき良く、御客様もつきました。
 そして得意先も増えました。
 その清助の勤勉な働きぶりに感心し、媒酌者もあらわれて、妻を迎えることもできました。そして毎日勤勉に働きました。そして三年間、呉服の行商に励むことによって資金もでき、店を拡げ、店員2人3人と増えていきました。

 一方、その清助を追い出した栃木県宇都宮に百姓孫七は、その後病死致し、残された母娘も百姓仕事を失敗し、田畑も質入してしまい、どんどん没落してしまい、最後には家さえも失い、縁者を頼ってわずかばかりの寄付をうけながら、母娘共々巡礼姿となって、江戸に向かいました。いわゆる親子のホームレスですね。そのホームレス親子が、人々の好意をたよって、江戸表に到着。下谷山崎町に四畳敷の長屋に、一日十六文の上納金を払って住まわしてもらいました。

 よーするに、日払いの簡易宿泊所に泊まりながら、西国巡礼の姿で乞食をしていたわけです。柄杓を差し出し、寄付を募って歩き、その寄付で、その日暮らしをしていたわけです。そして、ある日、馬喰町の方へまわって、一銭、二銭の寄付を受けつつ、馬喰町三丁目へ来たわけです。そこには清助の経営する『下野屋』もありましたから、親子は、その店先にも立ち西国巡礼の寄付を御願いしました。

 驚いたのは清助です。
 二人をまじまじと見て

「そなた達は、宇都宮在方孫七どのの連れあい、娘子ではないですか?」
「えっ?」

 立派に成功している清助。
 聖(乞食)に身を落とした母娘。
 巡礼顔を上げ見れば、身なりこそ違え以前養子の清助。

「これはこれは懐かしきお二方」

 親子は、大いに驚き恥じ入り、消えようとしました。

「あ、何処に行きなさる!」
「・・・」
「絶えて久しく御目にもかかりませんでしたが、御無事のようで、なによりです」
「・・・」
「ぜひ、お話もあれば、先ず先ず勝手に廻り足など洗って奥へ上がり給え」
「・・・」
「さあ、どうぞ、どうぞ」

 母娘は、裏口より座敷に通しされました。
 清助は、国元の事などを訊ねました。
 別れた元妻は、涙ながらに語りました。
 父、孫七が病死したあとの不幸を語り、
 過去に一方的な離縁をした非礼を返す返すも詫びました。
 清助は、

「詫びなどいりません。あなた方は、むしろ大の恩人です」
「?」
「縁あって一旦は親子、夫婦となったものの、私はあなた方に嫌われ、離縁されました」
「・・・」
「その結果、なにくそと、国元を離れたればこそ、この店が持てたのです。そのまま離縁せず、在所にあったらば私とて、あなた方と同様なっていたでしょう」
「思いもかけぬお言葉、痛く恥じ入ります」
「恥じ入ることはありませぬ」
「あらためて粗略に致せし非を深く詫いたします」

 どうやら巡礼姿に身を落とした親子は、人の心の痛みを身にしみて学習していたようでした。乞食は、人の善意をあてに生きています。善意がどれほどありがたいものか、その体験によって学んだようでした。働きが悪いからと、簡単に夫を離縁した自らに、どれほどの善意があったものか。そう考えると、ただ、清助に頭を下げるしかありませんでした。

 その後、清助は、母娘を店に迎え入れ、店の裏に家を建てて住まわせ、衣食など不自由なく届けました。母娘両人手を合せて感涙にむせびました。

 母娘は、御恩返しにと、本店に通い勝手の手伝い世話などをしました。そして、江戸の水に馴染んだころに、優秀な番頭との結婚をとりもち、この夫婦に暖簾を分け与え表店にて大物商を営ませました。

 清助のかかる厚き情を心に刻んで、母娘夫婦共々商いに専念しつつ、暖簾分けした店も日を追い繁昌していきましたが、何にも増して主人の恩を忘れるべからずと、万事、本店を大切に仕えたと言います。仇に報ゆるに恩を施せし清助の仏心、世にも珍しきことゆえに、ここに記録して置きます。


(大江戸実々奇談 22話 文章は現代語に、私流に意訳してあります)
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つづく。

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posted by マネージャー at 00:15| Comment(3) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

妙義山紅葉ハイキング2

妙義山紅葉ハイキング2

石門。
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まさにピークでした。
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今年は紅葉が早いです。
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つづく。

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posted by マネージャー at 00:11| Comment(0) | 横川・妙義山 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月18日

昨日は雪でした。

昨日は雪でした。大半は、今日1日で溶けましたが、油断はなりません。車の方は、そろそろスタットレスに変えた方がよさそうです。うちも、今日、2台ともスタットレスタイヤに変更にしました。

バイクで来ようとしている方は、止めた方がいいと思います。

つづく。

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posted by マネージャー at 22:57| Comment(2) | 業務連絡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

大江戸実々奇談 63話

「実々奇談」の紹介の続きです。

実々奇談とは、軽井沢の近隣である佐久市にあった岩村田藩の祐筆を務めた阿部重之進重保が自ら体験したり、人から伝え間いた話を15巻3冊にまとめたものです。

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今回は、大江戸実々奇談 63話の紹介。

江戸時代は、女性がやたらと強かった時代です。女尊男碑の時代ですね。原因は、はっきりしています。男の数が多すぎたんです。江戸の人口の7割が男で、女性はたったの3割。結婚できる恵まれた男性は、数少なかったようです。で、女性が優位な江戸には勝ち気な女性が出現するわけですが、そういう人たちを「おきゃん」と呼んだそうです。昔の時代劇には、必ず、そういうキャラがでていましたね。そういう時代に不倫がばれたら、どうなるでしょうか? 第六十三話は、そういう設定の物語です。

第六十三話 密夫方の女房金子を取りし事

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第六十三話 密夫方の女房金子を取りし事

 時は、天保時代。七左衛門と言う大富豪の農家がありました。近隣の村から美人妻を嫁にもらい、何一つ不自由なく暮らしていました。七左衛門の小作人に惣吉と言う貧乏農夫がおりました。結婚して、七左衛門の田を借りて、小作人として働いていたのですが、いつのまにか、七左衛門の美人女房と忍び会い、いわゆる不倫関係になってしまいました。それが七左衛門の耳にも入ったのです。

 ある日のタ方、七左衛門は、用事ができたと言って遠くに出かけました。すると、美人女房は、さっそく惣吉を呼び寄せ、こっそりと酒肴を楽しみ互いに酔いを催し同じ床に添い寝したのです。しかし、これは七左衛門の罠でした。

 今宵あたり惣吉が忍び居るやも知れずと、雨戸をそっと開け、忍び足に奥へ行きてみれば、案の定、女房、惣吉これを知らずして睦み合っていたのです。七左衛門は、これを取り押え声を荒らげ

「おのれら、あるじの目をかすめ不義いたずら、もはや逃がるる術なし。覚悟致しろ!」

と枕で散々に打ちすえました。
もちろん不倫を見つかった両人は、ただただ、詫び入るばかり。
そうなると七左衛門は、無念やる方なく

「おのれら、殺すは犬を斬ると同じ。されば許し難きを忍び、不倫の代償として七両二分の慰謝料をもってくれば勘弁してやる」

と言いました。
命が助かった惣吉は、詫びるだけでした。

「命さえ御助け下さらば、七両二分、さっそく持ってきます。以後、かかる不始末、決して致しません」
「ならば、詫び証文を書きなさい」

惣吉は、詫び証文を書き逃げ帰りました。
美人女房も、いまさら面目なく
「出来心なんです」
と消え入るように泣き崩れて頭をさげ
「こんな事は、二度としませんから許してください」
と言いました。
そこまで言われると七左衛門は、
ほれた弱みがあります。
許すことにしました。

 ちなみに、江戸時代において不倫は重罪にあたります。両者死罪となり、協力者は中追放か死罪になります。しかし、これは建前上のことでした。ようするに親告罪だったので、被害者が訴えない限り表沙汰にならないのです。
 姦通現場に乗り込むなど動かぬ証拠を掴まないかぎり奉行所など司法機関が訴えられた二人の関係を見極めるのが難しい。一時の感情のもつれで訴えられればきりがないため当事者間か双方の家主地主など土地の顔役が話し合う内済を命じお互い冷静に話し合い、それでも成立しなければ訴訟を受け付けたのです。
 つまり内済を経て訴えるため内済金を支払って解決することが多く内済金を「首代」と称し江戸では七両二分(加害者の経済状態に応じて値段は変動)という相場まで庶民に知れ渡っていました。

 ただし、夫は現場を発見すれば、
 間男と妻を殺害しても罪には問われません。
 だから惣吉は、命が助かったと安堵したのです。

 ただし惣吉は、自宅に帰ったけれど、
 首代(慰謝料)のを払う目処をがなかったので、
 女房にうち明けました。

「実は、今夜、はからずも、七左衛門殿宅にて、美人奥さんに酒を振るまわれ、あるじの留守宅にて大いに酔い潰れてしまいました」
「はあ?」
「そして目覚めて見れば、七左衛門の女房の布団に一緒に寝てました」
「なんですって!」
「ごめんなさい。でもって、そこに七左衛門が帰ってきて、この間男め!と、言われてしまい、殺されそうになりました」
「あきれた」
「そんでもって、平謝りに謝って、首代(慰謝料)の七両二分で許してもらったのですが、その金のあてもないので・・・」
「恥さらしだねえ」
「はい」
「それでも男かい」
「男だから恥をかいたわけで」
「おだまり」
「はい」

 惣吉の女房は、気丈でした。

「とにかく、しでかした事はしょうがない。家財諸道具を全部売り払い金を作りましょう」
「でも、そうしたら、死ねと言われるようなもの」
「じゃ、あんたの首を差し出すの?」
「いえ、家財諸道具を全部売り払います」

と全部売り払って七左衛門方へ首代(慰謝料)を持参の上、詫びることによって示談が成立しました。しかし、この惣吉夫婦、翌日よりして食うにも事欠き、その上寒さをふせぐ着物さえもありません。そこで惣吉の女房は、思案めぐらし、夫にも話さず七左衛門に会いに行きました。

「私の夫が心得違いにて不義を致しました。まことに不埒です。それを、首代(慰謝料)の七両二分で示談にしてくれ、まことに有難とうございます。また、御家内様をも、そのままにさし置かれたようで、波風立たず、惣吉の喜び例えん物なく御礼申し上げます」
「・・・」
「しかるに私、御内儀に今日の稼ぎ男を寝とられ、その上、家財道具も皆売りつくし、わたくしの衣類も質入れして寒さに震える毎日です」
「・・・」
「そのうえ、食うにも事欠くありさま。このままでは、乞食にでもなるしか、ありません」
「・・・」
「こうなったのも、憎き、わが亭主と、七左衛門殿の御内儀です」
「・・・」
「かくなる上は、奉行所へ許えたい」
「そりゃ困る」

 前にも言いましたが江戸時代において不倫は、両者死罪となります。
 惣吉も死罪になりますが、七左衛門殿の美人妻も死罪なのです。
 不倫に関して江戸時代は、男女同権だったのです。

「そりゃ困る」
「困るだと? ふざけんない! 困ってるのはこっちだい! こちとら、この寒さを単衣の着物で震えてるんだ!」
「そんな」

 不倫されたとはいえ、
 七左衛門は恋女房に死なれたくありませんでした。

「もし、その儀、御迷惑と思し召さば、私への首代(慰謝料)として、十五両払いな! そしたら示談にしてやってもいい。いやなら奉行所にて此の始末、ぜんぶぶちまけてやる!」

 あわてた七左衛門は、十五両を渡して示談にしてもらいました。

 惣吉の女房は、売り払った品々、質物などを買い戻し、そのうえ五両も余ったので、良き新年を迎えたということらしい。めでたし、めでたし。

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(でも、これほど気位の強い嫁さんだと、浮気したくなる惣吉の気持ちも少し分かるような気もします。世間では、これを逆美人局と言いますから)

つづく。

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posted by マネージャー at 01:52| Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

妙義山紅葉ハイキング

妙義山紅葉ハイキング

妙義山の紅葉はピークでした。

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まずは御参り。

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ここは山岳信仰の聖地です。

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これが石門。
4つも石門があるのです。

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大砲岩です。
大砲に見えますか?

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つづく。

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posted by マネージャー at 01:33| Comment(2) | 横川・妙義山 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月17日

大江戸実々奇談 38話

今日は、「実々奇談」の紹介の続きです。

実々奇談とは、軽井沢の近隣である佐久市にあった岩村田藩の祐筆を務めた阿部重之進重保が自ら体験したり、人から伝え間いた奇談63話を、嘉永七(1854)年に15巻3冊にまとめたものです。

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今回は、大江戸実々奇談 38話の紹介。

江戸の庶民が、世界一裕福であったことは、今や定説になっていますが、それがどのくらい裕福であったか? 江戸時代のホームレスの生活水準を垣間見ることによって、推測することが可能になります。そこで、生きてくるのが、この資料。大江戸実々奇談38話です。これを読むと、乞食に対するイメージが、ガラリと変わるでしょうし、それに施しをする江戸庶民の裕福さにも驚かされることでしょう。

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第三十八話 百姓江戸に来りて金子を溜めし者の事

信濃の国長久保宿(長野県小県郡長和町長久保)に、貧しい百姓がいました。運も悪く徐々に落ちぶれていくばかりでした。また、そこには、同じくらいに貧しい百姓がいました。二人は、お互いに、こんな相談をしました。

「俺たちは、お互いに歳も若い。なのに、こんな山奥で、やることもなく、飢えながら一生を終わるのも、やりきれないなあ」
「そうだなあ」
「そこでだ、江戸(東京)に行こうと思う。どうだろう?」
「江戸?」
「江戸で働き口をさがし、どんなことも辛抱して頑張れば、多少の金はできるかもしれない」
「そうだなあ、こんな山奥で朽ち果てるより、その方がいいかもしれないなあ」

 二人は、相談の上、江戸に行くことにしました。もちろん嫁さんとも相談しました。嫁さんは、親類に預かってもらい、旅費を調達し、旅支度整え、江戸へ向かいました。江戸では、馬喰町の宿屋に泊りました。

 馬喰町は、今では日本屈指の問屋街ですが、江戸時代では、旅籠屋がずらりと並んでいた、いわば旅宿街でした。古くは馬喰たちが出入りする宿場町的様相があったといいますが、やがて郡代屋敷がおかれて、江戸と地方の商店などと公事訴訟事件などが起ると、次第にその地方から出てくる人のために宿屋が増加し、ずらりと並ぶ旅宿街だったといいます。つまり、地方から上京してくる、おのぼりさんたちの宿泊地だったのですね。

 その馬喰町の宿屋で、二人は、こんな約束をして分かれたのです。

「この後は、お互いに、良いと思う働き口を求めて分かれよう」
「ああ」
「でも、十年後の本日と同じ日をもって、この宿で再会し、一緒に故郷へ帰ろうじゃないか」
「そうだな、十年後に逢おう」
「約束だぞ」
「約束だ!」

 二人は、堅く約束致し、翌日思い思いに働き口を求めて別れました。

 かくて一人は、本町四丁日薬種屋(薬局)へ奉公し、
 もう一人は、どういうわけか浅草雷門前で
 宿無しの乞食となりました。

 そして、互に顔を合わすこともなく光陰矢のごとく十年は、
 アッという間に過ぎてしまいました。

 薬種屋へ奉公の者は、努力をかさね、六十両余りも貯えていました。
 そして主人に暇を貰い、十年前に分かれた、
 あの馬喰町の宿に泊り、友の来るのを待ったのです。
 ところが、約束の日になっても、一緒に上京した友人は現れません。

「久しさ年月なれば、もしや友の身に異変でもあったのだろうか?」

など思い巡らし、さりとて尋ねるあてもないし。あと三日ほど待って一人でも帰国しようと心を定め、

「となると故郷への土産を買っておこう」

と宿を出たのですが、そういえば浅草観音に御願いしたことを思い出し、この度成就の御礼参りをしなければと雷門前に行ったのでした。

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 ところが、その雷門で、
 思いもかけず彼の朋輩に会ったのです。
 それも菰被りの乞食姿。
 驚いたのは、それを発見した友人でした。
 乞食姿の彼を、物陰に引き連れ

「これは観音のお導きか! 久し振りだなあ」
「ああ、久しぶりだ」
「だが、どうした? どうして乞食姿なんだ?」
「・・・・」
「おまえと、別れた後、おれには世話人になってくれる人がいて、本町の薬種屋へ手代奉公に有りつき、辛抱のかいあって、今は金子六十両余り出来た。そして退職し、馬喰町の宿にて、おまえさんを待っていたんだが、おまえさんは来ない。さりとて住んでる場所も分らないし、一人で国元へ帰らんと、今日は浅草観音へ心願成就の御礼詣りに来たんだ」
「・・・・」
「出会えたのは、嬉しいが、その姿では故郷へは帰れまじ。どうするかね」
「アッハハハハハハ!」
「金ならあるぞ」
「はあ?」
「故郷に錦を飾る金なら、三、四年のうちに貯めたよ」
「ええええええええええっ?」
「最初乞食仲間に入りし当座は、その日の食にも困り、日銭は十二、三文にて凌いだもんだった」
「・・・・・・・・」
「しかしな、毎日、同じ場所で乞食をやってると追々、顔見知りもでき、貰いの飯も三度食して余るようにもなった」
「・・・・・・・・」
「日々のお恵みも、六百文から、七百はもらうようにもなったさ」
「え?」

注/江戸時代の物価/文化文政年間(1806〜1830)
  焼き豆腐・・・・ 5文
  こんにゃく・・・ 8文
  桜餅・・・・・・ 4文
  汁粉・・・・・・16文
  かけ蕎麦・・・・16文
  風呂・・・・・・10文
  串おでん・てんぷら・イカ焼きなど、なんでも4文。

 1両=4000文。桜餅1000個買えます。
 1日600文もらい続けると、1週間で1両の稼ぎとなる。


「おれは、博奕はやらない。だから他に使うことも無かったので十年間もっぱら貯め置いて、三百両くらいの貯金がある。だから明日にも、おまえさんのところに訪ねようと思っていたんだよ」
「・・・・」

 苦労して六十両を貯めた友人は、呆然としていました。
 空いた口がふさがりませんでした。

「だったら明日にも旅立とう」

 乞食の友人は、乞食仲間の足を洗い、入浴・髪月代・衣類を整え、元の百姓となり、馬喰町を尋ね二人で国元へ帰ったのでした。

 身を落せば、もうかることも出来るという事なのだろうが、誰も、このくらい思い切って身を落とす勇気はないでしょう。目的のためには手段を選ばない名誉も伝統もかなぐり捨てるのも、また一つの勇気かもしれません。


(大江戸実々奇談 38話 文章は現代語に、私流に意訳してあります)
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ささらーの湯2

ささらーの湯2
つづきです。

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上田と言えば蕎麦です。

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そして焼き鳥三昧。
13本1000円は安い!

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蕎麦すいとん

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蕎麦ぽん菓子。

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真田の酒。

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リンゴ大放出。

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雨を理由に贅沢三昧であった。
ハイキングは、次回にもちこし。

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つづく。

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posted by マネージャー at 00:15| Comment(0) | 上田市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月16日

大江戸実々奇談 21話

今日は、「実々奇談」の紹介です。

実々奇談とは、軽井沢の近隣である佐久市にあった岩村田藩の祐筆を務めた阿部重之進重保が自ら体験したり、人から伝え間いた奇談63話を、嘉永七(1854)年に15巻3冊にまとめたものです。

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この本は、小諸市に住む安部輝男さんが、文書を解読して自費出版したものがでています。それを買って読んだのですが、嘉永七(1854)年の原本だけに、現代語訳なしでスラスラ読めるようになっています。今回は、本書を紹介したいと思います。

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ちなみに安部輝男さんは、この本を出した時は、90歳でした。
まだ生きていれば、100歳ですが、
はたして、お元気でおられますでしょうか?

 どうして本書を紹介する気になったかと言いますと、学生時代に学んだ歴史が自虐史観すぎからです。しかし、そういう嘘は、いずれバレるものです。というのも、江戸時代には大量の古文書が残されていて、その発掘が進むにつれて、江戸時代の庶民は世界一豊かであったことが証明されてしまうからです

 大江戸実々奇談も、そういうたぐいの文書なのですが、実は、この本は、ものすごく面白い。面白すぎて、ぐいぐい引き込まれてしまいます。江戸時代に興味ある方は、ぜひ読んで欲しい本です。

 と言うわけで、今回は、大江戸実々奇談 21話を紹介します。
 江戸時代の庶民と武士の娯楽が生き生きと書かれてあります。
 武士と庶民。
 その関係は、どういうものであったでしょうか?

 秋葉原でハルヒダンスを踊っていた若者と比較してみてください。
 実は、江戸時代も、平成時代も大差ないことが分かります。
 では、21話を読んでみましょう。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
大江戸実々奇談 21話

第二十一話 王子道にて諸人を化かせし者の事

 東京の王子に飛鳥山という桜の名所があります。ここは、今も昔も花見のスポットで、江戸時代でも、大勢の人々が、花見をしながらドンチャンさわぎをしていました。もちろん酒に酔って、悪ふざけをしたり、はめを外すのも、今も昔もかわりありません。

 ある日のことです。
 どこかの侍が、田んぼで九裸となっていました。
 衣類で大小の日本刀を巻いて肩にかけ、
 丸裸のサムライは、田んぼを歩きながら、
 大きな川を渡っているような身振りをしながら
「これは深い、深い」
と、独りで叫んでいました。それをみつけた庶民たち、大勢集まってきてワイワイガヤガヤと野次馬の列をつくり、見物をはじめました。

「さては、あの侍、狐に化かされたな? いまに馬の糞を食うぞ」
「いやいや、たんなる花見の酔っぱらいだろう」
「いーや、気が狂ったのさ、かわいそうになあ」

と、笑う者がいたり、気の毒思う者がいたり、みんな腰を下ろして見て居たのでした。やがて、この侍は、田んぼにて着物を着て、帯を締め直して真面目な顔で
「まず、今日は、是まで」
と見物に向って言いました。

見物人は大笑い。

あれは侍のパフォーマンスだったのでした。
「やれやれ、キツネじゃなくて、侍に化かされたわ」
とつぶやき、見物人たちはザワザワと解散していきました。

(大江戸実々奇談 21話 文章は現代語に、私流に意訳してあります)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

なんとも微笑ましいではないですか。そして、この文には、当時の武士と町人の姿が生き生きと書かれてあります。私たちは、この本から、もう一度江戸時代を見直してみたほうが良いと思います。次は、江戸時代の乞食と非人についての日常を紹介してみたいと思います。


つづく。

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posted by マネージャー at 14:36| Comment(2) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月15日

ささらーの湯

どういう訳か、今年の年末年始は、
ファミリーと男性の一人旅ばかりの予約です。
女性の一人旅がいません。
なぜだろう?
どうなっているのかなあ?
夏は、女性ばかりだったのに。
珍しいこともあるものですね。
と言うわけで、女性の御客様をお待ちしています。
まだ部屋は空いてますからね。

話は、変わりますが、今回のツアーの主人公は、この人!
ささらーさんです。
真ん中に写っている人が、ささらーです。
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で、ここは上田城。
つまり上田市ですね。

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で、今回のメンバー。

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で、行ったところが、「ささらーの湯」なんですね。

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ささらーが、ささらーの湯に入ったわけです。

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そういう親父ギャグツアーをやるために、
某夫妻が、ささらーを拉致して、
北軽井沢ブルーベリーYGHに
連れてきたらしい。
いよ! オヤジギャグの帝王!
で、館内はこんなかんじ。

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つづく。

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posted by マネージャー at 22:55| Comment(2) | 上田市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

北軽井沢まで一番安く来る方法

北軽井沢まで一番安く来る方法

今日は、北軽井沢まで一番安く来る方法を紹介します。
キラキラ号を使う方法です。

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路線バスにも乗り換えず、
新宿(横浜)から、
平日で2500円
休日で2800円
でこられます。

詳しくは、こちらをどうぞ!
http://www.hope-tour.co.jp/dom/special/karukusa.htm

空席確認
http://www.hope-tour.co.jp/bus/rsv.htm


軽井沢乗車場所
軽井沢プリンスショッピングプラザ ウエスト バス専用駐車場

プリンススキー場乗車場所
軽井沢プリンスホテルスキー場駐車場(12/1出発からの設定)

軽井沢1130乗車場所
軽井沢倶楽部ホテル軽井沢1130 前

草津温泉乗車場所
草津温泉ホテル櫻井前


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つづく。

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posted by マネージャー at 13:50| Comment(3) | 業務連絡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

コンピューターウイルスソフト+α+α

コンピューターウイルスソフト+α+α


>更新料0のウィルスセキュリティ0も持ってますが、
>昔は検出率が低くて使い物にならなかったんですが
>・・・ランキングを見る限りではまともになったみたいですね。

かなり検出率が高いですよ。
これは軽くて重宝しています。
欠点は、少しでも変な動きをすると隔離してしまうところです。

>そのかわりボットウィルスが増えてますね。

そうですね、それだけにたちが悪いともいえますね。
これはルーターを導入するなど、
2重3重の対策が必要になってきました。



>悩豚…昔 Win2kマシンに入れてたんやけど,劇重になったんで
>NOD32アンチウィルスに変えました。

ノートンは、ある程度のcpuのスペックがないと重いかも。
ウイルスバスターも、2007年まで重かったなあ。
最悪なのは、Vistaとの組あわせですね。


>Win2kマシンは,今は父が使てるんですがバージョンは4.0
>家にあるWinXPのは旧バージョンのままです。
>Macのほうは,無料のClamXavです。


2000は、名osでしたね。
xpも名作でした。
最悪なのは、Vista。

で、御客様にマイクロソフト社の方がいまして、
それを訴えたのですが、反論され逆に
Vistaを絶賛していました。

しかし、その後、すぐにウインドウズ7がでたので、
あの「Vista絶賛」は、なんだったのだろうか?

ちなみに群馬県のDellの出張サービスマンが、言っていたことには
群馬県の事業者でVistaを使っているところは、今のところゼロということでした。


つづく。

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posted by マネージャー at 13:18| Comment(0) | テーマ別雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月14日

コンピューターウイルスソフト+α

>>Norton アンチウイルス
>家はこれですね。
>軽くはないのですが、それほど早くなくても最近の
>パソコンなら大丈夫だし。
>メモリ増やせば何とかなるし。


うちも、一昨年まで長いことノートンを使ってました。合計7年くらい使っていたかなあ。ノートンを使っていた理由は、その拡張性にありました。ノートンインターネットセキュリティの他に、システムワークスまでも採用して、パソコンの管理をやっていたんです。これでレジストリの不具合を直したり、ノートン・ゴーバックの機能を使って、パソコンの緊急事態を何度も救い出しました。特に、ノートン・ゴーバックの機能には、何度も御世話になりましたね。大事なデーターを何度も救出しましたから。

しかし、ノートンをやめた理由は、宿屋という環境による、特殊な使い方にあるんですよ。例えば、御客様から予約の電話がきて、パソコンを立ち上げるときに、立ち上がりの時間が遅いと、遠方から高い電話賃を払ってかけてきている御客様に迷惑がかかる。そのために、1秒でも早くたちあがるウイルスソフトが必携になります。で、一番早いソフトを導入する必要があるわけです。もちろん最新型のディスクトップパソコンに最高スペックを入れて、そのうえで常駐ソフトは、最低数におさえて、さらに私的使用は、別のパソコンを使います。仕事用パソコンは、仕事用にしか使いません。

そのうえ、仕事用パソコンも、4台あります。

1.予約管理用パソコン(超軽くしてあるパソコン)
2.ホームページ製作用パソコン(いろんなソフト満載)
3.ブログ用&インターネット検索用パソコン
4.メール受信専用ノートパソコン

で、それぞれに用途に合わせて違うコンピューターウイルスソフトを入れているんですよ。



>ただ検出力に不安があるので非常駐の
>BitDefenderアンチウィルスソフトをコマンドライン版
>にしてファイルなどを二重にチェックしています。

なるほど賢いですね。私もノートンだけの時代があって、ある時、急にパソコンの動作が遅くなったことがあったんです。で、ノートンシステムワークスを導入して、軽くすることに成功したのですが、今は、ノートンを全廃して、軽いソフト3つを多用しています。

これは、宿屋という特殊環境のなせる技だと思います。一般の人は、そこまで神経質にならなくてもよいでしょうね。ただ、仕事に使っている人は、いくら神経質になってもなりすぎにはならないですが。うちなんか野場合は、パソコンとホームページが生命線なので、これに金を惜しむことはないですよ。


つづく。

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posted by マネージャー at 19:47| Comment(0) | テーマ別雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

世界一のグルメの街は、東京!

http://www.asahi.com/national/update/1113/TKY200911130219.html

星の数によるレストランの格付けで知られる「ミシュランガイド」の総責任者ジャンリュック・ナレ氏が12日、朝日新聞のインタビューに応じ、近く発売される10年版東京編では星付きの店が大幅に増えることを明らかにした。現在の173店が「200店前後になる」とし、「東京は世界の美食の首都だ」と評価した。

覆面調査や厳格な情報管理で知られる同書の発行元が
事前に内容を明かすのは異例。
星付きの店が世界最多の東京への敬意の表れだという。

 フランスのタイヤメーカー、ミシュランが発行する同ガイド東京編の09年版には、都市として世界最多の星付きレストラン173店が掲載されている。本場パリの65店を大幅に上回っているが、ナレ氏は「10年版では、東京で多数の店が新たに星を獲得する。星付きの店は200店前後だ」と述べた。

ナレ氏は、東京を「世界一のグルメの街」と位置づけるとともに、
2位以下は京都、パリ、大阪、ニューヨークの順だと発言。

日本への評価が高い背景を「すし、ウナギ、懐石といった分野別の料理がしっかり確立され、各分野を極めようと素材を選び、技術を磨く職人がいる。他の都市にはみられない特徴だ」と分析し、「東京にはパリの4倍の飲食店があるが、質も格別」と絶賛した。

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すごいですね、世界一のグルメの街が東京だなんて。
そのうえ2位が京都で、4位が大阪とは。
さすが料理の哲人を造った国です。

でも、まあ、これは、ある程度は予測されたことですよ。というのも外国人と比べると、日本人の口が奢っていることは確かですから。これは海外旅行すれば、すぐに分かります。ある有名フランス人シェフは、世界三大料理よりも日本料理の方が美味しいと言っているし、フランス料理が、こんなに多彩になったのも日本人のフランス料理シェフが、日本風に改良をしてくれたおかげと言います。

日本人の庶民の料理のこだわりは、江戸時代から始まっています。江戸の初鰹なんかそうですよね。ただ、これは喜んでいいことなのか? どうか? 口が奢ることが、単純に良いことなのか?

私の1ねんにおよぶ海外旅行で体験したことは、外国では、なんて質素な食生活をおくっているのだろう?ということでした。フランスでさえそうです。彼らが贅沢するのは、1年に数回。あとは質素なものです。


つづく。

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posted by マネージャー at 09:44| Comment(0) | ニュース・時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月13日

犬塚勉 梅野記念絵画館

まずは画像を御覧ください。

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これは写真ではありません。
絵です。
最近、テレビで紹介され、
全国に前代未聞のインパクトを与えた無名画家・犬塚勉の絵です。
たった38歳で谷川岳で絶命した山男の絵です。

1989年
「水が描けない、もう一度水を見てくる」
と言い残して谷川岳で帰らぬ人となった絵です。


そして、この犬塚勉の絵は、東御市の梅野記念絵画館
展示されています。

http://umenokinen.com/modules/cicoCal/index.php?action=View&event_id=0000000795

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何気ない草むら、石だらけの尾根、風雪にさらされたブナの幹。
そこにひそむ自然の息吹を、
全身全霊で感じとって絵にしたい一心で、
山に登り続け、38歳で絶命した伝説画家、犬塚勉。

奥多摩に住み、小学校や中学校の美術教師をつとめながら、
学校の美術準備室をアトリエに作品を描き続け、
没後20年を機に何度か展覧会が開かれて以来、
静かな話題を呼んでいます。


彼は言います。

風というものは、飛ばされんとする体をピッケルで、やっとの思いでささえながら山に登った、それが風であると。また、「おれは、一本のブナの木であり、一つの石である」と。彼は、体を鍛え、自然食を口にし、身心を鍛え抜いた飾り気のない人間になって、ようやく草や木が描けると考えていました。自然と一体となったときに初めて感じられる命をとらえようと、何十回も登山や沢登りを繰り返して自らを突きつめました。

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美術館には、大勢の見物客がいましたが、涙しながら絵を見ている人もいれば、技法を熱心に研究している者や、瞑想している人もいました。そして熱心にビデオを見ている人もいました。

展示は、今月の15日までです。
よかったら出かけてみてください。


東御市梅野記念絵画館・ふれあい館
〒389-0406
長野県東御市八重原935-1芸術むら公園
TEL:0268-61-6161
FAX:0268-61-6162


つづく。

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posted by マネージャー at 20:04| Comment(2) | 東御市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

コンピューターウイルスソフト

皆さんはコンピューターウイルスソフトは、何を使っていますか?
うちでは、6台のパソコンに、3種類のソフトを使用しています。
3種類使っている理由は、セキュリティの向上のためです。
バックアップ用ハードディスクを3種類のソフトで守るためです。
でも、一般家庭では、そういう贅沢は許されません。
で、どのソフトを使うか迷うわけですが、
その選択判断基準に、
外部機関が行ったウイルス検出率テストの結果があります。
ちなみに、2009年10月のAV-TEST.orgの検出率テスト結果は、

順位 製品名                  検出率
1位 G Data アンチウイルス―――――――――――99.85%
2位 McAfee ウイルススキャンプラス―――――――99.59%
3位 Norton アンチウイルス ――――――――――99.10%
4位 ウイルスセキュリティ ZERO ――――――――98.99%
5位 Kaspersky アンチウイルス ―――――――――98.59%
6位 Microsoft セキュリティエッセンシャルズ ――96.81%
7位 ESETアンチウイルス ――――――――――――96.60%
8位 AVG アンチウイルス ――――――――――――95.96%
9位 ウイルスバスター ―――――――――――――95.13%
10位 ウイルスキラーゼロ ――――――――――――86.41%
(2009年10月26日現在、総検体数718,226、AV-TEST.org調べ)

となっていました。まあ、どれも似たり寄ったりですが、
10位のウイルスキラーゼロだけは、異常に低いですね。

あと、ウイルス発見率が高ければ良いというものでも無いことが、私の使用環境で分かっています。どういうことかと言いますと、ウイルス発見率が高いと、ちょっとでも怪しい動きをするソフトを隔離してしまうからです。そのために、ウイルスに感染してないにもかかわらず、隔離されてしまうソフトウエアもでてくるからです。ソフトウエアの中には、スパイウエアと似た動きをするものもあって、そういうソフトが動作しなくなってしまうんですね。まあ、これは仕方ないですけれど。


 さて、おすすめのソフトです。
 私のおすすめは、以下の3つ。

1.安全性のみの追求なら
G Data アンチウイルス

2.安全と軽さの追求なら
ESET Smart Security V4.0
(軽くて早い)

3.安全性と価格の安さなら
(更新料がいらない)
ウイルスセキュリティZERO

ですね。過去には、ノートン・マカフィー・ウイルスバスターを使ったこともありましたが、高くて重くて検出されないウイルスがでたりで、いまは使ってないです。なにしろ3種類のソフトを使ってますから、どのソフトが、ウイルスの検出をしないかが、すぐにわかってしまいます。

つづく。

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posted by マネージャー at 08:43| Comment(5) | 愛犬日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする