2009年11月10日

森繁久彌さんが死去!

http://www.sanspo.com/geino/news/091110/gnj0911101934019-n1.htm

映画「夫婦善哉」やテレビドラマ「七人の孫」などで知られる俳優で演劇界初の文化勲章受章者、森繁久彌さんが10日午前、東京都内の病院で老衰のため死去した。96歳。

 森繁さんは7月22日、夏風邪をひき熱が出たため、検査をかねて都内の病院に入院。いったんは平熱まで熱が下がったが、痰(たん)が絡む症状がみられたため、入院を続けていた。

 森繁さんは2002年12月に、滞在先の沖縄県で心筋梗塞(こうそく)で倒れ、一時危険な状態に陥ったが、回復。その後は月に1回程度、かかりつけ医の訪問診察を受け、健康に気を使っていた。

 夏までは「96歳なりの生活、元気さ」(所属事務所)を保ち、NHKの大相撲中継を楽しんだり、日本を代表する指揮者、故朝比奈隆さんが指揮するクラシック音楽のDVDを見るなどして過ごしていたという。


以上、引用おわり!

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

正直言いまして、ショックでした。
何も手がつかないほどにショックでした。
というのも、私は
森繁久彌さんの大ファン
だったからです!

ああ、また一つ昭和が消えていく.....orz


この衝撃は、鶴田浩二さんが死んだとき以来だなあ。
御冥福をお祈り致します。





ゴンドラの唄 森繁久彌
生きるの主題歌です





森繁さんの歌の代表曲といえばやはり
知床旅情ですね
北海道ファンなら誰もが歌えます。
もちろん私も




オホーツクの船唄・知床旅情


で、森繁さんで思い出すのが、満州映画。
そして、彼が最も尊敬した男が、
甘粕正彦
でしたが、これはテレビや新聞報道ではスルーされるだろうな。

つづく。

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posted by マネージャー at 22:32| Comment(3) | ニュース・時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

御予約フォーマットに不具合がありました

北軽井沢ブルーベリーYGHの
御予約フォーマットに不具合がありました。
御指摘くださった御客様に、
お詫びと感謝の言葉を申し上げます。


こういう御指摘は、実にありがたいです。
いや、本当に!
このまま気がつかないでいたら、
どんな事故に繋がったかと思うとぞっとします。
で、御予約フォーマットを変更しました。

http://kaze3.com/reserve.htm

です。ホームページの方は、今なおしておきました。
御迷惑をかけて申し訳御座いません。
これでダメなら、
RXB10552@nifty.com
までメールをお送りください。

つづく。

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posted by マネージャー at 20:40| Comment(0) | 業務連絡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ベトナム旅行

JALが、大赤字で倒産するかもしれないとのこと。
はたして政府は、支援するのかどうか?
JALで、思い出したのは、戦前の

日泰定期航空機松風号不時着の原因判明

についてです。

 昭和13年頃、日本は九七式重爆を改造した旅客機MC20を主力機にしてアジアをネットする航空路を作ろうと近隣諸国に働きかけました。しかしフィリピンもベトナムもどこも欧米諸国が支配する植民地で、それぞれの宗主国は日本機の乗り入れを頑なに拒絶しました。

 黄色人種が製造した飛行機が乗り入れたら、白人の権威が色あせて植民地支配も揺らいでしまう、というのが拒絶の理由でした。しかし、例外がありました。植民地になってない「タイ」でした。そして、昭和15年にバンコクへの就航が実現しました。

 しかし、フランスが嫌がらせをしました。
 仏印上空の飛行を認めず、
 日本機はインドシナ半島を大きく迂回するルートを強いられたのです。

 ところが第二次大戦が始まり、ドイツの支配下に入った仏印政府は渋々日本の上空通過と乗り入れを認めました。こうして大日本航空の松風号がハノイ経由バンコク行きの第一便として飛ぶことになりましたが、その機体は、帰り道にベトナムのはハノイを離陸直後に墜落してしまいました。原因は何者かが燃料タンクに水を入れ、エンジンが停止したためだったと言います。同機は仏軍基地ジアラム空港を使っていました。機体に近寄れるのはフランス人だけで、彼らの犯行でした。仏印進駐には、こういう背景があったのですが、戦後世代の私たちには、知られされずにいます。

 しかし当時の日本は事を荒立てませんでした。
 何一つ。

 そして、仏印進駐。

 仏印進駐というと、日本が仏印を占領したかのように思う人がいますが、実は違います。主権は、フランス政府にあり、日本軍は、駐留しただけでした。いわゆる在日米軍基地みたいなものです。実はフランス人の仏印支配は、昭和20年の終戦まぎわまで続きます。

 フランス政府は、ベトナム人の弾圧し続け、ベトナム人を入れる監獄建設ラッシュが続いていました。サイゴン最大のチーファ監獄が完成したのは昭和18年でした。街や村には人頭税やら出産税やらを取り立てる華僑の徴税吏が駐在し、政府直営の阿片専売所も置かれ、その売り上げがハノイに集められていました。

で、この頃、ハノイ周辺は歴史的な洪水に見舞われ飢餓が発生。

日本軍は大釜を出して人々に粥を振舞い、昭和20年3月31日に日本軍がクーデター(明号作戦)を起こしてフランス人を行政から追い出し、クーデターのあと日本軍は仏印政府が貯め込んだ米を放出したのです。そしてまたたくまにフランス軍を撃破した日本軍に、多くのベトナム人が歓喜したのです。

ベトナムに旅行する人は、このへんの事を知っておくとよいでしょう。



つづく。

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posted by マネージャー at 11:53| Comment(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする