「実々奇談」の紹介の続きです。
現代は離婚ブームです。世の中離婚だらけ。昭和時代は、離婚は悪いイメージがあり、人口当りの離婚率は1%以下でした。最近は徐々に増え、2000年代は2%ほどで推移しています。
では、江戸時代ではどうだったのでしょうか?
実は、今より高かったのです。
江戸時代〜明治前期の離婚率は、統計によると現在の2倍の4%前後だったそうです。農業が中心だったため、女性も働き手としての地位があり、再就職先に困らなかったためと考えられています。
武士階級にいたってはなんと離婚率は10%
にも達していたと言われています。
ちなみに女性の再婚率は50%以上です。
昭和11年制作の映画「丹下左膳」では、子供の教育方針で、左膳と内縁の妻が夫婦ゲンカになり、左膳が負けるシーンがあります。昭和11年ですから、70代以上の人は江戸時代生まれです。つまり、江戸時代を知っている人には、これがリアリティーな夫婦の姿であったようです。以上の背景は、大江戸実々奇談の中にも、よく出てきます。第二十二話の「仇を思にて報ぜし人の事」を読むと、よく分かります。
第二十二話 仇を思にて報ぜし人の事
栃木県宇都宮に百姓孫七という者がいました。夫婦の間に一人娘も十八歳となり、跡継ぎの息子もないので養子を貰わんと探し、隣村に小百姓の倅、次男の清助という24歳を婿養子に取り、娘と結婚させ夫婦としました。しかし、この清助は、百姓の仕事に疎く日を経るにしたがい養家の心に叶わず、両親に訴えました。
「夫の清助は、百姓仕事に馴染まず、うわの空です。かかる亭主を持ちては、行く行く百姓の生業さえ難しいでしょう。離婚したいと思います」
「もっともだ。私らも同じように思っていた。あの婿は百姓に向いてない」
「そうなんです」
「この際、離縁して他の婿をとろう。もっとよく働く婿をさがそう」
こういう事は、この時代では珍しいことではありませんでした。
農家もやはり一種の能力主義社会だったのです。
で、離縁にも間に立つのが仲人です。
仲人を通じ清助方へも離縁を申しつけ親元へ帰しました。
清助には拒否権はありません。さっぱりと諦め
「もう百姓になるのはやめました。江戸に出でて商人になります」
と両親と語り、若千の金子をもらい故郷をたちさりました。
そして江戸に到着。馬喰町三丁目に小店を開き、『下野屋』と暖簾を掛け、木綿もの、手拭などを仕入れて商売を始めました。
幸い売れゆき良く、御客様もつきました。
そして得意先も増えました。
その清助の勤勉な働きぶりに感心し、媒酌者もあらわれて、妻を迎えることもできました。そして毎日勤勉に働きました。そして三年間、呉服の行商に励むことによって資金もでき、店を拡げ、店員2人3人と増えていきました。
一方、その清助を追い出した栃木県宇都宮に百姓孫七は、その後病死致し、残された母娘も百姓仕事を失敗し、田畑も質入してしまい、どんどん没落してしまい、最後には家さえも失い、縁者を頼ってわずかばかりの寄付をうけながら、母娘共々巡礼姿となって、江戸に向かいました。いわゆる親子のホームレスですね。そのホームレス親子が、人々の好意をたよって、江戸表に到着。下谷山崎町に四畳敷の長屋に、一日十六文の上納金を払って住まわしてもらいました。
よーするに、日払いの簡易宿泊所に泊まりながら、西国巡礼の姿で乞食をしていたわけです。柄杓を差し出し、寄付を募って歩き、その寄付で、その日暮らしをしていたわけです。そして、ある日、馬喰町の方へまわって、一銭、二銭の寄付を受けつつ、馬喰町三丁目へ来たわけです。そこには清助の経営する『下野屋』もありましたから、親子は、その店先にも立ち西国巡礼の寄付を御願いしました。
驚いたのは清助です。
二人をまじまじと見て
「そなた達は、宇都宮在方孫七どのの連れあい、娘子ではないですか?」
「えっ?」
立派に成功している清助。
聖(乞食)に身を落とした母娘。
巡礼顔を上げ見れば、身なりこそ違え以前養子の清助。
「これはこれは懐かしきお二方」
親子は、大いに驚き恥じ入り、消えようとしました。
「あ、何処に行きなさる!」
「・・・」
「絶えて久しく御目にもかかりませんでしたが、御無事のようで、なによりです」
「・・・」
「ぜひ、お話もあれば、先ず先ず勝手に廻り足など洗って奥へ上がり給え」
「・・・」
「さあ、どうぞ、どうぞ」
母娘は、裏口より座敷に通しされました。
清助は、国元の事などを訊ねました。
別れた元妻は、涙ながらに語りました。
父、孫七が病死したあとの不幸を語り、
過去に一方的な離縁をした非礼を返す返すも詫びました。
清助は、
「詫びなどいりません。あなた方は、むしろ大の恩人です」
「?」
「縁あって一旦は親子、夫婦となったものの、私はあなた方に嫌われ、離縁されました」
「・・・」
「その結果、なにくそと、国元を離れたればこそ、この店が持てたのです。そのまま離縁せず、在所にあったらば私とて、あなた方と同様なっていたでしょう」
「思いもかけぬお言葉、痛く恥じ入ります」
「恥じ入ることはありませぬ」
「あらためて粗略に致せし非を深く詫いたします」
どうやら巡礼姿に身を落とした親子は、人の心の痛みを身にしみて学習していたようでした。乞食は、人の善意をあてに生きています。善意がどれほどありがたいものか、その体験によって学んだようでした。働きが悪いからと、簡単に夫を離縁した自らに、どれほどの善意があったものか。そう考えると、ただ、清助に頭を下げるしかありませんでした。
その後、清助は、母娘を店に迎え入れ、店の裏に家を建てて住まわせ、衣食など不自由なく届けました。母娘両人手を合せて感涙にむせびました。
母娘は、御恩返しにと、本店に通い勝手の手伝い世話などをしました。そして、江戸の水に馴染んだころに、優秀な番頭との結婚をとりもち、この夫婦に暖簾を分け与え表店にて大物商を営ませました。
清助のかかる厚き情を心に刻んで、母娘夫婦共々商いに専念しつつ、暖簾分けした店も日を追い繁昌していきましたが、何にも増して主人の恩を忘れるべからずと、万事、本店を大切に仕えたと言います。仇に報ゆるに恩を施せし清助の仏心、世にも珍しきことゆえに、ここに記録して置きます。
(大江戸実々奇談 22話 文章は現代語に、私流に意訳してあります)
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つづく。
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