(鎌原城ツアー2009/11/30)
つづきです。
武器を捨てて修験道で開拓していった荘園領主の下屋氏一族と、地頭職にある鎌原氏の2大勢力が成立します。では、下屋氏一族と鎌原氏は、その後、どのような運命になっていったのでしょうか?
下屋氏一族は、武力ではなく、修験道という宗教の力をもって民を治めました。この方法は、武力をもって侵略するより、はるかに効率が良かったらしく、アッという間に北部群馬県を制圧していきました。これは昔、ソ連がマルクス主義を抱えて、アッという間に世界中を制圧していったのと似ています。
しかし、下屋氏一族は、武力をもってなかったために、同族の地頭職である鎌原氏に、領地を掠め取られます。すると、各地の地頭たちも、下屋氏一族の領地を次々と掠め取ります。その結果、嬬恋村全体が、群雄割拠の時代に入ってしまうのです。親戚同士が互いに武力で争い、下屋氏本家は、アッという間に廃れていきました。
代わりに勢力を台頭したのが鎌原氏です。
実は、先日、その鎌原氏ゆかりの地、鎌原城に行ってきました。
これが鎌原城の跡地です。
造りは、小諸城に似ています。
三ノ丸追手門付近です。
この城は、長らく調査も、文化財保護もなされていませんでした。
嬬恋村は、そういう事に全く興味がありませんでした。
あと地元民たちの鎌原氏への憎しみもありました。
その理由は、後で述べます。
最近になって、鎌原氏の後子孫が、個人的に金を出して碑を建設。
自治体は、全く関与していません。
真田六文銭があります。
鎌原氏は真田一族なのです
ここに鎌原氏の先祖代々の墓が1つだけあります。
しかも1つだけ。
先祖代々の墓が1つだけ。
これには、訳があります。
鎌原氏には、敵が多かったために、墓が暴かれるのを恐れて、長い間、墓を作れなかったのですね。どういう事かといいますと、真田氏が群馬県に攻めてきたときに、その片棒を担いで、一緒に攻めていったのが鎌原氏であり、他の下屋氏一族を次々と滅ぼしていったために、多くの下屋氏一族の恨みをかっていて、墓を作れなかったのですね。
で、ここに、やっと墓ができたのが、
昭和45年、つまり1970年なのです。
それまで墓を作れなかった。
だから、先祖代々の墓と言っても、この墓は新しいのです。
墓には、歴代の鎌原氏の戒名が彫られています。
1975年まで墓を作れなかった鎌原氏。
敵が多く土地の人に嫌われていた鎌原氏。
いったい、どうして、これほど嫌われていたのでしょうか?
真田氏と嬬恋村を攻めたためなのでしょうか?
それだけで、墓を作れないほど嫌われるものでしょうか?
次回は、その謎に迫ります。
つづく。
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ラベル:嬬恋村史と、真田一族 鎌原城