2009年12月04日

「科学」「学習」が休刊へ

「科学」「学習」が休刊へ

http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20091203-OHT1T00189.htm

 学研ホールディングスは3日、学習雑誌の草分け的存在で学年別小学生向けの「科学」と「学習」を2009年度末までに休刊することを発表した。

 「科学」(月刊)は来年2月発売の3月号で、「学習」(季刊)は今月発売の冬号で休刊。同社は休刊の理由について、出版不況に加え「少子化という社会構造の変化や子供たちの価値観が多様化したことで、学年別雑誌が時代のニーズに合わなくなってしまった」としている。

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残念だなあ。科学と学習が廃刊ですか。科学と学習、子供の頃は御世話になりました。小学校の時に学校で買いました。本屋さんが毎月売りにきていて、廊下で買った覚えがあります。

 私は、科学と学習の両方を買ってもらっていましたが、科学だけ、学習だけの子供たちも多く、科学派・学習派で2大派閥に別れて抗争していましたね。だいたい男の子は、科学派で、ゲルマニュウムラジオを造ったり、いろんな実験をして遊んでいました。

 学習派の人たちは、もっぱら勉強の付録が多くて、それを真面目にやっていました。買っているのは女の子が多かったですね。

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 私自身は、どっちも好きで、密かに学習のファンでした。というのも読みごたえのある厚さだったのと、付録にオカリナがついていて、それが、いたく気に入っていたからです。あと、機械式計算機も気に入りましたし、粘土工芸セットや、勉強すごろく。回答の正解が出ると、もう一回サイコロをふることができるんです。





あれが、廃刊になるのは寂しいなあ。
ちなみに、小学生シリーズも廃刊になっているらしい。

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つづく。

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posted by マネージャー at 17:44| Comment(3) | ニュース・時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

嬬恋村史と、真田一族5

嬬恋村史と、真田一族5
(長野原城見学ツアー2009/11/30)


つづきです。

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 武器を捨てて修験道で開拓していった荘園領主の下屋氏一族と、地頭職にある鎌原氏の2大勢力が成立します。下屋氏一族は、武力ではなく、修験道という宗教の力をもって民を治めました。しかし、下屋氏一族は、武力をもってなかったために、同族の地頭職である鎌原氏に、領地を掠め取られます。実は、先日、その鎌原氏ゆかりの地、鎌原城に行ってきました。これが鎌原城の跡地です。

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 ここに鎌原氏の先祖代々の墓が1つだけあります。鎌原氏には、敵が多かったために、墓が暴かれるのを恐れて、長い間、墓を作れなかったのですね。で、ここに、やっと墓ができたのが、昭和45年、つまり1970年なのです。それまで墓を作れなかった。いったい、どうして、これほど嫌われていたのでしょうか?

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 その前に歴史のおさらいをしておきます。

1.真田氏とは何か?

 真田氏とは、海野氏の分家にあたります。
 具体的に言うと海野棟綱の息子が真田幸隆です。
 つまり、真田氏とは、海野氏のことです。
 有名な六文銭の旗印も、もともと海野氏の旗印。
 真田幸隆の息子が、真田昌幸。孫が真田幸村。
 図にすると、こうなります。

 海野棟綱−真田幸隆−真田昌幸(徳川軍を破る)−真田幸村



2.海野棟綱と真田幸隆とは?

 海野棟綱と真田幸隆は、親子です。もともとは、上田市のあたりで勢力をもっていましたが、1541年、武田信虎と戦って大敗し、嬬恋村に逃げてきました。
 嬬恋村には、親戚の下屋氏一族がいたからです。下屋氏一族も、もともと海野氏でした。その下屋氏一族の中の、羽尾幸世をたよって、海野棟綱と真田幸隆は逃げてきました。海野棟綱は49歳。真田幸隆は28歳の時です。



3.なぜ、海野棟綱と真田幸隆は、羽尾幸世をたよって逃げてきたのか?

 実は真田幸隆は、4年前の1537年に羽尾幸世の娘と結婚していたのです(『加沢記』による)。その縁で、羽尾幸世をたよって逃げてきたのです。ちなみに、羽尾家の旗印も六文銭です。真田幸隆にとって羽尾幸世は義理の父でしたが、羽尾幸世も真田幸隆を本当の息子のように可愛がったようです。



4.羽尾氏とは?

 羽尾氏は、もともと真田氏と同じく海野氏でしたが、この頃は、上杉謙信についていました。海野棟綱は、上杉謙信の力をもって旧領を取り戻そうとしますが、息子の真田幸隆は、逆に武田軍団につこうとします。そして、親子は別れ別れとなります。海野棟綱は、羽尾氏とともに上杉謙信の軍団に入り、真田幸隆は、羽尾家から出て行きます。そして、武田晴信(信玄)が父・信虎を国外追放して家督を継いだのを契機に武田家に仕官し、旧領を回復していくのです。



5.旧領を回復した真田幸隆のその後は?

 真田幸隆のその後は、武田軍団の先鋒として、嬬恋村に入ってきました。当時の嬬恋村の豪族たちは、上杉謙信についていました。しかし、真っ先に裏切って、真田幸隆の配下に入ったのが、鎌原氏でした。以後、鎌原氏は武田氏を後楯として、羽尾氏と戦います。真田軍団は、恩人でもあり、義理の父でもある羽尾氏を攻撃したのです。そのとき、戦場となったのが、この長野原城です。


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長野原城は、真田氏が造りました。
これは瑠璃光堂。
城の入り口にあります。

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城には、掘や土塁が残されています。
真田の砥石城の造りに似ています。
細長い稜線上に土塁が築かれています。

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これが本丸。建物はありません。

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 1563年5月、信玄は長野原城の守りを固めさせています。当時、長野原城は、真田幸隆の舎弟、常田新六郎隆永が守っていました。そこに上杉謙信の配下、岩櫃城主、斉藤憲広が長野原城攻略に動きました。

 羽根尾城の城主、海野幸光・輝幸兄弟に500騎を、甥の斉藤弥三郎には200騎を与え、また白井城主の白井長尾氏にも援軍を請い、真田勢を攻めました。そして真田幸隆は、敗退します。

 やはり上杉軍は強いのです。
 まともに戦えば武田軍団には、勝ち目がない。
 しかも上杉軍は、利でうごかない。
 義で動くので、始末に負えない。

 そこで、真田氏は、まともに戦わないことにしました。
 もともと同族であったので、血縁を利用して裏切りをさそいます。
 内部からの寝返りによって攻めようとします。
 これが大成功します。


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 こうして真田軍の戦法が確立し、忍者などの工作員を動員する独特な破壊工作を得意としていくようになります。馬鹿正直な上杉謙信の軍団たちは、これに翻弄され、真田軍団は群馬県を次々と侵略していきます。武田信玄が川中島で、上杉軍団に手こずっているにもかかわらず、真田軍団は上杉軍に勝利していくのです。

 恩人であり、義理の父さえ平気で攻撃するするのが真田軍団でした。しかも裏切りを得意としている。このへんの事は、大河ドラマには絶対に出てこないエピソードでしょう。実は、この真田軍団の慣習が、嬬恋村に微妙に残り、時代が下って幕末に日本史を変えるほどの大事件に発展していくのですが、それについては、後日のべることにしましょう。


 話は、変わりますが、日本ユースホステル協会を立ち上げた横山祐吉氏は、真田軍団の末裔です。そして、日本恐妻家協会を設立し、しかも群馬の婦人団体の抗議によって、あっけなく解散してしまったのも横山祐吉氏たちでした。そして、その真田のゆかりの地、嬬恋村で、私はユースホステルを経営しつつも、日本愛妻家協会聖地委員会の広報委員長をやっています。これも何かの縁かもしれません。

つづく。

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posted by マネージャー at 02:10| Comment(0) | 長野原町 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする