2010年01月08日

日本ユースホステル史の源流9

日本ユースホステル史の源流9

つづきです。

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 田澤義鋪は、旧藩主の鍋島直彬から奨学金をもらって、鹿島中学に入りました。鹿島中学は新設であったので、図書館も本もありませんでした。そこで田澤義鋪は、自らの力で図書館をつくりはじめました。倒産寸前の鹿島藩を救った鍋島直彬を手本に動き始めたのです。

「図書館がないなら、自分たちで造ろう!」

 仲間を集め、手分けして郡内を廻り、各村からいくらかずつの寄附金を集め、それで本を買い集め、小さな家を借りて小図書館を作り、その管理を学生たちが当番制で受持ちました。また、夏休みになると仲間たちを集めて組織を作り、集団的な勉強会を開き、それがすむと野球その他のいろいろの運動をやりました。運動にあきると、海岸まで走って行って、波に向って吠えたてる競争などをしました。

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 中学四年の夏休みには、四人の友達と学生会のボートに乗り、島原半島一周の大遠征を試み、ボートを大破させたりもしました。しかし、夏休みがあけて九月になると、このボートのことが大問題になりました。外海へ乗り出すさえ無謀であるのに、その上破壊までするとは何事かと大騒ぎになったのです。

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 そこで田澤義鋪は、一行を代表して、謝罪大会を開きました。しかし、謝罪のはずが、いつの間にか血肉わきおどる大冒険の体験談になってしまっていました。そして、批難をあびせていた連中までが、その体験談に感心し、大拍手をおくっていました。しかし、この時の田澤義鋪は、2年の飛び級をしているのです。みんなより2歳若い。なのに大勢の同級生を感心させる弁舌をふるっていました。これは、厳格な父の漢学教育のたまものであったのかもしれません。漢学によって純粋培養されていたために、その人徳と語彙の豊富さによって、いつのまにか、みんなを魅了していたのです。

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 明治三十四年七月。熊本の第五高等学校の入学試験に合格。九月に田澤義鋪は入学しました。もちろん鍋島直彬の援助によってです。しかし、この第五高等学校で、禁酒の誓いを破ったということで退学になります。ボート部の先輩に無理矢理飲まされて、それがバレて退学になったのですが、同級生たちは、一人残らず田沢に同情し、その処分に憤慨しました。そして学校当局に向って、処分取消の陳情をすることに決し、クラスを牛耳っていた後藤文夫をその先頭に立て、退学を取り消してもらいました。これいらい後藤文夫と田澤義鋪は、終生の親友になります。


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 この後藤文夫は、後に政治家となって、日本の改革をすすめた人で、2.26事件の時に二日にわたって内閣総理大臣臨時代理を務めています。息子さんは、後に法務大臣を務めた後藤正夫ですね。田澤義鋪は、この後藤文夫とペアとなって、後藤は政府側から、田澤義鋪は民間側から日本を大改造するわけですが、それは後の話です。

 ともかく、田澤義鋪は、熊本の第五高等学校で
 後藤文夫という終生の親友を得ました。
 これは田澤義鋪の人生において大きかった事件でした。

 それから田澤義鋪は、もう一人の親友を得ます。
 次郎物語の著者である下村湖人です。

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 下村湖人。

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 彼も佐賀県人であり、旧佐賀藩の人間ですが、この下村湖人が、田澤義鋪と意気投合し、終生の友となるのです。そして田澤義鋪と下村湖人は、ほぼ同一な思想と信念をもつ同志になるのです。

 これは余談になりますが、日本ユースホステル協会を立ち上げた横山祐吉氏は、この田澤義鋪と下村湖人の二人に大きく影響を受けました。しかし、この二人の影響を受けたことが、横山祐吉という人間を分かりにくくしているのです。

 特に下村湖人の影響を受けたことが、本当に分かりにくくしてしまった。というのも、下村湖人という男は、文章にしにくい人で、分かりにくいところがあります。彼を分かるためには、次郎物語を5部まで全部読まないとわかりにくい。というのも、下村湖人には、漢学の素養の他に、「葉隠」の思想が混じっているからです。

 田澤義鋪は、四書五経の世界で純粋培養されて育ったのに対して、下村湖人は、ちょっと違っていました。下村湖人の思想の中には、葉隠の精神が混じっていました。

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 ここで誤解されると不味いので、はっきり書いておきますが、「葉隠」と書くと「武士道とは死ぬことと見つけたり」の名文句だけが一人歩きして、下村湖人をそういう色眼鏡で見てしまいがちなのですが、それは違います。

 「葉隠」は、そういう殺伐としたものではなく、もっと通俗的なものであり「恋」を一番重視しています。それも「忍ぶ恋」です。よーするに永遠の片思いですね。たとえ夫婦であっても片思い。それが胸に秘められることが、武士の道であると言っているのです。分かりやすく意訳すると「それとは気づかせない思いやり」になるでしょうか。

 この葉隠精神を基に下村湖人は、「煙仲間」という運動をはじめるのですが、この「忍ぶ恋」の精神を静かな国民運動までに昇華しようとしましたが、残念なことに軍部に乗っ取られます。このあたりの雰囲気は、次郎物語の5部に、よく描かれています。

 世の中に、この「忍ぶ恋」の精神を浸透させることによって、世界を変えようとしたのが、下村湖人であり、彼の代表作である次郎物語は、そのテーマで一貫しています。葉隠の原文と次郎物語の5部まで読めば、私の言いたいことは、分かっていただけると思います。

 横山祐吉氏は、この下村湖人の弟子であったのです。
 しかし、横山祐吉氏は、それを生前に口にしていません。
 口にせずにお亡くなりになってしまった。

 田澤義鋪の事は、たびたび口にしているのに、下村湖人のことは口にしてない。その理由は、下村湖人という人間を解明していくと、徐々に分かってくるのですが、横山祐吉の中には、思想的には田澤義鋪の影響が、人格的には下村湖人の影響が、かなり濃厚に残されていて、それが横山祐吉氏を余計に分かりにくいものにしてしまったのですね。だから横山祐吉氏と話をしたことがある人間は、彼の禅問答のような回答に困惑してしまう。分かりにくいのです。そして、そのわかりにくさが今日の日本ユースホステル協会の性格を造ってしまった。しかし、私たちユースホステル関係者たちは、それらの背後関係を知らされてないのです。そこに悲劇と誤解があった気がしてなりません。

 話が、脱線しすぎました。
 本題に入りましょう。
 田澤義鋪の話です。
 田澤義鋪が、日本のユースホステル運動の基礎を造ったはなしです。
 どうやって基礎を造ったか....。

つづく。

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posted by マネージャー at 01:29| Comment(0) | 日本ユースホステル運動の源流 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする