日本ユースホステル史の源流12
つづきです。
蓮永寺の講習から五ヵ月後、三保の松原に天幕(テント)が張られました。日本初の天幕講習会でした。共に語り、共に楽しみつつ、懇談会(ミーティング)を行いました。中でも懇談会(ミーティング)を重視しました。人格をたかめあい、心のふれあいを行うためには、講習よりも、懇談会(ミーティング)が適していたからです。
ドイツでユースホステル運動をはじめたリヒャルト・シルマンは、野外教室で子供たちに勉強を教えました。時に得意のバイオリンをひき、歌を歌いました。賛美歌も歌い、聖歌も歌いました。それはさながらサウンドオブミュージカルのようでもありました。これが、ドイツのユースホステル運動の根源となりました。
ほぼ同じ頃、日本でも、同じようなことを発想した人がいた。
田澤義鋪でした。
しかし、田澤義鋪とリヒャルト・シルマンでは、少しばかり違っていました。リヒャルト・シルマンは、小学生を相手にしていたのにたいし、田澤義鋪は青年を相手にしていたところです。
なぜ青年であったか?
明治維新は、大量の失業者を出しました。
版籍奉還、廃藩置県、失禄処分。
まず武士たちが失業しました。
ものすごい数の士族が職を失い、路頭に迷いました。
突然のことでした。
一方で、武士たちよりも遙かに巨大な数の失業者たちもいました。
青年たちです。
明治維新前の青年たちには、仕事がありました。警備、消防、災害救助、神事、祭、公共事業、社会教育などの仕事です。彼らは、子供を卒業すると、自宅には寝泊まりせず、若者宿(若衆宿・郷中宿)で寝泊まりしました。そして、そこから仕事に出て行きました。結婚すると、自動的に若者宿(若衆宿・郷中宿)を出て行き、今度は大人(オトナ)と呼ばれる世界に仲間入りしました。
明治維新がおきるまでの日本では、大人(オトナ)の世界と、若者組の世界の二重構造になっており、警察や祭礼や公共事業は、若者組の役割であり、家を守るのは大人組の役割でした。
若者組は、治安維持や道路、橋梁の修繕、堤防の築造などのいろいろな仕事に対し、一人前として責務を果たさなければなりませんでした。しかし、子どもと大人の間の人生の多感な頃を同世代の者達と寝食を共に楽しく過ごしました。そして大人への仲間入りをするためのしきたりなどを学びました。これらの日本の風習が分からないと、明治維新を行った維新の志士たちが、みんな二十歳代であったことが分かりにくいのです。
しかし、明治維新によってヨーロッパの風習が導入され、警察や公共事業が公務員によってなされるようになると、若者組は用無しとなり、失業してしまいました。その失業者の数は、路頭に迷った武士たちの数倍にもなったことでしょう。
失業した若者組の人々は、やることを失って、イタズラや夜這いといった悪弊がはびこり、いつのまにか、社会から糾弾される立場にまで転落しました。また、西南戦争により、若者組の延長から構成された西郷隆盛軍が、近代的な政府軍に全滅させられることによって、若者組という江戸時代の遺物は消滅したかに見えました。
田澤義鋪は、そんな青年たちに希望を託したのです。
かって鍋島直彬が、青年田澤義鋪に希望を託したように。
しかも田澤義鋪は、青年たちに勉強を教えることよりも「自分で考え自分で解決する」ことを重視しました。多くの青年たちが、田澤義鋪のところに悩み事を相談しに行きましたが、田澤義鋪は決して自分から答えをださず、かならず相談してきた者自身に考えさせました。あくまでも自分で考え自分で解決させたのです。そして自主独立の気風を青年たちに植え付けたのです。
これは、上の命令でロボットのように動く青年を育てる世界と正反対の世界でしたから、日本が軍国主義化していくと、徐々に国家社会主義者たちの弾圧を受けるようになります。そして田澤義鋪は、大政翼賛会と反発するようになり、第二次大戦中に「日本は負ける」と公言するようになりますが、それは後の話です。
つづく。
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posted by マネージャー at 19:07|
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