2010年02月28日

2010年−草津温泉キャンドル雪灯り

草津温泉キャンドル祭り
『2010年−草津温泉キャンドル雪灯り』の報告。

今年は「天狗山ゲレンデ」に会場を移しました。

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やはり、会場の雰囲気は違っています。
面積が広いので、空間があいている。

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デザインは、小泉さんぽいので、
小泉さんがやっているのかなあ?

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つづく。

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posted by マネージャー at 23:01| Comment(2) | イベント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

私の小学校時代を思い出した3

 つづきです。小学校3年生の時、私は、団塊の世代の新任の先生のクラスに入りました。そして、その先生に3年間習うことになるのですが、この先生が変わり者でした。いわゆる団塊世代先生でした。驚愕の毎日が続きました。詳しくは、私の小学校時代を思い出した2を読んで貰うとして、この頃、私の家庭に異変がおきました。

 父親が、成績が悪い私にガリ勉を要求しだしたのです。
 テストの点が悪いと、遠慮無く私を殴りつけました。

 そのうえ小学校教師である母親が、私と同じ学年を担当することになり、家に帰ると、母親が私の勉強をみだしました。具体的にいうと、授業の予習をさせました。その結果、私は、とんでもないことになりました。

 学校が、つまらなくなってしまったのです。

 どんな授業も、すでに自宅で予習してあったために、教室の授業が、まるでつまらないのです。そのために、授業中に漫画を描いたり、悪戯をしたり、居眠りをしました。

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 団塊世代先生は、そんな私を注意し、何か質問などをするのですが、すでに予習してあるので答えられました。しかし、それで学校の成績が良かったかというと、全くダメでした。だいたい授業がつまらなくて、授業をサボっていますので、成績が良くなる訳がありません。だから私は、今でも、公立小学校においての授業の予習は、害毒そのものだと思っています。

 公立小学校では、授業は絶対に予習してはダメ。
 むしろ予習は禁止し、
 学校で先生から楽しく学ぶことに専念する。
 どうしても勉強させたいなら復習だけにする。


 これが公立小学校においての子供の正しい勉強だと思います。
 でないと、子供は授業嫌いになってしまいます。

 まあ、そんなことは、どうでも良いのですが、団塊世代先生は、新任であるために、それなりに教育熱心でした。そして私に対して不思議そうに首を捻っていました。どうして、授業をサボっているのに質問しても答えられるのだろう? なのに、どうしてテストの点が悪いのだろう?と。教育熱心な先生であればあるほど、そういう疑問が湧いたのだと思います。それを事あるごとく教室で言いましたし、家庭訪問でも言いました。私は、そんな団塊世代先生に漠然と

「何で、そんなに頭の悪いことを言うのだろう?」

と不思議に思っていましたが黙っていました。

 下手なことを言って、告げ口されて厳格な父親を怒らしたくなかったし、母親から余計に勉強をみさせられたらたまったものでなかったからです。だから黙っていました。


 そして小学校5年になると、
 大事件がおきました。
 父親が浜松に単身赴任で転勤してしまったのです。

 厳格な父親がいなくなりますと、これ幸いとばかりに、
 自宅で予習するのをやめてしまいました。
 もちろん復習なんかするわけがない。

 つまり、全く勉強しなくなったのです。

 かわりに毎日遊びまくりました。
 すると意外なことがおきました。
 成績がアップしました
 具体的に言うと通知表が4と5ばかりになりました。
 こんな事は、生まれて初めてでした。

(ちなみに中学になると父親が単身赴任から帰ってきて、また成績が下降した)

 世間の先生や親たちは、
「遊ぶだけで、成績がよくなるわけがない」
と思うでしょうが、事実は小説よりも奇なりです。
どうして成績がアップしたのか、ちょっと説明してみます。


 私は、遊びに熱中するあまり、
 オタク世界にまっしぐらに進んでいました。



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 まず切手。切手オタクに走るあまり、切手情報なら何でも知っていました。小学校5年生で国立公園と国定公園を全部言えましたし、どこにあるかも地図で知っていました。そういう切手のシリーズがあったからです。

 広重の五十三次名所図会にも調味をもち、五十三次ことなら何でも言えるようにもなりました。そういう切手のシリーズがあったからです。切手オタクの道を極めると、小学5年生の子供を、高校生並みの知識魔に成長させうるのです。当時はインターネットが無かったので、切手オタクたちは、図書館にいりびたりました。


 軍事オタク・兵器オタクの道にもすすみました。

 艦上戦闘機・翼面過重・馬力過重・機械式過給器・風洞実験といった難しい漢字が読めるだけでなく、意味まで理解したうえに、空気力学や機械工学や原子物理学まで調べるようになりました。

 おまけに第二次大戦の兵器なら何でも数字が言えるようになりました。例えば、零戦二十一型の乾燥自重、装備重量、全幅、全長、翼面積、発動機、速力、上昇力、航続距離などを全てピッタリ言い当てられるようになりました。兵器の種類なんて、何千もあるわけですから、何万という数値を暗記したことになります。

(ただし今は全部忘れてしまったが)

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 もちろん怪獣オタクの道にも進みました。怪獣の身長体重は、全部ピタリと言い当てられましたし、ついでに恐竜についても詳しくなり、最終的には肉食動物まで詳しくなり、動物博士になったものです。そして虎とライオンが戦うと、どっちが強いか?などと空想しました。


 さらにラジオオタクにもなりました。通信販売で部品を買い、自作ラジオを作って遊びました。金がなくなると、いろんな所からガラクタを集め、片っ端からハンダ付けにして、珍妙な機械を製作したりしました。ハンダ付けが面白くて面白くてしようがなかったんですね。さらに照度計を自作して、ありとあらゆる照度を調査したり、テスターでいろんなものの電流電圧を調べました。

 そのうち高性能の短波放送用のラジオを買って貰うことに成功し、世界各国の日本語放送を受信し、電波情況を放送局に手紙に書いてベリカードを貰うようになりました。ベリカードとは、聴取者が放送局に受信報告書を送付した際に、その証明として放送局が発行するカードのことで、当時、それを集めるのがブームになっていました。

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 時代劇オタク・歴史オタクにもなりました。
 テレビの大江戸捜査網の虜になり、隠密同心ごっこをやりました。
 それがこうじて図書館で夢中で捕物帖を読みました。
 それが最終的に岡本綺堂の半七捕物帖に向かうのですが、
 今思えば恐ろしい小学生だったかもしれません。
 なぜなら岡本綺堂の本は、大人でさえ難しい読み物だからです。

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 SFオタクにもなりました。小学5年生ともなりますと、ウルトラマンでは我慢できなくなります。そういう年頃になった頃、NHKの少年ドラマシリーズが始まり、タイムトラベラー(時をかける少女)に熱中しました。

 当時、どの図書館にも、SF小説専門のハヤカワ文庫がありましたから、それをかたっぱしから読みました。おかげで、小学生のうちから慣性の法則とか、相対性理論を独学で学び始めるようになりました。

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 話が大きくずれましたが、私が何を言いたかったかと言いますと、こういった遊びの結果、学校の成績が上がったということなんですね。別に真面目に勉強したわけでないし、塾にかよったわけでもない。自慢じゃありませんが、父親が単身赴任してから一度だって勉強したことがありません。それがかえって良い結果を出すようになったのは皮肉です。

 あと、どういうわけか団塊世代先生は、夏休みに宿題をだしませんでした。出さない理由も言いました。団塊世代先生は何やら難しい教育理論を述べたような気がするが覚えてません。
 おかげで思いっきりオタク道に走ることができました。
 その結果、小学5年生くらいで、かなり難しい事を調べるようになり、真面目に勉強しなくても成績が良くなったのです。だから私は、今でもオタク道に対して、否定的な感情をもっていません。むしろ肯定的な考えをもっています。

 逆に小学生のうちから子供たちに勉強させることに否定的な考えをもっています。小学生にとって大切なことは勉強ではなく、好奇心であると。一番大切なことは、健全な好奇心を育てることであって、それさえ育っていれば、あとは放っておいても子供たちが勝手に勉強し出すもだと思っています。

 私がユースホステル運動を行っている原点は、そういった私の過去が、私をつき動かしているからです。だからガラにもなく、リヒャルト・シルマンの伝記まで書いてしまった。




つづく。

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2010年02月27日

私の小学校時代を思い出した2

私が小学校に入学したのは、1960年代の末でした。そして、入学早々、担任の先生は、夏休み前に入院してしまいました。癌でした。先生は、4年間にわたって闘病生活をおくることになりますが、ここから不思議なことがおきます。

 1年の2学期に別の先生が担任になり、2年になりますと、さらに3人の先生が入れ替わりに担任となり、合計4回入れ替わったのです。つまり、2年間に5人の先生に習ったのです。1学期ごとに4人の代用教員に教わったのですが、これに対して父兄は、不満を漏らしたと言います。私の父も怒っていました。

 しかし、子供たちには、少しも不満がなかった。むしろ、子供たちの嗅覚は、代用教員の方に軍配をあげていました。どの先生も、別れ際に涙があふれていましたし、お辞めになってから、小学校にジャングルジムや滑り台なんかを寄付してくれていました。そこには確実に二十四の瞳の世界があったと思います。

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 例えば、小学校2年生の3学期のことです。学芸会で何をやるかホームルームで相談した時のことです。だれか女の子が
「バレーを踊りたい」
と言い、先生が
「やりましょう」
と言いました。もちろんみんな、バレーなんか踊れるはずがありませんし、先生だって踊れません。で、どうしたかと言うと教科書を閉まって朝から晩までバレーの稽古をして、ついに学芸会で、『くるみ割り人形』を踊ってしまいました。


 そして、小学校3年生になりました。
 クラス替えが行われました。


 癌で入院した先生に、学校が見切りをつけ、代用教員ではなく、正規の先生を雇うことにしたのです。そして、その正規の先生というのは、大学を出たばかりの新任の先生でした。いわゆる団塊の世代の先生であり、しかも男の先生でした。そのためにクラス編成まで変えてしまいました。

 私は、団塊の世代の新任の先生のクラスに入りました。

 そして、その先生に3年間習うことになるのですが、この先生が変わり者でした。いわゆる典型的な団塊世代の先生でした。そのために驚きの毎日が続きました。

 今までの代用教員の先生の世界は、二十四の瞳の世界でした。どの先生も母親のような優しさがあり、いつも易しい言葉を使って、優しい言葉をかけてくれました。

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 しかし、団塊世代先生は、容赦なく難しい言葉を使いました。今まで聞いたことのない単語が耳に入ってきました。「ジミントウ」とか、「アンポ」とか、小学生には理解しがたい単語がポンポンでてきました。でも、授業は面白かった。なにしろ脱線が多かった。いつの時代だって、子供にとって脱線は大歓迎です。だから子供たちの人気者でした。

 ただし、「★★先生」とは誰も言わなくなりました。
 かわりに「★★」と呼び捨てにしました。

 その先生は、当時佐渡島の金井町に1軒しかない、パチンコ屋によく出入りしていました。台は十台しかない小さなパチンコ屋でしたが、そこにいくと必ず、その先生が居ました。日曜日には、かならずいますので、用があるとパチンコ屋に駆けつけたものでした。そういう小学校の先生は、今まで見たことがありませんでしたので、そういう理由でも、その先生は人気者になりました。ただし、みんなに呼び捨てにされていました。


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 その先生は、豆が嫌いでした。
 給食に豆が出てきますと、露骨にムッとしていました。
 とくにヒジキに入っている大豆にムッとしました。

「おい★★の機嫌悪いぞ、どうしてだろう」
「うーん、どうしてだろう?」
「あ、豆だよ豆。ヒジキに豆が入ってる!」
「あー、そうだったのか」

 子供たちは、ムッとしている先生のために、せっせと、先生の給食から豆を一つ一つ取り除いてだしました。すると先生は、ニコッと笑い顔を見せました。そんな先生は、今まで見たことがありませんでしたので、そういう理由でも、その先生は大人気者になりました。ただし、みんなも、嫌いなものを遠慮無く残飯にしました。


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 ある日、ホームルーム(当時は、学級活動といった)で、
 先生は、こんなことを私たちに問い始めました。

「君たち! 今、百万円あったら、何が食べたい?」
「・・・・」

 質問の意図が分からなかったので、
 私は黙っていましたが、同級生たちは

「スイカが食べたい」
「一番高いチョコを食べたい」
「十段のケーキを食べたい」

と、めいめい答えていました。
そして、最後に先生が答える番になりました。
私たちは、わくわくドキドキ先生の回答を期待して待ちました。

 どんな立派な答えがでるのだろうか?
 どういうオチがあるのだろうか?
「百万円で飢えた難民のたちに、余っている米を買って、海外に送れ」
 なんていうオチを想像しながら、
 先生の回答を
 わくわくドキドキ期待して待ちました。
 きっと、いい話にまとめてくれるんだろうなと。
 しかし、先生の回答は、意外なものでした。

「先生は、百万円あったら、中華料理のフルコースを食べたい
「・・・・」

 沈黙が教室に流れました。
 沈黙には2通りありました。
 どこがオチなのか?という沈黙と
 フルコースという単語の意味がわからないという沈黙でした。

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つづく。

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posted by マネージャー at 01:37| Comment(0) | 教育問題を考えてみる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月26日

私の小学校時代を思い出した1

アドベンチャー集団doがお泊まりになりました

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 先日、アドベンチャー集団doがお泊まりになりました。アドベンチャー集団doとは、小学生の自然体験を主に行っている団体です。なのでユースホステルにちびっこが登場。いいですねえ。ユースホステルぽくて良いですね。で、子供たちを見ていると、私が子供だった頃の事を思い出してしまいました。

 実は私は、いや、私の同級生は、かなり変わった小学生時代をおくっています。事のはじまりは、小学校1年生の時のことです。担任になった女性の先生が、1年の1学期で入院してしまったのです。

 私は、この先生が大好きでした。
 そして、この先生は、とても面白い先生で、
 とにかく子供たちを笑わせる天才でした。

 たとえば「雀(すずめ)」の絵を見せて、スズメという文字を書かせます。私たちは、覚たての文字を使って「すず目」とか、鈴木君などは「鈴め」とか書いたりします。すると先生は、「すず目」とか「鈴め」の文字を見て、
「目玉に羽根が生えて空をとぶのか?」
「鈴に目がはえるのか?」
と、オーバージェスチャーで笑わせてくれます。

 あと、私語をしたり、迷惑行為をする子供たちがいたら、全員に、こう叫ばせました。

「あかちゃん、あかちゃん、べろべろばー!」

 こういう指導は、今だったら問題になったかもしれませんが、私の記憶に間違えなければ、これによって、誰もが行儀良くなりました。みんな「あかちゃん」呼ばわりされたくなかったんです。

 あと、小学校1年生だと、早生まれと、遅生まれに差が出てきます。どうしても早熟な子がいるんです。そして、早熟の子は、みんなに知ったかぶりをする。すると、先生がやってきて例のオーバージェスチャーで

「頭でっかちカブンスウ!」

と頭を大きくみせて、みんなを笑わせました。これは、志村けんのアイーンや、ダッフンダみたいなものなのですが、そういう一発ギャグをいっぱいもってて、みんなを笑わせたのです。ちなみにカブンスウの意味は、3年生の時に入院している先生をお見舞いに行き、御本人から聞き出しました。よーするに過分数のことですね。分母より分子が大きい数字。だから「頭でっかちカブンスウ!」だったのです。

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 まあ、そんなこと、どうでも良いのですが、この大好きだった担任の先生が、夏休み前に入院してしまった。病名は、あとで知らされたのでしたが癌でした。当時は不治の病でした。ところが、先生は、4年間にわたって生きながらえた。

 ここから不思議なことがおきます。
 1年の2学期に別の先生が担任になり、
 2年になると、さらに3人の先生が担任となり
 合計4回入れ替わったのです。
 つまり、2年間に5人の先生に習ったのです。

 1学期ごとに、よーするに4人の代用教員に教わったのですが、こういう経験は、ちょっと珍しいのではないでしょうか? これに対して父兄は、不満を漏らしたと言います。私の父も怒っていました。しかし、子供たちには、少しも不満がなかった。子供にしてみれば、正教員も代用教員も、先生は先生です。

 むしろ、子供たちの嗅覚は、代用教員の方に軍配をあげていました。どの先生も、別れ際に涙があふれていましたし、お辞めになってから、小学校にジャングルジムや滑り台なんかを寄付してくれていました。そこには確実に二十四の瞳の世界があったと思います。

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 例えば、小学校2年生の3学期のことです。学芸会で何をやるかホームルームで相談した時のことです。だれか女の子が
「バレーを踊りたい」
と言い、先生が
「やりましょう」
と言った。

 もちろんみんな、バレーなんか踊れるはずがないし、先生だって踊れない。で、どうしたかと言うと教科書を閉まって朝から晩までバレーの稽古をして、ついに学芸会で、『くるみ割り人形』を踊ってしまった。佐渡島という田舎の小学校の、小学校2年生が。今だったら絶対に問題がおきていたでしょうが、当時は、おおらかだった。

しかも、これは、1969年のことだった。


つづく。

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posted by マネージャー at 22:03| Comment(0) | 教育問題を考えてみる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月25日

村上山スノーシューツアーの報告です

今回は台湾からの御客様がスノーシュー

これが今回のメンバー。学生さんたちでした。
一人、台湾からの女性参加者も。
私は台湾びいきなので、ちょっと嬉しかったりする。
関係ないけれど、タイとか、マレーシアとか、
台湾には美人が多い気がする
御客様にも、ヘルパーさんにも美人が多かった。
そのうえ日本人との差がない。
一緒にいて違和感がない。
まあ、そんなことは、どうでもいいんだが。

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さすがに若いだけに、みんな元気いっぱい。

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さて、出発です。
村上山は、標高1746mの低い山です。
ですから登りやすいんですね。
夏なら1時間もかからずに登れますが、
スノーシューだと2時間くらいかかるでしょうか?

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スタート地点の鹿沢休暇村の裏道から登ります。
たくさんテープを設置したので、この山は、
素人でも登れる山になりました。

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しかし、テープが無くても登りやすい山でもあります。
斜面がなだらかで、カラマツが密集しているので風が少ないんです。

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はい、これがテープ。
わかりやすいですね。
このテープのおかげで日本一登りやすい冬山になっています。

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もちろん急登も少ない。

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で、アッという間に東屋(9合目)。
ここは、一番眺めのいいところ。
浅間山が、よく見えます。

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そして頂上。

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村上山の特徴は、5合目までの眺めと、
9合目までの眺めと、頂上の眺めが全部違うところ。
理由は、西斜面から登り、そして南斜面に方向を変えるためです。
つまり展望の方向が違ってきている。

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だから、9合目と頂上の景色が違ってきているのです。


つづく。

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posted by マネージャー at 18:59| Comment(0) | 鹿沢−村上山 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

高峰山スノーシューツアー

高峰山スノーシューツアー

高峰山は、湯の丸山とともにスノーシューのメッカです。
バレンタインデーのスノーシューツアーは、ここで行いました。

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つづきは
http://snowshoeing.seesaa.net/article/142041336.html
をごらんください。


つづく。

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posted by マネージャー at 00:23| Comment(0) | 高峰山 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月24日

(シーザーズブログ)が、まる2日間コケました。

 このブログ(シーザーズブログ)が、まる2日間コケました。お問い合わせいただいた皆様、御迷惑をかけました。メンテナンスに、ものすごい時間がかかったみたいですね。おまけに、いまだに重い。おかげで2日間、全く更新できませんでした。過去に、ライブドアブログや、Yahoo!ブログは、何度も転けているのですが、シーザーズブログが転けたのは、ちょっと珍しいですね。

 それは、ともかく男性諸君。バレンタインデーは、いかがでしたか? 北軽井沢ブルーベリーYGHに泊まった御客様は、うちのかみさんの宿チョコと、某御客様から、義理チョコもらっていました。私も貰いましたよ。3月14日のホワイトデーには、何かお返しをしなければなりませんが、どうしようかなあ。

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 あ、そうそう、ホワイトデーは、どうしてホワイトデーという名前になったんですかね? 某サイトによれば

『全飴協はホワイトデーを3月14日に定めた理由を、269年2月14日、兵士の自由結婚禁止政策に背いて結婚しようとした男女を救うためにウァレンティヌス司祭は殉教したが、その1か月後の3月14日、その2人が改めて永遠の愛を誓い合ったと言われていることに由来するとしている』

となってますが、本当のところは、どうなんでしょうか?

 ところで、東洋にもバレンタインデーもどきの風習があるとしたら、七夕ですよね。でも、七夕は告白の日ではなく、願い事を書く日なんですよね。バレンタインデーのような積極的な告白の日ではありません。

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 じゃ、昔の日本人は、女性が告白しなかったかと言いますと、逆です。平安時代なんか積極的に告白しまくりです。歌を詠んで告白したんですよ。もちろん断るときも歌で返したりした。つまり告白には教養が必要だった。それから考えると、今は良いですね。教養は必要条件でないからです。チョコレートですむなら簡単で良い。


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 ところで、話は変わりますが、バレンタインデーに誕生日だった人がいました。うーん。これってタイミングがいいのか悪いのか? 関係ないですが、友人にもバレンタインデーに出産した人がいました。しかも男の子。

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 もちろん誕生日ケーキも作りました。
 本人の希望で、あえてチョコレートケーキではありませんでした。

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 白いケーキです。
 栗も飾っています。


つづく。

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posted by マネージャー at 20:31| Comment(4) | 日記 2012以前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月22日

河野功先生を悼む4(最終回)

河野功先生を悼む4(最終回)

 つづきです。

 群馬県ユースホステルは、河野功先生の努力によって会員9000人、18ユースホステルという急成長を達成しました。県内最大の青少年団体となったのです。昭和39年と昭和42年には、ラリーを開催し、尾瀬に数百人の若者を集めました。この尾瀬ホステリングは定例化されていきました。

 昭和41年には榛名高原でラリーを行いました。この時は、高崎経済大学の大活躍によって、大成功をおさめ、ユースホステル新聞群馬版も発行されるようになりました。
 
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 ただし、暗い要因も見え始めていました。昭和47年をピークに、ユースホステルの会員が減少し始めたことです。これは、群馬県にかぎったことではなく、日本全国でみられた共通の現象でしたが、この原因に、高校生グループ連合会の廃止があります。

 どういう訳か、日本ユースホステル協会は、文部省の指導を受けて高校生のユースホステル活動をやめさせてしまった。これはユースホステルにかぎらず、政治活動も含まれており、現代でも日本の法律では、高校生の政治活動はできないことになっている。ユースホステル協会は、そのアオリを喰ったかたちになるのですが、これがユースホステル運動衰退の第一原因になったのです。

 ユースホステル運動が日本で急速に発展した理由の第一は、高校生の活動にありました。当時は、高校生の旅行などは贅沢なものとして世間から白い目で見られていました。その高校生に『一人旅は教育の一環である』と囁き、金のない高校生たちに格安の宿を提供したのがユースホステルであり、歩きやサイクリングで旅をしなさいとすすめたのがユースホステル運動でした。

 当時の高校生たちは、これに飛びついたのです。そして高校生たちが、やがて大学生や社会人になった後もユースホステルを使い続けたんですね。これを日本ユースホステル協会は、文部省の指導の下に廃止してしまった。具体的に言うと高校生グループ連合会を廃止してしまった。で、ユースホステルの会員数が激減しはじめたのです。これは、当時、高校生だった高校生グループ連合会の人たちから聞いたはなしです。

 しかし、河野功先生をはじめとする群馬県ユースホステル協会の人たちは、これを指をくわえて黙ってみてませんでした。

 昭和五十五年の春、東京都ユースホステル協会と組んで「わんぱく大作戦」と呼ぶイベントを実施しました。東京都協会の少年会員百名が榛名湖に招待し、群馬県ユースホステル協会の少年会員百名が、それを迎えたのです。そして新しい陣取り合戦をくりひろげ、青空の下、歓声を上げ、楽しみを分ち合いました。

 このイベントを皮切りに、アドベンチャー集団DOを設立。
 小学生を対象に「遊び」をテーマにした各種イベントを企画し実施したのです。
 その企画力、行動力は当時のマスコミにも取り上げられたほど新鮮で、しかもユニークなものでした。

 群馬の秘境と云われる多野郡上野村の鐘乳洞探検を試み、子供達に勇気と夢を与え話題を呼びました。少年リーダーとともに「何かをする集いの会」を開き遊びの少年塾(後のガキ大将スクール)を形作って行きました。

 昭和五十六年七月は、これらの経験を基として群馬県観光課が主催する観光宣伝事業をバックアップ。千七百人の「わんぱく大作戦」を榛名湖で実施、大成功を収めました。

 昭和五十七年の夏は、利根川を手作りのイカダで下る「チャレンジ・オブ・トネ」を実施。

 さらに上野村で第一回の「がき大将スクール」の構想が持ち上がりました。

 主催者をどうするか論議がありましたが、結局群馬県ユースホステル協会は支援団体となる事で「アドベンチャー集団DO」がすべての責任を持ちスタートする事となりました。

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 昭和五十八年までの実績は未だ趣旨が徹底されず低調でしたが、翌五十九年には参加者が千人を超え、これにならって本県の少年会員が大きく伸び、協会創立以来の九百二十二人を記録して、本部より表彰を受けました。

 昭和六十年夏、日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故が当スクールのフィールド周辺で発生、これに伴い同スクールイベントが中止を余儀なくされ、以来数年の間その影響を受け低調でしたが、平成に年号が変わった年より同事業も回復、本年十年目には千三百人ほどの参加者を得ています。

 この間冬期間の榛名ユースホステルさらには草津高原ユースホステルを拠点としウインタースクール等を開催、地域イベント作りのリーダー役としてユースホステルの存在をアピールしてきました。

 さらに日本ウォーキング協会と提携し、「全国自然歩道を歩く大会」、さらに県単事業として「赤城に向かって一斉に歩こう大会」などを実施しました。



 また、群馬県ラリーを開催し、
 大勢のユースホステル関係者を集めました。

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 会場は、嬬恋村にあるホテルグリーンプラザ軽井沢です。
 バラギ湖にある群馬県立バラギ高原青少年野外活動センターでも、
 そのときは大々的なイベントを行っています。

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つづく。

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アドベンチャー集団Do!
代表者黛徳男
設立昭和56(1981)年3月
所在地〒370-3348
群馬県高崎市榛名湖町854

電話027-320-5003
FAX027-374-9292
公式サイト
http://gakidai.com/
E-maildo@gakidai.com
スタッフ専従4名非常勤3名キャンプリーダー40名
キャンプフィールド群馬県:旧群馬郡榛名町・多野郡神流町
吾妻郡草津町
posted by マネージャー at 19:25| Comment(0) | ユースホステルの話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月20日

河野功先生を悼む3

河野功先生を悼む3
 
 最後に河野功先生が県営観光開発公社で活躍したことについてのお話です。本当は、伝記を書いて本にしたかったのですが、先立たれては、あきらめざるをえません。

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 県営観光開発公社という名前を聞いて、たいていの人は、ピンとくると思いますが、よーするに群馬県の役人の天下り用特殊法人です。ですから、現在は県営観光開発公社は存在していません。しかし、この特殊法人で、じゃんじゃん実績をあげて、税金を吸い上げるどころか、税収に寄与したのが河野功先生でした。こういう特殊法人は、ちょっと珍しいのではないでしょうか?

 河野功先生は、この県営観光開発公社で、最終的に常務取締役にまでのぼりましたが、彼は天下った役人ではなく、平から入った一兵卒でした。その一兵卒が、県営観光開発公社のトップになったのですから、信じがたいことです。凄い実績をあげたためなのです。

 その実績について、ちょっとお話をしてみましょう。
 まず河野功先生とユースホステルの出会いです。
 昭和28年のことです。
 赤城山に、ボロボロの山小屋みたいなロッジがありました。
 青雲荘といいます。
 これが群馬県の第1号ユースホステルでした。
 (昭和43年に廃業しています)
 ちなみに第2号ユースホステルは、水上にある土合山の家です。
 (山屋には有名な宿で、現存しています)
 こちらも、当時は、ボロボロの山小屋みたいなロッジでした。

 当時、赤城山には、ほとんど建物が無く、ボロボロの青雲荘ぐらいでした。そこがユースホステルに加盟したわけですが、河野功先生は、たまたま、そこに泊まることによって、かなりの衝撃を受けました。皿を洗い、布団をたたみ、部屋掃除をしている青年たちが、見返りに格安で泊まっている。そして歌を歌い、ハイキングなどをしている。健康的で素晴らしい活動をしている。聞けば、ユースホステル運動であるという。
「これは素晴らしい」
と感激した河野功先生は、日刊工業新聞社を退職し、赤城山青雲荘で働き始めました。



 この赤城山青雲荘の経営母体は、群馬県観光開発公社でした。群馬県の天下り先であり、税金のかかるという噂の特殊法人であったのです。その特殊法人で河野功先生は、めきめきと頭角をあらわしました。ユースホステル赤城山青雲荘は、施設がボロボロだけに特色を出すしかありませんでした。なにせマイナス20度も気温が下がる真冬に、ろくな暖房もなく、風呂板は、凍り付いて、湯を流さないと歩くこともできないほど、今では、考えられないボロ宿でした。

 交通の便も悪かったし、スキー場もろくになかった。それどころか民家も売店も無かった。そんな立地にあった赤城山青雲荘に大勢の人を呼ぶために、スケートとワカサギ釣りで売り出しました。当時は、スキーはブルジョワでないとできなかった。けれどスケートワカサギ釣りは、貧乏人にもチャンスはあったのです。ユースホステルを使う貧乏人には、ぴったりの企画だった。若い人たちが、赤城山青雲荘にワンサカおしかけました。

 河野功先生は、この若い人たちに何かサービスしたいと思いました。しかし金はない。で、どうしたかといいますと、農家から大量の柿を仕入れてきて、それを凍らせてとっておいた。冷蔵庫はいらなかった。天然の万年雪があった。それを冬に、柿シャーベットとして、ホステラーに出しました。これが好評でした。

 さらに河野功先生は、友人を動員した。遊び友達は大勢いましたから、いろんな人たちがやってきてサポートしました。そして、群馬県ユースホステル協会を立ち上げました。県の社会教育課、体育課、観光課、前橋グループなどが中心となって、関係各団体を集め、昭和34年9月20日に設立総会を開き、県営観光開発公社内において事務局を開きました。そして、次々と県内の宿泊施設をユースホステルとして認可していきました。

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 長野原町に、艮山荘農園YH(現ペンション・上の写真)・萩原YH(現萩原建設)が設立。嬬恋村に、高峯高原ロッジ(高峰温泉)・ヤマタ旅館(バラギ温泉・体育館付で150名収容の旅館)・豊国館(万座温泉)などがユースホステルとなりました。これらは今でも旅館やペンションとして残っています。

 そして六合村にも、尻焼き温泉として有名な関晴館がユースホステルになりました。高崎観音の慈眼院も、伊香保温泉も、妙義山の玉屋旅館もユースホステルになりました。

 さらに、榛名山にも三軒、草津にも二軒、水上に三軒、奥日光・菅沼にも、尾瀬にもユースホステルができました。そして、県内に18軒のユースホステルができあがり、会員数は9000人を超えるほどにもなりました。

 興味深いことは、これらのユースホステルの大半は、後に有名旅館やペンションとして大きく羽ばたいていることです。つまりユースホステルによって資金をかせぎ、その資金をもってワンステップ上の経営形態になったところが多いことです。なかでも高峯高原ロッジ(高峰温泉)などは、今でもユースホステルぽさが残っており、ネイチャーウォッチングを武器として、自然ガイドに力を入れており、その経営形態をもって多くの御客様を集客しています。

 これは群馬県観光開発公社も同様でした。

 ユースホステルの勢いを利用して業績をあげ、国民宿舎・キャンプ場・県営ゴルフ場を次々と建設していきました。嬬恋村にも、バラギ湖に群馬県立バラギ高原青少年野外活動センターを設立し、独自のフォークダンスをつくり、ダンス音楽を作ってレコードまでだしました。その施設は、当時のキャンパーに絶賛されています。残念ながら数年前に閉鎖されてしまいましたが。

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つづく。

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posted by マネージャー at 03:46| Comment(1) | ユースホステルの話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月19日

間に合った屋根付き駐車場

日本ユースホステル協会のはからいで
北軽井沢ブルーベリーYGHが、
ツーリングGO!GO!に掲載されそうな感じです。

ツーリングGO!GO!というのは、ライダー向けの雑誌ですが、
今までうちは、ジパングツーリングで紹介されることはあっても
ツーリングGO!GO!は、無かったですね。実現されれば初掲載です。

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まあ、そんなことは、どうでも良いのですが、
タイミングよかったことは、この4月には、

念願の屋根付き駐車場が完成することです!

サイズは、車2台分の5メートル×6メートル。30u(10坪弱)
こんな感じですね。

desimg_1.jpg

つめれば、バイク6台くらい入りそうです。
これが4月くらいに完成しそうなので、
タイミングよかったですね。
ただし、舗装の予算はでなかった。
ですから、舗装は、自分でやろうかと考えています。

あとは、屋根の修理・地デジ・スキー乾燥室ですね。
欲を言えば、風除室・コインランドリー・喫煙小屋の設置。

予算の関係で、毎年、少しづつ設備をよくしていくしかないので、
全部できるまで6年もかかるなあ。

つづく。

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posted by マネージャー at 23:51| Comment(0) | 日記 2012以前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

草津温泉キャンドル祭り

草津温泉キャンドル祭り

『2010草津温泉キャンドル雪灯り』
2月26日から3日間、開催!

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今年は「天狗山ゲレンデ」に会場を移して行うようです。
どうやら昨年とは、違う祭りになりそうですね。

と言うわけで、
2月27日(土曜日)の温泉ツアーは、
草津温泉キャンドル雪灯りツアーに変更になります。
温泉は、入れそうなら入りますが、無理かもしれません。
参加者は、夕食後の19時30分頃に玄関前に集合してください。
19時40分には出発したいと思います。


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つづく。

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posted by マネージャー at 23:31| Comment(4) | イベント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月18日

河野功先生の告別式

 群馬県ユースホステル協会を立ち上げた河野功先生の告別式が、無事終了しました。弔電をくださいました関係者の皆さん、遠路はるばる御出席いただきました関係者の皆様、また、お通夜に来られました関係者の皆様。日本ユースホステル協会様。ありがとうございました。また、忙しい中、御出席いただきました、衆議院議員中曽根弘文様。ありがとうございました。

117.jpg
http://www.hiro-nakasone.com/index.html

 さて、報告です。
 当日の北軽井沢の風景です。
 スノーシュー日和だなあと思いつつ、北軽井沢を後にしました。

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 これが告別式の風景。
 大勢の人たちが御出席されました。

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 祭壇です。

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 河野功先生。

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 福田元総理と河野功先生。
 現日本ユースホステル協会会長でもあります。

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 森元総理と河野功先生。
 前日本ユースホステル協会でもあります。

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 このように多くの議員の先生方とご親交がありました。

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 話はそれますが、このように、日本ユースホステル協会は、自由民主党と繋がりがあります。その理由は、自由民主党が積極的に日本ユースホステル協会に金を出してきたからです。

 例をあげますと、岸総理。

 日本ユースホステル協会が、国際ユースホステル会議を開いたとき、金がありませんでした。金を工面できなかったのです。そのために外国の要人たちが泊まっているホテル代も出せなかった。そこで中山正男副会長は、時の総理大臣、岸信介に土下座してたのみに行ったのです。

 もちろん政府が出せるわけがない。

 予算というものは、国会の審議によって決められるわけですから、総理大臣といえども出せない。しかし、岸総理は、「ここで日本が恥をかくわけにはいかない」と、官房長官に命じて、内閣官房費から資金援助しました。こうして日本ユースホステル協会は、息をつぎました。

 また、こんなこともありました。
 佐藤栄作総理の時代のことです。

 日本ユースホステル協会の顧問をやっていた大宅壮一氏と、中山正男副会長が、青年の船を企画しましたが、資金難で企画倒れになりそうになりました。そこで二人が、佐藤栄作総理大臣に、明治100年祭の企画として、政府に青年の船を造らせるように働きかけました。そして佐藤栄作総理の英断で、それが実現し、団長に日本ユースホステル協会の横山祐吉理事長が就任するのです。また、これを後押ししてくれた人の中に、福田赳夫元総理がいます。そして、その息子さんである福田康夫元総理大臣が、現日本ユースホステル協会の会長をやっています。

 このようにユースホステル協会と自民党は、深い繋がりがあるわけですが民主党が政権をとるに至って、現在ユースホステル協会は苦境にたたされています。見事に事業仕分けされてしまいました。やんばダムと一緒です。ユースホステルよりも、子共手当なのです。まあ、これ以上は、政治の話になるので差し控えましょう。


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 弔辞は、4人の方が読まれました。
 私の涙腺は、壊れっぱなしでした。


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 御出席されたユースホステル関係者の皆さん、
 本当にありがとうございました。

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 ちなみに群馬県ユースホステル協会は、関係者の努力によって
 なんとか存続の方向でおちつきました。
 私としては、ホッと一息です。


つづく。

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posted by マネージャー at 23:51| Comment(2) | ユースホステルの話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

北軽井沢新聞が復活!

北軽井沢新聞が復活!

北軽井沢新聞とは、2006年に創刊された地元密着型新聞です。

 北軽井沢新聞社
 〒377-1412 群馬県吾妻郡長野原町北軽井沢1988
 編集室電話 0279-84-3370
 FAX     050-1154-7599
 Mail    news@beaucomjapan.com

 2006年9月20日、北軽井沢新聞創刊一号が発刊されました。季刊、8ページ。「様々な歴史、遺産をマスメディア的視点で追い求める」と、北軽井沢の歴史をテーマとしていました。地元の人も知らなかったような記事が多数あり、写真にも貴重なものが多く、ツキノワグマ出没などのニュースも掲載してありました。

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 一部200円から300円。カラーであることと、情報のフレッシュさにおいて、一部でコアなファンを獲得していたのですが、支援すべき北軽井沢そのもののの地盤沈下とともに3号で休刊となっていました。私も愛読者だっただけに残念な思いでいましたが、しかし、その北軽井沢新聞が復刊されるようなのです。
 下記サイトをごらんください。

http://beaucomjapan.com/news/index.html

 どうやら、この春に復活0号がでるらしいのです。
 しかも、復活イベントとして

本格的35ミリによる映画による「カルメン故郷に帰る」の上映があるらしい。

 時期 2010年8月11〜13日 三日間(予定)
 場所 北軽井沢ミュージックホール
 集客予定 250名×3日間 計750名
 有料 1200円 前売り1000円 

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また、復活記念イベント2段として、
「木下恵介メモリアル展」
も企画しているらしい。

http://beaucomjapan.com/ivent-2010/index.html

もし実現するとしたら、これは凄いことです。
楽しみですね。



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カルメン故郷に帰る

監督 木下惠介
製作総指揮 高村潔
製作 月森仙之助
脚本 木下惠介
出演者 高峰秀子、小林トシ子
望月優子
音楽 木下忠司、黛敏郎
撮影 楠田浩之

戦後アメリカから輸入されたカラー映画に刺激され、松竹が制作した日本初のカラー映画。ほぼ全編を浅間山麓でロケ撮影し、国産初の「総天然色映画」として公開されて話題を呼んだ。都会でストリッパーをしているヒロインを演じる高峰秀子の爽やかな演技が光る。戦後の自由でどことなく軽薄な風潮と、それに対する賛否両論の世論を風刺した軽快な喜劇で、新しい時代の映画の創作意欲が随所に見て取れる作品である。また父娘、姉妹、夫婦の情愛などが非常に丁寧に描かれている。

キャスト
カルメン: 高峰秀子
マヤ朱美: 小林トシ子
校長先生: 笠智衆
田口春雄: 佐野周二
田口光子: 井川邦子
青山正一: 坂本武
丸野十造: 見明凡太朗
小川先生: 佐田啓二
カルメンの姉: 望月優子

つづく。

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posted by マネージャー at 00:41| Comment(2) | 北軽井沢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月17日

河野功先生を悼む2

河野功先生が生前に、私たちユースホステルマネージャーに熱く語っていたことを紹介したいと思います。群馬県ユースホステル協会理事長が、世界に向けてインターネットにて発進していたユースホステル運動論です。

http://kaze3.com/gyh/5-mam/kouno1.htm より紹介します。
2002年に谷川岳ラズベリーユースホステル曽原マネージャーが、
インタビューした時の内容です。

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曽原

 今日は、河野さんのユースホステル運動論を聞かせていただけたらと思います。今後、私たちマネージャーは、ユースホステル運動をどのように考えていけばよいのでしょうか? そのへんのところをズバリ本音で聞かせて頂ければと思います。

河野
 
 あの、ちょっとね、エキスだけちょっとお話しておきますがね・・・・その、三位一体(協会・指導者や施設・会員)という意味を、ちょっと解説しておきますとね。

 まず協会。

 地域協会を含めて、協会とは、ユースホステルの会員になる機会を、できるだけ提供するという事。会員になるためのユースホステルの情報を皆さんに提供すること。これが大きな仕事なんですよ。協会というのはいわゆるPR、ユースホステルを知らしめる、情報発信の場所と考えます。

 そして指導者。

 リーダーを育てるという事、ユースホステル運動のリーダーとは、現場を預かるペアレント、ユースホステルを経営するマネージャーが最大の指導者だと思っております。

 マネージャーは、運動の最大の実践者であると同時に、指導者であるという事。こういう風に理解しております。ですから、ユースホステルというのは施設的にも、ある程度、会員が望むような施設をユースホステルのスピリットに基づいて拡充していきたい。また、拡充してほしい。

 もう一つはペアレントの見識、が兼ね備わってきますと、その両輪が、ユースホステル運動の姿が、キッチリ見えてくると思います。そういう意味で、施設の重大性というのがあるわけです。

 会員というのはどういうものか。
 旅の手法、方法というのは、ありふれるほどある。

 その中で、ハートいわゆるホスピタリティを中心にした仲間意識のようなものもあるし、連帯感もあるし、そういうものを、うんと大事にしていただける旅を好む人たちのよりどころ、それがユースホステル運動に詰まっているような気がします。

 ユースホステルには、物質的には若干、時には、不足するかもしれませんけれど、全体の旅を通じた充足感というのはうんとあると思います。今回の旅行で、あそこで、ああいう人たちと会って、それが、モノより心にズシンと来る。

 見返りみたいなものね、それがこのユースホステル運動の本旨なんだなと思っていただければ、私たちは携わっている人間として、満足そのものですよね。それが、三位一体の仕組みだと思っております。


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曽原

 なるほど、協会・現場・会員を三位一体としているわけですね。


河野

 そこで、どうしてユースホステルは会員制なんだろう?
 という問題が一つあります。

 あまり触れたくないんですけれども、触れておかなければならないと思います。組織というのは何においても、お金が無ければ運営していけない、ホスピタリティ、ボランティアだけでは成り立たない部分ありますよね。その部分を、どこでどういう風に捻出したらいいのでしょうと、それから、無から、有を生じさせていくには、やっぱりある程度必要なお金だってあるわけで、例えば直営ユースホステルだってそうですよね。

 あれは、最終的に補助金や色々いただいていますけれども、
 基本的には皆さんの納める会費がああいう形になって現れています。

 ユースホステルは、日本には350くらいありますが、世界には74ヶ国が加盟しています。日本では12万人。世界では、320万人の会員、仲間がいます。そして全世界に4000のネットワークがあるわけです。それを利用して世界的な、国際的なネットワークのたびをする、そういう規模の団体は、ユースホステルしかないわけです。だから、これを大事にしないといけませんので、ここだけを見てもらっても、大変な存在なんです。

 このネットワークをうまく活用しながら、
 世界中を、若い人たちに見てもらいたいですね。
 それが私どもの一番望む所なんですね。

 で、先ほどの問題で、なぜ、会員制かといいますと、ある程度、負担能力というか、自分の小遣いを我慢すれば、学生さんだって、一年間の会費くらいは払えるでしょうと、ちょっと負担してよと、それで、自分のホスピタリティの一貫でもあると同時に、もう一つは、仲間意識というかね、それともう一つは
「俺たちが参加している」
という自意識が生まれてくるだろうと。

 そのために応分の負担をしてくださいと。

 ところが、子供がいるよね、少年会員。

 その子供たちは、まだお小遣いももらえない世代ですから、この世代、つまり少年会員がどうしても伸びてないんですよね。本来は少年会員にターゲットをもたなきゃいけませんので、これをどうしたらいいかってんで、正直言って私は、日本協会の中に、少年会員を無料にしたらどうでしょう?

 これは、際限なく無料ということではなく、ユースホステルの門を叩いてくれた人は、会費貰わなくてもいいじゃないかと。そうして子供たちがだんだん少年から青年になり、成人になった暁には、正規なメンバーになっていただくとして、いま、子供たちが門を叩いてくれたら、それは無料にして会員と同じようなと同じような待遇をしたらどうだろうと、言うふうに私は運動の方向を考えて、リードしているといったら語弊があるかもしれませんけれども・・・・思い上がりがありますが、私はそういう事を、提唱し始めています。

 私は、近い将来、それが、実を結ぶんじゃないかな?
 と思っております。
 ま、そんな事を、今日は伝えたくてしょうがなかったですね。

 それはね、ユースホステル運動に携わる私たちを、うんと勇気付ける方向なんですよ。なぜかって言うとね、我々が協会の運営の為に、運営費を生み出すために、会員を増やしてる、というふうに受け取られかねないような風潮、世相の中でね、そうじゃないんだと、時代を担う少年たちに夢を持ってほしいと、夢がユースホステルでは叶うんだよと、いうことを教えてあげたい。


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曽原

 小学生は無料入会というアイデアが実現したら素晴らしいことですね。ガキ大将スクールを設立し、日本で最も大勢の少年会員を河野さんならではのお考えですね。


河野

 それからもう一つ、今、学校がご承知のように、荒れ放題。これは教育の批判じゃないけれども、やっぱり、荒れてますよね。中学生がナイフで人を刺したとか、小学校のイジメだとかね。本当の意味の本当の勇気を、真の勇気をもてる、運動というのがこのユースホステルのなかにあるわけです。

 こういうものを、是非、世の中に知っていただき、参加していただくために、我々がやらなければならないもの一つとして、ユースホステルの運動があります。ユースホステルに行けば、それを自分で体感できるわけです。

 で、いま、なんか、会員になってください、といいますと、勢力の拡大かと言う風な見方をされがちですので、それを、やっぱり、どこかで、本当の心を知ってほしいですと、いま、私が申し上げているような、方向なんですね。

 ですから、是非、夢を、地域の協会の関係者、あるいはユースホステル関係者、先輩、現役、そういう自信を持って、今度ユースホステルいってみませんか?と隣の子供たちに声掛けられるような、運動にしていきたいですねと、それが一つの、ターゲットに置いている部分です。それを是非知っていただきたいのです。
 
 それからそれをね、教育関係者だとか、世のお母さん方とかに、ユースホステルを使って人間形成の手段として役立ててもらいたいと、こんな社会的意義を、私は考えています。

 と言っても私たちは教育者だとか何とか、そういうことじゃなく、運動というのはそうあるべきだと、世の中の人たちに訴えたい、また、そういう意味で、ユースホステルの仲間に、元気付けてあげる、そういう方向へ、とにかく今だって潜在しているわけですから、それを掘り起こして、原点に戻れるような、原点に戻って、自分が運動体の一人であると、意識してほしい。ま、そんなことが、わたしは夢として持っております。今日はそんな話ができればと思って・・・・、三位一体とは、そんなふうに考えていたんです。


曽原

 今日は、貴重なお話、ありがとうございました。


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聞き手・谷川岳ラズベリーユースホステルマネージャー 曽原正俊

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つづく。

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posted by マネージャー at 13:43| Comment(4) | ユースホステルの話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月16日

巨星墜つ1 河野功先生を悼む

巨星墜つ!

 群馬県ユースホステル協会を立ち上げた河野功先生が、
 本日、13時頃に、お亡くなりになりました。

 17日(水)18時から、つや
 18日(木)12時30分から告別式です。
     会場は、メモリード前橋典礼会館



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 河野功先生は、群馬県ユースホステル協会を立ち上げた人ではありますが、それだけの人ではありません。群馬県の観光公社をたちあげ、群馬県の観光開発を大きくすすめた張本人でもあります。

その河野功先生は、軽井沢とも縁のある方でした。終戦後、間もない頃に三笠ホテルのプールで監視員のアルバイトをしたり、軽井沢の観光関係で働いたりしたと聞いています。軽井沢のことは、何から何まで知っていました。私より詳しかったです。その後、日本工業新聞社の記者になり、そして群馬県の観光公社で働きますが、県営ゴルフ場を大量につくり、群馬県のドル箱にしたものでした。

 日本ユースホステル協会の理事も務めました。有名なアドベンチャー集団DOの前身である「ガキ大将スクール」を群馬県ユースホステル協会で立ち上げ、毎年、何千人という子供たちをユースホステルに入会させ、そして、多くの青少年たちを育成させました。これがアドベンチャー集団DOになり、群馬県ユースホステル協会の事務所になっています。

 ちなみに群馬県には、全盛期には、17ヶ所のユースホステルを群馬県に設置しています。現在、ユースホステルを廃業し、ホテルやペンションに転向した施設も多いのですが、それらのオーナーにユースホステルの話をすると、みんな目を輝かせて
「河野さんは元気か?」
「河野さんには、御世話になったんだよ!」
と私に話しかけてきます。あらためて河野功先生の偉大さを知ったものです。

 また、長野県ユースホステル協会でトラブルがあった時、河野功先生が積極的に仲介に動いて感謝されたこととも、長野県ユースホステル協会の関係者からよく耳にしています。某役員の方が
「河野さんは、すばらしい人だ」
「私の恩人だ」
と私にしみじみ語っていました。


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 私がユースホステルを申請するとき、私はまず、河野功先生の面接をうけました。河野功先生は「まず人間をみたい」と言ってきました。施設を見に来たのは、その後でした。

 そして、日本ユースホステル協会の小俣さんが施設検査にやってきて、3日後に、ユースホステルの認可がおりました。異例のスピード認可だったと思います。おそらく3日で認可が下りたのは、北軽井沢ブルーベリーYGHが初めてだったでしょう。当時は、驚きましたが、あとで、河野功先生の根回しがあったことを知って、
「なるほど、そうだったのか」
と感謝したものです。


 このように河野功先生は、これでもか!というくらいに、私どもを贔屓してくださいました。河野功先生のおかげで、日本ユースホステル協会で、のびのびとやってこれました。背後にいつも河野功先生が、あたたかく見守ってくれていました。河野功先生のもとでないと、こんなに自由にユースホステル活動ができたかどうか疑問です。


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 河野功先生は、リベラルな人でした。
 権力が嫌いでした。
 部下を思いやる優しい人でした。
 そのくせ、茶目っ気があり、
 酒とカラオケが大好きでした。
 四国河野水軍の末裔らしく、豪快な人でした。


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 そんな河野功先生は、私を群馬県異業種交流会に入れていただきました。ここでは、いろいろな業界の諸先輩方々にお会いできました。そして、いろいろな勉強をさせていただきました。群馬県知事選挙の応援活動もさせていただきました。今となっては懐かしい思い出です。

 かえすがえすも残念なことは、河野功先生の伝記が書けなかったことです。河野功先生は、ほんとうに面白い人生をおくっておられ、その一生は、波瀾万丈であり、抱腹絶倒な生き様なのですが、それを記録に残せなかったのが残念でなりません。



河野功 プロフィール

 日本ユースホステル協会が創立して間もない頃に群馬県YH協会を創設する。その後、各地のユースホステルのマネージャーをへて県営観光開発公社で取締役として活躍し、群馬県営の観光施設を次々と立ち上げ、群馬県の観光に多大な功績を残す。バブル崩壊後は、膨大な赤字を処理するために、自らの首を切ることによってリストラを決行。県知事ほか大勢の人たちの慰留も断って野に下った。

 柔にして立、剛にして塞、簡にして廉。その人徳は、野に下った無冠の河野氏を世間は放置せず、県知事は、氏を特別表彰して、勇退を惜しみ、また、氏を慕う多くの人々が、自主的に氏のもとに集まって、梁山泊のごとき様相をしめし、氏を慕う者たちによって異業種交流会『きずな』をたちあげるにいたった。また、群馬県ユースホステル協会においては、各種の活動を精力的に行い、何度も日本ユースホステル協会から表彰される。


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追伸
告別式では、受付などの下働きをやらせていただきます。



つづく。

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posted by マネージャー at 22:56| Comment(0) | ユースホステルの話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月15日

小浅間山スノーシューツアー

小浅間山スノーシューツアー

 この日は、大雪だったので、小浅間山にスノーシューに行ってきました。

 小浅間山は、往復3時間くらいで登れる山ですが、
 スノーシューには不適なのです。

 理由は、風の通り道であるために、森林限界を超えると雪がありません。つまりスノーシューを装着する理由がないので、スノーシューツアーが成立しにくいんですね。だから、あまりツアーを出してないのです。おまけに風が強い。強すぎて、参加者に小さいお子さんがいると断念せざるをえません。

 というのは、風速1メートルにつき、体感温度は1度さがります。冬の小浅間山では、風速20メートルくらいは、普通に吹きますから、マイナス10度なら、体感温度はマイナス30くらいになって、とてもじゃないが、我慢できる温度ではなくなります。
 おまけに樹がないので風よけもない。
 しかし、大雪が降り、風がない場合は、
 小浅間山くらいスノーシューが楽しめるところはありません。
 この日は、そういうチャンスだったんですね。

 では、小浅間山のスノーシューツアーの風景を紹介しましょう。
 今回は、3名で登りました。
 写真を撮ってるガイド含めて3名です。

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 これを見てください。
 素晴らしい樹氷です。
 小浅間の林間コースは、樹氷が美しいので有名です。

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 みんな我を忘れて写真に夢中ですね。

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 山も素晴らしい雪景色。

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 でも、頂上付近には、雪が皆無ですね。
 バックに写っているのは浅間山です。
 素晴らしい眺めに感動しますよ。

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 ここが頂上。
 北軽井沢三大展望(二度上峠・小浅間・浅間牧場)の一つです。
 最高に素晴らしい風景が見えます。

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 軽井沢から、広大な北軽井沢草原。
 そして浅間高原。
 実は、私のお気に入りの場所で、週に2回くらい、
 買い物帰りに登っています。
 私の足だと、往復40分くらいですが、
 ツアーでは、3時間かけて、ゆっくり登りますね。

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つづく。

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posted by マネージャー at 23:59| Comment(0) | 中軽−小浅間山・千ヶ滝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月14日

湯ノ丸山スノーシューツアー

残念なことに、湯ノ丸山スノーシューツアーは、霧雨でした。
参加者は、この3人。
割烹着娘の先輩と、くれよんしんちゃんで有名な
埼玉県春日部から来た2人さん。
せっかく来てくれたのに、天候はいまいち。

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でも、気をとりなおして出発。

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7合目まで到達。
残念ながら、ここで撤退です。

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雨が降ってきたもよう。
こうなったら奥の手だ!

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そうです。
ソリです。

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しかし、ソリは、こういう使い方に変更。

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最期に食事をしましたです。

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つづく。

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posted by マネージャー at 21:18| Comment(0) | 鹿沢−湯の丸山 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月13日

北軽井沢・炎の祭り報告

北軽井沢・炎の祭り報告

今年の炎の祭りは、雪があってよかったです。

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毎度おなじみ焼き魚。
毎年、焼いていますね。

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こちらは、こんにゃくを使ったダイエットハンバーグ。
そして、ダイエットメンチ。
なんと80キロカロリーしかない。

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さあ点火式です。
かわいい少年少女たちが活躍します。

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ろうそくに火を灯し、幸福を祈願する。
目の前には幻想的な世界が広がります。

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日没後。

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良い感じになってきました。
そして太鼓のパフォーマンス。

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最期には、花火。
派手ですね。

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つづく。

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2010年02月12日

バレンタインデーに思うこと

今日、雪かきが終わって家に戻りますと、うまそうなチョコが置いてありましたので、食べようとしたら嫁さんが
「ダメ!」
「何で?」
と聞きますと、義理チョコならぬ、宿チョコを作っていました。
「そうか、もうバレンタインデーなのか?」
「そういうこと」

 バレンタインデー。恥ずかしながら、若い頃の私には、あまり縁のないイベントでした。まあ、貰ったことは、貰った記憶は何度もありますが、たいてい本番の数日前のことであり、練習台に造られたものの味見でしたね。それも、みんな白黒の斑のはいった奴で、
「これは何?」
と聞きますと
「模様」
という答えが返ってきました。

 当時は、インターネットがありませんでした。だから白黒の斑の入らない、きれいなチョコを作る秘伝を体得するのは難しかったに違いありません。インターネットの発達した今ですと、中学生にだって、きれいなチョコを造ることは可能でしょう。

 そもそも昔は、チョコそのものが高価でした。カップアイスが、10円だった時代に、板チョコは、50円もしました。今の物価換算でいいますと、カップアイスが、100円ですから、板チョコは、500円ということになります。だからチョコを食べることなんて、一大イベントであり、年に数回あれば良い方だったでしょうね。そういうものをプレゼントする。貰うというのも一大イベントだったでしょう。

 しかし、現代は、空前のチョコ低価格時代。チョコは、昔より、どんどん安くなっており、板チョコは、80円も出せば買えます。カップアイスの方が、あきらかに高くなっています。だからこそ、義理チョコという制度ができたんでしょうね。

 ところで、私が子供の頃、チョコと言えば、マーブルチョコでした。板チョコを買ってくれない親も、マーブルチョコだけは、買ったくれたものです。で、嫌いな色から食べて、好きな色は最期までとっておいたものです。しかし、ある日、嫌いな色を変色させる方法をみつけました。口の中て、ずーっと嘗め続けますと、白に変色するのです。それを天日干しに乾かして、箱の中に入れたりしました。


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 今は、無いですが、チューブ入りチョコというのもありました。歯磨きチューブみたいな容器に、ドロドロに溶けたチョコが入っていたのです。

 あれは、便利でした。

 というのも、遠足なんかにチョコを持って行きますと、ドロドロに溶けてしまい、リュックサックの中が、チョコだらけになるんです。だから親は、マーブルチョコしか買ってくれなかったのですが、チューブ入りチョコは、最初から溶けているので大丈夫なのです。暑くても、影響なく食べられます。昔は、今ほどエアコンや冷蔵庫が発達してませんでしたので、これが大人気でした。


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 で、遠足の時にチューブ入りチョコで、歯磨きする馬鹿があらわれたりして、けっこう面白かったです。あと、弁当の御飯にチューブ入りチョコで絵を描いていた奴もいましたね。


 そうそう、シガレットチョコというのもありました。
 煙草そっくりのチョコで、
 食後の一服と称して、
 煙草をすう仕草で、チョコを食べていました。
 駄菓子屋てないと売ってないのがみそですね。


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 ペロティというチョコもありました。
 これは、手鏡のようなチョコに絵が描いてあって、
 食べる前に絵を嘗めて消してしまうという作法のチョコでした。
 これは長持ちしましたね。
 なにしろ、いくら嘗めても絵が消えないんですから。
 でも、好きなキャラを買って、その顔を嘗めるというのは、
 今だと洒落にならんなあ。
 

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 しかし、子供の頃に嬉しかったのは、不二家のlookチョコですね。
 4つの味を楽しめました。
 次は、どんな味のチョコか?
 ワクワクドキドキしたもんです。


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 そうそう、「チョコレイトは明治〜♪」で有名な、
 チョコベビーも大好きでした。
 昔の子供たちは、こいつを大切に、少しずつ食べたものです。


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 で、貧乏な子供たちは、貧乏人の味方、
 麦チョコを食べていました!
 これしか食べられない子供たちは、
「貧乏人は麦を食え!」
とからかわれたものです。


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 で、金持ちの子共たちは、
 グリコアーモンドチョコ
 を食べていました!

 たまに貧乏人がグリコアーモンドチョコを手に入れようもんなら大変でした。チョコを舌の上で転がして解かして食べ、アーモンドを裸にして口から出し、それをしげしげと見つめた後で、もう1回アーモンドを食べたものです。で、食べた後の箱は筆箱にしたり、別の安物のチョコを入れたものです。


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 こういう風に昔を思い出すと、世の中が貧乏だった時代というのも悪くないなあと思いますね。チョコが貴重品だった時代は、それなりに楽しかった。みんな馬鹿やって楽しんでいました。いい時代でした。

つづく。

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2010年02月11日

今日は大雪

昨日と一昨日は、ものすごい暖冬で、18度。
6月なみの暖かさで、全ての雪が溶けてなくなったのですが、
今日は、大雪。
いったい、どうなってるんだ?

という訳で、明日、北軽井沢にお泊まりの皆さん、
大雪に気をつけてください。
下記のサイトで、天候を確認してください。

http://weather.yahoo.co.jp/weather/jp/10/4220/10425.html

それにしても、凄い異常気象。
どうなってるの?

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つづく。

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2010年02月10日

今週末は、炎の祭りです

今週末は、炎の祭りです

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2月13日(土)炎のまつり
16:00 祈願式
16:30 開会式
16:50 点火式(女神・巫女・炎の使者隊)
17:00 祈願ロウソク4,000本点火
18:00 太鼓演奏(浅間鬼押し太鼓)
18:30 花火打ち上げ・閉会

http://www.kita-karuizawa.jp/event/honoo/honoo.html

この日は、夕食スタートが19時30分からになります。


まだ空室がありますよ!

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つづく。

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2010年02月09日

日本ユースホステル史の源流17 蓮沼門三

日本ユースホステル史の源流17 蓮沼門三

 日本最初の天幕講習をはじめたのは、田澤義鋪でした。この田澤義鋪が、日本青年館、つまり日本で最初のユースホステルをつくる基礎を造るのですが、この田澤義鋪は、天幕講習を通じて、ある男と出会い、日本を大改革していくのです。私たちは、その大改革の遺産を有形無形にうけついでおり、この豊かな日本で生きているのですが、その遺産の原点が何であるかを、みんな知らないでいると思います。

 イエローハットの鍵山秀三郎氏は、その遺産の後継者でもありますが、鍵山秀三郎氏も、自分がセッセと行っている掃除という『行』および『修養』の原点が、どこにあるか分かっていないかもしれません。だから掃除行を日本の文化と言っているのだと思います。しかし、本当に掃除が、かっての日本の文化であったのでしょうか? 文化であったとしたら、いつ、どこで生まれたのでしょうか?


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 蓮沼門三という男がいました。
 掃除という修養によって革命を起こした男です。

 蓮沼門三は、福島県会津地方の小村の雪の舞う道ばたで生まれた。父は、熊の胆の販売で関西へ出かけ、同業者の手で金品を奪われ殺されました。そのうえ祖父は、詐欺にかかって財産を全て奪われ、北海道へ夜逃げしました。乳飲み子を抱えた母と門三は、洗濯、針仕事、走り使い、田畑の手伝いなどで、なんとか親子二人の命をつなぎました。門三が三歳のとき、母子は、会津喜多方の岩月村に住む蓮沼家の住み込みのお手伝いになり、やがて蓮沼家に嫁ぎ、門三は蓮沼家の養子になりました。

 蓮沼門三は、小さな妹たちのお守りをしながら小学校に通いました。彼には人徳があり、子供たちは蓮沼門三のところに集まりました。蓮沼門三は、小さいときから子守や飯炊きをしながら遊ぶので、
「飯を見てくるから」
「子どもが泣いているから」
「風呂を見てくるから」
などと言っては、遊びの場から離れたりした。それを良く思ってない子供たちの親たちは
「貰い子のくせに生意気な」
と言い、我が子には
「貰い子に使われる意気地なし」
と言うこともありました。

 しかし、蓮沼門三は、それにくじけることもなく、彼の発案で村道の美化を行いました。村は、神道を信仰する村だったので、村の美化は、信仰篤い村民に喜ばれました。神道は、清浄を尊ぶからです。また、仲間に呼びかけ、氷を切り出して町に届けて収入を得、幻灯機を買ったりしました。そうやって村一番の模範少年と言われるようになり、「貰い子のくせに生意気な」と母親に肩身の狭い思いをさせないようにしました。

 こうして成長した蓮沼門三は、独学で教員試験を受けて合格し、山村の小学校の先生となって活躍しました。そして福島の師範学校へ受験し、二度落第しました。筆記ではなく面接で落とされました。三度目は、東京府師範学校(東京学芸大学の前身)を受け、今度は合格。二十一歳のときでした。

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 そして東京師範学校に入学。
 寄宿舎に入りました。
 その寄宿舎は汚れ放題で不潔極まりなかった。
 当時は、バンカラがはやっていた。
 みんな
「大事業を成就しようとする者は、ささいなことにはこだわらない」
と言って泥靴で寄宿舎内を歩き、掃除など一切しない。汚れ放題になってしました。

 蓮沼門三は、舎監に清掃美化を呼びかけましたが、
「学生たちが言うことをきかない」
とあきらめていました。

「この学校は教師、いや聖職者を養成する学校です。いわば聖人をつくる場所でもあります。なのに、その寄宿舎を荒れ放題にして、汚しまくる学生たちを放置し、平然とする神経がわかりません」
「しかしなあ」
「私は、極貧の山村で生まれ育ちました。私の友や兄弟は、金がないために学校にも行けずに苦労している者も多いです。彼ら極貧の者たちが、学費無料の師範学校で、そして税金で造られた立派な寄宿舎を、このように粗末に使っているのをみたら何というでしょうか?」
「・・・・」

 蓮沼門三は、同室の学友に寄宿舎美化の協力を呼びかけましたが、協力する者はゼロでした。当時の日本国民は、日清戦争・日露戦争に勝利し、酔っていました。学生たちは、星雲の志を抱いて上京しており、清掃する時間があったら時局を談じ、西洋の学問をわれさきに学ばんとする時代でした。

 蓮沼門三は、他人をあてにしてはダメだと悟りました。
 そして彼は、黙々と唯一人で部屋と廊下を拭きはじめました。
 それは入学した翌年の四月のことでした。
 しかし、まわりは冷たかった。

「学校のご機嫌とりを始めた」
「偽善者め」

 憎悪をむき出しにする者も現れ、わざと泥靴で汚して妨害したりしました。
 イジメは、大昔の師範学校にも存在していました。

 それでも寄宿舎は、少しづつ綺麗になっていきました。
 冬は、朝夕に水仕事をするので、
 門三の手の甲は全面にひび割れができました。

 剣道の寒稽古のときには、
 門三のことをよく思っていない者たちが
 彼の小手を狙って打ちました。
 彼の手と腕は腫れ上がりました。

 ある朝、汲み置きしていたバケツの薄氷を割って雑巾を絞ったとき、腫れ上がった手の甲が破れ、鮮血が噴き出してバケツの水を染めました。それでも彼は雑巾がけをつづけました。それを見た同室の一人が、鮮血をぬぐいつつひたむきに美化奉仕を行う彼を見ているうちに、胸の中からどうしようもなく熱いものがこみ上げてきた。そして、友は門三に駆け寄り、手をしっかりと握って言った。

「蓮沼君、許してくれ。君の尊い心が今分かった。明日から手伝わせてくれ」
「ありがとう、ありがとう」

 蓮沼門三の手に友の涙が流れた、その血と涙が混じり合いました。

 その後、少しづつ賛同者が広がっていき、いつしか寮生の大半が、蓮沼門三の掃除を手伝うようになりました。こうなると泥靴で寄宿舎にあがる者はいなくなりました。わざと汚す者もいなくなり、みんなが住処をきれいにするようになりました。トイレも清潔になり、部屋に花を活けたり、額をかざるようになりました。

 さらに蓮沼門三は、仲間をつのって師範学校内に風紀革正会を作って、学校内でさまざまな改革を行いました。学生たちの手で校内売店の経営、食堂の改革、花壇の造成などが行われ、東京師範学校は日本一美しいキャンパスとなりました。

 そして三年生の秋、二つの論文
「修養団設立の趣旨」
「人格修養の急務」
を同志に示しました。

 一、師範の学生は教職を神聖なものと自覚すること、
 二、社会改革の先導者になるという意識に目覚めること、
 三、それらのために「修養団」を設立すること。

 そして蓮沼門三は、修養団を旗揚げすべく準備をすすめました。

 明治三十九年二月十一日、東京師範学校の食堂において、修養団の発会式が行われました。同志の師範生四百名。師範学校長・滝沢菊太郎の祝辞のあと、発起人の蓮沼門三は、壇上に立ちました。門三は誠と情熱をこめて、修養団創立の趣旨を読み上げました。数百名の同志は感激の極に達し、万雷の拍手と歓呼はいつまでもつづきました。

 この修養団の蓮沼門三が、田澤義鋪と出会い、戦前の社会教育において輝かしい成果を上げ、一世を風摩するのです。青年団の多くは、修養団の団員でもありました。渋沢栄一をはじめとして、松下幸之助(松下電器相談役)、土光敏夫(東芝相談役)なども修養団の関係者であったことは知ることぞしる話です。


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 さて、ここで、面白い話があります。修養団と逆の流れを造った男がいるのです。平凡社の社長、下中弥三郎です。日本最初の教員組合を作り、第1回メーデーを盛り上げた無政府主義者(アナーキスト)の重鎮でもあります。この男が、日本ユースホステル協会の初代会長に就任するわけですが、日本ユースホステル協会には、2つの流れがあったのです。

 修養団(蓮沼門三)と青年団(田澤義鋪)の流れ。
 下中弥三郎(教員組合)の流れです。

 2つの流れは、思想的に相反する流れなのですが、この相反する流れが、彼らの弟子の時代に合流して、日本ユースホステル協会となるのです。日本ユースホステル協会を創設したのは、中山正男と横山祐吉なのですが、中山正男は、下中弥三郎の流れの人でした。そして、横山祐吉は、修養団(蓮沼門三)と青年団(田澤義鋪)の流れでした。この相反する2つの激流が、一本の川となって、日本ユースホステル協会という大河に生まれ変わるのですが、それは後の話です。

 としあえず、蓮沼門三について、もうすこし述べてみましょう。
 蓮沼門三が田澤義鋪と出会って、
 日本が、どのように変化したか?
 という話をしてみたいと思います。


つづく。

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2010年02月08日

日本ユースホステル史の源流16

日本ユースホステル史の源流16

 ちょっと昔話をします。私が、リヒャルト・シルマンの伝記を出版しようかどうか迷っていた時の話です。本を出そうとして、各社に見積もりをとったら、最低100万から300万かかることがわかった。
 それで、ちょっと迷ったのです。
 そんな金はないぞと。
 そんな金があったら、屋根の修理をしたいと。
 原稿はできつつあったけれど、出版には躊躇したのです。

 でも、車のオイル交換で、何気なく入ったイエローハットで、棍棒で殴られたような衝撃をうけて、やはり『本を出そう』という気になりました。

 実は私、車のオイル交換は、最初は、オートアールズでやっていたのですが、別に不満はなかったのです。値段は安いし、サービスもいい。イエローハットに店替えする必然性は、何もなかったのですが、ある事でイエローハットに店替えしてしまった。その理由は、イエローハットの待合室にあった『日々清掃』を読んでしまったためです。

 イエローハットの創業者は、鍵山秀三郎という人なのですが、この人の講演を小冊子にしたものが、イエローハットの待合室に十冊くらい置いてある。私は、時間つぶしのために、何の気なしに読み始めたのですが、読むうちに、ぐいぐい引き込まれてしまった。

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 特に感動した小冊子は、『日々清掃』でした。
 どういう内容かと言いますと、こんな内容なんです。

 鍵山秀三郎氏が、昭和三十六年にイエローハットを創業した時に、千代田区三番町九番地という場所にあったアパートに住んだのですが、住んでる間、毎日アパートの周辺を道路を含めて掃いていたのです。付近は樹の多いところですから、秋には凄い量の落葉が落ちて、ごみも大変だったそうです。それでもできる限り、ずっと広く掃いていました。ところが、ある日、大家さんが、この「土地を買いなさい」という事を言ってきた。

 もちろん辞退しました。
 買えるわけがない。
 すると
「幾らなら出せるのか? 言ってみなさい」
「怒らないからとにかく言うだけ言ってみなさい」
という。それで
「時価の六分の一程度の金しか出せないので御辞退させてください」
と断るのですが、大家さんは
「それでいいです」
と、常識外れの価格で鍵山秀三郎氏に譲ってくれたのです。

 実はその土地は誰でもが欲しい場所で、日本の有名な企業が買いたいという、あるいは貸してほしいという事を申し出ておられたのですけれど、そのいずれをも断ってですね、イエローハットに非常識な金額で売ってくれたのです。でも、鍵山秀三郎氏は、そうやって手に入れた土地を自分の利益に使わずに、ヨーロッパ共同体の日本支部に無料同然の値段で貸しています。


 また、『日々清掃』には、こんな事も書いてあります。


 イエローハット創業十二年の頃、騙されて昭和四十八年当時に十億円近い債務を背負った時に、ジタバタするのをやめて、ひたすら掃除だけを一生懸命にやったんです。それが奇跡の大発展を築く根源になったことが書いてある。

 これを読んだときに、私の身体に稲妻が走ったのです。
 で、途中で読むのをやめて、店内をチェックしだした。
 そして
「店内が綺麗!」
「トイレが綺麗!」
という点を発見し、また鍵山秀三郎の小冊子を読みあさったのです。

 会社が傾く。倒産の危機にあう。そんな時に掃除をしたからといって、難問が一度に解決するわけがない。でも、掃除をしたのです。他の事をやるより、この事が一番いいのではないかという風に鍵山秀三郎は思ったわけです。

 これが他の会社であれば、幹部を集めて会議を開いて対策を練るわけですが、たいていは上手くいかない。頭で考えることには限界があるのですね。それを鍵山秀三郎氏は、体験的に知っていたのです。

 で、一生懸命に掃除をしたのです。
 無心の境地で掃除をはじめた。
 すると、無心の心の中から光が見えてくる。
 こういう事はどうだろうか、
 こういう方法もあるのではないか、
 フッと気づき、
 今まで思いもつかなかった事を、
 手を使って掃除をしている間に思いついてくる
 という事があるのです。

 当時、イエローハットは、カー用品の問屋さんでした。全国のカー用品の小売店に、品物を卸していたんです。イエローハットの会社が傾いた時、社長みずから全国のカー用品の小売店に掃除をしにいったんです。お得意先である小売店の駐車場の草とりから始まって、周辺のドブ掃除、店内の掃除、トイレ掃除を行った。

 で、お得意先の小売店の掃除をお手伝いしているときに、店舗の過剰在庫が、小売店の経営を圧迫していることに気がついたわけです。商品にホコリが積もっている。

 問屋という業種は、一つの品種を大量に売るのが商売です。
 薄利多売が問屋の商いでした。
 だから沢山注文してくれれば、値段を下げますよと言って、
 小売店に沢山買わせていたのです。
 しかし、そのために在庫にホコリが溜まる結果となり、
 商品の新鮮さを失ってしまうことに気がついたのです。

 それで、少品種多量売りの路線から、一八〇度転換して多品種少量に、仕事の方針を変えました。小売店に「過剰在庫は諸悪の根源」という標語をつくってお配りして、問屋業のくせに
「できるだけまとめて買っていただきたい」
ではなく
「まとめ買いをしてはいけません」
という事を鍵山秀三郎社長みずから、お願いして歩きました。

 イエローハットの躍進は、
 この時から始まったのですね。


 鍵山秀三郎氏の小冊子を読むようになってからの私は、2ヶ月に1度の愛車のオイル交換が待ち遠しくなりました。イエローハットで小冊子を読むのが、とても楽しみになったのです。ただ、イエローハットの商品は、決して安くはない。オートアールズやオートバックスの方が安かったりする。でも、あえてイエローハットで物を買うようになりました。値段を買うのではなく、イエローハットの創業者の思想を心意気を買いに行ったのですね。銭金の問題じゃない。精神の問題です。心意気の問題です。

 もちろん小冊子も売って貰った。

 売って貰えば、イエローハットに行かなくても自分の家で読めばいいもんですが、自分の家で読むより、イエローハットで読む方が、なんだかしっくりくる。そして、イエローハットのトイレを使わせて貰う。で、
「今日も綺麗に掃除してあるなあ」
と感心したりする。
ウインドーショッピングもします。
そして
「商品にホコリが無いなあ」
と感心したりする。

 そういう毎日をすごしているうちに、ユースホステルの世界にも、イエローハットの社長鍵山秀三郎氏の小冊子のようなものが、あっても良いのではないか? という事に気がつきました。ユースホステルの理念と原点が書いてある小冊子が、日本中のユースホステルにあってもよいではないかと思ったのです。それがあれば、私がイエローハットを贔屓にしたように、ユースホステルを贔屓にする御客様が増えるかもしれないと。

 しかし、そういう小冊子は無いのです。

 だから今、私が造ろうとしているわけであり、その第一冊目が、リヒャルト・シルマン伝であったわけですが、日本ユースホステル協会の創設者横山祐吉氏は、わざと、そういうものを造らせなかった。そういう思想性をわざと排除してしまったきらいがあった。それについては、おいおい述べることにして、それはともかく、これが日本ユースホステル運動の衰退の原因になっていると。


 ところで、話は変わりますが、イエローハットの鍵山秀三郎氏の思想は、彼のオリジナルではありません。彼自身が、YouTubeの動画で言っているように、これには原点があった。鍵山秀三郎氏は、それを日本の文化と言っていますが、実は、少し違っています。文化などではなかった。その理由は、後で述べます。





 それは、ともかく、その原点は、日本ユースホステル協会の原点でもあった。鍵山秀三郎氏は、その原点については、何も知らなかったかもしれませんが、あきらかに原点があって、鍵山秀三郎氏は、その原点を知らず知らずのうちに実行していたのです。

 そして、その原点こそが日本ユースホステル協会および、日本青年団の原点でもあった。それだけではありません。日本財界の原点でもあり、その原点には、渋沢栄一が深く関わっていたのです。

 では、その原点とは、なにかというと田澤義鋪氏が、ある出会いによって、一生涯師事することになった、ある男にあります。田澤義鋪が三保の松原で天幕講習を開いたとき、ある男と出会った。

 その男の名前は、蓮沼門三と言いました。

蓮沼門三

 この蓮沼門三と田澤義鋪が、日本ユースホステル協会および日本青年団の原点を造るのです。そして全ての日本人をイエローハットの鍵山秀三郎氏のような人間に改造し、日本を内部から変えていこうとしたのです。ちなみに早朝のラジオ体操の原点も、蓮沼門三氏が原点であったことも、知る人ぞ知る話です。


つづく。

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2010年02月07日

国際色豊かな日

 北軽井沢ブルーベリーYGHには、外国人の御客様は、ほとんどきません。皆無といって良いです。理由は、ジャパンレイルパスが使えないのと、北軽井沢や軽井沢には、日本らしいところが少ないためです。ですから外国人が北軽井沢ブルーベリーYGHに来る場合、ある目的をもった場合が多い。例えば、火山など。火山研究者なら、過去に10名以上も泊まっています。しかも、この人数は、過去に泊まった外国人の5割に達します。で、次に多いのが、海外のユースホステル関係者。観光客で泊まる外人は、ほとんどいません。こういうユースホステルは少ないでしょうね。

 さて本題です。

 今日は、ひさびさにスイス人国籍の人が泊まられました。日本語ペラペラでした。そのために、お茶会は、スイスとヨーロッパの話で大盛り上がり。北軽井沢ブルーベリーYGHでは、とても珍しい光景です。で、感じたことは、

「日本語の上手な外国人が増えたなあ」

ということです。もう驚異的ですね。一昨年も代々木ユースホステルと隅田川ユースホステルに泊まったときも、日本語ぺらぺらな外国人に出会い、ぼーぜんとしたものですが、

「外人は日本語を話せない」

というのは、もはや都市伝説にちかいものになった気がします。代々木ユースホステルで知り合ったアメリカ人の日本文学研究者は、話すだけなら、他の言語より易しいと言ってました。母音が5個しかないし、時制の変化も、名詞の変化もない。おまけにスペルを覚えなくて良い。そして文法が単純でシステマティックである。
 ということでした。
 ただし、書くということになると、とても難しいとも言ってました。話すのは簡単だけれど、書くのは難しいらしい。日本語の読みは外人からしたら嫌がらせとしか思えんらしい。これには、私も同意しますね。私も文章を書く場合、日本語の複雑さと難しさに嫌がらせとしか思えんことがありますから。


つづく。

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posted by マネージャー at 04:28| Comment(6) | 日記 2012以前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月05日

バラギ山と鬼岩の調査報告

今日は、バラギ山と鬼岩までいってきました。
あと一歩で四阿山頂上だったのですが、
吹雪で撤退。

 苦戦の理由は、バラギ山付近の稜線上の雪庇が大きかったことと、赤テープでルートをつくるのに、思いのほか時間がかかったことです。というのも、バラギ山に行く途中、大規模な林道工事が行われていて、登山道が寸断されているのと、どこの誰かはわからないが、夏道とちがうところに、新しいルートを造っているので、ルートに混乱が生じていることです。

 しかたないので、必要以上に夏道にテープを設置するはめになりました。使用したテープは、10個です。バラギ山の7合目でテープが無くなってしまいました。まあ、道が分かりにくいのは、アンテナが設置してある7合目までであって、あとは、稜線上をあるくだけなので、間違えようがないので問題はないんですけれどね。

 気になる点。
 地形図のルート、間違ってますね。
 あきらかに違います。

http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?meshcode=54386305

 グーグルマップの航空写真もダメです。
 現状は変わっています。

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 あと、バラギ山までは、楽勝なので初心者ツアーでも行けそうですが、鬼岩は、一般人には無理ですね。かなりの地獄のコースです。ただ鬼岩から四阿山は、目と鼻の先ですから、そこまでいければ、四阿山の頂上に到着するのは、簡単です。

 といっても朝6時出発でないと無理だろうなあ。
 それに鬼岩は、雪に埋まってました。
 的岩のような迫力はまるでなし。
 やはり、登るなら的岩ルートが一番楽かなあ。
 疲労度は、倍くらい違いますね。
 鬼岩ルートは、文字どおり鬼です。

 今度は、パルコールゴンドラルートで、
 四阿山にチャレンジしようと思うんですが、
 さすがに、これは楽すぎて面白くないかなあ。
 どうなんだろう?
 根古岳までの遠征なら面白いだろうか?


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 それにしても2月の四阿山は、鬼ですわ!
 とてもじゃないが素人が登れるような
 甘い山ではありません。
 ここには絶対ツアーを出してはいけないと思いました。


 ただし、バラギ山は、よかった。
 楽だし展望が素晴らしいので。
 ちなみに、これは2年前のツアー写真。
 頂上は、こんな感じです。

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つづく。

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posted by マネージャー at 23:38| Comment(0) | 四阿山・バラギ高原 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

職人さんが、やってくれました

職人さんが、やってくれました

大塚建設と、わんたろう工房のコラボです。
北軽井沢ブルーベリーYGH野鳥化計画!


2010年1月31日

北軽井沢ブルーベリーYGH前に巣箱を設置しました。
野鳥の王国を築くのです。

この他に、新しい駐車場にも、
私が取り付けた巣箱が、7個あります。
合計15個の巣箱と、
7個の餌台で、野鳥の天国をめざしたい。


つづく。

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posted by マネージャー at 01:39| Comment(2) | 日記 2012以前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月04日

ルート作りの毎日

今年は、スノーシューのルート作りの毎日です。
理由は、雪が多いためと初心者の入山が多くなっていたためです。
そのために、あきらかに間違えた道を造っている人がいる。

 特に烏帽子山のルートミスは、あまりにもあぶなかしいので、これはいかんと、大急ぎでコンビニに行って、赤のビニールテープを買い占め、正しいルートに目印のテープを貼って、道を間違えないようにしてきました。正直言って、赤テープの残置は気が進みません。美観が損なわれるし環境にもよくない。だから、この数年間は、わざと貼らないできた。けれど、崖の方に方向を間違える人がでてくると、そうも言ってられなくなります。もし事故がおきたら、余計な規制が増えてしまい、われわれがやりにくくなる。

09ebo-05.JPG

 で、仕方なくテープを貼る毎日なのです。
 昨日は、四阿山の麓までテープをつけてきました。
 で、わかったことは、
 新しい登山ルートができているということ。

 林道ルートの他に、別ルートができていて、
 ちょっとややっこしいんですね。
 地形図のルートも実際とは違っています。
 むしろグーグルマップの航空写真の方が参考になる。

 あと面白いのが、正規ルートの他に、スノーシューならではの近道があったということ。この近道を使うと、45分かかるところを20分に短縮できたりする。しかし、夏に通れるかどうかは、不明なので、テープははりませんでした。

 あと、面白かったのが、桟敷山林道の送電線ルート。
 これは面白かった。
 ちょっとアドベンチャーなので、
 御客様を連れて行くのは無理があるのでやりませんが、
 眺めが良くて、けっこう面白いですね。
 体力に自信がある人は、チャレンジしてもいいかも。


09ebo-09.JPG


はなしは、かわりますが、怖い体験です。
飯抜きで、的岩までスノーシューで遊びに行ったときのことです。
12時に登り始めて17時に下山したのですが、
その日は、朝から何も食べてなかった。
下山するまで、アミノバイタルプロだけだったのです。

食料は持ってましたが、別に空腹にならなかったので食べなかった。
でも、下山したあとに、寒さが襲ってきたのですね。
そこでジャンジャンストーブを焚いて暖をとっても、
全く身体が温まらないのです。
「変だな?」
と思い、風呂に入ったのですが、やはり温まらない。
凍傷ではないし、変だなあと、ブドウ糖を食べたら
やっと寒さが止まった。これで
「カロリー不足だ」
と、原因がわかったので、かたっぱしから甘い物を食べました。

危なかった!

念のために血圧を測ってみたら、
ふつう150くらいあるはずの血圧が、
100まで下がっていました。
おまけに体重も3.5キロ減っていました。
青ざめた私は、ネットで気温を調べたら、
この冬一番の寒さだったらしい。

スノーシューをやってると、身体がポカポカするので気がつかなかったのですが、どうやら、この冬一番の寒さの日に、飯を食わずにスノーシューで遊んだために、カロリー不足になっていたことに気がつかなかったらしい。

危なかった!

もし、どこかで睡魔に襲われていたとしたらと
考えるだけで身震いがします。
やはり、飯は食わないとダメだと痛感しました。


(しかし、痩せたことで、ちと嬉しかったりする)

つづく。

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posted by マネージャー at 23:55| Comment(0) | スノーシュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月03日

スノーシューのルート作りと訃報

今日は、鳥居峠から四阿山までスノーシューのルートを作りにいってました。ルート作りなので、ラッセルに苦労はするし、テープで印をつけるために時間がかかります。おまけに携帯もつながらない。ルート作りでは、

「どこで携帯が繋がるか?」

というのも重要な調査です。これが分からないと、イザという時に救援隊が呼べません。トムラウシ山遭難事故のような事件が起きてしまうのです。ですから、携帯が繋がらないようならアマチュア無線を持参しなければならない。

で、携帯は繋がったり繋がらなかったり。
的岩あたりで、常時携帯がつながるようになりました。
すると電話がはいったのです。

「もしもし、佐藤さん?」
「はい」
「柴山(元観光協会の事務局の人で俳句の先生)さんの、御主人が亡くなったの知ってますか?」
「ええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ?」
「あ、知らなかったんだ」
「急死ですか?」
「そのようです。温泉で倒れたそうです」
「分かりました。すぐに駆けつけます」
「通夜と葬儀は、鎌倉でやるそうです。17時に嬬恋村を出発するそうです」

 時計を見ました。
 15時でした。

「実は、今、四阿山にいるんです。急いで帰りますが、17時まで2時間しかありませんから、全力疾走で下山しても間に合わない可能性があります」
「わかりました」

 実は、その時、私は、新ルートを探索していました。
 スノーシューに適した場所をもとめて藪漕ぎをしていたのです。
 場所は、花童子宮と的岩を直線で結ぶ中間地点。
 もちろん登山道ではありません。
 新ルートだけに17時までに北軽井沢に戻れるかどうか不安だったので

「しかたない、いったん的岩に行って登山道を下山しよう」

 と全力で尾根越えを行い、16時。
 そして的岩から走るように鳥居峠に向かいました。

 これが村上山か、湯ノ丸山だったら
 簡単に1時間以内に下山できるのですが、
 四阿山の新ルートとなると、そうはいきません。

10-1-11-7.JPG

 こう配がゆるやかで、距離が長いので、平地を歩くのとかわりなく、
 あるけども、あるけども、鳥居峠まで辿り着きません。
 やはり下山には1時間かかり、
 鳥居峠に到着したのは17時。

 ついに柴山(元観光協会の事務局の人で俳句の先生)さんの、
 御主人には、お会いできませんでした。
 実は、北軽井沢ブルーベリーYGHには遊びに来たこともあって
 一緒に古今亭八朝さんの落語もきいていたんですよね。
 御冥福をお祈り致します。

IMG_4959.JPG


つづく。

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posted by マネージャー at 22:22| Comment(2) | スノーシュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月02日

桟敷山スノーシューハイキングツアー

桟敷山スノーシューハイキングツアー報告です。
2010年1月31日、愛妻の日に行いました。
これが入り口。
桟敷山は、私が最も多く登っています。
ルートもテープのつけています。
1-31-2.JPG


つづきは、こちらです
http://snowshoeing.seesaa.net/article/140001133.html



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posted by マネージャー at 01:07| Comment(0) | 鹿沢−桟敷山・小桟敷山 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月01日

浅間高原ウィンターフェスティバル2010後日談

浅間高原ウィンターフェスティバル2010後日談

 浅間高原ウィンターフェスティバルの星空鑑賞会で、

「冬の満月なので今日は1年で一番夜が明るくなる日です。ですから深夜0時に浅間山の写真を撮りに行ってください。すばらしい映像が手に入りますよ」

と締めくくったのですが、それを聞いたうちの御客様が、さっそく23時頃に浅間山の写真を撮りに行きました。

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みんなやる気がありますね。

さて、どうして、1月の満月の夜が、1年で一番明るいかといいますと、理由は幾つかあります。これはウィンターフェスティバルの星空鑑賞会で解説してなかったので、ちょっと説明しておきましょう。


1.地球の地軸が曲がっているため
 夏は、太陽が低くしか上がらないのは、誰もが知っていると思います。地球の地軸が曲がっているためです。そのために月は、逆に空高く上がるのです。つまり、満月の照射が最も強いのが、12月末から1月にかけての満月なのです。


2.1月は1年で一番地球が太陽に近い
 地球は、太陽の周りを回っていますが、楕円でまわっています。そして1月が1年で一番地球が太陽に近いのです。つまり満月の照射も一番明るいわけです。


3.2010年の1月30日は、月が一番地球に接近している
 月も地球の周りを回っていますが楕円でまわっています。そして1月30日が一番地球に接近していました。つまり満月の照射が一段と明るいわけです。


4.最期に積雪があること。
 最期の理由は、1月の積雪です。地球上の雪が月光の明かりを反射して月を照らすのです。それがまた浅間山を照らします。つまり、雪のある時は、余計に明るいんですね。


 他にも、理由はたくさんありますが、難しくなるので、
 このへんで切り上げて、本当に明るいのか見てみましょう。

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明るいですねえ。
凄く明るい。
車で走ってもライトがいらないくらいです。
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あと、面白いのは、こんなに明るいのに星が見えること。
これはオリオン。
そしてシリウス。
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北斗七星。
明るいですね。
hoshi31-6.JPG


記念撮影をとってみました。
明るいです!
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バックに浅間山。
フラッシュ無しです。
hoshi31-8.JPG


星といえば、満天の星ばかり追いかけがちですが、
実は、こういう満月の明るい時も、素敵なんですよね。
意外に知られていませんが、プロ向きの天文観察の時期なのです。

浅間高原ウィンターフェスティバル2010の星空鑑賞会では、
これをテーマに、月と火星の話をしようと思ったのですが、
せっかく宗次郎さんがオリオンネタをだしてくれたんで、
前半は、オリオンネタを使いました。

私は、星の話をしだしたら、1時間でも2時間でも夢中で
しゃべってしまうので、御客様が首を痛くしないように
10分いないに終わらせるようにしています。
でも、気がついたら、いつもオーバーしちゃうんですけれどね。

091230-4.JPG

つづく。

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posted by マネージャー at 22:59| Comment(0) | イベント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする