1年の2学期に別の先生が担任になり、2年になりますと、さらに3人の先生が入れ替わりに担任となり、合計4回入れ替わったのです。つまり、2年間に5人の先生に習ったのです。1学期ごとに4人の代用教員に教わったのですが、これに対して父兄は、不満を漏らしたと言います。私の父も怒っていました。
しかし、子供たちには、少しも不満がなかった。むしろ、子供たちの嗅覚は、代用教員の方に軍配をあげていました。どの先生も、別れ際に涙があふれていましたし、お辞めになってから、小学校にジャングルジムや滑り台なんかを寄付してくれていました。そこには確実に二十四の瞳の世界があったと思います。
例えば、小学校2年生の3学期のことです。学芸会で何をやるかホームルームで相談した時のことです。だれか女の子が
「バレーを踊りたい」
と言い、先生が
「やりましょう」
と言いました。もちろんみんな、バレーなんか踊れるはずがありませんし、先生だって踊れません。で、どうしたかと言うと教科書を閉まって朝から晩までバレーの稽古をして、ついに学芸会で、『くるみ割り人形』を踊ってしまいました。
そして、小学校3年生になりました。
クラス替えが行われました。
癌で入院した先生に、学校が見切りをつけ、代用教員ではなく、正規の先生を雇うことにしたのです。そして、その正規の先生というのは、大学を出たばかりの新任の先生でした。いわゆる団塊の世代の先生であり、しかも男の先生でした。そのためにクラス編成まで変えてしまいました。
私は、団塊の世代の新任の先生のクラスに入りました。
そして、その先生に3年間習うことになるのですが、この先生が変わり者でした。いわゆる典型的な団塊世代の先生でした。そのために驚きの毎日が続きました。
今までの代用教員の先生の世界は、二十四の瞳の世界でした。どの先生も母親のような優しさがあり、いつも易しい言葉を使って、優しい言葉をかけてくれました。
しかし、団塊世代先生は、容赦なく難しい言葉を使いました。今まで聞いたことのない単語が耳に入ってきました。「ジミントウ」とか、「アンポ」とか、小学生には理解しがたい単語がポンポンでてきました。でも、授業は面白かった。なにしろ脱線が多かった。いつの時代だって、子供にとって脱線は大歓迎です。だから子供たちの人気者でした。
ただし、「★★先生」とは誰も言わなくなりました。
かわりに「★★」と呼び捨てにしました。
その先生は、当時佐渡島の金井町に1軒しかない、パチンコ屋によく出入りしていました。台は十台しかない小さなパチンコ屋でしたが、そこにいくと必ず、その先生が居ました。日曜日には、かならずいますので、用があるとパチンコ屋に駆けつけたものでした。そういう小学校の先生は、今まで見たことがありませんでしたので、そういう理由でも、その先生は人気者になりました。ただし、みんなに呼び捨てにされていました。
その先生は、豆が嫌いでした。
給食に豆が出てきますと、露骨にムッとしていました。
とくにヒジキに入っている大豆にムッとしました。
「おい★★の機嫌悪いぞ、どうしてだろう」
「うーん、どうしてだろう?」
「あ、豆だよ豆。ヒジキに豆が入ってる!」
「あー、そうだったのか」
子供たちは、ムッとしている先生のために、せっせと、先生の給食から豆を一つ一つ取り除いてだしました。すると先生は、ニコッと笑い顔を見せました。そんな先生は、今まで見たことがありませんでしたので、そういう理由でも、その先生は大人気者になりました。ただし、みんなも、嫌いなものを遠慮無く残飯にしました。
ある日、ホームルーム(当時は、学級活動といった)で、
先生は、こんなことを私たちに問い始めました。
「君たち! 今、百万円あったら、何が食べたい?」
「・・・・」
質問の意図が分からなかったので、
私は黙っていましたが、同級生たちは
「スイカが食べたい」
「一番高いチョコを食べたい」
「十段のケーキを食べたい」
と、めいめい答えていました。
そして、最後に先生が答える番になりました。
私たちは、わくわくドキドキ先生の回答を期待して待ちました。
どんな立派な答えがでるのだろうか?
どういうオチがあるのだろうか?
「百万円で飢えた難民のたちに、余っている米を買って、海外に送れ」
なんていうオチを想像しながら、
先生の回答を
わくわくドキドキ期待して待ちました。
きっと、いい話にまとめてくれるんだろうなと。
しかし、先生の回答は、意外なものでした。
「先生は、百万円あったら、中華料理のフルコースを食べたい」
「・・・・」
沈黙が教室に流れました。
沈黙には2通りありました。
どこがオチなのか?という沈黙と
フルコースという単語の意味がわからないという沈黙でした。
つづく。
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