2010年04月30日

ユウ物語 第壱話 たかいクラブ

ユウ物語 第壱話 たかいクラブ

ゴールデンウィークの新人ヘルパーさんがやってきました。
高井祐子さん。ユウちゃんですね。
思えば、去年もGWの新人ヘルパーさんは、ユウちゃん。

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それはともかくとして、
ヘルパー早々、御客様の注目をあび
リピーターの某Hさんに

「あなたですか、参拾歳代のヘルパーさんは」
「え? なぜ私の年齢が分かるのですか?」
「見ればわかりますよ」

リピーターの某Hさんは、このブログを読んでいますから、

http://kaze3.seesaa.net/article/146444461.html

ゴールデンウィークのヘルパーさん情報を事前に知っていたわけです。
しかし、新人ヘルパーのユウちゃんは、このブログの存在を知らなかった。

ユウ「ショックです」
佐藤「何が?」
ユウ「私の年齢が見られただけでバレてしまいました」
佐藤「はあ?」
ユウ「御客様のHさんに「あなたですか、参拾歳代のヘルパーさんは」と言われました」
佐藤「・・・・」
ユウ「なんで私の年齢を知ってるんですか?って聞いたら「見ればわかりますよ」と言われたんです。もう弐拾代には見られないということなんですね。サバよめないんですね」
佐藤「いろいろ突っこみたいところは、いっぱいあるけれど、とりあやず、こっちに置いといて」
ユウ「?」
佐藤「君の年齢のことは、すでに北軽井沢ブルーベリーYGHのブログで公表してあるのよ」

http://kaze3.seesaa.net/article/146444461.html

ユウ「え? ブログって何ですか?」

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佐藤「ブログ読んでないの?」
ユウ「婚活の部分は読みました」

http://www.kaze3.cc/06-news/ketkon.htm
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佐藤「orz....(突っこみたいけれど、とりあえず我慢しよう)」
ユウ「???」
佐藤「よく婚活のページ発見できたね。このページを発見する方が、北軽井沢ブルーベリーYGHのブログを発見するより難しいのに」
ユウ「?」
佐藤「それはともかく、御客様の殆どは、私のブログの読者なのだよ。最盛期には、一日二千アクセスを超えることもある。そのブログに君たちの失敗談をドンドンアップされるのだよ」
ユウ「えええええええええええええええええええええええええええええええええええええ」

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佐藤「皿なんか割ったら書くよ!」
ユウ「そんなバナナ」

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佐藤「どうだ参ったヶ」

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つづく。

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posted by マネージャー at 02:31| Comment(4) | ヘルパー物語2008− | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月29日

ユウ物語

GWの新人ヘルパーさん登場! 今年もユウちゃんです

今日から新人美人ヘルパーさん登場です。
高山祐子さん。

ユウちゃんですね。

思えば、去年もGWの新人ヘルパーさんは、ユウちゃんでした。
将来、ゲストハウスを経営したいという夢があるので、接客好き。
御客様と、よくお話しします。

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とっても明るくて、働き者ですが、
ちょっとドジっ娘。
で、さっそく、ボケてくれました。
そのボケぶりは、また後日紹介しましょう。

つづく。

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posted by マネージャー at 20:55| Comment(2) | ヘルパー物語2008− | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

爆笑動画を発見! 仕分け人「光より速い通信手段が生まれたらどうするの?」仕分け人「光より速い通信手段が生まれたらどうするの?」

仕分け人「光より速い通信手段が生まれたらどうするの?」


http://www.ustream.tv/recorded/6474169
1:15:49頃

仕分け人:
さきほど光ルータの話がありましたが、もし仮に、明日光よりももっと速い、光を使わなくても速くて、熱効率も良くてですね、そうしたものがどっかからポンと出て来た時に、これは続けられるんですか? こうした事業というのは?

内藤副大臣:
(苦笑い)そういう、夢、夢の仮定の話があれば、結構なんですが、そういうのがあれば、その時々に応じて、そうする価値はあると思います。


http://www.geekpage.jp/blog/?id=2010/4/28/1



久々にドツボにはまってしまった。
5分くらい笑いが止まらなかった。
理系の人間なら分かるはず。

いやー久々に笑わせてもらいました。



光よりももっと速いものがあったら
相対性理論の崩壊ですよ。
世界が変わりますよ。
物理の教科書を全部書き換える必要がある。

そもそも最初から切ってやろうと思ってる連中に
何を話してもムダなんだろうなあ。

こりゃ、あきらかにイジメショー。
(分かる人には分かりますよね)

内藤副大臣、仕事とはいえ、大変だよなあ。
ちょっと可哀想になってしまった。
お役目ご苦労様でした。


つづく。

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posted by マネージャー at 12:20| Comment(0) | お笑い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月28日

浅間高原 彩と音 北軽井沢ミュージックホール

浅間高原 彩と音

GW の浅間では、さわやかな風。その風が一瞬、肌寒さをいたずらします。5 月の風に誘われて、
「浅間高原 彩と音」をのぞいてみませんか。
「浅間高原 彩と音」にブラッと立ち寄ってみませんか。
「浅間高原 彩と音」はあなたの参加で新しい彩が、新しい音が生まれます。

日時: 2010年5月4日(火) 13 時〜18 時
場所: 北軽井沢ミュージックホール (国道146 号線北軽井沢交差点)
主 催: NPO あさま北軽スタイル
NPO 北軽井沢ミュージックホールサポーターズ
共 催: 北軽井沢観光協会
後 援: 長野原町北軽井沢区、長野原町商工会
入場料:1000 円 (くじ引き付き)
問合せ: パイオニア福嶋 (TEL:0279-84-6633)

「浅間高原 彩と音」は、斎藤秀雄、小澤征爾などゆかりのミュージックホールを、五感にうったえることであれば何でもありの楽しいガーデン・プラザにしようとする試みです。電波にのらない半日だけの放送局を開設すると考えていただきたいと思います。あなたも参加できる番組がいっぱいです。あなたの参加でガーデン・プラザが更に楽しくなります。北軽井沢自慢、ブース展示・デモンストレーション、地場産品等販売、ワークショップ、PR コーナーなど。

北軽ならではの情報交換ツイッター・サロン(テーマ、「浅間高原の将来」)には各地から、各方面からゲストがやってきます。

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ライブ演奏
 この日のステージで、THE 虎舞竜のピアノ/ギター本間敏之氏が、
北軽井沢をテーマに作曲した「ASAMA」などの新曲を発表します。


つづく。

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posted by マネージャー at 23:26| Comment(0) | イベント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月27日

差し入れの「らんたロール」は美味かった

差し入れの「らんたロール」は美味かった。

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これが「らんたロール」です。
すごく美味しい。
カロリーは.....orz

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なにしろこんな卵を使ってますからね。

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卵太郎
TEL 027-343-3829
住所 群馬県高崎市下里見町1358
営業時間 10:00〜18:00

http://www.sanki-rantaro.com/


つづく。

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posted by マネージャー at 23:37| Comment(2) | 日記 2012以前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月26日

菱野温泉に行ってきました。

4月25日・菱野温泉に行ってきました。

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登山列車で温泉に行きます。

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展望のよい風呂です。

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露天風呂も素敵。
富士山も見えます。

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信州小諸 菱野温泉
常盤館
〒384-0041 長野県小諸市菱平762-2
TEL:0267-22-0516
FAX:0267-23-5648


入浴料中学生以上… \1,000(税込)
3歳〜小学生… \500(税込)
営業時間11:00〜21:00 (受付終了時間:19:00)

土・日・祝日の16〜18時は外来のお客様の入場制限もあるとか。特にお正月・GW・夏休み〜秋にかけては多々発生します。 備品石鹸・ボディーシャンプー・シャンプー・貸しタオル・ドライヤー・有料貸しバスタオル ・販売タオル(歯ブラシ付)
各200円

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つづく。

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ラベル:菱野温泉
posted by マネージャー at 23:54| Comment(2) | 小諸市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月25日

小諸懐古園に花見に行ってきました

4月25日・小諸懐古園に花見に行ってきました。
満開でしたね。

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ソメイヨシノは満開でしたね。
4月23日〜27日が全体的に見頃となりそうです。
小諸八重紅枝垂は、現在9分咲きで4月いっぱい見れそう。

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 懐古園は、山本勘助が築き、仙石秀久によって完成されたと言われています。白鶴城や酔月城とも呼ばれ、入り口の三の門(重文)には徳川家達公の筆になる“懐古園”の額が掛っています。城下町よりも低い位置にある「穴城」として全国的に珍しい存在で、天然の要塞となっている野面積みの石垣が昔日を偲ばせています。

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【利用案内】
入園料500円 小中学生200円

藤村記念館、
小山敬三美術館、
郷土博物館、
徴古館、
動物園、
小諸義塾記念館

散策券300円 小中学生100円
園内散策、動物園

【開園日時】
3月中旬〜11月末まで無休開園
AM8:30〜PM5:00
【休園日】
12月〜3月中旬まで毎週水曜日
年末年始(12月29日〜1月3日)
遊園地休園日(12月1日〜3月中旬)
【交通】
小諸駅より東西自由通路を渡りすぐ
【所在地】
〒384-0804 長野県小諸市丁311
【連絡先】
TEL 0267-22-0296
FAX 0267-25-0296
Email kaikoen@city.komoro.nagano.jp


つづく。

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posted by マネージャー at 23:52| Comment(3) | 小諸市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月24日

大江戸実々奇談の紹介

今日は、「大江戸実々奇談」の紹介です。

 大江戸実々奇談は、去年の11月にも紹介したのですが、大勢の御客様から「もっと紹介して」との要望がありましたので、あらためて、もう一度紹介することにしました。

 実々奇談とは、軽井沢の近隣である佐久市にあった岩村田藩の祐筆を務めた阿部重之進重保が自ら体験したり、人から伝え間いた奇談63話を、嘉永七(1854)年に15巻3冊にまとめたものです。この本は、小諸市に住む安部輝男さんが、文書を解読して自費出版したものがでています。それを買って読んだのですが、嘉永七(1854)年の原本だけに、現代語訳なしでスラスラ読めるようになっています。

 どうして、この本を紹介する気になったかと言いますと、学生時代に学んだ歴史が自虐史観すぎからです。しかし、そういう嘘は、いずれバレるものです。というのも、江戸時代には大量の古文書が残されていて、その発掘が進むにつれて、江戸時代の庶民は世界一豊かであったことが証明されてしまうからです。大江戸実々奇談も、そういうたぐいの文書なのですが、実は、この本は、ものすごく面白い。面白すぎて、ぐいぐい引き込まれてしまいます。江戸時代に興味ある方は、ぜひ読んで欲しい本です。


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今回は、大江戸実々奇談 39話の紹介。

 と言うわけで、今回は、大江戸実々奇談 39話を紹介します。
 江戸時代の裁判の様子が生き生きと書かれてあります。
 被告と原告。
 その関係は、どういうものであったでしょうか?
 江戸時代にも冤罪があったのでしょうか?
 今回は、裁判についてのお話です。

■第三十九話 弁護士について

 江戸時代にも弁護士がいます。いや、司法書士がいました。公事師と言っていました。公事師とは、江戸時代に存在した訴訟の代行業者のことです。彼らは訴訟の当事者の依頼を受けて、必要な手続方法や訴訟技術を教示したり、必要な書類の作成代行を行ったりしました。そして、いつの時代にも悪徳弁護士(公事師)がいたことも確かでした。今回は、悪徳公事師と、正直公事師のお話です。

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−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
第三十九話 公事師に出入事を聞きし人の事



 奥州(東北地方)の農夫の一人が、裁判のために上京し、江戸馬喰町の宿屋に長逗留していました。長期滞在しているうちに、信頼できる公事師(弁護士)もできるようになり、心を開いて、おたがいに世間話をするようになっていました。ある日のことです。農夫が公事師(弁護士)に質問しました。

「実は、裁判の際に、不利な方でも、やりようによっては、勝訴する方法があると聞きました」
「・・・・」
「その方法を教えていただけまいか?」
「そりゃ無理です」
「どうして」
「これは口で説明しても理解できない性質のものですから」
「そこをなんとか」
「この事は、口で説明しにくいのです。現場で機転をきかせて、やることであって、詳しく説明しても、教えたとおりには、なりませんよ」
「そこを何とか教えてください。私たちの今後の心得ともなりますから」
「・・・・」
「なんとか教えてくださいよ」
「こればかりき、人に話すことはできないんですよ。私たちの秘密ですから」
「・・・・」

 公事師(弁護士)は、口を割りませんでした。
 そして数日後、あの公事師が、農夫のところにやってきました。

「すいません、急にお金が必要になりました。四、五日の内には間違いなく返済しますので、二両をお貸し下さいませんか」
「いいですよ」

 お金は、約束とおりに返済されました。
 もちろん利息も含めてです。

 そして、その後も公事師は、何回か、四両、五両と借りにきました。もちろん、約束を違えることなく、利子の外に酒・肴さえ持参して返済に現れました。農夫は、金銭感覚に潔癖な公事師(弁護士)の態度に感心し、すっかり公事師(弁護士)を信用するようになりました。そして、また公事師(弁護士)が、金を借りにやってきたのです。

「毎度のこととて、申すも憚りながら、急にお金が必要になりました。十五両ほど貸して貰えませんか? 来月はじめには、きっとお返ししますので」

 農夫は、今度は高額なので思案しましたが、今まで一度も約束を破ったことがなかったので、快く承諾しました。しかも借用書も取らず貸し与えました。それっきり、公事師は訪れることがなくなりました。約束の日限が過ぎても、何の挨拶も、引き延ばしの断りもありませんでした。農夫は、ちょっと不安になりましたが、あえて催促もせずに、四ヶ月から五ヶ月ほどすぎました。そして不安になって、公事師のところに催促に行ったのです。

「いつぞや、ご用立てしました十五両、御都合よろしければ返済してください。もう期日も過ぎて久しいです。私たちも長期滞在しているので出費もかさみ、手許にお金が少なくなってきました」
「これは、迷惑千万な話だ」
「へ?」
「冗談もたいがいにして欲しい」
「だって十五両、返してないじゃないですか」
「私は、そんな大金借りてない」
「なんだって! そんな馬鹿な! そんな無法は許さんぞ。今まで泥懇にしていたから催促もせずにきたが、去る何月何日十五両を貸したじゃないか。忘れたとは言わせないぞ」
「余りに酷い、言いがかりだ」
「なんだって?」
「ならば裁判にしたらどうだ」

 これには、農夫も大いに怒り、宿の亭主とも相談の上、願書をしたため奉行所へ訴え出ました。江戸時代、貸金催促の民事訴訟は、ずいぶん多かったようです。そういう場合は、幾口もの案件を記録して、どうしても返金しないで困るからお上の力で取り立てて貰いたい、と訴状をもって奉行所へ願い出ました。

 奉行所では、これを取り上げると三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)八人の判を押した証書を造り、裏書に『何時何日評定所に出頭せよ』と関係者双方に呼出命令を出しました。この八判は桐の箱に納めたまま原告に下げ渡され、原告は内容を見た後、これをくびに懸けて被告の許に行き渡しました。そして、両者は、評定所に出向き、奉行の審理を受けるのです。

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 農夫は、公事師の所に向かい、八判(出廷状)を渡しました。

「明日、奉行折へ御呼出しがあった。よって、そこもとへ八判(出廷状)を渡す」

 すると公事師は、いったんは、八判(出廷状)を懐にしまうのですが、

「裁判なんかできるものか。この八判(出廷状)は偽物だろう」

 と八判(出廷状)を懐より取出して拡げてながめ、大いに笑いました。

「こんなもので脅しをかけようとしても無駄だぞ。おれは騙されんから。逆に名誉毀損で訴えてやる」

 と八判(出廷状)を引裂き、火鉢に燃やしました。
 驚いたのは農夫です。

(こんな無法者は、見たことがない。この事件をもってしても入牢は必定。其の上、如何なる罪になるか。増っくき奴かな)

 そして翌日。
 双方が奉行所へ出廷。
 奉行は、先ず農夫に訪ねました。

「そのほう、金を貸し与えしこと相違ないか?」
「はい、十五両を貸し与えましたこと相違ございません」
「ほう」
「おそれながら、それだけでは、ございません。昨日、御奉行様から頂いた八判(出廷状)に就きましても、これは偽物だと言いがかりをつけ、大笑いして、引裂き燃やしました」
「なんだと! それは聞き捨てならぬ、その方は、ひとまず控えよ」

 農夫は、ひとまず引き下がりました。
 代って公事師が呼び出されました。
 奉行は、カンカンになって公事師に問いただしました。

「その方、かの者より十五両を借用したというのは本当か。もっとも懇意なれば、借用書無しで借りたそうだが、よもや忘ることあるまい」
「それ何ですが全く記憶に御座いません。もっとも時々は、少々の金を借り受けたこともありましたが、約束の期限を守らなかったことは、一度だってありません。先方に、お尋ね下さい」
「それはいずれ吟味しよう。されどかの者の申し立てに、その方、八判(出廷状)を引裂き火鉢にくべたとか、それは本当か?」
「そんなおそれおおいこと覚えがありません。八判(出廷状)なら、ここに持参してきましたので御覧下ささい」
「これは、昨日差し遣わせし八判(出廷状)だ」
「あの農夫は、こんな嘘を言う人なのです」
「・・・・」
「お金の借用の件も、御賢察下さい」
「・・・・」

 そして農夫が呼び出されました。

「今、この者の申すこと一々吟味いたした。かかるに、その方、公事師が八判(出廷状)を焼き捨てたと申し立てたが、公事師は本物の八判(出廷状)を持参していた」
「え?」
「奉行の前にて斯かる嘘言を申し立てしこと、不埒の至りなり。かくては、証拠の書き付けもなきことゆえ、十五両の借金のことも嘘にちがいあるまい。不届き千万である」
「・・・・」

 農夫は、こうして奉行にさんざん叱られました。
 もちろん公事師(弁護士)には、何のお叱りもなし。
 こうなってはと、不本意ながらかの金子は損金とし、公訴取り消しにしました。
 すると、あの公事師がやってきたのです。
 そして深く頭を下げました。

「先日の裁判の件、ひらに御容赦あれ」
「はあ?」
「あえて、あのような裁判にしたのは、お手前が、不利な裁判を勝訴する方法を知りたいと申されたので、その方法を試してみせたのです」
「えええええええ!」
「これは、借用した十五両に利息です。お受け取りくだされ」
「こりゃ、あきれ果てたわ」
「すまん、すまん」
「左様でしたか。私は、いっこうに存じませんでしたから、全く以って不法の者もあるものかなと立腹いたしておりました」

 農夫は大笑いしました。

「とにかく、話だけでは、分り難いのです。これは当事者にならないと、なかなか理解しにくいものなんですよ」

(大江戸実々奇談 39話 文章は現代語に、私流に意訳してあります)


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
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つづく。

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posted by マネージャー at 23:22| Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月23日

日本武尊は、本当に嬬恋村を通過したのか? マネージャーのミステリーツアー8

日本武尊は、本当に嬬恋村を通過したのか? マネージャーのミステリーツアー8

「日本武尊(ヤマトタケル)は、本当に嬬恋村を通過したのか?」

という質問を受けました。
私は、そくざに、こう答えました。

「そういう伝説が嬬恋村の田代にあるのです」
「でも、日本書紀には、碓日坂を通過したとになっています。だから碓氷峠が正解であって、鳥居峠ではないのではないですか?」
「そういう説もあります」
「嬬恋村には、碓氷峠という地名はないですよね」
「今はね。しかし、鳥居峠は、今でこそ鳥居峠と呼ばれていますが、嬬恋村では昔は、ここを碓氷峠とよんでいたんです。鳥居峠という名称は、長野県民がつけたのです」
「そうだったんですか?」
「黒斑山だって、長野では黒斑山でも、群馬では三つ尾根ですよ。呼び名が違っていて、たいていは長野の呼び方を国が採用してるケースが多いんです。嬬恋村にとっての碓氷峠は、鳥居峠のことでした」
「知らなかった」

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「それに吾妻郡村誌によると、嬬恋村の大笹は、古時、碓氷郡に属したと記録されています。今は高崎市と合併してしまった旧倉渕村も碓氷郡に属したと記録されています。碓氷郡というのは、太古の昔は広かったのです。旧倉渕村と北軽井沢と嬬恋村の一部も碓氷郡だったくらいですから」
「へえ」
「さらに、碓氷峠ですが、これは比較的最近開かれた道であり、古代は入山峠こそが一般的な古道でした」
「入山峠?」
「現在の碓氷バイパスのあたりです」
「あのへんですか」
「あのへんは昔から入山峠といってて、碓日坂と呼ぶ人はいなかったのです。」
「そうだったんですか!」

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「ここで、もう一度、日本書紀をおさらいしてみましょう。日本武尊は、碓日の坂で、弟橘姫を偲び、東南を望りて三たび嘆きて曰く「吾嬬はや」とのたまふとあります。実際に入山峠に行って『東南を望りて三たび嘆きて曰く「吾嬬はや」とのたまふ』を実行してみてください。入山峠から東南を見ても何も見えません。山の壁があるだけです」
「・・・・」
「逆に鳥居峠から『東南を望りて三たび嘆きて曰く吾嬬はやとのたまふ』を実行してみてください。眼下に吾妻の集落があり、峠を越えた瞬間、民家はゼロとなり、関東とは違う風景となります。鳥居峠の方が自然なのです」
「うーん」
「まっ、真相は闇の中ということです。どれが真実か? それを知る手がかりはありませんが、少なくとも嬬恋村の鳥居峠説を否定するだけの有力な根拠もなさそうですね」


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つづく。

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posted by マネージャー at 23:48| Comment(0) | 四阿山・バラギ高原 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月22日

円通殿 マネージャーのミステリーツアー7

円通殿 マネージャーのミステリーツアー7

 嬬恋村干俣に干俣小学校がありますが、その隣に円通殿があります。永正年間1504年頃曹洞宗常林寺の住職をしていた旭邦和尚が隠居庵として建て、師(近江の禅寺の円通上人)を偲び円通殿と名付けました。和尚は村人に手習いを教え余生を送ったといいます。で、明治維新後は、この円通殿が小学校となったそうです。

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 ところで私が嬬恋村に来て、驚いたことは寺院の少なさです。私が生まれ育った佐渡ヶ島には、宗教法人名簿に登録されているだけでも、神社は267、寺院が281もあります。しかし、嬬恋村には、寺は2つしかないんです。しかも曹洞宗だけ。他の宗派は無し。大きさは、たいして違いませんよ。

  佐渡島の面積は、約857平方km
  嬬恋村の面積は、約337平方km

そんなに差がないのに、寺院の数、石仏の数は、何百何千倍も違っている。もう一つ言うと、現在の佐渡の寺院は、廃仏毀釈のために江戸時代にあった数の(正確な数字は忘れましたが)半数ぐらいしかのこってないはずです。 つまり、現在のものより膨大な寺院・石仏があり、それを守ってきた島民の信仰がありました。ところが嬬恋村には、常林寺と無量院しかありません。この円通殿も鎌原観音堂も住職はいません。宗教法人の形をなしていません。

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 ところで寺院に関係する建物には堂と殿があります。古くから在った宗派では堂を使いました。観音堂とか阿弥陀堂などです。これに対し、禅宗(臨済・曹洞宗)などでは、本尊を祀る建物を仏殿と言う様に殿を多用しました。円通殿は、建物こそ小さいですが、禅宗様(唐様)の影響を色濃く残したもので、禅宗風の文化がかいまみられます。





つづく。

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posted by マネージャー at 21:49| Comment(0) | 四阿山・バラギ高原 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

田代の愛妻の丘 マネージャーのミステリーツアー6

田代の愛妻の丘 マネージャーのミステリーツアー6

まず日本愛妻家協会のサイトをみてみましょう。

http://www.aisaika.org/mission/14kyabechu/aisainooka.html
http://blog.aisaika.org/?eid=761413

 農家の畑を借りて始まった小さな催しがキャベチューでした。男たちが真剣に愛を叫ぶ姿がだんだん評判になり、群馬県が叫びの丘に整備してくれました。そこを村の人たちが「愛妻の丘」と名付けました。いまではそこはドライブの名所です。村民が始めた催しが多くの人の心を動かして新名所になりました。小さな波が大きな波を作り出して現実になる。「愛妻の丘」はまるで奇跡のような出来事が生まれた場所です。

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愛妻の丘(英文名称:Aisai no Oka)
所在地 群馬県吾妻郡嬬恋村大字田代字大横平2000の内
敷地面積 約2,766m2
開設年月 平成20年4月
位置 東経138度27分32.5秒 北緯36度30分19.2秒(国土地理院)
標高 1,257m
丘 階段数 37段
展望台面積 約136m2
駐車場面積 約500m2
説明板 大型1基:村名の由来、小型1基:テミル原則(英語版あり)
叫び台 名称 妻に愛を叫ぶ専用叫び台
開設年月 平成21年4月


というわけで、愛妻の丘にいってみました。

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すごく景色がいいてところです。

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思わず、みんなで記念撮影。

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 愛妻の丘は、嬬恋村田代の伝説にもとずきます。日本愛妻家協会のホームーページにもあるように、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、世界で初めて愛妻家宣言をした人物として有名です。そこで日本武尊について紹介したいと思います。

 日本武尊は第12代景行天皇の子として誕生しました。幼名を小碓命(おうすのみこと)といい、兄の大碓命(おおうすのみこと)とは双子の兄弟とも言われています。ところが、この日本武尊は気性が激しく、兄を殺害してしまったため父からは疎んじられていました。

 そんな日本武尊は羽曳野で一人の娘と出会いました。
 名は弟橘比売(おとたちばなひめ)。
 やがて二人は結ばれました。

 しかし、日本武尊は東国の平定へと向かわねばなりませんでした。父は、東国の12か国(伊勢、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、総、常陸、陸奥)が従わないので平定するよう日本武尊に命じたのでした。

 日本武尊は東征に出発。
 相模の国に入る前に奥様の弟橘比売が合流。

 船に乗って三浦半島沖から房総半島に向かいましたが、船出した直後に嵐がきました。雷鳴がとどろき、激しい雨と風に船なすすべもありませんでした。弟橘比売は「海神の祟り」だと言い、海の怒りを静めようと海に身投げしました。

 やがて海は静まり、日本武尊たちは上総(千葉県木更津)に渡ることができました。海岸で日本武尊はクシを見つけました。それが弟橘比売のものとわかると悲しみがこみ上げて、去りがたい思いでいっぱいになりました。木更津(きさらず)は、この時の日本武尊の「君さらず」からきています。

 この後、東国を平定し、日本武尊たちは帰途につきました。そして、関東地方を去るにあたって嬬恋村で
「あずまはや(わが妻や)・・・・・」
と3回も嘆き叫んだと言われております。

 その後、三重県伊吹山で、最期の戦いを行い、ボロボロになって歩くことさえできなくなります。それでも血まみれになりながら大和を目指して歩き続ける日本武尊でしたが、さすがに衰え、能煩野(のぼの)で、ついに力つきました。そして

「やまとは 国のまほろば たたなづく青垣  山ごもれる やまとし うるわし」

と歌いになられ、亡くなられました。


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つづく。

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posted by マネージャー at 01:57| Comment(0) | 四阿山・バラギ高原 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

田代の両墓 マネージャーのミステリーツアー5

田代の両墓 マネージャーのミステリーツアー5

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実は、この部分だけは書きたくなかった。
しかし、今回はあえて書きます。
嬬恋村には、両墓制の風習があったのです。

両墓制とは、遺体を埋葬する墓地と、御参りするための墓地を一つずつ作ることです。つまり一個人に対し二つの墓を作るのです。これは、私の故郷である佐渡島にも、その風習があり、私の祖母の墓は、両墓制の風習にのっとって、2つの墓がつくられました。

現在、厳密な意味での両墓制は滅びています。
というのも両墓制は土葬だからです。

と、ここまで書いても分からない人には分からないでしょうから、もっと具体的にいうと、遺体を風に曝して風化をまつ風葬という習慣があります。これも両墓制の風習の一つのスタイルなのです。遺体と魂を分けて、魂だけを御参りし、遺体は放置したままにする。そういうスタイルに近い墓地が、嬬恋村にもあったのですね。それが、ここ。田代の両墓です。

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昔、日本ユースホステル協会のマネージャー研修会で、大勢のユースホステルマネージャーを、ここに御案内したことがありましたが、松山ユースホステルのお母さんが、ここで金縛りにあいました。他にも何人かの御客様が、金縛りにあったりしています。なので、ここには殆ど、御客様を案内していません。場所も、あえて秘密にしておきます。問い合わせても、お答えできませんので、あしからず。


ちなみに、嬬恋村の田代というところは、江戸時代は馬の産地でもありました。五十戸という小さな小さな村だったのですが、村名が「田代」なのに田が皆無だった村でした。しかし、牛馬は多く、ここの牛馬が善光寺平から菜種油を江戸まで運ぶために大活躍したと言われています。

また、田代には、無数の水車があったようで、豊富な水資源を活用して、水力を利用した加工業が盛んに行われたとも言われています。


つづく。

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posted by マネージャー at 01:45| Comment(2) | 四阿山・バラギ高原 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

大笹の関所 マネージャーのミステリーツアー4

大笹の関所 マネージャーのミステリーツアー4

 大笹街道は、善光寺平から小県郡の高原を経て高崎に至る道で、越後や善光寺平から上州を経て江戸へ出る重要な脇街道となっていました。そしてこの街道は、仁礼宿(須坂市)から標高1600mの菅平を通過して鳥居峠から上州大笹宿を通過し、沓掛(中軽井沢)にいたります。

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 非常に険しい道筋でしたが、北国街道の脇街道として繁栄しました。理由は、善光寺平から江戸へ出る北国街道より、四十キロほど距離が短いために宿継ぎに要する経費が少ないからです。そのために商人たちが、この街道をよくつかったのです。

 で、運ばれた物産は、菜種油。

 巨大都市、大江戸の照明の燃料(菜種油)を善光寺平から輸送していました。よーするに江戸時代のパイプラインです。別の言葉で言えば、江戸百万都市のライフラインでもありました。大笹は、その中間地点にあるので、ものすごい繁盛した商業都市でもありました。また、松代藩・飯山藩・須坂藩の米なども江戸に輸送されました。三俵積みの馬が一万頭も通過したという記録が残っていますから驚きます。

 もちろん本陣もありました。
 造り酒屋もありました。
 大笹守を醸造して各地へ出荷していました。
 温泉や鉱工業も盛んで、養蚕も行われていたようです。

 ただし、仁礼(須坂市)〜鳥居峠〜大笹の間は、標高1500メートルを越える菅平高原を越える険しい道が続いたために、冬季は交通不可能になる事が多く、遭難による死亡事故も多かったために、その供養と旅の安全を祈って、仁礼(須坂市)の外れから峰の原の供養塔まで、約17kmの間に60体ほどの石仏があります。

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 さて、この街道の大笹には、関所があります。大笹の関所です。今から330余年前の寛文2年(1662)、沼田藩主真田伊賀守が、幕府の許可を得て関所を開設したのがはじまりです。


 関所の広さは約450坪で、中に入ると正面に番屋があり、上番所・改所(取調所)・下番所などがありました。関所番は、当初沼田藩の郷士4人、足軽格2人、下番役の百姓2人がいましたが、天和元年(1681)真田氏改易後は、鎌原氏など旧沼田藩士などの4人と、下番の大笹村の百姓2人がおりこれが交代で勤務し、明治2年廃止されるまでの約200年間、通行人や草津温泉の入湯客など北国街道の脇往還の通行人を取り締まりました。

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 一部遺構である門扉はこの川を越えたところに復元されています。この門は廃関後取り壊されましたが当時大笹の土屋源三郎氏の先祖が払い下げ、秘蔵していたものを特に寄贈してもらい当時の絵図によって1946年復元したものです。旧大笹村の宿場のかつての賑わいを伝えています。

 群馬県は全国的にも関所の数が最も多かった所とされています。そうした中にあって、大笹関所は、江戸と信州を結ぶ人馬取締りの目的で設置されたものですが、『諸国御関所書付』の「上野国所在関所一覧」によると、碓氷関所など6ヶ所の重要な関所の1つとされています。

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 ちなみに、この大笹の関所には、長野原から六合村にいたるまでの二十ヶ村の「おてんま」が割り当てられていました。「おてんま」というのは、嬬恋村の方言で「ボランティア」という意味ですが、伝馬が語源だそうです。よーするに関所の改修やメンテナンスを二十ヶ村で持ち回りで作業をしたのです。その割り当て作業をしたのが大笹村です。


つづく。

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posted by マネージャー at 01:17| Comment(0) | 嬬恋村 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月21日

阿弥陀堂 マネージャーのミステリーツアー3

阿弥陀堂 マネージャーのミステリーツアー3

『阿弥陀堂だより』という、南木佳士の小説を原作とした日本映画がありました。あれは、嬬恋村が舞台なんです。つまり『阿弥陀堂だより』は、群馬県嬬恋村三原の話なのです。万座鹿沢口駅から徒歩7分のところが舞台です。

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まず、原作者の南木佳士さん、この人は嬬恋村生まれなんですよ!

で、これが本物の阿弥陀堂!
つまり、作者の遊び場であったわけでです。
もちろん作者の祖母も、ここで眠っています。


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 映画では都会に疲れて鬱になって田舎に癒される話なんですが、実は全く逆なんです。医学部を卒業し、信州の田舎にある佐久病院に努めて、あまりにも多く老人が死んでいくために、鬱になりかかる。それで、原作者は軽井沢病院に出向し、そこで癒されるんです。

 そもそも話しが逆なのです!

 実は、軽井沢と嬬恋村は、繋がっていて、軽井沢には、原作者の友人知人がいっぱいいた。旧軽井沢は、昔は貧しい村で、炭焼きでしか生活が出来ないところで、その旧軽井沢の炭焼きばあさんが、作者の生家(嬬恋村三原)の近所に住んでいたりする。だから、原作者の南木さんは、軽井沢に偏見をもたなかった。だから佐久病院からの出向に応じたんですね。

 しかし、佐久病院の地域医療に対する理想に燃える医師団たちは、
軽井沢に対して偏見に満ちており
「お金持ちの診療なんかできるかよ!」
と軽井沢病院の面倒なんかみないという剣幕だった。


 しかし、嬬恋村出身であり、昔の軽井沢をよく知っていた原作者の南木さんは、進んで軽井沢病院への出向を希望します。そこで、嬬恋村の昔の知り合いに、よく出会うんです。

 ただ、佐久病院から出向してきた若い同僚の医師は、女子高校生の膣から抜けなくなったコンドームの取り出しや、都会から来た自殺未遂の若い女性の治療なんかに嫌気がさして、
「軽井沢なんか嫌だ。佐久病院に帰って地域医療を真面目にやりたい」
と怒ったそうです。


 そういう同僚を尻目に、作者は、軽井沢病院の裏の小川で、イワナ釣りやカジカ釣りを楽しみ、自殺未遂の若い女性に、君が死のうとした旧軽井沢の場所は、貧しい炭焼きの老婆が一生懸命生活した所なんだよ。その老婆と私は子供の頃から知ってるんだと言い聞かせたりするのです。

 『阿弥陀堂だより』の原点は、こんな体験の風景の中にあったんですね。そういう背景を知ると映画は、もっと面白くなります。佐久病院・軽井沢・嬬恋村。これを理解して、もういちど『阿弥陀堂だより』をみると面白さが倍増すると思います。


 原作者は、決して都会に疲れたのではない。
 田舎の病院に疲れたのです。
 で、軽井沢病院でリハビリをした。
 このへんの事情は、現地を知らないとよくわからないかもしれない。
 このへんの解説があれば

安易に都会vs田舎の視点では
すまされないモノが見えてくる。




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つづく。

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posted by マネージャー at 00:47| Comment(0) | 真田丸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

南木佳士さんの御実家 マネージャーのミステリーツアー2

南木佳士さんの御実家 マネージャーのミステリーツアー2

『阿弥陀堂だより』という、南木佳士の小説を原作とした日本映画がありました。パニック障害を病んだ妻を連れて帰郷した夫と阿弥陀堂を守る老女との交流を描いた話です。北林谷栄が第26回日本アカデミー賞助演女優賞を、小西真奈美が新人俳優賞を受賞、第56回ヴェネチア映画祭でも「緑の獅子賞」を受賞するなど、世界中で高い評価を受けた映画です。

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良い映画でしたが、あれ、嬬恋村が舞台なんです。
長野県ではない。
まず、原作者の南木佳士さん、
この人は嬬恋村生まれなんですよ!
南木佳士は、ペンネームですが、

『南木』

というのは、北軽井沢ブルーベリーYGHのあるあたりのことです。

つまり『阿弥陀堂だより』という話は、群馬県嬬恋村三原の話なのです。
万座鹿沢口駅から徒歩7分のところが舞台です。


これが原作者の南木さんの生家です。

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 『阿弥陀堂だより』は、映画より原作の方が面白いです。嬬恋村・軽井沢・佐久がジャンジャンでてくる。たまに秋田の話も出ますが、それは、秋田大学の学生だったからですね。つまり南木さんの書くものは、みんな私小説なんですよ。そしてほとんど実話。だから迫力あります。そして、この話は、嬬恋村を知らないと、知ってるとでは大きく違ってきます。

 嬬恋村では、自殺が多い。
 珍しくない。
 鬱も多いです。

 近親結婚が多かったからと言われています。そういう村の状態を知っていると映画が倍面白くなります。本家の阿弥陀堂も知っていると映画が面白くなります。作者は、佐久の病院でパニック障害になり鬱になったんですよ。佐久病院は長野県の田舎ですが、その田舎で鬱になった。長野で鬱になった。それを癒したのは、軽井沢病院に来院してくる故郷嬬恋村の素朴な村人だったのです。


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南木佳士さんについて

南木佳士は昭和二十六年(一九五一年)十月に吾妻郡嬬恋村に生まれました。本名は霜田哲夫。父重義は入り婿で鉱山会社に勤め、母つぎは群馬女子師範を出て、地元で小学校の教師をしていました。南木の四歳のとき母が結核で死亡したため、その後は祖母に育てられました。

 少年時代は、嬬恋村の三原の山あいの捨城庵のそばにある小学校に通っていました。父は、バスで二時間もかかる小串鉱山の社宅にいて週末にしか帰って来ませんでしたから、ふだんは祖母と姉の三人で生活していました。父からのわずかな仕送りで暮らしていたので貧しかったようです。

 しかし父が東京へ転勤しましたので、中学から東京に行き、都立高校から秋田大学医学部をへて長野県佐久市にある佐久総合病院の医師になり、現在もその地に住み内科医長を勤めながら、小説を書いています。

 そこから一時期、軽井沢の町立病院に派遣されたことがありました。「軽井沢は生まれ育った群馬の山村のとなりの町である」。そこの風物や縁戚にあたる人間たちに親しんでいるうちに生まれたのが、第百回芥川賞の『ダイアモンドダスト』平成元年(一九八九年)でした。


つづく。

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posted by マネージャー at 00:35| Comment(0) | 真田丸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月20日

馬庭念流剣術発祥の地 マネージャーのミステリーツアー1

馬庭念流剣術発祥の地(長野原町応桑小宿)

http://homepage2.nifty.com/blue_berry/00-top-57.htm

 念阿弥慈恩(ねんあみ じおん)は、日本の南北朝時代から室町時代にかけての剣客であり、禅僧です。奥州相馬(福島県南相馬市)の生まれで、7歳のときに相州藤沢の遊行上人に弟子入りし、念阿弥と名付けられ、父の敵討ちをめざして剣の修行を積み、10歳で上京、鞍馬山での修行中、異怪の人に出会って妙術を授かったといわれています。さらに16歳のとき、鎌倉で寿福寺の神僧、栄祐から秘伝を授かり、1368年、筑紫・安楽寺での修行において剣の奥義を感得しました。

 念阿弥は還俗して相馬四郎 義元と名乗り、奥州に帰郷して首尾良く父の仇敵を討つと再び禅門に入り、名を慈恩と改め、諸国を巡って剣法を教え、1408年、信州波合村に長福寺を建立、念大和尚と称しました。

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 さて、木曽義仲(鎌倉倒幕武将)四天王に樋口次郎兼光がいます。兼光の母は木曽義仲の乳母、巴御前は兼光の妹、という姻戚で、信州伊那郡樋口村に住んだことから樋口姓を名乗っりました。木曽義仲討死後、樋口兼光は捕らえられて京で斬首されますが、一族は樋口村で生き延びました。

 兼光から11代の樋口太郎兼重は、伊那郡波合村に住み着いた念大和尚の高弟となり、念流の兵法を修めます。後に念流は家伝となり、兼光念流と称しています。兼重の子孫は念流を代々受け継いでいきますが、十三代高重が上野国吾妻郡小宿村(現長野原町応桑小宿)に住居を移します。これが、この地です。

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 つまり、ここ(長野原)は、真田とは別傾倒の武術が定着したわけで、長野原町は、嬬恋村の真田流古武道(あるいは忍術)とは、違うスタイルが定着しました。いわゆる馬庭念流の元祖の誕生です。ただし、真田軍団の進出によって、樋口氏は上州多胡郡馬庭村(現吉井町馬庭)に再転居。馬庭の念流なので馬庭年流といわれるようになりました。

 馬庭念流は専守防衛の剣術で、腰を思いきり引いて、重心を後ろの足に置くと言う他の流儀には見られない防御には極めて有利な構えを取り、相手の攻撃を外す事に専念し、攻める時には接近してひたすら面のみを狙うという特殊なものです。示現流の逆ですね。そして念流は無意味に殺生する他流試合を嫌います。だから、かなり腕前を持ちながら、代々の当主は馬庭を出ることがなかったようです。

 念流の門弟には武家の子弟もいたが、多くは農民、町民であり、念流は彼らの自衛の剣として民間に普及していったものでした。その剣技はあくまで庶民の自衛の剣であり、立身出世や殺傷の道具とすることを戒めるものでした。

 よーするに武士が戦場で戦うための剣ではないということです。自分から敵を求めるということもしません。あくまでも庶民が不意討ちされたときに身を守るための剣です。ただし、背水の陣で守るということではありません。相手を完璧に倒せるだけの力があってはじめて守りは可能になります。また、相手を平伏させ、相手を傷つけず自分も助かるということも可能になるわけです。

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 馬庭念流の特色は、武芸を仕官の為には使わず、爪を隠した鷹のような存在になったところです。しかし、著名な門人が多く、赤穂浪士中随一の剣客と言われた堀部安兵衛(中山安兵衛)などがいます。彼は高田の馬場で叔父の敵討ちで十八人切りをして、これを知った赤穂浅野家家臣堀部弥兵衛が安兵衛との養子縁組を望みました。はじめ安兵衛は、中山家を潰すわけにはいかないと断っていましたが、浅野内匠頭に「堀部の家名は無くなるが、それでも中山安兵衛を婿養子に迎えたい」旨を言上しました。これに感動した浅野内匠頭は、中山姓のままで養子縁組してもよいという異例の許可を出した。

 これを聞いてさすがの安兵衛もついに折れ、中山姓のままという条件で堀部家の婿養子に入ることを決める。7月7日(8月27日)、弥兵衛の娘ほりと結婚して、堀部弥兵衛の婿養子、また浅野家家臣に列した。元禄10年(1697年)に弥兵衛が隠居し、安兵衛が家督相続。このとき、安兵衛は先の約束に基づいて中山姓のままでもいいはずであったが、堀部姓に変えています。

 しかし安兵衛は浅野家中では新参(外様の家臣)に分類されました。堀部家は譜代の臣下であるはずなので「堀部家の養子」としてはおかしい分類。やはり異例の養子入りであるから安兵衛は弥兵衛の堀部家とは事実上別家扱いだったことがわかります。

 ただし赤穂藩での安兵衛は、200石の禄を受け、御使番、馬廻役(馬廻りは役職というより武士の階級。騎乗できる武士のこと。騎乗できない武士中小姓の上位。)となりました。

 そして元禄15年12月14日、大石内蔵助・堀部安兵衛ら赤穂浪士47士は本所松阪の吉良上野介の屋敷へ討ち入り。安兵衛は裏門から突入し、大太刀を持って奮戦。1時間あまりの戦いの末に赤穂浪士は吉良上野介を討ち取り、その本懐を遂げました。そして松平隠岐守屋敷にて同家家臣荒川十大夫の介錯により切腹した。

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あと滝沢馬琴や、新撰組の沼尻小文吾も馬庭念流の達人ですよ。


つづく。

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posted by マネージャー at 23:21| Comment(0) | 長野原町 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月19日

バナナの叩き売り

バナナの叩き売りと言えば寅さんですね。
口上が似ています。

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バナナの叩き売り

じゃ、このバナナのね、一房いこう。
一房の上にもう一房、これおまけだ。
いい数だね。

一は万物の始まり、
泥棒の始りが石川五右衛門、
博打の始りが熊坂長範。
相撲の始まりが野見宿彌のみのすくね。

これじゃ気にいらねえ?
ああ、もっと負けろ?
よっしゃ、そうなったらこっちも意地だよ。
じゃあ、負けちゃおうじょねえか。

さあ、もうひとつ負けよう。
おまけが二つだ。

憎まれっ子世にはびこる。
仁木弾正にっきだんじょう悪いやつ、
日光けっこう東照宮。
西は西京、東は東京。

なんだ笑ってやんな。
あんたのその目がやだね。
俺の方わじっとじーっと見て、
なんかものを訴えてんね。よしきた。

もっと負けろときた。
よぉーし、貧乏人の面当てだ。
よしもうひとつ負けちゃおうじゃないか。
さあ、おまけが3つだ。

三十三は女の大厄、
産で死んだか三島のおせん、
三三六法引くべからず、
それを引くのが男の度胸で女は愛嬌、
坊主はお経でつけものはらっきょう。

まだ見てな、おりやあ、よしきた。
こうなったら意地になっちやおうじやないか、さあおまけが4つだ。

いい数だと言いたいけれど「し」というのはあんまりいい数じゃない。
なぜかというと、「死につく」っていうからね。

ものはついでだ、もう一つ負けちゃおうじゃないか。
さあおまけが五つだ。
コリャいい数だねえ。

後藤又兵衛、槍で嫁いだ五万石。
五万石でも岡崎様は城の下まで船が着く。
城は城でも名古屋の城は、金のしゃちほこ雨ざらし、

よおし気にいったのは一人だけ。
大きな声で。
こんなに買う馬鹿いないよ。
これでどうだい、これ安いと思う?






寅さんの口上

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カドは一流デパート、赤木屋黒木屋白木屋さんで、
紅白粉(おしろい)つけたおねえちゃんから、
くださいちょうだいでいただきますと、
五百が六百くだらない品物ですが、
今日はそれだけくださいとはいいません。

なぜかと言いますと、神田は六法堂という書店が
わずか三十万円の税金で、
泣きの涙で投げ出した品物です。
四百、三百、どうだ二百両だぁ。
どうだぁ。
これでも買わない?

よーし、ヤケのヤンパチ、日焼けのナスビだ。
腹切ったつもり。
百円でどうだ、百円。

ものの始まりが一ならば、
国の始まりが大和の国。
ね。島の始まりが淡路島。
泥棒の始まりが石川の五右衛門。
助平の始まりがこちらのおばちゃん。


畜生!
よし、もうこうなったら浅野匠の上じゃないけど、
腹切ったつもりだ。
2つでどうだ。
どう?

兄さん寄ってらっしゃいは、吉原のカブ。
仁吉が通る東海道。
憎まれ小僧、世に憚る。な。
仁木の弾正お芝居の上での憎まれ役、と言うの。



香具師の口上を紹介。とても愉快ですよ。



結構毛だらけ猫灰だらけ。
見上げたもんだよ屋根屋のフンドシ。
見下げて掘らせる井戸屋の後家さん。
上がっちゃいけないお米の相場、
下がっちゃ怖いよ柳のお化け。
馬には乗ってみろ人には添ってみろってね。

モノのたとえにもいうだろう。
モノの始まりが一なら
国の始まりは大和の国。
泥棒の先祖が石川五衛門なら
人殺しの第一号が熊坂長範。
巨根(でかいの)の手本が道鏡なら
覗きの元祖は出っ歯で知られた池田の亀さん出歯亀さん。
兎を呼んでも花札にならないが、
兄さん寄ってらっしゃいよ、
くに八つぁんお座敷だよと来りゃァ花街のカブ。

憎まれっ子世に憚る、
日光結構東照宮、
産で死んだが三島のお千、
お千ばかりが女じゃないよ、
四谷赤坂麹町、
チャラチャラ流れるお茶の水、
粋な姐ちゃん立ち小便、
驚き桃の木山椒の木、
ブリキに狸に蓄音機、
弱ったことには成田山、
ほんに不動の金縛り、
捨てる神ありゃ拾わぬ神、
月にスッポン提灯じゃ釣がねえ、
買った買ったさァ買った、
カッタコト音がするのは若い夫婦のタンスの環だよ。


つづく。

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posted by マネージャー at 14:09| Comment(4) | 日記 2012以前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月18日

臥竜公園「さくらまつり」

臥竜公園「さくらまつり」に行ってきました。
しかし目的は、桜ではなく
遠藤酒造の朝しぼりです。

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伝説の酒、朝しぼりは、日本でも5本の指に入る御馳走!
まず酒造を見学。

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『朝しぼり 出品貯蔵酒』
世界の醸造酒コンクールで3つ星
世界が絶賛した味です。

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きき酒です。
美味いったらありりゃしない。

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もう最高ですね。
うますぎる。

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  臥竜公園の桜並木は『さくら名所100選』に選ばれています。池の周りには"ソメイヨシノ"を中心に150本、公園全体で約800本の桜が楽しめます。(見頃は4月中旬から下旬頃) そのほか、アヤメ・フジ・ツツジ・アジサイが咲き競い、龍が臥しているように見える臥竜山の美しい松は竜ヶ池に映え、『日本の名松100選』にも選定されています。 公園の設計者は、明治神宮や日比谷公園、小諸懐古園などを設計した日本初の林学博士 本多静六(1866〜1952)東京帝國大学農科大学(現東京大学農学部)教授で、昭和6年の築造。当時は昭和初頭の世界恐慌でこの築造は、皮肉にも製糸の町須坂の製糸工場で働いていた多くの人々の失業者対策として行われるなど歴史の哀歌を刻みました。

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バナナの叩き売り!

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チンドン屋も!

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酒も美味いし、桜も綺麗。

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つづく。

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posted by マネージャー at 18:41| Comment(5) | 須坂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月17日

いやぁー大雪に参った!

いやぁー大雪に参った!

朝、起きたら大雪でした。
4月17日の大雪。
笑っちゃいましたよ。

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こんなこと、オープン以来はじめてです。
そりゃ、以前にも雪は降ったことありますよ。
でも、積もって3センチ。
2時間もたてば消えるくらいの雪です。
それが50センチの雪。

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もう笑うしかないです!

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御客様も、北軽井沢ブルーベリーYGHも、みんなノーマルタイヤに変えてしまった後だったから、みんなで雪かきしました。さいわい道路は除雪されていましたから、ツアーには出かけられましたけれどね。

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posted by マネージャー at 23:28| Comment(3) | 日記 2012以前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ハルニレテラスの希須林

ハルニレテラスの希須林

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「とんぼの湯」などで有名な星野エリアに「ハルニレ テラス」という
ショッピングエリアが7月に新しくオープンしています。ハルニレ テラスの中国家庭料理のお店「希須林」の坦々麺は美味しいですね。



店内は、こんな雰囲気。

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味は上品なのに濃厚です。
コクがあります。
値段も、それほど高くありません。
1000円くらいのメニューです。

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長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉2145-5
電話 0267-31-0411


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posted by マネージャー at 00:29| Comment(0) | 中軽−ハルニレテラス・野鳥の森 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月16日

業務連絡

業務連絡

今日は、5センチくらいの雪が積もりました。
道路は除雪されていますので、
大丈夫だとは思いますが、
明日、こられるノーマルタイヤの御客様は、
気をつけていらっしてください。


ちなみに北軽井沢の明日の天気は
下記のサイトでご確認ください。

http://weather.yahoo.co.jp/weather/jp/10/4220/10425.html

明日(土曜日)は、天気が良さそうなので、雪はなさそうです。
よかった。


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ラベル:業務連絡
posted by マネージャー at 23:28| Comment(0) | 業界裏話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月15日

朗報! 鬼押し温泉が安く入れるようになりました

朗報!
鬼押し温泉(1130)が
安く入れるようになりました


 鬼押温泉はホテル1130の敷地内から湧き出る天然温泉。
 露天風呂では浅間の火山岩に囲まれ豪奢な雰囲気の中、
 源泉を楽しむことができます。
 非常に豪華で満足度の高い温泉です。

 北軽井沢ブルーベリーYGHユースホステルから
 徒歩10分のところにあります。

北軽井沢ブルーベリーYGHの御客様は、
1100円のところ
前売り券使用で700円で入れます。


ただし、受付は20時までです。
お盆などの混雑時期は、断られることもあります。


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泉質:ナトリウム-硫酸塩・炭酸水素塩
湯温:45.3度
効能:神経痛、筋肉痛、慢性消化器病、やけど、疲労回復他
設備:男女大浴場・露天風呂・サウナ・ジャグジー
営業時間:14:00〜20:00


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posted by マネージャー at 19:23| Comment(3) | 北軽井沢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月14日

ベーカリー&レストラン沢村

ハルニレテラスのカフェ沢村の紹介です。


ここの名物は、パンです。
全て天然酵母。

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美味しいけれど、ちょっと高め。
でも、安く食べる方法があります。
ランチです。
何種類も食べ放題になるのです。

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一見、高そうですが、
高価なパンが食べ放題なのでお得。

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いろいろ出してくれます。

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おすすめは、胡桃パン。

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サラダも美味しい。

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これは、信州カスレ。

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鴨肉も美味しい。

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これは信州の地鶏のステーキ。
メニューは、すべてパンに合ったものです。

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ベーカリー&レストラン沢村

TEL 0267-31-0144
長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉字横吹2145-5 ハルニレテラス内
交通手段 ・JR軽井沢駅南口から星野エリアまで、無料シャトルバスを運行。


営業時間 (夏期) 
ベーカリー 8:00〜20:00
レストラン 11:00〜23:00(L.O.22:00)
朝食営業、ランチ営業

ホームページ http://www.hoshino-area.jp/sawamura



つづく。

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posted by マネージャー at 23:10| Comment(0) | 中軽−ハルニレテラス・野鳥の森 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

居酒屋 居食庵えにしや

居酒屋 居食庵えにしやの紹介です。

軽井沢では珍しく、定食と居酒屋を兼業している店です。

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ホッピーセットなんがあります。
寶焼酎+(ホッピーORブラック)+おつまみ
でも車の人は、ちょっとダメですね。

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値段も良心的。

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料理です。

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■営業時間
営業時間 昼11:30〜14:00 夜17:00〜24:00

定休日 不定休
所在地 長野県北佐久郡軽井沢町大字中軽井沢9−1
TEL 0267-31-0520 FAX 0267-31-0534

http://enisiya.com/index.html


つづく。

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posted by マネージャー at 03:38| Comment(0) | 中軽井沢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月13日

ゴールデンウィークのヘルパーさん決まりました

やっと、ゴールデンウィークのヘルパーさん決まりました。
三十歳代の女性の方です。
将来、宿をやりたいとのことなので、
願ったりと思いました。

去年は、高校生でしたが、
今年は、ちょっと大人の女性に御願いしました。
あと、もう一人いてもいいかなと思っていますが、
一人目が女性なので、部屋の関係で女性限定になりましたね。

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つづく。

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posted by マネージャー at 20:52| Comment(4) | 日記 2012以前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月12日

浅間牧場の春

今日は嫁さんはヨガ教室で、私一人が留守番です。
外壁の塗装もできないので、大人しく看板を創っていました。
あと、カメムシの進入を防ぐために、換気扇の排気口を
進入できないモノに総取り替えしました。
これで虫の侵入率が大幅に低下するはずです。

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浅間牧場は、こんなかんじです。

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野鳥もいっぱい。

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そして、牛たちも、春を喜んでます。

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雪は、すっかり姿を消しました。

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つづく。

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posted by マネージャー at 23:44| Comment(0) | 北軽−浅間牧場 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月11日

万座温泉と愛妻の丘ツアー

万座温泉と愛妻の丘ツアー

今回は、万座温泉でまったり。

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これは空吹き。
日本最古の化石が発見されています。

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ここは愛妻の丘。

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つづく。

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posted by マネージャー at 21:04| Comment(2) | 万座・白根山 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

御柱祭2010年の動画がアップされましたね

御柱祭2010年の動画がアップされましたね

2010年04月09日 — 御柱祭 下社木落とし・2010/04/09 Onbashira Festival@Nagano,Suwa,Japan

御柱祭り・下社秋宮の二の柱が
諏訪市上諏訪の氏子に皆さんによって
木落としが無事行われました。






2010年04月03日 — 諏訪大社御柱祭の上社山出しは2日目の4月3日、見せ場の一つ「木落とし」が茅野市宮川の「木落し公園」で行われました。




2010.4.10の御柱祭り 木落し





http://www.youtube.com/watch?v=QOCpCWCHA6A&feature=related



<御柱について>
http://www.onbashira.jp/
信州・諏訪大社では七年に一度の寅と申の年に宝殿を新築し、社殿の四隅にあるモミの大木を建て替える祭りを行います。この祭りを「式年造営御柱大祭」、通称「御柱祭」と呼び、諏訪地方の6市町村21万人の氏子がこぞって参加する天下の大祭です。

諏訪大社は上社と下社に分かれ、諏訪市に上社本宮、茅野市に上社前宮があり、下諏訪町に下社春宮と下社秋宮があります。祭神として建御名方神と八坂刀売神を祀り、東国第一の軍神として坂上田村麻呂や源頼朝、武田信玄、徳川家康らの崇敬を集めました。現在では全国に1万社以上の分社があるといわれています。

御柱祭がいつから行われているのか定かではありませんが、室町時代の『諏方大明神画詞』という記録に、平安初期の桓武天皇(781〜806)の時代に「寅・申の干支に当社造営あり」とあるのが最初の記録で、起源はさらに遡るともいわれています。

祭りでは、長さ約17m、直径1m余り、重さ10トンを超える巨木を山から切り出し、人力のみで各神社までの道中を曳いて、最後に社殿を囲むように四隅に建てます。柱を山から里へと曳き出す「山出し」が4月に、神社までの道中を曳き、御柱を各社殿四隅に建てる「里曳き」が5月に、上社・下社それぞれで行われます。諏訪の人々は氏子として全精力を注いで16本(4社×4本)の柱を地区ごとに担当するのです。秋には諏訪地方の各地区にある神社(小宮)でも御柱祭が行われるため、一年を通して盛り上がります。

つづく。

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posted by マネージャー at 09:05| Comment(0) | お馬鹿な話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月10日

御柱祭ツアー報告

御柱祭ツアー報告

朝、4時に出発のツアー。
さすがにみんな眠そう。
今日は、お馬鹿なツアーの日です。
13時からはじまるお祭りに、朝6時に集合するのですから!

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これが今回のメンバー。

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暇をもてあまして、トランプをはじめる。

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よくは知らない歌手が登場。
某sさんは、サインをもらったとか。

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やることないから飲みまくり!
そして、屋台を喰いまくり。
それでも暇なので、話題は、
「どの屋台の姉ちゃんが美人か?」
という真剣な議論。

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いろんな芸人が出てくるが、
酔っ払ってわけがわからん。

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テレビ局のヘリも飛びまくり。

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おっと!
はじまった!

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命をかけた格闘だ!

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待機していた救急車も出動!
死ぬなよー!

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こうして、一瞬で祭りは終わってしまった。

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つづく。

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ラベル:御柱祭ツアー
posted by マネージャー at 23:16| Comment(2) | お馬鹿な話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月09日

北軽井沢ブルーベリーYGHのリホーム、ほぼ完成です!

北軽井沢ブルーベリーYGHのリホーム、ほぼ完成です!
じゃーん!

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煙突も、これが!

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これに!

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ボイラー室も!
塗装しちゃいましたよ!

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屋根付きバイク置き場も完成!
第1号利用者は誰だろうか?
(ただし、土間をつくる費用はなかった)

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広大な駐車場も!
御客様一人一台でこられてもオーケー!
観光バスも大丈夫。

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ただし、残念なこともありました。
アンテナ屋さんに来てもらって検査したら、

北軽井沢ブルーベリーYGHは、
地デジが写らないらしい。


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参った。

こうなりゃ衛星放送か、ケーブルテレビだな。


つづく。

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posted by マネージャー at 17:54| Comment(7) | 日記 2012以前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする