2010年04月22日

円通殿 マネージャーのミステリーツアー7

円通殿 マネージャーのミステリーツアー7

 嬬恋村干俣に干俣小学校がありますが、その隣に円通殿があります。永正年間1504年頃曹洞宗常林寺の住職をしていた旭邦和尚が隠居庵として建て、師(近江の禅寺の円通上人)を偲び円通殿と名付けました。和尚は村人に手習いを教え余生を送ったといいます。で、明治維新後は、この円通殿が小学校となったそうです。

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 ところで私が嬬恋村に来て、驚いたことは寺院の少なさです。私が生まれ育った佐渡ヶ島には、宗教法人名簿に登録されているだけでも、神社は267、寺院が281もあります。しかし、嬬恋村には、寺は2つしかないんです。しかも曹洞宗だけ。他の宗派は無し。大きさは、たいして違いませんよ。

  佐渡島の面積は、約857平方km
  嬬恋村の面積は、約337平方km

そんなに差がないのに、寺院の数、石仏の数は、何百何千倍も違っている。もう一つ言うと、現在の佐渡の寺院は、廃仏毀釈のために江戸時代にあった数の(正確な数字は忘れましたが)半数ぐらいしかのこってないはずです。 つまり、現在のものより膨大な寺院・石仏があり、それを守ってきた島民の信仰がありました。ところが嬬恋村には、常林寺と無量院しかありません。この円通殿も鎌原観音堂も住職はいません。宗教法人の形をなしていません。

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 ところで寺院に関係する建物には堂と殿があります。古くから在った宗派では堂を使いました。観音堂とか阿弥陀堂などです。これに対し、禅宗(臨済・曹洞宗)などでは、本尊を祀る建物を仏殿と言う様に殿を多用しました。円通殿は、建物こそ小さいですが、禅宗様(唐様)の影響を色濃く残したもので、禅宗風の文化がかいまみられます。





つづく。

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posted by マネージャー at 21:49| Comment(0) | 四阿山・バラギ高原 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

田代の愛妻の丘 マネージャーのミステリーツアー6

田代の愛妻の丘 マネージャーのミステリーツアー6

まず日本愛妻家協会のサイトをみてみましょう。

http://www.aisaika.org/mission/14kyabechu/aisainooka.html
http://blog.aisaika.org/?eid=761413

 農家の畑を借りて始まった小さな催しがキャベチューでした。男たちが真剣に愛を叫ぶ姿がだんだん評判になり、群馬県が叫びの丘に整備してくれました。そこを村の人たちが「愛妻の丘」と名付けました。いまではそこはドライブの名所です。村民が始めた催しが多くの人の心を動かして新名所になりました。小さな波が大きな波を作り出して現実になる。「愛妻の丘」はまるで奇跡のような出来事が生まれた場所です。

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愛妻の丘(英文名称:Aisai no Oka)
所在地 群馬県吾妻郡嬬恋村大字田代字大横平2000の内
敷地面積 約2,766m2
開設年月 平成20年4月
位置 東経138度27分32.5秒 北緯36度30分19.2秒(国土地理院)
標高 1,257m
丘 階段数 37段
展望台面積 約136m2
駐車場面積 約500m2
説明板 大型1基:村名の由来、小型1基:テミル原則(英語版あり)
叫び台 名称 妻に愛を叫ぶ専用叫び台
開設年月 平成21年4月


というわけで、愛妻の丘にいってみました。

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すごく景色がいいてところです。

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思わず、みんなで記念撮影。

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 愛妻の丘は、嬬恋村田代の伝説にもとずきます。日本愛妻家協会のホームーページにもあるように、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、世界で初めて愛妻家宣言をした人物として有名です。そこで日本武尊について紹介したいと思います。

 日本武尊は第12代景行天皇の子として誕生しました。幼名を小碓命(おうすのみこと)といい、兄の大碓命(おおうすのみこと)とは双子の兄弟とも言われています。ところが、この日本武尊は気性が激しく、兄を殺害してしまったため父からは疎んじられていました。

 そんな日本武尊は羽曳野で一人の娘と出会いました。
 名は弟橘比売(おとたちばなひめ)。
 やがて二人は結ばれました。

 しかし、日本武尊は東国の平定へと向かわねばなりませんでした。父は、東国の12か国(伊勢、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、総、常陸、陸奥)が従わないので平定するよう日本武尊に命じたのでした。

 日本武尊は東征に出発。
 相模の国に入る前に奥様の弟橘比売が合流。

 船に乗って三浦半島沖から房総半島に向かいましたが、船出した直後に嵐がきました。雷鳴がとどろき、激しい雨と風に船なすすべもありませんでした。弟橘比売は「海神の祟り」だと言い、海の怒りを静めようと海に身投げしました。

 やがて海は静まり、日本武尊たちは上総(千葉県木更津)に渡ることができました。海岸で日本武尊はクシを見つけました。それが弟橘比売のものとわかると悲しみがこみ上げて、去りがたい思いでいっぱいになりました。木更津(きさらず)は、この時の日本武尊の「君さらず」からきています。

 この後、東国を平定し、日本武尊たちは帰途につきました。そして、関東地方を去るにあたって嬬恋村で
「あずまはや(わが妻や)・・・・・」
と3回も嘆き叫んだと言われております。

 その後、三重県伊吹山で、最期の戦いを行い、ボロボロになって歩くことさえできなくなります。それでも血まみれになりながら大和を目指して歩き続ける日本武尊でしたが、さすがに衰え、能煩野(のぼの)で、ついに力つきました。そして

「やまとは 国のまほろば たたなづく青垣  山ごもれる やまとし うるわし」

と歌いになられ、亡くなられました。


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つづく。

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posted by マネージャー at 01:57| Comment(0) | 四阿山・バラギ高原 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

田代の両墓 マネージャーのミステリーツアー5

田代の両墓 マネージャーのミステリーツアー5

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実は、この部分だけは書きたくなかった。
しかし、今回はあえて書きます。
嬬恋村には、両墓制の風習があったのです。

両墓制とは、遺体を埋葬する墓地と、御参りするための墓地を一つずつ作ることです。つまり一個人に対し二つの墓を作るのです。これは、私の故郷である佐渡島にも、その風習があり、私の祖母の墓は、両墓制の風習にのっとって、2つの墓がつくられました。

現在、厳密な意味での両墓制は滅びています。
というのも両墓制は土葬だからです。

と、ここまで書いても分からない人には分からないでしょうから、もっと具体的にいうと、遺体を風に曝して風化をまつ風葬という習慣があります。これも両墓制の風習の一つのスタイルなのです。遺体と魂を分けて、魂だけを御参りし、遺体は放置したままにする。そういうスタイルに近い墓地が、嬬恋村にもあったのですね。それが、ここ。田代の両墓です。

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昔、日本ユースホステル協会のマネージャー研修会で、大勢のユースホステルマネージャーを、ここに御案内したことがありましたが、松山ユースホステルのお母さんが、ここで金縛りにあいました。他にも何人かの御客様が、金縛りにあったりしています。なので、ここには殆ど、御客様を案内していません。場所も、あえて秘密にしておきます。問い合わせても、お答えできませんので、あしからず。


ちなみに、嬬恋村の田代というところは、江戸時代は馬の産地でもありました。五十戸という小さな小さな村だったのですが、村名が「田代」なのに田が皆無だった村でした。しかし、牛馬は多く、ここの牛馬が善光寺平から菜種油を江戸まで運ぶために大活躍したと言われています。

また、田代には、無数の水車があったようで、豊富な水資源を活用して、水力を利用した加工業が盛んに行われたとも言われています。


つづく。

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posted by マネージャー at 01:45| Comment(2) | 四阿山・バラギ高原 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

大笹の関所 マネージャーのミステリーツアー4

大笹の関所 マネージャーのミステリーツアー4

 大笹街道は、善光寺平から小県郡の高原を経て高崎に至る道で、越後や善光寺平から上州を経て江戸へ出る重要な脇街道となっていました。そしてこの街道は、仁礼宿(須坂市)から標高1600mの菅平を通過して鳥居峠から上州大笹宿を通過し、沓掛(中軽井沢)にいたります。

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 非常に険しい道筋でしたが、北国街道の脇街道として繁栄しました。理由は、善光寺平から江戸へ出る北国街道より、四十キロほど距離が短いために宿継ぎに要する経費が少ないからです。そのために商人たちが、この街道をよくつかったのです。

 で、運ばれた物産は、菜種油。

 巨大都市、大江戸の照明の燃料(菜種油)を善光寺平から輸送していました。よーするに江戸時代のパイプラインです。別の言葉で言えば、江戸百万都市のライフラインでもありました。大笹は、その中間地点にあるので、ものすごい繁盛した商業都市でもありました。また、松代藩・飯山藩・須坂藩の米なども江戸に輸送されました。三俵積みの馬が一万頭も通過したという記録が残っていますから驚きます。

 もちろん本陣もありました。
 造り酒屋もありました。
 大笹守を醸造して各地へ出荷していました。
 温泉や鉱工業も盛んで、養蚕も行われていたようです。

 ただし、仁礼(須坂市)〜鳥居峠〜大笹の間は、標高1500メートルを越える菅平高原を越える険しい道が続いたために、冬季は交通不可能になる事が多く、遭難による死亡事故も多かったために、その供養と旅の安全を祈って、仁礼(須坂市)の外れから峰の原の供養塔まで、約17kmの間に60体ほどの石仏があります。

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 さて、この街道の大笹には、関所があります。大笹の関所です。今から330余年前の寛文2年(1662)、沼田藩主真田伊賀守が、幕府の許可を得て関所を開設したのがはじまりです。


 関所の広さは約450坪で、中に入ると正面に番屋があり、上番所・改所(取調所)・下番所などがありました。関所番は、当初沼田藩の郷士4人、足軽格2人、下番役の百姓2人がいましたが、天和元年(1681)真田氏改易後は、鎌原氏など旧沼田藩士などの4人と、下番の大笹村の百姓2人がおりこれが交代で勤務し、明治2年廃止されるまでの約200年間、通行人や草津温泉の入湯客など北国街道の脇往還の通行人を取り締まりました。

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 一部遺構である門扉はこの川を越えたところに復元されています。この門は廃関後取り壊されましたが当時大笹の土屋源三郎氏の先祖が払い下げ、秘蔵していたものを特に寄贈してもらい当時の絵図によって1946年復元したものです。旧大笹村の宿場のかつての賑わいを伝えています。

 群馬県は全国的にも関所の数が最も多かった所とされています。そうした中にあって、大笹関所は、江戸と信州を結ぶ人馬取締りの目的で設置されたものですが、『諸国御関所書付』の「上野国所在関所一覧」によると、碓氷関所など6ヶ所の重要な関所の1つとされています。

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 ちなみに、この大笹の関所には、長野原から六合村にいたるまでの二十ヶ村の「おてんま」が割り当てられていました。「おてんま」というのは、嬬恋村の方言で「ボランティア」という意味ですが、伝馬が語源だそうです。よーするに関所の改修やメンテナンスを二十ヶ村で持ち回りで作業をしたのです。その割り当て作業をしたのが大笹村です。


つづく。

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posted by マネージャー at 01:17| Comment(0) | 嬬恋村 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする