2010年05月31日

道の駅・六合村の花豆ソフトクリーム

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道の駅・六合村の
花豆ソフトクリームは、本当に美味しい。
ここに立ち寄ったらぜひチャレンジしてみてください。

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うどんも美味しいですよ。
なにせ、群馬は、うどん王国。

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モツ煮も美味しい。

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つづく。

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posted by マネージャー at 23:38| Comment(2) | 六合村 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

品木ダム

品木ダム(しなきダム)は、他のダムと違う目的で建設されています。

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草津温泉から流れる酸性の排水を中和するためのダムです。
品木ダムが建設される前の吾妻川は、
「死の川」
と呼ばれていました。水が極度の酸性を帯びていたためです。

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草津白根山や草津温泉の源泉から湧出した強酸性の水が流れ込むためで、その酸性度は、鉄釘を1週間で溶かしてしまうほどでした。そのために飲料水はもちろんのこと農業用水にも使えないというありさまで、川には生き物さえなく、橋は、たちまちにして溶け、護岸も数年で溶けてしまいました。この水は、利根川の水質まで汚染したために、あらゆる護岸設備が危機的な状況になったといいます。

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 そこで酸性水流入の最大原因となる湯川に酸性水中和施設を建設し、石灰を大量に投入することで河川水のpH値を中性にする「吾妻川総合開発事業」を1957年(昭和32年)より始められました。

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 品木ダムはこの草津中和工場の下流に建設され、ダム湖である上州湯の湖で炭酸カルシウムと硫酸・塩酸を化学反応させて中和を促進、河水を中性にすると同時に石灰の攪拌(かくはん)・沈殿を行い、吾妻川の水質は大幅に改善され、「死の川」の汚名を拭い去ることが出来たのです。

 ところが、この品木ダムの成功により吾妻川の水質が改善された事で、八ッ場ダムの計画が推進されることになります。

 されはともかく、品木ダムは、完成以後石灰水を貯水し続けたために、完成から40年以上が経過した現在、堆砂率は79.8%と、石灰で満杯状態となっています。品木ダムの寿命もあと僅かなので、品木ダムの若返りをすすめていく必要があります。

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 また、品木ダムの堆積物にヒ素が高濃度にあることも、問題となっています。下流に流すはずのヒ素が、品木ダムで貯めてしまっているせいでしょうか? 

つづく。

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ラベル:品木ダム
posted by マネージャー at 23:29| Comment(0) | 六合村 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

百八十八観音

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 品木ダムを見下ろすポイントに立つ石仏群。

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 百八十八観音とは、江戸時代に品木村の山本梅右衛門により建立された石仏群で、現在176体をみることができます。六合村指定の文化財です。ここを一巡すれば四国、坂東など全国の霊場を巡ったのと同じ功徳があるといわれています。かつて、この品木ダムの底に、品木村がありました。品木ダムの建設と共に廃村になり、百八十八観音も現在の位置に移転しました。

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つづく。

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ラベル:百八十八観音
posted by マネージャー at 23:01| Comment(0) | 六合村 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月30日

地上最強の熊−アクロバット熊

誤訳御免
http://shirouto.seesaa.net/article/151307477.html
で、みて驚いたんですが、
スーパーベアの動画にびっくり!

安佐動物公園のツキノワグマ クラウド君の棒術の様子です。











つづく。

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posted by マネージャー at 21:06| Comment(0) | 動画紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

島崎藤村の旧宅

島崎藤村の旧宅・貞祥寺

 貞祥寺は、曹洞宗の寺院で禅道場として有名です。寺院は、杉やケヤキなどの大きな木に囲まれ佐久市の中では、大きなお寺となります。寺院敷地内に、『島崎藤村旧宅』があり公開されております。

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 小諸在住時代の島崎藤村の住宅を貞祥寺境内に移築したもの。
 茅葺き屋根の邸宅は8畳の書斎と居間、和室2室からなり、
 開館時間内は室内を見学できます。

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 島崎藤村(明治5年〜昭和18年)は、小諸義塾教師として、明治32年から6年間、現在の小諸市で暮らしました。その際、藤村が居宅としていたものを、大正9年に前山の本間氏が自敷地内に移転し、本間邸の一部として使用していました。

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 その後、藤村生誕100年を迎えた昭和47年、佐久市が本間氏より寄贈を受け、昭和49年に貞祥寺境内の一隅に、美しい自然とのたたずまいの調和の中に復元されました。2回の移転や移転先の土地形状の関係で、藤村が居宅としていたものとは間取等に若干の違いはありますが、資材はその当時のものを使用してます。

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つづく。

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posted by マネージャー at 01:01| Comment(0) | 佐久 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

貞祥寺(ていしょうじ)

貞祥寺(ていしょうじ)

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 大永元年(1521)、前山城主伴野貞祥によって創建された、佐久平を代表する曹洞宗の名刹。以来、歴代領主から庇護され天正15年(1587)には蘆田城主依田康真から銅100貫文を寄進、江戸時代に入った慶安元年(1648)には3代将軍徳川家光より朱印15石を安堵、慶安2年(1649)には小諸城主仙石秀久よりてら領100貫文など寄進を受け末寺12ヶ寺を有する寺院として寺運も隆盛します。

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 現在も七堂伽藍を備える広大な境内で惣門は承応2年(1653)に建立された貞祥寺最古の建物で一間一戸、切妻、茅葺、薬医門形式、山門は寛文12年(1672)に建立されたたてもので三間一戸、入母屋、茅葺、棟梁小泉三右衛門・重右衛門、三重塔は江戸時代末期に建立され明治3年(1870)に小海町にあった神光寺から貞祥寺に移築されたもので共に長野県指定県宝に指定されています。

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 杉、松、イチョウの老木がうっそうと茂る深閑とした境内には、300年前に再建された本堂をはじめ、総門や山門など七堂伽藍が立ち並びます。県宝に指定されている三重塔は、明治3年(1870)に小海町松原湖の神光寺から移築された江戸時代末期の建造物。初層には地元出身の日本画家・柳沢文真による飛竜と草花16点の天井画がおさめられています。境内には、島崎藤村の旧宅があり、三重塔は県宝。

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長野県佐久市前山1380-3
JR中込駅→車10分
上信越道佐久IC20分
駐車場 あり
TEL:0267-62-0325

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貞祥寺境内には太平洋戦争の時の人間魚雷回天の記念碑ならびに1/3の魚雷の模型が展示されています。回天の設計者の一人仁科関夫は佐久市の出身で敵艦に体当たりを敢行しました。 

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碑文

昭和十九年 太平洋戦争年を重ねて苛烈となり 戦勢ようやく我に利あらざる時 憂国の至情に燃えて黒木博司少佐 仁科関夫少佐は第一特別基地隊に在りて 前代未聞必死必殺の水中特攻兵器人間魚雷を完成もって頽勢の挽回を計らんと「回天」と命名 徳山湾大津島に基地を定め 日夜一人一艦必殺の戦法 操縦訓練に励む 黒木少佐は訓練に殉じたるも同年十一月回天特別攻撃隊菊水隊の先陣に立ちし仁科少佐以下敵前進基地ウルシー パラオ コッスル水道 ホーランジア グアム アブラ港に また硫黄島 沖縄付近海域中西部太平洋上に 大津島 光 平生大神の各基地より出撃し敵艦に体当り攻撃を敢行せり戦遂に利あらず昭和二十年八月 兵を収むるまで戦没並びに殉職搭乗員の英霊百五十余柱 帰らざる潜水艦七隻 その乗員八百十余柱を数う 散華せし勇魂を迎慕し回天の偉業を後世に伝えんと 創始者仁科少佐の出身地佐久に永遠の世界平和を念じつつ 長野県出身者戦没並びに殉職搭乗員 仁科関夫少佐 北村十二郎少尉 中島健太郎大尉 宮澤一信中尉 の霊安からんことを祈念し 戦友相寄り「回天之碑」これを建つ

昭和五十一年六月六日  長野県回天会

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つづく。

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posted by マネージャー at 00:47| Comment(0) | 佐久 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月29日

米子瀧山不動寺

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 米子瀧山不動寺は、古くから「米子のお不動さん」と呼ばれ、現世利益をご祈願・ご祈祷する真言密教寺院です。また、今もなお全国たくさんの方から厚い信仰を集めています。本尊である不動尊は、千葉成田の不動尊、新潟の菅谷不動尊と共に日本三大不動尊のひとつに数えられています。

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 不動明王は、等身大の立像で、弘法大師(空海)の一刀三礼の御作と言い伝えられ、欅の一木造りで像高162センチ、重量47.5キロあります。

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 不動尊信仰は、近くの妙徳山における白山信仰、奇妙山における念仏信仰、菅平四阿山における熊野信仰を生んだ中世の山岳修験道によって発生してきたもので、念仏行者但唱上人、その弟子と言われる閑昌上人の念仏行と深くかかわっています。

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 当寺より12キロ奥・四阿山北西隅に、長野県須坂市の観光名勝としても名高い米子大瀑布にある不動瀧(85メートル)・権現瀧(75メートル)があり、そこに奥之院があります。そこは古くから全国に知られた熊野信仰・山岳修験道の聖地です。

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つづく。

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posted by マネージャー at 18:59| Comment(0) | 須坂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月28日

カモシカを見た!

カモシカを見た!

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カモシカは、ウシの仲間です。鹿ではありません。
したがって、シカとは違い、角は枝分かれせず、生えかわりもありません。

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頭胴長70〜85cm、肩高70〜75cm、体重30〜45kg。
シカより小柄でずんぐりしており、四肢も首も太く短く、毛も長い。
ですから「カモシカのような脚」という形容は、正しくありません。

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 角は黒色で先がとがっており、15cmくらい。
 後ろ側にゆるやかに湾曲しています。

 目の下のよく目立つ眼下腺をもち、ここから分泌液を出してマーキングをします。縄張り性動物なので、このマーキングで縄張りを誇示します。

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 多くの偶蹄類はなわばりをもちますが、生息環境の違いによって防衛する対象が違い、大きく二つのタイプに分けることができます。一つは森林やブッシュでみられる資源防衛型であり、もう一つは草原のような開けた環境でみられる配偶者防衛型です。日本の特別天然記念物ニホンカモシカは資源防衛型の一つの典型です。


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 森林のような密な環境に生息する種は、単独で生活するものが多いですが、このような環境では捕食者から隠れるために、群れでいるよりも単独で生活するほうが都合がよいからです。また、森林は草食獣にとって食物がほぼ均一に分布し、非常に安定した環境です。このため、1頭がせまい範囲をなわばりとして防衛することで、一年を通して生活に必要な資源をすべて得ることが可能になります。したがって、森林では各個体が生活範囲すべてをなわばりとして守る資源防衛型が発達します。

 これに対して草原のような開けた環境では、より早く捕食者を発見するためには、複数の個体が集まって警戒するほうが有利です。このような環境では雄と雌が別々に群れをつくることが多く、強い雄が雌の群れを独占する配偶者防衛型が発達します。雄は交尾期に他の雄を追い払って雌の群れを独占するか、交尾のためのなわばりをもち、この中に雌の群れを囲い込み、一夫多妻を形成するものが多いです。日本鹿やエゾシカなどは、このような生態をとります。

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 ニホンカモシカは、森を主要な生息地にした典型的な単独生活をしています。母親が当歳子を連れる以外は、一時的に2〜4頭の小グループをつくる程度で、それ以上の群れになることはありません。

 ほとんどの小グループは家族によって構成されています。すなわち母親と0〜3歳の子ども、および母親の配偶者である成獣の雄がグループの単位となっています。ただし、母親の配偶者はときどき変わることがあるため、成獣雄は子どもにとって必ずしも実の父親であるとは限らない。

 子どもは春に生まれるとほぼ1年間は母親のあとをついて歩くので、母親と当歳子による2頭のグループがもっとも安定しています。1〜2歳の子どもも短期間ではあるが母親について歩き、2頭または当歳子とともに3頭のグループが形成されることもあります。

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 シカ科のシカ類はひづめがほっそりしていて、開けた場所を走るのに向いているのに対してニホンカモシカはひづめの先を広げて立つことができます。これは岩場など足場の悪い所での活動に向いています。指の間には蹄間腺があります。

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 ニホンカモシカはほとんど単独で生活しているにもかかわらず、異性間の行動圏の重なりをみますと、特定の雄と雌の結びつきを知ることができます。多くの場合は1頭の雄と1頭の雌の行動圏がほぼぴったりと一致して、基本的に一夫一妻を形成しています。なかには1頭の雄が2頭の雌の行動圏を占有して、一夫二妻を形成するものがいます。しかし、この雄は2頭分の雌の行動圏をなわばりとして防衛しなければならず、片方の雌を他の雄にとられることがあり、不安定で例数も少ないようです。

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 子どもは1歳になると母親から離れて単独で生活するようになりますが、性成熟に達する2〜3歳頃までは母親の行動圏に留まります。その後、雄の子ども(息子)はすべて2〜4歳で母親の行動圏を離れ、3〜5歳で一夫一妻の雄と入れ替わったり、一夫二妻の片方の雌を獲得して独自のなわばりを確立できるものもいます。

 これに対して雌(娘)は、性成熟を過ぎても母親のなわばりに居残るものがいます。この場合、3〜4歳で母親のなわばりの一部を譲り受けたり、母親が死亡するとそのままなわばりを継承したりします。結果的に父と娘の間で配偶関係が生じる可能性がありますが、雄の入れ替わりが頻繁ですので、近親婚は避けられることが多いですね。

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つづく。

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posted by マネージャー at 23:07| Comment(2) | 自然−動物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

今年のシャクナゲ園

今年のシャクナゲ園は、ちょっと花が不作。
でも、花はともかくカラマツ林の新緑は最高でしたね。
美しいというより、幻想的。
特に今年は、御客様が少ないので、ありがたい。
この林を独占できるという幸せは、他に代え難いですね。

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つづく。

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ラベル:シャクナゲ園
posted by マネージャー at 16:20| Comment(0) | 浅間高原・シャクナゲ園 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

米子鉱山跡

米子鉱山跡

 米子鉱山、小串鉱山は、国内屈指の生産量を誇る硫黄鉱山でした。須坂市は、硫黄搬出の拠点として、また生活物資や生産資材の供給地として両鉱山とは深い関係がありました。特に昭和のはじめまで隆盛を誇った製糸業衰退のあとは、須坂の産業が電子産業へと移行するまでの間、須坂の経済を支えた重要な産業のひとつでした。

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 米子鉱山は、1743年(寛保3年)に、米子村の竹前氏によって本格的な採掘が始められ、1898年(明治31年)に須坂硫黄会社が竹前氏から鉱山経営権を受け継いだ後、数回の所有者変更を経て中外鉱業株式会社が1934年に買収しています。

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 硫黄のほかにろう石、褐鉄鉱なども産出した。戦前は軍事用の火薬となる硫黄の需要が高く、最盛期には月産1,200トンに達し、鉱山関係者1,500人が生活していた。鉱山から須坂駅までは全長14kmに及ぶ索道(ロープウェイ)が設けられ、集落には共同浴場、学校、映画館なども建てられました。1960年に硫黄の採掘が終わり、1973年に全面閉山になりました。

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この鉱山には、問題点がありました。
毒性が強いのです。
そのために鉱山跡を全て埋め立てました

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 この鉱山でとれる硫黄は、硫黄品位の差のある層状鉱体で、採鉱は、坑道採鉱で残柱式空洞掘で、製錬設備は、焼取炉8基がありました。ただし、小串鉱山と違って生産量は少なかったようです。

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それでも1500名の住民が住み、学校・スーパーなどもあったようです。

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このあたりに学校がありました。

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つづく。

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ラベル:米子鉱山跡
posted by マネージャー at 10:08| Comment(3) | 須坂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月27日

奇妙滝

 奇妙滝。

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 なぜ奇妙滝というかと言いますと、奇妙山から流れ落ちる滝だからです。米子硫黄鉱山跡をさらに進んで奇妙山のふもとに到着。細い遊歩道を歩いていくと落差60mの奇妙滝が見えてきます。米子大瀑布にも勝るとも劣らない大瀑布です。

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つづく。

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ラベル:奇妙滝
posted by マネージャー at 20:24| Comment(0) | 須坂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

米子大瀑布

米子大瀑布

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 米子川源流、四阿山の北麓の懸崖に並んでかかる、不動滝(落差85メートル)・権現滝(落差75メートル)2滝の総称が米子大瀑布。滝の下にある米子不動尊は、「米子のお不動さん」として庶民の信仰を集める日本三大不動尊の一つで、今でも修験者の道場となっています。


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不動滝(落差85メートル)ですね。
けっこう危険で落石もあるようです。

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権現滝(落差75メートル)。
こちらも迫力があります。
不動滝よりも迫力あるかも。
ちなみに大瀑布とは、50メートル以上の滝のことをさします。

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ジュラシックパークを思い出しますね。

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駐車場から約900メートル、滝から流れ出した川の対岸に、
旧・米子鉱山の鉱滓堆積場跡地に作られた公園があります。
ここより眺望できる両滝は絶景です。

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 この二つの滝が有名なのは、日本有数の「夫婦滝」のためと言われています。男滝は「権現滝」で、水量が多く真っ直ぐな直瀑。女滝は「不動滝」で、水量が少なく霧状に流れる落ちる姿が女性的。最近では「恋人滝」とも言われています。また、米子大瀑布は長野県内では、安曇村の「三本滝」、南木曽町の「田立の滝」と共に日本の滝100選に数えられています。

 滝の下にある米子不動尊は、「米子のお不動さん」として庶民の信仰を集める日本三大不動尊の一つで、今でも修験者の道場となっています。


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つづく。

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posted by マネージャー at 10:31| Comment(3) | 須坂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月26日

パノラマライン

パノラマライン

 嬬恋村パノラマラインは、嬬恋村の広域農道です。ですが綺麗に舗装されており道幅も広く、ハイウエイのように立派です。心地の良いドライブコースとしても最適です。特にキャベツの最盛期はお奨めなのですが、この日はまだでしたね。

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 まれにキャベツトラックや農業用の重機もいますが、現在のところ、一部ツーリング族を除いては地元以外にはあまり知られていないのでとてもすいています。走りたい人には、とても素晴らしい道です。


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つづく。

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posted by マネージャー at 00:58| Comment(2) | 嬬恋村 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

芦田宿本陣(土屋家住宅)

芦田宿本陣


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 芦田宿は、慶長二年に岩間忠助・土屋右京左衛門によって「芦田宿立駅についての願文」が出され芦田宿ができています。これは、幕府が交通政策にのりだした慶長六年の4年前で、北佐久では一番先に設立されたことになります。

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 土屋家は代々芦田宿本陣を勤める家柄で中山道の開削の際は大きな尽力を尽くしたそうです。江戸時代後期には客殿をはじめ、主屋、問屋場、荷蔵、酒蔵、長屋など多くの建物が軒を連ねていました。

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 現在の建物(旧客殿)は寛政12年(1800)に改築されたもので梁間11間、桁行5間と規模が大きく玄関屋根は唐破風で懸魚や蟇股など格式の高いもので、内部には大名や公家などが泊まった上段の間や広間、小姓部屋、湯殿、雪隠とほぼ原形が残されています。江戸時代後期に建てられた大型で当時の姿を留めている本陣建築として大変貴重な存在で昭和63年に長野県県宝に指定されています。

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 芦田宿にとって最も大規模な通行は、皇女「和宮」の東下り。
 この際、芦田宿を通り本陣で昼食を取ったとされています。

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つづく。

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posted by マネージャー at 00:45| Comment(0) | 佐久 中山道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

放送法改正 民主党提出の修正案可決

放送法改正 民主党提出の修正案可決
< 2010年5月25日 18:30 >

http://www.news24.jp/articles/2010/05/25/04159799.html#

 放送法改正案を審議している衆議院総務委員会は25日、与党側が強行採決に踏み切り、民主党が提出した修正案を賛成多数で可決した。





すごいことになってきた。
世の中は、もっと騒いでいいはずなのに、
マスコミは、全く沈黙したまま。



この法案が通ると、NHKの受信料契約をネットに接続しているだけで義務化できるようになります。こんな大切な法案を。60年ぶりに改正される放送法を質疑時間2時間30分で打ち切り、強行採決。


どうするんだ?


インターネットをやる人間は、みんなNHKの受信料を払うようになるのだろうか? ここのところは、宿をやってる人間として、ものすごく知りたい。いったい民主党は、何をしようとしているんだ?


あと政府に都合がわるいサイトやブログは、
大臣命令で閉鎖する事が可能になるとのことだが、
これは本当なのか?


こんな大切なことを2時間30分の議論で打ち切っていいわけがない。


宿屋はテレビ1台につき1つのNHK受信料を払うきまりになっている。
7台あれば、7世帯分のNHK受信料を払うきまりになっている。

だから地デジをきっかけにテレビを廃止し、
インターネットを強化しようと思っていたら
インターネットでもNHK受信料を
払うきまりになる可能性があるという。

かんべんしてよ!

もっと真面目に審議してよ。
もっときちんと質問に答えてよ。
どうして審議打ち切って採決に走るの?


つづく。

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posted by マネージャー at 00:05| Comment(6) | ニュース・時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月25日

ユースホステルから日本中に広がった歌の伝説

ユースホステルから日本中に広がった歌の伝説


 1960年代の終わり頃のことです。
 大勢の若者がユースホステルを使って旅をしていました。
 若者たちは、旅先でよく歌いました。
 ユースホステルのミーティングで、夜の語らいで、よく歌いました。
 1960年代は、歌の時代でもありました。

 レコードは高価であり、カセットテープも、ラジオも、テレビも高価でした。楽器も安くはなかった。だから人々は、歌を愛したのかもしれません。フォークソングが若者の心をとらえたのも、この時代です。特にユースホステルを使って旅する人たちは、歌を好みました。歌を聴き、自らも歌いました。

 これは日本だけの現象ではなく、ユースホステル運動の本家ドイツでも同じであり、ユースホステル運動を創設したリヒャルト・シルマンも、歌をこよなく愛した一人でした。ヨーロッパのユースホステルでも若者たちは、よく歌ったものでした。

 ところで、1960年代末に、北海道のユースホステルで、
 こんな歌が流行しました。



 ♪白い花ゆれる あの人の胸に
 ♪いとしい人の 口づけにゆれる




 実は、皆さんが良く知っている曲なのですが、
 誰が作った曲か誰も知らなかった。
 作詞も作曲も誰なのか分からない。
 その誰が作った曲かわからない歌が
 全国のユースホステルに広まっていた。

 あまりに旅人の心を揺さぶる曲であったために、
 旅人たちが好んで口ずさむようになったのでした。
 その歌は、いつしか北海道の歌声喫茶や、
 温泉宿に泊まる旅人の間でも歌われるようになりました。

 当時、ユースホステルは、
 いまでいうインターネットのようなものでした。


 その歌を旅先で偶然にも知ったミュージシャンがいました。
 日本を代表するフォークグループ
『赤い鳥』後藤悦治郎です。
 赤い鳥といっても若い人にはピンとこないかもしれませんが、代表作の

「翼をください」
「竹田の子守唄」

を知らない人はいないでしょう。




http://www.youtube.com/watch?v=7in5rpYU584


日本を一世風靡したグループであり、解散後に

『紙風船』
『ハイ・ファイ・セット』
『ハミング・バード』

に3分割されて、それぞれ

「冬が来る前に」
「卒業写真(荒井由実の作詞・作曲)」
「さだまさしのプロデュース・編曲」

と、その後の日本音楽会をひっぱってきたグループでした。

http://www.youtube.com/watch?v=stL-KPx5MNQ&feature=PlayList&p=A1032B0E9946C70B&playnext_from=PL&index=0&playnext=1




 そのグループでギターをやっていた後藤悦治郎が、
 北海道の帯広の奥地、然別湖にある
 山田温泉ユースホステルで旅人たちが歌っていた無名の歌に感動し、
 レコード化し、これが大ヒットしたのです。

 その曲名は後で述べるとして、この歌を作った人は、
 中林三恵さん
 という無名の群馬県の人でした。


 中林三恵さんは、群馬県太田市の人で高校時代に散歩しながら自作の歌をつくりました。その後、群馬大学に進学。1964年秋に大学で「クラブ対抗コーラス大会」が行われ、その大会で中林三恵さんの所属する美術部で、そのを歌ったところ、その曲が群馬大学の学生の間に広まりました。

 そして、その歌は、ユースホステルを使って旅する群馬大学の学生さんによって数年後には北海道の然別湖にある山田温泉ユースホステルにたどり着きます。ひょつとするとユースホステルが、広めた歌の第一号かもしれません。その歌の名は、
「赤い花白い花」
です。

 下の動画をクリックして聞いてみてください。
 感動します。じわーっときます。





 どうですか?
 いい歌ですよねえ。

 実は、歌ってるのは「赤い鳥」の人たちではありません。
 やまがたすみこさんです。

 若い人は知らないでしょうが、やまがたすみこさんは、大杉久美子さんとともに日本の女性歌手の中でも5本の指に入るくらい歌が上手な人だと思いますが、その人が歌うと、本当に心に沁み入ります。


 私は、高校時代に、この歌を聴いて、この美声にメロメロになって、血眼になってレコードなんかを探したのですが、マイナー歌手だったためか田舎の佐渡島にあるわけがなく、インターネットも無かった時代でしたので、いつしか諦めてしまっていました。

 記憶から消えてしまっていたのです。

 それから12年後の1990年。私が、29歳になったときにユースホステルを使って北海道を旅していたときに、然別湖近くの温泉旅館(菅野温泉)で「赤い花白い花」を口ずさむ当時50歳くらいの人と出会いました。メロディーは一緒でしたが、歌詞は、私の知っているのとは、ちょっと違っていました。

「赤い花白い花ですね」
「良く知ってるね、昔、この近くにユースホステルがあって、そこで歌っていたんだよ」
「なんというユースホステルですか?」
「山田温泉ユースホステル」
「ふーーん」

 私は、久しぶりに「やまがたすみこ」さんを思い出し、あの美声を聞きたいと思いながら冬の夜空に輝く満点の星たちを眺めていました。そして、赤い花白い花を50すぎのオヤジさんと合唱していたのです。その日の夜は、歌を歌うことが、こんなにも嬉しいことであることを思い出した夜でした。

 さて「やまがたすみこ」さんとは、どんな人でしょうか?
 ありがたいことに今は、インターネット時代。
 顔も拝めますし、曲も聴けます。
 いい時代になりました。





林寛子とも一緒に歌っています。
「この広い野原いっぱい」ですね。
歌唱力が全然違います。





「この広い野原いっぱい」のカバーもしています。
しみじみと聞き惚れてしまいます。





 で、私が一番好きな歌です。
 NHKのみんなの歌が始まると
 テレビの前に走って聞きました。
 私が中学3年生の頃です。






 この後、結婚してメディアから消えていきますが、
 天才歌手がいるとしたら彼女のことでしょう。
 その彼女が歌う「赤い花白い花」は、まさに名曲でした。



 話しが大きくそれましたが、「赤い花白い花」を作った中林三恵さんは、現在も群馬県にお住まいです。そして北軽井沢にも来られるようで、北軽井沢の歌も何曲か作られています。例えば、こんな歌詞です。

http://www.d6.dion.ne.jp/~nkbmie/poem56.htm 二度上げ峠

 いつか、中林三恵さんにお会いできれば。そして、やまがたすみこさんにも、お会いしたいなあ。まあ、無理だろうけれど。でも、いつか然別湖にある山田温泉ユースホステルの跡地にも訪れてみたいというのが私の夢なのです。

http://505060.blog12.fc2.com/blog-entry-210.html
http://www.h-fukuhara.jp/yamada.html

つづく。

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posted by マネージャー at 14:43| Comment(8) | ユースホステルの話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月24日

ペアレント講習会に参加して8

ペアレント講習会に参加して8

 懇親会の話しの続きです。

 今回のペアレント講習会で楽しみにしていたことは、清里ユースホステルの渡辺マネージャーと、石和温泉ユースホステルの古屋マネージャーに会うことです。この2人は、とても楽しい人で、ペアレント講習会のたびに、ハメをはずして一緒に飲んだりします。この2人の素晴らしいところは、脳天気なところ。嫌なことがあっても、この2人と一緒にいるだけで、全て忘れてしまう。

 私が生まれて初めてユースホステルのペアレント講習会に出たときのことです。不安いっぱいで懇親会にでたのですが、知ってる人は誰もいなく、酒も喉に通りませんでした。そんな時に、元気づけてくれたのは、清里ユースホステルの渡辺マネージャーと、石和温泉ユースホステルの古屋マネージャーです。この二人は、底抜けに明るくて、そして酒好きでカラオケ好きです。ですから私を懇親会の二次会に誘ってくれました。

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 ところが、二次会では、超大物がでんと座っています。今は亡き、群馬県ユースホステル協会理事長の河野さんと、当時日本ユースホステル協会の部長だった小俣さんと、関東ブロック長の秋元さんという有名どころがいるのです。大物の前に小さくなっている私でしたが、石和温泉YHさんも清里YHさんも、そんなこと関係ないと、カラオケでドンチャン騒ぎをしました。
「うわー、2人とも大物だなあ」
と驚いていると、私にも歌えと言ってきます。

 仕方がないので、嘉門達夫の
「ハンバーガーショップ」
を歌ったら、これが馬鹿受け!

 いらっしゃいませこんにちわ!♪
 なれなれしいな、気安う声かけんな、初対面や!
 ご注文を
 てきとーに、握ってくれ
 いえ、あの、ハンバーガーのご注文を
 チーズバーガーひとつ
 お飲み物はいかがですか?
 いらん!
 ごいっしょにポテトなんかも
 いらんゆうたらいらん!いるときは、はじめから言う
 新発売の、テリヤキチーズ・・・
 しつこい!チーズバーガーだけでええ!
 こちらでお召上がりですか? それとも、お持ち帰りですか?
 どっちも、いや。
 ご注文くりかえしま〜す!
 チーズバーガー1個で繰り返すな!





 すると群馬県ユースホステル協会の事務局長
『オー・チン・チン』
を歌い出しました。

 子供の頃の雪の朝ー♪
 白く積もった庭に出てー♪
 チンチンつまんでオシッコでー♪
 雪に名前を書いたっけー♪

 オー・チン・チン♪
 オー・チン・チン♪






 これも馬鹿受け。
 この後は、暴走しっぱなし。
 私は思わず日本ユースホステル協会の小俣部長に

「いいんですか? 天下の日本ユースホステル協会が宴会で、このような歌を歌って」

 すると小俣部長は

「なに無粋なこといってるの、かわいいじゃない」

 orz。
 すると石和温泉YHさんと清里YHさんが、

「北軽井沢ブルーベリーさん、講演会の時に二十歳くらいの美人の女の子と話ししてたでしょう」
「え?」
「ほら、仲よさそうに談笑してたじゃない。あの子、誰よ」
「あ、あれは東京都ユースホステル協会の職員さんで、時々、うちに泊まりに来てくれる御客様です」
「呼んできてよ」
「えええええええええええええええええええええええええ?」


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 そのとき、事務局長の歌声が響いていました。

 オー・チン・チン♪
 オー・チン・チン♪


「呼んできてよ」
「えええええええええええええええええええええええええ?」
「わかった、おれが呼んでくるわ」
「はあ?」
「北軽井沢ブルーベリーさんの知り合いなんでしょ? 俺が呼んでくる。ブルーベリーさんがお呼びだよーーって」
「.....orz」

 1分後。
 ほんとに呼んできた。orz
 そのときも事務局長の歌声が響いていました。

 オー・チン・チン♪
 オー・チン・チン♪


 小俣さんも、そりゃ大喜び!



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 あれから10年たちました。小俣さんは、日本オートキャンプ協会に転職してしまい、日本ユースホステル協会にはもういません。河野さんも天国に召されました。諸行無常の鐘が鳴る。時のたつのは早いものです。

 話しをもどします。
 懇親会のことでした。

 懇親会の時にでてくるのが、二次会の根回しです。もちろん谷川岳ラズベリーユースホステルの曽原マネージャーが根回ししてきます。こういう才能は、曽原マネージャーにやらせたら天才です。曽原マネージャーは言います。

「佐藤さん、組長が二次会をやるそうですよ」
「組長の号令がかかったのか」

 組長というのは、関東ブロックのブロック長の大谷川ユースホステルのマネージャー菊池さんのことです。関東で一番人徳があるマネージャーで、それゆえに長年にわたってブロック長をやめられないでいます。本人は引退したがっていますが、関東ブロックの組長は、菊池さんしかありえないので、あと二十年は、やっていただきたいですね。

 二次会が決まると、私は、石和温泉YHさんと清里YHさんに声をかけました。この二人がいれば無条件に楽しくなるからです。あと、日本ユースホステル協会の宗像さんにも声をかけました。宇都宮出身の宗像さんも面白い人なのです。波光さんは、探したけれどいなかった。金星に帰ったのかなあ? あと勝沼ユースホステルの小西さんも。小西さんも面白い人なのでゲットです。新人マネージャーの那須ハイランドリゾートは、探したけれどいなかった。そのかわりに川根七曲宿ユースホステルのマネージャーを発見。これで面子が揃ったぞ!

 さて、二次会は、どうなる?


つづく。

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posted by マネージャー at 18:38| Comment(2) | 業界裏話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

茂田井宿 高札場

茂田井宿 高札場

 高札場は幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札(高札)を掲示した施設であり、江戸時代6万を越える全国の村々にありました。多くの人々の目に触れるように、村の中心や主要な街道が交錯する交差点といった人通りの多い場所に設置されることが多かったのですが、茂田井宿では、2つありました。これは非常に珍しいことです。

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たとえば神奈川県の東海道では、9つの宿場にそれぞれ1カ所ずつありました。いずれも江戸から京都に向かって街道の右側に設置されています。ところが、どういうわけか茂田井宿には2つあったわけです。

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文書は、紙ではなく木に書かれました。内容は、親孝行・博奕の禁止・忠孝の奨励・精勤・賛沢の禁止など、町人や農民の生活の規範とするもの、キリシタン、鉄砲、徒党の禁止、新田開発の奨励などです。 基本的なものは正徳元年(1711)に出された親子兄弟札、毒薬札、キリシタン札、火付札、駄賃札などです。

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 文字の読めない人のため、村人に読み聞かせるのも名主など村役人の仕事でもありました。高札の書き換えは、きまりの改正や老中の交替、年号の変わるたびに行われました。余り頻繁にあったため、8代将軍吉宗以後は書き換えず、正徳元年(1711)5月付の高札が幕末まで維持されました。


つづく。

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posted by マネージャー at 09:20| Comment(0) | 佐久 中山道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

茂田井宿 一里塚

茂田井宿 一里塚

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茂田井間の宿の急な上り坂(石原坂)を登りきると茂田井の一里塚があります。一里塚について「中国で路の側に一里毎に土を盛り、その崩れ去るのを防いでエンジュの木を植え旅人に木陰をあたえたという」と書かれてあります。

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 一里塚は、大きな道路の側に1里毎に旅行者の目印として設置した塚(土盛り)です。元々は中国起源のもので、塚の側に槐の木を植えたり標識を立てたりしていました。ただし、当時の中国での1里は約500メートルでした。

 日本では、平安時代末期に、奥州藤原氏が白河の関から陸奥湾までの道に里程標を立てたのが最初と言われています。室町時代の一休が「門松は冥土の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし」との歌を詠んでいます。

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 一里塚が全国的に整備されるようになったのは江戸時代。慶長9年2月4日、江戸幕府は日本橋を起点として全国の街道に一里塚を設置するよう指令を出しました。一里塚の設置は、大久保長安の指揮の元に行われ、10年ほどで完了しています。また、一里塚には榎などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されていました。

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現存する一里塚の多くは道の片側にのみ存在するが街道の両側に対で設置されるのが本来の姿です。

つづく。

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posted by マネージャー at 08:52| Comment(0) | 佐久 中山道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月23日

雷電爲右エ門の碑

雷電爲右エ門の碑です。
なぜか2つあります。
古いのと、新しいやつ。

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 佐久間象山の揮毫により文久元年(1861年)建立されています。突っ張り、張り手、閂を禁じ手とされた逸話も述べられています。この石碑の石片は勝負事に利益があるとしてたびたび削り取られ、明治期には碑文はもう読めないほどになっていたため、勝海舟、山岡鉄舟らの発起で新しい石碑が建立されました。というわけで現在新旧の両碑が並び立っています。

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 実は、私は、この碑文に願をかけ、
 ペアレント講習会で上京したときに
 宝くじ
 をかっちゃいました。

 宝くじ、民主党の事業仕分けで、発売禁止になりましたね。
 (なんかパチンコ利権のニオイがするなあ)

 駆け込みで、買っておいてよかった。

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つづく。

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posted by マネージャー at 22:00| Comment(0) | 東御市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

雷電爲右エ門の生家

雷電爲右エ門の生家です。

 シルマンウォークの時に、ときどき私はミステリーツアーを出しますが、このときは、雷電爲右エ門の生家に皆さんを連れて行きました。で、雷電爲右エ門について語る予定だったのですが、あいにく、すぐに出なければならなくなったので、ここで解説します。

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 この雷電爲右エ門の生家は、わかりにくい場所にあって、なかなかたどりつけないことでも有名ですが、さらに駐車場がないために、たんぼの畦道のようなところに車を止めるしかなく、それも、他の車が通行したら即アウトという、とんでもない観光施設です。実際、この時も、他の車がやってきたので、5分と見学できませんでした。

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これは家の中。
土俵があります。

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 雷電爲右エ門は、史上最強の力士です。力士生活21年、江戸本場所36場所中(大関は27場所)で通算で喫した黒星がわずかに10、勝率は9割6分2厘であり、大相撲史上、最強力士です。しかも雷電だけに禁止される技がある雷電ルールでのはなしです。つまり、ハンデをつけて、勝率96パーセントでした。強いのなんの。
 身長6尺5寸(197センチ)、体重46貫(172キロ)の筋肉質な巨人だったといわれ現存する雷電の手形は、長さ23.3センチ、幅13センチで、これは、ちかくにある道の駅で見られます。


つづく。

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posted by マネージャー at 21:53| Comment(0) | 東御市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月22日

ペアレント講習会に参加して7

ペアレント講習会に参加して7

つづきです。

 懇親会の話しの続きです。

 そろそろ酔いが回ってきた頃、
 那須ハイランドリゾートの小倉秀雄マネージャーと名刺交換。


小倉秀雄マネージャー
DSCF2343.jpg
http://www7b.biglobe.ne.jp/~nasu_highland_resort_yh/newpage33.html


 好青年ですね。語りあってしまいました。
 本当は北軽井沢でやりたかったらしいのですが、
 北軽井沢ブルーベリーYGHと数十メートルしか離れてなくて断念したとか。

 ペンションレアールか?
 ペンション北軽井沢か?

 でも北軽井沢は、激戦区なので宿業で生きていくのは難しいので、那須で正解だったと思いますよ。現に2つとも撤退する理由があったわけですからね。私は、しばし、このマネージャーと歓談しました。

「脱サラですか」
「脱サラです」
「よく奥さんが、許可しましたよね」
「最初は、冗談だと思われて相手にされなかったです」
「それを、どう口説いたんですか?」
「口説くというより、あきらめさせました」
「へえ? 簡単に、あきらめてくれたんですか?」
「簡単ではなかったです」

 そこに曽原マネージャーがやってきました。
 すると曽原マネージャーに挨拶する那須YHの小倉マネージャー。
 どうやら曽原マネージャーは、マネージャー研修会で講師をやっていたらしい。

「そのせつは、御世話になりました」
「いやいや、どうもどうも」

 ふーん、曽原マネージャー、先生だったのか。
 あ、曽原先生、また、どっか行っちゃった。
 今度は、あの人に酒つぎかあ。
 忙しい人だなあ。


    那須ユースホステル
photonasu.jpg
http://www7b.biglobe.ne.jp/~nasu_highland_resort_yh/


「それは、そうと那須YHさん」
「はい」
「那須でユースホステルやってて、何に一番驚きましたか?」
「そうですねえ、朝晩、猛獣の声がすることですかね」
「へえ・・・」

 北軽井沢にも、猛獣はいます。
 しかし、朝晩声はしません。
 那須って凄いんだなと素朴に感心しました。

 ちなみに北軽井沢と軽井沢は、全国で一番、クマの害の多いところです。クマというと北海道を思い出す人が多いと思いますが、北海道より軽井沢や北軽井沢の方が害が多いのです。嘘だと思うなら軽井沢町のホームページをみてください。クマの出没情報がありますから。これです。

http://www.town.karuizawa.nagano.jp/ctg/01006000/01006000.html

 あと、猛獣と言えばイノシシ。
 こいつはクマよりたちが悪い。

 意外に知られてませんが、北軽井沢の住人は子犬だけで散歩にでかけません。イノシシに食べられてしまうからです。と書くと、嘘だーと思うかもしれません。というのも、どの本にもイノシシは肉食しないと書いてあるからです。しかし、子犬を食べられたという人は北軽井沢に大勢いて、みんなイノシシには用心しているのです。さらに子犬の天敵がワシ、タカ、フクロウ、カラスなどの猛禽類。これにやられた子犬たちが何頭いたことか。

 おっと脱線しました。
 那須ユースホステルのマネージャーのことです。

「そうですか、那須にも猛獣がいるのですか」
「はい」
「北軽井沢にも多いですが、朝晩、猛獣の声がするということはないですねえ。野鳥の声はうるさいですけれど」
「・・・・」
「どんな猛獣の声がするんですか?」
「ライオンとか、キリンだとか、アフリカ象だとか....」

「はあ?」
「うちの隣がサファリパークなんです」

tora1.jpgZebra_Grant1.jpg


なーんやそれ!



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つづく。

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posted by マネージャー at 22:41| Comment(4) | 業界裏話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

芦田宿

芦田宿

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 芦田宿(あしだしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて二十六番目の宿場になります。難所であった笠取峠の東の入口にあたります。長六年(1601)江戸幕府は、大久保十兵衛・彦坂小刑部を中山道に派遣し、道路の整備に併せ次々に「宿駅」を街道の各所に置くように命令したことから、中山道の各所に宿駅が設けられました。

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 芦田宿は、慶長二年に岩間忠助・土屋右京左衛門によって「芦田宿立駅についての願文」が出され芦田宿が設立しています。これは、幕府が交通政策にのりだした慶長六年の4年前にあたり、北佐久では一番先に設立されたことになります。

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 本陣は、芦田宿設置とともに土屋右京左衛門が仰せつかり明治維新まで代々勤めてきました。現在残っているのは寛政十二年に建て替えられた客殿のみで、往時は高札場・問屋場・酒造蔵などがありました。明治維新までは、公家や諸大名の宿泊・休憩などに使われ、諸大名の宿札がたくさん残されています。

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 和宮は孝明天皇の皇妹で、文久元年(1861)公武合体政策の犠牲となり文久二年14代将軍家茂に嫁ぎました。この江戸へ下る際、芦田宿を通り本陣で昼食を取りました。

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つづく。

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ラベル:芦田宿
posted by マネージャー at 07:00| Comment(0) | 佐久 中山道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月21日

望月宿

望月宿

これは、望月歴史民俗資料館。

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望月地域の郷土の歴史や文化と暮らしについて学ぶことを目的に、平成3年8月に中山道望月宿の本陣跡地に開館。縄文式土器や石器、日本で初めて発見された石積みのある柄鏡形敷石(えかがみがたしきいし)住居跡の復元住居や平安時代から室町時代まで献上された望月牧の貢馬の様子などを展示。

開館時間午前9時〜午後5時
観覧料 一般300円

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江戸時代には本陣、脇本陣、問屋など29間が軒を並べ賑わったといいます。脇本陣・真山家屋敷(国重要文化財)など宿場の面影を残し、往時の繁栄ぶりを伝えています。


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道祖神というと同じ信州の安曇野が有名ですが、望月町は、140体の道祖神があり、その数は日本一です。その他にも地蔵、庚申塔、観音像や文字碑、祠形( ほこらがた)も合わせると、全部で3千以上もあるといわれています。人口密度ならぬ石仏の密度というものがあるとすれば、日本で2番目に密度が高いでしょう。ちなみに1番は佐渡島だと思います。

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つづく。

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ラベル:望月宿
posted by マネージャー at 22:24| Comment(0) | 佐久 中山道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ペアレント講習会に参加して6

ペアレント講習会に参加して6

つづきです。

 村田昭夫講師の講演会は、予定では、15時30分から18時までの2時間30分のはずでした。2時間30分の講演というのは、一般的に言って桁外れに長いです講演会というのは、どんなに長くても90分です。しかし、今回は、2時間30分。

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 で、案の定、話しは、90分で終わってしまった。残り時間は、60分もある。その60分で、質問時間としたのでしたが、さすがはユースホステル協会のマネージャー。60分どころか、30分の時間オーバーの90分間、質問攻めを行ったのが、日本ユースホステル協会のマネージャーたちでした。その質問たるや、なかなか鋭いところをついているのですが、相手は、のらりくらり。暖簾に腕押し状態。私は日光大谷川ユースホステルの菊池さんに
「どうして、こう手応え無いんですかね?」
と聞いてみたところ

「偉すぎるんだよ」
「はあ?」
「社長だもの、偉すぎて答えが一般論になりがちなんだよ」
「どういうことですか?」
「もっと、下の第一線で踏ん張っている現場の人間の方が、われわれの質問を理解して回答を答えてくれるものなんだ」
「なるほど」

 確かに、それはそうかもしれません。具体的な事例に対する回答は、現場の人間の方が詳しい。ということは、この方に、そういうものを要求する方が間違っていることになる。むしろ、大きな戦略や未来像を聞くべきだったのかと考えてしまいました。なぜグリーンツーリズムだと思ったのか? なぜグリーンツーリズムに感動したのか? どうしてグリーンツーリズムにはまったのか? そして、どのような未来像を描いているのか? そういうことを聞くべきだったのかなと少し後悔しました。

 なんやかんだで講演会が終わったのが18時30分。
 次は、懇親会です。
 19時30分から懇親会です。
 場所は、国立オリンピック記念青少年総合センターの国際交流棟です。


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 ここで国立オリンピック記念青少年総合センターについて説明しておきます。これは、もともとオリンピック選手村の跡地の一部を特殊法人オリンピック記念青少年総合センターとして利用したのが始まりですが、場所は、明治神宮の中にありました。

 このブログを愛読されている方は、もう御存じかと思いますが、明治神宮を建設したのは、全国の青年団たちの献身的なボランティアによってです。さらに明治神宮の御神木は、全国の少年たちの小遣い銭の寄付によって植樹されたものでした。その栄誉をたたえて明治神宮外苑に日本青年館が建設されることになります。

 ちなみに明治神宮には、内苑と外苑があります。
 国家が内苑を建設。
 外苑は、民間の寄付によって建設。
 その外苑に、代々木スタジアムや神宮球場が建設されました。
 大雑把に言えば、日本青年館もその一つです。


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 本来なら日本ユースホステル協会も、ここに存在してもよさそうなのですが、明治神宮建設の大正時代には、日本ユースホステル協会は、まだ存在してませんでした。日本ユースホステル協会が、この明治神宮に関わるのは、戦後、それも東京オリンピックの後です。明治神宮の一角に、オリンピック選手村が出来、その跡地に、国立オリンピック記念青少年総合センターができ、その一部を代々木ユースホステルとして貸し出したからです。

 ちなみに国立オリンピック記念青少年総合センターの初代会長は、高橋真照さんで、この方は、青年団関係の方で、日本ユースホステル協会をたちあげた横山祐吉氏の後輩でもあり、隠れたる親友でもありました。横山祐吉氏は、この方の力をお借りして、念願の明治神宮の一角に日本ユースホステル協会の足跡を残せたのです。しかし、残念ながら事業仕分けによって、ユースホステル協会は、追い出されそうになっています。

 話しをもどします。

 私は、ラズベリーユースホステルの曽原マネージャーと懇親会会場である国立オリンピック記念青少年総合センターの国際交流棟に向かいました。しかし曽原マネージャーは、あいかわらず忙しく走り回るので、すぐに私は一人残され、勝手に酒を飲み始めました。すると金星人波光さんを発見。

「よう! 波光さん!」

 あ、波光さんが微笑んでる。
 こいつは、ポイントが高いぞ!
 何か良いことあるかも!

 それにしても波光さんの名前は、凄い名字ですね。なにしろ波光ですからね。電波の波、いや光の波。何か相対性理論ぽい名前ですよね。いつかワープしそうな名前ですよね。こういう名前からして金星人と言われるのですかねえ。でも、最近の波光さんは、丸くなっていて、普通ぽくておもしろみにかけてきたなあ。


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と思っていると、波光さんは、私に新しく川根七曲宿(静岡県)ユースホステルのマネージャーになったばかりの北田誠さんを紹介してくれました。まずは名刺交換。

「川根七曲宿(静岡県)ユースホステルですか!」
「はい宜しく御願いします」

 波光さんは、すごい人気ユースホステルであると説明してくれました。

「おかげさまで・・・・でも、まだ独身なんですよ」
「結婚の予定は?」
「霧の中です。道さえ見えません」
「よかったら、うちのヘルパーや知り合いに婚活してる奴がいますけれど」
「ぜひ、御願いします」
「そういや波光さんも未だだったねえ、よかったら波光さんも、こんなのがいるんですけれど」

http://www.kaze3.cc/06-news/ketkon.htm

つづく。

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2010年05月20日

北軽井沢ブルーベリーYGHにくる野鳥 最新巣箱情報

北軽井沢ブルーベリーYGHにくる野鳥 最新巣箱情報

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つづく。

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posted by マネージャー at 11:22| Comment(2) | 自然−野鳥 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

望月宿 大伴神社

望月宿 大伴神社

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 こんなところに何故、大伴神社なのかと言いますと、真田氏は、大伴氏の流れをくんでいるからです。大伴神社の祭神は、月読命・須佐之男命・大己貴命・少名彦命・天忍日命・天道根命ですが、「天忍日命」は、大伴氏の祖です。「古事記」によれば、天孫邇邇芸命が筑紫日向の高千穂の嶺に天降りたときに、天忍日命、天津久米命の2神が天孫の御前に下がったとされていますが、天忍日命の子孫が大伴氏で、日本武尊東征のときに吉備武彦と共に従軍しています。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/keizu.htm

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 「日本書紀」の武烈天皇(499〜506)3年11月条に天皇が大伴室屋大連に「信濃国の男丁を発して、城を水派邑に作れとのたまふ。仍りて城上と日ふ」 とあります。また、日本霊異記に「大伴連忍勝は、信濃国小県郡嬢里の人なりき」ではじまる話があります。

 大伴氏が信濃国に関係していることが分かりますね。この流れに真田氏があるわけですが、大伴氏は、このあたりに牧場をつくり、東北を平定するための馬を生産し、軍事拠点をつくりました。そして、スパイ軍団まで作り上げたのですが、その末裔が真田氏だとも言われています。

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大伴氏の歴史
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/history1.html

つづく。

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posted by マネージャー at 08:56| Comment(0) | 佐久 中山道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月19日

茂田井宿3 大沢酒造

茂田井宿3 大沢酒造

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 敷地内には民俗資料館、しなの山林美術館、名主の館書道館が併設されており、訪れる旅人の目を楽しませます。創立が元禄という古い家なので、展示公開している宝物も多いです。

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 江戸時代は茂田井の庄屋を勤めていたらしく、酒も古くから造っていて、元禄二年の創業時の日本最古の酒が保存されていました。漆で封じられた古伊万里の壺の栓は昭和43年12月22日朝、東京のNHKスタジオで、醸造微生物学の泰斗坂口謹一郎博士ら立ち会いのもとで開栓された。よい香りが部屋一杯に広がり味はシェリー酒のようであったといわれています。


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純米酒 信濃のかたりべは、おすすめの1本です。米作りから酒造りまで、地元の人や大学のゼミ生など数多くの人の協力の下で造られた限定品です。もちろん試飲も出来ます。

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名主の館 書道館、 大澤酒造民俗資料館、 しなの山林美術館
料金:無料
営業時間:9:00〜4:00
定休日:年末年始
駐車場:大型駐車場有り
試飲:可

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posted by マネージャー at 08:45| Comment(2) | 佐久 中山道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月18日

ペアレント講習会に参加して5

ペアレント講習会に参加して5

つづきです。

 それにしても村田さん、ユースホステルマネージャーのいろんな質問に対して、かなり冷淡な回答を出していました。例えば、プレスリリースのコツを質問した人がいたのですが、「交渉しなさい(意訳)」と、とりつくしまもありません。

「・・・するには、どうしたらよいでしょうか?」

という質問に対しては、

「そんなうまい方法があったら私が知りたい」

と回答する始末。
これには大爆笑してしまいました。


 正直、言っていいですか?
 本音、言っていいですか?
 村田さん、大好きです!
 こんなお茶目な講師、今まで初めてです。



 しかし、皮肉なことですが、日本ユースホステル運動の原点が、今回の村田講師のような人によって作られているんですよね。日本ユースホステル運動の源流である日本青年団を創設した田澤義鋪は、こういう人だったのです。


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相談されても村田講師のように絶対に回答を出さなかった。
各自に考えさせ、各自に答えを見つけさせたのです。
この風習が日本青年団の伝統となり、
その事務局長であった横山祐吉氏によって、
日本ユースホステル協会に持ち込まれたのです。
そして、日本ユースホステル協会の伝統となった。

 私が日本ユースホステル協会とユースホステル契約をむすび、ペアレント講習会に参加したのは、今から10年前の2001年のことです。初めてペアレント講習会に出て何に驚いたかというと、ペアレント同志がお互いに相談し合い、お互いに解決方法をみつけていく、分科会・研修会に驚きました。

 正直言って、最初の頃、その分科会・研修会が不満でした。
「無駄なことをやるなあ」
と思っていました。

 だってペアレント同志が話し合っても、体制は何も変わらない。個々が何かをえたとしても、ユースホステル協会は、何一つ変わることがない。どんなに良い意見を出し合っても、それが体制に何一つ影響しない。こんな事は無駄なんじゃないかと。

 そう思ってました。

 これは私だけでなく、私と同時期にマネージャーになった人の大半が、同じ意見の持ち主でした。特に、みゆきのユースホステルの中村マネージャーは、ことあるごとに、そう言ってました。今は、どういうお考えかは知りませんけれどね。

 ところがリヒャルト・シルマン伝を書き、次は、横山祐吉伝と、中山正男伝だぞと、日本ユースホステル運動の源流を調査しているうちに、この無駄とも思える分科会が、非常に大切なものであり、その分科会の歴史の中に、日本ユースホステル運動の本質が隠されていることに気がついたのです。


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 日本ユースホステル運動の源流である田澤義鋪の思想は、自立にあります。田澤義鋪は、自分のことは自分で解決しなければならないと考えていたのです。学ぶだけではなく実践しなければならない。そのためには、自ら問題点をさがし、自らその解決方法をみつけだし、自ら実践しなければならない。そういう思想が、日本ユースホステル協会を立ち上げた横山祐吉まで繋がっていっているのです。だから横山祐吉氏は、イデオロギーや運動論を極端に嫌っていのです。


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 講師の村田昭夫さんは、それを知っていたかどうかは知りませんが、結果として、日本ユースホステル協会に相応しい講演会になったことは確かです。

 日本ユースホステル運動の原点である青年団運動の基本は、誰かに何かをしてもらうことではなく、自ら問題点をさがし、自らその解決方法をみつけだし、自ら実践しなければならない。それが横山祐吉氏が求めていた日本のユースホステル運動だったのです。一言で言うと、田澤義鋪精神が日本ユースホステル運動であった。



日本ユースホステル運動の原点を知りたい方は、
下記のカテゴリを御覧ください。
http://kaze3.seesaa.net/category/7464774-1.html


つづく。

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posted by マネージャー at 22:46| Comment(2) | 業界裏話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

茂田井宿2 武重本家酒造

今回のシルマンウォークは、茂田井宿2 武重本家酒造

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 武重本家酒造株式会社は、中山道の宿茂田井宿にあります。きもと造りが特徴で、建物は登録有形文化財となっています。武重本家酒造の裏に映画「たそがれ清兵衛」のオープンセットが作られ撮影が行われました。

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 現在、清酒業界は、規制緩和時代を生き残るために、近代化、省力化をどんどんと進めております。その中で、昔からの道具、技術、文化といったものが失われようとしています。

 この会社でも、米を蒸すための昔ながらの甑(こしき)は連続蒸米機になり、木の槽(ふね:酒を搾る装置) は連続圧搾機になりました。設備を近代化した際に、昔の道具をそのまま保存すればよかったのでしょうが、保存の場所、方法等の問題もあり、ほとんどのものを破棄してしまいました。写真すら残っていないとのこと。

 しかし、その後方針を立てて、残っている道具類を極力保存し、展示するように(といっても、単に並べるだけですが)心がけました。しかし、失われたものは多く、もう取り戻すことはできせん。

 失われつつあるのは、道具といった有形のものばかりでなく、無形物、技術もです。これは、道具より更に保存が難しい。なので昔ながらの「生もと造り」の技術を保存し、いまでも酒造りの中に活かしています。しかし、技術の進歩の名のもとに失われてしまった技術も当然あるそうです。

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 明治末期から大正時代の共進会に始まり、昭和14年、全国清酒品評会での優等賞受賞、長野県首位優勝旗授をはじめ、ほぼ毎年、長野県、関東信越国税局等での品評会に入賞および、幾度か首席優勝してます。

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 幕末のころ、皇女「和宮」さまはこの地を江戸に向下され、当家もその御一行の御宿の一つに選ばれました。今でも当時をしのぶ門前に下げられた「酒林」を見に訪れ、酒を賞でて帰られる方も多くおられます。

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 正面には、酒仙の歌人としてその名も高い若山牧水によるこの地で作り、また御園竹を詠み込んだ、有名な和歌を刻み込んだ石碑があり、訪れる人々の心をつかんでおります。

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つづく。

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posted by マネージャー at 09:57| Comment(2) | 佐久 中山道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする