2010年05月18日

ペアレント講習会に参加して5

ペアレント講習会に参加して5

つづきです。

 それにしても村田さん、ユースホステルマネージャーのいろんな質問に対して、かなり冷淡な回答を出していました。例えば、プレスリリースのコツを質問した人がいたのですが、「交渉しなさい(意訳)」と、とりつくしまもありません。

「・・・するには、どうしたらよいでしょうか?」

という質問に対しては、

「そんなうまい方法があったら私が知りたい」

と回答する始末。
これには大爆笑してしまいました。


 正直、言っていいですか?
 本音、言っていいですか?
 村田さん、大好きです!
 こんなお茶目な講師、今まで初めてです。



 しかし、皮肉なことですが、日本ユースホステル運動の原点が、今回の村田講師のような人によって作られているんですよね。日本ユースホステル運動の源流である日本青年団を創設した田澤義鋪は、こういう人だったのです。


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相談されても村田講師のように絶対に回答を出さなかった。
各自に考えさせ、各自に答えを見つけさせたのです。
この風習が日本青年団の伝統となり、
その事務局長であった横山祐吉氏によって、
日本ユースホステル協会に持ち込まれたのです。
そして、日本ユースホステル協会の伝統となった。

 私が日本ユースホステル協会とユースホステル契約をむすび、ペアレント講習会に参加したのは、今から10年前の2001年のことです。初めてペアレント講習会に出て何に驚いたかというと、ペアレント同志がお互いに相談し合い、お互いに解決方法をみつけていく、分科会・研修会に驚きました。

 正直言って、最初の頃、その分科会・研修会が不満でした。
「無駄なことをやるなあ」
と思っていました。

 だってペアレント同志が話し合っても、体制は何も変わらない。個々が何かをえたとしても、ユースホステル協会は、何一つ変わることがない。どんなに良い意見を出し合っても、それが体制に何一つ影響しない。こんな事は無駄なんじゃないかと。

 そう思ってました。

 これは私だけでなく、私と同時期にマネージャーになった人の大半が、同じ意見の持ち主でした。特に、みゆきのユースホステルの中村マネージャーは、ことあるごとに、そう言ってました。今は、どういうお考えかは知りませんけれどね。

 ところがリヒャルト・シルマン伝を書き、次は、横山祐吉伝と、中山正男伝だぞと、日本ユースホステル運動の源流を調査しているうちに、この無駄とも思える分科会が、非常に大切なものであり、その分科会の歴史の中に、日本ユースホステル運動の本質が隠されていることに気がついたのです。


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 日本ユースホステル運動の源流である田澤義鋪の思想は、自立にあります。田澤義鋪は、自分のことは自分で解決しなければならないと考えていたのです。学ぶだけではなく実践しなければならない。そのためには、自ら問題点をさがし、自らその解決方法をみつけだし、自ら実践しなければならない。そういう思想が、日本ユースホステル協会を立ち上げた横山祐吉まで繋がっていっているのです。だから横山祐吉氏は、イデオロギーや運動論を極端に嫌っていのです。


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 講師の村田昭夫さんは、それを知っていたかどうかは知りませんが、結果として、日本ユースホステル協会に相応しい講演会になったことは確かです。

 日本ユースホステル運動の原点である青年団運動の基本は、誰かに何かをしてもらうことではなく、自ら問題点をさがし、自らその解決方法をみつけだし、自ら実践しなければならない。それが横山祐吉氏が求めていた日本のユースホステル運動だったのです。一言で言うと、田澤義鋪精神が日本ユースホステル運動であった。



日本ユースホステル運動の原点を知りたい方は、
下記のカテゴリを御覧ください。
http://kaze3.seesaa.net/category/7464774-1.html


つづく。

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posted by マネージャー at 22:46| Comment(2) | 業界裏話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

茂田井宿2 武重本家酒造

今回のシルマンウォークは、茂田井宿2 武重本家酒造

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 武重本家酒造株式会社は、中山道の宿茂田井宿にあります。きもと造りが特徴で、建物は登録有形文化財となっています。武重本家酒造の裏に映画「たそがれ清兵衛」のオープンセットが作られ撮影が行われました。

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 現在、清酒業界は、規制緩和時代を生き残るために、近代化、省力化をどんどんと進めております。その中で、昔からの道具、技術、文化といったものが失われようとしています。

 この会社でも、米を蒸すための昔ながらの甑(こしき)は連続蒸米機になり、木の槽(ふね:酒を搾る装置) は連続圧搾機になりました。設備を近代化した際に、昔の道具をそのまま保存すればよかったのでしょうが、保存の場所、方法等の問題もあり、ほとんどのものを破棄してしまいました。写真すら残っていないとのこと。

 しかし、その後方針を立てて、残っている道具類を極力保存し、展示するように(といっても、単に並べるだけですが)心がけました。しかし、失われたものは多く、もう取り戻すことはできせん。

 失われつつあるのは、道具といった有形のものばかりでなく、無形物、技術もです。これは、道具より更に保存が難しい。なので昔ながらの「生もと造り」の技術を保存し、いまでも酒造りの中に活かしています。しかし、技術の進歩の名のもとに失われてしまった技術も当然あるそうです。

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 明治末期から大正時代の共進会に始まり、昭和14年、全国清酒品評会での優等賞受賞、長野県首位優勝旗授をはじめ、ほぼ毎年、長野県、関東信越国税局等での品評会に入賞および、幾度か首席優勝してます。

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 幕末のころ、皇女「和宮」さまはこの地を江戸に向下され、当家もその御一行の御宿の一つに選ばれました。今でも当時をしのぶ門前に下げられた「酒林」を見に訪れ、酒を賞でて帰られる方も多くおられます。

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 正面には、酒仙の歌人としてその名も高い若山牧水によるこの地で作り、また御園竹を詠み込んだ、有名な和歌を刻み込んだ石碑があり、訪れる人々の心をつかんでおります。

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つづく。

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posted by マネージャー at 09:57| Comment(2) | 佐久 中山道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする