2010年05月22日

ペアレント講習会に参加して7

ペアレント講習会に参加して7

つづきです。

 懇親会の話しの続きです。

 そろそろ酔いが回ってきた頃、
 那須ハイランドリゾートの小倉秀雄マネージャーと名刺交換。


小倉秀雄マネージャー
DSCF2343.jpg
http://www7b.biglobe.ne.jp/~nasu_highland_resort_yh/newpage33.html


 好青年ですね。語りあってしまいました。
 本当は北軽井沢でやりたかったらしいのですが、
 北軽井沢ブルーベリーYGHと数十メートルしか離れてなくて断念したとか。

 ペンションレアールか?
 ペンション北軽井沢か?

 でも北軽井沢は、激戦区なので宿業で生きていくのは難しいので、那須で正解だったと思いますよ。現に2つとも撤退する理由があったわけですからね。私は、しばし、このマネージャーと歓談しました。

「脱サラですか」
「脱サラです」
「よく奥さんが、許可しましたよね」
「最初は、冗談だと思われて相手にされなかったです」
「それを、どう口説いたんですか?」
「口説くというより、あきらめさせました」
「へえ? 簡単に、あきらめてくれたんですか?」
「簡単ではなかったです」

 そこに曽原マネージャーがやってきました。
 すると曽原マネージャーに挨拶する那須YHの小倉マネージャー。
 どうやら曽原マネージャーは、マネージャー研修会で講師をやっていたらしい。

「そのせつは、御世話になりました」
「いやいや、どうもどうも」

 ふーん、曽原マネージャー、先生だったのか。
 あ、曽原先生、また、どっか行っちゃった。
 今度は、あの人に酒つぎかあ。
 忙しい人だなあ。


    那須ユースホステル
photonasu.jpg
http://www7b.biglobe.ne.jp/~nasu_highland_resort_yh/


「それは、そうと那須YHさん」
「はい」
「那須でユースホステルやってて、何に一番驚きましたか?」
「そうですねえ、朝晩、猛獣の声がすることですかね」
「へえ・・・」

 北軽井沢にも、猛獣はいます。
 しかし、朝晩声はしません。
 那須って凄いんだなと素朴に感心しました。

 ちなみに北軽井沢と軽井沢は、全国で一番、クマの害の多いところです。クマというと北海道を思い出す人が多いと思いますが、北海道より軽井沢や北軽井沢の方が害が多いのです。嘘だと思うなら軽井沢町のホームページをみてください。クマの出没情報がありますから。これです。

http://www.town.karuizawa.nagano.jp/ctg/01006000/01006000.html

 あと、猛獣と言えばイノシシ。
 こいつはクマよりたちが悪い。

 意外に知られてませんが、北軽井沢の住人は子犬だけで散歩にでかけません。イノシシに食べられてしまうからです。と書くと、嘘だーと思うかもしれません。というのも、どの本にもイノシシは肉食しないと書いてあるからです。しかし、子犬を食べられたという人は北軽井沢に大勢いて、みんなイノシシには用心しているのです。さらに子犬の天敵がワシ、タカ、フクロウ、カラスなどの猛禽類。これにやられた子犬たちが何頭いたことか。

 おっと脱線しました。
 那須ユースホステルのマネージャーのことです。

「そうですか、那須にも猛獣がいるのですか」
「はい」
「北軽井沢にも多いですが、朝晩、猛獣の声がするということはないですねえ。野鳥の声はうるさいですけれど」
「・・・・」
「どんな猛獣の声がするんですか?」
「ライオンとか、キリンだとか、アフリカ象だとか....」

「はあ?」
「うちの隣がサファリパークなんです」

tora1.jpgZebra_Grant1.jpg


なーんやそれ!



xswedc-7.jpg



つづく。

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posted by マネージャー at 22:41| Comment(4) | 業界裏話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

芦田宿

芦田宿

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 芦田宿(あしだしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて二十六番目の宿場になります。難所であった笠取峠の東の入口にあたります。長六年(1601)江戸幕府は、大久保十兵衛・彦坂小刑部を中山道に派遣し、道路の整備に併せ次々に「宿駅」を街道の各所に置くように命令したことから、中山道の各所に宿駅が設けられました。

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 芦田宿は、慶長二年に岩間忠助・土屋右京左衛門によって「芦田宿立駅についての願文」が出され芦田宿が設立しています。これは、幕府が交通政策にのりだした慶長六年の4年前にあたり、北佐久では一番先に設立されたことになります。

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 本陣は、芦田宿設置とともに土屋右京左衛門が仰せつかり明治維新まで代々勤めてきました。現在残っているのは寛政十二年に建て替えられた客殿のみで、往時は高札場・問屋場・酒造蔵などがありました。明治維新までは、公家や諸大名の宿泊・休憩などに使われ、諸大名の宿札がたくさん残されています。

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 和宮は孝明天皇の皇妹で、文久元年(1861)公武合体政策の犠牲となり文久二年14代将軍家茂に嫁ぎました。この江戸へ下る際、芦田宿を通り本陣で昼食を取りました。

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つづく。

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ラベル:芦田宿
posted by マネージャー at 07:00| Comment(0) | 佐久 中山道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする