天文十(1541)年、武田信虎(信玄の父親)、諏訪頼重、村上義清は連合して海野平に侵攻し、海野氏を攻めました。そして敗れた海野氏と真田幸隆は、嬬恋村の羽尾幸全を頼りました。そして真田幸隆は、武田信虎を追い出して甲斐国主となった武田晴信(信玄)に仕官します。
真田幸隆は、武田家の家臣となるわけですが、
その武田軍団も村上義清に全く敵わなかった。
負けまくった。
村上義清は、ものすごく強かった。
武田軍は、ボロ負けしてしまった。
そこに現れるのが真田幸隆です。武田軍が全く歯が立たなかった戸石城を、なんと独力で城を乗っ取り、村上義清を真田の地から追い出したのです。といっても戦って勝ったのではありません。謀略で追い出したのです。おそらく山伏のネットワークを使ったと思われます。別の言葉で言えば、忍者を使ったわけですね。
真田氏館はこの頃から、幸隆が没する天正二(1574)年までの間に、平素の居館として構築されたと推定されます。あえて小さい平城にしたのは、山伏や忍者の出入りが簡単になるためかもしれません。真田一族は、武力よりも情報を重視していましたから。
ちなみに、この時代の山伏は、医者でもあります。
いろんな所に出入りできる身分であることも、
情報を得やすい立場でもありました。
幸隆の死後は信綱が跡を嗣ぎましたが、天正三(1575)年、長篠・設楽ヶ原の合戦で信綱・昌輝兄弟は織田信長・徳川家康連合軍に破れ、幸隆の三男(真田昌幸)が真田家を相続しました。天正十(1582)年三月に武田氏が滅亡し、昌幸は織田(滝川一益)、北条氏政、上杉景勝、徳川家康と四回主人を代えました。
天正十一(1583)年に真田昌幸が上田城を築城開始し、天正十三(1585)年に移りました。真田氏館は廃されましたが、現在敷地に建つ皇大神宮は、昌幸が居を移すにあたり、旧館敷地の荒廃を防ぐために勧進したものだと伝えられます。しかし、これは表向きでしょう。本当は・・・・・?
つづく
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