馬喰一代 中山正男の故郷3
ハッカは、最強のハーブでした。
古くは漢方薬として使われましたし、
抗菌性が強いために防腐剤や防虫剤や芳香剤としても偉大な力を発揮しました。
特にダニに対する効果が強く、どんなダニも殺虫しました。
アリやゴキブリもハッカの威力で姿を消し、
ネズミさえもよせつけません。
だから有力な殺虫剤が存在してなかった頃は、
それに代わるものとして世界中の人々が北見のハッカ脳(結晶)を買い求めました。
日本のハッカ結晶(ハッカ脳)は、世界各地に輸出されました。
ハッカの結晶は、日本で栽培されていた和種ハッカでないと精製できませんでしたから、
ハッカ結晶の世界市場は日本の独占状態となりました。
特に北見地方のハッカが世界市場を制圧しつつありました。
その理由は、北見地区が自然条件の厳しい
「日本最後の開墾地」
であったことにあります。
雑草が強く荒れた土地を開墾するには、非常に大きな労力が必要となります。
麦であっても、大豆であっても、壮絶な自然との闘いが必要なのです。
仮にやっと穀物が実ったとしても、鹿や熊たちが遠慮なしに食べにやってきます。
でもハッカの栽培には、そんな苦労はいりませんでした。もともと強い雑草であるために、他の雑草との戦いに負けることはないし、その実りを熊や虫たちに奪われることもありませんでした。そのうえ北見は、もともとハッカ生産の処女地であったために、他のハッカ品種との交配による害も少なく、純度の高いハッカ生産ができ、良質な製油と結晶を生産できました。
しかし、なにより北見の人たちがハッカを栽培した最大の理由は、もっと別の所にありました。輸送の問題です。北見市は、北海道の一番遠い内陸にあります。そこから豆などの穀物を市場に輸送するには、莫大な経費がかかるのです。これでは市場競争に勝てません。
しかし、ハッカとなれば別です。
ハッカなら、ハッカの輸送は考えなくても良い。
ハッカを精製し、製油や結晶に変えてしまえば、加工品は、かなり小さくなって輸送費もかからないし、付加価値も大きくなります。そういう意味で、ハッカくらい北見の産業に適したものはなかったのです。そのために最盛期には、栽培面積2万ha、取卸油収穫量千トンという膨大な数字が記録されています。そして、それらから湿布薬・筋肉痛薬・メンソレータム・ドロップ・セキ止め薬・胃腸薬・かぜ薬・目薬・かゆみ止め・育毛剤・水虫薬・虫よけ・抗菌剤・歯磨き粉・仁丹・口臭除去剤・シャンプー・化粧品・石鹸・洗剤・などが生産され世界中に輸出されました。
しかし、「ハッカが儲かる」と言う話しが全国に伝わると、日本中の事業家が北見に集まりました。そして商魂たくましい仲買人が暗躍し、ハッカで一旗あげようと色々な手段を講じるようになってきたのです。
北見ハッカ記念館の施設長佐藤敏秋さんは言います。
「仲買人たちは、非常にうまく立ち回りました」
「というと?」
「カルテルを結んで、農民たちからハッカを安く買いたたこうとしました」
「でも農民もバカじゃないですよね」
「はい。しかし、仲買人は、一筋縄ではいかない連中なんですよ」
「・・・」
「例えば、Aという仲買人が、ある農家の所に買い付けに行きます。相場が45円なので45円で売ってくださいと言うのです。農家は、安すぎると言って売りません。しかし、Aという仲買人は、アッサリひきさがります」
「ほう」
「次の日、今度はBという仲買人が、その農家の所に買い付けに行きます。相場が45円から40円に下がったので、40円で売ってくださいと言うのです。農家は、安すぎると言って売りません。もちろん、Bという仲買人は、アッサリひきさがります」
「・・・」
「そして、その次の日、今度はCという仲買人が、その農家の所に買い付けに行きます。相場が40円から35円に下がったので、35円で売ってくださいと言うのです。こうなると、さすがに強気だった農家も、不安になってくる。ハッカが暴落するのではないかと、気が気でない。そこをつけ込んで『ハッカの値段が暴落していく可能性があるから早く売った方がいいよ』と忠告する。しかし、それでも農家が断ると、Cという仲買人も、アッサリひきさがります。決して無理強いしません」
「・・・」
「そして、そのまた次の日、今度はDという仲買人が、その農家の所に買い付けに行きます。相場が35円から30円に下がったので、30円で売ってくださいと言うのです。こうなると農家も、かんねんして30円で売ってしまうのです」
「それじゃ詐欺みたいなものじゃないですか」
「そうです。そのために泣いた農家が何軒もあり、儲けるところはドンドン儲けました」
これがカルテルの本質です。
こういう事があるから近代国家は、
独占禁止法という法律でカルテルを禁止しているのです。
しかし、開拓時代の北海道には、海千山千の欲の塊が跋扈しており、
ちょっとでも油断していたら生き血を吸われるのがあたりまえでした。
そのへんは西部開拓時代のアメリカと似ているかもしれません。
このへんの事情は、映画『馬喰一代』をみると、非常によくわかります。
実によく描かれています。
さらにハッカ記念館の施設長佐藤敏秋さんは言います。
「仲買人たちは、非常に情報を集めました。情報は金になったのです」
「どんな情報ですか?」
「農家へ挨拶まわりに行くのです。そして世間話をしてくる。で、その農家に金があるかどうかを調べるのです。金があれば、相場が上がるまでハッカを売ってくれない。しかし、金が無くなれば、相場が下落してもハッカを売ってくれる。安くハッカを手に入れるには、そのへんの情報が無いといけない」
「なんとまあ・・・・」
「それで、さまざまな手段で情報を仕入れるわけです。馬喰なんかを使って農家の情報を仕入れるわけです」
ここで私は、本題にはいりました。
「北見市には馬喰が多かったですか?」
「多かったですねえ」
「いつ頃まで多かったのでしょうか?」
「昭和35年頃まで大勢いました」
「なぜ馬喰が多かったのでしょう?」
「昭和35年頃までは、北見市に車もトラクターも無かったんです。動力はもっぱら馬なんです。馬がなければ話にならなかった。だから大勢の馬喰がいたんです」
「では、基本的なことを聞いて良いですか?」
「どうぞ」
「馬喰って何なんですか? ものの本によれば、家畜商とあります。辞典で調べても家畜商。インターネットで検索しても家畜商と出てきますが、家畜商のことを馬喰と言うのですか? もし家畜商が馬喰のことだとすると、どうして中山正男は、みんなから蛇蝎のごとく嫌われたと書いたのでしょう? 本当に家畜商が馬喰のことを言うのでしょうか?」
施設長佐藤敏秋さんは言いました。
「違います」
つづく
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