2010年12月31日

1日・2日男性1名キャンセルでました。

2010年が終わろうとしていますが、みなさん、いかがお過ごしでしょうか?
業務連絡です。
1日・2日男性1名キャンセルでました。
3日は、もう少し(4名)泊まれます。
御検討くださいませ。

つづく

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2010年12月30日

インターネットとユースホステル3

インターネットとユースホステル3

 19世紀まではプロパガンダということばがよく使われました。
 いわゆる宣伝のことです。
 (プロパガンダを訳すと『宣伝』になる)

 しかし、過度な宣伝の弊害に気がついた欧米諸国は
 企業の自己修正のため生まれた宣伝方法、
 つまりPR(広報)を発見します。
 このPR(広報)は、一種の革命思想でした。

 PRとは、相手に行動させるための仕組みでなく、
 自分を修正するための宣伝がPRであり
 それによって、相手を感動させるのがPRなのです。

 では、ユースホステル運動におけるPRとは何か?
 日本ユースホステル協会を創設した横山祐吉氏は、

「PRは人生であると考えてもいいです(横山祐吉談)」

 と言いました。つまり、ユースホステル運動とは、自らの人生をもって青少年の生活を豊かにする。青少年の生活を変えていく。考え方を変えていく。よい環境を作っていく。それがユースホステル運動の目的であると、1970年の10月21日に言い切ったのでした。

 もう一回言います。
 1970年の10月21日に言ったのです。

 2010年に言ったのなら、私は別に驚きはしません。そんなこと「当たり前」だからです。しかし、1970年といえば、宿という入れ物を作り、宣伝広告をうてば黙ってでも御客さんがジャンジャンやってきた高度経済成長期ですから。旅行会社と提携し、観光バスを走らせれば、御客さんは殺到したのが1970年でした。そういう時代に「PRは人生であると考えてもいいです(横山祐吉談)」と言って、

「PR担当者は、常に勉強し、想像力を豊かにしていくことが大切で、詩・文学・絵画・社会観など、あらゆる知識を身につけていなければなりません。その教養によって、はじめて、人の心をつかむ適切なPRができることになるのだと思います」

と語った横山祐吉氏の先見の明には、感服せざるをえません。横山祐吉氏は、ユースホステル関係者に変化を求めていたのですね。そして、その変化は人に言われてやるのではなく自らが勉強して体得せよと言っているのです。





 ここで私の体験を述べます。

 北軽井沢ブルーベリーYGHが、日本ユースホステル協会とユースホステル契約を結びユースホステルになった時、年に1回のマネージャー研修会なるものに強制参加させられることになりました。で、何をするかと言いますと、マネージャーどうしが話し合うのです。まあ、それは良いとして、マネージャーどうしが話し合って、有意義な意見がいっぱい出たとします。それで終わるんです。貴重な意見は、本部で実行されるわけではない。どこかで反映されるわけでもない。

 つまり何も変わらない。
 言いっぱなしになる。
 まず、これに驚きました。

 新人マネージャーになればなるほど、ここに不満が爆発していました。みゆきのユースホステルのペアレントさんなんかは、その急先鋒だったと思います。他の新人マネージャーさんたちも、似たり寄ったりでしたし、私も同じく不満でした。で、先輩マネージャーらに
「前からこうなんですか?」
と聞きました。すると
「私が知る限り二十年前からですが、創設以来の伝統でしょう」
と聞いてガックリきたことがあります。

 ところが、創設以来どころか、もっと大昔からそうであったことを知って驚きました。大正時代からの伝統だったのです。日本青年団の伝統でした。横山祐吉氏は、日本青年団の事務局長であり、田澤義鋪・下村湖人・熊谷辰治郎の弟子だったのです。そして、日本青年団を創設した田澤義鋪は、トップダウンを嫌い、下から変えていくことを推奨する人だった。





 しかも田澤義鋪は、本人は自覚してないでしょうが、世界で初めてPRを発明して実践した人でした。自分を修正するための宣伝を発明し実行したのです。具体的に何をしたかと言いますと、青年たちと一緒に暮らして講習会を行い、自分を変え青年たちを変えていった。そして青年たちの団体をつくり大きくしていった。つまり身体をはったPR活動をして、青年団を拡大していったのです。もちろん本人は無自覚でしょうが。

 それを横山祐吉氏は、よく知っていました。だから

「ユースホステルは若人の生活の場です。
 この生活に密着したPR活動でないと効果が上がらない、
 若人の人生観と離れてPRはありません」

 と講演したのです。
 そして

「PRは人生であると考えてもいいです」

 と断言したのですね。

 つまり、上から組織を変えていっては駄目だというのが日本青年団から日本ユースホステル協会に受け継がれていった精神だったわけです。田澤義鋪の系統の思想とは、個人個人が自主的に改革していく。自助の精神で生きていく。そして下から上を支えていく。決してトップダウンではない。むしろトップは御神輿でいいとさえ思っている。そういう日本青年団の精神が、日本ユースホステル協会の屋台骨になっていった。少なくとも横山祐吉氏は、そのつもりでいた。ところが横山祐吉氏は、それを下の者に分かりやすく説明せずに死んでしまった。もしかしたら、わざと説明しなかったのかもしれない。とにかく、下の者に何も言わなかった。

 でも、たまにボカして言うこともあった。
 ユースホステル新聞の内報版に書いてあったりした。
 その一つが
「PRは人生であると考えてもいいです」
という言葉だったりします。

 ここから先は、私たちユースホステルマネージャーが考えるべきことですが、私たちユースホステルはベットを売ることだけを考えては駄目だということです。それでは、ペンションやホテルと何ら変わることがない。これではユースホステルのPRはうまくいかない。

 高度経済成長時代の1970年。
 当時のユースホステルは、若人の生活の場でした。
 当時の学生たちは、田舎から上京して淋しかった。
 情報が少なくて、どっちを見て良いかわからなかった。
 だからサークルに入ったり旅に出たりした。

 旅に出ると、そこには情報があり仲間がいた。
 多くの人生があり、未来があり、過去があった。
 旅は、一種のインターネットでした。

 これは幕末の頃から変わってなかった。維新の志士たちは、全員旅人でしたが、旅というインターネットによって情報を入手していたからこそ、明治維新で主導権を握れたわけです。彼らにとっては、旅は人生でもありました。もちろん明治維新後も旅を続けました。維新の元勲たちは、維新を成功させた後も、日本を留守にして全世界に旅立ちました。いわゆる遣欧使節団です。こういう政府は、世界に一つしかありません。革命後、首脳部全員が旅に出かけるなんて聞いたことがありません。





 しかし、時代が変わって2010年12月30日。
 インターネットの普及によって
 世界は劇的にかわりつつあります。

 良くも悪くもユースホステルが、インターネットであった時代は終わり、逆にユースホステル関係者がインターネットを使って情報発信していく時代になりました。もし、横山祐吉氏が、この時代をみたら何と言ったでしょうか? きっと、こう言ったに違いありません。

「インターネットで自らの人生を語れ」
「インターネットで若者と語りかけなさい」


と。





つづく。

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2010年12月29日

インターネットとユースホステル2

インターネットとユースホステル2

 ユースホステル新聞は、ただものではなかった。
 ユースホステル新聞は、毎月3回発行されていました。

 会員版・PR版・内報版

と、3回発行されていて、ユースホステル関係者は、PR版や、内報版も見るチャンスがあったのです。

 PR版には、ユースホステル業界のことや、新しく設置されたユースホステルについての情報が載っていました。内報版には、日本ユースホステル協会の状況や、ユースホステルの理念や、海外の情報や、トラブルの事例や、御客さんの生々しいクレームなどが掲載されていました。他所には見せることの出来ない関係者限定でみる極秘メモなんかもあったりしました。会長や理事長の講演の要旨なども載っていたりしました。

 これら3種類の新聞によって、私たちユースホステルマネージャーは、全国のユースホステル業界状況を逐一知ることができ、御客さんの口コミと合わせて大きな情報網をもっていたのです。しかし、残念なことにユースホステル新聞は、全て廃止になります。ユースホステル新聞への補助金が認められなくなってしまったからです。

 では、ユースホステル新聞の内報版とは、どういうものであったのか?
 それが『もの凄い新聞』だったのです。
 私は、過去の内報版を読む機会があったのですが、
 目から何度も鱗が落ちたものです。

 2000年以降に流行った最新のマーケッティング理論が、1970年頃にユースホステル新聞内報版に書かれてある。かってのユースホステル新聞は、信じられないほど中身が濃かったのです。昭和40年代に日本ユースホステル協会が、一人勝ちするのも無理ないな。これならありえると思ってしまう。それほどまでに内容のあるユースホステル新聞(内報版)を作っていた時期があった。内報版は、これを読める立場にあるか、無いかによって、あきらかに経営者としての差がつくたぐいの情報誌でした。

 しかし、当時のユースホステルマネージャーたちは、その内報版を真面目に読んでいたでしょうか?
 真面目に読んでいなかった可能性がある。
「へん、ふざけやがって」
「上は、何もわかっちゃいない」
「現場の苦労も知らないで」
と無視していたユースホステルマネージャーが多かったかもしれない。いや、それ以前に、書いてある内容に全く興味が持てなかったかも知れない。というのも、狭い誌面のために、書いてある内容の多くが簡潔すぎて不親切な文になっているからです。





 今回は、そんなユースホステル新聞内報版の一部を紹介してみましょう。

 1970年11月号の内報版です。
 見出しは、こうなっています。

 全国ユースホステル広報担当者会議。
 10月21日−23日甲府ユースホステル
 31都道府県から36名集めて開催

 ユースホステル運動の発展めざし広報活動の推進策を検討。全国ユースホステル協会広報担当者会議は10月21〜23日の二泊三日にわたり、山梨県甲府ユースホステルを会場に、31都道府県から36名の広報担当者を集めて開催された。(略)

 記事には、2泊3日のスケジュールが細かくかかれてあります。初日は、日本ユースホステル協会を創設した横山祐吉理事長の講義がありました。その講義の内容が、すごいのです。ユースホステル新聞には、要旨しか書いてありませんが、要旨であるのに中身が濃いのですね。ちょっと紹介してみましょう。



横山祐吉講義要旨

 ユースホステル運動のPRは、人間関係の結びつきのある会員仲間を対象として働きかける、すなわち「クチコミ」が最も効果的です。その一方で、難しいと言われるPRは、無関心な者を説得する方法です。PRにはこの二つの異った要素を考えて行われなければなりません。

 ユースホステルは若人の生活の場です。
 この生活に密着したPR活動でないと効果が上がらない、
 若人の人生観と離れてPRはありません。


 PRは人生であると考えてもいいです。

 PRすることによって青少年の生活を豊かにする。
 青少年の生活を変えていく。
 考え方を変えていく。
 よい環境を作っていく。
 それがPRの目的です。

 そのためにはPR担当者は、常に勉強し、想像力を豊かにしていくことが大切で、詩・文学・絵画・社会観など、あらゆる知識を身につけていなければなりません。その教養によって、はじめて、人の心をつかむ適切なPRができることになるのだと思います。(以下・略)





 どうして、横山祐吉氏は、このような事を言ったか?
 実は、彼の師匠である田澤義鋪・熊谷辰治郎・下村湖人の影響がある。
 田澤義鋪・熊谷辰治郎・下村湖人を知るものなら
 横山祐吉氏の意図はすぐにわかる。
 人間の徳をもって世の中を変えていこうというのが、3人の思想ですから。

 しかし、この講義を受けた広報関係者たちは「ぽかーん」と聞いていた可能性がある。「わけの分からんことを言うなあ」と思っていた可能性がある。というのも、横山祐吉氏は、自らの思想の背景を少しも説明したことがないひとだから。だから
「PRは人生であると考えてもいいです」
という彼の発言の意味が受講者に正確に伝わったかどうか疑問なのです。






 しかし、日本ユースホステル協会は、2日目に凄い講師を招待しています。
 博報堂のPR本部の次長・佐藤彰講師です。
 この佐藤彰講師が、PRとは何であるかを分かりやすく解説しています。
 講義要旨の一部を紹介しましょう。





佐藤講師の講演要旨

 PR(Public Relation)のことばは、一九世紀ごろアメリカから起こりました。その頃のアメリカは資本主義の爛熟期を迎え、企業の伸び悩みで、この批判、反省のなかから生まれました。それまでは企業内だけに目を向けていたものが、外部にも目を向ける必要に迫られていました。すなわち消費者の利益をも考え合わせることでPRが重視されるようになりました。

 PRは思想の革命ともいえるわけです。

 PR以前にプロパガンダということばがよく使われました。一八世紀ごろの西欧においてキリスト布教に河いられたことばで、その後戦争宣伝にも使われるようになり、歴史的背景によって、そのことばの意味するところもちがってきました。プロパガンダは、宣伝者の意図するところに相手を導くことが目的で、その手段のためには、誇張・欺瞞(ぎまん)・虚偽の介入も止むを得ないものとされていました。

(著者注−プロパガンダを翻訳すると『宣伝』になる。宣伝とはプロパガンダのことである)

 しかし、プロパガンダに対しPRは
 企業の自己修正のため生まれた宣伝方法
 ですので、
 相手側の利益を度外視することは許されていません。

 とかく一般には、このプロパガンダとPRを混同して使われ勝ちですが、
 その意義は全くちがっていることを理解してほしいのです。

 コミュニケーションの様式からみた場合、従来の宣伝は一方的でしたが、
 PRは二方向的であるといえます。(以下・略)





 佐藤講師は、このあとPRの方法論を説明していますが、
 方法論については、すでに前日に横山祐吉氏が答えをだしています。

「PRは人生であると考えてもいいです(横山祐吉談)」

 つまり、ユースホステル運動とは、自らの人生をもって
 青少年の生活を豊かにする。
 青少年の生活を変えていく。
 考え方を変えていく。
 よい環境を作っていく。
 それがユースホステル運動の目的であると!

 博報堂の佐藤講師は、
「PRとは、企業の自己修正のため生まれた宣伝方法である」
と言いました。

 ならばユースホステル関係者による自己修正とは何であったのか?



つづく。

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2010年12月28日

インターネットとユースホステル1

インターネットとユースホステル。

 いまでこそ盛んなインターネットですが、日本に普及しはじめたのは、阪神大震災ののあった1995年。たかが15年前のことです。しかも、常時接続のブロードバンド化が始まったのは、2000年頃で、一般に普及しはじめたのは、2003年頃でした。それまではインターネットなんかは、無いのも一緒でした。

 で、インターネットの普及と共に、衰退していったものがあります。
 ユースホステルです。
 インターネットとユースホステルには、何らかの競合関係があったのです。

 インターネットが登場する前までは、ユースホステルがインターネットの代わりをしていた時代がありました。ユースホステルは出会い系であり、情報の発信源であり、存在そのものがインターネットでもありました。巨大な口コミサイトであったのです。





 それが証拠にユースホステルくらい栄枯盛衰(えいこせいすい)の激しい業種はありませんでした。日本有数の人気ユースホステルが、たった3年くらいで閑古鳥が鳴くなんてことは、普通にありえました。ユースホステルのネットワークそのものが巨大な口コミサイトであったために、少しでも宿が手を抜くと、アッというまに悪口が広まり御客さんが消えてしまうのです。そのぐらいユースホステルの口コミは凄かったのです。

 各種の観光ガイドの本にしても、ユースホステルが制作したようなものです。古本をさがしてみれば一目瞭然です。昔のガイドブックには、今の1割も情報が載っていないのです。しかし、ユースホステルの御客さんが、観光地を発掘し、ユースホステルの関係者が本にして広めたのです。それをバックアップしたのがヤマケイだったりします。






 しかし、それよりもユースホステル新聞の影響が凄かった。

 ユースホステル新聞とは、昔、日本ユースホステル協会が発行していた新聞なのですが、これがただものではなかった。毎月3回も発行していたのです。と、書くと
「あれ?」
と思う人もいるかもしれません。

 ユースホステル新聞を知っている古いユースホステルの会員の皆さんは、
「俺の所には、毎月1回しか送られてこなかった」
と不思議に思うでしょう。

 でも、違うのです。
 ユースホステル新聞は、毎月3回発行されていました。

・1日に会員版
・11日にPR版
・21日に内報版

と、3回発行されていて、会員(ホステラー)の皆さんは、毎月1日に発行される会員版しか見る機会がなかったのですね。ところがユースホステル関係者は、11日に発行されるPR版や、21日に内報版も見るチャンスがあったのです。

 PR版には、ユースホステル業界のことや、新しく設置されたユースホステルについての情報が載っていました。この誌面で私たちユースホステルマネージャーは、ユースホステル業界について幅広く知ることが出来ました。

 内報版には、日本ユースホステル協会の状況や、ユースホステルの理念や、海外の情報や、トラブルの事例や、御客さんの生々しいクレームなどが掲載されていました。他所には見せることの出来ない関係者限定でみる極秘メモなんかもあったりしました。会長や理事長の講演の要旨なども載っていたりしました。

 これら3種類の新聞によって、私たちユースホステルマネージャーは、全国のユースホステル業界状況を逐一知ることができ、御客さんの口コミと合わせて大きな情報網をもっていたのです。しかし、残念なことにユースホステル新聞は、全て廃止になります。ユースホステル新聞への補助金が認められなくなってしまったからです。

 で、かわりにオフィシャル雑紙の「とらいべる」が発行されることになりました。カラーグラビアたっぷりの「とらいべる」なら補助金が出やすいのですね。実際、「とらいべる」は素晴らしい雑紙なのですが、残念なことは、ユースホステル新聞PR版・ユースホステル新聞内報版が全廃されてしまったことです。これによって一種の口コミネットを形成していたユースホステルの武器の一つが封印されてしまったのです。





つづく。

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2010年12月27日

カレーライスとライスカレー

御客さんにカレーライスとライスカレー。
どっちが正しいのか聞かれてしまった。
こんなことを聞かれるようになるとは。
ちょっとショックでした。
この答えは、私より上の年齢の人なら誰でも知っています。
しかし、私の弟は知らない。
うちの嫁さんも知らない。

昔は、ライスカレーと言ってました。
カレーライスとは言わなかったのです。

皿に御飯を盛り、その上にカレーをかけたものをライスカレーというのです。
ところが、1970年以降に、カレーライスというようになった。

カレーライスとは、ライスとカレーが別々になっているもので、
テレビコマーシャルで、ちょっとリッチぽいカレーに見えていました。
これがカレーライスです。

とは、言うものの、最後には御飯にカレーをかけるわけですから、
カレーライスも、ライスカレーも、所詮は一緒なのです。

しかし、決定的に違うのものがあります。
1980年以降にでてきたカレーです。
カレーの登場によって

「今日はカレーだから」

と言われたら、ライスカレーまたはカレーライスが出てくるとは限らなくなった。
ナン(パンの一種)、チャパティ(これもパンの一種)が出てくる可能性もあったからです。


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ちなみに日本ではじめてカレーが紹介されたのが明治5年。
たった12年で日本中に広まり
明治17年には「仕出しいらずの女房の気転」
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849042
に掲載されるまでになりました。

当時、カレーはイギリス料理で、C&B社 クロス・アンド・ブラックウェル(Crosse & Blackwell)のカレー粉を輸入して作っていました。しかしS&B エスビー食品株式会社が、1923年(大正12年) 日本初の純国産カレー粉を作りました。ソース屋の店員だった山崎峯次郎が苦難の末に完成させたと言います。

つづく

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2010年12月26日

初スノーシューツアー

今シーズンの初スノーシューツアー
湯ノ丸山に行ってきました。

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今回のメンバーです。

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つづく

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2010年12月25日

湯の丸山は、雪でいっぱいでしたね

今シーズン初のスノーシューに行ってきました。
いわば、偵察です。

湯の丸山は、雪でいっぱいでしたね。
村上山も積もっています。
日曜日は、スノーシューツアー決行です!

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つづく

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2010年12月24日

2010年 お馬鹿なツアー寺泊編2

2010年 お馬鹿なツアー寺泊編のつづきです。
車内で日本海の寿司を食べる!

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ちなみに、もともと寿司というものは旬のものでした。
昔は、コハダとカツオとマグロだけでした。
イカやタコもあったけれど、全て煮込んだものだけ。

しかし、第二次大戦のせいで寿司に革命が起きたのです。
戦争によって太平洋で漁ができなくなったために、
瀬戸内海や日本海の魚が寿司ネタに登場するのです。
ハマチ・ブリ・イクラ・サバなんかが登場します。
つまり、昭和19年ごろまでは、そういう寿司は存在しなかったのですね。
ですから大正生まれの人は、寿司屋に入っても、ハマチ・イカ・イクラ・サバは食べない人が多い。

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ちなみに第二次大戦中の日本では、最後まで人が飢えることはなかったそうです。
モノはありあまっていたけれど、配給制度で表に出てこなくなった。
で、どうやって品物を手に入れたかと言いますと、
タバコを吸わない人も「吸います」と申告して配給タバコをもらう。
それを食料と物々交換するわけです。
戦争中の寿司屋は、そうやって魚を仕入れたそうです。
で、仕入れに市場に行くと、魚がわんさかあったそうです。
しかし、マグロ・カツオ・コハダは無かった。
しかたないので日本海産の魚を寿司にしてだしたら、
案外好評だったので、今日の寿司のスタイルができあがったそうです。
以上の話しは、私が学生時代に築地でバイトしていたときに、
当時を知る関係者に聞いたはなしです。

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日本海。
晴れている。珍しい。

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温泉で食事。

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つづく

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2010年12月23日

2010年 お馬鹿なツアー寺泊編1

2010年 お馬鹿なツアー。
今年は寺泊に行ってきました。


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北軽井沢に泊まって日本海に行くというツアー。
まさしく、お馬鹿ですね。


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ええええええええええええええええええええ
ワラサ(ハマチとブリの中間)が、1500円!
ちょっと、寺泊に行ってくるわw

買ってきたら、ブルーベリーで調理してあげたのに
ま、時間無いから無理か。

こいつを3枚におろして、頭は網焼き、骨は味噌汁にする。
味噌汁には他の具はいれない。
頭は半分に切断すると焼きやすい。
塩してもいいし、焼いてる途中に醤油をたらしてもいい。
醤油を垂らす場合は、8割焼き上がった頃にたらす。


身の半分(上身)は、刺身にする。
刺身包丁があれば、素人にも切れます。
食中毒にならないように、水洗いも忘れずに。
水で食中毒菌は死にます。

あとの半分は、塩をふって焼きましょう!
ブリ大根もいい。
簡単です。
ショウガと酒と出し汁と大根があれば簡単にできます。
http://cookpad.com/recipe/223829

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これもいいなあ。
このセットなんか、粗塩をふって魚焼き網に置いて焼くと最高!
うわー、よだれがでる。

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来年は、登山用ガスストーブと網を持って行くべきだな。
いや、イワタニのカセットコンロの方が便利か。

エビも、塩をふりかけて素焼きにします。
真っ赤になった頃に、醤油をちょっとかける。
塩バターもよい!
ちょっと、日本海に行ってくるわw

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ちなみに、魚を焼くときのコツを教えておきます。

1.焼き網は、あらかじめ加熱しておくこと!
2.川魚は皮から焼く
3.海魚は、身から焼く
4.焼き網は、セラミックか石の遠赤焼きがよい。
5.新鮮な魚ほど、焼くと骨がボロボロになる。
6.きれいに焼ける魚は、古いモノが多い

以上、宿屋の豆知識でした。
ちなみに私は、築地魚市場で働いてました。
魚には、詳しいですよ。


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隣の看板が気になりますw

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蟹だ!


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蟹はね、ボイルが命!
つまり素人のボイルより、魚屋のボイルの方が無難。
生がにを買うより、ボイル済みの蟹を買うのがベター。


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ボイルした焼きガニを網焼きにしても良い。
カラが黒く焦げた頃が食べ頃。


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これは甘くない伊達巻き。
美味しいんだな、これが。

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来年は、これを忘れずに。





つづく

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とにかく感動した画像!

インド版ウンジャラゲ



ベルギー版ドリフ大爆笑




こんなこともあろうかと!




超かけ算の方法




海上自衛隊




さくら





虎が動物園を脱走




メイクで大変身






つづく

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2010年12月20日

北軽井沢ブルーベリーYGHの庭先

冬は野鳥の季節ですね。
北軽井沢ブルーベリーYGHの庭にも、たくさんやってくるようになりました。
巣箱も物色しているようです。

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山雀がヒマワリをくわえて飛び立とうとしています。

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最近は、ゴジュウカラが一番ずうずうしい。

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つづく

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ラベル:野鳥
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角間山ハイキング

角間山ハイキング

雪が足りなかったので、スノーシューの使用は断念。
普通にハイキングしてきました。

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カモシカですね

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猿飛佐助の修行の地です。

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2010年12月19日

今年の軽井沢クリスマスイルミネーション

今年の軽井沢クリスマスイルミネーションです

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2010年12月18日

野鳥の森を散策

野鳥の森を散策してきました。

軽井沢野鳥の森は、1974年に、全国で初めて国設の野鳥の森として指定された所で、かつては日本三大野鳥生息地と言われたところです。歩きやすい観察路があり、誰でも森林浴とバードウオッチングを楽しむことができます。木々に葉がないため鳥を見やすい12月は、寒いものの雪は少ないため、あるいたり観察小屋から見たりして、たくさんの野鳥が観察できます。

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カワガラスを発見。

スズメ目カワガラス科に分類される鳥類の一種である。黒いですがカラスの仲間ではありません。水にもぐって水生昆虫や甲殻類、小魚を捕食します。水中では、水底を這うように歩き回って川底の餌を探します。滝の裏の岩の隙間にコケで巣をつくることで知られています。地鳴きは「ピッ ピッ」。

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これはピッキオのサイト
http://picchio.co.jp/sp/wildforest/
現地付近ライブカメラ
http://www.nagano.ktr.mlit.go.jp/frame_top.htm(長野国道事務所提供 国道18号追分)

クリやカラマツなどが茂る森には、年間約80種類の野鳥が見られる他、ツキノワグマやニホンカモシカなど多くの野生動植物が生息しています。


つづく


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2010年12月17日

馬喰一代 中山正男の故郷 番外編4

馬喰一代 中山正男の故郷 番外編4

ここは、中山正男が生まれたサロマ湖のほとり。

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そして道の駅。

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どうでも良いけれど音楽をジャンジャン流すのはやめてほしい。
ダサすぎる。
田舎の観光地ほど、こういうところは無神経で、
音楽を流せばよいという考えは止めた方がよい。
センスを疑われますよ。

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しかし、この道の駅は、感心するところがあった。
地場産物を上手に紹介しているのである。

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これは地ビール。
思わず買おうかとおもってしまった。

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アイスも特色あり!
これも魅力的ですね。

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モエ要素まで!

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ホタテも食べてみた。
美味しい!
いや、うま過ぎる!
私の人生でに食べたホタテで一番おいしかったかも!

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蒸し牡蠣?
聞くとサロマ湖は、ホタテより牡蠣が名物らしい。

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待つこと10分で出てきました。

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食べたら美味しいのなんの!
最高!
厚岸や広島の牡蠣より美味しいかも知れない!
(失礼)
いや、これは最高でした!
牡蠣は、揚げものや、焼くよりも
蒸した方が美味しいかも知れない。

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つづく

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2010年12月16日

馬喰一代 中山正男の故郷 番外編3

馬喰一代 中山正男の故郷 番外編3

留辺蘂駅のそばに「馬喰一代」という地酒が売っていました。

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おもてには懐かしい遊具が。

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これが馬喰一代の地酒。

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これは酒風呂の元

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つづく

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馬喰一代 中山正男の故郷 番外編2

馬喰一代 中山正男の故郷 番外編2

女満別空港レストランにて
北見といえば、ハッカでしたが、現在はハッカは作られていません。
石油から作る低価格の合成ハッカのせいです。

私はハッカ記念館の施設長の佐藤さんに
「でも、天然物の方が身体にいいんですよね?」
と聞いたのですがキッパリと
「同じです」
と言われてしまいました。

「メントールは、天然であっても合成であっても全く同じです。天然物の品質の良いモノ、つまり純度が高いモノほど合成のものに近くなります」

な、なるほど。道理だ。
これじゃハッカは生産されないわけだ。へこむなあ.....orz。



というわけで、北見では観光用の一部を除いてハッカは作っていません。
で、今は何を作っているかという「玉ねぎ」です。
なるほど北見の「玉ねぎ」は美味しい。
というわけで、女満別空港で北見の玉ねぎラーメンを食べてみました。


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玉ねぎにレモンをかけて食べます。
味は、玉ねぎに合う塩ラーメン。
薄口です。

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これ、最高に美味しかった!
ちなみに嫁さんは、サロマ湖のホタテ丼を注文していました。
サロマ湖のホタテのおいしさに病みつきになってしまったようです。

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つづく

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2010年12月15日

馬喰一代 中山正男の故郷6

馬喰一代 中山正男の故郷6

 北見市が栄え始めたのは、大正に入ってからです。まず不毛の大地が、ハッカの生産によって潤いました。そして明治44年(1911)、池田〜野付牛(北見市)の間に鉄道ができて、木材の伐採がはじまりました。それまでは、樹を伐採しても輸送手段がなかったのですが、鉄道開設によって木材産業が栄えました

 さらに大正元年(1912)11月、野付牛(北見市)〜留辺蘂間に鉄道が開通することによって、留辺蘂は急速に発展しました。そして大正4年、野付牛村から分村独立して留辺蘂町(武華村)が誕生しました。留辺蘂町は、山に囲まれた場所にあるために、豊富な森林資源に恵まれていました。森林資源の開発によって、にわか成金がつぎつぎと生まれ、木材を運ぶ馬も高値で売れるようになりました。馬喰たちに幸福な時代がやってきたのです。


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 こうして北見や留辺蘂に、どんどん富裕層が生まれたわけですが、それらの金持ちが遊ぶ場所として、留辺蘂に、ポン湯温泉やオンネ湯温泉が開発され、花街が形成されました。飯盛り女(売春婦)たちも大勢集まりました。馬喰たちは、そこで遊びまくりました。そして気に入った女を身請けして妻としました。馬喰は、人々から蛇蝎のごとく嫌われていましたから、飯盛り女(売春婦)と一緒になることも多かったそうです。

 ちなみに留辺蘂町は、人口に対して異様に呉服屋が多いところです。その理由は、それらの呉服屋の大半が、かっては置屋(芸妓の抱元・今でいうタレント所属事務所)であったと言います。留辺蘂は、そういう町でもありました。大都市・北見市から金持ちが遊びに来る場所でもありました。これは留辺蘂図書館の大林さんの指摘によってわかったことです。


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 さらに大正9年(1920)には森林軌道が敷設されました。
 林業が盛になると、ますます馬の需要が増えてきます。
 馬喰たちは大活躍することになります。

 中山米市は、大正10年の秋に、サロマ湖から留辺蘂に移転することを決意します。その頃の留辺蘂は、木材景気で、どんどん人口が増え、馬喰たちのビジネスチャンスも大きく広がっていたからです。また、3番目の妻「ゆき」の病気(精神病)も気になっていました。無医村の佐呂間とちがって留辺蘂なら医者がいますから。またインテリの「ゆき」にとっても町はワクワクするところであり、電気がつながっており、汽車が通っており、映画が見られるというだけで嬉しかったようです。


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 中山米市は、留辺蘂の宮下町というところに家をかまえました。
 土地は、二百坪くらいあるでしょうか?
 決して広い土地ではありません。
 ここに拠点を置き、馬の売買を行っています。
 なぜ留辺蘂の宮下町であったのか?
 統合移転前の留辺蘂小学校(特別教授場)があったのと、
 留辺蘂駅逓があったためだと思われます。
 また背後に紅葉山がそびえ、山の幸が得られるためだったからかもしれません。


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 この頃は、鉄道開設とともに木材需要がのび、急激に人口が増え、三百名ほどしかいなかった小学校の児童たちが、3年くらいで千五百にもふくれあがるといった変わりようでした。子どもたちの増加に学校の拡大がおいつかず、二部制にして交代で授業をおこなったり、消防署や映画館を間借りして、ある学年は映画館(大黒座)で授業を行ったりしました。そういう所に、中山米市・正男親子は引っ越してきたのです。

 引っ越してきた中山米市は、すぐに留辺蘂のスターになります。

 木材とハッカ景気に湧いた留辺蘂には、全国からインチキ香具師が集まってきました。彼らは、子分をつかってサクラになってもらい、
「さあ、さあ、今落としたマルイチの丸をあてたものには、金時計一個を進呈しますよ。そのかわりあたらぬものは二十円、どうだ十八金の時計が二十円とは安いもんじやないか」
と見物客と賭をします。

 最初は、子分のサクラが、みごと金時計をせしめてみせます。
 それを呼び水に善良な百姓たちを騙して金を巻き上げるわけですが、
 一日で何千という大金をハッカ農家の親父がすってしまいます。
 それに強い義憤を感じた米市は、同僚の馬喰どもとさそいあって
 香具師たちと一戦たたかうために現れました。

「おい、その勝負、買った」
「よしきた、さあさあ、二十両積んだ」

 米市は、十円札二枚をつきつけました。
 そして賭勝負に打って出て、みごとイカサマをみやぶりました。

「何をするんだい」
「静かに手の平を見せろ」

 イカサマがばれた瞬間、香具師のサクラたちが腹から短刀をとりだし、米市をとりかこみました。イカサマがばれるたびに、このように百姓たちを脅して泣き寝入りさせるのが、香具師の常套手段です。しかし、今回は相手が悪かった。米市は、最強の喧嘩男であり、馬喰仲間も一緒でした。

「やい、てめいら、よくも今まで汗水ながして働いた百姓どんのハッカの金をまきあげていやがったな。もう勘弁ならねえ。俺たち馬喰にとっては、百姓どんは大事な米櫃なんだ。命にかけても護らなくてはならない御相手さまだ、さあこのへんで一切合財幕にしてやるから、どっからでもやってこい」

 一人のサクラが、群集の中に消えました。
 それは駅前の宿屋に仲間を呼びに行ったのですが、
 彼らが大勢の仲間を連れてきた頃には勝負はついていました。
 しかし、香具師たちも
「このままじゃすまさないぞ」
と、身内を総動員して反撃をしようとして全北海道に動員をかけましたが、警察は、馬喰たちの味方になって手打ちになり、インチキ香具師たちは二度と留辺蘂にやってきませんでした。米市は、香具師叩きの米と言われるようになったと言います。(馬喰一代より)

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 中山米市は、農家が香具師たちの餌食にならないように
 追い払ったわけです。
 馬喰たちは、農家に寄生して生きているわけですから、
 インチキで農家から金をまきあげる香具師たちを許せなかったのでしょうね。


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つづく

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2010年12月14日

芦屋亭を紹介するのは、今回で2回目

芦屋亭を紹介するのは、今回で2回目
ちなみに前回の記事は下記をごらんください。

http://kaze3.seesaa.net/article/125302138.html

軽井沢旧道テニスコート通りの中程にある小さなオーガニックカフェです。
ここのママさんは、軽井沢でも有名人。
そして、この店は、地元の人が食べに来る店。
近所のギャラリーの御主人とか、軽井沢在住の某有名人とか。
ちなみに、全メニューにカロリー表示がしてある。

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今回は、軽井沢弁当に挑戦。
待ってる間にフルーツパンのサービス。


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これが軽井沢弁当。これで、たったの1150円。
すごいですね。しかも、京料理だったりする。
「おばんざい」のお弁当。700キロカロリー以下だそうです。

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味付けは、薄く素材を生かして作るのが京都風。
インゲンをオリーブオイルで炒めてあります。
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歯触りのある煮しめ。
酒が欲しい!
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いろいろなおばんざいが楽しめる。
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鳥のフリッターを自家製ハーブソルトで食べる。
美味しかった。
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ミョウガもいいし、カボチャもいい。
麩の揚げものも美味しかった。
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御飯も、もっちり。
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実は、しばらく北海道料理ばかり食べていたので、
ひさびさに軽井沢ぽい料理を食べて懐かしかったです。
北海道料理は、豪快で味が濃いですが、軽井沢は、繊細で薄いですね。
若い人男性には、北海道料理が向くし、
女性や、40歳以上の方には、軽井沢料理が向くかなあ。


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食後には、デザートサービスも。
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おまけにお土産も頂きました。
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TEL 0267-42-9838
長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢748
10::00〜18:00
日曜営業
定休日 火曜日

つづく

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posted by マネージャー at 21:52| Comment(3) | TrackBack(0) | 旧軽井沢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月13日

網走流氷の丘ユースホステル

馬喰一代 中山正男の故郷 番外編
網走流氷の丘ユースホステル


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 馬喰一代 中山正男の故郷を調べている時、宿泊基地として網走流氷の丘ユースホステルに泊まってきました。なぜ、このユースホステルかと言いますと、他のユースホステルは全て休館中だったからです。11月末の平日でも休館しないとは。ここのマネージャーさんのやる気を感じます。

 実は、このユースホステルのマネージャーさんは、星のまきばユースホステル門下であり、私とは同門です。なので、知らない仲ではなかったのですが、今まで面識が無かったので、今回は覆面で泊まりました。普通の旅人として、ユースホステルマネージャーであることをばらしませんでした。さて、どんなユースホステルなんでしょうか?

 立地は網走駅から少し離れていますが、歩いて行けなくはなさそうです。
 2.5qくらいの距離でしょうか?
 駐車場は、かなり広いですから駐車スペースにも困りません。


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 ユースホステルの玄関は、こんな感じです。
 玄関を入って直ぐに
「まきばYHの形に似ている!」
と分かりました。逆に北軽井沢ブルーベリーYGHは、まきばYHと違うスタイルです。どこが違うかというと、出入り口のそばにフロントがあるか無いかです。まきばYHは、出入り口のそばにフロントがありました。その方が目が行き届くし御客さんとのコミュニケーションもしやすいんですね。昔のYHは、みんなこのスタイルです。逆に北軽井沢ブルーベリーYGHは、フロントが奥にあります。奥にあると、御客さんは気兼ねなく玄関の出入りが出来る。プライバシーを重視したスタイルです。


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 これが室内。
 ユースホステルらしいつくりです。
 簡素なつくりながらも清潔なかんじです。


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 食堂。
 ユースホステルらしい清潔な感じですね。


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 そして夕食。
 豪華です。


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 カニ御飯。
 カニの味がほんのりと。


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 メインのタラバカニ。
 足が2本だけですが大きいです。
 すごく大きくてボリュームたっぷり!


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 なんとラーメン!
 つけ麺風のラーメンでした。


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 で、カレーまで。
 ラーメンとカレーが一緒に一緒にでてくるなんて!


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 ミルクで味付けされたカボチャ!
 そういえば、サロマ湖の名物がカボチャでした!
 土地土地のものを食べさせてくれるなんて感激!


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 ロールキャベツだ!
 大きいです!
 しかも手作り!
 赤いのはケチャップです。


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 で、特別料理プランが、これ!
 巨大毛ガニが丸ごとでてきました。
 すごい、すごすぎる。
 ここの特別料理は、かなりお得ですね。


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 ここに泊まるなら夕食は絶対にとるべきですね。



 逆に朝食は、質素でしたが、これは、まきばYHスタイルですね。
 私が、まきばYHでヘルパーしていたときも、こんな朝食を毎日作っていましたね。

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 お茶会も必ずあります。
 いろいろアドバイスしてくれます。
 そしてケーキもでてきました。美味しかった。
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 あとペアレント(マネージャー)さんは、京都の人でしたね。
 ユースホステル界は、関西系の人が多いなあ。
 あと、ここは、素晴らしい日の出がみれるユースホステルでもあります。


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 ここで少し気になった点もありました。
 これほど御馳走に私は、目が点になり、
「すごい料理ですね」
「当たりですね」
 と、別の御客さんに話しかけたのですが、
 その御客さんは、
「そうでもない」
 というそぶりでした。

 ここの夕食は、税込み1050円です。
 1050円で、これだけ出されたら私なんかはビックリです。
 カレーなんかは、いくらでもおかわりできたし、
 文句ないと思いました。
 けれど、他の御客さんは、
 不満そうではなかったのですが、
 驚いてるふうでもなかった。

 私は、宿屋だから、これでは赤字ギリギリであることがよくわかります。
 すごく頑張っている。
 まあ、凝った高級料理を作っているというわけではないですが、
 腹をすかせた、貧乏で若い人なら大喜びしそうなボリュームはありました。

 しかし、御客さんの主流は中高年であるために
 それが、その日に一緒に泊まった中高年の御客さんに
 そのまま評価されていないのが残念でした。
 これも時代の移り変わりでしょうか?

 でも私は、素直に「すごい」と感動しました。
 1000円で、よくぞ、ここまでやったと!
 だから、こうしてブログに詳しくアップしています。


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つづく

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posted by マネージャー at 21:39| Comment(6) | TrackBack(0) | ユースホステル紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月13日の業務連絡 スノーシューについて

おはようございます。
北軽井沢は、連日の降雪で、すっかり雪景色です。
この状況は、数日間続きそうなので、
車で来られる御客様は、
必ずスタットレスにしてください。

あと登山やスキーの御客様は、例年より降雪が早いので注意してください。来週のスノー
シューツアーは、ほぼ可能となっています。前日に偵察に行ってきますが、このままいけ
ば、間違いなくスノーシューができることでしょう。



つづく。

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posted by マネージャー at 13:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 業務連絡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月12日

馬喰一代 中山正男の故郷5

馬喰一代 中山正男の故郷5

 馬喰一代によれば、中山正男は、サロマ湖湖畔のカワグチというところに生まれたといいます。ところが、カワグチという地名は地図では確認できません。ただ、馬喰一代の記述により、浜佐呂間あたりだと推測することができます。これが浜佐呂間の町。そしてサロマ湖の近くです。当時は、電気も店もなかったと言います。

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 米市は、このあたりで漁師の手伝いをしながら馬喰をやっていたと言います。兼業しているところをみると、この頃は、まだ馬喰という職業は、羽振りのよい職業ではなかったようです。ちなみに米市のライバルである尾崎天風も、馬喰から身をおこしてサロマ湖あたりで木材の事業をやって大儲けしていました。

 この尾崎天風は、偶然にも田澤義鋪の故郷・佐賀県鹿島の生まれの人です。北見市史編さんニュース64号および馬喰一代によれば、明治31年にサロマ湖に移住してきて、常呂(サロマ湖)と野付牛(北見)を結ぶノッケ街道の駅逓馬橇の御者をしていました。彼は山に火をつけてその山の焼木や破損木の払下げを願い、もし許可になったら、この時とばかりに近くの山の盗伐をやって、許可石数の何倍も伐りまくる。それを坑木や製材にしてボロい儲けをしたと言われています。

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 そして大正の始め頃には佐呂間の役場の隣で料理屋を経営し、大正3年の佐呂間村分村独立のときにく役人を接待し、役場も当初村民が陳情した場所と違う「佐呂間市街、天風の料理屋の道路向」に決定し、料理店の一部を月8円で借上げて改装し仮庁舎として開設しました。そして、大正4年には釧路新聞支社の肩書きも得たと言います。しかし、馬喰一代にあるように本人は、無学にちかく文字を覚えたのは、兵役後、二十歳の中山正男すぎてからだと言われています。


 中山正男の生家から4キロほど西に行った幌岩に生母「はるの」の実家がありました。
 これが幌岩の風景です。

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 また、幌岩には、幌岩山があり、展望台があります。
 眼下にサロマ湖が見渡せます。

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 この幌岩から、吹雪の中を4qほど歩いて、中山正男に乳を飲ませに通ったといいます。


 これが武富士。

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 中山正男の家から10qも離れています。学校で使う文房具は、ここまで歩いて行かないと買えませんでした。父の米市は、教育熱心で、中山正男が日記を書き損じたりすると、容赦なく破り捨てられ、武富士まで買いに行けと怒鳴られました。当時、7歳の中山正男は、夜中に10qの道を歩いてノートを買いに行かされました。もちろん熊が出て危険ですから、父の米市も提灯をもって、こっそり後をつけていったと言います。


 そんな教育熱心な米市は、中山正男の教育のために女学校出の母親(後妻)をさがしますが、無学な馬喰に女学校出のインテリ嫁がくるはずもありません。しかし、留辺蘂の西にある大温泉地帯である「温根湯」に身をもち崩して売春で生活している「ゆき」という女性がいると聞いた米市は、ゆきの前で土下座して
「息子のために後妻になってくれ」
とたのみこんだと言います。

 この「ゆき」が3番目の母親になるわけですが、
 「ゆき」が働いていた「温根湯」には、有名なキタキツネ牧場があります。
 留辺蘂は、あちこちにキタキツネ牧場がありますが、
 温根湯のキタキツネ牧場が一番有名です。

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中には、おいなりさんがあって、鳥居の中に本物のキツネが寝ています。

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これは、樹に登ってイチイの実を食べているところ。

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話しは変わりますが、この温根湯は、大温泉地帯でした。
そして、多くの温泉旅館がたちならびました。
そして、花街が形成されました。
そこでは、キツネの化かし合いがあったことでしょう。

留辺蘂にも旅館が解説されました。
留辺蘂にもポン温泉がありました。

アイヌ語で、オンネとは、大きいの意味。
アイヌ語で、ポンとは、小さいの意味。

つまり留辺蘂にある大きい温泉が、温根湯温泉。
つまり留辺蘂にある小さい温泉が、ポン温泉です。

で、留辺蘂には、この2つの温泉が開発され、旅館がたくさんでき、
売春婦たちも大勢あつまってきました。
温泉街に御客さんが集まるということは、羽振りのよかった人がいたということです。

つまり、北見にはもハッカで儲けた人がおり、
それに寄生するかたちで、馬喰(家畜販売)で儲けた人がおり、
彼らが遊びに来るところが、ポン湯のあった留辺蘂であり、
温根湯温泉であったわけです。
その温根湯温泉に、新潟から駆け落ちしてきて、亭主に死なれた女性がいました。
その女性が、中山正男の3番目の母親になります。

つづく

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2010年12月11日

馬喰一代 中山正男の故郷4

馬喰一代 中山正男の故郷4

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「北見市には馬喰が多かったですか?」
「多かったですねえ」
「いつ頃まで多かったのでしょうか?」
「昭和35年頃まで大勢いました」
「なぜ馬喰が多かったのでしょう?」
「昭和35年頃までは、北見市に車もトラクターも無かったんです。動力はもっぱら馬なんです。馬がなければ話にならなかった。だから大勢の馬喰がいたんです」
「では、基本的なことを聞いて良いですか?」
「どうぞ」
「馬喰って何なんですか? ものの本によれば、家畜商とあります。辞典で調べても家畜商。インターネットで検索しても家畜商と出てきますが、家畜商のことを馬喰と言うのですか? もし家畜商が馬喰のことだとすると、どうして中山正男は、みんなから蛇蝎のごとく嫌われたと書いたのでしょう? 本当に家畜商が馬喰のことを言うのでしょうか?」
「違います」

 佐藤敏秋さんは言いました。


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「3万円の馬を買って、4万円で売る。そういう商売で、馬喰が生きていたわけではないのです」
「え?」
「それでは儲かりませんから、3万円の馬を10万円にも、20万円にもするには、別の知恵が必要でした」
「・・・・」
「3万円の馬が、10万円にならないとすると、馬喰たちは農家に『この馬は病気だ』と言って返品するわけです。そして、しばらくして馬主に、バカな飼い主を見つけたから、俺が3万円で売ってやるから、売れたら1万円よこせと、話しをもちかけます」
「はあ」
「で、馬の飼い主には、バカな売り主がいるから、10万の馬を5万円で買ってきてやるから、俺に1万円よこせと言う。そして、売り主と買い主の両方を騙して、両方から金をせしめるわけです。そのうえ裏金ももらうことにする」
「なるほどねえ」
「しかも、馬喰たちは、売買後もトラブルがあると両者の間に入って、示談役として両者から金をせしめたりもしました。そのうえ売り主と買い主から情報を仕入れて、ハッカの仲買人に情報を売ったりしました。なにせ農家と密接に繋がっているから、場合によってはハッカ商の手下になることもありえました」
「へえー」

 中山正男の『馬喰一代』には、馬喰という職業は、みんなから蛇蝎のごとく嫌われたと何度も書いてありますが、佐藤敏秋さんのお話によって、その理由が分かった気がしました。やりくちがヤクザとたいして変わらないからです。


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 しかしよく考えてみれば、このようなことは開拓時代の北海道では、あたりまえであったのです。北海道の名付け親である松浦武四郎の記録をよめば、開拓時代の北海道では、商人たちが、どれほどあくどいことをやってきていたか、いやというほど書いてありますから、北海道史をかじった者なら知らない人はいません。だから今でも北海道は、農協の力が強いのですね。

 そういう環境の中で、中山正男の父である米市は、自らハッパ馬喰(インチキ馬喰)を禁じ手にしました。理由は、息子の正男のためです。


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 ここで、中山正男の生い立ちを書いてみます。
 映画『馬喰一代』には、それにふれてませんし、
 直木賞候補となった小説の方も多少の脚色があって正確ではありませんから、
 補則の意味で書いておきます。


 中山正男が生まれたのは、北見の留辺蘂ではなく、佐呂間村でした。父の米市は、馬喰の仕事をしながらサロマ湖のほとりで猟師の手伝いをしていました。場所は浜佐呂間のあたりです。ここで中山正男は、父の米市、母の「はるの」の子として生まれます。はるのは、平凡な農家の娘で右を向けと言えば、三年でもだまって向いているというような大人しく柔順な人でした。その両親のもとで生まれたのが中山正男です。明治44年1月26日のことです。



写真は、浜佐呂間の町
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写真は、サロマ湖YH
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 米市は、動物のように正男を可愛がりました。毎日、息子の寸法をはかり、足の太さや胸囲まで暗記したと言います。そして可愛い寝顔を何時までも覗いていた米市は、正男の顔に墨をぬってひげをはやしたり、眉を太く書いたり、眼鏡を書いたりして遊んだといいます。その親バカぶりは、正男が、怪我をして血を吹いて倒れていた時には、馬具をかける間ももどかしく、裸馬のまま、網走の病院まで三十キロも走った事もありました。


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 ところが、その米市が浮気をしました。

 馬喰たちは、よく料亭に通いました。当時の料亭には、売春婦たちがいました。米市は料亭の女を買うようになりますと、売春婦たちの寝技にすっかり参ってしまいました。そうなるとマグロの女房には、ものたりなくなり、ついには前妻を暴力でもって雪の降る中に追い出してしまいました。生母は、
「めかけでも良いですから、ここに置いてください」
と泣きながら懇願しましたが、米市は、生母を追い出して売春婦の「その」を二番目の妻に迎えました。酷い話です。

 しかし、けなげにも生母は、夜に米市の家に忍び込み、こっそり正男に乳を飲ませました。そして、それが米市にバレて半殺しにされました。生母は泣く泣く正男と別れざるをえませんでした。しかし米市は「その」に逃げられてしまいます。このへんの描写は、映画にも小説にも書かれてありません。生母は病気で死んだことになっています。



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 ここから、クレイマークレイマーばりの、父親と息子の二人暮らしになるのですが、子煩悩の米市は、息子のために女学校出のインテリの売春婦を身請けして妻にします。三番目の妻である「ゆき」です。プライドの高い米市は、ゆきの前で土下座して
「息子のために後妻になってくれ」
とたのみこんだと言います。

 インテリの「ゆき」は正男を可愛がりました。そして米市の見込んだとおり、三番目の母は、正男の教育のために精魂をかたむけました。そのせいか中山正男の成績はあがりました。さらに「ゆき」は、米市にも手紙で注文をだしました。

「子供はその親を手本とします。とくに悪い事を真似たがるものです。お願いですから、正男のいるわが家で宴会を開いたり、賭博をするのはやめて下さい」

 短気な米市も、正男の教育問題に関しては、三番目の妻の言いつけを守りました。米市は、しだいに父親らしくなり、家庭的になっていきました。そして正男は、成績がトップになり、総代まで選ばれました。しかし、子供というものは残酷でした。
「やーい、お前の母ちゃん淫売(売春婦)!」
とはやしたてるクラスメイトたち、それが大合唱となる事もありました。正男は
「違うわい」
と涙ながらに拳骨で反撃し大乱闘となりました。

 米市は、そんな正男と母親のために、引っ越しを決意。
 サロマ湖畔から、留辺蘂へ移ったのです。
 大正十年の秋でした。
 その歳は、のちの盟友・横山祐吉が、東京音楽学校(芸大)に入学した歳です。
 

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つづく

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天草ユースホステルのペアレント辻田政志さんの死を悼む

天草ユースホステルのペアレント辻田政志さんの死を悼む

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 本日、天草ユースホステル(休館中)のペアレント辻田政志さん(享年58歳)が12月6日にご逝去されたとの訃報が届きましたので、お知らせ申し上げます。謹んでお悔やみ申し上げますと共に、故人のご冥福をお祈り致します。

 辻田政志さんの思いで。

 この人ほど個性的なペアレントはいなかったでしょう。一言で言えばダジャレキング。いやダジャレエンペラー、ダジャレカイゼルか。3分に一回はダジャレを言って前進から力を無くしてしまう。しかも絶対零度クラスのスーパーフリーザーダジャレ。くる御客様くる御客様を次々と凍らせていました。そしてユースホステル館内を南極点にしていました。ユースホステルにシロクマやペンギンがいたとしても、カチンカチンに凍っていたに違いありません。

 そのスーパーダジャレが楽しくて、私は、天草ユースホステルがいっぺんで大好きになり、数多くの御客様に天草ユースホステルを紹介してきました。私ほど天草ユースホステルに人間を送り込んだ人もいなかったでしょう。

「九州に行くの? じゃ天草ユースホステルに行きなよ!」
「施設が良いの?」
「良くない。一つ星だし」
「料理がよいの?」
「それほどでもない」
「立地がよいの?」
「うーん」
「じゃ、なんで勧めるの?」
「そりゃ、身も凍るダジャレの連発を聞くためさ! 南国天草で南極の寒さを体験するためよ!」
「はあ?」

 ユースホステルの楽しみは、施設や料理だけではありません。マネージャーの個性を楽しむところに醍醐味があります。ユースホステルのマネージャーには変人が多いのです。その中でも、最もユニークだったのが、天草ユースホステルのペアレント辻田政志さんです。人なつっこくて、ダジャレ好きで、息するよりダジャレの回数が多い人なんて、世の中にそうそういません。

 おまけにペアレントさんは、地震研究家。それもきわもの研究家。科学的な研究ではなく、雲とか動物で地震予知を行う変人でした。話し始めたら1時間でも2時間でも地震と予知を語り始め、内容がキワモノそのもの。それも殆ど当たったことがないというありさま。しかし、それがいいのですよ。私は、そのキワモノぶりが、たまらなく好きだった。

 だから私に騙されて天草ユースホステルに泊まった人はみんな喜んで報告に来ました。そして

「すごいマネージャーさんでした」
「天然記念物的存在ですね」
「あの人は、天草の人間国宝として売り出すべきですよ」
「パワフルなマネージャーだったなあ」
「なんか生きる勇気がわいてきました。もう少しで凍死するところだったけれど」

と大喜びして帰ってきました。みんな九州で一番思いで深かったのが天草ユースホステルでのマネージャーさんとの対話だったと言っていました。

 ユースホステルを使った旅は、こういう観光旅行にない面白さとスリルがあるからやめられません。しかし、その 天草ユースホステルが、休館と聞いたので心配していたのですが、御病気だったのでしょうか?

 それにしても辻田政志さんがお亡くなりになったとは・・・・・・orz
 惜しい人を日本ユースホステル界は失ってしまった。
 残念ですね。




つづく

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2010年12月10日

馬喰一代 中山正男の故郷3

馬喰一代 中山正男の故郷3

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 ハッカは、最強のハーブでした。
 古くは漢方薬として使われましたし、
 抗菌性が強いために防腐剤や防虫剤や芳香剤としても偉大な力を発揮しました。

 特にダニに対する効果が強く、どんなダニも殺虫しました。
 アリやゴキブリもハッカの威力で姿を消し、
 ネズミさえもよせつけません。
 だから有力な殺虫剤が存在してなかった頃は、
 それに代わるものとして世界中の人々が北見のハッカ脳(結晶)を買い求めました。


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 日本のハッカ結晶(ハッカ脳)は、世界各地に輸出されました。
 ハッカの結晶は、日本で栽培されていた和種ハッカでないと精製できませんでしたから、
 ハッカ結晶の世界市場は日本の独占状態となりました。
 特に北見地方のハッカが世界市場を制圧しつつありました。

 その理由は、北見地区が自然条件の厳しい
「日本最後の開墾地」
 であったことにあります。
 雑草が強く荒れた土地を開墾するには、非常に大きな労力が必要となります。
 麦であっても、大豆であっても、壮絶な自然との闘いが必要なのです。
 仮にやっと穀物が実ったとしても、鹿や熊たちが遠慮なしに食べにやってきます。


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 でもハッカの栽培には、そんな苦労はいりませんでした。もともと強い雑草であるために、他の雑草との戦いに負けることはないし、その実りを熊や虫たちに奪われることもありませんでした。そのうえ北見は、もともとハッカ生産の処女地であったために、他のハッカ品種との交配による害も少なく、純度の高いハッカ生産ができ、良質な製油と結晶を生産できました。

 しかし、なにより北見の人たちがハッカを栽培した最大の理由は、もっと別の所にありました。輸送の問題です。北見市は、北海道の一番遠い内陸にあります。そこから豆などの穀物を市場に輸送するには、莫大な経費がかかるのです。これでは市場競争に勝てません。

 しかし、ハッカとなれば別です。
 ハッカなら、ハッカの輸送は考えなくても良い。

 ハッカを精製し、製油や結晶に変えてしまえば、加工品は、かなり小さくなって輸送費もかからないし、付加価値も大きくなります。そういう意味で、ハッカくらい北見の産業に適したものはなかったのです。そのために最盛期には、栽培面積2万ha、取卸油収穫量千トンという膨大な数字が記録されています。そして、それらから湿布薬・筋肉痛薬・メンソレータム・ドロップ・セキ止め薬・胃腸薬・かぜ薬・目薬・かゆみ止め・育毛剤・水虫薬・虫よけ・抗菌剤・歯磨き粉・仁丹・口臭除去剤・シャンプー・化粧品・石鹸・洗剤・などが生産され世界中に輸出されました。


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 しかし、「ハッカが儲かる」と言う話しが全国に伝わると、日本中の事業家が北見に集まりました。そして商魂たくましい仲買人が暗躍し、ハッカで一旗あげようと色々な手段を講じるようになってきたのです。

 北見ハッカ記念館の施設長佐藤敏秋さんは言います。

「仲買人たちは、非常にうまく立ち回りました」
「というと?」
「カルテルを結んで、農民たちからハッカを安く買いたたこうとしました」
「でも農民もバカじゃないですよね」
「はい。しかし、仲買人は、一筋縄ではいかない連中なんですよ」
「・・・」
「例えば、Aという仲買人が、ある農家の所に買い付けに行きます。相場が45円なので45円で売ってくださいと言うのです。農家は、安すぎると言って売りません。しかし、Aという仲買人は、アッサリひきさがります」
「ほう」
「次の日、今度はBという仲買人が、その農家の所に買い付けに行きます。相場が45円から40円に下がったので、40円で売ってくださいと言うのです。農家は、安すぎると言って売りません。もちろん、Bという仲買人は、アッサリひきさがります」
「・・・」
「そして、その次の日、今度はCという仲買人が、その農家の所に買い付けに行きます。相場が40円から35円に下がったので、35円で売ってくださいと言うのです。こうなると、さすがに強気だった農家も、不安になってくる。ハッカが暴落するのではないかと、気が気でない。そこをつけ込んで『ハッカの値段が暴落していく可能性があるから早く売った方がいいよ』と忠告する。しかし、それでも農家が断ると、Cという仲買人も、アッサリひきさがります。決して無理強いしません」
「・・・」
「そして、そのまた次の日、今度はDという仲買人が、その農家の所に買い付けに行きます。相場が35円から30円に下がったので、30円で売ってくださいと言うのです。こうなると農家も、かんねんして30円で売ってしまうのです」
「それじゃ詐欺みたいなものじゃないですか」
「そうです。そのために泣いた農家が何軒もあり、儲けるところはドンドン儲けました」

 これがカルテルの本質です。
 こういう事があるから近代国家は、
 独占禁止法という法律でカルテルを禁止しているのです。

 しかし、開拓時代の北海道には、海千山千の欲の塊が跋扈しており、
 ちょっとでも油断していたら生き血を吸われるのがあたりまえでした。


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 そのへんは西部開拓時代のアメリカと似ているかもしれません。
 このへんの事情は、映画『馬喰一代』をみると、非常によくわかります。
 実によく描かれています。
 さらにハッカ記念館の施設長佐藤敏秋さんは言います。

「仲買人たちは、非常に情報を集めました。情報は金になったのです」
「どんな情報ですか?」
「農家へ挨拶まわりに行くのです。そして世間話をしてくる。で、その農家に金があるかどうかを調べるのです。金があれば、相場が上がるまでハッカを売ってくれない。しかし、金が無くなれば、相場が下落してもハッカを売ってくれる。安くハッカを手に入れるには、そのへんの情報が無いといけない」
「なんとまあ・・・・」
「それで、さまざまな手段で情報を仕入れるわけです。馬喰なんかを使って農家の情報を仕入れるわけです」

 ここで私は、本題にはいりました。

「北見市には馬喰が多かったですか?」
「多かったですねえ」
「いつ頃まで多かったのでしょうか?」
「昭和35年頃まで大勢いました」
「なぜ馬喰が多かったのでしょう?」
「昭和35年頃までは、北見市に車もトラクターも無かったんです。動力はもっぱら馬なんです。馬がなければ話にならなかった。だから大勢の馬喰がいたんです」
「では、基本的なことを聞いて良いですか?」
「どうぞ」
「馬喰って何なんですか? ものの本によれば、家畜商とあります。辞典で調べても家畜商。インターネットで検索しても家畜商と出てきますが、家畜商のことを馬喰と言うのですか? もし家畜商が馬喰のことだとすると、どうして中山正男は、みんなから蛇蝎のごとく嫌われたと書いたのでしょう? 本当に家畜商が馬喰のことを言うのでしょうか?」

 施設長佐藤敏秋さんは言いました。

「違います」

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つづく

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2010年12月09日

馬喰一代 中山正男の故郷2

馬喰一代 中山正男の故郷2


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 最近、アロマテラピーという言葉を聞くことが多くなりましたが、アロマテラピーは、1920年代はじめ、つまり大正10年頃に、フランスの香料の研究者であったルネ・モーリス・ガットフォセ(1881年-1950年)が、火傷をしたときに、とっさにラベンダー精油に手を浸したところ傷の治りが目ざましく良かったことから、精油の医療方面での利用を研究し始めたことから始まったと言われています。つまりアロマテラピーじたいは、比較的最近になって提唱された療法であり、盛んになったのは戦後になってからです。

 Simonsen, J. L. (1947)によれば、日本では2000年以上前からハッカとその成分(メントール)の存在が知られていたと言われています。そして江戸時代では日本式のアロマテラピーが盛んであり、明治時代においては、北海道北見市付近において大々的に生産され、一時期は世界の70パーセントの市場を独占していたことは、意外に知られていません。

 馬喰一代の世界を語るには、北見のアロマテラピーについて少し研究する必要があります。で、私が訪ねたのが北見薄荷記念館です。この記念館は、中山正男の正体を解明するのに重要な施設であったりします。ちなみに北見薄荷記念館は、ハッカ記念館とも呼ばれています。ハッカキャンディーのハッカです。かって北見では、世界のハッカの70パーセントを大量生産していました。では、ハッカとは何なんでしょうか?

 ハッカとは何か?

 分かりやすく言うと「ミント」のことを言います。シソ科ハッカ属の仲間です。このハッカが、医薬品として江戸時代から生産されていたのですが、北見で大量生産されることによって、世界中に輸出されることになりました。世界が、北見のハッカを欲していたのです。また、日本は、医薬品として、さまざまなハッカ製品を海外に輸出していました。つまり日本は世界最大のアロマ王国であったわけです。ですからフランスあたりからアロマテラピーなどが入ってきても、北見市民は、
「何をいまさら」
てなもんでした。アロマテラピーなら北海道の北見が元祖だぞと。

 論より証拠。
 それらの製品をみてみましょう。

 これはうがい薬にリップクリーム。
 見たことのあるものがたくさんありますね。

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 メンソレータムもハッカ製品でした。
 メンソレー(メントール)といった名前からしてハッカ製品であることがわかります。

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 うがい薬もハッカ製品。

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 当然のことながら仁丹もハッカ製品。

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 胃腸薬もハッカ製品。

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 各種の傷薬もハッカ製品。
 キンカンなんかは、代表的な製品です。

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 さらに目薬や湿布薬までハッカ製品。 
 サロンパスといったおなじみの製品が並んでいます。

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 というわけで、ハッカ産業は日本の最重要産業でした。
 ですから多くの人々が視察に来ています。
 昭和天皇陛下も御視察にこられています。


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 もちろん平成の天皇陛下(当時皇太子)も御視察にこられています。


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 脱線しますが、義宮(現天皇陛下の弟)様は、馬喰一代の大ファンで、映画馬喰一代のロケ地に行って撮影の様子を御覧になり、さらには、映画館にもいらっしゃいました。そして中山正男と対面し、一緒に写真まで撮っています。戦後とはいえ、皇室の方が「馬喰一代」といった下層階級の生態をえがいた映画をみたのは、ちょっとした事件であったかもしれません。


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 まあ、そんなことは、どうでも良いとして、
「なぜ北海道の北見でハッカ産業が発達したのか?」
「それも、どうして日本のハッカだったのか?」
という疑問です。

 その疑問に答えてくれたのが、北見ハッカ記念館の施設長佐藤敏秋さんです。

「そもそも、どうして北見のハッカが世界を席捲したのですか?」
「ハッカ草はまず蒸溜釜で蒸して原油を取り出します。そしてその原油を遠心分離器にかけて結晶と精油に分けます。この結晶こそ、ハッカ脳と呼ばれるものです」
「脳?」
「脳とは、一番大切なところという意味です。クスノキから樟脳をとりますよね。あれも脳です。樟脳は、血行促進作用や鎮痛作用、消炎作用などがあるために主に外用医薬品の成分として使用されています。で、クスノキで一番大切なところが樟脳。ハッカで一番たいせつなところがハッカ脳。」
「なるほど」
「ハッカ脳。つまりハッカの結晶は、日本で栽培されていた和種ハッカでないと精製できなかったのです。西洋ハッカ、つまりペパーミントでは、作れなかったのです」
「そうだったんですか!」
「だから他の国ではハッカ油は抽出できても、ハッカ脳は精製できなかったんですね。しかも日本ハッカは、ペパーミントなどより良質な製油がとれたのです。これが北見のハッカが世界中で認められた理由です」
「なるほどねえ」
「ちなみにハッカは、栽培された土地によっても香りが変わり、日本のハッカの方が甘みが強く香り、やわらかです」


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 ちなみに北見市に入植が開始されたのは、明治30年の頃です。高知県の坂本龍馬の甥である坂本直寛らを主宰者とする移民(北光社移民団)112戸が北光社農場を開設し、四国人を中心とする平民屯田兵597戸が入植したのが始まりです。中山正男の父、中山米市も伊予松山から屯田兵の息子として北見に入植しました。

 当時、北見は、野付牛と言われていました。アイヌ語のヌプンケシ(野の果て)が語源で、最高気温が35度をこえ、最低気温がマイナス30度をこえる自然環境の厳しいところでした。さらに原野には、背丈より大きい熊笹が一面を覆っていました。場所によっては、山葡萄やコクワのツルが繁殖し、そこを歩くのも容易ではなかったといいます。そして、蚊柱などの虫の大群が人々を襲いました。

 そんな大地を開墾するのは、腰囲ではりませんでした。今と違ってブルドーザーもパワーショベルもない時代です。草木を伐採し、熊笹をぬき、石ころや切株を掘り起こし、やっとの思いで作り上げた小さな畑も、たいした実りは期待できず、ちょっと油断していると強い雑草に負けてしまいました。北海道の雑草は、夏の短さを知っているためか、とってもとっても強く、後から生えてきて、作物の実りを妨害しました。

 入植者たちは、頭をかかえました。
 そんな時、夢のような話しが舞い込んできました。

「雑草を生やすだけで金になるらしい」
「雑草を? そんなバカな!」
「いや、ほんとうだってよ。なんでもハッカという雑草が金になるだと」
「ハッカ?」

 ハッカというハーブは、もともと雑草であり、どんな植物よりも強かったのです。

「手間は殆どいらないんだと。強い雑草だから。おまけに香りが強くて虫も寄りつかないらしい」
「それがなんで金になる?」
「薬に使うらしい。湿布薬とか、毒消しの材料になるらしい」
「ほう・・・・・・」

 こうして北見にハッカ栽培がはじまりました。
 そして北見市は、世界最大のハッカ栽培地になっていくのです。
 そのハッカ栽培によって登場するのが、仲買人・雑貨商・馬喰たちです。
 馬喰一代の物語は、ここからスタートします。


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つづく

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2010年12月08日

馬喰一代 中山正男の故郷1

馬喰一代 中山正男の故郷1

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日本ユースホステル運動の父、中山正男の故郷を訪ねる。

 2010年11月29日から、12月3日まで、日本ユースホステル運動の父、中山正男の故郷を調査してきました。中山正男は、北海道北見国サロマ湖畔の佐呂間村に生まれました。そして、北見市の西側にある留辺蘂町に引っ越し、ここで小学校を卒業し、札幌の第二中学校に入学。そして、上京し、専修大学に入りますが、中退します。

 と、書くと何やら教養人ぽい家庭に育ったような気がしてきますが逆でした。中山正男の父、米市は無学で粗暴な馬喰であり、母親は4人もかわっていました。最初の母親は、浮気のすえ米市が追い出してしまい、2番目の母親は別の男と駆け落ちで逃げてしまい、3番目の母親は発狂して死んでしまい、4番目の母親は全盲になり死んでしまった。4人の母親は、中山正男が小学校を卒業するまでの12年間にかわっており、そして、そのうちの2人は行方不明であり、2人は死んでしまっています。

 こういう家庭環境で育った中山正男ですが、数々の事業をてがけ、多くの文学を発表し、直木賞候補にもなり、その作品の多くが映画化・テレビ化されました。なかでも最も有名なのが『馬喰一代』です。4人の母親に去られて父一人・子一人の物語。父性愛をえがいた『馬喰一代』とその映画は、日本中の人間の瞼を涙で濡らしました。


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 日本ユースホステル運動史の中心人物中山正男を語るには、この馬喰一代をぬきには語れません。というのも中山正男ほど、青少年運動に縁が遠かった人間もないからです。最悪の家庭環境に生まれ育ち、素行も行儀も悪く、ともすれば社会常識に欠ける部分もあった中山正男は、とてもじゃないが青少年を指導するという柄ではなかったはずなのです。にもかかわらず、日本ユースホステル協会を創設し、最終的に会長となって活躍するのは、映画『馬喰一代』を見て涙したものなら、小説『馬喰一代』を読んで涙したものなら、何の違和感もないでしょう。

馬喰一代は、無法松の一生と並んで、父性愛をテーマとした日本映画の最高傑作であることは、まちがいありません。チャップリンのキッドよりも、ハリウッドのクレイマークレイマーよりも、泣かせるドラマでした。


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 しかし、馬喰一代には脚色がありました。真実は、もっと悲惨であり最悪だったのです。あまりにも悲惨すぎて逆にリアリティが無いので、悲惨さをオブラートに包み、よりマイルドにしてあったのです。主人公の米市にしても、もっと粗暴でした。しかし事実を事実として書いてしまうと、かえって嘘くさくなるので、映画や小説の馬喰一代は、あえて粗暴な父親のキャラクターを抑え気味にしてありました。そういう悲惨な境遇から中山正男は、這い上がっていき、日本史を変えるほどの大活躍をするのですが、その彼が日本ユースホステル協会を設立した時には、

「はて? どうしてなのか?」

と回りの人間は訝しがりました。中山正男ほど、青少年運動と縁の薄い人間もなかったからです。現に、日本ユースホステル協会の会長になった時に、

「これじゃ銀座で飲むことも出来ない。ホステスの手を握ろうとしたらユースホステルの会員証をだしてくるんだものなあ」

と困惑したくらいです。中山正男は、決して清廉潔白な人間でなかったし、聖人君子でもなかった。むしろ人間としてはゲスな部類であり、ダジャレや猥談に熱中し、時にアッとみんなを驚かせるほどの奇矯を行いました。その彼が、日本ユースホステル協会を設立した理由は、何であったか?

 すべては『馬喰一代』にあります。
 そこに全てが書かれてあります。
 では、馬喰一代とは何であったのか?

 私は、その謎を解くために、北海道は、北見市に向かいました。
 たったの4日間の旅ですが、馬喰一代の世界をみつけるために。


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 最近、アロマテラピーという言葉を聞くことが多くなりましたが、アロマテラピーは、1920年代はじめ、つまり大正10年頃に、フランスの香料の研究者であったルネ・モーリス・ガットフォセ(1881年-1950年)が、火傷をしたときに、とっさにラベンダー精油に手を浸したところ傷の治りが目ざましく良かったことから、精油の医療方面での利用を研究し始めたことから始まったと言われています。つまりアロマテラピーじたいは、比較的最近になって提唱された療法であり、盛んになったのは戦後になってからです。


 しかし、日本では江戸時代から日本式のアロマテラピーが盛んであり、明治時代においては、北海道北見市付近において大々的に生産され、一時期は世界の70パーセントの市場を独占していたことは、以外に知られていません。


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 馬喰一代の世界を語るには、北見のアロマについて少し研究する必要があります。
 で、私が訪ねたのが北見薄荷記念館です。
 この記念館は、中山正男の正体を解明するのに重要な施設であったりします。


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つづく

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posted by マネージャー at 22:12| Comment(2) | TrackBack(0) | 日本ユースホステル運動史の周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月07日

12月05日・久しぶりの火山体験ツアー

久しぶりにブログを更新します。
ここ10日間、通信環境が悪化したために更新できませんでした。
て、12月15日のツアー報告。
久しぶりの火山体験ツアーです。
今回の参加者は2人

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素晴らしい天気に恵まれて、雲一つありません。
日頃の行いが良い御客様たちですね。
ちなみに、今回は女子学生さんが参加。
なんでもユースホステルを研究しているとかで、インタビューを受けました。
うちのホームページも、よく読んでくれているようで、
作ったかいがあった。
よかった!
てなわけで、今回は、火山体験プログラムを体験してもらいました。

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後に地層が見えますが、これは天明三年の噴火がわかる地層です。
そして、浅間園を散策。

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遠くに廃墟が。

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コンクリの屋根に樹が育っています。
まるでラピュタの世界です。

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つづく

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posted by マネージャー at 17:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 北軽井沢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする