2011年01月31日

ウソ

ウソ

この鳥、見たことあると思いませんか?

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そう思ったあなた、気のせいではありません。
130円切手の絵になっていますから。

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ウソは、スズメ目アトリ科です。
と口笛のような鳴き声を発することから名付けられています。
昔の人は、口笛を「うそ」といっていました。
囀声は「フィー、フィー」と口笛のような澄んだ声。

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 鷽。鳥綱スズメ目アトリ科の鳥。ヨーロッパからアジアの北部にかけて広く分布し、北方で繁殖するものは、南へ渡って越冬します。フィーフィーと口笛のような声で鳴きますので、口笛の別称「おそ」から転じて和名がついたといわれます。決して嘘つきのためにつけられたわけではありません。

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 美しい鳥で、梅や桜の木に集まりますが、それは好物が桜のつぼみであるため。
 晩秋のウソは、ムラサキシキブの実に目がなく、
 細い枝を揺すりながらおいしそうに食べています。

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つづく

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posted by マネージャー at 13:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 自然−野鳥 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小浅間はウソだらけ!

小浅間はウソだらけ!
ここは小浅間山。

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これがウソ

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今回は西峰にチャレンジ。

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ヤシャブシです。
カバノキ科の樹で実はリースによく使われます。
草木染めなんかにも使われますね

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さて西峰。
長めが最高!

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実は、いつも行っている東峰より、数倍すばらしかったりする。

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あまりの素晴らしさに写真を撮りたくなる。
今回は、天候の関係で良い写真とは言えないが、
目で見た風景は、まさに絶景。

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東峰に向かう途中。

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東峰。
こっちは、軽井沢がよく見えます。

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最後に恒例のソリ。
安全に滑れるのが小浅間のよいところ。

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つづく

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ラベル:小浅間 ウソ
posted by マネージャー at 13:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 中軽−小浅間山・千ヶ滝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ユースホステルは甦るのか?18

ユースホステルは甦るのか?18

 キリスト教が日本に入ってきたとき、ゴッドを「天主」と訳しました。
 いい訳だと思います。
 もしゴッドを「仏様」と訳したら誤訳になりますね。
 ゴッドと仏様は別物です。

 しかし、現代ではゴッドを「神」と訳してますね。
 これは誤訳もいいところです。
 本来、神というのは、神道における超自然的存在のことです。
 絶対神のことではありません。
 しかし、キリスト教はゴッドを神と訳しました。
 これは誤訳です。
 だから「カミ」と言われたらゴットなのか神社の神様のことなのか
 文脈から推理しないと混乱します。


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 これと同じ事が、日本ユースホステル運動にもおきています。公営ユースホステルの存在です。日本では運輸省が公営ユースホステルを作りましたが、これは文部省管轄の日本ユースホステル協会とは別の組織です。で、日本ユースホステル協会こそが国際ユースホステル協会に所属している組織であり、公営ユースホステルは、全く別物です。その理由は、公式には会員証がなくも泊まれるからです。一般的に言ってユースホステルは、会員証が無ければ泊まれないことになっています。つまり身元がはっきりしてないと泊まれないのです。しかし公営ユースホステルは誰でも泊まれます。

 これをユースホステルといって良いのか?
 普通なら駄目です。

 国際ユースホステル協会の基準に達してないからユースホステルではない。ですから公営ユースホステルが出来たときに日本ユースホステル協会は、「ユースホステル」という文字を商標登録して使わせなくするか、それが駄目なら自らを改名して「ユーゲントヘヤベルゲ(ドイツ語)」などを商標登録してユーゲントヘヤベルゲ(ドイツ語)と、そうでないものを区別すべきだったでしょう。

 ところが、日本ユースホステル協会を創設した中山正男氏と横山祐吉氏は、そうはしなかった。公営ユースホステルも、日本ユースホステル協会の中に飲み込んでしまった。彼らは、あまり些細なことにこだわらなかった。もっと大きな世界に目を向けていってたのです。


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 しかし、この大局的な判断は、将来に禍根を残します。会員証を取り扱わないということは、忙しいときに煩雑な手間をかけなくてよいということになります。つまり、そういうユースホステルが得をするということになる。公営ユースホステルと、民営ユースホステル・直営ユースホステルの間に不公平な状況が発生します。

 さらに公営ユースホステルには、減価償却費というものがありません。国と自治体の予算で建設しているので建設費を経費に入れなくて良い。もちろん銀行に借入金の利息を払わなくて良い。ただでさえ民間のユースホステルに対して有利な経営をしているのに、会員証を取り扱わないという有利な材料をもっている。そのうえ日本ユースホステル協会に支払う上納金まで払わないところさえある。公営ユースホステルは、あらゆる面で恵まれている。にもかかわらず、日本ユースホステル協会は公営ユースホステルを飲み込んでしまった。不公平になるのを承知の上で、全国各地の公営ユースホステルを日本ユースホステル協会は認可してしまった。

 どうしてそんなことをしたのか?

 一つは、利用者のためです。公営ユースホステルは大規模なものが多く、ベット数も多い。つまり学校利用などの団体利用をしやすい。そのうえ自治体運営のために自治体から援助を受けやすい。つまり良い施設を維持できる可能性がある。それにせっかく運輸省が予算をだしてくれたのだから、わざわざ水をさしたくないということもあったでしょう。

 もう一つは、中山正男氏にしろ、横山祐吉氏にしろ、海外に目が向いていた。日本のユースホステル運動をジャンジャン盛んにして、会員を増やし、宿泊数を増やし、ベット数を増やし、施設数を増やし、ヨーロッパにホステラーの使節団を送り込み、世界に注目を浴びたいという意気込みがあった。そのためには、本来ならユースホステルと言っていいかどうか微妙な公営ユースホステルまでも日本ユースホステル協会が認可したのです。


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 実は、このような大局的な判断は公営ユースホステルだけにかぎりませんでした。地方協会の認可においてもゆるいものでした。東京などの一部を除いてじゃんじゃん認可していった。しかも、実に統制がゆるかった。フランチャイズのような商法上の契約を結ぶことなく、「やりたい」と言ってきた若者にジャンジャン任せていきました。

 そのうえ、国内のユースホステル運動さえも地方協会に丸投げしてしまった。逆に言うと、そのゆるい縛りによって若者たちの活動が活発になり、日本におけるユースホステル運動は爆発的に発展していきました。地方協会なしに初期の頃の盛んなユースホステル運動はありえませんでした。しかし、最初は若かった地方協会の役員たちは、どんどん高齢化していきました。そして、いつのまにか若者たちは消えていきます。中山正男氏も横山祐吉氏も積極的に若者たちを起用しましたが、起用された人は必ずしも若者を起用するとは限らなかった。


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 まあ、それはともかく、このゆるい組織の形態と、地方協会へのユースホステル運動の丸投げ、そしてグループ活動の積極的な活用によってユースホステル運動は、大いにもりあがりました。特に埼玉県ユースホステル協会や、静岡県ユースホステル協会は、一時期、ものすごいパワーをもっていました。地方協会が観光バスを自分たちで持っていたり、海外旅行を主催したりして大儲けしていたのです。もちろん他の県も活発な活動をしていました。ある時期までは、地方協会が潤っていた時代があった。そして国内は、地方協会にまかせて世界に目をむける中山正男・横山祐吉がいた。


つづく

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posted by マネージャー at 03:17| Comment(0) | TrackBack(0) | ユースホステルの話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

AFC アジアカップ優勝おめでとう

AFC アジアカップ優勝おめでとう

見ました?
心臓に悪い試合でしたね



しかし、オーストラリア強いなあ
どっちが勝ってもおかしくなかった。
川島は、すごいキーパーになったなあ。
全盛期の川口を思い出させる。



他の選手もがんばった。
ありがとう日本代表!

泣くなオーストラリア!
君たちも強かった。
素晴らしいチームだ


つづく

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posted by マネージャー at 03:02| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース・時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月30日

今回は御客様のお誕生日でした

今回は御客様のお誕生日でした。
嫁さんも前日からケーキ焼いていました。

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ちなみに前日には、妻の誕生日だったので、
日本三大ケーキの町である佐久でケーキめぐりしてきました。
その時の画像は、また後ほど。

また、妻の誕生日(1月28日)にあわせて
1日早く泊まって祝ってくれた御客様もいました。
ありがとうございました。
しかし、夫の私は、足の怪我と熱で早々にダウンでしたが。


つづく

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posted by マネージャー at 22:18| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 2012以前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

今年のウィンターフェスティバル−夜の部

今年のウィンターフェスティバル−夜の部
今年のレイアウトは去年と変わっていました。

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花火も、10のテーマごとに司会者が紹介!

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今年は大玉が多かったですね!

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これは珍しいハートの花火
愛妻がテーマです。

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フィナーレです!

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次に星空鑑賞会

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オリオンと冬の三角形

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冬の星座たち

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木星

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そしてモニュメント

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つづく

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posted by マネージャー at 22:04| Comment(0) | TrackBack(0) | イベント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月29日

浅間高原ウィンターフェスティバル見学ツアー 昼の部

浅間高原ウィンターフェスティバル見学ツアー 昼の部

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今年で4回目のウィンターフェスティバルです。
ちょっとのぞいてみました。
まずは、スノーモービルで遊びました。

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そして、スノーチュービング

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景品があたるクジもやっていました。
観光協会のきれいなお姉さんの笑顔が素敵。

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アイスバーも嬉しい

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雪だるまたちです!

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寒くなったら鹿沢温泉の足湯体験。
温まります。


つづく

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posted by マネージャー at 16:44| Comment(0) | TrackBack(0) | イベント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月28日

ユースホステルは甦るのか?17

ユースホステルは甦るのか?17

 宿屋にユースホステル運動への理解がなければ、会員は増えにくい。
 にもかかわらず、日本ユースホステル協会は、
 宿屋をぬきにしてスタートを切ってしまった。
 これは不幸なスタートでした。


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 そんな状況の中で横山祐吉氏は、ユースホステル運動を理解した宿屋を増やすべく縦横無尽の大活躍をしました。地方の青年団関係者の縁をたよって民間宿泊施設に余っていた部屋をユースホステル利用者に使えるようにしてもらったのです。横山祐吉氏みずから一軒一軒まわって旅館・神社仏閣・山小屋・庄屋などに部屋を提供してもらったのですね。

 実は、その時のことは、北海道のユースホステルでヘルパーしていた時に、オフシーズンに北海道を旅しているときに、複数のマネージャー(ペアレント)から聞いています。日本ユースホステル協会の横山祐吉氏が、頭を下げてまわったようです。だから、その頃からのマネージャーたちは、ユースホステル協会ができたときには、平身低頭、頭を下げてユースホステルになってくださいと言っておきながら、今になって、でかい面するなんて!と怒っていました。

 また、日本ユースホステル協会の広報をやっていた人が、横山祐吉氏に劣悪施設として、ユースホステル契約を解約したいリストを見せたときに、横山祐吉氏は
「俺が土下座して御願いした宿を切るのは許せん」
と突っぱねたと言います。横山祐吉氏にしてみれば、宿(ユースホステル)が無くて苦しいときに、青少年のために部屋を提供してくれた宿主を裏切ることはできなかったのでしょうね。横山祐吉氏には、こういう情があった。けれど、この情のために後年の利用者にしわ寄せが行ったりもした。


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 まあ、そんなことは、どうでも良いのですが、ここで重要なのは、初期の頃のユースホステルは、横山祐吉氏に拝み倒されてユースホステル契約したところが多かったと言うことです。で、そのうち会員が増えてきて旅行バブルがおきると、経営のためにユースホステルをはじめるところもでてくる。そして、ユースホステル好きな若者が、自らユースホステルを経営しはじめたりもしてくる。

 こうなってくるとユースホステル経営者のタイプ・気質が分かれてきます。拝み倒されてユースホステルをはじめたマネージャーと、ユースホステルが好きで好きでマネージャーになった人では取り組みがちがってきます。温度差がでてきます。前者は、ユースホステルという枠にこだわらないし、後者は良くも悪くもユースホステル的になります。

 こうなると利用者の方も二分されてきます。
 前者にあった利用者は前者に泊まるし
 後者にあった利用者は後者に泊まる。
 つまり、利用者も二通りの気質が生まれてきます。

 そして、ユースホステル運動に熱心なグループと、そうでないグループに分かれてきます。各マネージャーで価値観が変わってくる。これは脱イデオロギーをめざした横山祐吉氏の狙いどうりの結果であったかもしれませんが、意外な後遺症が残りました。多様な価値観・多様なユースホステルが出現することによって、入会業務に熱心なところと、そうでないところに分かれてくるのですね。


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 そのうえ、もう一つ不幸なことがおきてしまった。
 公営ユースホステルの誕生です。

 実は公営ユースホステルは、日本ユースホステル協会とは別の流れで誕生しています。日本ユースホステル協会は、青年団からの流れで文部省主管の団体です。しかし、公営ユースホステルは、国交省(旧運輸省)の予算で建てられており、国交省(旧運輸省)が管轄していたのです。そのために公営ユースホステルは、直営ユースホステル・民営ユースホステルと、決定的に違うところがあります。

1.公共の宿であること
2.会員証が無くても泊まれること
3.一部が、日本ユースホステル協会に属してないこと

 日本ユースホステル協会発足以来、協会関係者は、自前のユースホステルを持ちたいと熱望して来ましたが、特に財団法人として認可(昭和31 年)以来、所管官庁である文部省に対して国費でユースホステル建設して欲しいと陳状を繰り返して来ました。一方運輸省でも観光的見地から、日本に外国の若者を誘致することを主な目的として、ユースホステル建設国庫補助金の予算要求を昭和32年度に行きましたが、実現をみませんでした。

 このため昭和33年度予算要求の際に日本ユースホステル協会の中山正男氏と横山祐吉氏が、大蔵省の応接室を占拠し、陳情をくり返し、総理大臣岸信介の裁定まで持ち込み、1億円の予算がきまりました。これで日本ユースホステル協会の直営ユースホステルが建てられるかとおもいきや、文部省・運輸省が仲良く分け前をはねてしまった。


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 文部省には1億円のうち6000万円が配分されましたが、これは青年の研修を目的とする「青年の家」建設のためのものとなり、ユースホステルには一円もおりてこなかった。運輸省は、4000万円を「ユースホステル建設補助」として予算獲得し、地方自治体に補助交付して、いわゆる「公営ユースホステル」を建設していきました。

 ところがこの公営ユースホステルは国民の税金によって建てられたものですから、特定の会員だけのものではなく、一般の人たちにも公開すべきであるとの考え方から、誰でも利用できることになりました。会員証が無くても泊まれるのは、そのためです。もし、日本ユースホステル協会が、政府の団体であったら直営ユースホステル、公営ユースホステル、民営ユースホステルという区別は無かったでしょうし、「青年の家」もユースホステルとして建設されていたでしょう。しかし、日本ユースホステル協会が民間団体であったために、このような複雑なシステムとなった。

 その結果、日本のユースホステル運動は、
 公営ユースホステルと、
 日本ユースホステル協会という
 2つの組織が出来上がり、事実上分裂してしまったのです。

 これが、ただでさえ無目的な団体である日本のユースホステル運動は、全く混乱してしまう。

 一生懸命入会業務を行う宿があり、
 入会業務に気乗りしない宿があり、
 全く入会業務を行わない宿がある。


 (公営ユースホステルは入会しなくても泊まれる)

 そして互いに層の異なる御客さんをもつようになる。



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つづく

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posted by マネージャー at 23:42| Comment(3) | TrackBack(0) | ユースホステルの話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月27日

最近、野鳥たちが馴れ馴れしくなっている件

最近多いのがツグミたち。

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ウソだよーん
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ヒガラ
こいつはなれなれしいです。
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つづく

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ユースホステルは甦るのか?16

ユースホステルは甦るのか?16

 ユースホステルのマネージャーになる前は、なんとなくユースホステル運動の最前線は、ユースホステルであり、ユースホステルのマネージャーが先頭をきって頑張っているのだと思っていました。嬬恋村の観光協会なら、ペンションのマネージャーが中心になって活動しています。だからユースホステル協会も、宿屋の主が中心になって活動しているのかなあと思っていました。

 で、2001年に4月。北軽井沢ブルーベリーYGHをオープンして4ヶ月しかたってないにもかかわらず、私が群馬県ユースホステル協会の理事に任命されることで
「そうか、やっぱりな!」
と思って理事会にノコノコでかけていったのですが、出席してみたらまるで違っていた。ユースホステルのマネージャーは私一人でした。その後、谷川岳ラズベリーYHがオープンしたのですが、曽原マネージャーは、なかなか理事にはなれなかった。当時は
「あれ?」
と、不思議でなりませんでした。
「最前線にいる宿主が中心ではないのか?」
と。


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 しかし、これは私の誤解でした。日本でユースホステル運動が開始した時、その運動の推進者は、宿屋ではなかった。教育関係者や青年団関係者や青少年運動関係者たちが推進した。だからスタート時点でのユースホステルは1軒もなかった。そこでYMCAや日本青年館が、空いている部屋の一部をユースホステルとして貸しただけだった。つまり運動の主体は宿でなかった。

 当然のことながらユースホステル運動は、宿泊からスタートしてない。で、どこからスタートしたかというと、行事からスタートしていた。しかも、その行事をバックアップする者がいた。自転車振興会です。日本ユースホステル協会を創設した中山正男氏の親友(清水斉)が、自転車振興会にいたからです。

 で、日本ユースホステル協会の立ち上げは、銀座の自転車会館で、日本最初のホステリングは、なんとサイクリングだった。もちろん自転車振興会がスポンサーです。日本ユースホステル協会は、その後、この自転車振興会から多くの援助をうけることになります。自転車(競輪)とユースホステル運動は、切っても切れない関係になります。


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 それはともかくとして、日本におけるユースホステル運動は、宿(ユースホステル)から始まってないのですね。宿屋のマネージャーが集まって、ユースホステル運動をはじめたわけではない。ここが本家ドイツのユースホステル運動と決定的に違っているところです。

 宿がない。
 だから行事を行った。
 ハイキングやサイクリングを行った。
 コーラスやスケッチも行った。
 そしてお茶会を行った。

 お茶会には、下中弥三郎・大宅壮一・尾崎士郎といった超有名人を集め、その娘たちまで動員しました。そして青少年会員たちと仲良く談笑したわけです。場所は、日本青年館です。で、多くのグループを作ってグループ活動をはじめました。三浦昭夫、栗林貞明、毛利良彰といった人が活躍しました。横山祐吉氏の息子さんである横山岑生氏もグループ活動の中心にいたひとです。彼らが日本ユースホステル運動を作ったのであって宿屋が作ったのではなかった。これは、地方協会でも事情は同じでした。だから群馬県ユースホステル協会の理事会に出てみたら、そこに宿屋は私一人しかいなかったということがおきてくる。

 これは日本ユースホステル協会の発達史としては、
 とても不幸なスタートだった。
 では、どういうところが不幸だったか?


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 これは常識で考えてもらえば分かるかと思いますが、普通、宿屋というものは、御客さんを増やそうとする。会員を増やそうという発想にはならないのです。会員を増やしても御客さんが増えるとはかぎらない。むしろ減る可能性があります。これは協会側にいると分かりにくい。ユースホステルの利用者にもわかりにくい。しかし、ユースホステルとペンションの二軒を経営すると、すごくよくわかる。具体的に例をあげて解説してみましょう。

 例えば、7室24ベッドのペンションを経営したとします。予約受付の電話は、満室でも7本です。チェックインも7回、チェックアウトも7回です。駐車場も7台分あればいい。しかし、7室24ベッドのユースホステルを経営すると、予約受付の電話は24回。チェックインも24回、チェックアウトも24回です。駐車場も24台分必要になる可能性がある。道案内の電話対応も24回になる可能性が出てくる。つまりユースホステルにするとペンションより忙しくなる。人件費のコストがかかるのです。そのうえ会員入会登録作業があったりすると、10人の入会登録があれば、一人5分の時間が割かれたとして50分も拘束される。忙しい合間に煩雑な手続きが必要になり、顧客サービスが低下するのです。

 これがペンション客ならば、1室の代表者に連絡すれば、連れの御客さん全員に伝わります。しかし一人旅の御客さんが中心のユースホステルの場合、24名全員に伝えることになることもある。その煩雑さにたまりかねて、入会業務に熱が入らなくなる。入会のための営業よりも、集客に繋がる顧客サービスに力を入れようとする。それが宿屋がとりたくなる行動なのです。だから宿屋に理解が無ければ、入会業務に熱が入らないのです。


(と、文字にしてはみたけれど、これで利用者や協会に熱の入らない理由が伝わるかと言ったら、伝わらない気がする。文字にしても空しいだけ。こればかりは体験しないと分からないでしょうね。逆に言うとユースホステルのマネージャーなら私の言わんとすることは、身に染みてわかると思う。ぶっ倒れる寸前のところでフラフラになりながら作業している人間が、御客さんを減らしてでも入会勧誘しているマネージャーなら分かるのだが、一般人に分かれと言っても絶対に無理でしょうね)


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 宿屋にユースホステル運動への理解がなければ、会員は増えにくい。
 にもかかわらず、日本ユースホステル協会は、
 宿屋をぬきにしてスタートを切ってしまった。
 これは不幸なスタートでした。

 そんな状況の中で横山祐吉氏は、
 ユースホステル運動を理解した宿屋を増やすべく縦横無尽の大活躍します。
 それは....?


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2011年01月26日

ユースホステルは甦るのか?15

ユースホステルは甦るのか?15

 しかし、このPR作戦は、うまくいきませんでした。横山祐吉氏が理事長を解任された昭和47年以降、ユースホステルの会員は、じゃんじゃん減っていったのです。現在まで、何人もの理事長が交代し、理事や評議員も次々と変わっていきましたが、どうにもならなかった。会員は減る一方でした。時限爆弾は、爆発し続けていきました。


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 実は、この爆発し続ける時限爆弾を私が知るきっかけがありました。それは忘れもしない2001年。北軽井沢ブルーベリーYGHユースホステルがオープンした年の3月に、群馬県ユースホステル協会から理事の任命をいただいた時でした。

 新参者の私が、恐る恐る理事会に参列してみてと、背広をきた紳士たち。それも六十歳から七十歳くらいの紳士淑女のみなさんが大勢現れました。普段着の人間は私一人です。というか私は作業着で参加してしまい自分の非常識に赤面するはめになった。

 で、型どおりの理事会が開かれ、末席で小さくなっているうちに理事会は終了。そのまま二次会に移行しました。で、紳士淑女の皆さんと名刺交換をしたわけですが、群馬県の社交ダンス協会会長だの、リクリエーション協会の会長だのの名刺をいっぱいもらったわけです。そして、みなさんお互いに「ちゃん」づけで呼び合っている。


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 どうやら戦後の青年団再建の流れから生じたリクリエーション関係のグループ活動からのつきあいらしい。で、理事の皆さんは、戦後それらの団体を設立した創業の志士たちであったわけです。もちろん、彼らが青年の時に創業したわけですから、最初は青年のあつまりだった。けれど、それが高齢化することによって青年は、ごくわずかになってしまった。青年との距離は、祖父と孫の距離より大きくなってしまった。

 しかし、彼ら老紳士たちが引退すれば、かわりに若い人たちが入ってくるとは、とても思えません。逆に組織は潰れてしまう気がします。これは、日本ユースホステル協会に関しても一緒で、いま頑張っている理事たちを一掃して、代わりに若い人を採用しても、ユースホステルに若者が戻ってくるとは、とても思えない。逆に悪くなる一方だと思えてならない。

 というのも若い人たちほど、ユースホステル運動の歴史を知らない。
 ユースホステルができた経緯を知らないからです。
 これはもう絶望的なくらいです。
 私が他のマネージャーたちと話し合っても話が通じない。
 つまり過去の遺産がノウハウとして蓄積されていない。
 それらが多くのマネージャーに継承されていないのです。

 だから創業の理事さんたちに引退しろなんてとても言えない。
 彼らが引退したら過去の遺産は消滅し、
 日本ユースホステル協会は消えてしまいかねない。
 私には、そう思うだけの根拠があります。
 過去をふりかえろうとしないマネージャーたちの過激な意見を何度も聞いているからです。

 会員証を廃止しろとか、
 ペンションと同じようになれとか、
 ユースホステル運動やめて宿屋組合になれとか、
 会員証をキャッシュカードにしろとか、
 いろんな無茶を言ってくる。


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 このような不幸の原因は、創業者と今の経営者の間に歴史が共有されてないことにあるかもしれません。このことは、横山祐吉氏が自ら作ってしまった道です。協会としての目的をもたなかったために、みんなが歴史を共有できなかったのです。

 あと横山祐吉氏は、自分を語ろうとしなかった。そのために横山祐吉氏の考え(グランドデザイン)が回りに浸透しなかった。いや、わざとぼやかした。ぼやかした上で、強力なリーダーシップを握ったので、よけいに回りが理解できなかった。しかも、それは脱イデオロギー路線をすすめる横山祐吉氏の狙いでもあった。けれど、そのために、ユースホステル運動の歴史を共有できなかった。協会としての目標や理念に全員一丸となって進むことが出来なかった。


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 おっと話しが遠回りしました。
 ここまでは、前置きです。
 やっと本題に入ります。

 2001年3月、私は、群馬県ユースホステル協会の理事になりました。そして理事会に参加し末席で小さくなり、名刺交換したあとで、一人の理事さんを前橋駅に送っていくことになりました。その方は、かなりの年齢の方でしたが、群馬県のユースホステルの歴史について昔のことを聞かせてもらいました。

「どうしてユースホステルの利用者が減ったんでしょうかね?」
「それは、はっきりしている」
「どうはっきりしてるんですか?」
「これは誰も言わないが、ユースホステル運動が下火になったのは、高校生にユースホステル運動を禁止してからだよ」
「え? どういうことですか?」
「・・・・」
「話しの流れが見えません」
「学生運動が激しかった1970年頃、日本政府が、法律で高校生の政治運動を禁止したんだよ。それにともなって高校生によるユースホステル運動も禁止されたんだ」
「はあ?」
「それまでは、全国の高校にユースホステルクラブがいっぱいあったんだ。高校生のうちにユースホステルクラブで旅行したりした。そして全国の様々な高校生と交流をおこなっていた。今で言えばインターネットのようにユースホステルで出会いを経験し、感動と共に高校を卒業した」
「・・・・」
「そして、ある者は社会人となって、ユースホステルを使ったグループ活動に専念したり、ある者は大学生となってユースホステルを使って一人旅をして見聞を広めたりした。昔は、ユースホステルに高校生がいっぱいいたんだよ。でも、ある日突然、高校生のユースホステル運動は禁止されてしまって、その後、数年とたたずにユースホステルの会員は激減していったんだ」
「・・・・」
「私は、群馬県のある高校のユースホステルクラブの部長でね、ユースホステルを使っていろいろなイベントをやったんだけれどね。今、理事でいるのも、その時の縁でねえ」
「・・・・」

 前橋駅に月が大きく輝いてる夜でした。
 その理事さんは、月を見ながら呟きました。 

「ユースホステルは、箱に閉じ込められた高校生にとっては、新しい世界。新鮮な衝撃だったんだよ。親や先生の教えてくれる世界の他に、別の世界があったんだと」

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つづく

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posted by マネージャー at 20:46| Comment(7) | TrackBack(0) | ユースホステルの話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日本、2大会ぶり決勝進出=PK戦で韓国下す−アジア杯サッカー

アジア杯サッカー 日本、PK戦で韓国下す!

http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2011012600019

 【ドーハ時事】サッカーのアジア・カップ第16日は25日、当地で準決勝が行われ、4度目の優勝を狙う日本は韓国をPK戦の末に下し、2大会ぶりの決勝進出を果たした。29日の決勝では、オーストラリア−ウズベキスタンの勝者と戦う。また、次回大会の予選免除も決まった。
 先制された日本は前半36分に長友(チェゼーナ)の突破から前田(磐田)が決め同点。延長前半7分、細貝(アウクスブルク)が勝ち越し点を奪ったが、終了間際に追いつかれた。
 PK戦ではGK川島(リールス)が好守を見せ、韓国は3人続けて失敗。日本は長友が外したが、4人目の今野(F東京)が決め、3−0で制した。
 日本が韓国に勝ったのは2005年東アジア選手権の1−0の勝利以来。両チームの対戦成績は日本の12勝38敗21分け(日本2勝1敗のPK戦は引き分け扱い)となった。 (2011/01/26-01:14)





よっしゃー!

日韓戦、やっぱりただでは終わりませんでしたね。
途中、?なジャッジも多かったのにも、ハラハラしました。

動画でもわかると思いますが、今野のファールは、絶対におかしいですね。
おかしなPKが多かった。
日本は競り合う時手が相手に触れただけで笛吹かれるのに
韓国は同条件以上のことしてもスルー

もっともカタール戦の時は、もっと酷かった。
あれに比べればマシだけれど。


延長戦でも同点。
PK戦でやばいと思ったけれど、
GK川島がスーパーセーブ。
さらに日本は3人が決める。

すごかった!
ここまできたら優勝してくれ!









posted by マネージャー at 01:53| Comment(3) | TrackBack(0) | ニュース・時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月25日

ユースホステルは甦るのか?14

ユースホステルは甦るのか?14

 ただし、横山祐吉氏も中山正男氏も、若い人たちをジャンジャン起用はしているのです。起用はしているけれど、ちょっと油断すると、高齢化は着実に進行してしまう。そうなると若い人たちは、ユースホステル運動に無関心になっていく。思い入れを感じてくれなくなるのです。これが時限爆弾です。若い人たちの無関心こそが最も恐怖すべき爆弾だったのです。だから横山祐吉氏は、その対策もたてていました。

 それは、PRによる広報活動でした。

 日本ユースホステル協会が、広報のための予算を得たとき、最初に行ったことは、3種類のユースホステル新聞を作ったことです。一つは会員に読ませる新聞。もう一つは関係者に読ませる新聞。そして最後に外部にPRするための新聞。そして1970年の10月21日に、全国ユースホステル広報担当者会議を甲府ユースホステルで31都道府県から36名の広報担当者を集めて開催しています。

 ここで横山祐吉氏は、このように述べています。

「ユースホステル運動のPRは、人間関係の結びつきのある会員仲間を対象として働きかける、すなわち「クチコミ」が最も効果的です。その一方で、難しいと言われるPRは、無関心な者を説得する方法です。PRにはこの二つの異った要素を考えて行われなければなりません」

 さすが横山祐吉氏です。
 一番難しいとされる広報活動を熟知しています。
 無関心の者を説得することが一番難しいことを良く知っている。


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 実は横山祐吉氏は、広報の専門家でした。大日本青少年団の広報部長をやっていた人だったからです。そして日本最大の雑紙「青年」を発行していました。ですからマスコミに知り合いはおおかったし、文化人とのおつきあいも多かった。広報こそは横山祐吉氏の最も得意分野だったかもしれません。その横山祐吉氏が、全国ユースホステル広報担当者会議で、このようなことを言っています。

「ユースホステルは若人の生活の場です。
 この生活に密着したPR活動でないと効果が上がらない、
 若人の人生観と離れてPRはありません。

 PRは人生であると考えてもいいです。

 PRすることによって青少年の生活を豊かにする。
 青少年の生活を変えていく。
 考え方を変えていく。
 よい環境を作っていく。
 それがPRの目的です」

 これを1970年に言ったのですから横山祐吉氏は天才でした。
 広報の本質を良く知っていました。


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 実は広報というのは、宣伝ではない。宣伝と広報ではまるで違っている。宣伝を英語でプロパガンダと言いますが、ナチスは宣伝省というものを作りました。宣伝は、こっちの意図するところに相手を導くことが目的です。ナチスは、そういう省庁を作ってドイツ国民を導いていった。

 これが広報となると少し様子が違ってきます。広報のことを英語でPR(Public Relation)と言いますが、PRとは、己の自己修正のための宣伝方法です。相手を導くのではなく、相手に利益をもたらすための自分を変えてしまう宣伝方法です。つまり、御客さんとキャッチボールして自分を相手にあわせていく宣伝方法です。で、肝心の横山祐吉氏は、どのようなPRをしろと演説したかと言いますと、

1.ユースホステルは若人の生活の場である。
2.この生活に密着したPR活動でないと効果が上がらない。
3.若人の人生観と離れてPRはありえない。

と言いました。つまり青少年が、ユースホステルに求めているものを無視してはPRもへったくれもないぞと言っているわけです。そして当時の青少年たちが求めていたものを提供したのが、ユースホステルであり、ユースホステル新聞であり、多くのグループ活動であったわけです。

 そして、これらをまとめた世界。つまりユースホステルの世界は、当時の日本に一つしか無かった。今でいえば、ユースホステルの世界は、インターネットみたいなものであったかもしれません。自由で、いろんなグループがあり、情報が豊富で、しかも出会い系であった。そして、ユースホステルを利用すれば確実に生活が楽しくなった。いろんな人たちと知り合いになれ、いろんな体験ができて、いろんなコネクションができあがった。

 横山祐吉氏は、それをPRしろと言ったのです。
 PRすることによって青少年の生活を変えていき、
 みんなに喜んでもらいなさいと言っている。
 つまり最高のPRは、あなたの生きざまを見せることだと。

「PRは人生であると考えてもいいです(横山祐吉談)」

 また、こうも考えていたはずです。日本ユースホステル協会は、何のイデオロギーも持ってないところだから、それは個人個人がもつべきものだから、青少年の各自に、いろんな人生をみつけだしてもらいなさいと。そして、それを密かに応援できるユースホステル協会になりなさいと。つまり青少年が、ユースホステルに求めているものを提供してあげなさいと。

 そうすれば無関心な人たちもユースホステルの世界に興味をもってくれると。
 口コミで会員が増えていくと、
 グループ活動も盛んになり、サポーターが増殖していくぞと。


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 しかし、このPR作戦は、うまくいったとは言えません。横山祐吉氏が理事長を解任された昭和47年以降、ユースホステルの会員は、じゃんじゃん減っていったからです。現在まで、何人もの理事長が交代し、理事や評議員も次々と変わっていきましたが、どうにもならなかった。会員は減る一方でした。時限爆弾は、爆発し続けていきました。


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 実は、この爆発し続ける時限爆弾を私が知るきっかけがありました。それは忘れもしない2001年。北軽井沢ブルーベリーYGHユースホステルがオープンした年の3月に、群馬県ユースホステル協会から理事の任命をいただいた時でした。新参者の私が、恐る恐る理事会に参列してみて、末席で小さくなっていると、驚愕する事実を聞かされたからです。

つづく

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posted by マネージャー at 23:42| Comment(5) | TrackBack(0) | ユースホステルの話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小浅間山の西峰を探検

小浅間山の西峰を探検してきました。

最近の小浅間山は、マナーの悪い御客さんが多いですね。
犬のウンチだらけになってきている。
犬のウンチくらい始末してほしいものです。
願わくば、これ以上、犬連れの人に荒らしてもらいたくない。
他の山にはきてもらいたくない。

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なんと、林道で馬で散歩している人が!
さすがは北軽井沢。

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昔、迷い馬さがしてますの看板があったところだけのことはある。

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これが小浅間山の西峰です。

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展望がすばらしい。

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こっちは東峰。

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つづく

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posted by マネージャー at 20:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 中軽−小浅間山・千ヶ滝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月24日

ユースホステルは甦るのか?13

ユースホステルは甦るのか?13

 日本ユースホステル協会を創設した横山祐吉氏と中山正男氏ですが、
 どっちがボスだったかと言うと中山正男氏だった。

 中山正男氏は、本気で青少年運動をやりたかったんでしょうね。ずいぶん無茶な事をして日本ユースホステル協会を大きく発展させていった。その功績は、主に中山正男氏の手腕によるところが大きかったでしょう。中山正男氏がいなければ、ここまで大きな発展はしなかった。理事をぶん殴るといったこともしたし、泥棒みたいなことをしてサヨナラパーティーの景品を集めたりもした。


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 中山正男氏は、壮大な大風呂敷式を拡げる男だった。
 金もないのにアジアユースホステル会議を開いたり、
 国際ユースホステル会議を開いたりした。
 で、来賓の御客様のホテル代が払えません。
 だから助けてくださいと岸総理に泣きついて、内閣官房費で払ってもらったりした。
 そういう無茶苦茶なことをやって、ユースホステル運動を大きくしていった。

 そういう無茶苦茶な中山正男氏に対して、横山祐吉氏は、じっと耐えて従ってきた。
 そして兄貴として立ててきたんです。
 中山正男氏のどんな無茶苦茶な行動にも反抗せずに忠実な部下として行動してきた。

 ところが、そういう横山祐吉氏ではあったけれど、本当の意味で日本ユースホステル協会を牛耳ったのは横山祐吉氏の方だったのです。中山正男氏は、トップとして威勢が良かったけれど、大風呂敷を広げる人だったけれど、本質的に無思想だった。青少年運動に対しての一定の思想性は無かったのです。

 ところが、横山祐吉氏には明確なグランドデザインがあった。
 日本ユースホステル協会は、横山祐吉氏のグランドデザインのもとで
 着々と作られていったのです。

 しかし、このグランドデザインが、当時のユースホステル関係者には全く分からない。いや、分からせなかったと言ってもいいでしょう。わざと分からなくしたふしがある。多くの学生諸君が横山祐吉氏のところに押しかけて
「ユースホステル運動って何ですか?」
と問いかけても、歯切れの悪い言葉で煙に巻いた。例えば

「ユースホステル運動とは、富士山に登るようなものです。道はたくさんある。どこから登っても良い」

と禅問答のようなことを言った。それを聞いたユースホステル関係者は、ボーゼンとして言葉が出なかったと言います。関係者の人たちは、さぞかし困ったでしょうね。これじゃ何を目標にしてよいか分かりませんからね。しかし、この言葉こそ、横山祐吉氏の目指したところです。

 ユースホステル関係者の中にも、この言葉の意味するところを理解している人は、ごく少数いたことはいました。日本青年団から日本ユースホステル協会に移ってきた人たちです。城宝栄作さんなんかは、よく分かっていたと思います。それは何であるかと言いますと、

協会としては脱イデオロギーを目指したい

ということなんですね。

 協会としては、目的を固定したくないということです。
 そういうものは個人個人がもってもらいたい。
 それの手助けはするけれど、
 協会としての方向付けはしたくないということなのです。


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 これは横山祐吉氏の独創ではなく、日本青年団時代に教わった田澤義鋪イズムなんです。田澤義鋪の思想そのものなのです。思想とか、目的とかは個人にまかせる。それについては協会は関知しない。しかし、それを目指す青少年たちの手助けを行うというのが田澤義鋪イズムであり、横山祐吉氏の考えた日本ユースホステル運動なのです。

 だから横山祐吉氏は、ユースホステル運動という言葉さえも嫌った。密かに「運動」という言葉を嫌悪したのです。のちに日本ユースホステル協会の二十年史を作るときに「日本ユースホステル運動二十年史」とはしなかった。三十年史、四十年史、五十年史は、『日本ユースホステル運動・・・・年史』となっているのに、横山祐吉氏が編纂させた二十年史だけは、『運動』の文字が消えているのです。彼は、この運動という文字が嫌いだった。けれど、それを関係者の誰かに話してはないのです。誰にも話してない。ひっそりと心の奥にしまって墓場までもっていってしまった。


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 じゃあ、何故横山祐吉氏は、協会としては脱イデオロギーを目指したかったか? 協会として目的を固定したくなかったか?というと、これにも深いわけがあります。そのわけを話すと長くなるので今回はやめておきます。ただ言えることは、GHQが指導して行わせた『共同学習』や『グループ活動』や『グループワーク』が横山祐吉氏の狙っていた協会としては脱イデオロギーを目指したかったという方向性にとっては、とても都合のよいものだったのですね。だから盛んにユースホステル運動においてグループ活動を奨励したのです。

 しかし、当時の日本ユースホステル協会の関係者は、面食らったと思います。協会としては、目的を固定したくない。そういうものは個人個人がもってもらいたい。それの手助けはするけれど、協会としての方向付けはしたくないという考えは、一個人の理念としては立派な考えなんでしょうが、組織の人間としては、
「はあ? 何で?」
ということになると思います。

 しかし、これについては絶対に譲らなかった。
 独裁者として力を発揮して反対派を容赦なく追い出したと言います。
 もちろん裏から手を回して、再就職の世話をしていたようですが。

 さらに横山祐吉氏は、文部省と一緒に
「指導者のためのユースホステル活動」
(ここでも運動という文字は使われていません)
を出版して、トドメをさしました。

 この本に
「ユースホステルは、YMCAやボーイスカウトや青年団のように目的をもった団体でなく、ホステルを利用することを目的とした団体である」
と書いてしまった。この本が、ユースホステルの研修会に使われるようになったわけですから、ユースホステル協会は公式に無目的団体であることを表明してしまった。そして、目的や理念は、個人個人が背負うことになってたのです。


 ただし、文部省と一緒に発行した「指導者のためのユースホステル活動」は、律令みたいなものです。現代風にいえば、憲法前文みたいなものです。これだけでは、何の活動も出来ません。そこで、御成敗式目や武家諸法度のような非公式なものを密かに作った。これがグループ活動の推進でした。

 スケッチグループとか、
 写真グループとか、
 ハイキンググループとか、
 合唱グループとか、
 ウォーキンググループ

といったグループを量産させて自由に活動させました。


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 これが大当たりに当たりました。
 若者たちは、興奮しました。
 ユースホステル運動が、自分たちの生活の場になった。
 ユースホステル運動が、自分たちに幸せをもたらした。
 しかも若者たちが、主役だった。
 少なくとも彼らは、そう思った。

 グループ活動というのは、基本的に出入り自由です。
 気に入らないことがあれば、出て行けばよい。
 しかし、田舎だとそうはいかない。
 近所つきあいもあるし、出て行きにくく息の詰まる思いもする。
 特に昭和三十年代、昭和四十年代はそうだった。
 ところが、その当時のユースホステル新聞には無数のグループがあった。
 そして、どのグループも出入り自由だったし、脱会の後腐れもなかった。


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 だいたいユースホステルそのものが一期一会の世界です。みんな後腐れない自由を愛する仲間たちです。グループを脱退するのも自由。入会するのも自由。自分でグループを作るのも自由でした。自分の趣味のグループを立ち上げてメンバーを募集したりもした。募集は、ユースホステル新聞の地方版で行ったり、旅先のユースホステルで勧誘したりしました。

 こうして乱立していったユースホステル運動のグループ活動には、新鮮な自由さがありました。だから当時の若者たちは、グループ活動に熱狂し、しだいにユースホステル運動にはまっていきました。これこそ横山祐吉氏の狙いだったと思います。

 でも、これには時限爆弾がしかけられています。そうやってできあがったグループの会員たちは、すぐに年をとっていくといことです。グループは、つねに若い世代によって新設されなければ、どんどん高齢化がすすみ、消滅していくはめになります。例えば、女性なら結婚して子供が出来たらスケッチグループでスケッチして旅する暇が無くなってしまう。

 ユースホステル協会の役員なんかもそうです。財団法人化のさいに、会員による総会を廃止して、役員の互選にしてしまった。そうして横山祐吉氏は協会を特定イデオロギーから守ろうとした。イデオロギー好きな団塊世代の不毛な議論を警戒してした。その行為の善悪はともかく、その結果、役員の高齢化が進みました。互選のシステムは、役員に無理して若い人を入れようとしない限り、役員の高齢化は避けられません。何もしなければ役員は、どんどん偉い人の集まりになっていく。

 ただし、横山祐吉氏も中山正男氏も、若い人たちをジャンジャン起用はしているのです。起用はしているけれど、ちょっと油断すると、高齢化は着実に進行してしまう。そうなると若い人たちは、ユースホステル運動に無関心になっていく。思い入れを感じてくれなくなるのです。これが時限爆弾です。若い人たちの無関心こそが最も恐怖すべき爆弾だったのです。だから横山祐吉氏は、その対策もたてていました。それは.....?


つづく

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posted by マネージャー at 23:36| Comment(0) | TrackBack(0) | ユースホステルの話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

川原湯温泉 湯かけ祭り



川原湯温泉 湯かけ祭り

今年は、マスコミが続々登場!

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 午前5時45分。紅白に分かれ、王湯前の路上で向かい合い、
 おけに入ったお湯を空高く放り投げて「お祝いだあ」と大声を出し、
 階段下にある源泉と道路を何度も往復します。

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 お湯は見物客や報道陣にも容赦なく降りかかります。
 川原湯地区は住民の転出が相次ぎ、祭りも人手不足で大変といいます。

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 ふんどし姿の約60人の地元住民らは、一心不乱にお湯をかけ合いました。
 この1年間に宿泊できる旅館は2軒減って5軒になり、
 普段は寂しい温泉街に活気が戻りました。

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http://sankei.jp.msn.com/region/news/110121/gnm11012103030014-n1.htm

八ツ場・川原湯温泉湯かけ祭り 「お祝いだ」 モヤモヤ吹っ飛ばせ 群馬
2011.1.21 03:03

 政府が建設の要否を決めかねている八ツ場(やんば)ダム(長野原町)水没予定地にある川原湯温泉に20日、「湯かけ祭り」のかけ声が響き渡った。民主党政権誕生後2度目となった奇祭は、政治の停滞を吹き飛ばすような熱気とにぎわいにあふれ、会場は地域住民の一体感に包まれた。(三品貴志)

                   ◇

 祭り直前の午前5時ごろ。付近の温度計は氷点下6度を指していた。住民からは「去年より寒いぞ」との声が相次ぐ。会場となる共同浴場「王湯」前に見物客が集まるなか、参加者は凍える体を酒と湯で温めていた。

 和太鼓の演奏や神事が終わると「お祝いだ!」と、ひときわ大きなかけ声が上がった。参加者が温泉から飛び出し、互いに湯をかけ始めると、辺り一面にもうもうとした湯気が立ち上った。

 ◆元国交相にお誘い

 ダム建設の是非を議題に、昨年の祭りの直後に行われた前原誠司元国土交通相と地元住民との意見交換会では、住民から「(今年の湯かけ祭りでは)ふんどしを用意して待っています」と、前原氏に参加を呼びかける声があった。住民側が前原氏を誘ったのは、ダム建設の中止を表明した同氏と、建設を求める地元との軋轢(あつれき)を少しでも和らげたいとの思いがあったからだ。

 しかし、昨年9月、ダムを管轄する国交相は前原氏から馬淵澄夫前国交相に替わり、今年1月には大畠章宏前経済産業相が横滑り。交代が相次ぎ、信頼関係を築くこともままならない状態が続いた。

 ◆記者もびしょぬれ

 この日は、祭りが盛り上がりを見せると、参加者は見物客にも見境なく湯を浴びせ始め、“混戦”状態に。午前6時半に祭りは終わったが、取材した記者の体もびしょぬれになった。

 祭りの実行委員長で、川原湯温泉観光協会長の樋田省三さん(46)は無事役割を終えると、「ダムについて誰を信じて話をすればいいのか。もう少し先の見える暮らしをしたい」と、優柔不断な政府に対する不満を口にした。

 一方、祭りに参加した同町の建設業、大矢大介さん(30)は「ダムと祭りは別の話だ。これからも若い衆で祭りや温泉街を盛り上げていく」と晴れ晴れとした表情で語った。

 ダム建設をめぐり曖昧な態度を取り続ける政府に翻弄されながらも、川原湯温泉の住民らは今後、移転先の代替地で祭りを続け、結束を強めていく考えだ。



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つづく

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posted by マネージャー at 21:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 吾妻渓谷・川原湯温泉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

村上山スノーシューツアー報告

村上山スノーシューツアー報告です。
最近、村上山ツアーばかりだしていますが、
その理由は、はじめての初心者が参加しているからです。
初心者に優しい山なんですよ。
今回は、北軽井沢ブルーベリーYGHに初めて泊まった
冬山はじめての初心者の参加だったので村上山でした。


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宿泊の御客様も少なかったので、ツアー参加も女性の方が一人でした。
ちょっと淋しかったかもしれませんが、
考えようによってはガイドを一人で独占できたので、お得だったかも?


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あと参加者が少ないメリットとして
コースタイムがみじかくなりますね。


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浅間山もくっきり見えます。


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今回は、参加者一人でしたが、大勢いる時も楽しいので
これに懲りないでまたきてください。


つづく

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2011年01月23日

ユースホステルは甦るのか?12

ユースホステルは甦るのか?12

 グループ活動。小学校時代によく聞かされましたし、実際グループ活動による勉強をさせられました。グループ活動と言わず「班活動」と言う言葉を使った地方もあったと思います。企業においても、生産現場ではクオリティーサークルというグループ活動をやった人も多いかと思います。

 このグループ活動という言葉は、戦後に普及した言葉です。
 GHQの民政局が、さかんに普及させた言葉です。
 最初は、グーループ活動とは言わず、共同学習と言っていました。

 横山祐吉氏は、戦後まもなくGHQの指導の下に「共同学習の手引き」を出版しています。そして青少年運動において盛んにグループ活動を奨励したのです。この時、YMCAの永井三郎氏も、横山祐吉氏と一緒に、さかんにグループワークの普及運動を行っています。





 これはどういうことかと言いますと、それまでの日本では学問において上下関係が強かったのですね。師匠と弟子という関係が強かった。武道しかり、御稽古事しかり、古典芸能しかり、飲食店しかり。これをGHQの民政局が嫌ったのです。

 こういう上下関係が、日本の軍国主義の元になったと誤解した。
 で、上下関係による勉強方法を廃止して、
 グループ活動による共同学習をさせようとした。
 日本人に共同学習をおしえてやろうと息巻いて、
 さかんにグループ活動を推奨したのです。

 しかし、このグループ活動こそ、日本の伝統的姿でした。「和」を大切にする日本人の伝統だった。むしろ「和」のために特攻隊への志願が成立したといっても良い。それをGHQの連中はわからなかったんですね。だから横山祐吉氏は、大喜びでGHQが推奨する共同学習・グループ活動・グループワークをとりいれてしまった。その結果、日本の伝統とマッチしていたために爆発的に普及してしまった。それが私たちが、小中学校でやらされたグループ活動であり班活動でした。

(余談になりますが、イジメ問題は、私たちが小中学校でやらされたグループ活動と無関係ではありませんね。第二次大戦中に兵隊だった人の話だと、敵なんかより内務班のイジメが怖かったと言ってるくらいですからね)





 話しは変わりますが、横山祐吉氏が青年団の内部で干されるようになります。そのために青年団を辞めて、日本ユースホステル協会の専従になり、ユースホステル運動に熱中します。そして、ユースホステル運動にグループ活動・グループワーク・共同学習を大々的に取り入れるのです。

 スケッチグループとか、
 写真グループとか、
 ハイキンググループ

といったグループを大量生産させて自由に活動させます。
そしてユースホステル新聞などにとりあげて活動を煽ります。

 また、茶話会と称した集まりを盛んに行いました。会員を集めて懇談会を開いたのです。そこには理事長をはじめとする幹部をみんな出席させ、下中弥三郎や大宅壮一といった有名どころまで動員し、その娘たちまでかきあつめて、若者たちをお茶会に集客しました。

 忘年会は、サヨナラパーティーとして豪華景品を用意しましたが、ユースホステル協会に金はない。で、どうしたかというと、平凡社社長の下中弥三郎の自宅に乗り込んで、テレビでも何でもかたっぱしから持って行って景品にした。また、そごうデパートの社長が役員なのをいいことに、デパートから何でももっていった。ここまでくると立派な泥棒です。中山正男氏は、そういうことをする無茶苦茶な人間でした。しかし、こういう無茶で人を集めて、彼らにグループを作らせた。こうやって若者を増やしていったのです。





 さらに支部協会をジャンジャンつくりました。全国にグループ活動を普及させるには、支部を作って支部にグループ活動を推奨してもらった方が早いからです。さらに支部にユースホステル新聞の地方版まで作らせて、グループ活動を活発化させていった。こうして、雨後の筍のようにグループが量産されました。そしてグループ連合なるものができてくる。

 若者たちは、興奮しました。
 ユースホステル運動が、自分たちの生活の場になった。
 ユースホステル運動が、自分たちに幸せをもたらした。
 しかも若者たちが、主役だった。
 少なくとも彼らは、そう思った。

 しかし、思い出してください。昭和31年に日本ユースホステル協会が財団法人になった時、役員は互選になってしまっている。会員の総会は開かれなくなったのです。つまり、会員には議決権はなく、日本ユースホステル協会は、よりワンマンな体制になっている。これは横山祐吉氏が、青年団を青年に渡したのと全く違った決断をしている。

 しかし、そのワンマンな中山正男氏・横山祐吉氏の体制によって、学生たちを大々的に起用するようになったし、グループ活動の積極的な導入によって、ユースホステル運動は、青少年にとって身近になっていったのです。だから中山正男氏と横山祐吉氏の体制でないと、ああまで発展したとは思えない。





 ユースホステル業界の評価では、横山祐吉氏に関しては、賛否両論ですが、肯定的な感情をもつ人の大半は、学生時代に日本ユースホステル協会に行って横山祐吉氏に面会を求めた人たちです。初期の頃のユースホステル協会では、横山祐吉氏は、どこの馬の骨か分からないような学生たちの話しに耳を良く傾けたようです。どんな学生たちとも気軽に会ったらしい。そういう気軽さをもっていながら、組織の長としては独裁者であった。独裁によって若者たちの居場所(=ユースホステル運動)を作っていった。それが大成功を収めた。しかし、そこには時限爆弾もセットされていた。

 その時限爆弾とは何か?


つづく

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「こうのとり」搭載、ロケット打ち上げ成功

「こうのとり」搭載、ロケット打ち上げ成功

http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110122-OYT1T00501.htm

「こうのとり」2号機を載せて打ち上げられたロケット「H2B」(鹿児島県南種子町で)=浦上太介撮影 宇宙航空研究開発機構は22日午後2時37分、国際宇宙ステーション(ISS)へ物資を運ぶ無人宇宙船こうのとり(HTV)2号機を、鹿児島県・種子島宇宙センターからH2Bロケットで打ち上げた。





おめでとうございます!
はやぶさといい
イカロスといい
最近、ホームランをとばしていますね。
ワクワクします。
こういう事業は、もっと進めて欲しいなあ。

動画も素晴らしい!
キャプテンウルトラいい!
さすが富田勲さん!





かぐや(Kaguya)、アポロ15号(Apollo15)の着陸の痕跡を確認










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2011年01月22日

ユースホステルは甦るのか?11

ユースホステルは甦るのか?11

 横山祐吉氏が、日本ユースホステル協会を設立するのは昭和26年11月です。きっかけは、GHQが日本の青少年運動家を招待したことにはじまります。横山祐吉氏は、第3回目の招待で渡米し、ひょんな誤解から日本ユースホステル協会の人間と間違われて、アメリカユースホステル協会の人間と対面することになり、ユースホステル運動を知ることになります。





 で、帰国後、親友である中山正男氏に、ユースホステル運動について伝えると、中山正男氏は、ユースホステル運動の理念に興奮して2人ではじめることになります。しかし、この時点では横山祐吉氏は、日本青年館の職員でしたから、日本ユースホステル協会の仕事を精力的に行っていたわけではありません。むしろ中山正男氏が、次々と奇想天外な手をうって、世間にアピールしていました。資金も事務局も中山正男氏によって賄われていました。

 まず中山正男氏は、平凡社社長の下中弥三郎を会長に祭り上げます。そして平凡社から資金援助を得て、下中弥三郎の秘書だった金子智一を日本ユースホステル協会の職員としました。さらに中山正男氏は、大宅壮一、賀川豊彦といった有名人を続々と顧問に引き入れ、自民党政府のところや、文部省にも乗り込んでいき、朝日新聞などのマスコミも大々的に使って日本ユースホステル協会は、どんどん大きくなります。おまけに中央大学などのワンダーフォーゲル部の部員まで理事に取り込み、日本交通公社のトップまでもユースホステル運動にとりこんでしまいます。

 つまり、初期の頃の日本ユースホステル運動は、中山正男氏の能力と、義弟の金子智一氏の事務能力が実に大きかった。中山正男氏ぬきに日本ユースホステル運動の成長はありえなかったと言っていいと思います。横山祐吉氏は、この中山正男氏の強引でワンマンな手腕に、ひきまわされていますが、中山正男氏は必ず結果を出す人であったので、横山祐吉氏の方が年上であったにもかかわらず、中山正男氏を兄貴分として使えました。

 ここで不思議なことがおきます。

 中山正男氏は、超ワンマンなくせに、貪欲に若い人たちを引きずり込んだのです。日本ユースホステル協会を立ち上げたときに、もっと前からユースホステル運動を行っていた中央大学の学生たちが抗議にきたわけですが、その学生たちに
「そいつはいい! 一緒にやろう」
と声をかけて、学生たちを理事にしてしまった。若者たちを惜しげもなく起用した。そして彼らを使って日本初のユースホステル行事を行ってしまった。もちろん中山正男氏のコネでマスコミで大々的に記事にしてしまった。

 このように学生たちをガンガン使ってユースホステル運動を広めていった。やがて学生たちは、ヨーロッパに留学したりする。するとヨーロッパからの手紙がユースホステル協会に届きますから、それをユースホステル新聞に掲載しました。ネットのない時代ですから情報に飢えた若者は、ユースホステル新聞に掲載されたヨーロッパ情報を貪るように読みました。





 とにかく中山正男氏のやりかたは、無茶苦茶だった。
 彼は織田信長のようにワンマンに仕事をすすめました。
 その手法は、とてもじゃないが民主的とは言えなかった。
 しかし、そのワンマンさによって若者をじゃんじゃん取り込んでいきました。
 善悪はともかく、ワンマンで若者をユースホステル運動に惹きつけました。

 こうして何年かたつと、ユースホステル協会も所帯が大きくなり、ユースホステル協会創設より5年後の昭和31年に財団法人化されます。と同時に組織が大幅に変化します。会員が総会によって役員を選出していた青少年団体としての基本的要件が廃止され、役員の互選になってしまいました。現在のユースホステル協会の骨幹が、この時にできあがったわけです。

 と同時に、これ以降にユースホステル運動が大発展することになります。
 と同時に、後にユースホステルが衰退するための時限爆弾もセットされます。





 それはともかくとして横山祐吉氏は、青年団を文部省ではなく、青年に渡した。
 ところが、どういうわけか
 ユースホステル運動に関しては、完全に青少年には渡さなかった。
 役員は役員同士の互選にしてしまい、総会を開くスタイルにはしなかった。

 どうして、そうなったのか?
 これには深いわけがあります。

 しかし、それを述べるときりがないのでやめておきます。
 別の機会に述べることにします。

 とにかく横山祐吉氏(中山正男氏)は、ユースホステル運動を完全に青少年には渡さなかった。あくまでも本部の強力な指導力によってユースホステル運動を驚異的に発展させていった。日本のユースホステル運動の牽引車は、間違いなく横山祐吉氏であり、中山正男氏であった。その運営はワンマンなものでした。しかし、ワンマンでありながら若者たちの力を引き出しました。そして、日本に本当の意味でのワンダーフォーゲル運動を定着させました。これをグループ活動と言いました。

 グループ活動。

 私たちの耳には、目新しい言葉ではありません。
 しかし、この言葉は、戦後に普及した言葉です。
 新しい言葉なのです。
 しかも横山祐吉氏によって普及された活動です。
 つまり私たちは、知らず知らずのうちに
 GHQと横山祐吉氏の影響をうけていたということになります。

 最初は、グーループ活動とは言わず、共同学習と言っていました。横山祐吉氏は、戦後まもなくGHQの指導の下に「共同学習の手引き」を出版しています。これをユースホステル運動に大々的に取り入れたのです。そしてグループワーク、グループ活動として、ユースホステル運動の基本的な活動母体にしました。まあ、一種のサークル活動みたいなものです。これを若者たちに奨励し大量生産していった。そしてユースホステル新聞で紹介し、メンバー募集の記事を載せたりした。このグループ活動がユースホステル運動を大きくしていく母体となったのです。

つづく

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2011年01月21日

ユースホステルは甦るのか?10

ユースホステルは甦るのか?10

 さて、大日本青少年団が滅びてどうなったか?
 大日本青少年団時代の幹部が公職追放令になります。

 しかし、公職追放令になった熊谷辰治郎氏の弟子が、戦後の青少年運動を復興させるのです。日本ユースホステル協会を創設した横山祐吉氏です。日本青年館の事務局長だった横山祐吉氏は、GHQ(占領軍)がやってくると、即座に面会を求めてアメリカへの青年団の派遣を要請しました。ヒトラーユーゲントの来日によって、日本が大きく転換したことを知っていた彼は、青年を渡米させることによって社会を大きくかえようとしていたのです。

 ここで横山祐吉氏は、大きな転換を行います。
 青年団を青年の手に渡したのです。
 文部省には渡さなかった。

 実は、ヒトラーユーゲントの来日によって、日本中が熱狂(フィーバー)した時にも、何名かの識者はヒトラーユーゲントの欠陥を冷静に指摘していました。見事な規律をみせるヒトラーユーゲントやドイツ人たちにも重大な欠陥があったと見抜いていました。彼らは鈍重であり、官僚的な硬直性をもち、器用さが無いと。日本軍人たちも、一部ではヒトラーユーゲントを疑問視していました。というのも、日本陸軍は、日華事変において中国のドイツ軍事顧問団を壊滅させているからです。ドイツ軍事顧問団に率いられた中国国民党軍は、機械仕掛けの兵隊人形のように戦って全滅したのにたいし、日本軍は小規模単位の集団で状況に応じて器用に戦線を突破していったからです。日本陸軍は、ヒットラーの軍隊を真似するまでは実に強かった。しかし、ドイツを手本にした日本は戦争に負けてしまった。

 商売や戦争は結果論がものを言います。どんなに立派な理論であっても負けたら無価値。どんなに素晴らしい商品も売れなかったら無価値。結果が悪ければ全て無価値。戦前の大日本青少年団は、ヒトラーユーゲントのごとく文部省の配下にありました。それを改めて各県が自主的に青年団を結成すべく、横山祐吉氏は盛んに指導者講習会をひらきました。そして「共同学習の手引き」を出版。これは、上からの命令によって機械的に動くのではなく、いろいろな価値観をもった人間が、それぞれの趣味にあわせて多くのグループを作って学んだり遊んだりしなさい。そのための手順が「共同学習の手引き」でした。現代流にいうならば、価値観の多様化を認めろとか、オタクは悪くないという感じでしょうか?


 そもそも横山祐吉氏は、元祖オタク人間であり、演劇オタク、音楽オタク、写真オタク、ダンスオタク、少女小説オタク、さらに自作フィギア(もちろん少女!)まで作って遊ぶという凝りようで、大正デモクラシーの申し子みたいな人でしたから、ヒトラーユーゲント的な統制好きな人間たちとは相性が良くなかったのです。もっというと元祖もえ好きなでした。そのうえ点字までやっていてた。それが横山祐吉氏でした。後年の横山祐吉氏を知る日本ユースホステル協会の人たちは、これを聞いたら真っ赤になって反論するかもしれませんが。








 横山祐吉氏は、黒子のように活躍して青年団を青年の手に渡しました。そして出来上がったのが日本青年団協議会です。その初代事務局長が、鈴木重郎氏であり、後の静岡県ユースホステル協会の会長です。ところが静岡県在住では、事務がはかどらないので、二代目の事務局長に就任したのが横山祐吉氏でした。日本青年館からの出向でした。これが横山祐吉氏の運命を変えることになります。横山祐吉氏は、ここで干されることによって、青年団よりもユースホステル運動に走ってしまうからです。

 それはともかく、横山祐吉氏は、この時代に素晴らしい活躍をします。
 青年団を青年の手に渡したことです。
 これは横山祐吉氏がGHQの担当官と密接に話し合い、
 お互いの誤解をとくことによってGHQの理解の上で実現したことです。

 これはインパクトがありました。
 青年団が一時的にせよ盛り上がった。


 話しは変わりますが、若い女性に人気がある歌手・福山雅治がユースホステルを使って旅をするらしい。それを聞いたファンの女の子が、ユースホステルに興味をもったという事件がありました。福山雅治が、どこでユースホステルを知ったのかはわかりませんが、もし、ユースホステル運動を若者に手渡すつもりがあるならば、日本ユースホステル協会は、彼を理事か評議員に迎えるという発想があってもよいでしょうね。福山雅治が名前だけでも日本ユースホステル協会の理事になってくれたら、若い入会者は増えること間違いないです。


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 大学のユースホステル研究会の代表者も、評議員か理事に迎えるべきでしょうね。そういう発想があっても良い。しかし、そうはならないのは、東京都のアニメ規制に子供の代表者を迎える気がないのと一緒です。そういう発想は日本社会では、あまり聞いたことが無い。どこでも子供たちは、蚊帳の外に置かれていて、子供たちも少しも疑問に思わない。というか、その方が楽であると考えているふしもある。いつまでも子供のままでいられますから。

 ここで評議員とか理事とかの役職が出てきましたが、これは誰が決めるのか?
 互選なのです。
 つまり、偉い人同士が決めるらしい。
 で、偉い人たちが就任するらしい。
 財団法人というものは、たいてい、そういうふうになっているらしい。

 あえて「・・・らしい」と書いたのは、私にも良く分からないからです。
 はっきり言えることは、ユースホステルの会員には選挙権がないということですね。


つづく

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posted by マネージャー at 22:12| Comment(2) | TrackBack(0) | ユースホステルの話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アニマルトラッキングは楽しい?

アニマルトラッキングとは?

 足跡を観察するのは雪山登山の楽しみの一つです。
 雪の上には動物が歩いた足跡などが残ります。
 残された痕跡から、その動物の生態を読みとることをアニマル・トラッキングと言います。


これはリスです。

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タヌキです。

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猪です。

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ウサギです。

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ここまでは、よくみられる動物の痕跡です。
ここから先は、ちょっと珍しい例。

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さて、何の痕跡でしょうか?
分かる人はいるかな?
場所まで特定できた人は、すごいですよ。

つづく

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posted by マネージャー at 00:12| Comment(3) | TrackBack(0) | スノーシュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月20日

ユースホステルは甦るのか?9

ユースホステルは甦るのか?9

 そのうえもっと運が悪いことに、ヒトラーユーゲントの来日イベントがあった。これが日本史を悪い方向にもっていく作用があった。当時の日本人たちは、ヒトラーユーゲントを誤解した。統制のとれた団体だと誤解した。確かに統制はとれていたけれど、彼らのトップは青少年であることに気がついてなかった。それに気がつかずに、日本の青少年団も、かくあるべしと思い込んでしまった。

 ヒトラーユーゲントを指揮していたのは、バルドゥール・ベネディクト・フォン・シーラッハというドイツの大学生(当時24歳)でした。彼は、二十歳になったときにナチスの学生連盟指導者して4年間活躍し、昭和6年、24歳にしてヒトラーユーゲントのトップになっています。





 ここで考えて欲しいことは、日本青年団のトップに、二十四歳の若者を起用することがあったか? 日本ユースホステル協会のトップに、二十四歳の若者を起用することがあったか?ということです。残念ながらありえない。

 しかし、過去に、その世代の青年たちが日本史を変えるくらいの大活躍をしたことがあった。幕末維新の時です。明治維新をリードした志士たちは、ほとんど二十歳代でした。黒船が来たとき、吉田松陰は、わずか23歳でした。密航に失敗して牢獄にいれられたのが24歳です。その頃、伊藤博文は13歳です。明治維新が完了したときの伊藤博文にしても26歳です。明治維新で活躍した人の多くは、二十歳代でした。それを考えると、ヒトラーユーゲントのトップに24歳の青年が就任したことは、少しも驚くことではなく、むしろ老害が目立つ現代日本の方が、異常に見えてきますから不思議です。

 ナチスの善悪はともかく、あのナチスでさえ、青少年のリーダーに歳の近い青年を起用したことは、注目してよいと思います。あのナチスでさえワンダーフォーゲル運動の伝統を無視してないのです。しかし、ヒトラーユーゲントが来日し、それに気がついた日本の青少年運動家たちがいたかどうか?

 昭和13年、日本とドイツは、お互いに青少年を派遣しあいました。
 ドイツからは、ヒトラーユーゲント30名が来日。
 日本からは、大日本青少年ドイツ派遣団30名が訪独。





 ヒトラー・ユーゲントの代表団は、昭和13年8月16日に横浜港に到着しました。彼らは、11月12日までの約3ヶ月間、日本各地で大歓迎を受けました。この時、日本の青少年運動家たちは、ものすごい衝撃をうけます。ヒトラーユーゲントたちが、鉄のような規律をもってロボットのような正確無比な動きをみせたからです。
 集団訓練における整然たる姿。トップの指令によるキピキビとした動きに愕然としたのです。つまり、見事なまでに統制がとれていた。日本の軍人たちよりも、整然と動き若々しかった。ヒトラーユーゲントには、上から死ねと命令されれば、整然と美しく切腹しそうな勢いがあった。後に神風特攻隊をだした日本軍人たちも、ヒトラーユーゲントの美しき統制行動には脱帽してしまった。

 逆に言うと、日本の青年たちには、そういう部分が欠けていた。

 これは無理はないのです。日本は昔から統制行動を苦手としているからです。戦国時代から日本武士は小規模部隊で独立した行動をとり、バラバラに功名をきそうのが武士たちの習いだったからです。武士たちは、決して奴隷ではない。褒美をもらうために命がけで戦う自営業者たちです。

 それに対してヨーロッパの軍人、それもプロイセンの軍人たちというのは、一種の奴隷です。農奴の中から体格の大きい者をかきあつめて武器を持たせて整列させ、整然と敵に向かわせたのが彼らの軍隊。つまりロボットのように美しく整列し、整然と突進していくのがヨーロッパの兵隊たちであり、自営業者というより奴隷、いや大企業の社員たちでした。だからヒトラーユーゲントたちが、鉄のような規律をもってロボットのような正確無比な動きをみせたのは、むしろ彼らの伝統でした。

 その逆が日本でした。日本武士たちの本質は、自営業者の集合体です。具体的に言うならば、観光協会みたいなものです。小さなペンションが、一つの観光協会に入会して、せっせと御客様をかきあつめようとしているけれど、基本的にはバラバラであったのと一緒です。だから私たちの社会に、ヒトラーユーゲントのような動きをする伝統はなかった。だから当時の日本の青少年運動家たちは、ヒトラーユーゲントの美しさにショックを受けてしまった。

 で、ヒトラーユーゲントを真似しようと日本青年団の改革を行うのですが、ヒトラーユーゲントのトップが青年であったことを分かってなかったのです。ですからヒトラーユーゲントを真似て作られた大日本青少年団は、決して日本の青年の手には渡りませんでした。残念ながら大日本青少年団は、文部省の支配するところとなったのです。そして、終戦と共に滅びてしまいます。ドイツユースホステル協会が、戦争が終わっても滅びなかったのにです。

 さて、大日本青少年団が滅びてどうなったか?
 大日本青少年団時代の幹部が公職追放令になります。

 この公職追放令が、悲劇の元になります。というのも公職追放令で追放された人の中には、本来なら追放されなくても良いひとが大勢いたからです。自由主義者の容疑で何度も憲兵に捕まった人まで公職追放令になってしまった。そのために貴重な人材が戦後の青少年運動を支えることができませんでした。熊谷辰治郎氏などがそうです。熊谷辰治郎氏は、月刊青年団で何度も軍部のテロを攻撃した人ですが、そういう人を公職追放令で追放してしまった。

 しかし、代わりに熊谷辰治郎氏の弟子が、戦後の青少年運動を復興させるのです。日本ユースホステル協会を創設した横山祐吉氏です。日本青年館の事務局長だった横山祐吉氏は、GHQ(占領軍)がやってくると、即座に面会を求めてアメリカへの青年団の派遣を要請しました。ヒトラーユーゲントの来日によって、日本が大きく転換したことを知っていた彼は、青年を渡米させることによって社会を大きくかえようとしていたのです。

 ここで横山祐吉氏は、大きな転換を行います。
 青年団を青年の手に渡したのです。
 文部省には渡さなかった。


つづく

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posted by マネージャー at 21:30| Comment(0) | TrackBack(0) | ユースホステルの話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

西洋菓子フォンティーヌ

西洋菓子フォンティーヌ

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最近、かたい話題が多かったので、ここらで店を紹介。
スイーツの街、佐久でも有名な店です。
もともと和菓子が専門でしたが、
最近は洋菓子部門でも素晴らしい作品を作っています。


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1Fはケーキ等洋菓子の販売、2Fはカフェになっています。
ケーキは、どれも独創的。

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一階で菓子を買って2階で食べることも出来るし、
最初から茶店としても使えます。


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味は素晴らしい。
値段も安めです。


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これは不思議なスイーツでした。
スノーマン。


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おすすめは、580円の抹茶プリン。
容器は茶器で、お持ち帰りできます。
器は安ぽくはありません。
そのまま御茶に使えそう。
緑の飾りは、ホワイトチョコでした。
みんな食べられます。


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TEL 0267-66-0088
住所 長野県佐久市佐久平駅東16-1
時間 10:00〜19:00
日曜営業
不定休



つづく

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posted by マネージャー at 01:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐久 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月19日

リスたちが

リスたちが庭にやってくるようになりました。
ほとんど逃げません。
野鳥にあげてるヒマワリのタネが目当てのようです。

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かわいいですね。


つづく


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ラベル:リス
posted by マネージャー at 23:51| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 2012以前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月18日

ユースホステルは甦るのか?8

ユースホステルは甦るのか?8

 昭和8年、ドイツユースホステル運動の躍進に驚いた日本の文部省は、ただちにユースホステル運動を取り入れます。しかし、残念なことに、この年にナチスが選挙で大勝し、政権を手に入れます、そしてドイツユースホステル協会を乗っ取るのです。そして、ドイツユースホステル協会は、ヒットラーユーゲントに吸収合併されます。ここから先は、どの歴史書にも悪口しかかかれてありません。ドイツユースホステル協会は、ヒトラーユーゲントとしてナチスの手先になってしまったと。





 ところが、奇妙なことに、そういわれているヒトラーユーゲントも、完全に大人の統制下におかれていないのです。不思議なことに青年に指揮されています。毛沢東や金正日のケースと違っているのです。つまりワンダーフォーゲル運動が発生したドイツの伝統に従っています。

 ヒトラーユーゲントで編成された第12SS装甲師団も、ドイツで最も若い師団長のもとで訓練され、将校の大半が若者ばかりでした。しかし、この第12SS装甲師団が、ノルマンディー上陸戦で大活躍し、他の大人たちの部隊が次々と撃破されていくうちで、2ヶ月間も連合軍の攻撃を跳ね返しています。こういう事は、日本ではおきていません。学徒出陣はありましたが、学生たちだけで部隊を編成し、彼らに近い年齢の将校とともに部隊を編成して奮戦したという例はゼロです。全員、大人たちの手下にされて戦場に散っています。





 それは、ともかくとして、せっかく日本がドイツユースホステル運動を取り入れようした時に、それがヒトラーユーゲントに変わってしまっていたというのは、日本の不幸でした。ユースホステル運動の本質を知るチャンスを奪われてしまったからです。

 ここでおさらいをします。

 ドイツでは、ワンダーフォーゲル運動によって、少年たちが旅に出かけました。驚くべき事に少年たちは、自己管理によって最も道徳で模範的な人間でした。そこには非行はありませんでした。しかし、最盛期でも、たったの5万人にすぎませんでした。

 ところがリヒャルト・シルマンが、ドイツユースホステル協会を作り、全国にユースホステルを設置しますと、旅する少年の数が、5万人が50万人になりました。しかも大半が貧しい少年たちでした。そして、それはワンダーフォーゲル運動とは違うスタイルの旅になっていました。ユースホステルという施設が出来ることによってワンダーフォーゲルとは違った文化が生まれたのです。

 それはどんな文化か?
 一言で言うと、融合です。

 ユースホステルという箱が出来ると、その箱に多くの種族が集まってきました。リヒャルト・シルマンは、それを拒否しませんでした。大歓迎しました。そのかわりに最低限の規則を作りました。規則を守る限り、どんな種族も差別なく受け入れる。そういうスタイルをリヒャルト・シルマンはとりました。

 これは、ヒトラー式ではなく、プロイセン式でした。
 ルールを守る限り差別はないというのがプロイセンの伝統でした。

 その結果、ドイツの少年たちは、母国にいながら多くの外国人を知る機会を得たし、いろんな世代の大人たちも知り得たし、いろんな身分の人たちと、同じ釜の飯を食い、一緒に歌を歌うことが出来ました。ユースホステルの中に、もう一つの世界(地球)ができあがり、それを体験することができたのです。

 これは、ドイツの少年たちだけでなく、各種族の大人たちにとっても、エキサイティングなことでした。というのも、それ以前の世界史には、そういう箱(ユースホステル)はありませんでしたし、そういう文化(ユースホステルを使った国際交流)は無かったからです。しかも、そこは大人たちではなく、少年たちが主役の世界でした。こういう世界は、歴史始まって以来だったのです。だから世界中が、ドイツのユースホステル運動に注目したのです。

 しかし、日本は少しばかり遅れて注目してしまった。そのためにユースホステル運動の本質をよく理解できない。しかたなくワンダーフォーゲル運動の方に目を向けてしまった。けれど、ワンダーフォーゲル運動もナチスによって姿を消していたので、ワンダーフォーゲル運動を健康法に位置づけてしまった。登山サークルの一種と取り違えてしまった。ここに戦前のユースホステル運動が早期に消滅してしまった悲劇があります。

 そのうえもっと運が悪いことに、ヒトラーユーゲントの来日イベントがあった。
 これが日本史を悪い方向にもっていく作用があった。
 当時の日本人たちは、ヒトラーユーゲントを誤解した。
 統制のとれた団体だと誤解した。

 確かに統制はとれていたけれど、
 彼らのトップは青少年であることに気がついてなかった。
 それに気がつかずに、日本の青少年団も、かくあるべしと思い込んでしまった。




つづく

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posted by マネージャー at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | ユースホステルの話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

自販機

自販機

この動画をみて気に入りカップ麺の自販機を導入としようか悩んだ結果、やめました。
どうせ嫁さんは大反対するだろうし。



で、自販機を動画で探してみたら、
意外に面白いのが引っかかったので紹介してみたいと思います。


これは風船自販機。
膨らまして販売してくれます。



これは、なんとソフトクリームの自販機。
こんなのあったら何回も買っちゃうなあ。



サンドイッチの自動販売機。
安い!
手作りだし、これで100円は安い
しかも卵焼きを挟むなんてw



納豆の自販機



トーストの自販機



実は手動? ハンバーガー自動販売機



クレープ自販機



東北弁を喋る自動販売機



手の届かない 自販機



ディスカウントの自販機(40円が沢山!)



ジュース10円の自販機



え? まじ? 牛の自動販売機




おまけ
映画『猫ラーメン大将』予告編




つづく

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ラベル:自販機
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2011年01月17日

ユースホステルは甦るのか?7

ユースホステルは甦るのか?7



 東京都が、アニメの表現規制を行い、それに出版社が反発して物議をかもしていますが、規制賛成派も規制反対派も、共通して言えることは、子供たちの意見を無視しているところです。そういう意味では、両者は同じ穴の狢です。反対派も賛成派も、本質的に差はないと言えます。

 ・・・・・と書くと必ず、こんな事を言ってくる人がいます。

「子供たちは規制反対だろ? 規制反対する出版社と子供たちは利害が一致するのでは?」

 なるほど、管理されるのにうんざりしている子供たちなら規制反対になってしまうかもしれません。そのように考えたくなるのも無理はないかもしれません。しかし、多少なりともドイツワンダーフォーゲル運動の歴史を知る者にとっては、多少なりともドイツユースホステル運動の歴史を知る者にとっては、そうとも言い切れないのです。





 第二次大戦の敗戦は、日本の子供たちに強いショックを与えました。ある者は放心し、ある者は米兵のジープを追いかけてはチョコレートをもらい、ある者はパンパンとなって米兵に媚びを売りました。エログロがはびこり、治安は悪くなる一方であり、青少年犯罪は、上昇していきました。

「戦争に負けたのだから仕方ない」
「国中が焦土になったのだから仕方ない」

と当時の日本人の誰もが思いましたが、
そうは思ってなかった敗戦国民もいました。
西ドイツです。

 同じ敗戦国でも日本とドイツでは、その悲惨さにおいて天地ほども違っていました。悲惨なレベルが日本とはケタはずれでした。東からは共産主義の脅威の下に1000万の難民が西ドイツに流れこみました。しかも、この中の500万は少年たちで、大半は両親を失っていました。彼らは、西ドイツの戦争孤児50万の少年たちと合流し、西ドイツ全土を流浪しました。当然のことながら少年の犯罪率は増加しましたが、それでも戦後の日本より低かったのです。これは、どういうことなのでしょうか?

 1947年の厚生省児童局の統計によれば、
 養護施設に入所している少年は4013人、
 街頭の浮浪少年は1472人でした。

 しかし西ドイツでは、550万の戦争孤児が全土を流浪していたのです。
 ケタが違います。
 3つもケタが違うのです。

 「火垂るの墓」のような悲惨な人生をおくる可能性のあった少年たちは、西ドイツ全土に550万もいたのです。もちろん西ドイツ政府とて、手をこまねいているわけではありませんでしたが、占領軍のきびしい統制によって、1949年までは、どうにもなりませんでした。

 しかし、ここに奇跡のような事件がおこるのです。
 奇跡は、少年団と映画館の間におこった各地の争いからはじまります。

 当時ドイツでは映画作製がきびしく制限されていたため、外国映画がドンドン流れ込みました。映画の多くはエログロもの、西部劇など教育の上に悪影響を与えるものが多いことは日本と同じでした。しかし、違っていたのは、少年たちの態度でした。

 エログロもの、西部劇など教育の上に悪影響を与える映画の上映を少年団たちが、実力で阻止したのです。風紀の乱れる映画上映の反対運動を少年たちが率先してデモを行い、そして自分たちを守ろうとする少年たちが、映画館の前で腕を組んで通せんぼうをしたのである。映画館と少年団との間に争いのおこったのは当然で、あるときには暴力ざたに発展したことさえありました。

 当時の日本は逆でした。日本の青少年たちは、いたずらに大人に反発し、昔ながらの教育に対して何でも「封建的」だと批判し、日本の青少年たちは西部劇などの外国映画に夢中になり、当時の基準で、あきらかにエログロとされる映画さえ喜んで見に行きました。それどころか、全国にヤクザ踊りが流行しました。ヤクザの着物姿で刀を差して踊る、見物人はヤンヤの拍手喝采でした。

 そんな時代に、同じ敗戦国でも西ドイツでは、ドイツの風紀を守るため、子供たちの環境を守るために教育の上に悪影響を与える映画の上映を少年団たちが、実力で阻止したのです。しかも、それを指導したのは大人たちではありません。子供たちが、子供たちの判断で立ち上がり、子供たちのリーダーシップによって、子供たちだけで闘いは進められたのです。

 この事実の中には、どうして一時は世界一位の会員数を誇った日本ユースホステル協会が、これほど簡単に衰退していくのに対して、ドイツユースホステル協会は、今なお盤石なのかという疑問に対するヒントが隠されています。西ドイツの少年運動は、大人たちが造ったのではなく子供たちが造ったのです。





 さて、東京都のアニメ規制の話しに戻ります。
 ここまで述べれば、規制賛成派も規制反対派も、
 同じ穴の狢
 と言った意味が分かるかと思います。もっと言うと

「子供たちは規制反対だろ? 規制反対する出版社と子供たちは利害が一致するのでは?」

と言い切った人も、同じ穴の狢です。

 ワンダーフォーゲル運動的に考えると『おかしい』ということになります。
 ワンダーフォーゲル運動的な考えでは逆です。
「子どもたちを守るのは子どもたち自身である」
というのがワンダーフォーゲル運動的ですから、アニメを規制するなら、その委員会に子どもの代表がいないとおかしい。

 本当の意味でのワンダーフォーゲル運動を経験した国であったなら、子供たちに自己管理させるはずです。というのも子供たちがワンダーフォーゲルという自己管理の活動をさせると、子供たちは、実に道徳的になるからです。むしろ大人たちよりも保守的になりやすい。





 だから、子供たちの代表が委員会にはいっていれば、ひょっとしたら、第二次大戦直後の西ドイツの少年たちの奇跡を、現代の日本で見られたかもしれない。大人たちと子供たちが言論で戦う姿が見られたかも知れない。いや、逆にそういう光景は、日本では起きないかも知れない。というのも日本の子供たちに
「俺たちにも発言権がある」
という発想が全くないからです。

 いや、発想がないのではない。
 そういう発想をさせないのが日本社会でなのあると。

 そういう事を考えるのは大人になった後でよい。
 今は勉強しなさい・・・・というのが日本社会であると。

 こういう社会の中で子供たちは、
 いったい誰が旅に出るというのだろうか?
 どうして、ワンダーフォーゲル運動が根付くというのだろうか?
 どうして、ユースホステル運動が根付くというのだろうか?

 日本の子供たちにとって、旅も、ワンダーフォーゲルも、いっさい余計なものであって、単なるレジャーでしかないものであるならば、旅にこだわる必要は無い。ワンダーフォーゲルやユースホステルにこだわる必要は無い。レジャーは他にもある。いろんなレジャーがある。だからユースホステル運動をレジャーの一つと考えるならば、ユースホステル運動の未来は暗いものになる。しかし、別のアプローチで考えてみると、ものすごく明るい未来が見えてくる。


つづく

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posted by マネージャー at 21:51| Comment(2) | TrackBack(0) | ユースホステルの話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月16日

村上山スノーシュー

村上山スノーシュー

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今回の参加者は2名。
北軽井沢は大雪で、待望の新雪でルートは消えていました。
ラッセルして道を作りながら進みます。

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スノーシューで一番大変なのが、このラッセルです。
ですから楽に登りたいときは、一番後を歩くのがよいですね。

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思ったよりラッセルがきつかったので、今回は東屋で撤退。
頂上は、おがめませんでした。

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下山したら晴天に!

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つづく

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posted by マネージャー at 19:29| Comment(2) | TrackBack(0) | 鹿沢−村上山 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月15日

ユースホステルは甦るのか?6

ユースホステルは甦るのか?6

 教師たちは、生徒たちが非行にはしらないように管理し、注意してきましたが成果をあげなかった。だから監視を強めることになって、教師と生徒の関係がギクシャクしていた。ところがワンダーフォーゲル運動においては、全くそういうことはない。少年が少年を指導することによって、全く健全な子供たちの世界ができあがる。子供たちがワンダーフォーゲルという自己管理の活動をさせると、子供たちは、実に道徳的になる。

 子供たちがワンダーフォーゲルという
 自己管理の活動をさせると、
 どうして彼らは道徳的になるのか? 





 答えは実にシンプルです。
 管理する苦労がわかるからです。

 子供たちは、いつも管理される側であった。そのための管理のための規則を嫌う傾向にある。しかし、ひとたび管理する側になると、管理の難しさに閉口する。そのために時として子供たちは、大人たちより厳しいモラルを、子供どうしで作り上げるのです。それは、時に間違ったモラルであったりもする。そのためにイジメが発生して自殺者をだしたりもする。けれど、子供たちを放置すると、モラルが崩壊するということはない。絶対にない。むしろ子供たちが自主的に作るモラルの縛りは、大人たちの作る縛りよりも、強く残酷であったりする。それがイジメによる自殺に発展することさえある。結果として悪事に手を貸すことさえある。

 しかし、子供たちが作る子供のためのモラルが、間違ってない方向であれば、ドイツのワンダーフォーゲル運動に見られた素晴らしい理想的な子供たちの世界ができあがるのです。初期のドイツワンダーフォーゲル運動を行った子供たちは、12歳から19歳の年齢でした。彼らが、教師が見張っているわけでもないのに、進んで模範的な人間であろうとする。そういう世界ができあがるのです。

 しかし、この単純明快なことを、(一部を除いて)大人たちは、なかなか理解できなかった。ワンダーフォーゲル運動の素晴らしき成果を、肉体運動や健康に求めたり、ドイツの歴史や文化に求めたり、徒歩修行にもとめたり、宗教的背景にもとめたり、教育的効果に求めたり、レジャーによる精神的解放にもとめたりして、見当違いの結論をだしていました。

 当時の日本の識者たちも同じで、ワンダーフォーゲル運動を消極的健康法と認識しています。そのうえで文部省体育課は、東京を中心とする125コースを設定しました。しかも、それらのコースの大半は、登山コースで伝統的な修験道のコースが多々含まれていました。しかし、当時の日本の子供たちが、それらのコースに殺到し、日本にワンダーフォーゲル運動が根付いたかというと、そういう事は、全くありませんでした。



 
 それは、まだまだ貧しかったからか?
 違います。

 第一次大戦直後のドイツは、当時の日本より、遥かに拙かったけれど、さかんにワンダーフォーゲル運動が行われていました。第一、もっともっと貧しかった江戸時代においては、おかげ参りという伊勢参りブームがおきています。ブームは、 260年にわたる江戸時代に15回ほど発生していますが、このブームがなんとも気違いじみた、御祭り騒ぎをひきおこしました。

 ある日、気がつくと村から人間がいなくなる。
 村がからっぽになる。
 それは、もう神隠しのように消えてしまう。
 どこへ消えたのかというと、みんな伊勢参りにでかけてしまった。
 そんな現象が、全国の津々浦々でおきたのです。

 ある村では、6〜10歳くらいの子供たちが消えてしまう。
 ある村では、女性全員が消えてしまう。
 ある村では、老人が全て消えてしまう。

 こんな現象が、全国で同時におきてしまうのです。当然のことながら、みんな旅支度などせずに出かけています。お金も通行手形も持っていません。集団ヒステリーのように発作的に伊勢参りに出かけるのですから、そんなもの誰だって用意していません。じゃあ、どうやって旅をしたのかと言いますと、野宿のためのゴザをかかえ、柄杓を一本手にして沿道で施しを受けながら伊勢に向かったんですね。勝海舟のお父さん(勝小吉)も、そうやって伊勢参りをした口です。





 その中には、親・主人の許可を得ない「ぬけ参り」も多くみられたと言います。
 ぬけ参りというのは、今で言えば、集団家出・集団脱走・集団退職で伊勢参りに向かうことです。

 驚くべきは、6〜10歳くらいの子供たちのグルーブ参拝です。ある日、突然、親にも奉公先の主人にも内緒で家をとび出し伊勢へでかけるんですから凄いものです。少女たちの集団もいました。女性の旅人には、関所もうるさかったのですが、信仰旅行とあれば、堂々と関所を通れたようです。宝永2年の伊勢参りブームの時に、京都所司代が1カ月間、京都を通過する参詣者に関する調査をしました。それによれば、

京都通過総数      51500人のうち、
6〜16歳までの子供が  18500人(35.9%)
また女性が       21000人(40.7%)
成人男子が       12000人(23.3%)

となっています。成人男子より、女子供の方の数の方が圧倒的に多いというこの事実には、ただただ驚かされます。

 また、1705年の宝永2年に4月9日〜5月29日までの50日間、本居宣長がその数を調査し、その著作『玉勝間』に書いています。それによると、50日間で 362万人。ということは、単純計算にして1日当たり約 72000人。これを1日8時間で割ってみると、1時間あたり 9000人、1分間に 150人が通過していったことになります。当時の伊勢街道の道幅は、かなり狭いですから、ラッシュの新宿駅なみに混雑していたことになりますね。第一に50日間で 362万人だなんて、お正月の明治神宮や鶴岡八幡宮より混んでいたことになります。すごいもんです。

 さらに1830年の文政13年の頃には、九州から出羽の国まで全国の人民、 500万人が、突如として伊勢参りにでかけています。500万人といえば、当時の人口の 20パーセントにあたりますが、身体の不自由な老人や、幼い子供、お役目があって移動がままならない武士たちを除けば、人口の半分くらいが伊勢に向かったのではないかと思います。ここまでくるとブームなんて生易しいものではありません。伊勢街道は通勤ラッシュというより、おしよせる人民の津波。まさに民族の大移動です。この現象を世界史的な視点で見てみますと他に類例がありません。日本には、そういった歴史があるのです。これに比べれば、ドイツのワンダーフォーゲル運動なんて、ごくごく小さな運動です。なにしろ最盛期に5万人を越えなかったからです。

 さて、これらの伊勢参り・抜け参りをした江戸時代の少年少女たちのモラルは、どうであったか? きわめて高いモラルをもって旅をしたと言われています。ワンダーフォーゲル運動を行ったドイツ少年たちに匹敵する素晴らしいモラルで自らを律し、模範的な旅人であったことが当時の記録に残されています。ですから関所の役人たちも、幕府の首脳たちも、諸藩の大名たちも、このような伊勢参りを規制することは、決してなかった。

 話しを戻します。

 よーするに当時の文部省は、ドイツのワンダーフォーゲル運動を取り入れようとしたけれど、日本の子供たちは、全く興味をしめさなかった。旅をするかどうかは、貧富の差は関係ない。貧しくとも旅する人は旅をする。金が無くとも旅する人は旅をする。これは少年少女にも言えます。江戸時代の貧しい少年少女たちでさえ、民族大移動のように伊勢参りをした。だから貧しかったからワンダーフォーゲルに興味をもてなかったわけではない。ワンダーフォーゲル運動に何の魅力もなかったから誰も、それを行わなかった。

 昭和8年の日本の少年少女には、ワンダーフォーゲル運動に、これっぽっちの興味も持てなかった。そんなものより、出世とか、青雲の志とか、軍艦とか、映画むとか、御馳走とか、豊かさに憧れていた。わざわざ貧しい身なりで貧乏旅行に行こうとは思ってなかった。それより列車にあこがれ、自動車にあこがれた。ドイツの少年たちが、列車や自動車に反発して徒歩で歩いたのとは、別のベクトルがはたらいていた。

 昭和初期の文部省は、あきらかに見当違いの考えをしていた。
 子供たちを、どのように方向付けるか?
 そればかり考えていた。

 だからドイツの子供たちのように、教師が見張っているわけでもないのに、進んで模範的な人間であろうとする。そういう世界を作ることに失敗してしまった。というか、日本の子供たちは、徒歩旅行にさえそっぽを向いてしまった。親たちに至っては、そんな金にもならんことに、エネルギーを使うことを馬鹿馬鹿しいとさえ思っていたふしがある。そのうえ、文部省も、当時の親たちも、子供を押さえつけることばかり考えていたふしがある。そういう世界に、ドイツのワンダーフォーゲル運動に見られた、子供たちの進化が見られるわけがない。

 ただし、いつの世にも例外はいます。
 当時の日本にも、例外がいた。

つづく 

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posted by マネージャー at 23:00| Comment(2) | TrackBack(0) | ユースホステルの話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする